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2016年6月8日 (水) 02:52時点における版
たなか みちこ 田中 路子 | |||||
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本名 | Michiko de Kowa | ||||
別名義 | Michiko Meinl | ||||
生年月日 | 1909年7月15日 | ||||
没年月日 | 1988年5月18日(78歳没) | ||||
出生地 | 日本・東京府東京市神田区 | ||||
国籍 | 日本 オーストリア⇒ドイツ連邦共和国(西ドイツ) | ||||
民族 | 日本人 | ||||
職業 | オペラ歌手、女優 | ||||
ジャンル | 舞台 | ||||
活動期間 | 1930年 - 1986年 | ||||
配偶者 |
ユリウス・マインル2世 ヴィクター・デ・コーヴァ(俳優) (1941年-1973年) | ||||
著名な家族 | 父・頼璋(川端玉章門下の日本画家) | ||||
主な作品 | |||||
舞台 オペレッタ『踊り子ジャイナ』帝劇ミュージカル『蝶々さん』 映画『恋は終わりぬ』『大使館の一夜』 『蝶々夫人(スズキ役)』 | |||||
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田中 路子(たなか みちこ、1909年7月15日 - 1988年5月18日)は、日本の女優、声楽家。その生涯の半生以上を欧州で過ごした。「MICHI」の愛称でドイツ語圏で有名だった。
生涯
1909年に、東京府神田区(神田鈴木町17[1])で日本画家・田中頼璋の一人娘として生まれる。17代目中村勘三郎とは根岸小学校の時に同窓だったことがある。小学校卒業後文化学院に入学したが、雙葉高等女学校(現雙葉中学校・高等学校)に転校[2]。関東大震災後に母方の実家である広島市へ移住し、広島英和女学校(現広島女学院中学校・高等学校)に転学した[3]。広陵中学(現・広陵高校)のエース銭村辰巳に初恋をした[4]。4年後帰京し、東京音楽学校(現・東京芸術大学)へ入学。両親は1930年、広島市の饒津神社近くに家を買い隠居した[5]。
東京音楽学校声楽科本科在籍中に齋藤秀雄と不倫の噂が立ち、いたたまれなくなった路子は近衛秀麿の薦めもあってウィーンへハープを学ぶ予定で留学、1930年に渡航する。 ウィーン国立歌劇場でマリア・イェリッツァのサロメを聴いて感動し声楽に転向、ウィーン国立音楽大学声楽科に入学。
後見人の駐墺日本公使夫妻や下宿先の男爵夫人公使の計らいで、ウィーンの社交界にデビュー。時の財政界の重鎮で40歳年上のユリウス・マインル2世(オーストリア大手コーヒー商の2代目[6][7])と出会い、結婚。夫の支援を得て、その後はウィーンを中心に歌手・女優としても活躍、戦争の色濃くなってきた1937年にはその活躍の場を英仏に拡げる。
1935年にはオーストリア・ウィーンフィルム制作の映画『恋は終りぬ(原題:Letzte Liebe)』に主演し、アルベルト・バッサーマンやハンス・ヤーライ等、当時の人気俳優達と共演した[8]。因みにこの時の主題歌はリヒャルト・タウバーによって書き下ろされた。1937年のフランス映画『ヨシワラ』では主役の芸者コハルを演じ、劇中で歌も披露したが、国辱的な映画に出演したとして日本からは大きな批判を受けた[9]。同年のアメリカ映画『大地』では、主役の中国人女性の役に抜擢されたものの、日本人の出演に反対が出たため役を逃した[10]。
女優として、また恋多き女性として、早川雪洲やカール・ツックマイヤー、リヒャルト・タウバー等、多くの演劇人らと交際を続ける中、ドイツ人のシャンソン歌手で俳優・演出家ヴィクター・デ・コーヴァと運命的な出逢いを遂げ、1939年(1941年とも)にマインル2世と離婚、同年にマインル2世を仲人に迎えデ・コーヴァと再婚する[11]。同時期にベルリンに住んでいた邦正美によると、デ・コーヴァとの結婚に際し、アーリア人の混血を望まないヒトラーから路子の避妊手術を条件とされ、二人はそれに同意したという[12]。
二人は第二次大戦中から戦後の混乱期に、ヒルデガルト・クネフ等多くの文化人を自邸に擁護し、後年同邸は『ベルリン・平和の島』と伝説に謳われた。戦後、日独間の民間大使としても活躍し、数回の帰国凱旋公演を行う。大賀典雄、小澤征爾や若杉弘を初めとして、欧州の楽壇へ広く日本人の音楽家を紹介した功績も大きい。ヘルベルト・フォン・カラヤン、カール・ベーム等とも親交が篤く、またヴィリー・ブラント、ヘルムート・シュミットの両元ドイツ首相とも交友があった。1950年には、早川雪洲に対し、1937年の在仏時に渡した毛皮や宝石の代金4万ドルの返還を求めて裁判を起こした[13]。
1954年、日本映画『花のいのちを』(大映)に山本富士子、松島トモ子らと共に出演。同年、イタリア&日本(東宝)合作で、八千草薫をはじめ寿美花代、東郷晴子、鳳八千代、淀かほるら宝塚歌劇団生徒達も出演した映画『蝶々夫人』にスズキ役で出演。撮影はローマのチネチッタで行われ、蝶々夫人は八千草が演じた。
1959年には帝国劇場で『オペレッタ 蝶々さん』に主演、1987年のサントリーホールにおける杮落とし公演の特別公演への出演が最後の出演となった。
1988年、ミュンヘンのマンションにて78歳で逝去。現在は、夫のヴィクター・デ・コーヴァと共にベルリン市内で名誉墓碑の下に眠っている。
代表的な出演舞台作品
代表的な出演映画作品
- 恋は終りぬ Letzte Liebe (1935) Wiener Film KG Morawsky & Company(墺)制作 初出演で主演
- ヨシワラ Yoshiwara (1937) Les Films Excelsio(仏)制作
- アジアの嵐 Tempête sur l'Asie (1938) Rio Films(仏)制作
- 差出人の無い手紙 Anonyme Briefe (1949) Cordial-Film(独)制作
- 大使館の一夜 Skandal in der Botschaft (1950) Eichberg-Film(独)制作
- 花のいのちを (1954) 大映(日)
- 蝶々夫人 Madama Butterfly (1954) リッツォーリ・フィルム(伊)、東宝(日)合作
- 最期の日まで Bis zum Ende aller Tage (1961) NERO Film(独)
脚注
- ^ 瀬戸内寂聴『愛の現代史: 「婦人公論」手記の証言』中央公論社
- ^ #私の歩んだ44頁
- ^ #私の歩んだ39頁
- ^ #男たちへの18頁
- ^ #私の歩んだ39頁
- ^ Julius Meinl II.
- ^ JULIUS MEINL - GERMAN GROCERY CONGLOMERATE - MEINL RUNDPOST COMPANY MAGAZINES 1936 - DECEMBER 1944 USMbooks.com
- ^ Letzte Liebe (1935)The New York Times, July 19, 1938
- ^ 田中路子と<国辱映画>『ヨシワラ』、そして『蝶々夫人』高崎俊夫、清流出版、2011年
- ^ Tanaka, MichikoThe Androom Archive
- ^ Viktor de KowaIMDb
- ^ 邦正美著『ベルリン戦争』朝日新聞社、p.116-118、1993年
- ^ Japanese Actor Sued By SopranoCumberland Evening Times 7 August 1950
著書
- 『私の歩んだ道』朋文社、1954年3月。
参考文献
- 角田房子『ミチコ・タナカ 男たちへの賛歌』新潮社、1982年3月。1982年
- 『世界の中の日本人』臼井吉見、筑摩書房, 1966年
- 『黎明の国際結婚』瀬戸内晴美、講談社, 1980年
- 「愛の現代史 ④ 愛とその謳歌」瀬戸内晴美編、中央公論社、1984年
- 『愛の近代女性史: 鮮烈なドラマを演じた女性たちへの鎮魂歌』田中澄江、ネオ書房, 1984年
- 「女の生き方40選」山崎朋子編、文春文庫、1995年
- 『日本人歌手ここに在り!: 海外に雄飛した歌い手の先人たち』江本弘志、文芸社, 2005年
- 「Geschenkte gaul」(ヒルデガルト・クネフ著、邦訳版未刊)
- Berliner Morgenpost 紙 1981年3月22日/1988年5月20日附
外部リンク
- 田中路子 - IMDb
- オーストリアで作られたブロマイド
- 1937年の田中路子
- 1969年の田中路子と夫
- ユリウス・マインル - 前夫の会社の公式サイト。2003年にMichiko Teeと名付けた茶葉シリーズを出した[1]。