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2016年11月11日 (金) 02:24時点における版
村田 和人 | |
---|---|
出生名 | 村田 和人 |
生誕 | 1954年1月2日 |
出身地 | 東京都 |
死没 | 2016年2月22日(62歳没) |
ジャンル | J-POP |
職業 |
シンガーソングライター 作曲家 編曲家 ミュージシャン 専門学校講師 |
活動期間 | 1978年頃 - 2016年 |
共同作業者 |
濱田金吾 松下誠 山下達郎 田口俊 安藤芳彦 |
公式サイト | 村田和人 オフィシャル・ブログ |
村田 和人(むらた かずひと、1954年1月2日 - 2016年2月22日)は、日本のシンガーソングライター、作曲家。専門校東京ミュージック&メディアアーツ尚美講師。東京都出身。息子にドラマーの村田彼方。
来歴・人物
デビュー前
中学時代にビートルズ来日のTV放送を見てカルチャーショックを受け、その翌日にエレキギターを購入。コピーを始めた後、ローリング・ストーンズにも大きな影響を受け、クリーム、レッド・ツェッペリン等のブリティッシュ・ハードロックを聴くようになる。同時にバンド活動も開始するが、中学3年時にはベーシストが見つからず、村田が自ら担当していたという(なお、20歳くらいまではいろんなバンドでベースを弾いていた)。
獨協大学入学後の1977年にバンド「ALMOND ROCCA」を結成し、本格的なバンド活動を行うようになる。「ALMOND ROCCA」は1978年のEastWest地区大会でグランプリを獲得するなど高い評価を受ける。渋谷にあるYAMAHAのスタジオ「エピキュラス」で練習を行い、デモテープを制作。『エピキュラス・フレンズ・コンサートライブ』という自主制作盤に後のレパートリー曲となる「電話しても」「GREYHOUND BOOGIE」が収録される。また、デモテープがエピキュラスのエンジニアからフリーのプロデューサーに渡り、ソングライティングとヴォーカルを高く評価したプロデューサーが村田に接触するも、完全な洋楽指向で邦楽は山下達郎とはっぴいえんどしか聞いていなかった村田は「あなたじゃ駄目、僕らをプロデュースできるのは山下達郎ぐらいかな」と大口を叩いて断ってしまう。だが、そのプロデューサーが偶然にも山下達郎と知り合いだったため、後日、実際に山下に引きあわせてもらい、デモテープを渡す機会を得る。デビューへの道を模索するが、村田が山下との間にプロデューサーを入れることに納得いかず、かといって直接依頼したかった山下の電話番号も聞いていなかったため連絡が取れないまま、デビューの話は立ち消えになってしまった。しかし、デモテープを聴いた山下は村田を高く評価しており、「もし、このシンガーが世に出なかったら「電話しても」を自分で歌おう」と思ったほど惚れ込んだという[要出典]。 結局デビューの話が立ち消えになってしまった村田は大学卒業を節目として「ALMOND ROCCA」を解散、日本楽器製造株式会社(現・ヤマハ株式会社)に入社し、営業マンとして勤務を始めた。暫くして、サラリーマンとして働きながら「ALMOND ROCCA」を再結成し、精力的にライブ活動を行う。ライブを見に来ていたRCAレコードのディレクターに評価され、再びデビューの話が持ち上がる。RCAレコード内にあるAIRレーベルに所属していた山下達郎と再会。既に村田を評価していた山下の後押しもあり、デビューが決定する。
1981年、会社を退職しデビューアルバムのレコーディングに入る。山下によるプロデュースを期待していた村田だったが、音楽性や声質から「山下達郎が村田を手がけたら、似すぎてしまうのでは」というスタッフの危惧から、アレンジは鈴木茂と当時寺尾聰のアレンジでヒットを飛ばしていた井上鑑に委ねられることとなる(鈴木はアルバム『LAGOON』を気に入っていた村田の、井上はスタッフサイドからの要望であった)。レコーディングが進む中、製作途中のテイクを聴いた山下から直接村田に連絡があり、アレンジのやり直しを進言。結局「電話しても」を含む数曲が山下のアレンジで録り直すことになった。また、製作中にムーン・レーベル設立の話が立ち上がる。第一弾アーティストとして村田と松下誠がラインナップされることとなり、一旦レコーディングを中断してデビューのタイミングを調整。レコーディング開始から1年後の1982年4月、シングル「電話しても」でデビュー、同年6月にファーストアルバム『また明日』がリリースされた。
デビュー後 - MOONレーベル時代
『終わらない夏』のプロモーション終了後、スケジュールの空いていた村田に山下達郎のツアーにコーラスとして参加する話が舞い込む。山下によってリハーサルでかなりしごかれたが、現場での多くの音楽的経験を積んでいった。ツアーで村田が一番参ったのは、他の女性コーラス陣と合わせての「踊り」だったという。1983年、山下達郎のプロデュースでシングル&アルバムを制作。マクセルからの依頼で一本の音楽というコピーを使用するという条件で制作された先行シングル「一本の音楽」がスマッシュヒット。CMの露出が多かったこともあり、6月に発売されたセカンドアルバム『ひとかけらの夏』は売れ行きも上々、ライブもコンサートホールで行う事ができるようになった。数多くライブ活動を行う中で、山本圭右、阿部薫、小板橋博司、小室哲哉のバンドメンバーでサウンドを確立していった。翌1984年TMネットワークでデビューする小室を除くメンバーでサードアルバム『MY CREW』を製作。本来このサードアルバムで再び山下がプロデュースを行う予定だったが、村田サイドがこのバンドメンバーでのレコーディングを選択。セカンドアルバムでの経験を生かした、村田のセルフプロデュース作となった。全国主要5都市を含む全国ツアーも行われた。
しかし、翌1985年は再登板の予定だった山下が諸事情により(自身の音楽制作へのコンピュータ導入による試行錯誤など)制作に着手できず、村田も収録予定だった楽曲を他のアーティストに提供する等、ちぐはぐな活動となってしまい、結局アルバムの製作は流れてしまった。
1986年に新しいディレクターの手引きで渡米し、ロニー・フォスターの元で『showdown』を製作。LAのスタジオミュージシャンを起用した本作は、これまでの村田にはないアーバンでスタイリッシュなテイストを盛り込んだ意欲作となった。
1987年に再渡米、 LAでベーシックトラックを製作し、日本でダビング及びヴォーカルを録音する形で製作された『Boy's Life』はこれまでの村田の音楽活動の集大成というべき作品となった。
東芝時代
デビューからスタッフや状況が変わったことや、アルバム製作が一段落着いたということもあり、環境のリセットを考えていた村田は東芝EMIへ移籍する。当時大流行していた打ち込みによる音作りを大胆に持ち込んだアルバム『GO POP』を1988年にリリース。アレンジも他人に委ねた本作は、村田独自のポップなメロディーは健在ながら、これまで培った生音中心の綿密な音作りと逆方向の仕上がりになった。
次作『太陽の季節』(1989年)はざっくりしたバンドサウンドに振った作品、『空を泳ぐ日』(1990年)はややMOONレーベル時代の作りに戻った感はあるものの、総じてやや停滞した音楽活動となってしまった感は否めなかった[独自研究?](「電話しても」のアンサーソング「電話しなくても」も収録)。また、村田本人もどこかルーチン的になってしまった音楽活動に新鮮さを失い、コーラスやアレンジの仕事をこなしつつ、湯川トーベンのフォークロックスや杉山清貴とのユニット「INN&OUT」等のアマチュア的な音楽活動へ向かい、表舞台からは徐々に姿を消していくこととなった。
ビクター/ROUX時代
アマチュア的に純粋な音楽活動に携わるうちに、村田は音楽製作に対する意欲を取り戻していった。また、東芝時代の反省も生かし、「やりたいことを、やりたいメンバーで、自分のプロデュース・アレンジで製作する」という決意の元、『HELLO AGAIN』(1993年)をリリース。ドラムだけは打ち込みになったものの、当時のメンバーによる演奏や山下達郎の参加により、村田復活を感じさせる佳作となった。続く『evergreen』(1994年)は完全バンドサウンドによる村田サウンドの復活を、『sweet vibration』(1995年)はサウンドスタイルはそのままに楽曲の多様化をそれぞれ目指した作品で、いずれも村田らしさに満ちた充実した作品となった(村田自身、リイシューしたアルバムの解説で「3枚とも迷いのないアレンジ、妥協のないメロディ、アイデアやメリハリなど、自分の音楽活動のひとつの区切りをつけたもの」と発言している[要出典])。ただ、セールス的には当時のマーケットには受け入れられたとは言い難い状況だった。以降、村田のオリジナルアルバムのリリースは2008年まで途絶えることとなる。
晩年まで
再びアマチュア的な音楽活動に戻っていた村田に、尚美学院が新しく創設した「プロミュージシャン学科」から講師の依頼が入った。最初は気乗りしなかった村田だが、次第にやりがいを感じ、講師活動に精力的に取り組むこととなる。また、村田が講師をしているという話を聞きつけた他の学校から講師のオファーがあったり、卒業した生徒から個人的にレッスンを依頼されたりするうち、いつしか活動はレッスン一色になっていった。そのまま講師活動を続けようと思っていた村田であったが、講師活動が6年間経った時に自身が肺炎で入院したことと、ALMOND ROCCAのベーシスト・新井正春が急逝したことを契機に、自分の音楽活動に戻ることを決意する。また、自身の音楽活動を総括するため、1・デビュー前のデモソングの再録、2・夏モノアルバム、3・ロック物のアルバムの三部作を製作するという着想を得、2008年4月に13年ぶりの新作となる『Now recording』を自主リリースした。同アルバムはライブツアー活動のプロモーション用に作成した側面が大きかったが、音楽関係者からの反響が大きく、同年8月にメジャーレーベルであるユニバーサルレコードからボーナストラック5曲入り、24bitリマスターでの再リリースとなった。
2009年、夏海物のアルバム『ずーーっと、夏。』をリリース。次作はロック物の予定だったが、『ずーーっと、夏。』の反響が大きかったため、翌2010年には同傾向のアルバム『ずーーっとずっと、夏。』のリリースとなった。2012年には「夏モノ3部作」の3作目として『ずーーっとずっと、ずっと夏。』をリリース。同アルバムからは「太陽のPrecious」(作詞:安藤芳彦/作曲・編曲・歌:村田和人))が東芝「住宅用太陽光発電システム」のCM「次の暮らし篇」のCMソングとして先行放送された。
2013年には他アーティストへの提供曲をカバーした『Treasures in the BOX』を6月に、夏モノ3部作から選出した楽曲にマイケル富岡の喋りを乗せたラジオ風のノン・ストップDJミックスに仕上げたベスト盤『夏!夏!夏!』を7月にリリースしている。 2015年1月まで日本各地を訪れるライブ活動を精力的に行っていたが、体調の不備を自覚。治療をしながら音楽活動を続けていたが、2016年2月初旬には春から行われるライブツアー中止を発表。日を置かずして体調が悪化。同年2月22日に大腸がんからの転移性肝臓がんにより死去した[1][2]。62歳だった。
ディスコグラフィー
シングル
- 電話しても(1982年4月21日)
- Catching The Sun(1982年) - シャープエルシー・メイトCMソング
- 一本の音楽(1983年3月26日) - 日立マクセルCMソング
- WEEKEND LOVE(1984年6月10日) - モーニングスタジオ・土曜!100%(関西テレビ)テーマ曲
- SHOW MUST GO ON(1985年11月28日)
- 25時のアベニュー(1986年6月25日)
- 湾岸ウィング(1987年5月10) - NHK教育テレビジョン「趣味講座 ベストサウンド」主題歌
- Stay The Young(1987年6月25日) - PIONNER carrozzeria CMソング
- JUST A LOVE SONG(1987年9月10日)
- SKY LOVE(1988年9月10日) ※〈最高位87位〉
- SALA!(1989年5月10日)
- 空を泳ぐ日(1990年6月6日)
- 君の自由(1993年3月24日) - UCカードCMソング
- Slide on your season(1993年10月21日)
- 今日から始めよう(1994年2月9日) - ブルボン「バレンタイン&ホワイトデー」CMソング )※荻野目洋子とのデュエット
- Do You Wanna Dance?(1995年6月21日) - 日産自動車「ラルゴ」CMソング
アルバム
枚 | 発売日 | タイトル | 備考 |
---|---|---|---|
1st | 1982年6月21日 | また明日 | ALFA MOON - MOON/ 最高位70位 |
2nd | 1983年6月25日 | ひとかけらの夏 | ALFA MOON - MOON / 最高位25位 |
3rd | 1984年7月10日 | MY CREW | ALFA MOON - MOON / 最高位26位 |
4th | 1986年6月25日 | Showdown | ALFA MOON - MOON / 最高位41位 |
5th | 1987年6月25日 | Boy's Life | ALFA MOON - MOON / 最高位35位 |
6th | 1988年10月5日 | GO POP | TOSHIBA EMI - EAST WORLD / 最高位36位 |
7th | 1989年6月14日 | 太陽の季節 | TOSHIBA EMI - EAST WORLD / 最高位55位 |
8th | 1990年7月25日 | 空を泳ぐ日 | TOSHIBA EMI - EAST WORLD / 最高位91位 |
9th | 1993年3月24日 | HELLO AGAIN | VICTOR - ROUX / 最高位75位 |
10th | 1994年6月22日 | evergreen | VICTOR - ROUX / 最高位88位 |
11th | 1995年9月21日 | sweet vibration | VICTOR - ROUX |
12th | 2008年4月1日 | Now Recording | KAZ COLLECTION |
13th | 2009年7月15日 | ずーーっと夏。 | UNIVERSAL MUSIC - NAYUTA WAVE / 最高位223位 |
14th | 2010年9月15日 | ずーーっとずっと、夏。 | UNIVERSAL MUSIC - NAYUTA WAVE / 最高位261位 |
15th | 2012年5月23日 | ずーーっとずっと、ずっと夏。 | UNIVERSAL MUSIC - USM JAPAN / 最高位154位 |
16th | 2013年6月26日 | Treasures in the BOX | UNIVERSAL MUSIC - USM JAPAN / 最高位249位 |
17th | 2014年7月25日 | P-CAN | ISLAND MOON MUSIC |
- 企画盤
- Honey & B-Boys(村田和人、山本圭右、平松愛理、西司)『BACK TO FRISCO』(1987年)
- 21 TWENTY-ONE(村田和人、斎藤誠、重実徹、山根栄子)『Blue Coast Inn』(1988年)、『GREETING』(1991年)
- クリスマス企画コンピュレーションアルバム『Winter Gift Pops』(村田和人『Miss You Baby』収録)(1997年)
- Jean & Gingers(村田和人、山本圭右、小板橋博司、吉川みき)『The Greatest Hits』(1998年)
- A,M,S&I(安部泰宏、村田和人、鈴木雄大、伊豆田洋之)『奇跡はここにあるのさ』(1999年)
- オムニバス盤『CITY POP〜WARNER MUSIC JAPAN edition』(村田和人 with 安部恭弘&木戸やすひろ「潮騒 (The Whispering Sea)」収録)(2003年)
- オムニバス盤『HULA Cafe Vol.2』(村田和人 「Road to the Paradise」収録) (2006年)
- ALOHA BROTHERS(杉真理)『世界のアロハ・ブラザーズ』(2010年)
- 『午後のボッサ〜カフェ・ビートルズ』(村田和人「Eight Days A Week」収録)(2010年)
その他 音楽ユニット
- ALOHA BROTHERS:1991年、杉真理と結成したユニット
- In 'n Out:1991年、杉山清貴と河内淳一と結成したユニット
- Moon Kids:2001年、濱田金吾、松下誠と結成したユニット
楽曲提供作品
作曲
- 阿部寛「渚へ」
- 石岡美紀「私の勇気」
- 石川優子「青春の窓から」
- 石原慎一「RHAPSODY IN THE RAIN」
- 詩子「Beginner」
- 緒方恵美「vacation map」「3月の雨」
- 小幡洋子「5度目のBELLで」
- 川島なお美「Summer Vacation」
- 桑名晴子「愛の冒険者達」
- 圭修「憧れのJOELEN」
- 香坂みゆき「HORIZON」「Empty Pool」「SEASON OFF」
- 小堺一機「雨にぬれても」「さざなみのひと」「僕だけのパルファン」
- 児島未知瑠「マリンブルーの恋人達」
- 斉藤慶子「LOVELY NIGHT」
- 真田広之「WHY DON'T YOU TELL THE TRUTH」
- 清水宏次朗「雪の降らないイヴ」
- 杉山清貴「Aloha Akua」
- 高村亜留「ブレーキを踏んで怒って」
- 二名敦子「風の街角」
- 早見優「硝子のトライアングル」
- 光GENJI「MY DEAR〜親愛なる君へ」
- 福永恵規「三日月のピン・クリップ」「.Blind Summer〜やさしい誤解〜」
- 堀ちえみ「夢色・夏色物語」「18のキャトルセゾン」「ひとりぽっちたち」
- 松原みき「ハートの鍵貸します」「"Be"-ROCK」
- 三ツ矢雄二「サマー・メモリーズ」「SAIL AWAY」
- 宮川一朗太「記憶の砂」
- 吉田栄作「あいつがとまらない」
他、多数
テレビ出演
- ベストサウンドIII(1987年4月 - 6月、NHK教育テレビジョン) - 講師
ラジオ出演
- ハイヤングKYOTO (第一期) 木曜日パーソナリティ(1984年10月 - 1987年3月、KBS京都)
脚注
- ^ お知らせ 村田和人 オフィシャル・ブログ 2016年2月23日閲覧
- ^ “村田和人、肝臓がんのため逝去”. 音楽ナタリー (2016年2月23日). 2016年2月23日閲覧。
外部リンク
- I AM KAZ 村田和人 web site
- I Love KAZ ! - 公認ファンサイト