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2016年11月6日 (日) 10:42時点における版
藤原基央 | |
---|---|
別名 | MOTOO FUJIWARA |
生誕 | 1979年4月12日(45歳) |
出身地 | 日本 秋田県 |
ジャンル |
ロック ポップス(J-POP) |
職業 |
シンガーソングライター ボーカリスト ギタリスト |
担当楽器 |
ボーカル ギター ブルースハープ ベース ブズーキ グロッケン バンジョー フラットマンドリン ピアノ キーボード シンセサイザー |
活動期間 | 1996年 - |
レーベル |
ハイラインレコーズ (1998年 - 2000年) トイズファクトリー (2000年 - ) |
事務所 | LONGFELLOW |
共同作業者 |
BUMP OF CHICKEN MOR |
著名使用楽器 | |
ギブソン・レスポールスペシャル フェンダー・ストラトキャスター ギブソン・J-45 |
藤原 基央(ふじわら もとお、1979年4月12日 - )は、日本のミュージシャン、シンガーソングライター。ロックバンド・BUMP OF CHICKENのボーカリスト兼ギタリスト。秋田県秋田市生まれ、千葉県佐倉市臼井出身。日出学園高等学校中退。血液型はO型。
概要
BUMP OF CHICKENのほぼ全曲の作詞・作曲を担当している。
後述のミュージカル音楽の制作経験に加えてゲームソフト『テイルズオブジアビス』の主題歌を担当したことを期に、同ゲームのゲームミュージックも手掛け、サウンドトラック『SONG FOR TALES OF THE ABYSS』(2006年3月22日発売)をMOTOO FUJIWARA名義で発表した。現時点では唯一のソロリリースである。
サザン・ロックが好きであると公言している。プレイスタイルにもその影響があると語っている。他に好んで聴く音楽ジャンルは1980年代ハードロック、カントリー・ミュージック、ブルーグラスなどがある。高校生の頃に先輩のバンドの助っ人ギタリストとしてメタリカやメガデスのコピーをやっていたことがある。また、好きなギタリストはザック・ワイルド、ジェリー・ダグラス、ブライアン・メイ、藤井一彦。また携帯の着信音を「世界の車窓から」のテーマ曲にしていた時期もある。
自身がバンド内で担当するギターのほかブズーキ、木琴、ピアノなど、必要に応じて多種類の楽器を使用する。また、河口湖の土産物屋で購入した300円の赤いハーモニカを愛用している。シングル「花の名」のカップリング曲「東京賛歌」以降、ハーモニカが度々レコーディングに使用されるようになった。バンドのベース担当、直井由文が欠席した日に代わりにベースを仮録したこともある。楽曲「車輪の唄」のプロモーション・ビデオでは、マンドリンを演奏した。使用機材については後述の使用機材の節を参照のこと。
人物
体型は細身であって身長は176cmと比較的高いが、体重は50kg程しかない。視力は非常に悪く、遠くのものがほとんど見えない。初めてメガネをかけてみたときは、あまりに景色が“見えすぎた”ために違和感と恐怖を感じ、すぐに外したとのこと(所持はしており、都合によっては使用する)。幼い頃に父親から目つきの悪さを指摘されたことや何もしていないのに睨んでいると思われることが多々あったため、自分の目にコンプレックスがある。そのために前髪を長くしていたが、最近では目が見える髪型をしていることも多い。基本的にストレートの黒髪で定着しているが、「ロストマン/sailing day」リリース時は金髪にしていた。
姉が2人おり、年少期は特に2番目の姉と仲が良かった。お爺ちゃん子で昆虫博士だった母方の祖父によく山へ連れて行ってもらっていたという。小学生の頃はよく他人と違う意見を主張して先生を困らせていた。そのせいで同じクラスの女の子を泣かせてしまったこともあった。中学生になると本人曰く猫を被り、それまでとは違い他人に合わせたり意見の主張も控えるようになったが、放課後になると大声で唄うのは変わらなかったとのこと。また、小学校の卒業文集のタイトルは『だまれガチャピン』だった。もともとは『くたばれガチャピン』だったが、先生に注意されたために変更した。ちなみにガチャピンとは、担任の先生のあだ名である。
苦手な食べものは辛いもの全般。しかし、本人曰く憎んではいないので嫌いな食べ物はないと言っている。プリン、ガリガリ君、栗金団(藤原はまわりのより栗の方が好き)、天津甘栗、いちごサンドなど甘いものが好物のようだ。特に、いちごサンド好きは公式サイトのコンテンツでも取り上げられていて、毎年、春の風物詩として紹介されつつある。また、おにぎり(1人で3合も食べたことがある。中身は梅干しが好き)やトマト、チーズ(そのため、カプレーゼが大好物[1])を好むほか、洗濯、ダッフルコート、イヌ(昔、タロという秋田犬と金龍という土佐闘犬を飼っていた)、ネコ(実家で「黒蜜糖」という名の黒猫を飼っていた、猫の平均寿命は15歳ぐらいなのでおそらく現在はもう亡くなっていると考えられる。シングル「LAMP」のジャケットにも登場した)、ライオン、シロナガスクジラ、木星などもこよなく愛する。
誕生日に宇宙の図鑑を貰うなど宇宙に興味があるようだ。本人によるとIQが下がっているとき(下がるときは1まで下がるとか)は大抵“宇宙のこと”に考えをめぐらすと語っている。そのときにスタッフからアルバムの名前のことを聞かれ、「jupiter」と答えてしまったことからタイトルが決まったというエピソードもある(後でわかったことだが、自分が木曜日生まれだったことに本人自身も驚いていた)。また、今までビールを飲んでいた(増川が喜ぶし、藤原自身もお酒を飲むことに憧れていた)が、蕁麻疹が出るということでその代わりにお菓子のラムネを食べるようになった。ツアー中などで疲労が蓄積したときも蕁麻疹が出てしまう体質であるためでライブの前後には風呂に1時間から2時間浸かるなどして徹底的に体調管理をするようになった結果、「ガリガリに痩せてきてしまった」と語っている[2][リンク切れ]。
好きな季節は冬で、厚着をしてなら極寒でもずっと外にいたいと言っている。
ニコル
絵が得意で、アルバム『THE LIVING DEAD』『ユグドラシル』『orbital period』などのジャケットの絵を手掛けている。また、藤原がよく描くニコルというキャラクターが存在する。アルバム『FLAME VEIN』の歌詞カードや楽曲「ガラスのブルース」のプロモーション・ビデオ、アルバム『orbtal period』のブックレット「星の鳥」、DVD作品『人形劇ギルド』の隠し映像、さらにキーホルダーなどバンド関連作品にたびたび登場している。外見はネコであるが、2足歩行でマフラーを巻いている。マフラーの色は特に決まっていないが、ボーダー柄が共通点である。また、長靴やカバンを装着しているときがある。使用する言語は日本語である。作者は藤原だが、元は藤原の母親が描いたネコがモデル。なお、楽曲「スノースマイル」のプロモーション・ビデオで、藤原が同じようなマフラーを巻いている(このときの柄は白地に黒のボーダー柄であった)。
来歴
秋田県秋田市で誕生した後、幼稚園に入るまでの間に現在の千葉県佐倉市へと引っ越す。年少期はピアノを習っていて、その頃から既に作曲を手がけていた。姉の影響でマイケル・ジャクソンが好きで、録画したMTVの番組を流していたという環境から洋楽などを頻繁に聴いていたが、日本のポップスも姉とハモって歌うなどしていた。初めて買ったギターは、小学校6年生のころに姉の友人から3,000円で購入したアコースティック・ギターである。ゲームが好きなのは当時から変わらず、ドラゴンクエストをクリアした後にサウンドトラックを聴くのが趣味だった。中学生時代も気がついたら歌い始めている、というほどの根っからのミュージシャンだったという。ドラムスの升秀夫に誘われて[3]、自分が実行委員会の副委員長だった文化祭で現在のBUMP OF CHICKENの母体バンド「ハゲバンド」(藤原、直井、升、“あいつ”(増川はスタッフとして参加)での初となるライブを決行(「ツイスト・アンド・シャウト」等をカバー)。また、中学時代バスケ部であったが、補欠だったため部活中は体育館器具庫で過ごし、試合には出なかった。
中学卒業後も頻繁にメンバーと会い、自作曲を書き始めるが、進学した日出学園高等学校では周囲の雰囲気に馴染めず、高校1年生の秋に中退。そのため、家に家賃(5万円)を入れる事となるが、アルバイトは長くは続かず、家に5万も入れるぐらいなら同じ5万円のアパートに住んだほうがいいと思い、16歳のとき上京した。
初期の曲「ガラスのブルース」はこのころ作曲された。上京したての頃は住所不定で知人の家を転々としていたが、泊まる場所がなく公園で野宿したり、新宿アルタ前で演奏して日銭を稼いだりしていた。「ガラスのブルース」とアルバム『FLAME VEIN』の間の期間、ミュージカル用の楽曲を書き下ろす経験をしている(曲名は「はしるおんな」で、メンバーと共に『バンド役』として出演した)。
作品
BUMP OF CHICKENの作品についてはBUMP OF CHICKEN#作品を参照のこと。
- SONG FOR TALES OF THE ABYSS (2006年3月22日、TFCC-86193)
- ゲームソフト『テイルズオブジアビス』のサウンドトラック。MOTOO FUJIWARA名義にて発表。
参加作品
使用機材
- ギター
-
- ギブソン
- カスタムショップ ヒストリック・コレクション 1960 レスポール・スペシャル シングルカッタウェイ TVイエロー(4本)
- レスポール・スペシャル シングルカッタウェイ TVイエロー(1957年製)
- J-45(山野楽器オーダーのスペシャルモデル)
- J-45(1960年製)
- A-jr ジュニア・マンドリン
- フェンダー
- Sonic
- トーカイ レスポール・スペシャルタイプ(TVイエローを2本)
- G&L ASATセミ・ホロー
- マーティン
- D-45(1968年製)
- 0-18(1943年製)
- リトルマーチン LXK2
- OM-15
- D-28-12 (12弦ギター)
- ギルド F-50(1979年製)
- 河野ギター製作所 SAKURAI KOHNO Special
- リッケンバッカー
- 330(1967年製)
- 360/12(1966年製)
- など。ギターは全てラムトリック・カンパニーでパーツを取り外し、組み立て直すなどの調整がなされている。
- ギブソン
- アンプ
-
- MATCHLESS DC-30
- Honda Sound Works オリジナルアンプ
- バッドキャット Black Cat-30
- フェンダー Vibro King
- ヴォックス AC30
- マーシャル 1959LP
- など。アンプは全てホンダ・サウンド・ワークスにより真空管交換などの調整がなされている。
- 弦
-
- ERNIEBALL Regular Slinky
- Martin MSP4100
- エフェクター
-
- FREE THE TONE FINAL BOOSTER FB-2(ブースター)
- Honda Sound Works Original Custom Made (オーバードライブ)
- Eventide Time Factor (ディレイ)
- FREE THE TONE Custom Made Output Selector(セレクター)
- シールドケーブル
-
- Free the tone CU-6550LNG
フェンダー製のミディアムの白のティアドロップ型のピックは落としたらマイクスタンドに大量に付けてあるにもかかわらずインディーズ時代同様、未だ「拾いたい」と語っている。頻繁に使用する「レスポール・スペシャル」(TVイエロー)は楽器屋の端にひっそりと置いてあったものを見つけたとのこと。この時スペシャルを購入するまではレスポール・カスタムのコピーモデルを使っていた。現在は、ギブソン・カスタム・ショップ製のヒストリック・コレクションが4本、57年製のビンテージが1本、トーカイのホンダ・サウンド・ワークスモデルが2本、ラムトリック・カンパニーのオリジナルブランドであるSonicのレスポール・スペシャルモデル1本と、同モデルを8本も所有している。ピックアップは常にセンター。4弦の開放を頻繁に使用するためにナットの4弦の減りが早く、本人は「4弦ナット壊し病」と語っている。ちなみに「ハルジオン」のプロモーション・ビデオでは後半に4弦を切っている。
評価
藤原と長年親交深い音楽評論家の鹿野淳は、藤原の曲を「ブルースとフォークがものすごく根深いところで根付いている音楽」と分析している[7]。作詞に関しては「“終わり”とか“死”とかっていうものからの逆算(中略)があるから“生きる”ってことを歌うということではない、“生きてる”っていう、この淡々とした現実っていうとこから物事を進めていく」「いろんな人のいろんなコンディションで聴き方が変わってもOKなだけのタフネスを、楽曲自体が持っている」と評した。
またMr.Childrenの桜井和寿は、2000年代を総括するインタビューの中で、「バンプは凄い衝撃だった」と自ら切り出し、「言葉に対する美意識と、執着と、そして同時にバンドとしての音も、凄いなぁと思う。コンポーザーへのリスペクトも感じている」と評し、2000年代の最も印象的だった曲として「ロストマン」を挙げた[8]。
音楽プロデューサー、ベーシストの亀田誠治は、2000年代に「本当に信念をもって頑張った」アーティストとして、桜井和寿、椎名林檎と共に藤原基央を挙げている[9]。
出典・参考文献
- ^ J-WAVE TOYOTA FRIDAY DRIVE WITH ELLIE 2014年2月14日、2月21日放送分(大宮エリーとの対談にて)
- ^ discord・インタビュー文字起こし (2007年8月12日確認)
- ^ このときの誘い方は、「俺と一緒にバンド組もう」という一般的なものではなく、「既にバンドは(俺一人で)組んでるから、それに入らないか」というものだった。
- ^ 藤原基央 さま | Sonicのある風景
- ^ 藤原基央 さま | Sonicのある風景
- ^ 藤原基央 さま | Sonicのある風景
- ^ discord文字起こし(2007年9月4日確認)
- ^ MUSICA さらば00年代 10年総括インタビュー、FACT、2009年12月、19頁
- ^ MUSICA さらば00年代 10年総括インタビュー、FACT、2009年12月、52頁