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2016年6月8日 (水) 01:04時点における版
剛 竜馬 | |
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プロフィール | |
リングネーム |
八木 宏 剛 竜馬 Mr. GO THE NINJA GO |
本名 | 八木 宏 |
ニックネーム |
花の若武者[1] プロレスバカ |
身長 | 185cm |
体重 | 108kg |
誕生日 | 1956年3月23日 |
死亡日 | 2009年10月18日(53歳没) |
出身地 | 東京都新宿区 |
スポーツ歴 |
野球 アマチュアレスリング |
デビュー | 1972年9月9日 |
剛 竜馬(ごう りゅうま、1956年3月23日 - 2009年10月18日)は、東京都新宿区三光町出身、神戸育ちのプロレスラー、俳優。本名は八木 宏(やぎ ひろし)。なお、プロフィールは公称で、実際は神戸市出身である。
来歴
国際プロレス時代
母子家庭で苦労する妹たちに楽をさせたいと[2]、中学卒業を待たずに上京。日本プロレスに数ヶ月練習生として通い、1970年の国際プロレス第1回新人選手公募に約2,000人の中から14歳の若さで選出される。1972年9月9日に群馬県藤岡市立体育館の米村勉(天心)戦でデビュー。
1973年になると、全日本プロレスとの対抗戦にも出場した他、遅れて入団した大卒新人の鶴見五郎と共に、清美川梅之預かりの海外武者修行に出され、カナダで一緒になった吉田光雄(長州力)と3,4ヶ月間タッグを組んだこともある。1976年7月に凱旋帰国し、国プロと東京12チャンネル主催のファン投票によって新リングネームを『剛竜馬』と決定。若く容姿にも恵まれた人気者で、次代の国プロを背負う期待の星と目されていた。当時の髪型は、後にトレードマークになる角刈りではなく、七三分けだった。また、別の時期には長髪にもしていた。
1976年11月25日には、初の金網デスマッチに挑戦し(対ジプシー・ジョー)[3]、1977年には「第6回IWAワールド・シリーズ」並びにIWAワールド・シリーズと同時開催されたIWA世界タッグ王座争奪トーナメントに出場。IWAワールド・シリーズはBブロック6位に終わり、IWA世界タッグ王座争奪トーナメントはサンダー杉山とのコンビで出場したものの、準決勝でビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘスに敗退している(トーナメントはクイン&ヘスが優勝)。
新日本プロレス時代
1978年の「'78スーパー・ファイト・シリーズ」終了2日後の5月5日に突如フリー宣言して国際プロレスを退団し[4]、当時売り出し中の藤波辰巳を中心にジュニアブームを起こしていた新日本プロレスに、藤波との一騎討ちを直訴する。当時国際プロレスは給料の遅配がすでに発生しており、妹2人に生活費を仕送りしていた剛にとってはそれに耐えかねた末での国際プロレス退団だった[2][5]。藤波への挑戦宣言の時の意気込みを「Do my Best!」と語り、ヒロ・マツダ率いる『狼軍団』の一員として上田馬之助、マサ斎藤、サンダー杉山らと共闘。プレ日本選手権で長州に快勝し、藤波が保持するWWFジュニアヘビー級王座に同年7月と11月の2度挑戦したが、善戦虚しく連敗した。
その後、フロリダ州タンパのマツダ道場に渡って改めて修行を積み、1979年10月2日の大阪府立体育館での3度目の挑戦ではコーナーポスト上からの場外プランチャ・スイシーダを放ち、逆さ押さえ込みで藤波に初勝利。WWFジュニアヘビー級王座を奪取するも、蔵前国技館でのリターン・マッチに敗れ2日天下に終わった。これにより藤波を生涯のライバルと定め、新日本に正式入団する。1980年3月31日には古巣である国際プロレスの後楽園ホール大会に逆上陸して阿修羅・原が保持するWWU世界ジュニアヘビー級王座に挑戦したが敗退し、同年の「MSGリーグ戦」でも決勝リーグに進出したが、最下位の0点に終わっている。
1981年、テレビ朝日系列の連続ドラマ『警視庁殺人課』に、菅原文太・鶴田浩二・梅宮辰夫ら東映豪華配役陣と共に刑事役で第13話までレギュラー出演したが、剛のみ途中降板し、俳優業はこの1作のみに留まった。
1981年8月に国際プロレスが崩壊し、ラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇の3人は『国際軍団』として新日本に参戦した。同年9月23日に木村と浜口は新日本の田園コロシアムでの興行に姿を現した上で決意表明したと同時に、剛は浜口が発した挑発の最初のターゲットとされた[6]。1982年5月には木村の渡米に帯同し、現地で『ライジング・サンズ』(ミスター・トヨ&ミスター・ゴー)を結成。同年7月23日にラスベガスでエイドリアン・ストリート、ダイアモンド・ティモシー・フラワーズ組からNWAアメリカス・タッグ王座を奪取し、8月20日にロサンゼルスでヘクター・ゲレロ、マンド・ゲレロ組に敗れるまでの1ヶ月間防衛した。
帰国後は精彩を欠いて軍団入りも認められず、同世代の長州、藤波、谷津嘉章らから大きく後れを取り、タイトルに絡むこともなく新日本の前座戦線に定着してしまう。一方で新人の高田伸彦や山崎一夫らを道場でしごき、鬼教官として怖れられていたという。
1984年の「'84新春黄金シリーズ」では、1月26日の滋賀県大津市皇子山体育館大会で、アブドーラ・ザ・ブッチャーにわずか46秒で地獄突き一発で敗れた[7]。その後1月30日の函館市民体育館大会からシリーズ最終戦である2月9日大阪府立体育館大会まで欠場したまま、5年9か月参戦していた新日本を退団[8]。
第1次UWF時代
1984年、アントン・ハイセルを巡る新日本の内紛から分裂した第1次UWFの旗揚げメンバーに名を連ねた。しかし、ラッシャー木村と共に在籍4ヶ月で退団。理由は「路線を巡る対立」とも「外国人レスラーのブッキング窓口を巡るトラブル」とも「新間寿への義理で協力していただけ[9]」とも言われている。なお、剛本人もブッカーとしてレオ・バーク、フレンチ・マーテルを来日させていた。
少ない試合数ながらも第1次UWFでは無敗。ただし、シングル戦はなく、すべてラッシャーとのタッグである。なお、佐山聡(当時スーパータイガー)から入場テーマ曲『Eye of the Tiger』を譲られている。
全日本プロレス時代
1984年11月からは全日本プロレスに転出し、前述の対抗戦以来の全日本マット登場となった。移籍と同時にジャイアント馬場と仲間割れしたラッシャー木村以下、同門の鶴見五郎、アポロ菅原、高杉正彦と『国際血盟軍』を結成した。なお、乱入の現場にはマイティ井上や阿修羅・原も居たが、結局「国際血盟軍」には加入せず。ただし阿修羅・原は、後に一匹狼的な立場に置かれた際に、「国際血盟軍」との共闘を頻繁に行っている。
しかし、ラッシャーの試合後のマイクパフォーマンス以外に華のないファイトスタイルで尻すぼみになり、またジャパンプロレスの大量移籍で全日本で日本人選手が飽和状態となったため、カルガリーハリケーンズ(スーパー・ストロング・マシン・ヒロ斎藤・高野俊二〈現:高野拳磁〉)と入れ替わりに「エキサイティング・ウォーズ'86」シリーズ中の1986年3月2日の岩手県陸前高田市民体育館大会の対石川敬士戦をもって、高杉・菅原と共に、全日本に移籍してわずか1年4カ月で整理解雇される。解雇の原因は馬場とのリング内外での折り合いが悪く、気に入られなかったと言われている[10]。全日本在籍中にはタイガー・ジェット・シンやハーリー・レイスらにシングルマッチで挑む機会を与えられたが、未勝利に終わっている。
解雇後は北沢幹之が経営する建築内装業の下働きをしていた[11]が、ザ・グレート・カブキに続く忍者ギミックレスラーに欠員が出たため、出所直後のマサ斎藤のブッキングで緊急渡米し、高野俊二こと THE SUPER NINJA のタッグパートナー THE NINJA GO としてAWAを転戦。1987年7月の全日本「サマーアクションシリーズ」に1シリーズだけ復活招聘され、アジアタッグ争奪リーグ戦に鶴見五郎とのコンビで参戦したが、三つ巴の最下位に終わった。なお、ピンフォールを取られたのはすべて剛である。最終戦の7月30日、東京都東村山市民スポーツセンター大会の対谷津嘉章、仲野信市組戦(パートナーはラッシャー木村)をもって、全日本マットから再び去った。心肺能力などは高い評価を受けていたが、体の硬さと不器用さが響き、第一線に出ることなくメジャー団体から放逐されることとなった。
パイオニア戦志時代
新間寿・寿恒親子の『世界格闘技連合』構想に、主要メンバーとして当初大仁田厚らと名が挙がっていた。 しかし、バブル景気に乗じて単独スポンサー獲得に成功したため、全日本リストラ組で元同僚の高杉、菅原と1988年11月15日にアニマル浜口ジムで『パイオニア戦志』の設立を発表。団体名は菊池孝の発案である。この団体は、1966年から短期間活動して消えた『東京プロレス』に続く日本で2番目かつ20数年振りのインディー団体で、大仁田のFMWより半年早かった。
千葉県浦安市に道場兼合宿所『パイオニアGYMぽぱい』を確保し、プロレス志願者の養成にも注力。翌1989年4月30日に、大仁田対剛のシングル対決をメインイベントとして行った旗揚げ戦は、藤波や北尾光司らを来賓に招き、物珍しさもあって後楽園ホールをほぼ満員にしたが、藤波に試合内容を酷評された。
半年後の10月の第2戦に菅原の姿は無く新倉史祐が代役を務め、更にメインの青柳政司戦では、当日のカード変更や両者レフェリーストップの裁定に客が暴動寸前になり、激怒した立会人のアニマル浜口が剛と青柳を控室からリングに引きずり戻し、往復ビンタして試合再開させる珍事まで起きた。剛は「(青柳に後頭部を)蹴られたら、目ん玉が飛び出したから手で押し戻したよ」と語り、その後飛蚊症に悩まされるようになる。
1990年からは『パイオニア軍団』の名で青柳、栗栖正伸らと共闘し新日へ再参戦。5月4日の緒戦(剛・高杉組対長州・佐々木組)では勝利したが、練習不足で主に高杉が試合中にグロッキーになる場面も目立ち、またもや藤波に内容を酷評され、マッチメーカーの長州からも冷遇された。
10月の移動中の交通事故を乗り越えて、12月にはヘビー級転向後の藤波と念願のシングル再戦(博多スターレーン、敗者追放マッチ)に漕ぎ着けた。週刊ゴングの直前インタビューで「俺にはプロレスしかないから。プロレス無しでは生きて行けない、プロレス馬鹿ですよ」と語っていた。しかし、藤波のジャンピングエルボーバットに沈み、生中継を実況した辻義就に「プロレスバカというよりもプロレスカバですね」と蔑まれた。藤波戦敗退、新日本との業務提携終了をもって、パイオニア戦志は活動休止した。
オリエンタルプロレス時代
1991年2月には、経営難に陥ったパイオニア戦志ごとSWSに1道場として吸収される動きもあり、当時のメガネスーパーの田中八郎社長から既に支度金も受け取っていたという。しかし、数々の因縁により選手会のほぼ全員から猛反対を喰らい立消えになったため、1年半の休止後に新スポンサーを獲得して1992年7月に新団体『オリエンタルプロレス』として再出発した。
ジェシー・バーをはじめ実力派外国人レスラーの参戦、『出前プロレス』、『ほっかほかビデオ』などユニークな企画で滑り出し数戦は好調だったが、長州の人脈で借りたフロント陣が次々と去っただけでなく、4か月後の同年11月の千葉県船橋市大会(金網デスマッチ、対ブルースブラザース)を最後に、ギャラ搾取に怒った選手会が、代表の剛の永久追放処分を発表。剛にとっては1986年の全日本解雇に次ぐ2度目の団体解雇となった。これは若手との軋轢とも、売り上げを巡って広報担当やスタッフと揉めたためとも伝えられた。オリプロには高杉、板倉広と新弟子だけが残され、W★INGプロモーションやユニバーサル・プロレスリング、宮川道場との交流戦で食い繋いだ。なおオリプロは1993年11月に崩壊している。
剛軍団、厚木プロレス、冴夢来プロレス時代
三度フリーランスとなった剛は米マットに活路を求め、設立間もないECWでハードコアマッチにも挑んだ。帰国後はIWA格闘志塾の伝で『屋台村プロレス』で酔客相手にレスリング・ユニオンのセミプロとの試合をこなす有様だったが、一部マスコミの支援を受け、1993年8月に一人一党の『剛軍団』を旗揚げ。ジェシー・バーを相方に、クラシカルな正統派プロレスリングを標榜し、ご当地プロレス団体の嚆矢とも言える『厚木プロレス』名義での自主興行を地元で打ったり、小規模な地方巡業を細々と行ったりしたが、執拗に再戦を呼び掛けた藤波からは「二度と名前を出さないで貰いたい」と絶縁宣言されてしまう。
そんな苦境の中、1994年8月1日の後楽園ホール自主興行で、自らの志向とは正反対の怪奇派レスラー・宇宙魔神X(正体は島田宏)とのシングルマッチを含むダブルヘッダーが決定。2連戦の第1試合はチャボ・ゲレロ、ビリー・ジャック・ヘインズ組に剛・バー組が勝利し、CWUSA認定インターナショナル・タッグチャンピオンを防衛したものの、剛が首を負傷した。宇宙魔神X戦は「あんなオモチャ野郎に負けるわけにはいかない」と昔ながらの山篭り特訓に励み、試合は場外乱闘で何度も「ショア」と叫び、椅子、モップやチリトリなどを掲げながらアピールしての攻撃に、会場のファンは大声援。試合後のマイクアピールで「私はプロレスしかできない『プロレスバカ』です!そんな馬鹿で不器用な男ですがまた会場に来てください!」と発言し会場客の喝采と大量の「バカ」コールを浴び、マスコミでも大々的に取り上げられた。『プロレスバカ(PB)』なるニックネームが定着したのは、この試合の前後で、会場で「バカ」コールが起きるようになり、剛も「見る方のプロレスバカの皆さん」とマイクアピールで応酬した。
「プロレスバカ」のちょっとしたブームが起きる中で、格闘技バラエティー番組『リングの魂』(テレビ朝日)にも、数回連続で出演。これは同番組で注目を集めていた(剛自身の先輩でもある)アニマル浜口に挑戦する企画で、「出演を直訴する手紙を自筆で送った」ものだったが、宛先には『リングの塊』と書かれていた。この時期から『週刊プロレス』編集部へ頻繁に電話をかけるようになる[12]。
1994年は、これらのムーブメントの余勢を駆って、平成維震軍旗揚げ戦のメイン(越中対シン)に乱入しマイクアピールを行ったり、現役復帰した浜口とのタッグでWARにも出陣してリング内外で「気合ダー!」、「ショア!」 の応酬を展開するなど、久方ぶりにその存在を印象付けた。浜口とのタッグは、リングアナウンサーから「リンたまタッグ」と呼ばれたこともある。
翌1995年4月2日に『週刊プロレス』の発行元「ベースボールマガジン社」が主催した、東京ドームでのオールスター興行『夢の懸け橋~憧夢春爛漫~』の第4試合に参戦した際には、6万人の観客席から「ショア!」、「バカ!」、「1,2,3,4,剛!」の掛け声が鳴り響き、レスラー人生の絶頂を極めた。同年5月4日には、プロレスマニアのバカ社長率いるハードコアパンクバンド『猛毒』の単独ライブ『'95 ビッグチャレンジ・スーパーマグマシリーズ』(三軒茶屋HEAVEN'S DOOR)に登場。観客が弁当代わりに持参していたバナナを掲げつつ、曲に合わせてただ延々と「ショア!」と叫び続け、暗黒プロレス団体666設立の切っ掛けを作る。
1996年1月16日のレスラー生活25周年記念後楽園ホール大会に向けて、妻と2人の子供と共にポスター貼りをする模様が専門誌や『バトルウィークリー』(テレビ東京『スポーツTODAY』の1コーナー)で取り上げられたことから、新スポンサーも獲得。個人プロダクション『冴夢来プロジェクト』を2月21日に設立、4月17日の後楽園ホール大会以降は1994年に活動を休止した新格闘プロレスと提携して『冴夢来プロレス』を名乗り、弁当付きの無料プロレスという太っ腹な企画で関東一円を巡業した。勢いでPRIDE参戦さえ表明したが、スポンサーと衝突して1年程で崩壊した。この時代に入門した美濃輪育久は、剛の最後の弟子である。
なお、藤拓地所は剛と決裂後、IWA・JAPANのスポンサーになっている。
現役時代末期
迷走期
全日本とオリプロの解雇、藤波との確執、新団体の経営失敗などの数多のトラブルによって団体からのオファーはほとんど来なくなり[12]、剛が上がるリングは、鶴見五郎率いる国際プロレスプロモーション等しかなくなった。他には2000年にミスター・ポーゴのWWSの、カボチャやスイカを凶器に用いる『野菜デスマッチ』などに呼ばれた程度だったが、金銭問題や体調不良により数戦だけで契約解除された。新日本への再々参戦を訴え続けたものの、この時期の新日本は路線変更が実施された時期でもあり、マット界からフェードアウトしていたのは明らかだった。
2001年12月9日には鶴見の計らいで引退試合を組まれたが、ギャラに納得できない剛が会場入りをドタキャンし、本人不在のままテンカウントゴングが鳴されるという、前代未聞の引退セレモニーとなった。後年、ひったくり事件に関して報じた東京スポーツの記事では、剛は事件直前の時点でも周囲の知人に対し、引退を否定した上で「来年3月には新日本プロレスに上がる」と吹聴していたという。
ひったくり事件
2003年1月15日午後6時25分頃、JR新宿駅西口の自動券売機前にて69歳の主婦の財布をひったくり、逃亡するも会社員らに取り押さえられ[13][14]、逮捕後も頑に犯行を否定したことで188日間の拘置所生活を送ったが[15]、結局不起訴処分になった。一般紙報道時の肩書は「元プロレスラー、派遣会社員」だった。なお、この報道に際してコメントを求められた藤波辰爾は「ライバルとか言われたら気分悪いですよ」と発言している。また村西とおるは、自身の公式サイトの日記(2009年10月31日付)[16]で剛の死去に触れ、ひったくりに関して、落ちていた主婦の財布を拾って返そうとしただけであるという無実の説を述べている。
この事件を伝えた1月18日付の東京スポーツは、ひったくりに加えて、2001年のゲイビデオ『極太親父』に偽名で出演し、借金が原因で妻子とも別居中であり、派遣で働く男性数名と同居していたことが発覚し、1面写真入りですっぱ抜いたため、大騒動に発展した。他にも『格闘家~燃える肉弾~』『でかんしょ旋風児』『野郎四人衆』『侍、一本』『VG-men』などの作品に出演していたことが発覚したが、後に本人は「自分の体で稼ぐことの何が悪いのか」と事実を認めている。
なお、これ以前に、田中秀和が2001年1月の『ストロングニュース』で存在を示唆しており、また週刊プロレスの投書欄『あぶない木曜日』でも「信じられないようなビデオに出演している」との噂が立っていたため、少なくとも関係者の間では周知だったとみられる。
晩年
釈放後の2004年5月、NPO法人『WAP』のエース格になり、若手有望外国人レスラーとの連戦で一部マニアの注目を集めた[17]。しかし、腰痛を理由に欠場し、「金返せ」コールを止めない客の求めで担架に乗せられたまま「ショア!」させられたりするうち[18]、1年後の後楽園ホール大会で自然消滅。半引退状態を経た2006年7月、DDTにて復帰戦(対マッスル坂井)が行われたが、過度の飲酒が原因で無惨なほど衰えており、あまり話題にならなかった。
2007年からは弟子の畠中浩旭が北海道で立ち上げた『アジアンプロレスリング』に遠征し、2008年12月18日の力道山OB会&プロレス主催『昭和プロレス第2弾興行』第4試合のバトルロイヤルにも出場した。メンバーは他に、小林邦昭、タイガー戸口、木村健悟、ドン荒川、ジャイアント小馬場、アントニオ小猪木。
2009年8月30日、ユニオンプロレスにて竜剛馬と『夢のタッグ』を組み、小笠原和彦(元極真会館)・松崎和彦の『ダブル和彦』組と対戦。この竜剛馬は東京大学卒の唯一のプロレスラーで、剛に顔が似ていたため、あやかってアナグラムのリングネームを名乗っている。9月3日新木場1stRINGの宮本和志自主興行(剛・松崎組対鶴見・佐野直組)が、生涯最後の試合になった。この頃には、かつてパンプアップされていた筋肉は見る影も無く、ただリングに立っているだけでまともに試合も出来ない程衰えていた。
死去
2009年10月7日、自転車を運転中に交通事故に遭った[19]。同年10月13日、連絡がないことを心配した長男が神奈川県厚木市の自宅を訪ね、翌日再訪した長女が倒れている剛を発見し病院に搬送した[20]が、4日後の10月18日午前1時11分に敗血症のため死去した[21][22]。53歳没。
交通事故の際、開放骨折した右手首の傷口から細菌が入り込み[23]、アルコール性肝障害による体力低下も重なって[24]、全身に感染したものとみられている[25]。亡くなる数日前、剛から幾人かのレスラー仲間に着信があったが、電話に出た者はなかったという[20][26]。
死去当日の通夜には、アニマル浜口、鶴見五郎、三宅綾、松崎和彦、宮本和志らが[23]、10月19日の告別式には浜口ら約30名のプロレス関係者が参列した[27]。戒名は『観照宏徳信士』[19]。浜口は葬儀後、「彼(剛)はね、早く両親を亡くしたために、自分で妹さんの進学費用も出していた心優しい男だったんですよ」と涙ながらに想い出を語った。
得意技
主要獲得タイトル
- NWATV王座
- WWFジュニアヘビー級王座
- NWAアメリカス・タッグ王座:2回(パートナー:ブラック・ゴールドマン、ラッシャー木村)
- CWUSAタッグ王座:2回(パートナー:共にジェシー・バー)
ドラマ出演
脚注
- ^ デイリーポータルZ:プロレスラーの異名辞典
- ^ a b 剛竜馬ほどかわいそうなレスラーはいないターザンカフェ 2009年10月22日
- ^ “IWE 1976 Yumo(Bravery)Series”. Puroresu.com. 2015年3月16日閲覧。
- ^ 「忘れじの国際プロレス」p110 ベースボール・マガジン社
- ^ 剛竜馬が嫌われたのにはもう一つの理由があったターザンカフェ 2009年10月21日
- ^ 「忘れじの国際プロレス」p17 ベースボール・マガジン社
- ^ “NJPW 1984 New Year Golden Series”. Puroresu.com. 2015年9月10日閲覧。
- ^ 『日本プロレス事件史 vol.8』P30 - P31 ベースボール・マガジン社
- ^ ラッシャー木村の懐古談より
- ^ 『プロレス界を揺るがした10人の悪党』(永島勝司薯,オークラ出版,2008年)ISBN9784775512517
- ^ 週刊ゴング別冊『プロレス虚泡団体の真実』(竹内宏介) ISBN 4930943124
- ^ a b プロレスバカの剛竜馬はマット界の捨て子だったターザンカフェ 2009年10月20日
- ^ 元プロレスラー剛竜馬を逮捕 日刊スポーツ 2003年1月16日
- ^ プロレスラー剛竜馬、ひったくりで逮捕 昨年引退、借金に取りに追われていた? 夕刊フジ 2003年1月16日
- ^ ターザンカフェ 2004年9月6日付
- ^ [1]
- ^ 「プロレス バカ」剛竜馬が来社 日刊スポーツ 2004年8月20日
- ^ プロ格コラム 2004年12月28日
- ^ a b 剛竜馬さん葬儀・告別式に浜口氏ら参列デイリースポーツ 2009年10月19日
- ^ a b 三宅稜ブログ~本音でよろしいですか?2009年10月20日
- ^ “プロレスバカ”として一世を風靡した剛竜馬さん死去 kamipro.com 2009年10月18日
- ^ 剛竜馬さん死去…国際、新日などで活躍 デイリースポーツ 2009年10月18日
- ^ a b サムライTVニュース 2009年10月19日
- ^ 「プロレスバカ」剛竜馬さん敗血症で死去 日刊スポーツ 2009年10月19日
- ^ 東京スポーツ 2009年10月20日付 6面
- ^ 剛竜馬さん急死…昭和の“プロレスバカ”53歳早すぎる スポーツ報知 2009年10月19日
- ^ 剛竜馬さん棺に「プロレス馬鹿」Tシャツ 日刊スポーツ 2009年10月20日
関連項目
外部リンク
- 【あの人は今こうしている】 プロレスラー・剛竜馬さん「挫折だらけのプロレス・バカ、一世一代の大勝負です!」 ゲンダイネット (日刊ゲンダイ 2004年8月2日掲載) - 本文中にある「レッスル・エイド・プロジェクト」で再起した当時の近況などを語る。