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[[1660年]]から[[1661年]]にかけて[[パウロー・テテーリャ]][[ヘーチマン|将軍]]から委任を受け、任命将軍として右岸ウクライナにおいて反乱軍と[[左岸ウクライナ]]からの親ロシア派軍と戦った。[[1661年]]にポーランド・リトアニア共和国の[[国会]]より[[シュラフタ|貴族]]権を賜った。[[1663年]]にテテーリャの政権において[[宰相]]を務めた。同年5月に[[パーヴォロチの蜂起]]を鎮圧した。1663年の秋から[[1664年]]の冬にかけて、右岸・左岸のウクライナを統一すべく出兵を指揮したが、失敗した。[[1665年]]にコサック将軍を決める選挙に立候補し、[[クリミア・ハン国]]の援助を得て、選挙戦で勝ち抜き、[[右岸ウクライナ]]の[[ヘーチマン|将軍]]となった。その後、コサックの長老と農民の蜂起を厳しく鎮圧し、国内における軍事政権を確立させた。1666年にポーランドとロシアがウクライナを分割しようとすることを知り、[[12月9日]]にポーランド軍を[[ブライーリウの戦い]]で破って右岸ウクライナを[[ウクライナ・ポーランド戦争 (1666-1671)|独立させた]]<ref name="ЕІУ"></ref>。
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[[1667年]]にポーランドとロシアが[[アンドルーソヴォ条約]]を締結すると、正式にポーランドの保護を放棄し、[[オスマン帝国]]の保護を受けるために[[イスタンブル]]へコサック使節を派遣した。一方、[[1668年]]5月に左岸ウクライナへ出兵し、アンドルーソヴォ条約に不満を持つ現地のコサックの手により親ロシア派の[[イヴァン・ブリュホヴェーツィキー]]将軍を殺害させ、ロシアの軍勢を追い払い、同年6月8日に統一されたウクライナのコサック国家の元首に選ばれた。そして、ポーランドとロシアに抵抗しつづけるために、[[1669年]]3月に行われた全ウクライナの[[コールスニ]]の会議においてオスマン帝国の[[メフメト4世|スルタン]]の保護を受けた。ポーランド・リトアニア共和国をモデルにコサック国家の社会秩序を改革し、[[君主制]]ならびに独立した[[キエフ総主教庁]]を成立しようとし、[[ルーシ人]]が居住する全域の統一を計画した<ref name="ЕІУ"></ref>。1669年の秋に[[ムィハーイロ・ハネーンコ]][[ヘーチマン|将軍]]を頭領とする親ポーランド派のコサックの反乱軍を破ったが、親ロシア派の謀略によって左岸ウクライナを失った<ref name="ЕІУ"></ref>。


[[1671年]]に[[ブラーツラウ]]地方に侵入したポーランド・リトアニアの軍勢と戦うために、オスマン帝国の援軍を依頼し、[[ポーランド・オスマン戦争 (1672-1676)|ポーランド・オスマン戦争]]を促した。[[1672年]][[7月8日]]に[[バティーフの戦い]]で敵軍を破り、その後オスマン帝国軍に従軍し、[[カームヤネツィ=ポジーリシクィイ|カームヤネツィ]]と[[リヴィウ]]の包囲戦に参加した。さらに、左岸ウクライナを取り戻すために再びオスマン帝国の援軍を依頼し、[[露土戦争 (1676年-1681年)|ロシア・オスマン戦争]]に導いた<ref name="ЕІУ"></ref>。しかし、戦争中に右岸ウクライナが著しい損害を受けて無人化したので<ref>オスマン帝国軍による[[イスラム教]]の[[強制改宗]]、[[タタール]]軍による[[奴隷]]狩りがあったため、右岸ウクライナの住民は左岸ウクライナおよび[[スロボダ・ウクライナ]]へ逃亡した。[http://www.ua.dev.cawas.com/peoples/ee503ceb339fc5ef/ ペトロー・ドロシェーンコ // ''世界のウクライナ人'']。</ref>、支持層を失った<ref name="ЕІУ"></ref>。[[1676年]]に[[首都]][[チヒルィーン]]で孤立し、ロシア軍と左岸ウクライナ・コサック軍に包囲された。同年9月に降参し、左岸ウクライナの[[イヴァン・サモイローヴィチ]]将軍をコサック将軍の標章を譲った。[[1677年]]3月に[[フョードル3世|ロシアのツァーリ]]の命によりモスクワへ移住され、[[投獄]]された。その後[[流刑]]の代わりに、[[1679年]]から[[1692年]]にかけて、ロシア北東の[[ヴャトカ]]の[[知事]]を務めた<ref name="ЕІУ"></ref>。[[1684年]]にロシア政府より[[ヤロポルチェ]]村(現:[[モスクワ州]][[ヤロポレツ]]村)を賜り、そこへ移住した。1698年11月9日に死去した。ヤロポルチェ村の[[パラスケヴァ聖堂]]で埋葬された<ref name="ЕІУ"></ref>。
[[1671年]]に[[ブラーツラウ]]地方に侵入したポーランド・リトアニアの軍勢と戦うために、オスマン帝国の援軍を依頼し、[[ポーランド・オスマン戦争 (1672-1676)|ポーランド・オスマン戦争]]を促した。[[1672年]][[7月8日]]に[[バティーフの戦い]]で敵軍を破り、その後オスマン帝国軍に従軍し、[[カームヤネツィ=ポジーリシクィイ|カームヤネツィ]]と[[リヴィウ]]の包囲戦に参加した。さらに、左岸ウクライナを取り戻すために再びオスマン帝国の援軍を依頼し、[[露土戦争 (1676年-1681年)|ロシア・オスマン戦争]]に導いた<ref name="ЕІУ"></ref>。しかし、戦争中に右岸ウクライナが著しい損害を受けて無人化したので<ref>オスマン帝国軍による[[イスラム教]]の[[強制改宗]]、[[タタール]]軍による[[奴隷]]狩りがあったため、右岸ウクライナの住民は左岸ウクライナおよび[[スロボダ・ウクライナ]]へ逃亡した。[http://www.ua.dev.cawas.com/peoples/ee503ceb339fc5ef/ ペトロー・ドロシェーンコ // ''世界のウクライナ人'']。</ref>、支持層を失った<ref name="ЕІУ"></ref>。[[1676年]]に[[首都]][[チヒルィーン]]で孤立し、ロシア軍と左岸ウクライナ・コサック軍に包囲された。同年9月に降参し、左岸ウクライナの[[イヴァン・サモイローヴィチ]]将軍をコサック将軍の標章を譲った。[[1677年]]3月に[[フョードル3世|ロシアのツァーリ]]の命によりモスクワへ移住され、[[投獄]]された。その後[[流刑]]の代わりに、[[1679年]]から[[1692年]]にかけて、ロシア北東の[[ヴャトカ]]の[[知事]]を務めた<ref name="ЕІУ"></ref>。[[1684年]]にロシア政府より[[ヤロポルチェ]]村(現:[[モスクワ州]][[ヤロポレツ]]村)を賜り、そこへ移住した。1698年11月9日に死去した。ヤロポルチェ村の[[パラスケヴァ聖堂]]で埋葬された<ref name="ЕІУ"></ref>。

2016年10月18日 (火) 12:54時点における版

ペトロー・ドロシェーンコ
紋章
称号 将軍1665年1676年[1]
身分 登録コサック貴族
家名 ドロシェーンコ家
民族 ウクライナ人[1]
生没 1627年1698年11月9日[1]
出生 ウクライナチヒルィーン[1]
死亡 ロシアヤロポレツ[1]
宗教 正教徒[1]
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ペトロー・ドロシェーンコウクライナ語Петро́ Дороше́нко1627年1698年11月9日)は、ウクライナ政治家軍人外交官右岸ウクライナを中心としたコサック国家元首ザポロージャのコサック将軍1665年1676年[1]

概要

ポーランド・リトアニア共和国キエフ県チヒルィーン町で生まれた。父ドロテイ・ドロシェーンコは、正教徒ルーシ系の登録コサックキエフ・モヒーラ学院を卒業後、コサック軍へ入隊した。1647年12月にボフダーン・フメリヌィーツィキーを伴ってザポロージャへ赴き、1648年に勃発したフメリヌィーツィキーの乱に加わった[1]1649年チヒルィーン連隊書記官、1655年にチヒルィーン連隊長、1657年にプルィルーキ連隊長を務めた。フメリヌィーツィキー死後、イヴァン・ヴィホーウシキー将軍の支持者となり、1657年から1659年にかけてコサックの野党とロシアの軍勢と戦った。ウクライナの内乱を止めるために、1659年8月に新たな将軍ユーリー・フメリヌィーツィキーの配下となった。1659年末にロシアへのコサック使節に参加し、ウクライナの自治制を制限するモスクワ条約の締結を防止しようとした。1660年にウクライナへ侵入したポーランド・クリミアの連合軍と戦い、9月27日スロボディーシチェ合戦において手柄を立てた。1660年に、コサックのウクライナをポーランド・リトアニア共和国の保護国とするチュードニウ条約を署名した[1]

1660年から1661年にかけてパウロー・テテーリャ将軍から委任を受け、任命将軍として右岸ウクライナにおいて反乱軍と左岸ウクライナからの親ロシア派軍と戦った。1661年にポーランド・リトアニア共和国の国会より貴族権を賜った。1663年にテテーリャの政権において宰相を務めた。同年5月にパーヴォロチの蜂起を鎮圧した。1663年の秋から1664年の冬にかけて、右岸・左岸のウクライナを統一すべく出兵を指揮したが、失敗した。1665年にコサック将軍を決める選挙に立候補し、クリミア・ハン国の援助を得て、選挙戦で勝ち抜き、右岸ウクライナ将軍となった。その後、コサックの長老と農民の蜂起を厳しく鎮圧し、国内における軍事政権を確立させた。1666年にポーランドとロシアがウクライナを分割しようとすることを知り、12月9日にポーランド軍をブライーリウの戦いで破って右岸ウクライナを独立させた[1]

1667年にポーランドとロシアがアンドルーソヴォ条約を締結すると、正式にポーランドの保護を放棄し、オスマン帝国の保護を受けるためにイスタンブールへコサック使節を派遣した。一方、1668年5月に左岸ウクライナへ出兵し、アンドルーソヴォ条約に不満を持つ現地のコサックの手により親ロシア派のイヴァン・ブリュホヴェーツィキー将軍を殺害させ、ロシアの軍勢を追い払い、同年6月8日に統一されたウクライナのコサック国家の元首に選ばれた。そして、ポーランドとロシアに抵抗しつづけるために、1669年3月に行われた全ウクライナのコールスニの会議においてオスマン帝国のスルタンの保護を受けた。ポーランド・リトアニア共和国をモデルにコサック国家の社会秩序を改革し、君主制ならびに独立したキエフ総主教庁を成立しようとし、ルーシ人が居住する全域の統一を計画した[1]。1669年の秋にムィハーイロ・ハネーンコ将軍を頭領とする親ポーランド派のコサックの反乱軍を破ったが、親ロシア派の謀略によって左岸ウクライナを失った[1]

1671年ブラーツラウ地方に侵入したポーランド・リトアニアの軍勢と戦うために、オスマン帝国の援軍を依頼し、ポーランド・オスマン戦争を促した。1672年7月8日バティーフの戦いで敵軍を破り、その後オスマン帝国軍に従軍し、カームヤネツィリヴィウの包囲戦に参加した。さらに、左岸ウクライナを取り戻すために再びオスマン帝国の援軍を依頼し、ロシア・オスマン戦争に導いた[1]。しかし、戦争中に右岸ウクライナが著しい損害を受けて無人化したので[2]、支持層を失った[1]1676年首都チヒルィーンで孤立し、ロシア軍と左岸ウクライナ・コサック軍に包囲された。同年9月に降参し、左岸ウクライナのイヴァン・サモイローヴィチ将軍をコサック将軍の標章を譲った。1677年3月にロシアのツァーリの命によりモスクワへ移住され、投獄された。その後流刑の代わりに、1679年から1692年にかけて、ロシア北東のヴャトカ知事を務めた[1]1684年にロシア政府よりヤロポルチェ村(現:モスクワ州ヤロポレツ村)を賜り、そこへ移住した。1698年11月9日に死去した。ヤロポルチェ村のパラスケヴァ聖堂で埋葬された[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Степанков 2004:384-385.
  2. ^ オスマン帝国軍によるイスラム教強制改宗タタール軍による奴隷狩りがあったため、右岸ウクライナの住民は左岸ウクライナおよびスロボダ・ウクライナへ逃亡した。ペトロー・ドロシェーンコ // 世界のウクライナ人

参考文献

  • (日本語) 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
  • (日本語) 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年. ISBN 4121016556
  • (ロシア語) Эйнгорн В. Очерки из истории Малороссии в XVII в. — М., 1899.
  • (ロシア語) Костомаров Н.И. Руина. // Костомаров Н.И. Собрание сочинений. Исторические монографии и исследования. — СПб., 1905. — кн. 6. — т. 15.
  • (ウクライナ語) Дорошенко Д. Гетьман Петро Дорошенко: огляд його життя і політичної діяльности. — Нью-Йорк, 1985.
  • (ウクライナ語) Крикун М. Інструкція послам Війська Запорозького на варшавський сейм 1666 року і відповідь короля Яна Казимира на неї. // Україна модерна. — Львів, 1999. — № 2–3.
  • (ウクライナ語) Смолій В.В., Степанков В.С. Українська національна революція XVII ст. (1648–1676 рр.) // Україна крізь віки. — К., 1999. — т. 7.
  • (ウクライナ語) Степанков В.С. Дорошенко Петро Дорофійович // Енциклопедія історії України. — Київ : Наукова думка, 2004. — Т. 2. — С. 384-385.

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