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大門節子

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大門 節子(だいもん せつこ、1945年8月27日[出典 1] - )は、日本実業家歌手女優広島県広島市出身[出典 2]大門 節恵と名乗った時期もあり[出典 3]、本名は大門節子説と[3]、大門節江説がある[注釈 1]

経歴

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1945年8月6日広島市の原爆投下から20日後、爆心地から1.5キロ離れた場所で生まれる[出典 4]。生後間もなく胎内被曝児に認定される[出典 5]心臓弁膜症や原因不明の腹痛に悩まされるひ弱な体質で[出典 6]被爆者手帳を肌身離さず持っていた[出典 7]。3人姉弟の次女[出典 8]。父は戦前中国新聞記者だったが[1]戦後は、レストランナイトクラブを経営するやり手の実業家に転身[2]。広島市内の中学を卒業後、父の経営するクラブの手伝いをしていた[3]。1964年に母を、1967年6月に父を亡くす[3]

東京で美容師修行をしていた弟の看病のため、20歳のときに初めて上京[出典 9]。父は香川県選出代議士平井太郎と親しく、広島に帰る最後の夜に父と平井の会食に付き合わされた[出典 10]。レストランで食事後、平井から「これから面白いところへ行こう」と銀座クラブ「姫」に連れて行かれる[出典 11]。お店の女の子にジロジロ見られ、居心地悪さを感じていたら、平井が「姫」のオーナーママ山口洋子に「じゃあママ、この子は置いていくよ」と帰ってしまった[2]。山口から当座の生活費にと大金を渡され、六本木マンションに連れて行かれ、「マンションも家具も服も好きに使っていい」と言われた[出典 12]源氏名を「大門節恵」とし[2]、1966年に「姫」のホステスとしてデビューした[出典 13]

身体が悪く、倒れることもしばしばで[9]、8ヶ月中、3ヵ月しか店に出勤できなかったが[3]、半年で先輩ホステスを抜き去り、「姫」のトップに立った[出典 14]。最初の年の年収は500万円(2020年の貨幣価値で2千万円[2])。「姫」に来店した梅宮辰夫と出会ったのは1968年2月[出典 15]。梅宮は強引で押しが強く、毎日のようにデートに誘った[1]。梅宮は「彼女を紹介されたとき、世の中にこれほど影の薄い女がいるのかと思った。おれは彼女の純日本的なムードに惹かれていった。当時、巨人軍金田正一さんと彼女を争ったことが、おれを燃えさせたことも事実だった。これまでに何度も失敗したが『やっと巡り合うことが出来た』、これがおれの偽らざる気持ちだった」などと述べた[12]

同年12月、大川博東映社長の媒酌結婚した[出典 16]披露宴では東映のトップスターが勢揃いし、250人が列席した[2]。梅宮、大門とも初婚[出典 17]。梅宮の希望でホステスは引退し家庭に入ったが[出典 18]、大門は既に子どもを身籠っていた[1]。梅宮は嫉妬心が強く大門が外出するのも嫌った[1]。ある朝、撮影所から迎えが来たため、梅宮を起こしたら、梅宮が「うるさい!」と大門の腹を蹴った[出典 19]。当時妊娠9ヵ月で大出血し、病院に運ばれたが1969年2月2日に流産した[出典 20]。この大門告発に梅宮は「ぼくはあなたのお腹を蹴った覚えはないし、そんな非人道的なことを平気でできる性格でもない。医者も流産の原因は全く別のところにあることを認めている。あの胎児は..........」などと週刊誌誌上で反論した[出典 21]。この奇怪な梅宮発言は今日では絶対に有り得ないが、当時のマスメディアも「精神鑑定もの」と批判した[17]。以降大門はノイローゼ気味になり[7]、1969年5月25日には夫婦喧嘩でカーッとなり、マンション11階から飛び降りようとし、パトカーが出動する騒動になった[8]。万事に派手な大門を梅宮家も嫌っていたとされる[8]。梅宮との結婚生活は僅か170日間で、翌1969年6月に離婚[出典 22]。同時に「姫」に復帰したが[18]、離婚騒動で世間から大きな注目を浴び[出典 23]、当時のマスメディアにも盛んに取り上げられ、「日本一有名なホステス」などといわれた[9]

梅宮との離婚後、姓名判断を気にする姉の勧めで大門節恵改名[3]。復帰後の「姫」での年収は1千万円(2020年の貨幣価値で4千万円[2])と、すぐにNo.1に返り咲く[19]。「姫」の営業部長は「天性の処世術を身に着けているというか、踏まれても踏まれても這い上がる強い子です。中途半端な男じゃ歯が立たない。正にプロです」などと評した[19]。大門の顧客・後見人を自称する者には、政治家作家吉行淳之介[2]ら)、大物右翼音楽評論家などゴロゴロいたといわれる[2]知名度を買われて[8]芸能事務所に所属し[2]、同年、日活の映画3本に出演[出典 24]。また、山口洋子のプロデュース作詞日本クラウンからシングル2枚をリリース[出典 25]。この2枚は自身の希望で本名の大門節子名義にした[3]。1970年9月14日のフジテレビ夜のヒットスタジオ』にも出演した[2]五木ひろしの姉弟子となる[2]。大ヒットした内山田洋とクール・ファイブのシングル・レコード「噂の女」は山口洋子が大門をモデルに作詞したもの[2]。当時の「姫」には、元ミス・ユニバース・ジャパン飯野矢住代や、女優・山口火奈子ら「スター・ホステス」が数多在籍していたが[2]、その呼び名は大門にこそ相応しいものだった[2]。医者から酒は禁止されていたが[3]、桁外れの酒豪だったといわれる[出典 26]

1970年11月に山口の愛人だった野口プロモーション社長の野口修にキックボクサーの沢村忠を紹介され、恋仲となる[出典 27]。1971年5月7日、キャピトル東急ホテル(現・ザ・キャピトルホテル 東急)で二人の婚約会見が行われ、100人以上の報道陣が集まった[2]。会見の両脇には野口修と徳間康快が座った[2]。沢村との結婚生活の負担に耐えられるのかと周囲は心配したが、大門は「死んでもいいから、彼の妻になりたい」と言った[9]。しかし少年のアイドルだった沢村がプレイボーイ梅宮の前夫人と婚約したことは、当時の言葉で「ドッチラけムード」が世間の認識だった[28]。この沢村との婚約は二人を取巻く山口、野口、徳間、森忠大TBS運動部副部長ら、二人の後見人たちの思惑が入り乱れ、様々な説がある[出典 28]。この会見の5ヵ月後破局[出典 29]

間もなく「姫」を辞め、電通通りと銀座通りの間のビルの3階に「シャネル」を開業[出典 30]。出資者のいる雇われママとなる[2]。オーナーの兄・毛利喜久が梅宮と再婚相手、クラウディア・ビクトリア・ルールダウの結婚の媒酌人を務めた[6]。1972年12月、丸源ビル川本源司郎社長が大門のネームバリューを買い[30]、同社の系列で100人近い「昭和観光」の女社長に抜擢される[30]。銀座7丁目の丸源ビル内のクラブ「薔薇館」「ビバ」「クロンボーグ」3店舗を経営し[30]、「ゆくゆくは割烹のお店を出したい」などと意欲を見せていたが[30]、1973年3月に愛媛県在住の実業家と再婚し、銀座を去った[1]

この男性と一児をもうけるが再び離婚[1]。息子を広島の実家に預け、1980年5月に銀座時代からの知人に誘われ、鹿児島市歓楽街天文館のクラブ「四季」の雇われママとなる[1]。契約金は銀座時代の十分の一の300万円、月給は三分の一の90万円と噂された[1]。大門はやはり有名人で、銀座時代のお客や地元の粋客からは「東京を閉め出されて鹿児島に流れ着いたのか」などとからかわれ[1]、ホステス仲間からは「お高くとまってる」と皮肉られた[1]。山口洋子からは「節ちゃんには華がある。いま銀座に戻ってきても充分通用すると思う」などと銀座復帰のラブコールを送られたが[1]、大門自身「私のいた頃の銀座なら戻りたいけど、今の銀座などお客の筋は悪いし、訳の分からない人ばかりでしょ。お客もホステスもすっかり質が落ちちゃって。銀座に未練はありません」と話した[1]

その後の消息は不明とされたが[2]、2013年4月28日放送の『さんまのSUPERからくりTV 美男美女美味を求めてin 広島」に渡辺直美が訪れたお好み焼き店で、美人店主として働いていると紹介された[2]。当時68歳。広島市内から約1時間の山奥にある湯の山温泉でお好み焼き店を経営していた[2]細田昌志の2015年8月の取材に「温泉が気に入り、20年前に家と店を建てて、以来ずっとここに住んでいる。気ままに一人でやるのが性に合う」などと話したという[2]。山口にはずっとお好み焼きや広島菜カキなど、広島名産を送り続けていたという[2]

映画

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ディスコグラフィ(シングル)

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作詞・山口洋子、作曲:叶弦大、編曲:小杉仁三
B面:「裸足の渚」作詞・山口洋子、作曲:叶弦大、編曲:小杉仁三
  • 1971年1月『あねさんブルース』(日本クラウン,CW-1115)
作詞・山口洋子、作曲:叶弦大、編曲:小杉仁三
B面:「男酒」作詞・山口洋子、作曲・編曲:小杉仁三

脚注

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注釈

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  1. ^ 週刊明星』1968年11月24日号の記事では、本名は大門節子と書かれているが、細田昌志の著書『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修 評伝』では、本名を大門節江としている。大門節江と書かれた記事も多い[5]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 「〔当世男女考〕 最近の女性誌がやらなくなったクソ真面目スキャンダル あの元銀座ママ・大門節子(35)の『有名人病だった私の色ザンゲ』 なんと鹿児島で発見!」『週刊ポスト』1981年3月13日号、小学館、50–52頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at #細田 pp.414-429
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「独占緊急特報 婚約発表の日…梅宮辰夫と別れた女性3人が微妙な告白」『週刊明星』1968年11月24日号、集英社、34–37頁。 
  4. ^ a b c 「タウン プレイボーイ梅宮の年貢の納め時」『週刊新潮』1968年11月23日号、新潮社、15頁。 
  5. ^ 大門節江国立国会図書館サーチ
  6. ^ a b c 「今週の人間トピックス 梅宮辰夫が妊娠4ヵ月のアメリカ人ビッキーと結婚! 前夫人・大門節子の反応」『週刊平凡』1972年3月16日号、平凡出版、174頁。 
  7. ^ a b c 「今週のニュース・ポイント大門節子がメイ誕生を喜んだ理由(わけ)」『週刊平凡』1970年12月10日号、平凡出版、48頁。 
  8. ^ a b c d e f g h i j 「【芸能メッタ打ち】 〈夜遊びの帝王〉 梅宮辰夫が寵愛した女たち 怪傑タイガーマスク」『小説CLUB』1971年4月、桃園書房、182–186頁。 
  9. ^ a b c 「サウダージ あの日を旅する 第219回 一九七一年 五月九日ー五月一五日 あの人、あの言葉 大門節子」『週刊現代』2016年5月21日号、講談社、134頁。 
  10. ^ 芸能界と格闘技界 その深淵 飯野矢住代誕生秘話<14>「姫」の元No.1ホステス大門節江の回想する嫉妬深さ”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 日刊現代 (2021年9月21日). 2024年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月2日閲覧。
  11. ^ 梅宮辰夫さん、50年前の告白 華麗なる女性遍歴に隠された「色男の弱さ」”. NEWSポストセブン. 小学館 (2021年8月17日). 2023年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月2日閲覧。
  12. ^ a b 鈴木寿男・寺島義雄・吉富桜「【衝撃の告白第68回】 梅宮辰夫 俺はS〇Xに淡泊なんだ 知った女は150人、だけど一人も俺の心に残らなかった」『週刊ポスト』1971年6月18日号、小学館、196–200頁。 
  13. ^ a b c d e f 「げいのう 涙にゃ弱い遊び人」『サンデー毎日』1972年3月19日号、毎日新聞社、43頁。 
  14. ^ a b “梅宮辰夫が離婚 性格の不一致 節子さんと"短い6ヵ月"”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年6月19日) 
  15. ^ a b “梅宮辰夫が半年で離婚”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 11. (1969年6月19日) 
  16. ^ a b 魔窟・銀座の「みかじめと愛欲」60年戦争(6)口説けないなら番組に出す
  17. ^ a b 「アップダウン・レポート '70年芸能界泣き笑い損得番付初公開! アサ―! 稼ぎ頭は20億生んだ藤圭子 ブー! マイナス王は10億赤字の加山雄三」『週刊明星』1971年1月1日号、集英社、148頁。 
  18. ^ a b 「ポスト日本映画 梅宮辰夫と離婚した大門節子 傷心女優としてデビュー」『週刊明星』1969年8月31日号、集英社、148頁。 
  19. ^ a b 「タウン 臆面もない大門節恵の生き方」『週刊新潮』1971年5月22日号、新潮社、17頁。 
  20. ^ a b c d 女の市場”. 日活. 2024年6月2日閲覧。華やかな女豹”. 日活. 2024年6月2日閲覧。女の警察 国際線待合室”. 日活. 2024年6月2日閲覧。
  21. ^ 「NEWSMAKERS 梅宮へ叩きつけた女・大門節恵の挑戦状」1969年10月24日号、小学館。 
  22. ^ 「観客の目 女優不足をアノ手コノ手で」『週刊文春』1969年8月25日号、文藝春秋、20頁。 
  23. ^ 「タイム 梅宮と別れた大門節恵さんが映画女優に」『週刊平凡』1969年8月28日号、平凡出版、55頁。 
  24. ^ 「この女性の生き方 あの大門節恵さん(銀座高級クラブ『姫』のホステス)がこんどは演歌歌手"大門節子"で颯爽デビュー」『週刊平凡』1970年8月20日号、平凡出版、49–51頁。 
  25. ^ 「NEWSMAKERS モデルから芸者まで 異色歌手登場の裏」1970年10月30日号、小学館。 
  26. ^ #山口 p.102
  27. ^ a b 「タウン 大門節子・沢村忠の『破談』」『週刊新潮』1971年10月23日号、新潮社、17頁。 
  28. ^ 「NEWSMAKERS 沢村忠の婚約発表にみる損得勘定」『週刊ポスト』1971年5月21日号、小学館、30頁。 
  29. ^ a b 竹中労「座談会 ナレ合い芸能記事の製造工程 どこを向いても"御用記者"だらけー第一線のコワモテ記者が、巧妙なカラクリを明かす」『』1971年12月号、噂発行所、99–103頁。 
  30. ^ a b c d 「タウン 盗難で明るみに出た大門節子の暮しぶり」『週刊新潮』1973年1月4日号、新潮社、21頁。 

出典(リンク)

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参考文献

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  • 山口洋子『ザ・ラスト・ワルツ 「姫」という酒場』双葉社、1996年。ISBN 4-575-23267-X 
  • 細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修 評伝』新潮社、2020年。ISBN 978-4-10-353671-0