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2016年6月8日 (水) 00:52時点における版

清棲 幸保
生誕 1901年2月28日
日本の旗 日本 東京府東京市麻布区
死没 (1975-11-02) 1975年11月2日(74歳没)
日本の旗 日本 東京都目黒区
居住 日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
研究分野 鳥類学
研究機関 徳川生物学研究所
農林省畜産局鳥獣調査室
京都帝国大学大学院
文部省資源科学研究所
宇都宮大学
出身校 東京帝国大学
博士課程
指導教員
川村多実二
プロジェクト:人物伝
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清棲 幸保(きよす ゆきやす、1901年明治34年〉2月28日 - 1975年昭和50年〉11月2日[1]は、日本の元華族鳥類学者爵位伯爵学位理学博士京都大学)。旧姓は真田

生涯

1901年明治34年)2月28日信濃国松代藩第11代藩主・真田幸民の末子(三男)として東京府東京市麻布区材木町(現在の東京都港区六本木)に生まれる。学習院初等科の頃から、昆虫採集や鳥の標本作成に興じる。学習院では成績優秀かつ容姿端麗で知られた。学習院高等科から東京帝国大学理学部動物学科に進む。在学中、伏見宮家出身で臣籍降下していた清棲家教の養子となり、1923年大正12年)に養父の死に伴って家督を相続し、伯爵となった[1]1925年(大正14年)には伏見宮博恭王の第二王女・敦子女王と結婚。

大学卒業後、1927年昭和2年)まで徳川義親が設立した徳川生物学研究所に勤務。1932年(昭和7年)、農林省畜産局鳥獣調査室に農林省嘱託として奉職。併せて、京都帝国大学大学院川村多実二に師事し、鳥の生理学的研究を行う。1936年(昭和11年)に妻・敦子と死別。1942年(昭和17年)からは文部省資源科学研究所で極東地域の鳥の生態を研究。

1954年(昭和29年)、宇都宮大学講師。のち助教授、教授1964年(昭和39年)に退官。1956年(昭和31年)5月4日、博士論文「日本鳥類の生態に関する研究」により理学博士京都大学)を取得。1975年(昭和50年)11月2日老衰のため東京都目黒区の自宅で死去。74歳没。

代表的な著作に『日本鳥類大図鑑』全3巻(1952年講談社)。後妻との間の子である保之も鳥類学者であり、1974年(昭和49年)には共著として『渡り鳥』(保育社)を出版している。

栄典

家族

著書

単著

  • 『高山の鳥』 アルス〈アルス文化叢書〉、1941年。
  • 『日本鳥類検索』 三省堂出版、1948年。
  • 『花・鳥・虫 自然と生物』 日本出版社、1950年。
  • 『日本鳥類大図鑑』第1-3巻、大日本雄弁会講談社、1952年。
  • 『日本鳥類生態図鑑』 大日本雄弁会講談社、1954年。
  • 『原色日本野鳥生態図鑑』第1-2巻、保育社、1959年。
  • 『鳥の図鑑』 講談社教育図書出版部〈講談社の学習大図鑑〉、1959年。
  • 『四季の鳥』 保育社〈カラーブックス〉、1963年。
  • 『野鳥の事典』 東京堂出版、1966年。

共著

  • 下村兼史共著 『野鳥生態写真集』第1輯、芸艸堂、1940年。
  • 本田正次共著 『原色高山植物』 三省堂出版、1953年。
  • 清棲保之共著 『渡り鳥』 保育社〈カラー自然ガイド〉、1974年。

脚注

  1. ^ a b 霞会館[1996: 529]
  2. ^ 『官報』第4134号「叙任及辞令」1926年6月5日。

参考文献