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「イスラム・カリモフ」の版間の差分

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{{亡くなったばかりの人物| date=2016-09-02 14:18 }}
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{{大統領
{{大統領
| 人名 = イスラム・アブドゥガニエヴィチ・カリモフ
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| 各国語表記 = Islom Abdug‘aniyevich Karimov
| 各国語表記 = {{lang|uz|Islom Abdug‘aniyevich Karimov}}<br>{{lang|uz|Ислом Абдуғаниевич Каримов}}
| 画像 = Karimov Ufa.jpg
| 画像 = Ислам Каримов (23-06-2016).jpg
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| 画像説明 = 2016年6月23日撮影
| 国名 = {{flagicon|UZB}} [[ウズベキスタン|ウズベキスタン共和国]]
| 国名 = {{flagicon|UZB}} [[ウズベキスタン|ウズベキスタン共和国]]
| 代数 = 初
| 代数 = 初
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| 就任日 = 1991年9月1日
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| 退任日 = 2016年9月2日
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| 副大統領 = [[シュクルッラ・ミルサイドフ]]<small>(1991–1992)</small>
| 副大統領職 = [[ウズベキスタンの副大統領|副大統領]]
| 副大統領職 = [[ウズベキスタンの副大統領|副大統領]]
| 首相 = [[アブドゥルハシム・ムタロフ]]([[1992年]] - [[1995年]])<br />[[ウトキル・スルタノフ]]([[1995年]] - [[2003年]])<br />[[シャカト・ミルズィヤエフ]]([[2003年]] - )
| 首相 = [[アブドゥルハシム・ムタロフ]]<small>(1992– 1995)</small><br />[[ウトキル・スルタノフ]]<small>(1995–2003)</small><br />[[シャカト・ミルジヨエフ]]<small>(2003–2016)</small>
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| 国名2 = {{UZSSR}}
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| 職名2 = 大統領
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| 代数3 = 第14
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| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1938|1|30|2016|9|2}}
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| 没地 = {{UZB}} [[タシュケント]]
| 配偶者 = ナターリア・ペトローヴナ・クチミ(1960年 - 1960年代)<br />タチヤーナ・カリモヴァ(1967年 - 2016年)
| 配偶者 = ナターリア・ペトローヴナ・クチミ<small>(1964–1960年代)</small><br />{{仮リンク|タチヤーナ・カリモヴァ|en|Tatyana Karimova}}<small>(1967–2016)</small>
| 子女 = [[グリナラ・カリモヴァ]]<br/>[[ローラ・カリモヴァ]]
| 子女 = [[グリナラ・カリモヴァ]]<br/>[[ローラ・カリモヴァ]]
| 政党 = [[ウズベキスタン共産党]]→)<br />[[ウズベキスタン人民民主党]]→)<br />[[ウズベキスタン自由民主党]]
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| サイン = Автограф Ислама Каримова.jpg
| サイン = Автограф Ислама Каримова.jpg
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'''イスラム・アブドゥガニエヴィチ・カリモフ'''({{lang-uz|'''Islom Abdug‘aniyevich Karimov'''}}、{{lang-en|'''Islam Abduganievich Karimov'''}}、[[1938年]][[1月30日]] - [[2016年]][[9月2日]])は、[[ウズベキスタン]]の政治家。1991の独立以来25年にたっ同国の初代[[ウズベキスタンの大統領|大統領]]を務めた。[[ウズベキスタン自由民主党]]党首
'''イスラム・アブドゥガニエヴィチ・カリモフ'''({{lang-uz|Islom Abdug‘aniyevich Karimov / Ислом Абдуғаниевич Каримов}}、{{lang-en|Islam Abduganievich Karimov}}、[[1938年]][[1月30日]] [[2016年]][[9月2日]])は、[[ソビエト連邦]]、[[ウズベキスタン]]の政治家である1964[[ソビエト連邦共産党]]に入党。[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]国家計画委員会第1副議長財務相、副首相などを歴任し、19903月、新設された同共和国大統領就任し。同年7月[[ソ連共産党政治局]]局員、[[ソビエト連邦共産党中央委員会|中央委員]]となた。11月共和国首相(内閣議長)兼任。1991年11月[[ウズベキスタン人民民主党]]創設、党首となる。ウズベキスタン独立後の1991年12月、大統領直接選挙に当選し同国の初代[[ウズベキスタンの大統領|大統領]]となった。以後2016年に死去するまで、25年間にわたって同国の大統領を務めた。

政敵や言論への弾圧、不正選挙、人権問題や報道規制などの問題により欧米諸国からは[[独裁者]]として批判を受け、{{仮リンク|パレード (雑誌)|en|Parade (magazine)|label=パレード誌}}に「世界最悪の独裁者」の一人に選ばれていた<ref>{{Cite web |title=The World's Worst Dictators: Islam Karimov |url=https://parade.com/35641/parade/the-worlds-worst-dictators-islam-karimov/ |website=Parade|date=2008-02-04 |access-date=2022-10-20 |language=en}}</ref>。経済面では、カリモフ在任中のウズベキスタンは2004年以降7%以上の[[国内総生産|GDP]]成長率を記録しているが、これも子どもを含む強制労働によるものとする批判がある。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== ソ連時代 ===
[[1938年]]1月30日、[[サマルカンド]]に暮らす[[ウズベク|ウズベク人]]の父と[[タジク人]]の母との間に生まれる。[[1941年]]に孤児院に入れられ、翌[[1942年]]に家に戻るが、[[1945年]]に再び孤児院に入れられる。[[1955年]]に高校を卒業し、[[1960年]]に中央アジア工科大学(現在の{{仮リンク|タシケント国立工科大学|en|Tashkent State Technical University}})を卒業し、機械工学の学位を取得した<ref name="echo">{{cite news|title=Биография Ислама Каримова|url=http://m.echo.msk.ru/blogs/detail.php?ID=1828908|accessdate=2 September 2016|publisher=Echo Moscow|date=2 September 2016|language=ru}}</ref>。卒業後は水資源省にエンジニアとして入省し、[[1967年]]にタシュケント州立大学で経済学の修士号を取得した<ref name="echo"/>。
[[1938年]]1月30日、[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]の[[サマルカンド]]で生まれた<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=カリモフとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%A2%E3%83%95-169534 |website=[[コトバンク]] |access-date=2022-10-28 |language=ja}}</ref>。1941年、サマルカンドの孤児院に送られ、1942年に家に連れ帰られたが1945年に孤児院に送られた<ref name=":0">{{Cite web |title=Биография Ислама Каримова |url=http://m.echo.msk.ru/blogs/detail.php?ID=1828908 |website=[[モスクワのこだま|Echo of Moscow]] |date=2016-09-02 |access-date=2022-10-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160918022918/http://m.echo.msk.ru/blogs/detail.php?ID=1828908 |archive-date=2016-09-18}}</ref>。少年時代については模範的な学生だったという説と荒くれものであったという説の2つが存在する<ref>{{Cite web |title=Orphaned Dictator: The Making Of Uzbekistan's Islam Karimov |url=https://www.rferl.org/a/the-making-of-islam-karimov-uzbekistan/26917396.html |website=[[ラジオ・フリー・ヨーロッパ|RadioFreeEurope/RadioLiberty]] |access-date=2022-10-31 |language=en |date=2015-03-24}}</ref>。


1955年に高校を卒業。1960年に中央アジア工科大学(現・{{仮リンク|タシュケント国立工科大学|uz|Toshkent davlat texnika universiteti|en|Tashkent State Technical University}})を卒業し、機械工学の学位を取得。1961年から1966年まで、航空機製造企業や水資源省で技術者として勤務した。
[[1961年]]から[[1966年]]まで、V.P.チカロフ名称タシケント航空生産公団の技師。[[1964年]]、[[ウズベキスタン共産党]]に入党。1966年から[[1983年]]まで[[ゴスプラン]]の主任専門官、議長補佐官、課長、局長、副議長、第一副議長を歴任した<ref name="echo"/>。1983年からウズベク共和国の[[財務大臣]]、[[1986年]]から副首相兼ゴスプラン議長を歴任<ref name="echo"/>。1986年[[カシュカダリヤ州]]の共産党第一書記、[[1989年]]6月からウズベキスタン共産党中央委員会第一書記。[[1990年]]から[[1991年]]まで[[ソ連共産党]]中央委員会委員、[[ソ連共産党政治局|政治局員]]、第12期ソ連最高会議代議員を歴任した。


1967年に{{Ill2|タシケント国民経済大学|uz|Toshkent davlat iqtisodiyot universiteti|en|Tashkent State University of Economics}}タシュケント国民経済大学で経済学の修士号を取得した<ref name=":0" />。[[File:Henry Kissinger with former USSR leaders - WEF Annual Meeting 1992.jpg|thumb|250x250px|[[世界経済フォーラム]]年次総会でのカリモフ(右から2人目、1992年)]]
1990年3月24日、[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]大統領に就任<ref name="echo"/>。[[ソ連8月クーデター]]失敗後の[[1991年]]9月1日に[[ウズベキスタン]]の独立を宣言し、ウズベキスタン共産党を[[ウズベキスタン人民民主党]]に改称した。[[ソ連崩壊]]後の12月29日にウズベキスタン大統領選挙で当選。[[1995年]]3月26日、[[国民投票]]の結果、任期を[[2000年]]まで延長。
=== 政治家として ===
1964年、[[ソビエト連邦共産党]]下部組織[[ウズベキスタン共産党]]に入党。1966年から1983年にかけて、[[ゴスプラン]]の主任専門官、議長補佐官、課長、局長、副議長、第一副議長を歴任した。


1983年、ウズベク共和国の[[財務大臣]]に就任。1986年からは副首相兼ゴスプラン議長を務めた。[[カシュカダリヤ州]]の共産党第一書記を経て、1989年6月にウズベキスタン共産党中央委員会第一書記に就任した。
1996年、[[シベリア抑留]]を受けた日本人捕虜たちが首都[[タシュケント]]に建造した[[ナヴォイ劇場]]に、その功績を称えるプレートを掲げた。


1990年から1991年まで[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]][[ソビエト連邦共産党中央委員会|中央委員会委員]]、[[ソ連共産党政治局|政治局員]]、[[ソビエト連邦最高会議]]代議員を務めた<ref name=":0" />。[[File:Vladimir Putin 4 May 2001-4.jpg|thumb|250x250px|プーチンと会談するカリモフ(2001年)]]
2000年[[1月9日]]に3選。
=== ウズベキスタン大統領 ===
1990年3月24日、[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]の初代大統領に選出された<ref name=":0" />。


1991年3月に行われた{{Ill2|連邦制維持の賛否を問う国民投票|ru|Всесоюзный референдум о сохранении СССР|en|1991 Soviet Union referendum}}に際してはソ連への連帯を呼びかけ、95%の投票率で70%以上が連邦制に賛成した<ref name=":0" />。この投票結果に基づく[[新連邦条約]]の調印を控えた8月19日、[[モスクワ]]で[[ソ連8月クーデター|クーデター]]が発生。これは失敗に終わったが、結果的に新連邦条約は実現せず[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連の崩壊]]を招くこととなった。カリモフ自身は、ペレストロイカの行き詰まりとゴルバチョフ自身の指導力の無さを批判し、クーデターに対する支持を表明していた。
[[2005年]][[5月13日]]、ウズベキスタン東部の[[アンディジャン]]での反政府デモを国家保安庁の力で抑えた([[アンディジャン事件]])。死亡者数は公式には170名程度、非公式情報で500名程度と言われる。


1991年8月31日に共和国独立宣言を行い、国名を「[[ウズベキスタン]]共和国」に変更した<ref>{{Cite web|和書|title=ウズベキスタン基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uzbekistan/data.html#section1 |website=[[外務省|Ministry of Foreign Affairs of Japan]] |access-date=2022-10-29 |language=ja}}</ref>。自身の率いるウズベキスタン共産党は[[ウズベキスタン人民民主党]]に改称した。12月29日、{{Ill2|1991年ウズベキスタン大統領選挙|uz|Oʻzbekiston prezidentlik saylovlari (1991)|en|1991 Uzbek presidential election|label=ウズベキスタン大統領選挙}}で当選し初代大統領となった<ref name=":0" />。[[File:CSTO Meeting 2010.jpeg|thumb|250x250px|[[集団安全保障条約|CSTO]]加盟国首脳会議でのカリモフ(右から2人目、2010年)]][[File:Secretary Kerry Shakes Hands With President Karimov at Samarkand International Airport in Uzbekistan (22660492822).jpg|thumb|サマルカンドを訪問した[[ジョン・フォーブズ・ケリー|ジョン・ケリー]]を出迎えるカリモフ(2015年)|250x250ピクセル]]
[[1994年]]5月、[[2002年]]7月、[[2011年]]2月に来日している。


=== 専制政治への移行 ===
米軍が駐留していたが、市民運動が革命に繋がらずに失敗、その結果アメリカはカリモフの怒りを買い、(アフガン作戦が一段落したこともあるが)同国から米軍を撤収させることとなった。


==== 不公正な選挙 ====
[[2007年]]から2012年まで毎年8%以上の[[国内総生産|GDP]]成長率を達成するなど、経済専門家らしく経済運営において優れた面を見せている<ref>{{cite web|url=http://data.worldbank.org/indicator/NY.GDP.MKTP.KD.ZG|title=GDP growth (annual %)|publisher=The World Bank|accessdate=2012-02-17}}</ref>。
{{Ill2|1995年ウズベキスタン国民投票|uz|Oʻzbekiston prezidentining vakolatlari muddati boʻyicha referendum (1995)|en|1995 Uzbek presidential term referendum|label=1995年の国民投票}}で大統領の任期が2000年まで延長された。{{Ill2|2000年ウズベキスタン大統領選挙|uz|Oʻzbekiston prezidentlik saylovlari (2000)|en|2000 Uzbek presidential election|label=2000年の大統領選}}で90%以上の支持を得て再選<ref>{{Cite book|title=The Statesman's Yearbook 2003: The Politics, Cultures and Economies of the World|url=https://books.google.co.jp/books?id=7XXQDQAAQBAJ&pg=PA1952|publisher=Springer|date=2016-12-30|isbn=978-0-230-27131-9|language=en|first=Barry|last=Turner}}</ref>。選挙では白票や棄権票が「カリモフに投票した」と見なされるなど公正さに疑問があり、[[アメリカ合衆国]]からは「真の自由で公正な選挙とは言えず、ウズベク国民には選択肢が与えられていなかった」と批判を受けた<ref>{{Cite web |title=Turkistan Newsletter - Turkistan Bulteni - |url=http://www.eurasianet.org/departments/election/uzbekistan/bbu260100.htm |website=[[ユーラシアネット|Eurasianet]] |date=2000-01-13 |access-date=2022-10-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20081015145324/http://www.eurasianet.org/departments/election/uzbekistan/bbu260100.htm |archive-date=2008-10-15}}</ref>。{{Ill2|2002年ウズベキスタン国民投票|uz|Oʻzbekiston Konstitutsiyaviy referendumi (2002)|en|2002 Uzbek constitutional referendum|label=2002年の国民投票}}で任期が2007年まで延長された<ref name=":2" />。


2007年11月6日、[[ウズベキスタン自由民主党]]の公認を得て大統領選挙への出馬を表明。選挙管理委員会からの承認を得たが、対立候補は「憲法に規定されている3選禁止を無視している」と批判した<ref>{{Cite web |title=Islam Karimov agreed to remain the president another seven years |url=http://enews.ferghana.ru/article.php?id=2216 |website=Ferghana.Ru |date= |access-date=2022-10-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20071111054535/http://enews.ferghana.ru/article.php?id=2216 |archive-date=2007-11-11}}</ref><ref>{{Cite web |title=Uzbek Election Watchdog Clears Karimov For Third Term |url=https://www.rferl.org/a/1079156.html |website=[[ラジオ・フリー・ヨーロッパ|RadioFreeEurope/RadioLiberty]] |access-date=2022-10-20 |language=en |date=2007-11-19}}</ref><ref>{{Cite web |title=Official Nod To Karimov Uzbek Presidential Bid Draws Fire |url=https://www.rferl.org/a/1079167.html |website=RadioFreeEurope/RadioLiberty |access-date=2022-10-20 |language=en |date=2007-11-21}}</ref>。{{Ill2|2007年ウズベキスタン大統領選挙|uz|Oʻzbekiston prezidentlik saylovlari (2007)|en|2007 Uzbek presidential election|label=2007年の大統領選}}では90%の得票で3選を果たした<ref>{{Cite web |title=Uzbek Incumbent Wins Poll Without 'Genuine Choice' |url=https://www.rferl.org/a/1079295.html |website=RadioFreeEurope/RadioLiberty |access-date=2022-10-30 |language=en |date=2007-12-24}}</ref>。選挙結果は[[独立国家共同体]](CIS)加盟国からは歓迎されたが、欧米諸国からは「政治的な茶番であり、真の選択肢が与えられていない」として批判を受けた<ref>{{Cite web |title=Uzbek Leader’s Re-Election Dismissed as Charade |url=http://www.iwpr.net/?p=rca&s=f&o=341689&apc_state=henh |website=Institute for War & Peace Reporting |date=2007-12-28 |access-date=2022-10-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090314003237/http://www.iwpr.net/?p=rca&s=f&o=341689&apc_state=henh |archive-date=2009-03-14}}</ref>。
[[2016年]]8月27日、カリモフが脳出血のため集中治療室で治療を受けていることを次女の[[ローラ・カリモヴァ]]が明らかにした<ref>{{cite web|url=http://this.kiji.is/142979730287132673|title=ウズベク大統領「脳出血」ICUで治療と次女||publisher=共同通信社|accessdate=2016-8-29}}</ref>。その後、カリモフが8月29日に死亡したとの未確認情報が地元メディアなどに報じられ錯綜したが<ref>{{Cite news|url=https://www.theguardian.com/world/2016/aug/30/rumours-uzbek-president-islam-karimov-death-questions-succession|title=Rumours of Uzbek president's death raise questions over succession|work=The Guardian|publisher=[[ガーディアン]]|date=2016-08-30|accessdate=2016-09-02}}</ref>、9月2日に脳出血のため死去したとの報道が、ウズベキスタン政府による公式な確認を得られないまま駆け巡った<ref>{{Cite news|url=http://jp.reuters.com/article/uzbekistan-president-idJPKCN1180ZN|title=カリモフ・ウズベク大統領が死去=外交筋|work=ロイター|publisher=[[ロイター]]|date=2016-09-02|accessdate=2016-09-02}}</ref>。ウズベキスタン政府は2日の日中の段階では「重体」であるとしていたが、同日20時55分(日本時間3日0時55分)にカリモフが死去したことを、国営テレビを介して公式に発表した<ref>{{Cite news|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3099630|title=カリモフ大統領死去、ウズベク政府が正式発表
|work=AFP通信|publisher=[[AFP通信]]|date=2016-09-03|accessdate=2016-09-03}}</ref>。満78歳没。


{{Ill2|2015年の大統領選|en|2015 Uzbek presidential election|label=2015年の大統領選}}で90.39%の得票を得て4選された<ref>{{cite web |url=https://www.theglobeandmail.com/news/world/uzbek-leader-karimov-wins-presidential-election-by-landslide/article23681588/ |title=Uzbek leader Karimov wins presidential election by landslide |date=30 March 2015 |accessdate=2022-10-10 |website=[[グローブ・アンド・メール|The Globe and Mail]]}}</ref>。旧ソ連構成国や中国から派遣された選挙監視団は公正な選挙として評価したが、欧米諸国からは不正な選挙として批判を受けた<ref>{{cite web |url=http://www.theguardian.com/world/2015/mar/30/islam-karimov-re-elected-uzbekistans-president-in-predicted-landslide |title=Islam Karimov re-elected Uzbekistan's president in predicted landslide |work=[[ガーディアン|The Guardian]] |date=2015-03-30 |accessdate=2022-10-10}}</ref>。

==== 政敵、言論の弾圧 ====
政権掌握の当初から、敵対者の逮捕、拷問、投獄などの政治弾圧を行った。当局は政治的な動機で数千人を拘束し、刑務所や警察署における拷問が日常的に行われた。野党{{Ill2|ビルリク党|uz|Birlik (partiya, O‘zbekiston)|en|Unity (Uzbekistan)|label=}}、{{Ill2|エルク党|uz|Erk demokratik partiyasi|en|Erk Democratic Party|label=}}、[[公正社会民主党]]などの主要メンバーが標的となり、国外退去を余儀なくされる者もあった。これらの極端な圧力によって野党の政治活動はほとんど崩壊した<ref name=":3">{{Cite web |title=Uzbekistan: Authoritarian President Karimov Reported Dead |url=https://www.hrw.org/news/2016/09/02/uzbekistan-authoritarian-president-karimov-reported-dead |website=[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ|Human Rights Watch]] |date=2016-09-02 |access-date=2022-10-30 |language=en}}</ref>。

2005年5月13日、[[アンディジャン]]での反政府デモに対し、軍による鎮圧を行いデモ参加者数百人を射殺した([[アンディジャン事件]])<ref>{{Cite web|和書|title=アンディジャン事件とは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6-181075 |website=コトバンク |access-date=2022-10-30 |language=ja}}</ref>。その鎮圧方法をめぐり、アメリカはカリモフ政権を非難した<ref name="ANDIJAN">{{cite web |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4731411.stm |title=US asked to leave Uzbek air base |accessdate=2018-02-21 |website=[[BBCニュース|BBC News]] |date=2005-07-30}}</ref>。

==== 宗教弾圧と対テロ政策 ====
宗教に対しても強いスタンスで対峙した。独立系イスラム教に対し規制を強化した。1998年、過激派を防ぐという名目で宗教を制限する法律を採択しモスクを事実上の国家支配下に置いた<ref name=":3" /><ref>{{Cite web |title=Preliminary findings of Country Visit to Republic of Uzbekistan by the Special Rapporteur on freedom of religion or belief |url=https://www.ohchr.org/en/statements/2017/10/preliminary-findings-country-visit-republic-uzbekistan-special-rapporteur |website=[[国際連合人権高等弁務官事務所|OHCHR]] |access-date=2022-10-31 |language=en}}</ref>。

1999年2月16日、タシュケントで{{Ill2|タシュケント爆破事件|uz|1999-yil 16-fevraldagi Toshkent portlashlari|en|1999 Tashkent bombings|label=爆破事件}}が発生<ref>{{Cite web |title=Uzbekistan: Bombs Kill Nine In Assassination Attempt |url=https://www.rferl.org/a/1090569.html |website=RadioFreeEurope/RadioLiberty |access-date=2022-10-30 |language=en |date=1999-02-16}}</ref>。政府はこれをカリモフ暗殺の試みとみなし、[[ウズベキスタン・イスラム運動]](IMU)の仕業だと非難し、大規模な一斉捜査や投獄を行った<ref name="IMUBOMBINGS">{{cite web |url=https://yaleglobal.yale.edu/content/bombings-and-shootings-rock-uzbekistan |title=Bombings and Shootings Rock Uzbekistan |date=2004-03-30 |accessdate=2018-02-21 |publisher=Yale Global Online |archive-url=https://web.archive.org/web/20160305005518/https://yaleglobal.yale.edu/content/bombings-and-shootings-rock-uzbekistan |archive-date=2016-03-05}}</ref>。ステートメディアによる反IMUプロパガンダも行われた<ref name=":1">{{Cite web |title=Uzbek Court Sentences Opposition in Absentia |url=https://www.hrw.org/news/2000/11/16/uzbek-court-sentences-opposition-absentia |website=[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ|Human Rights Watch]] |date=2000-11-16 |access-date=2022-10-20 |language=en}}</ref>。しかし明確な証拠が出てこず、単にウズベキスタン国民の権利が損なわれただけに終わった<ref name="IMUBOMBINGS" />。

2001年9月11日の[[アメリカ同時多発テロ事件]]以降、「テロとの戦い」という文脈で、イスラム原理主義や過激派の脅威を排除するために数千人のイスラム教徒と、独立系の宗教指導者を恣意的に投獄した<ref name=":3" />。熱湯を浴びせられて殺害された例も報告された<ref>{{Cite web |title=Uzbekistan: Two Brutal Deaths in Custody |url=http://www.hrw.org/news/2002/08/09/uzbekistan-two-brutal-deaths-custody |website=Human Rights Watch |date=2002-08-09 |access-date=2022-10-30 |language=en}}</ref>。一方で、ウズベキスタンは[[対テロ戦争]]におけるアメリカの戦略的同盟国とみなされるようになり、同年10月より始まった[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン紛争]]においては800人のアメリカ軍を国内に受け入れサポートした<ref name="INVASION">{{Cite web |title=Khanabad |url=https://www.globalsecurity.org/military/facility/khanabad.htm |website=GlobalSecurity.org |access-date=2022-10-20}}</ref>。

同年6月には[[中華人民共和国|中国]]とロシアが主導する[[上海協力機構]]の原加盟国となり、テロ対策を担う地域対テロ機構(RATS)の本部がタシュケントに置かれた<ref>{{Cite web |title=Eurasia: Uphold Human Rights in Combating Terrorism |url=https://www.hrw.org/news/2006/06/14/eurasia-uphold-human-rights-combating-terrorism |website=Human Rights Watch |date=2006-06-14 |access-date=2022-10-30 |language=en}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.sectsco.org/fk-03.html |title=Information on Regional Anti-Terrorist Structure of Shanghai Cooperation Organisation |publisher=[[上海協力機構|Shanghai Cooperation Organisation]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20081211154326/http://www.sectsco.org/fk-03.html |archive-date=11 December 2008 |accessdate=2021-08-26}}</ref>。カリモフ政権とアメリカの蜜月は中露から懸念された<ref name="ANDIJAN" />。

2004年にもタシュケントで自殺爆弾攻撃があり、カリモフはIMUあるいは[[ヒズブ・タフリール|ヒズブ・タハリール]]による犯行と非難した<ref name="IMUBOMBINGS" />。国営の若者向けラジオニュースでは、「邪悪なヒズブ・タハリールがわが国に入り込んで以来、若者を洗脳し、さまざまな手段で政権を奪取しようと陰謀をたくらんでいる」という報道もされた<ref name="IMUBOMBINGS" />。

2005年7月、アメリカ軍はにウズベキスタンから撤収するも<ref>{{cite web |url=https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/07/29/AR2005072902038.html |title=U.S. Evicted From Air Base In Uzbekistan |date=2005-07-30 |accessdate=2022-10-21 |website=[[ワシントン・ポスト|Washington Post]]}}</ref>、2012年6月にはカリモフ政権は[[集団安全保障条約機構]](CSTO)から脱退してロシアからの独立も保つ動きも行った<ref>{{cite web |url=http://rt.com/politics/uzbekistan-quits-pro-russian-bloc-996/ |title=Uzbekistan quits Russia-led CSTO military bloc |date=2012-06-28 |accessdate=2022-10-20 |website=[[ロシア・トゥデイ|RT]]}}</ref>。

==== 人権問題と報道規制 ====
カリモフは、国際社会から長年にわたり人権や報道規制について批判を受けていた<ref name="US Department of State 25 February 2004">{{cite web |url=http://www.state.gov/j/drl/rls/hrrpt/2003/27873.htm |title=Uzbekistan: Country Reports on Human Rights Practices |author= |date=25 February 2004 |website=Bureau of Democracy, Human Rights, and Labor |publisher=[[アメリカ合衆国国務省|United States Department of State]] |accessdate=2 September 2016}}</ref><ref>{{Cite web |title=Torture, an iron fist and twisted logic set stage for Islam Karimov's landslide victory |url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/asia/article3080265.ece |website=Times Online |date=2007-12-21 |access-date=2022-10-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080724150053/http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/asia/article3080265.ece |archive-date=2008-07-24 |author=Tony Halpin |publisher=[[タイムズ|The Times]]}}</ref>。駐ウズベキスタン英国大使を務めた{{仮リンク|クレイグ・マレー|en|Craig Murray}}は、カリモフ政権下の腐敗・宗教弾圧・検閲・拷問・殺害・誘拐などの問題を批判しており、大使退任後にはカリモフ政権の人権問題やアメリカとの関係を記した回顧録を出版している<ref name=":4">{{Cite book|title=Dirty Diplomacy : the Rough-and-Tumble Adventures of a Scotch-Drinking, Skirt-Chasing, Dictator-Busting and Thoroughly Unrepentant Ambassador Stuck on the Frontline of the War Against Terror.|url=https://www.worldcat.org/oclc/1085160589|publisher=Scribner|date=2011|location=New York|isbn=978-1-4165-6986-2|oclc=1085160589|first=Craig|last=Murray}}</ref>。また、[[国際連合]]もカリモフ政権で拷問が行われていることを報告している<ref name=":5">{{Cite web |url=https://digitallibrary.un.org/record/491287 |title=Civil and political rights, including the questions of torture and detention |access-date=2022-10-10 |author=International Rehabilitation Council for Torture Victims |date=2003-02-28 |website=United Nations Digital Library}}</ref><ref name=":6">{{Cite web |title=CIVIL AND POLITICAL RIGHTS, INCLUDING THE QUESTIONS OF TORTURE AND DETENTION |url=http://193.194.138.190/Huridocda/Huridoca.nsf/0/29d0f1eaf87cf3eac1256ce9005a0170?Opendocument |website=[[国際連合人権高等弁務官事務所|Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights]] |date= |access-date=2022-10-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070928012154/http://193.194.138.190/Huridocda/Huridoca.nsf/0/29d0f1eaf87cf3eac1256ce9005a0170?Opendocument |archive-date=2007-09-28}}</ref>。

2004年から2015年にかけて。カリモフ政権下にウズベキスタンは成長率7%を超える安定した経済成長を見せた一方<ref>{{Cite web|和書|title=第13回参議院政府開発援助(ODA)調査派遣報告書 第4章 ウズベキスタン共和国班報告 II.ウズベキスタン共和国における調査 |url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/kokusai_kankei/oda_chousa/h28/h28oda-houkoku.html |website=[[参議院]] |access-date=2022-10-31}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.adb.org/sites/default/files/publication/605746/uzbekistan-job-creation-economic-growth.pdf |title=Uzbekistan Quality Job Creation as a Cornerstone for Sustainable Economic Growth |access-date=2022-10-10 |author=[[アジア開発銀行|Asian Development Bank]] |year=2020 |month=05}}</ref>、子どもを含む数百万人の国民が、国の主要作物である[[木綿|綿花]]収穫の強制労働を強いられており、国際的に批判を受けていた<ref>{{Cite web |title=For Clues on a Post-Karimov Uzbekistan, Look to the Cotton Harvest |url=https://freedomhouse.org/article/clues-post-karimov-uzbekistan-look-cotton-harvest |website=[[フリーダム・ハウス|Freedom House]] |access-date=2022-10-30 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=UN Urges End To Uzbek Abuses |url=https://www.rferl.org/a/uzbekistan-un-forced-labor-torture-karimov-ban-ki-moon/27069968.html |website=RadioFreeEurope/RadioLiberty |access-date=2022-10-30 |language=en |date=2015-06-13}}</ref>。

[[ウズベキスタン共和国憲法|ウズベキスタン憲法]]では、[[検閲]]の禁止や[[報道の自由]]が明記されている。しかしカリモフ政権は「説明責任」を理由に報道・出版を規制し、検閲官を配置して政権の宣伝を実施していた。報道される政府批判は全て検閲された。1990年代には外国メディアを許容する姿勢を示していたが、[[ロシア]]の放送局が減少したことに併せて欧米の放送局も次々に撤退し、以降十数年に渡り海外の出版物の出版を制限していた<ref name=":7">{{Cite web |title=Violations of Media Freedom: Journalism and Censorship in Uzbekistan |url=http://www.unhcr.org/refworld/docid/3ae6a7d10.html |website=[[国連難民高等弁務官事務所|UNHCR]] |date= |access-date=2022-10-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110811090251/http://www.unhcr.org/refworld/docid/3ae6a7d10.html |archive-date=2011-08-11}}</ref>。また、「政権に対して不実である」という理由で野党の出版物も規制していた<ref name=":8">Bohr, p. 15.</ref>。{{Multiple image
|direction = vertical
|width = 250
|image1 = Похороны Ислама Каримова.jpg
|caption1 = カリモフの葬列に集まるタシュケント市民(2016年)
|image2 = Vladimir Putin in Uzbekistan (2016-09-06) 04.jpg
|caption2 = カリモフの墓を訪れるプーチンと[[シャフカト・ミルジヨエフ]](2016年)
|image3 = Visit of the Minister of Defense of the Russian Federation 02.jpg
|caption3 = カリモフ廟(2018年)
}}

=== 健康問題と死 ===
カリモフの健康問題は政府によって厳重に報道規制が敷かれており、2013年3月に[[心臓発作]]を起こしたと報道された際には「事実無根」であると発表していた<ref>{{cite news|last1=Abdurasulov|first1=Abdujalil|title=Uzbekistan opens up on president's health|url=http://www.bbc.com/news/world-asia-37212624|accessdate=2022-09-01|publisher=|date=29 August 2016|newspaper=[[BBCニュース|BBC News]]}}</ref><ref>{{cite news|last1=Kramer|first1=Andrew E.|title=Rumors About Uzbekistan Leader’s Health Set Off Succession Debate|url=http://www.nytimes.com/2013/04/07/world/asia/rumors-set-off-succession-debate-in-uzbekistan.html|accessdate=1 September 2022|work=|date=6 April 2013|newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]]}}</ref><ref>{{cite news|title=Daughter of Uzbek leader tweets to deny health reports|url=http://www.reuters.com/article/us-uzbekistan-karimov-idUSBRE92P0NP20130326|accessdate=1 September 2022|agency=|date=26 March 2013|newspaper=[[ロイター|Reuters]]}}</ref>。

2016年8月27日、カリモフが[[脳出血]]のため[[集中治療室]]で治療を受けていることを次女の[[ローラ・カリモヴァ]]が明らかにした<ref>{{Cite web|和書|title=ウズベク大統領「脳出血」/ICUで治療と次女 |url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/international/20160829000594 |website=[[四国新聞社]] |access-date=2022-10-20 |date=2016-08-29}}</ref>。カリモフは一時[[心停止]]状態に陥ったが、20分後に回復し、[[人工呼吸器]]を装着された<ref name="govreport">{{cite web |title=Медицинское заключение о болезни и причине смерти Ислама Абдуганиевича Каримова |url=https://www.gov.uz/ru/news/view/7168 |accessdate=3 September 2022 |language=ru |website=Правительственный портал Республики Узбекистан |date=2016-09-02}}</ref>。公式の医療報告書によると、ウズベキスタン政府は27日から28日にかけてモナコ心胸郭センター所長、[[ヘルシンキ大学]]神経外科名誉教授、ハノーファー国際神経科学研究所長、ハイデルベルク大学病院教授、モスクワ州立医科大学心臓血管外科部長にカリモフの病状について相談している<ref name="govreport" />。

その後、カリモフが8月29日に死亡したとの未確認情報が地元メディアなどで報じられ、9月1日の独立25周年のテレビ放送では政府報道官がカリモフの演説を代読し、ローラが国民に回復を祈るように懇願した<ref>{{Cite news|url=https://www.theguardian.com/world/2016/aug/30/rumours-uzbek-president-islam-karimov-death-questions-succession|title=Rumours of Uzbek president's death raise questions over succession|work=|publisher=|date=2016-08-30|accessdate=2022-09-02|newspaper=[[ガーディアン|The Guardian]]}}</ref><ref name="bbc192016">{{cite news|title=Uzbek President Islam Karimov's independence day speech read out on TV|url=http://www.bbc.com/news/world-asia-37239677|accessdate=1 September 2022|publisher=|date=1 September 2016|newspaper=BBC News}}</ref>。9月2日、脳出血のため死去したとの報道が、ウズベキスタン政府による公式な確認を得られないまま駆け巡った<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/uzbekistan-president-idJPKCN1180ZN/|title=カリモフ・ウズベク大統領が死去=外交筋|work=|publisher=|date=2016-09-02|accessdate=2022-09-02|newspaper=[[ロイター]]}}</ref>。ウズベキスタン政府は2日の日中の段階では「重体」であるとしていたが、同日20時55分(日本時間3日0時55分)にカリモフが死去したことを国営テレビを介して公式に発表した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3099630|title=カリモフ大統領死去、ウズベク政府が正式発表|work=|publisher=|date=2016-09-03|accessdate=2016-09-03|newspaper=[[フランス通信社|AFP]]}}</ref>。享年78。死去の報に接し、[[バラク・オバマ]]、[[ウラジーミル・プーチン]]、[[習近平]]ら各国首脳が哀悼の意を表した。[[イルハム・アリエフ]]、[[ライモンツ・ヴェーヨニス]]、[[ナワーズ・シャリーフ]]、[[李克強]]はウズベキスタン大使館を訪れ記帳した<ref>{{Cite web |title=Ilham Aliyev visited Embassy of Uzbekistan |url=http://www.uzdaily.uz/en/post/36817 |website=UzDaily |access-date=2022-10-20 |date=2016-09-06}}</ref><ref>{{Cite web |title=Latvian President visits Embassy of Uzbekistan |url=http://www.uzdaily.uz/en/post/36819 |website=UzDaily |access-date=2022-10-20 |date=2016-09-06}}</ref><ref>{{Cite web |title=PM signs condolence book on demise of President Islam Karimov |url=http://www.samaaenglish.tv/news/906736 |website=Samaa |date=2016-09-05 |access-date=2022-10-20 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=Premier Li mourns death of Uzbek president |url=http://english.www.gov.cn/premier/photos/2016/09/04/content_281475433108068.htm |website=[[中華人民共和国国務院|The State Council of the People’s Republic of China]] |access-date=2022-10-20 |date=2016-09-04}}</ref>。

カリモフの葬儀は9月3日に執り行われた。死没地のタシュケントでは数千人の市民が集まり葬列に花を手向けたが、遺体は死去の公式発表前にタシュケントからサマルカンドに移送されていた<ref>{{cite news|title=Uzbekistan Mourns Karimov|url=http://www.voanews.com/a/uzbekistan-karimov/3490984.html|accessdate=2022-09-09|publisher=|date=2016-09-03|newspaper=[[ボイス・オブ・アメリカ|Voice of America]]}}</ref>。葬儀はサマルカンドの[[レギスタン広場]]で執り行われ、[[シャーヒ・ズィンダ廟群]]にある母と兄弟の墓の隣に埋葬された<ref name="afp1694">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3099710 |title=「最も残酷な独裁者の一人」カリモフ大統領、埋葬される ウズベク |publisher=[[フランス通信社|AFP]] |date=2016-09-04 |accessdate=2016-09-04}}</ref>。葬儀には[[ドミートリー・メドヴェージェフ]]、[[アシュラフ・ガニー]]、[[グルバングル・ベルディムハメドフ]]、[[エモマリ・ラフモン]]、[[カリム・マシモフ]]、[[ソーロンバイ・ジェーンベコフ]]、[[モハンマド・ジャヴァード・ザリーフ]]ら17か国の代表が参列した<ref name="afp1694" /><ref>{{cite news|title=Strongman Uzbek leader Karimov buried|url=https://www.arabnews.com/node/979446/world|accessdate=2022-10-10|publisher=|date=2016-09-03|newspaper=Arab News}}</ref><ref>{{Cite web |title=Uzbeks Bury Strongman Karimov |url=https://www.rferl.org/a/thousands-line-tashkent-streets-for-karimov-funeral/27964688.html |website=[[ラジオ・フリー・ヨーロッパ|RadioFreeEurope/RadioLiberty]] |access-date=2022-10-20 |language=en |date=2016-09-03}}</ref><ref>{{cite news|title=Zarif attends Islam Karimov funeral|url=http://www.tehrantimes.com/news/406049/Zarif-attends-Islam-Karimov-funeral|accessdate=2022-10-10|work=|date=2016-09-03|newspaper=[[テヘラン・タイムズ|Tehran Times]]}}</ref>。また、9月5日には[[キューバ]]がカリモフの死去について服喪することを決定した<ref>{{cite web |url=https://www.uzdaily.com/articles-id-36808.htm |title=Cuba declares mourning over death of Islam Karimov |accessdate=2022-09-10 |website=UzDaily |date=2016-09-05}}</ref>他、6日にはプーチンが弔問のためウズベキスタンを訪れ、遺族と会談して哀悼の意を表した<ref>{{cite web |url=http://kremlin.ru/events/president/news/52838 |title=Визит в Узбекистан |accessdate=2016-09-10 |date=2016-09-06 |website=kremlin.ru}}</ref>。

[[File:Plate at Navoi opera 2023.jpg|thumb|250px|[[ナヴォイ劇場]]の記念プレート。カリモフの命令に基づき、「日本人捕虜」ではなく、「日本国民」と記されている。]]
== 人物 ==
== 人物 ==
[[親日家]]として知られ、[[経済企画庁]][[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)#歴代大臣|長官]]だった[[麻生太郎]]が1997年に日本の閣僚として初めて面談した際、子供の頃、毎週末毎に母親に手を引かれ日本人捕虜収容所へ連れて行かれた時のことを「せがれ、ご覧、あの日本人の兵隊さんを。ロシアの兵隊が見ていなくても働く。他人が見なくても働く。お前も大きくなったら、必ず他人が見なくても働くような人間になれ。お蔭で母親の言いつけを守って、今日俺は大統領になれた」と語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=118315261X01620130513&page=1&spkNum=0&current=-1 |title=第183回国会 参議院予算委員会会議録 第16号 |publisher=[[参議院]] |format=PDF |date=2013-05-13 |accessdate=2017-09-14}}</ref>。
[[サマルカンド]]出身。妻帯、2女([[グリナラ・カリモヴァ|グリナラ]]、[[ローラ・カリモヴァ|ローラ]])と3人の孫を有する。妻のタチヤーナは[[経済学者]]で、共和国科学アカデミー経済研究所科学職員である。


日本人抑留兵が建設した[[ナヴォイ劇場]]は1966年4月26日の[[タシュケント地震]]でもビクともせず、1996年に日本人抑留兵の功績を称えてウズベク語、日本語、英語で書かれた銘板を掲げ、日本人の功績を称えた。その際、「決して『捕虜』と書いてはいけない」と厳命したため、「極東から強制移送された数百名の日本国民」という表現になっている<ref>{{Cite book|和書|title= 日本人になりたいヨーロッパ人 ヨーロッパ27カ国から見た日本人|author= 片野優、須貝典子|year= 2014|page= 57-58|publisher=[[宝島社]]}}</ref>。
中央アジア工科大学(1960年、機械技師専攻)、タシケント人民経済大学([[1967年]]、経済学専攻)を卒業。経済科学準博士。[[ウズベキスタン科学アカデミー]]会員。


== 家族 ==
ウズベキストン・カフラマニ(ウズベキスタン英雄)の称号とオルティン・ユルドゥズ(金星)勲章を有する。
父は[[ウズベク人]]、母は[[タジク人]]とされているが、父は[[ユダヤ人]]という説もあり詳細は不明となっている。1964年にナターリア・ペトローヴナ・クチミと結婚し息子ピョートルをもうけるが、後に離婚している<ref>{{cite news|author1=Bruce Pannier|title=Orphaned Dictator: The Making Of Uzbekistan's Islam Karimov|url=http://www.rferl.org/content/the-making-of-islam-karimov-uzbekistan/26917396.html|accessdate=3 April 2015|work=[[Radio Free Europe/Radio Liberty]]|date=24 March 2015}}</ref>。1967年に経済学者・共和国科学アカデミー経済研究所科学職員の{{仮リンク|タチヤーナ・カリモヴァ|en|Tatyana Karimova|label=タチヤーナ・ソビロヴァ}}と結婚し、2女([[グリナラ・カリモヴァ|グリナラ]]、[[ローラ・カリモヴァ|ローラ]])と5人の孫を有する<ref>{{Cite web |title=Islam Karimov |url=https://www.nndb.com/people/811/000044679/ |website=www.nndb.com |access-date=2022-10-20}}</ref><ref>{{Cite web |title=President/ Biography |url=https://www.gov.uz/en/section.scm?sectionId=1746 |website=gov.uz |date= |access-date=2022-10-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070702131121/https://www.gov.uz/en/section.scm?sectionId=1746 |archive-date=2007-07-02}}</ref>。


長女グリナラは外交官・実業家として活動していたが、父と対立したため2014年2月以降は汚職の罪により自宅軟禁に置かれていた<ref>{{cite news|url=http://www.theguardian.com/world/2014/sep/08/uzbekistan-gulnara-karimova-faces-corruption-charges|title=Uzbekistan's autocratic ruler may have found a way to silence his daughter|date=8 September 2014|author=Joanna Lillis|newspaper=The Guardian|access-date=2022-10-10}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.theguardian.com/world/2015/mar/24/gulnara-uzbekistan-daughter-corruption|title=Uzbekistan's first daughter accused of pocketing $1bn in phone deals|date=24 March 2015|author=Joanna Lillis|newspaper=The Guardian|access-date=2022-10-10}}</ref>。2019年3月、軟禁の条件違反のため拘禁された<ref>{{Cite news|title=Gulnara Karimova: Uzbekistan ex-leader's daughter jailed|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-47468741|work=BBC News|date=2019-03-06|access-date=2022-10-29|language=en-GB}}</ref>。2020年3月、恐喝やマネーロンダリングなどの罪で有罪になり、さらに13年の懲役刑を受けた<ref>{{Cite web |title=Swiss To Return 'Illegal' Millions Of Late Uzbek Leader's Imprisoned Daughter |url=https://www.rferl.org/a/swiss-to-return-illegal-millions-uzbek-karimova/31991585.html |website=RadioFreeEurope/RadioLiberty |access-date=2022-10-29 |language=en |date=2022-08-16}}</ref>。
読書とテニスが趣味。


次女ローラも実業家であり、子供の権利やスポーツ振興に関する活動家として知られている<ref>{{Cite web |title=BIOGRAPHY OF LOLA KARIMOVA-TILLYAEVA |url=https://www.lolakarimova.com/biography/ |website=Lola Karimova |access-date=2022-10-20}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}


== 外部リンク ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
*[http://www.president.uz/ 大統領府公式サイト]{{uz icon}}{{ru icon}}{{en icon}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


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{{Succession box
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| title = {{UZB}}[[ウズベキスタンの大統領|大統領]]
| title = {{flagicon|UZB}} [[ウズベキスタンの大統領|ウズベキスタン大統領]]
| years = 初代:1991年 - 2016年
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2024年11月18日 (月) 16:08時点における最新版

イスラム・アブドゥガニエヴィチ・カリモフ
Islom Abdug‘aniyevich Karimov
Ислом Абдуғаниевич Каримов

2016年6月23日撮影

任期 1991年9月1日 – 2016年9月2日
副大統領 シュクルッラ・ミルサイドフ(1991–1992)
首相 アブドゥルハシム・ムタロフ(1992– 1995)
ウトキル・スルタノフ(1995–2003)
シャフカト・ミルジヨエフ(2003–2016)

任期 1990年3月24日 – 1991年9月1日
首相 シュクルッラ・ミルサイドフ

任期 1989年6月23日 – 1991年12月29日

出生 1938年1月30日
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ウズベク・ソビエト社会主義共和国
サマルカンド
死去 (2016-09-02) 2016年9月2日(78歳没)
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン タシュケント
政党
配偶者 ナターリア・ペトローヴナ・クチミ(1964–1960年代)
タチヤーナ・カリモヴァ英語版(1967–2016)
子女 グリナラ・カリモヴァ
ローラ・カリモヴァ
署名

イスラム・アブドゥガニエヴィチ・カリモフウズベク語: Islom Abdug‘aniyevich Karimov / Ислом Абдуғаниевич Каримов英語: Islam Abduganievich Karimov1938年1月30日2016年9月2日)は、ソビエト連邦ウズベキスタンの政治家である。1964年ソビエト連邦共産党に入党。ウズベク・ソビエト社会主義共和国国家計画委員会第1副議長、財務相、副首相などを歴任し、1990年3月、新設された同共和国大統領に就任した。同年7月ソ連共産党政治局局員、中央委員となった。11月共和国首相(内閣議長)兼任。1991年11月ウズベキスタン人民民主党創設、党首となる。ウズベキスタン独立後の1991年12月、大統領直接選挙に当選し同国の初代大統領となった。以後2016年に死去するまで、25年間にわたって同国の大統領を務めた。

政敵や言論への弾圧、不正選挙、人権問題や報道規制などの問題により欧米諸国からは独裁者として批判を受け、パレード誌英語版に「世界最悪の独裁者」の一人に選ばれていた[1]。経済面では、カリモフ在任中のウズベキスタンは2004年以降7%以上のGDP成長率を記録しているが、これも子どもを含む強制労働によるものとする批判がある。

経歴

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ソ連時代

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1938年1月30日、ウズベク・ソビエト社会主義共和国サマルカンドで生まれた[2]。1941年、サマルカンドの孤児院に送られ、1942年に家に連れ帰られたが1945年に孤児院に送られた[3]。少年時代については模範的な学生だったという説と荒くれものであったという説の2つが存在する[4]

1955年に高校を卒業。1960年に中央アジア工科大学(現・タシュケント国立工科大学ウズベク語版英語版)を卒業し、機械工学の学位を取得。1961年から1966年まで、航空機製造企業や水資源省で技術者として勤務した。

1967年にタシケント国民経済大学ウズベク語版英語版タシュケント国民経済大学で経済学の修士号を取得した[3]

世界経済フォーラム年次総会でのカリモフ(右から2人目、1992年)

政治家として

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1964年、ソビエト連邦共産党下部組織ウズベキスタン共産党に入党。1966年から1983年にかけて、ゴスプランの主任専門官、議長補佐官、課長、局長、副議長、第一副議長を歴任した。

1983年、ウズベク共和国の財務大臣に就任。1986年からは副首相兼ゴスプラン議長を務めた。カシュカダリヤ州の共産党第一書記を経て、1989年6月にウズベキスタン共産党中央委員会第一書記に就任した。

1990年から1991年までソ連共産党中央委員会委員政治局員ソビエト連邦最高会議代議員を務めた[3]

プーチンと会談するカリモフ(2001年)

ウズベキスタン大統領

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1990年3月24日、ウズベク・ソビエト社会主義共和国の初代大統領に選出された[3]

1991年3月に行われた連邦制維持の賛否を問う国民投票ロシア語版英語版に際してはソ連への連帯を呼びかけ、95%の投票率で70%以上が連邦制に賛成した[3]。この投票結果に基づく新連邦条約の調印を控えた8月19日、モスクワクーデターが発生。これは失敗に終わったが、結果的に新連邦条約は実現せずソ連の崩壊を招くこととなった。カリモフ自身は、ペレストロイカの行き詰まりとゴルバチョフ自身の指導力の無さを批判し、クーデターに対する支持を表明していた。

1991年8月31日に共和国独立宣言を行い、国名を「ウズベキスタン共和国」に変更した[5]。自身の率いるウズベキスタン共産党はウズベキスタン人民民主党に改称した。12月29日、ウズベキスタン大統領選挙ウズベク語版英語版で当選し初代大統領となった[3]

CSTO加盟国首脳会議でのカリモフ(右から2人目、2010年)
サマルカンドを訪問したジョン・ケリーを出迎えるカリモフ(2015年)

専制政治への移行

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不公正な選挙

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1995年の国民投票ウズベク語版英語版で大統領の任期が2000年まで延長された。2000年の大統領選ウズベク語版英語版で90%以上の支持を得て再選[6]。選挙では白票や棄権票が「カリモフに投票した」と見なされるなど公正さに疑問があり、アメリカ合衆国からは「真の自由で公正な選挙とは言えず、ウズベク国民には選択肢が与えられていなかった」と批判を受けた[7]2002年の国民投票ウズベク語版英語版で任期が2007年まで延長された[2]

2007年11月6日、ウズベキスタン自由民主党の公認を得て大統領選挙への出馬を表明。選挙管理委員会からの承認を得たが、対立候補は「憲法に規定されている3選禁止を無視している」と批判した[8][9][10]2007年の大統領選ウズベク語版英語版では90%の得票で3選を果たした[11]。選挙結果は独立国家共同体(CIS)加盟国からは歓迎されたが、欧米諸国からは「政治的な茶番であり、真の選択肢が与えられていない」として批判を受けた[12]

2015年の大統領選英語版で90.39%の得票を得て4選された[13]。旧ソ連構成国や中国から派遣された選挙監視団は公正な選挙として評価したが、欧米諸国からは不正な選挙として批判を受けた[14]

政敵、言論の弾圧

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政権掌握の当初から、敵対者の逮捕、拷問、投獄などの政治弾圧を行った。当局は政治的な動機で数千人を拘束し、刑務所や警察署における拷問が日常的に行われた。野党ビルリク党ウズベク語版英語版エルク党ウズベク語版英語版公正社会民主党などの主要メンバーが標的となり、国外退去を余儀なくされる者もあった。これらの極端な圧力によって野党の政治活動はほとんど崩壊した[15]

2005年5月13日、アンディジャンでの反政府デモに対し、軍による鎮圧を行いデモ参加者数百人を射殺した(アンディジャン事件[16]。その鎮圧方法をめぐり、アメリカはカリモフ政権を非難した[17]

宗教弾圧と対テロ政策

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宗教に対しても強いスタンスで対峙した。独立系イスラム教に対し規制を強化した。1998年、過激派を防ぐという名目で宗教を制限する法律を採択しモスクを事実上の国家支配下に置いた[15][18]

1999年2月16日、タシュケントで爆破事件ウズベク語版英語版が発生[19]。政府はこれをカリモフ暗殺の試みとみなし、ウズベキスタン・イスラム運動(IMU)の仕業だと非難し、大規模な一斉捜査や投獄を行った[20]。ステートメディアによる反IMUプロパガンダも行われた[21]。しかし明確な証拠が出てこず、単にウズベキスタン国民の権利が損なわれただけに終わった[20]

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降、「テロとの戦い」という文脈で、イスラム原理主義や過激派の脅威を排除するために数千人のイスラム教徒と、独立系の宗教指導者を恣意的に投獄した[15]。熱湯を浴びせられて殺害された例も報告された[22]。一方で、ウズベキスタンは対テロ戦争におけるアメリカの戦略的同盟国とみなされるようになり、同年10月より始まったアフガニスタン紛争においては800人のアメリカ軍を国内に受け入れサポートした[23]

同年6月には中国とロシアが主導する上海協力機構の原加盟国となり、テロ対策を担う地域対テロ機構(RATS)の本部がタシュケントに置かれた[24][25]。カリモフ政権とアメリカの蜜月は中露から懸念された[17]

2004年にもタシュケントで自殺爆弾攻撃があり、カリモフはIMUあるいはヒズブ・タハリールによる犯行と非難した[20]。国営の若者向けラジオニュースでは、「邪悪なヒズブ・タハリールがわが国に入り込んで以来、若者を洗脳し、さまざまな手段で政権を奪取しようと陰謀をたくらんでいる」という報道もされた[20]

2005年7月、アメリカ軍はにウズベキスタンから撤収するも[26]、2012年6月にはカリモフ政権は集団安全保障条約機構(CSTO)から脱退してロシアからの独立も保つ動きも行った[27]

人権問題と報道規制

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カリモフは、国際社会から長年にわたり人権や報道規制について批判を受けていた[28][29]。駐ウズベキスタン英国大使を務めたクレイグ・マレー英語版は、カリモフ政権下の腐敗・宗教弾圧・検閲・拷問・殺害・誘拐などの問題を批判しており、大使退任後にはカリモフ政権の人権問題やアメリカとの関係を記した回顧録を出版している[30]。また、国際連合もカリモフ政権で拷問が行われていることを報告している[31][32]

2004年から2015年にかけて。カリモフ政権下にウズベキスタンは成長率7%を超える安定した経済成長を見せた一方[33][34]、子どもを含む数百万人の国民が、国の主要作物である綿花収穫の強制労働を強いられており、国際的に批判を受けていた[35][36]

ウズベキスタン憲法では、検閲の禁止や報道の自由が明記されている。しかしカリモフ政権は「説明責任」を理由に報道・出版を規制し、検閲官を配置して政権の宣伝を実施していた。報道される政府批判は全て検閲された。1990年代には外国メディアを許容する姿勢を示していたが、ロシアの放送局が減少したことに併せて欧米の放送局も次々に撤退し、以降十数年に渡り海外の出版物の出版を制限していた[37]。また、「政権に対して不実である」という理由で野党の出版物も規制していた[38]

カリモフの葬列に集まるタシュケント市民(2016年)
カリモフの墓を訪れるプーチンとシャフカト・ミルジヨエフ(2016年)
カリモフ廟(2018年)

健康問題と死

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カリモフの健康問題は政府によって厳重に報道規制が敷かれており、2013年3月に心臓発作を起こしたと報道された際には「事実無根」であると発表していた[39][40][41]

2016年8月27日、カリモフが脳出血のため集中治療室で治療を受けていることを次女のローラ・カリモヴァが明らかにした[42]。カリモフは一時心停止状態に陥ったが、20分後に回復し、人工呼吸器を装着された[43]。公式の医療報告書によると、ウズベキスタン政府は27日から28日にかけてモナコ心胸郭センター所長、ヘルシンキ大学神経外科名誉教授、ハノーファー国際神経科学研究所長、ハイデルベルク大学病院教授、モスクワ州立医科大学心臓血管外科部長にカリモフの病状について相談している[43]

その後、カリモフが8月29日に死亡したとの未確認情報が地元メディアなどで報じられ、9月1日の独立25周年のテレビ放送では政府報道官がカリモフの演説を代読し、ローラが国民に回復を祈るように懇願した[44][45]。9月2日、脳出血のため死去したとの報道が、ウズベキスタン政府による公式な確認を得られないまま駆け巡った[46]。ウズベキスタン政府は2日の日中の段階では「重体」であるとしていたが、同日20時55分(日本時間3日0時55分)にカリモフが死去したことを国営テレビを介して公式に発表した[47]。享年78。死去の報に接し、バラク・オバマウラジーミル・プーチン習近平ら各国首脳が哀悼の意を表した。イルハム・アリエフライモンツ・ヴェーヨニスナワーズ・シャリーフ李克強はウズベキスタン大使館を訪れ記帳した[48][49][50][51]

カリモフの葬儀は9月3日に執り行われた。死没地のタシュケントでは数千人の市民が集まり葬列に花を手向けたが、遺体は死去の公式発表前にタシュケントからサマルカンドに移送されていた[52]。葬儀はサマルカンドのレギスタン広場で執り行われ、シャーヒ・ズィンダ廟群にある母と兄弟の墓の隣に埋葬された[53]。葬儀にはドミートリー・メドヴェージェフアシュラフ・ガニーグルバングル・ベルディムハメドフエモマリ・ラフモンカリム・マシモフソーロンバイ・ジェーンベコフモハンマド・ジャヴァード・ザリーフら17か国の代表が参列した[53][54][55][56]。また、9月5日にはキューバがカリモフの死去について服喪することを決定した[57]他、6日にはプーチンが弔問のためウズベキスタンを訪れ、遺族と会談して哀悼の意を表した[58]

ナヴォイ劇場の記念プレート。カリモフの命令に基づき、「日本人捕虜」ではなく、「日本国民」と記されている。

人物

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親日家として知られ、経済企画庁長官だった麻生太郎が1997年に日本の閣僚として初めて面談した際、子供の頃、毎週末毎に母親に手を引かれ日本人捕虜収容所へ連れて行かれた時のことを「せがれ、ご覧、あの日本人の兵隊さんを。ロシアの兵隊が見ていなくても働く。他人が見なくても働く。お前も大きくなったら、必ず他人が見なくても働くような人間になれ。お蔭で母親の言いつけを守って、今日俺は大統領になれた」と語っている[59]

日本人抑留兵が建設したナヴォイ劇場は1966年4月26日のタシュケント地震でもビクともせず、1996年に日本人抑留兵の功績を称えてウズベク語、日本語、英語で書かれた銘板を掲げ、日本人の功績を称えた。その際、「決して『捕虜』と書いてはいけない」と厳命したため、「極東から強制移送された数百名の日本国民」という表現になっている[60]

家族

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父はウズベク人、母はタジク人とされているが、父はユダヤ人という説もあり詳細は不明となっている。1964年にナターリア・ペトローヴナ・クチミと結婚し息子ピョートルをもうけるが、後に離婚している[61]。1967年に経済学者・共和国科学アカデミー経済研究所科学職員のタチヤーナ・ソビロヴァ英語版と結婚し、2女(グリナラローラ)と5人の孫を有する[62][63]

長女グリナラは外交官・実業家として活動していたが、父と対立したため2014年2月以降は汚職の罪により自宅軟禁に置かれていた[64][65]。2019年3月、軟禁の条件違反のため拘禁された[66]。2020年3月、恐喝やマネーロンダリングなどの罪で有罪になり、さらに13年の懲役刑を受けた[67]

次女ローラも実業家であり、子供の権利やスポーツ振興に関する活動家として知られている[68]

脚注

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出典

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  1. ^ The World's Worst Dictators: Islam Karimov” (英語). Parade (2008年2月4日). 2022年10月20日閲覧。
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公職
先代
独立
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン大統領
初代:1991年 - 2016年
次代
ニグマティラ・ユルダシェフ英語版
(大統領代行・上院議長)
先代
設置
ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領
初代:1990年 - 1991年
次代
廃止
党職
先代
設置
ウズベキスタン自由民主党党首
2007年 - 2016年
次代
-
先代
設置
ウズベキスタン人民民主党党首
1991年 - 2007年
次代
ハタムツォン・キトモノフ
先代
ラフィク・ニシャノフ
ウズベキスタン共産党第一書記
1989年 - 1991年
次代
解党