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梅宮辰夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
うめみや たつお
梅宮 辰夫
梅宮 辰夫
国際情報社『映画情報』第27巻11号より
本名 梅宮 辰雄
生年月日 (1938-03-11) 1938年3月11日
没年月日 (2019-12-12) 2019年12月12日(81歳没)
出身地 満洲国の旗 満洲国 浜江省ハルビン市[1](現:中国黒竜江省ハルビン市)
身長 174 cm
血液型 A型[2]
職業 俳優
タレント
実業家
活動期間 1958年 - 2019年
活動内容 映画
テレビドラマ
バラエティ番組
配偶者 梅宮クラウディア
著名な家族 梅宮アンナ(娘)
梅宮百々果(養子、元[3]
梅宮万紗子(姪)
梅宮亜須加(姪)
主な作品
映画
夜の青春シリーズ
渡世人
夜の歌謡シリーズ
不良番長』シリーズ
帝王シリーズ
昭和極道史
テレビドラマ
前略おふくろ様
新・夜明けの刑事
明日の刑事
江戸プロフェッショナル・必殺商売人
大激闘マッドポリス'80
特命刑事
スクール☆ウォーズ
カミング・ホーム
おばさん会長・紫の犯罪清掃日記!ゴミは殺しを知っている』シリーズ
箱根湯河原温泉交番』シリーズ
女かけこみ寺 刑事・大石水穂』シリーズ
やすらぎの刻〜道
バラエティ
くいしん坊!万才』 6代目レポーター
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梅宮 辰夫(うめみや たつお、1938年昭和13年〉3月11日[2] - 2019年令和元年〉12月12日[4])は、日本俳優タレント司会者実業家。娘はモデル・タレントの梅宮アンナ

生涯

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生い立ち

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梅宮の先祖は、福島会津若松城下で「梅宮屋」の名前で煙草を売っていた[5]。梅宮の祖父・辰次郎陸軍士官学校卒業後日露戦争に従軍[5]。妻とともに満洲奉天市に移住[5]。辰次郎は関東軍参謀板垣征四郎とも懇意の仲で、祖父の葬儀では板垣が弔文を読んだ。辰次郎の次男で父の次郎は同地で生まれ[5]満洲医科大学を卒業し医師となった後、満州国ハルビン特別市満鉄病院に勤務していた[5]。梅宮のほか弟と妹それぞれ2人ずつおり、5人兄弟の長男である[6]。一家はその後、次郎の異動により開原市(現中華人民共和国遼寧省)に移住[5]、同地で太平洋戦争終戦を迎え、1946年に他の引揚者らとともに信濃丸博多港に帰国[注釈 1]

満洲から帰国して半年後に茨城県水戸市の病院に職を見つけた父とともに一家で移住。小学校・中学校は1クラスだったが、小学4年から中学3年までの6年間はずっと番長[7]生徒会長にもなり[7]、女生徒からも人気があったという[7]茨城弁訛りがキツくて嫌いで、水戸時代も茨城弁は一切使わず、東京弁で通した[7]茨城大学教育学部附属愛宕中学校では陸上競技をしていた。同校の後輩にはジャーナリストで評論家の立花隆がおり、立花とは後年、テレビ番組の企画で共演している[8]。水戸移転から10年後、高校から[7]、近くに親戚のいた品川区戸越銀座へ移住する。戸越銀座移転後、実家は内科小児科を診療科目とする梅宮医院を開業、辰夫は跡継ぎとして期待されていたが[9]早稲田高等学校を経て[7]、医学部を受験するも不合格となったため[7]、浪人するのが嫌で、日本大学法学部に入学(後に中退)[7]。早稲田高校時代に剣道部を創設し[7]、喧嘩三昧[7]。高校までは硬派で、大学2年までは童貞だったという[7]筆下ろしの相手はキャバレーホステスで、銀座三丁目の寿司屋「江戸常」で逆ナンされた[7]

大学在学中、日東紡モデルアルバイトなどもしていて[10]、その「江戸常」のゲイから東映ニューフェイス試験を薦められ[10]1958年昭和33年)、東映ニューフェイス5期生に合格[10][11]。当時、映画は"娯楽の王様"で、応募者は3万3000人超[10]。五次試験まであり合格者は21人[10]。同期には八代万智子応蘭芳高島新太郎小嶋一郎滝川潤がいる。役者になった目的は、いい女を抱くこと、いい酒を飲むこと、いい車に乗ること、きれいな海が見える一等地に家を構えることの4つ[10]東映へ入社し、翌年映画少年探偵団 敵は原子潜航挺』シリーズで主演デビュー[12][13]。新人時代は他に『遊星王子』等子供向けヒーロー映画に主演していた[11]

東映が全力で売り出していた波多伸二1960年(昭和35年)、デビューから四作目で急死し、若手の主演級スターがいなくなり、プロデューサー・監督ら幹部クラスで波多に代わるスターの選考が行われた[14]。ここで大半が推したのは亀石征一郎だったが[14]岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)が「亀石?あいつは暗くてダメだ!梅宮がいい。あいつは仰げばどんどん上がる。ああいう奴が人気が出るんだ」と鶴の一声を発し[14]、梅宮が東映東京撮影所(以下、東映東京)の次世代スターとして売り出されることになった[14]。役者として4つの目標を掲げたが、脇役が長く続くようなら役者稼業は見切りを付けるつもりだったという[10]。初主演作『殺られてたまるか』がヒットしたため、デビュー作だった三田佳子とゴールデンコンビを組み、10数本のコンビ作が量産される[15]。しかしお互いが異性としては嫌いなタイプで[15]、三田が東映上層部に共演拒否を申し出てコンビ解消[15]

以後、1964年(昭和39年)の『暗黒街大通り』までは「アクション映画」や「仁侠映画」で硬派な役柄で活躍していたが、段々私生活が派手になっていく梅宮を見て、岡田プロデューサーが梅宮の私生活に近いプレイボーイ、女を泣かす役柄をあてた[16][17][18][19]。これが1965年(昭和40年)の『ひも』に始まる「夜の青春シリーズ」で[20]、岡田は梅宮を着流し任俠路線裏番組エースとして起用し続けた[20]。ここから"男を泣かせる鶴田 女を泣かせる梅宮"の名惹句が生まれた[17][20][21]。これが同じ岡田プロデュースによる1968年(昭和43年)からの「不良番長シリーズ」に至る[12][18][19][20][21]。不良番長役は、自分でも「俺のために用意された役だ、正に俺にしかできない役だ」と大喜びで、俄然やる気も増して、こうなったら東映東京は俺一人で背負って立つという自覚も芽生えた[21]1960年代半ば以降は東映京都撮影所(東映京都)で「任侠映画」が量産されたため、東映東京の看板スターだった鶴田浩二高倉健が東映京都に行くことが多くなり[19]、必然的に梅宮が東映東京の看板スターとなった[19]。このため女性からのモテ方は今の芸能人の比ではなかったと話している[19]。東映入社後から10数年間は毎日のように銀座のクラブに通った[22]。一番通ったのは東映ニューフェイスの一年先輩・山口洋子が経営していた「姫」で、他に田村順子の「クラブ順子」[22][23]、「クラブ麻衣子」[24]「エスポワール」[25][22]などによく通った[22]。銀座はお姉ちゃんをナンパする場所と決めていたから、お姉ちゃんを口説くのに邪魔になるため、俳優仲間とはつるんでいかず、一人で行った[22]。席に座れば、一般客そっちのけでホステスが梅宮に集まり取り合いをしたという[22]。 

「不良番長シリーズ」は、最初の数本こそシリアス・タッチだったものの、梅宮を軸にした集団コメディの色彩は回を重ねるごとに強くなり、後に公私共に盟友となる山城新伍コメディリリーフとして加わってからは、ますます破壊的なギャグが繰り出され、計16作が公開された。梅宮は「みなさんの中で役者・梅宮辰夫は『仁義なき戦い』の印象が強いかもしれないけど、僕の真髄は不良と女たらしを兼ねた『不良番長シリーズ』なんですよ[26]」と述べ、自身の代表作としている[17]。続いて主演の『夜の歌謡シリーズ』、更に1970年代からは『帝王シリーズ』などを成功させた[12]

ベテラン俳優として

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1972年(昭和47年)、自身が経営する事務所「梅宮企画」倒産などによる多額の借金で窮地に立たされるが、クラウディア・ヴィクトリアと再婚、同年にはアンナが誕生した。1973年(昭和48年)からは『仁義なき戦い』や東映実録路線で貫禄十分の独特の存在を醸し出した[11][12][27]。同映画の監督、深作欣二とは同郷(茨城県水戸市)という縁もあった。

付き合いのあった山本健一のモデルを演じた『仁義なき戦い 頂上作戦』が公開された1974年(昭和49年)、36歳のときがんに罹り、睾丸腫瘍の診断を受けた[28]。半年後、癌細胞はにまで転移し、末期の肺がんの診断を受け、医者の父には「息子さんの余命は2~3ヵ月」と伝えられる[28]抗癌剤による化学療法の奏効によって治癒し、副作用脱毛が全く起こらず、主治医が驚いていたというエピソードがある[28]。復帰作は珍しくエリート刑事役を演じた『県警対組織暴力』。この病気の後、梅宮は夜遊びを止め、酒を減らし、家族との時間を大事にし、早起きして料理に励むようになった[28]。 

1975年倉本聰に請われて『前略おふくろ様』に出演。「渋い」板前役を演じ、役柄を広げることに成功。料理に目覚めた切っ掛けはこのドラマ出演から[29]

1977年大映テレビ制作の刑事ドラマ新・夜明けの刑事』にて、温厚な人柄の刑事課長役を演じたことで新境地を開いた。以後、『明日の刑事』(1978年 - 1979年)、『スクール☆ウォーズ』(1984年 - 1985年)にも出演するなど、大映ドラマの常連俳優としても活躍する一方、『はぐれ刑事純情派』シリーズや『箱根湯河原温泉交番』シリーズなどのテレビドラマに出演し、名脇役ぶりを発揮する。

実業家・マルチタレント

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これ以降は20代前半からの美食三昧で肥やした舌を活かし、料理人としても徐々に活路を見出して行く。 実業家・料理家としての才能にも長けており、「梅宮辰夫漬物本舗」「梅辰亭」といったブランドのフランチャイズチェーンや、名古屋で「梅宮辰夫の炭焼き家 炎園」などの事業も展開している[12]

晩年

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晩年も病気がちで、2018年9月に前立腺がん、2019年1月に尿管がんの手術を受けるなど、これまで6度のがんの手術を受けた[12]。その後も慢性腎不全で週に数回、人工透析を受けてきたが、2019年12月12日午前7時40分に慢性腎不全のため神奈川県内の病院で死去、81歳没[30]。戒名は「浄海院和譽辰照居士」で、墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある[31]

人物

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  • 一番思い出深い作品として1967年の任侠映画『花札渡世』(成沢昌茂脚本・監督)を挙げている[32]。作品の出来もさることながら、鰐淵晴子との共演があったからで[32]、東映は細身の女優が多く、梅宮はグラマーな女性が好みだったから、鰐淵は当時の女優では大柄でプロポーションが抜群で正に梅宮好み[32]。しかし鰐淵はステージママが娘にベッタリ付き、過度に介入して来て手が出せなかった。「この俺をときめかせた数少ない女優」などと話している[32]
  • 特技はライフル剣道で、高校時代には剣道部の初代主将も務めた。
  • 料理にかける熱はかなりのものがある。
    • オリジナルレシピノートを作成しており、レシピの総数は500種類以上にも及んでいた[33]
    • 2001年2月13日、梅宮の運転手が仕事先の梅宮を迎えに行くため、梅宮の愛車であるメルセデス・ベンツV280(当時の販売価格で580万円)を渋谷区内の自宅近くのガソリンスタンドで給油中、カギを付けたまま休憩所に行き、戻るまでの数分間の間に車両盗難の被害に遭っているが[注釈 2]、その記者会見では「ベンツはいいから(調理器具が収まった)クッキングボックスだけは返してくれ[注釈 3]」と訴えている。その後、ベンツは発見されたが、逆にクッキングボックスは持ち去られていた。
  • 1980年代後半からはバラエティにも進出。『くいしん坊万才』の6代目リポーターでレギュラー出演を皮切りに、俳優として初めて『料理の鉄人』に挑戦者として登場(1994年11月18日放送分、「対決」)。道場六三郎と戦うが敗戦している。
  • 釣り好きとしても知られる。梅宮本人が語るところによれば、「旧満州に住んでいた子供の頃、医師だった父と一緒に川釣りを始め、父が国立水戸病院の医師として茨城県に移った時にも那珂川ナマズウナギなどを釣っていた」とのこと[35]サンテレビジョンで放送される釣り番組『ビッグフィッシング』への出演を希望したことがあると言われている。自らの釣りの中心地は伊豆半島静岡県伊東市)の八幡野とのことで[35]熱海港に釣り船「番長」を留めている。1977年4月17日には尖閣諸島大正島へ渡って磯釣りにも挑戦、その様子は釣り雑誌「別冊フィッシング」のカラーグラビアでも紹介された。また、毎年のように男女群島まで磯釣りに出ていた時期もあり、その様子が「クッキングパパ」第9巻に紹介されたことがある。
  • 1968年昭和43年)、3年間同棲し既に妊娠4ヶ月だった若井常代と一方的に婚約を解消[36]。同年12月に結婚した最初の妻は、銀座のクラブ「姫」のホステス大門節子(大門節江)だが[37]、半年で離婚[37][注釈 4]。大門との結婚中に知り合った銀座のクラブで働いていた愛称"ビッキー"こと[37] 米国籍のクラウディア・ビクトリア・ルールダウ(梅宮クラウディア)と[37]、1972年にスポーツニッポンに結婚とすっぱ抜かれ[37]、同年3月に結婚した[37][注釈 5]。プロポーズの言葉は「何もしなくていい。床の間に飾っておきたい」であり、クラウディアによるとその言葉のまま52年間の結婚生活を終えたという。クラウディアには外国人女性さながらの日本人女性にはない魅力があるという。この時、クラウディアは梅宮の子を身ごもっており、その子が娘の梅宮アンナである。
  • 梅宮アンナの娘の百々果は、相続税の負担を減らすために辰夫の養子となった[3]
  • 姪は梅宮万紗子声楽家高橋好子は母方従姉妹。その息子の高橋克典は母方の従甥(伯母の孫)である。元プレアイドル梅宮亜須加とは遠戚である。
  • 数多くの映画で共演した松方弘樹とは、釣りが趣味という共通から盟友だった。『スクール☆ウォーズ』で夫婦役として共演した和田アキ子とは「あんちゃん」「アッコ」と呼び合う兄妹のような仲だった。安岡力也からは「兄貴」と慕われ、山城新伍とは「兄弟」と呼び合う仲であった。めちゃイケのコーナー、爆烈お父さんの父で、加藤浩次演ずる加藤辰夫のモデルといわれている。
  • 片岡鶴太郎の番組出演以外にも、ダウンタウンの番組にも多く出演。和田アキ子との対決企画や体を張ったコントにも積極的に出演し、妻のクラウディアとの夫婦共演やアンナとの親子共演も話題となった。『人気者でいこう!』(朝日放送)にて「芸能人格付けチェック」企画に出演した際にモニタリングにて格付けマスターの浜田雅功からは「正露丸みたいやな」と思わず突っ込んでいた。
  • 秋山竜次ロバート)の父親は東映の大部屋俳優だったことがあり[5]、『不良番長』で梅宮と共演もある[5]。秋山は「芸人として本当に悩んでいたことをかき消すきっかけとなったのが梅宮さんの“体ものまね”[38][39]。梅宮さんから『やるんだったら、中途半端じゃなく、突きつめろ。何をどうやってもいいから、ちゃんとした芸をやれ![40]』と励まされた」と言い、秋山にとって梅宮は大きな転機をいただいた恩人と語っている[38][39]
  • 1994年平成6年)から実娘・アンナが、羽賀研二との交際を始めると、プレイボーイの羽賀との交際に公然と反対、これら三者の関係は、ワイドショーなどで盛んに取り上げられた。
  • 田中裕二爆笑問題)と共演した際にスタジオの隅に呼び出し、「俺も同じ病気をやっているけど、ピンピンしている。大丈夫だから」と同じ睾丸の病を患った田中を励ました。この時、梅宮は睾丸がんを公表していなかった。
  • 太田光(爆笑問題)には電話を掛けて「俺はあんたのこと好きだからさ。あんた、酒は飲むのかい? 今度、仲間とやるバーベキューに誘ってもいいか? 俺が一方的に言ってるだけだから恐縮しないでくれ」と言ったが。太田が「すいません、酒飲まないんですよ」と返答し、バーベキューの誘いは「誘って下さい」と断らなかったものの、結局は太田が酒も飲まないし忙しいだろうと気遣ったのか、そのまま実現することはなかったが、電話をすればよかったと2019年12月17日爆笑問題のラジオで前述の田中のエピソードと共に語った[41]

出演作品

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映画

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人生劇場 飛車角』(1963年)

テレビドラマ

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テレビアニメ

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バラエティ

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CM

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Vシネマ

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  • 殺しのメロディ Lady Smith(1990年)
  • 河内残侠伝 軍鶏(1991年)
  • ジゴロ・コップ 六本木・赤坂 美少年倶楽部(1991年) - 主演・総理府直轄外事特別遊撃隊 秘密特捜官
  • 塀の中の懲りない奴ら!(1993年)
  • 極道おとこ塾(1995年) - 元極道 ※特別出演
  • 修羅がゆく4 東京大戦争(1997年) - 関東木曜会最高顧問 武山勝茂 (※特別出演)
  • 示談屋(2000年) - 八頭竜会会長 竜島八十吉
  • 殺し屋PAZUZU(2000年) - 漁師
  • 日本極道史 誇り高き戦い(2000年)- 森田組 徳丸房次郎
  • 広島やくざ戦争 シリーズ(2000年・2001年) - 笹岡市 浅沼組組長 浅沼真一
    • 実録・広島やくざ戦争(2000年8月)
    • 広島やくざ戦争 完結編(2000年10月)
    • 続・広島やくざ戦争 流血!第三次抗争勃発!(2001年)
  • 実録・絶縁(2001年) - 三代目山王会会長 竜造寺誠道
  • 九州マフィア外伝(2001年) - 沢村
  • 修羅の群れ(2002年) - 関山組組長 関山勝
  • 実録・大阪やくざ戦争 報復(2002年) - 三代目山王会会長 竜造寺誠道
  • 実録・山陽道やくざ戦争 覇道 完結編(2002年)
  • 六本木 錬金の帝王 カポネ(2003年)
  • 実録・東北やくざ戦争 覇桜の道(2003年) - 城東組関山一家 田畑組組長 田畑梅五郎
  • やくざの詩 OKITE 掟(2003年) - 岡弘志
  • 梁山泊 ファミリー(2003年)
  • 実録・広島四代目 シリーズ(2004年) - 森田俠市
    • 実録・広島四代目 第一次抗争編(2004年)
    • 実録・広島四代目 第二次抗争編(2004年)
    • 実録・広島四代目 抗争完結編(2004年)
  • 新・日本の首領(2004年 - 2006年、全9巻) - 遠山建設社長 遠山実
  • 実録・籠寅三代目 合田幸一 シリーズ(2004年) - 籠寅二代目
    • 実録・籠寅三代目 合田幸一 任侠修業篇(2004年)
    • 実録・籠寅三代目 合田幸一 名門継承篇(2004年)
    • 実録・籠寅三代目 合田幸一 関西二十日会篇(2004年)
  • 実録・東声会 初代・町井久之 暗黒の首領(2006年) - 加賀組組長 加賀三郎 (※特別出演)
  • デコトラの鷲 其の五 火の国熊本親子特急便(2008年)
  • 千年の松 完結編(2009年) - 荒武連合総長 御堂貴臣
  • 日本統一 1 - 3(2013年) - 五代目至誠会会長 川端忠雄

音楽

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シングル

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発売日 規格 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
ビクター音楽産業
1962年 EP VS-753 A 母恋いやくざ 川内康範 渡久地政信
B 銀座の風来坊 宮川哲夫 松井八郎 寺岡真三
日本コロムビア
1966年 EP SAS-678 A 遊侠三代 西沢爽 船村徹
B さかずき節
1966年9月 EP SAS-781 A 夢は夜ひらく 補:西沢爽 補:船村徹
B 憎いあん畜生 西沢爽 船村徹
テイチクレコード
1968年 EP A-21 A 番長シャロック[注釈 6] 大町志郎 島豊 池田孝
B 盃よお前だけ 尼子成夫 加納光記 島豊
1968年 EP A-32 A 番長ブルース[注釈 7] もず唱平 不祥 島豊
B おれは番長 島豊 池田孝
EP A-39 A 番長新宿仁義[注釈 7] 志賀大介 島豊 池田孝
B 夢は夜ひらく 曽根幸明 山倉たかし
EP A-45 A 番長数え唄[注釈 7] 志賀大介 島豊 池田孝
B 野良犬 永田恵秋 山室敏男 山倉たかし
EP A-48 A 男・番長流れ星[注釈 7] 志賀大介 山室敏男 山倉たかし
B 番外地ブルース 不祥
1970年 EP A-55 A ダイナマイト・ロック 志賀大介 島豊
B ウッシッシ節 島豊 上野正雄
1970年 EP A-63 A シンボル・ロック[注釈 8][注釈 9] 志賀大介 藤本卓也
B 夜は俺のもの
EP A-69 A 梅宮辰夫の東京流れ唄 志賀大介 島豊
B 番長 山室敏男 池田孝
EP A-71 A 柄じゃなかった恋なんか 志賀大介 島豊
B 男泣かせの霧が降る
1971年 EP A-73 A 辰ちゃんの青春日記 志賀大介 島豊
B 辰兄いの三度笠
1971年 EP A-77 A 悔恨の唄
B さすらいのワルツ
EP A-80 A 生きて行こうよ 志賀大介 島豊 斉藤恒夫
B ジンと来るんだ
1973年1月 EP A-81 A 盛り場番長 志賀大介 太田いくを 成田征英
B 人生劇場 佐藤惣之助 古賀政男 池田孝
ユニオンレコード
1973年 EP US-786 A ひとり街
B 親無し子守唄
ミノルフォンレコード
1975年6月 EP KA-554 A もてたつもりの数え唄 白井章生 浜口庫之助 小杉仁三
B 女町みれん
ポリドールレコード/日本コロムビア
1982年 EP 7DX-1187 A つよがり 伊井田朗 徳久広司 斉藤恒夫
B 男ひとり

アルバム

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発売日 規格 規格品番 アルバム
テイチクレコード
LP ASL-1 不良番長

SIDE A:

  1. 番長シャロック
  2. 番外地ブルース
  3. 番長小唄
  4. 番長流れ星
  5. 夢は夜ひらく
  6. 旅姿三人男

SIDE B:

LP ASL-3 夜遊びの帝王

SIDE A:

  1. 梅宮辰夫の東京流れ唄
  2. 夜は俺のもの
  3. シンボルロック
  4. 新宿子守唄
  5. 柄じゃなかった恋なんか
  6. 男泣かせの霧が降る

SIDE B:

  1. ダイナマイトロック
  2. 番長
  3. デカンショロック
  4. 不良番長「すっ飛び野郎」
  5. ウッシッシ節
  6. 親のない子
LP AT-1 人生劇場/不良番長

SIDE A:

  1. 人生劇場
  2. 男の純情
  3. 緑の地平線
  4. 裏町人生
  5. 船頭小唄
  6. 人生の並木路
  7. 夕映えの駅

SIDE B:

  1. 番長シャロック
  2. 人に恥じよのブルース
  3. 男番長ネオン町
  4. すねものブルース
  5. 盛り場番長
  6. 生きて行こうよ
  7. ジンと来るんだ
ユニオンレコード
1973年 LP ULP-2012 男の演歌

SIDE A:

  1. ひとり街
  2. 裏町酒場
  3. さすらい
  4. 霧笛が俺を呼んでいる
  5. 錆びたナイフ
  6. 男なら

SIDE B:

  1. 唐獅子牡丹
  2. 網走番外地
  3. 仁義
  4. 親無し子守唄
  5. 東京流れ者
  6. 花と竜
MW RECORDS
2018年1月24日 LP DLCR-18013 梅宮辰夫ザ・ベスト
  1. 番長シャロック
  2. ダイナマイトロック
  3. 番長ブルース
  4. シンボルロック
  5. ウッシッシ節
  6. 番外地ブルース
  7. 夜は俺のもの
  8. 旅姿三人男
  9. 十九の春
  10. 少し遠くて少し近くて[注釈 10]
2018年1月24日 CD DLCR-18013

著作

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  • 『不良役者 梅宮辰夫が語る伝説の銀幕俳優破天荒譚』双葉社、2019年。ISBN 978-4-575-31503-5  - 遺著

脚注

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注釈

[編集]
  1. ^ ファミリーヒストリー」(NHK総合2015年2月13日放送分)によると、次郎が終戦直後、開原の病院で関東軍の引揚兵の一人だった柳澤孝信(後に柳澤管楽器経営者)の命を助け、その後次郎が八路軍に連行され家族と引き離された際、柳澤が残された辰夫ら家族の引揚を開原から奉天まで手助けした。なお、次郎は八路軍により連行される途中の列車から脱出し逃亡、先に到着した奉天で身を潜め、その後に開原から奉天に到着した家族および柳澤と合流し、一緒に帰国している。
  2. ^ これが経緯で2002年(平成14年)自動車盗難防止キャンペーンのポスターのイメージキャラクターに選ばれた。
  3. ^ 愛用していた包丁セットが入っていた[34]
  4. ^ レコードを出したこともある大門は、広島市大洲(現在の南区)の出身。梅宮と離婚後、沢村忠と婚約したが結婚はしなかった。その後広島に帰郷して店を経営していたが、四国の一般人と再婚したという。このあたりは山口洋子『ザ・ラスト・ワルツ- 「姫」という酒場』と、細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男: 昭和のプロモーター・野口修 評伝』に書かれている。特に後者は大門に直接インタビューしている。
  5. ^ 当時クラウディアは妊娠4ヶ月でお腹の大きな写真がスポーツニッポンに載った。クラウディアは梅宮顔負けの日本人の遊び人と1968年に結婚し、男児をもうけていて、夫婦仲が上手くいかずホステスをしているときに梅宮と知り合った。クラウディアの夫と梅宮との間でゴタゴタがあったが、結局手切れ金を渡しクラウディアと別れさせた(「げいのう 『涙にゃ弱い遊び人』」「サンデー毎日」 1972年3月19日号 43頁)
  6. ^ 映画『不良番長』主題歌。
  7. ^ a b c d 映画『番長シリーズ』主題歌。
  8. ^ 『夜遊びの帝王』[43]
  9. ^ のちに発売禁止。その後CD化されて発売される。
  10. ^ 梅宮辰夫・鶴田さやか名義のデュエット曲。

出典

[編集]
  1. ^ 梅宮辰夫さん、慢性腎不全で死去…「仁義なき戦い」”. 読売新聞 (2019年12月12日). 2019年12月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月12日閲覧。
  2. ^ a b 梅宮辰夫”. 日本タレント名鑑. VIPタイムズ社. 2017年3月9日閲覧。
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参考文献

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外部リンク

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