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「睦橋 (福山市)」の版間の差分

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== 諸元 ==
== 諸元 ==
* 路線名:[[広島県道53号沼隈横田港線]]<ref name="mutsumi-bridge>{{Cite web|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/97/mutsumi-bridge.html|title=睦橋|publisher=広島県|accessdate=2016-03-11}}</ref><ref name="ph120448">{{Cite web|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/120448.pdf|format=PDF|title=睦橋|publisher=広島県|accessdate=2016-03-11}}</ref>
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* 橋長 : 219.75m<ref name="ph120448" />
* 橋長 : 219.75m<ref name="ph120448" />
* 支間割 : 23.470m + 40.290m + 54.440m + 40.190m + 30.620m + 30.740m <ref name="ph120448" />
* 支間割 : 23.470m + 40.290m + 54.440m + 40.190m + 30.620m + 30.740m <ref name="ph120448" />
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== 沿革 ==
== 沿革 ==
[[ファイル:内海町 Utsumi town.jpg|250px|right|thumb|防地瀬戸。右やや上に睦橋が見える]]
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当時[[沼隈郡]]田島村・横島村の2村制で構成されていた2島の間は、幅約50mほどの「防地瀬戸」と呼ばれる海峡で隔たれている<ref name="mutsumi-bridge /><ref name="ph120448" />。古来、一つに繋がっていたが航路として開削したと伝えられている<ref name="ndl965589">{{Cite book|和書|author = 兼田明逸|publisher=先憂会出版部|title = 沼隈郡田島村誌 : 「吉備高島宮記」|url ={{NDLDC|965589}}|date = 1923|accessdate = 2016-02-29}}</ref>。
当時[[沼隈郡]]田島村・横島村の2村制で構成されていた2島の間は、幅約50mほどの「防地瀬戸」と呼ばれる海峡で隔たれている<ref name="mutsumi-bridge" /><ref name="ph120448" />。古来、一つに繋がっていたが航路として開削したと伝えられている<ref name="ndl965589">{{Cite book|和書|author = 兼田明逸|publisher=先憂会出版部|title = 沼隈郡田島村誌 : 「吉備高島宮記」|url ={{NDLDC|965589}}|date = 1923|accessdate = 2016-02-29}}</ref>。


橋ができる前は、役場などそれぞれの島に存在していたが、共同施設の大部分は田島側にあり、横島から渡船を繰り返す状況だった<ref name="mutsumi-bridge /><ref name="ph120448" />。そのため橋で結ぶ構想が生まれることとなる。ただ、防地瀬戸は内海から外海である[[備後灘]]へ抜ける重要な航路であったため、航路確保も重要視された<ref name="mutsumi-bridge />。そこで考えだされたのが、跳開方式[[可動橋]]であった<ref name="mutsumi-bridge />。[[田中豊 (技術者)|田中豊]]の技術協力のもと、当時瀬戸内海唯一であった開閉橋が1951年(昭和26年)3月完成した<ref name="mutsumi-bridge /><ref name="ph120448" />。以下、初代睦橋の諸元を示す<ref name="ph120448" />。
橋ができる前は、役場などそれぞれの島に存在していたが、共同施設の大部分は田島側にあり、横島から渡船を繰り返す状況だった<ref name="mutsumi-bridge" /><ref name="ph120448" />。そのため橋で結ぶ構想が生まれることとなる。ただ、防地瀬戸は内海から外海である[[備後灘]]へ抜ける重要な航路であったため、航路確保も重要視された<ref name="mutsumi-bridge" />。そこで考えだされたのが、跳開方式[[可動橋]]であった<ref name="mutsumi-bridge" />。[[田中豊 (技術者)|田中豊]]の技術協力のもと、当時瀬戸内海唯一であった開閉橋が1951年(昭和26年)3月完成した<ref name="mutsumi-bridge" /><ref name="ph120448" />。以下、初代睦橋の諸元を示す<ref name="ph120448" />。
* 橋種 : 可動式鋼製[[トラス橋]]
* 橋種 : 可動式鋼製[[トラス橋]]
* 橋長 : 45.70m
* 橋長 : 45.70m
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架橋により2つの村はより密な交流が始まり、1955年(昭和30年)[[内海町 (広島県)|内海町]]誕生に至るのである<ref name="ph120448" />。
架橋により2つの村はより密な交流が始まり、1955年(昭和30年)[[内海町 (広島県)|内海町]]誕生に至るのである<ref name="ph120448" />。


その後、交通の増加・大型化に対応するため県道沼隈横田港線整備が決まり、1979年(昭和54年)2代目の現橋が架橋した<ref name="mutsumi-bridge />。1989年(平成元年)、[[内海大橋]]が完成し2島とも本州と繋がることになった。
その後、交通の増加・大型化に対応するため県道沼隈横田港線整備が決まり、1979年(昭和54年)2代目の現橋が架橋した<ref name="mutsumi-bridge" />。1989年(平成元年)、[[内海大橋]]が完成し2島とも本州と繋がることになった。


この橋を恋愛パワースポットとしてデコレーションしたのは2013年(平成25年)以降のこと。[[内海町 (広島県)|内海町]]の地域活性化団体が仕掛けたもので、島の[[結婚活動|婚活]]事業の一環として整備された<ref>{{Cite web|url=http://www.chiikinogennki.soumu.go.jp/jirei/hiroshima/34207/2015-0306-1442-1902.html|title=福山市キーワードモデル事業「活力(地域力アップ)」|publisher=総務省 地域力創造グループ|accessdate=2016-03-11}}</ref>。
この橋を恋愛パワースポットとしてデコレーションしたのは2013年(平成25年)以降のこと。[[内海町 (広島県)|内海町]]の地域活性化団体が仕掛けたもので、島の[[結婚活動|婚活]]事業の一環として整備された<ref>{{Cite web|url=http://www.chiikinogennki.soumu.go.jp/jirei/hiroshima/34207/2015-0306-1442-1902.html|title=福山市キーワードモデル事業「活力(地域力アップ)」|publisher=総務省 地域力創造グループ|accessdate=2016-03-11}}</ref>。

2017年1月11日 (水) 01:49時点における版

睦橋
基本情報
所在地 広島県福山市内海町
起点側:田島 - 終点側:横島[1]
交差物件 防地瀬戸(瀬戸内海
座標 北緯34度21分22.7秒 東経133度17分18.7秒 / 北緯34.356306度 東経133.288528度 / 34.356306; 133.288528
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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広島県道53号標識
位置

睦橋(むつみばし)は、広島県福山市にかかる道路橋

概要

備後群島芸予諸島)の2つ、沼隈半島の南約1kmに位置する田島横島を結ぶ道路橋[1]。沼隈半島と田島は内海大橋で結ばれているため2島とも本州側と繋がっていることになる。

最初の架橋は1951年(昭和26年)、瀬戸内海唯一の開閉式橋梁であった。現在のものは2代目にあたり1979年(昭和54年)完成した。

田島と横島そして睦橋の位置関係が魚同志がキスしているように見えることから、恋愛パワースポットとして橋上をデコレーションされている[1]

諸元

沿革

防地瀬戸。右やや上に睦橋が見える

当時沼隈郡田島村・横島村の2村制で構成されていた2島の間は、幅約50mほどの「防地瀬戸」と呼ばれる海峡で隔たれている[2][3]。古来、一つに繋がっていたが航路として開削したと伝えられている[4]

橋ができる前は、役場などそれぞれの島に存在していたが、共同施設の大部分は田島側にあり、横島から渡船を繰り返す状況だった[2][3]。そのため橋で結ぶ構想が生まれることとなる。ただ、防地瀬戸は内海から外海である備後灘へ抜ける重要な航路であったため、航路確保も重要視された[2]。そこで考えだされたのが、跳開方式可動橋であった[2]田中豊の技術協力のもと、当時瀬戸内海唯一であった開閉橋が1951年(昭和26年)3月完成した[2][3]。以下、初代睦橋の諸元を示す[3]

  • 橋種 : 可動式鋼製トラス橋
  • 橋長 : 45.70m
  • 幅員 ; 3.00m

架橋により2つの村はより密な交流が始まり、1955年(昭和30年)内海町誕生に至るのである[3]

その後、交通の増加・大型化に対応するため県道沼隈横田港線整備が決まり、1979年(昭和54年)2代目の現橋が架橋した[2]。1989年(平成元年)、内海大橋が完成し2島とも本州と繋がることになった。

この橋を恋愛パワースポットとしてデコレーションしたのは2013年(平成25年)以降のこと。内海町の地域活性化団体が仕掛けたもので、島の婚活事業の一環として整備された[5]

脚注

  1. ^ a b c 睦橋”. カンパイ!広島県. 2016年3月11日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 睦橋”. 広島県. 2016年3月11日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 睦橋” (PDF). 広島県. 2016年3月11日閲覧。
  4. ^ 兼田明逸『沼隈郡田島村誌 : 「吉備高島宮記」』先憂会出版部、1923年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9655892016年2月29日閲覧 
  5. ^ 福山市キーワードモデル事業「活力(地域力アップ)」”. 総務省 地域力創造グループ. 2016年3月11日閲覧。
  6. ^ a b 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

関連項目