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{{告知|date=2012年6月|"化粧は女性社会人として必要不可欠なマナー、ノーメイクは女性社会人として失格、という認識の認知度・普及度の検証可能性、出典について。"}} |
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{{出典の明記|date=2012年6月}} |
{{出典の明記|date=2012年6月}} |
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{{Redirect|メイクアップ}} |
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[[File:Makeup_demonstration_-_Time_Lapse.webm|thumb|right|300px|化粧をほどこすことで顔の印象が大きく変わってゆく過程(タイムラプス動画)]] |
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'''化粧'''あるいは'''仮粧'''(けしょう)とは、 |
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[[File:Girl Getting A Make Up Done For Her Matric Dance.jpg|thumb|300px|[[メイクアップアーティスト]](右)と化粧を施される女性(左)]] |
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# 白粉(おしろい)や紅(べに<ref group="注">赤っぽい色彩に見せるもの。頬紅(ほおべに)、口紅(くちべに)等 のせる部位によって呼び分けられている。</ref>)などをつけて顔(など)を装い、飾ること<ref name="koujien">広辞苑第六版【化粧・仮粧】</ref>。英語で ''makeup''(カタカナでは「メイクアップ」「メーキャップ」と表記)フランス語で ''maquillage'' 「マキアージュ」「マキヤージュ」。 |
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[[File:Life Goes On 03.jpg|thumb|right|300px|映画に出演する[[俳優]](右)に化粧をほどこすメイクアップアーティスト(左)]] |
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#(建築用語)外から見えるところ<ref name="koujien" />。建造物・工作物・道具・器具・機器などの内外の表面を、ある目的をもって仕上げること。 |
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'''化粧'''(けしょう、仮粧、[[英語|英]]: makeup、[[フランス語|仏]]: maquillage)とは、[[広辞苑]]によると、主として顔に、白粉([[おしろい]])や[[紅色|紅]](べに)をつけて装い飾ること<ref name="koujien">広辞苑第六版【化粧・仮粧】</ref>。<ref>なお、紅(べに)は、[[頬紅]](ほおべに)、[[口紅]](くちべに)など塗る部位によって呼び分けられている。</ref> |
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# [[虚構]]・[[虚飾]]・脚色など、上辺(うわべ)のこと。中身がともなわないこと。「化粧軍(けしょういくさ)」と言うと、たたかっているフリだけをしていて、実際の戦力としては役に立とうとしていないこと。 |
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== 概説 == |
== 概説 == |
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ブリタニカ百科事典によると、化粧というのは、[[人間]]の[[顔]]を中心として[[首]] |
『ブリタニカ百科事典』によると、化粧というのは、[[人間]]の[[顔]]を中心として[[首]][[手]][[足]]などの表面に化粧料を施し、美化することである<ref name="britanica">ブリタニカ百科事典 「けしょう」【化粧】</ref>。広義には、人だけでなく、ものの外見を美しく飾ることである<ref name="britanica" />。 |
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見る人の印象を操作するという機能 |
見る人の印象を操作するという機能本質部分では、化粧と「装飾的な[[被服|衣服]]」は同一であり、元来は一体的なもので、化粧のほうが洗い流すものであるのに対し、衣服は着脱可能で、はずしても原型をとどめる、という違いがある<ref name="britanica" />。 |
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[[古代]]から一部の人が化粧をしていた。[[古代エジプト]]では[[王族]]などがすでに化粧をしていたらしい。 |
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歴史 |
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王族などが人前に現れるとき、化粧を用いた。[[祭礼]]などでも化粧が行われた。だが[[古代ギリシア]]では日頃の鍛錬こそが本当の美を生むとされ、化粧のような上辺だけのものは評価されず、さらに中世ヨーロッパでは「[[七つの大罪]]」のひとつの「傲慢」にあたるとして行われなくなった。だが、16世紀の宗教改革の後に化粧はふたたび行われるようになった。{{Main|#歴史}} |
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化粧に用いる品々を(おもにからだに塗る粉、液、ペーストの類を)「[[化粧品]]」と言う。道具類は「化粧道具」と言う。化粧を行うための部屋は「化粧部屋」「化粧室」という。 |
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様々な目的 |
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王族などが人前に現れる時、化粧を用いた。[[祭礼]]などでも化粧が行われる。 |
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化粧の心理的な効果の内容は、その化粧の内容にもよるが、一般的な化粧によって得られる当人への心理的効果としては、[[自尊心]]の向上と、社会的な[[幸福感]]がある。化粧の作業は鏡に向かうので[[自己意識]]や[[内省]]的な傾向を高めるなど、心理的な安定をもたらす効果がある。{{Main|#化粧の心理作用}} |
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[[俳優]]は、舞台に立つ時は、独特の化粧をする。たとえば、目・鼻筋・口などが遠くからでもはっきり判るような化粧をする。これを「舞台化粧(ぶたいげしょう)」と言う。各国の伝統的演劇の多くが独特の化粧を用いている。例えば[[京劇]]では、役柄に応じた特定の模様の化粧をする。日本の歌舞伎でも、役柄ごとに決まった化粧がある。 |
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ご遺体に化粧をほどこすことを[[死化粧]](しにげしょう)と言う。 |
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→[[#目的による分類]] |
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材料・道具など |
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化粧に用いる品々を、(主にからだに塗る粉・液・ペーストの類を)「[[化粧品]]」と言う。道具類は「化粧道具」と言う。化粧を行うための部屋は「化粧部屋」「化粧室」という。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 古代 === |
=== 古代 === |
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{{出典の明記|section=1|date=2011年5月}} |
{{出典の明記|section=1|date=2011年5月}} |
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{{seealso|:en:History of cosmetics}} |
{{seealso|[[:en:History of cosmetics]]}} |
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{{要出典範囲|口や耳などの穴から悪魔などが進入するのを防ぐために、赤色の物体を顔面に塗りつけるという、約7万年前に行われていた習慣が始まりだと推測されている。このことは出土した当時の人骨の口に付着していた赤色の顔料の痕跡から判明した。|date=2014年11月}} |
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[[File:Nofretete_Neues_Museum.jpg|thumb|right|160px|古代エジプトの[[ネフェルティティの胸像]]。アイラインをひいている。]] |
[[File:Nofretete_Neues_Museum.jpg|thumb|right|160px|古代エジプトの[[ネフェルティティの胸像]]。<br />アイラインをひいている。]] |
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紀元前1200年代頃の[[エジプト]] |
紀元前1200年代頃の[[古代エジプト]]の人々が目や唇に化粧をしている絵画が見つかっている。[[ツタンカーメン]]の[[ツタンカーメンのマスク|黄金のマスク]]を例にとると、目の周囲に[[アイライン (化粧)|アイライン]]をしていることが見てとれる。当時のアイラインの原料は、紺色の鉱石である[[ラピスラズリ]]であり、それを微細な粉にして液体に溶かして使用していた。これには病気を媒介する[[蚊]]や[[蝿]]を近づけない[[虫除け]]の意味もあった。また、黄色の[[顔料]]を肌に塗って[[日焼け止め]]にしたり、[[香油]]で乾燥した皮膚をやわらかくするなど、砂漠地帯ならではの化粧も行われていた。これらの化粧は時代が下るにつれて[[神官]]などの特権階級の[[シンボル]]となっていった。現在でも[[中近東]]地域ではこのようなアイラインを日常に行っている。特権階級となった王族や神官たちは「白い肌は肉体労働をしていない証拠」と[[鉛白]]を使って肌を白く塗りはじめた。この風習は[[鉛]](Pb)の有毒性を知られてもなお続き、18世紀まで続いた。 |
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〜古代ギリシア〜<br /> |
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[[File:Greek_statue_discus_thrower_2_century_aC.jpg|thumb|right|160px|古代ギリシアでは、日ごろの鍛錬(トレーニング)こそが本当の[[美|美しさ]]を生む、として、化粧のようにうわべだけのものは評価されなかった]] |
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[[古代ギリシ |
[[File:Roman bronze copy of Myron’s Discobolos, 2nd century CE (Glyptothek Munich).jpg|thumb|right|160px|[[古代ギリシア]]では、日頃の鍛錬こそが《本当の美しさ》を生むとして、化粧のように上辺だけのものは評価されなかった]] |
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[[古代ギリシャ]]では、日ごろの[[トレーニング|鍛錬]]こそが美しさにつながるとし、本物の肉体的な美しさを求めたため、化粧はあまりなされなかった。 |
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〜古代ローマ〜<br /> |
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[[古代ローマ]]では、一般には行われていなかった。だが、上流階級は生活が乱れており、不摂生(特に[[食生活]]の乱れと[[スポーツ|運動]]の不足)を隠す為と、[[アレクサンドロス3世]](大王)の東征により[[オリエント]]の文化が流入した為、[[鉛白]]などを使った化粧行われた。また、紀元2世紀のローマ帝国時代のギリシアの医師 [[ガレノス]]は現在の[[コールドクリーム]]の原型を作ったとされる。 |
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[[古代ローマ]]では、一般には行われていなかった。だが、上流階級は生活が乱れており、不摂生(特に[[食生活]]の乱れと[[運動]]の不足)を隠すためと、[[アレクサンドロス3世]](大王)の東征により[[オリエント]]の文化が流入したため、鉛白などを使った化粧が行われた。また、紀元2世紀のローマ帝国時代のギリシアの医師 [[ガレノス]]は現在の[[コールドクリーム]]の原型を作ったとされる。 |
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その後、ヨーロッパでは化粧文化は[[キリスト教]]の「神がお作りになったものに手を加えてはならない」という教えと、[[虚飾]]は[[罪]]である、という考え方により、一時廃れることになる。[[七つの大罪]] の中でも最も重い罪が「''superbia'' 傲慢」であり、「虚飾」は、この最も重い罪「傲慢」に含まれている。<ref group="注">もともと、4世紀のエジプトの修道士エヴァグリオス・ポンティコスが枢要罪として「暴食」「色欲」「強欲」「憂鬱」「憤怒」「怠惰」「虚飾」「傲慢」の八つを挙げており、それを6世紀後半にグレゴリウス1世が七つにまとめなおした、ということらしい。</ref> |
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=== 中世ヨーロッパ === |
=== 中世ヨーロッパ === |
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その後、([[中世]]の)[[ヨーロッパ]]では化粧文化は[[キリスト教]]の「神がお作りになったものに手を加えてはならない」という教えと、[[虚飾]]は[[罪]]である、という考え方により、一時廃れることになる。[[七つの大罪]] の中でも最も重い罪が「''superbia'' 傲慢」であり、「虚飾」は、この最も重い罪「傲慢」に含まれている。<ref group="注">もともと、4世紀のエジプトの修道士[[ポントスのエウァグリオス|エヴァグリオス・ポンティコス]]が枢要罪として「暴食」「色欲」「強欲」「憂鬱」「憤怒」「怠惰」「虚飾」「傲慢」の八つを挙げており、それら(8つ)を[[6世紀]]後半に[[グレゴリウス1世]]が七つにまとめなおした、ということらしい。</ref> |
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{{出典の明記|section=1|date=2011年5月}} |
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[出典の明記|section=1|date=2011年5月] |
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キリスト教の影響で公然と化粧をすることが出来なくなってもなお、特権階級の人々は肌を白く見せる為の努力をした。[[ビール]]で顔を洗ったり、眉を剃って細くし額の髪の生え際を剃って髪を結い上げることで顔の白さを強調したり、極端な場合は[[瀉血]]をして人為的に[[貧血]]になることで肌を白く見せようとした。 |
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とはいえ、キリスト教の影響で公然と化粧をすることができなくなってもなお、特権階級の人々は肌を白く見せるための努力をした。[[ビール]]で顔を洗ったり、眉を剃って細くし額の髪の生え際を剃って髪を結い上げることで顔の白さを強調したり、極端な場合は[[瀉血]]して人為的に[[貧血]]になることで肌を白く見せようとした。 |
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時代は下り、[[宗教革 |
時代は下り、[[16世紀]]の[[宗教改革]]の影響でカトリック教会の権力が弱くなった[[ヨーロッパ]]では(上記のキリスト教的な教えによる化粧の禁忌が弱まり)、顔に[[蜜蝋]]を塗り、その上に白粉を叩くという化粧方法が流行した。この化粧のはじまりは[[イギリス]]の女王[[エリザベス1世]]とされ、戴冠式などの教会の儀式で聖性を高める目的で行われ、また、貴族達もそれに倣うようになった。この化粧の問題点は蝋が溶け、化粧が崩れるのを避けるために、冬や寒い日でも暖房に近づくことができなかったことである。当時の白粉は鉛白などが含まれていたために[[鉛中毒]]により皮膚に[[シミ]]([[肝斑]])ができやすかったとされる。これをごまかすために「つけぼくろ」が一時期貴族の間で流行した。16世紀には[[水銀]]を使った白粉が登場し、肌の皮膚がはがれて吹き出物が取れることから持てはやされたが、[[水銀中毒]]により歯茎が黒ずんで歯が抜ける副作用があり、口元を隠すために[[扇子]]が流行した。再び化粧が流行した背景にはヨーロッパと[[イスラーム]]社会の争いがある。当時のイスラームは科学技術が発達していた上に裕福で、[[十字軍]]は遠征先から[[香水]]や[[香油]]をヨーロッパに持ち帰ってきた。また、イスラームから[[天然痘]]を持ち込み、その後遺症である「あばた顔」を隠すために白粉を厚く塗ることがはやりはじめた。 |
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=== 近代ヨーロッパ === |
=== 近代ヨーロッパ === |
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18世紀は再び自然志向が強まり、薄い化粧が流行した。19世紀には上流階級の女性の間で病弱で痩せた体が持てはやされ、食事を抜き夜更かしをした上で静脈を強調する青い化粧や、[[黄疸]]に見せかける黄色い化粧が流行した時期が有った。また、科学者や医薬品メーカーが化粧品開発に関わるようになり、化粧が安価に |
[[18世紀]]は再び自然志向が強まり、薄い化粧が流行した。[[19世紀]]には上流階級の女性の間で病弱で痩せた体が持てはやされ、食事を抜き夜更かしをした上で[[静脈]]を強調する青い化粧や、[[黄疸]]に見せかける黄色い化粧が流行した時期が有った。また、科学者や医薬品メーカーが化粧品開発に関わるようになり、化粧が安価にできるようになった。ただし、[[フランス革命]](1789年)など一連の[[市民革命]]の結果により特権階級が衰退したのに伴い男性の化粧の風習は廃れ、[[第二次世界大戦]](1939年-1945年)の後にはほぼ完全に姿を消した。1899年には人体に無毒な[[酸化亜鉛]]を使った白粉が開発された。 |
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=== 日本 === |
=== 日本 === |
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{{出典の明記|section=1|date=2011年5月}} |
{{出典の明記|section=1|date=2011年5月}} |
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{{seealso|日本の化粧文化史}} |
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==== 古代〜江戸時代 ==== |
==== 古代〜江戸時代 ==== |
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「[[魏志倭人伝]]」には、[[3世紀]]頃の倭人(日本人)が、[[硫化水銀]]や[[酸化鉄]]などの赤い顔料(朱丹)を身体に塗る風俗が紹介されている<ref>『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P11</ref>。この頃の日本では[[3世紀]]後半の[[古墳]]から、赤い顔料で顔や身体に化粧を施した[[埴輪]]が出土している。[[古墳時代]]の化粧は呪術的な意味合いのものである<ref name="benioha">{{cite news|url= https://style.nikkei.com/article/DGXKZO10884730Q6A221C1BC8000/ |title=化粧文化 いにしえの素顔|author=村田孝子|publisher=日本経済新聞|date=2016年12月28日|accessdate=2020年7月17日}}</ref>。また生きている人間のみならず、死者の体に塗る施朱が国内でも行われていた<ref>『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P12</ref>。奈良時代頃までは、唇や頬につける紅は濃く強調される傾向にあったが、「[[源氏物語]]」が書かれた平安時代の頃には、薄く紅をつける美意識へと変わった。しかし同じ平安時代の間でも、紅の濃淡には流行り廃りがあり、「源氏物語」が執筆された[[1008年]]から140年後の[[1148年]]に書かれた「[[久安四年記]]」には、再度、濃い頬紅が良い事とされている<ref>『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P25</ref>。 |
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{{要出典範囲|古代の[[日本人]]は赤い塗料で体に模様を書いていた。|date=2014年11月}} |
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[[飛鳥時代]]、[[遣隋使]]によって大陸との交流が始まり、紅や白粉などが輸入され、日本でも鉛を使った白粉が作られた。[[奈良県]]の[[元興寺]]の僧侶だった[[観城]]が献上した鉛粉(白粉)を[[持統天皇]]が大変喜び、褒美を与えたという最古の記述が「[[日本書紀]]」にある。また「[[古事記]]」には[[応神天皇]]の頃、若い女性が眉を描く化粧していた記述が存在する<ref>『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P14</ref>。 |
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{{要出典範囲|日本では古代から大正時代に至るまで、[[お歯黒]]と呼ばれる歯を黒く塗る化粧が行われていた。|date=2014年11月}} |
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{{要出典範囲|平安時代には男性もお歯黒をすることがあったが、江戸時代にはお歯黒は既婚女性の習慣となった。|date=2014年11月}} |
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日本では古代から[[大正]]時代に至るまで、[[お歯黒]]と呼ばれる[[歯]]を黒く塗る慣習があった。平安時代中期に編纂された「[[倭名類聚抄]]」には、「波久呂」と記名された[[お歯黒]]の記述がある<ref>『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P13</ref>。[[平安時代]]には男性もお歯黒をすることがあったが、[[江戸時代]]にはお歯黒は既婚女性の習慣となった。黒い歯は「ほかの人の色に染まらない」という貞女の証しだが、この風習が長く続いたのは、[[タンニン]]の効果で[[歯周病|歯槽膿漏]]の予防にもなったからだろう<ref name="benioha"/>。 |
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[[File:Jidai_Matsuri_2009_381.jpg|thumb|right|160px|[[時代祭]]での子供の化粧]] |
[[File:Jidai_Matsuri_2009_381.jpg|thumb|right|160px|[[時代祭]]での子供の化粧]] |
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口紅は[[紅花]]を原料にしたものが使われていたが、極めて高価な品とされていた。{{要出典範囲|また、江戸時代にはメタリックグリーンのツヤを持った[[口紅]]「笹色紅」が[[江戸]]や[[京都]]などの都会の女性に流行した|date=2014年11月}}。日本の白粉は液状の水白粉であり、西洋と同じく主な成分に[[水銀]]や[[鉛]]を含んでいた。長期的な使用者には鉛中毒や水銀中毒による肌の変色(白粉焼け)が多くみられたといわれている。 |
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[[口紅]]は[[紅花]]が原料のものが使われていたが、極めて高価な品とされていた。日本の白粉は液状の水白粉であり、西洋と同じく主な成分に水銀や鉛を含んでいた。長期的な使用者には鉛中毒や水銀中毒による肌の変色(白粉焼け)が多くみられたという。口紅に関する記述は、[[平安時代]]後期に書かれた有職故実書の「[[江家次第]]」に口を化粧する道具の箱を表す「口脂筥(こうしばこ)」が掲載されており、少なくとも平安後期には口紅に相当する化粧道具が存在していたと思われる<ref>『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P24</ref>。 |
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男性も、公家が古代より白粉などで化粧をする習慣が存在し[[幕末]]まで続いた。[[武家]]もやはり公家に習い公の席では白粉を塗っていたが、[[江戸時代]]中期には、化粧をして公の席へ出る習慣は廃れた。ただし、公家と応対することが多い高家の人達は、公家と同様に幕末まで化粧をする習慣を保持していたほか、一般の上級武士も、主君と対面する際、くすんだ顔色を修整するために薄化粧をすることがあったという。 |
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男性も、[[公家]]が平安後期より白粉などで化粧をする習慣が広まり、[[幕末]]まで続いた。公家の化粧習慣の起源は、有職故実書の「[[貞丈雑記]]」によると、[[鳥羽上皇]]院政期([[1129年]]~[[1156年]])の頃に、公卿だった[[源有仁]]が、風流のために女性の化粧術を真似て、眉抜きや白粉、お歯黒、紅化粧をしたのが最初とされ、同時期に盛んとなった男色文化と合わせて、若い公家に化粧が広まったとされる。その後、公家の化粧は[[室町時代]]には一般化し、天皇や公家の男子は元服前にお歯黒をつけ、眉抜きをして眉墨を施す眉化粧が階級表示の意味合いとして定着した。[[武家]]も公家に倣って化粧を導入し、公の席では白粉を塗るようになった。お歯黒については、本格的に習慣づけた[[平氏]]に対し、次に政権を握った[[源氏]]は習慣づけないなど、対応が分かれた。しかしその後は、家同様、権威の象徴として定着し、室町時代には将軍家の男子が元服前にお歯黒をつけるようになった。また[[薩摩]]の[[島津忠良]]は、お歯黒をしない者に罰則を設ける法整備を行うなど、化粧の中でもお歯黒の文化が武士の身嗜みとして全国的に浸透するようになった。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]以降も男性の化粧は行われた。[[豊臣秀吉]]は[[小田原征伐]]の際にお歯黒をつけ、[[吉野の花見]]の際はお歯黒に加えて眉描きをしていたとされる<ref>『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P27~29</ref>。[[江戸時代]]中期には、化粧をして公の席へ出る習慣は廃れた。ただし、公家と応対することが多い高家の人達は、公家と同様に幕末まで化粧をする習慣を保持していたほか、一般の上級武士も、主君と対面する際、くすんだ顔色を修整するために薄化粧をすることがあったという。位の高い武者は合戦前に[[首実検]]に備え薄化粧をする習慣があった。 |
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江戸時代に入り、上流階級だけではなく庶民も化粧をするようになり、世界で初めて庶民向けの化粧品店が開かれた。江戸時代の女性の化粧は、肌に塗るのは白粉のみで、これを濃淡をつけて塗ることで、質感の違いや顔の微妙な立体感を生み出した。水白粉や粉白粉を刷毛で肌に伸ばし、丹念に丸い刷毛ではたき込み、さらに余分の白粉は別の刷毛で拭って落とすという手間のかかるものであった。口紅は唇の中心につけるだけで、おちょぼ口に見せた。こうした化粧の伝統は、大正時代に至るまで根強く残った。[[結納]]のすんだ女性にはお歯黒、子が生まれた女性には[[引眉]]が行われる風習があった。和服は[[うなじ]]が広く出るので、襟元に白粉を塗ることも重視された |
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室町時代において、武家や公家などの上流階級は、お歯黒や眉化粧を、婚礼や成人などの祝い事や身分に応じての格式を表す礼法として定着させた。特に武家は婿取り婚から嫁入り婚に婚礼形態が変わったことで「嫁入記」といった礼法書が作られ、それらを参考に婚礼調度として化粧道具を嫁入り道具として持参させることが多くなった<ref>『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P31</ref>。 |
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江戸時代に入り、上流階級だけではなく庶民も化粧をするようになり、世界で初めて庶民向けの化粧品店が開かれた。当時の女性の化粧は、肌に塗るのは白粉のみで、これを濃淡をつけて塗ることで、質感の違いや顔の微妙な立体感を生み出した。水白粉や粉白粉を刷毛で肌に伸ばし、丹念に丸い刷毛ではたき込み、さらに余分の白粉は別の刷毛で拭って落とすという手間のかかるものであった。口紅は唇の中心につけるだけで、おちょぼ口に見せた。こうした化粧の伝統は、大正時代に至るまで根強く残った。[[結納]]の済んだ女性にはお歯黒、子が生まれた女性には[[引眉]]が行われる風習があった。和服は[[うなじ]]が広く出るので、襟元に白粉を塗ることも重視された。 |
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==== 明治〜大正 ==== |
==== 明治〜大正 ==== |
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[[File:Tatsuta Shizue c.1928.png|thumb|160px|[[初代メイ牛山]]による化粧紹介モデルは[[松竹]]女優の[[龍田静枝]]。1920年代後半]] |
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[[1870年]](明治3年)、政府は皇族・華族に対しお歯黒・[[引眉]]禁止令を出した。当初はなかなか徹底されず、3年後皇后が率先して模範を示すことで、ようやく華族の女性たちもお歯黒・引眉をやめることになった。これが庶民にも徐々に波及し、引眉の風習は明治初期には廃れた。しかし、お歯黒の習慣は大正時代まで根強く残った。高齢の女性の中には、昭和に至るまでお歯黒を守り続けた人もいた。一方、男性の化粧は[[富国強兵]]のスローガンの下で「化粧をする男性は軟弱だ」と言われ、廃れていった。 |
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[[1870年]]3月6日([[明治]]3年2月5日)、政府は[[皇族]][[華族]]に対しお歯黒[[引眉]]禁止令を出した。当初はなかなか徹底されず、3年後1873年3月3日に皇后が率先して模範を示すことで、ようやく華族の女性たちもお歯黒・引眉をやめることになった。これが庶民にも徐々に波及し、引眉の風習は明治初期には廃れた。しかし、お歯黒の習慣は大正時代まで根強く残った。高齢の女性の中には、[[昭和]]に至るまでお歯黒を守り続けた人もいた。一方、男性の化粧は[[富国強兵]]のスローガンの下で「化粧をする男性は軟弱だ」と言われ、廃れていった。 |
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明治時代には、鉛白粉の害が論じられ、[[1900年]]には国産の無鉛白粉が発売された。しかし、鉛白粉は伸びや付きに優れたものだったので、害 |
明治時代には、鉛白粉の害が論じられ、[[1900年]]には国産の無鉛白粉が発売された。しかし、鉛白粉は伸びや付きに優れたものだったので、有害であることが知られていたにもかかわらず、昭和初期まで使われ続けた。 |
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大正時代には、 |
大正時代には、従来の化粧方法をベースに、西洋の頬紅を使ったり耳元に紅を入れるなどの和洋折衷の化粧が流行った。白だけだった白粉も、ベージュや赤みを帯びたものも使われるようになった。 |
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[[File:Maiko_in_Gion2.jpg|thumb|right|160px|[[祇園]]の[[舞妓]]の化粧]] |
[[File:Maiko_in_Gion2.jpg|thumb|right|160px|[[祇園]]の[[舞妓]]の化粧]] |
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本格的に西洋風の化粧が行われたのは |
本格的に西洋風の化粧が行われたのは[[関東大震災]]後のことだった。[[モダンガール]]と言われた一部の女性たちの間に、[[アイシャドウ]]や唇全体に塗った口紅といった化粧が行われ、断髪や足の出る[[スカート]]といったいでたちとともに、保守的な人々の非難の的となった。 |
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==== 20世紀後半以降 ==== |
==== 20世紀後半以降 ==== |
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[[Image:Pre-wedding make-up.jpg|thumb|right|現代の化粧]] |
[[Image:Pre-wedding make-up.jpg|thumb|right|160px|現代の化粧]] |
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1950年代には、明るく血色が良く見える[[肌色]]が重視され、ピンク系の[[ファンデーション (化粧品)|ファンデーション]]、真っ赤な口紅などが流行した。アイシャドーや[[マスカラ]]などのアイメイクが導入されたのもこのころである。 |
[[1950年代]]には、明るく血色が良く見える[[肌色]]が重視され、ピンク系の[[ファンデーション (化粧品)|ファンデーション]]、真っ赤な口紅などが流行した。アイシャドーや[[マスカラ]]などのアイメイクが導入されたのもこのころである。 |
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1960年代から1970年代には、健康的で溌剌としたイメージを演出するため、オレンジ・イエロー系のファンデーション、ピンクベージュ系の口紅が好んで使われた。細く眉尻の上がった眉が流行した。明るい色の[[頬紅|チーク]]、マスカラやアイシャドウで目元を強調する化粧が大いに流行した。 |
[[1960年代]]から[[1970年代]]には、健康的で溌剌としたイメージを演出するため、オレンジ・イエロー系のファンデーション、ピンクベージュ系の口紅が好んで使われた。細く眉尻の上がった眉が流行した。明るい色の[[頬紅|チーク]]、[[マスカラ]]やアイシャドウで目元を強調する化粧が大いに流行した。 |
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1970年代後半から1980年代には |
1970年代後半から[[1980年代]]には「ナチュラルメイク」が市民権を得、個人の個性を生かして自然な顔に見せる化粧が広まっていく。天候やTPOに合わせた化粧の使い分けが定着したのもこのころである。日本人らしい顔立ちが見直され、アイメイクは控えられるようになり、太い眉毛(太眉)が流行した。また[[日焼け]]が健康的とされた時代であり、焼いた肌が一時流行した。 |
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1990年前後の[[バブル景気|バブル期]]には、紫外線の害が広く知られるようになったことから、美白化粧品が売り出された。濃くはっきりした色の口紅を塗り、白系のファンデーションをしっかり施す化粧が流行した。 |
[[1990年]]前後の[[バブル景気|バブル期]]には、[[紫外線]]の害が広く知られるようになったことから、[[美白]]化粧品が売り出された。濃くはっきりした色の口紅を塗り、白系のファンデーションをしっかり施す化粧が流行した。 |
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1990年代中盤に入ると「癒し系」メイクが流行し、きちんと化粧を施しつつも、素肌の質感を残すナチュラルメイクが主流になった。従来の真っ赤な口紅は廃れ、ベージュ系の口紅が好まれるようになった。1970年代ブームから、細い釣り眉やマスカラが復活した。 |
1990年代中盤に入ると「癒し系」メイクが流行し、きちんと化粧を施しつつも、素肌の質感を残すナチュラルメイクが主流になった。従来の真っ赤な口紅は廃れ、ベージュ系の口紅が好まれるようになった。一方で、1970年代ブームから、細い釣り眉やマスカラが復活した。 |
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1990年代後半から2000年代には、ファッションの多様化が進 |
1990年代後半から[[2000年代]]には、ファッションの多様化が進み、[[ギャル]]文化のブームにより一時は「[[ガングロ]]」と言われる黒い肌のメイクや派手な[[つけまつげ]]も現れたものの、前述の美白指向の定着により、ナチュラルメイク、白肌メイクが多数派になった<ref>[https://dentsu-ho.com/articles/7100 オワコンだった“つけま”が復活。令和女子にヒットするものづくりとは? | ウェブ電通報]</ref><ref>[https://blog.tintroom.jp/post-57/ 平成時代とメイクの変遷~メイクはどう変わったか~│TintRoomお役立ちブログ]</ref>。濃い色のチークやファンデーションも好んで使われている。 |
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なお現代社会では公の場において、成人女性は化粧をすることがマナーとして定着しており、女性らしい華やかさが求められている。自然かつ上品な肌、眉、目元、唇、頬の化粧いわゆるナチュラルメイクが主である。 |
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== 目的による分類 == |
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しかし、2010年代後半から、ジェンダーレス等の観点から女性らしさを象徴するとされてきた化粧をしない女性が増えており、一方で化粧をする男性も増えている。 |
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[[File:Bhima full makeup.JPG|thumb|right|250px|インドの伝統的な演劇の俳優の化粧]] |
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== 分類 == |
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; ナチュラルメイク |
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: 日常の自然な化粧。 |
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; 撮影 |
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: 屋外やスタジオに合わせた化粧。 |
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; テレビ |
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: テレビ、特に[[コマーシャルメッセージ|CM]]や[[テレビドラマ]]などでは、通常以上に顔の皮膚がアップで映るため、特にファンデーションやその下地に重点を置いた化粧。 |
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; 映画 |
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[[File:Applying makeup during filming of Transformers at Holloman AFB 2006-05-30.jpg|thumb|250px|映画の撮影にて。俳優にメイクを施すメイクアップアーティスト]] |
[[File:Applying makeup during filming of Transformers at Holloman AFB 2006-05-30.jpg|thumb|250px|映画の撮影にて。俳優にメイクを施すメイクアップアーティスト]] |
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[[File:Bhima full makeup.JPG|thumb|right|250px|インドの伝統的な演劇の俳優の化粧]] |
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; 舞台{{main|厚化粧#舞台化粧}} |
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: [[舞台]]の役柄に合わせた化粧。[[俳優]]は、[[舞台]]に立つとき、目・鼻・口などの顔のパーツ、鼻筋や頬など顔の陰影を強調し、離れた観客にも表情などが判りやすいような「舞台化粧」をする。各国の伝統的演劇の多くが独特の化粧を用いている。例えば[[京劇]]では、役柄に応じた特定の模様の化粧をする。日本の[[歌舞伎]]でも、役柄ごとに決まった化粧があり「[[隈取]]」と呼ばれる独特の化粧をする。表情や感情を伝える目的というだけでなく、隈取の種類によって役どころ([[二枚目]]・悪役・娘役など)を見分ける一助としての役割を果たす。 |
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[[File:Brazilian circus performer, 2008.jpg|thumb|right|250px|[[サーカス]]の団員の化粧(ブラジル)]] |
[[File:Brazilian circus performer, 2008.jpg|thumb|right|250px|[[サーカス]]の団員の化粧(ブラジル)]] |
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;[[死体|ご遺体]] |
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; 舞台用 |
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:化粧をほどこすことを[[死化粧]](しにげしょう)という。 |
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: 舞台で演技を行なう者は、通常より濃い化粧をする。目・眉・口などの顔のパーツ、鼻筋や頬など顔の陰影を強調し、離れた観客にも表情などが判りやすいよう工夫がされている。また[[歌舞伎]]や[[京劇]]などでは「[[隈取]]」と呼ばれる独特の化粧をする。表情や感情を伝える目的というだけでなく、隈取の種類によって役どころ([[二枚目]]・悪役・娘役など)を見分ける一助としての役割を果たしている。 |
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; テレビ用 |
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: テレビ、特に[[コマーシャルメッセージ|CM]]や[[テレビドラマ|ドラマ]]などでは、通常以上に顔の皮膚がアップで映るため、特にファンデーションやその下地に重点を置いた化粧がなされる。 |
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=== 男性の化粧 === |
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一般男性の化粧は、スキンケアや日焼け止め、身だしなみを整えたり、シミやニキビ跡をカバーするために行われる<ref>{{Cite web|和書|title=【メンズメイクの完全ガイド】初心者でも簡単!ベースメイクから目元・眉毛のメイク手順まで徹底解説 |url=https://moteo.best/column/skincare/make-up/ |website=MOTEO |access-date=2022-05-13 |language=ja}}</ref>。 |
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[[File:Cosmetics.webmhd.webm|thumb|right|200px|化粧品を実際に使っている様子(動画)]] |
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* [[洗顔料]] |
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* [[化粧水]] |
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* [[美容液]] |
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* [[乳液]] |
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* [[ファンデーション (化粧品)|ファンデーション]] |
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* [[眉墨]] |
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* [[頬紅]](チーク) |
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* [[口紅]](ルージュ) |
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* [[グロス]] |
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* [[アイライン (化粧)|アイライン]] |
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* [[アイシャドー]] |
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* [[マスカラ]] |
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* [[アイプチ]]・アイテープ |
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* [[白粉]] |
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* [[マニキュア]]・[[ペディキュア]] |
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=== 部位 === |
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概要について詳しくは[[化粧品]]を参照のこと。 |
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化粧は施される部位に応じて分類できる。以下はその一例である。 |
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==== アイメイク ==== |
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'''{{仮リンク|アイメイク|en|Eye_makeup}}'''({{lang-en-short|eye makeup}})は目に施される化粧である<ref>"アイメイク:アイメイクとはアイメーキャップ eye makeup の和製英語 ... 目もとの化粧のこと" p.28 より引用。三浦. (2016). ''[https://meiji-u.repo.nii.ac.jp/records/331 女子大学生のアイメイクの実態 ~アイメイクの使用状況と症状出現状況について~]''. 明治国際医療大学誌, 16号, pp. 27-37.</ref>。'''目張り'''とも<ref>"日本舞踊のアイメイクのことを“目張り”といいます" Yamashita. (2022). [https://www.vogue.co.jp/beauty/article/sawako-fujima-beauty-secrets 日本舞踊家の藤間爽子が、舞台化粧のハウツーとうる肌ケア法を公開。【セレブのスキンケア技と愛用コスメをレポート】]. VOGUE JAPAN. 2022年6月20日発行.</ref>。 |
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* [[ヘアメイクアーティスト]] |
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* [[メイクアップアーティスト]] |
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アイメイクには[[アイライン (化粧)|アイライン]]、[[アイシャドー]]、[[アイプチ]]、[[マスカラ]]、[[アイラッシュカーラー]](ビューラー)、[[つけまつげ]]、[[まつ毛エクステンション]]、[[カラーコンタクトレンズ]]など様々な技法がある。[[歌舞伎]]などの[[厚化粧#舞台化粧|舞台化粧]]でも採用されている<ref>"化粧手順を示す。... 手順 11.油紅や水紅で目張りを入れ" p.13 より引用。松永. (2009). ''[https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD823&bibid=17124 伝承のための歌舞伎化粧のデータ化とその応用に関する研究]''. 九州大学大学院芸術工学研究院, 博士論文.</ref>。 |
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== 建築 == |
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[[建物]]の表面に、(白など、見栄えのする色の)塗料を塗ることなどを「化粧」と言う。 |
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== 化粧品 == |
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[[化粧板]](けしょういた)というのは、表面をかんなで削って仕上げた板のことである。 |
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{{main|化粧品}} |
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* [[基礎化粧品]] |
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== 脚注 == |
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* [[化粧品|メイクアップ化粧品]] |
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;注 |
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* 舞台用化粧品 |
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<references group="注"/> |
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* [[薬用化粧品]] |
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== 化粧の心理作用 == |
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;出典 |
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化粧の内容にも左右されるが、一般的な化粧によって得られる心理的効果には[[自尊心]]の向上と、社会的な[[幸福感]]がある<ref name="Daibou"> 大坊郁夫 二宮克美、[[子安増生]](編)「化粧行動」『キーワードコレクション 社会心理学』 新曜社 2011 ISBN 9784788512368 pp.202-205.</ref>。化粧することによって自分の身体的問題点をカバーし、自己呈示したい特徴を増強することで、[[自己評価]]を高めるとともに社会的積極性を高めることになる。 |
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<references /> |
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化粧の作業には適度な緊張が生じることから気持ちの切り替えがしやすく、鏡に向かうことによって[[自己意識]]や内省的な傾向を高めるなど、心理的な安定をもたらす効果がある<ref name="Daibou"/>。また、[[うつ病]]や老人性[[認知症]]などの患者に対して化粧指導することで、平板化した[[感情]]を活性化し、社会復帰を促す効果が示されている<ref>野滞桂子, 小越明美, 斉藤善子, 青木理美、「[https://doi.org/10.11560/jahp.18.1_35 【原著】Cosmetic Program による入院がん患者のQOL改善の試み]」『健康心理学研究』 2005年 18巻 1号 p.35-44, {{doi|10.11560/jahp.18.1_35}}, 日本健康心理学会, 2017年9月19日閲覧。</ref>。 |
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大坊郁夫・二宮克美は、化粧行動は他者や世間への関心を前提として、自分の印象を管理することで[[人間関係|関係]]の調和を図り、社会的[[承認欲求]]を満たすことが基本的な動機となるとしている<ref name="Daibou"/>。 |
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== 化粧とフェミニズム == |
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[[フェミニスト]]は、女性的な装いや化粧のような身体的な装飾に投資することは、従属的で、くだらない、束縛的なものとして理論化して否定的し、頻繁に言及してきた<ref name="White"/>。一方、宗教史家のマノン・ヘーデンボルク・ホワイト(Manon Hedenborg White)は、化粧の機能を広く文化的・社会的・心理的に捉え、化粧のような「女性らしさの技術」が、宗教等の儀式と同様に、[[ジェンダー]]が生じる過程に深く関わっていることを強調している<ref name="White">{{Cite book |author =Manon Hedenborg White|title =The Eloquent Blood: The Goddess Babalon and the Construction of Femininities in Western Esotericism |section=11 Possession and Dispossession: Embodiment, Ecstasy, and Erotic Destruction|publisher =Oxford Univ Pr|date = 2019|pages =|url=|doi=10.1093/oso/9780190065027.003.0011 |
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|ref = {{SfnRef|Arrow 2|2019}}}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{Commons|Category:Cosmetics}} |
{{Commons|Category:Cosmetics}} |
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*[[メイクアップアーティスト]] |
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* [[美]] |
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*[[化粧品]]([[基礎化粧品]]、[[スキンケア]]) |
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* [[体]]、[[身体]] |
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*[[カモフラージュメイク]] |
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* [[美容]] |
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* |
*[[厚化粧]] / [[すっぴん]] |
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*{{ill2|ドレッシング・テーブル|en|Dressing table}} |
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* [[カモフラージュメイク]] |
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*{{ill2|バニティー・セット|en|Toilet service}} |
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* [[ボディペインティング]] |
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* [[厚化粧]] / [[ノーメーク]]、[[すっぴん]] |
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== 外部リンク == |
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* [[美容院]] |
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*[https://shigoto.mhlw.go.jp/User/Occupation/Detail/116 厚生労働省 美容師] |
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* [[ファッション]] |
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*[https://shigoto.mhlw.go.jp/User/Occupation/Detail/118 厚生労働省 メイクアップアーティスト] |
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* [[身体改造]] |
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*[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000123853.html 厚生労働省 美容・理容のページ] |
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* [[香水]] |
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* [[式亭三馬]] |
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* [[ペイントレスラー]] |
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{{化粧品}} |
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[[Category:美容師]] |
2024年8月26日 (月) 09:34時点における最新版
化粧(けしょう、仮粧、英: makeup、仏: maquillage)とは、広辞苑によると、主として顔に、白粉(おしろい)や紅(べに)をつけて装い飾ること[1]。[2]
概説
[編集]『ブリタニカ百科事典』によると、化粧というのは、人間の顔を中心として首手足などの表面に化粧料を施し、美化することである[3]。広義には、人だけでなく、ものの外見を美しく飾ることである[3]。
見る人の印象を操作するという機能本質部分では、化粧と「装飾的な衣服」は同一であり、元来は一体的なもので、化粧のほうが洗い流すものであるのに対し、衣服は着脱可能で、はずしても原型をとどめる、という違いがある[3]。
古代から一部の人が化粧をしていた。古代エジプトでは王族などがすでに化粧をしていたらしい。
王族などが人前に現れるとき、化粧を用いた。祭礼などでも化粧が行われた。だが古代ギリシアでは日頃の鍛錬こそが本当の美を生むとされ、化粧のような上辺だけのものは評価されず、さらに中世ヨーロッパでは「七つの大罪」のひとつの「傲慢」にあたるとして行われなくなった。だが、16世紀の宗教改革の後に化粧はふたたび行われるようになった。
化粧に用いる品々を(おもにからだに塗る粉、液、ペーストの類を)「化粧品」と言う。道具類は「化粧道具」と言う。化粧を行うための部屋は「化粧部屋」「化粧室」という。
化粧の心理的な効果の内容は、その化粧の内容にもよるが、一般的な化粧によって得られる当人への心理的効果としては、自尊心の向上と、社会的な幸福感がある。化粧の作業は鏡に向かうので自己意識や内省的な傾向を高めるなど、心理的な安定をもたらす効果がある。
歴史
[編集]古代
[編集]紀元前1200年代頃の古代エジプトの人々が目や唇に化粧をしている絵画が見つかっている。ツタンカーメンの黄金のマスクを例にとると、目の周囲にアイラインをしていることが見てとれる。当時のアイラインの原料は、紺色の鉱石であるラピスラズリであり、それを微細な粉にして液体に溶かして使用していた。これには病気を媒介する蚊や蝿を近づけない虫除けの意味もあった。また、黄色の顔料を肌に塗って日焼け止めにしたり、香油で乾燥した皮膚をやわらかくするなど、砂漠地帯ならではの化粧も行われていた。これらの化粧は時代が下るにつれて神官などの特権階級のシンボルとなっていった。現在でも中近東地域ではこのようなアイラインを日常に行っている。特権階級となった王族や神官たちは「白い肌は肉体労働をしていない証拠」と鉛白を使って肌を白く塗りはじめた。この風習は鉛(Pb)の有毒性を知られてもなお続き、18世紀まで続いた。
〜古代ギリシア〜
古代ギリシャでは、日ごろの鍛錬こそが美しさにつながるとし、本物の肉体的な美しさを求めたため、化粧はあまりなされなかった。
〜古代ローマ〜
古代ローマでは、一般には行われていなかった。だが、上流階級は生活が乱れており、不摂生(特に食生活の乱れと運動の不足)を隠すためと、アレクサンドロス3世(大王)の東征によりオリエントの文化が流入したため、鉛白などを使った化粧が行われた。また、紀元2世紀のローマ帝国時代のギリシアの医師 ガレノスは現在のコールドクリームの原型を作ったとされる。
中世ヨーロッパ
[編集]その後、(中世の)ヨーロッパでは化粧文化はキリスト教の「神がお作りになったものに手を加えてはならない」という教えと、虚飾は罪である、という考え方により、一時廃れることになる。七つの大罪 の中でも最も重い罪が「superbia 傲慢」であり、「虚飾」は、この最も重い罪「傲慢」に含まれている。[注 1] [出典の明記|section=1|date=2011年5月] とはいえ、キリスト教の影響で公然と化粧をすることができなくなってもなお、特権階級の人々は肌を白く見せるための努力をした。ビールで顔を洗ったり、眉を剃って細くし額の髪の生え際を剃って髪を結い上げることで顔の白さを強調したり、極端な場合は瀉血して人為的に貧血になることで肌を白く見せようとした。
時代は下り、16世紀の宗教改革の影響でカトリック教会の権力が弱くなったヨーロッパでは(上記のキリスト教的な教えによる化粧の禁忌が弱まり)、顔に蜜蝋を塗り、その上に白粉を叩くという化粧方法が流行した。この化粧のはじまりはイギリスの女王エリザベス1世とされ、戴冠式などの教会の儀式で聖性を高める目的で行われ、また、貴族達もそれに倣うようになった。この化粧の問題点は蝋が溶け、化粧が崩れるのを避けるために、冬や寒い日でも暖房に近づくことができなかったことである。当時の白粉は鉛白などが含まれていたために鉛中毒により皮膚にシミ(肝斑)ができやすかったとされる。これをごまかすために「つけぼくろ」が一時期貴族の間で流行した。16世紀には水銀を使った白粉が登場し、肌の皮膚がはがれて吹き出物が取れることから持てはやされたが、水銀中毒により歯茎が黒ずんで歯が抜ける副作用があり、口元を隠すために扇子が流行した。再び化粧が流行した背景にはヨーロッパとイスラーム社会の争いがある。当時のイスラームは科学技術が発達していた上に裕福で、十字軍は遠征先から香水や香油をヨーロッパに持ち帰ってきた。また、イスラームから天然痘を持ち込み、その後遺症である「あばた顔」を隠すために白粉を厚く塗ることがはやりはじめた。
近代ヨーロッパ
[編集]18世紀は再び自然志向が強まり、薄い化粧が流行した。19世紀には上流階級の女性の間で病弱で痩せた体が持てはやされ、食事を抜き夜更かしをした上で静脈を強調する青い化粧や、黄疸に見せかける黄色い化粧が流行した時期が有った。また、科学者や医薬品メーカーが化粧品開発に関わるようになり、化粧が安価にできるようになった。ただし、フランス革命(1789年)など一連の市民革命の結果により特権階級が衰退したのに伴い男性の化粧の風習は廃れ、第二次世界大戦(1939年-1945年)の後にはほぼ完全に姿を消した。1899年には人体に無毒な酸化亜鉛を使った白粉が開発された。
日本
[編集]古代〜江戸時代
[編集]「魏志倭人伝」には、3世紀頃の倭人(日本人)が、硫化水銀や酸化鉄などの赤い顔料(朱丹)を身体に塗る風俗が紹介されている[4]。この頃の日本では3世紀後半の古墳から、赤い顔料で顔や身体に化粧を施した埴輪が出土している。古墳時代の化粧は呪術的な意味合いのものである[5]。また生きている人間のみならず、死者の体に塗る施朱が国内でも行われていた[6]。奈良時代頃までは、唇や頬につける紅は濃く強調される傾向にあったが、「源氏物語」が書かれた平安時代の頃には、薄く紅をつける美意識へと変わった。しかし同じ平安時代の間でも、紅の濃淡には流行り廃りがあり、「源氏物語」が執筆された1008年から140年後の1148年に書かれた「久安四年記」には、再度、濃い頬紅が良い事とされている[7]。
飛鳥時代、遣隋使によって大陸との交流が始まり、紅や白粉などが輸入され、日本でも鉛を使った白粉が作られた。奈良県の元興寺の僧侶だった観城が献上した鉛粉(白粉)を持統天皇が大変喜び、褒美を与えたという最古の記述が「日本書紀」にある。また「古事記」には応神天皇の頃、若い女性が眉を描く化粧していた記述が存在する[8]。
日本では古代から大正時代に至るまで、お歯黒と呼ばれる歯を黒く塗る慣習があった。平安時代中期に編纂された「倭名類聚抄」には、「波久呂」と記名されたお歯黒の記述がある[9]。平安時代には男性もお歯黒をすることがあったが、江戸時代にはお歯黒は既婚女性の習慣となった。黒い歯は「ほかの人の色に染まらない」という貞女の証しだが、この風習が長く続いたのは、タンニンの効果で歯槽膿漏の予防にもなったからだろう[5]。
口紅は紅花が原料のものが使われていたが、極めて高価な品とされていた。日本の白粉は液状の水白粉であり、西洋と同じく主な成分に水銀や鉛を含んでいた。長期的な使用者には鉛中毒や水銀中毒による肌の変色(白粉焼け)が多くみられたという。口紅に関する記述は、平安時代後期に書かれた有職故実書の「江家次第」に口を化粧する道具の箱を表す「口脂筥(こうしばこ)」が掲載されており、少なくとも平安後期には口紅に相当する化粧道具が存在していたと思われる[10]。
男性も、公家が平安後期より白粉などで化粧をする習慣が広まり、幕末まで続いた。公家の化粧習慣の起源は、有職故実書の「貞丈雑記」によると、鳥羽上皇院政期(1129年~1156年)の頃に、公卿だった源有仁が、風流のために女性の化粧術を真似て、眉抜きや白粉、お歯黒、紅化粧をしたのが最初とされ、同時期に盛んとなった男色文化と合わせて、若い公家に化粧が広まったとされる。その後、公家の化粧は室町時代には一般化し、天皇や公家の男子は元服前にお歯黒をつけ、眉抜きをして眉墨を施す眉化粧が階級表示の意味合いとして定着した。武家も公家に倣って化粧を導入し、公の席では白粉を塗るようになった。お歯黒については、本格的に習慣づけた平氏に対し、次に政権を握った源氏は習慣づけないなど、対応が分かれた。しかしその後は、家同様、権威の象徴として定着し、室町時代には将軍家の男子が元服前にお歯黒をつけるようになった。また薩摩の島津忠良は、お歯黒をしない者に罰則を設ける法整備を行うなど、化粧の中でもお歯黒の文化が武士の身嗜みとして全国的に浸透するようになった。戦国時代以降も男性の化粧は行われた。豊臣秀吉は小田原征伐の際にお歯黒をつけ、吉野の花見の際はお歯黒に加えて眉描きをしていたとされる[11]。江戸時代中期には、化粧をして公の席へ出る習慣は廃れた。ただし、公家と応対することが多い高家の人達は、公家と同様に幕末まで化粧をする習慣を保持していたほか、一般の上級武士も、主君と対面する際、くすんだ顔色を修整するために薄化粧をすることがあったという。位の高い武者は合戦前に首実検に備え薄化粧をする習慣があった。
室町時代において、武家や公家などの上流階級は、お歯黒や眉化粧を、婚礼や成人などの祝い事や身分に応じての格式を表す礼法として定着させた。特に武家は婿取り婚から嫁入り婚に婚礼形態が変わったことで「嫁入記」といった礼法書が作られ、それらを参考に婚礼調度として化粧道具を嫁入り道具として持参させることが多くなった[12]。
江戸時代に入り、上流階級だけではなく庶民も化粧をするようになり、世界で初めて庶民向けの化粧品店が開かれた。当時の女性の化粧は、肌に塗るのは白粉のみで、これを濃淡をつけて塗ることで、質感の違いや顔の微妙な立体感を生み出した。水白粉や粉白粉を刷毛で肌に伸ばし、丹念に丸い刷毛ではたき込み、さらに余分の白粉は別の刷毛で拭って落とすという手間のかかるものであった。口紅は唇の中心につけるだけで、おちょぼ口に見せた。こうした化粧の伝統は、大正時代に至るまで根強く残った。結納の済んだ女性にはお歯黒、子が生まれた女性には引眉が行われる風習があった。和服はうなじが広く出るので、襟元に白粉を塗ることも重視された。
明治〜大正
[編集]1870年3月6日(明治3年2月5日)、政府は皇族華族に対しお歯黒引眉禁止令を出した。当初はなかなか徹底されず、3年後1873年3月3日に皇后が率先して模範を示すことで、ようやく華族の女性たちもお歯黒・引眉をやめることになった。これが庶民にも徐々に波及し、引眉の風習は明治初期には廃れた。しかし、お歯黒の習慣は大正時代まで根強く残った。高齢の女性の中には、昭和に至るまでお歯黒を守り続けた人もいた。一方、男性の化粧は富国強兵のスローガンの下で「化粧をする男性は軟弱だ」と言われ、廃れていった。
明治時代には、鉛白粉の害が論じられ、1900年には国産の無鉛白粉が発売された。しかし、鉛白粉は伸びや付きに優れたものだったので、有害であることが知られていたにもかかわらず、昭和初期まで使われ続けた。
大正時代には、従来の化粧方法をベースに、西洋の頬紅を使ったり耳元に紅を入れるなどの和洋折衷の化粧が流行った。白だけだった白粉も、ベージュや赤みを帯びたものも使われるようになった。
本格的に西洋風の化粧が行われたのは関東大震災後のことだった。モダンガールと言われた一部の女性たちの間に、アイシャドウや唇全体に塗った口紅といった化粧が行われ、断髪や足の出るスカートといったいでたちとともに、保守的な人々の非難の的となった。
20世紀後半以降
[編集]1950年代には、明るく血色が良く見える肌色が重視され、ピンク系のファンデーション、真っ赤な口紅などが流行した。アイシャドーやマスカラなどのアイメイクが導入されたのもこのころである。
1960年代から1970年代には、健康的で溌剌としたイメージを演出するため、オレンジ・イエロー系のファンデーション、ピンクベージュ系の口紅が好んで使われた。細く眉尻の上がった眉が流行した。明るい色のチーク、マスカラやアイシャドウで目元を強調する化粧が大いに流行した。
1970年代後半から1980年代には「ナチュラルメイク」が市民権を得、個人の個性を生かして自然な顔に見せる化粧が広まっていく。天候やTPOに合わせた化粧の使い分けが定着したのもこのころである。日本人らしい顔立ちが見直され、アイメイクは控えられるようになり、太い眉毛(太眉)が流行した。また日焼けが健康的とされた時代であり、焼いた肌が一時流行した。
1990年前後のバブル期には、紫外線の害が広く知られるようになったことから、美白化粧品が売り出された。濃くはっきりした色の口紅を塗り、白系のファンデーションをしっかり施す化粧が流行した。
1990年代中盤に入ると「癒し系」メイクが流行し、きちんと化粧を施しつつも、素肌の質感を残すナチュラルメイクが主流になった。従来の真っ赤な口紅は廃れ、ベージュ系の口紅が好まれるようになった。一方で、1970年代ブームから、細い釣り眉やマスカラが復活した。
1990年代後半から2000年代には、ファッションの多様化が進み、ギャル文化のブームにより一時は「ガングロ」と言われる黒い肌のメイクや派手なつけまつげも現れたものの、前述の美白指向の定着により、ナチュラルメイク、白肌メイクが多数派になった[13][14]。濃い色のチークやファンデーションも好んで使われている。
なお現代社会では公の場において、成人女性は化粧をすることがマナーとして定着しており、女性らしい華やかさが求められている。自然かつ上品な肌、眉、目元、唇、頬の化粧いわゆるナチュラルメイクが主である。 しかし、2010年代後半から、ジェンダーレス等の観点から女性らしさを象徴するとされてきた化粧をしない女性が増えており、一方で化粧をする男性も増えている。
分類
[編集]- ナチュラルメイク
- 日常の自然な化粧。
- 撮影
- 屋外やスタジオに合わせた化粧。
- テレビ
- テレビ、特にCMやテレビドラマなどでは、通常以上に顔の皮膚がアップで映るため、特にファンデーションやその下地に重点を置いた化粧。
- 映画
- 舞台→詳細は「厚化粧 § 舞台化粧」を参照
- 舞台の役柄に合わせた化粧。俳優は、舞台に立つとき、目・鼻・口などの顔のパーツ、鼻筋や頬など顔の陰影を強調し、離れた観客にも表情などが判りやすいような「舞台化粧」をする。各国の伝統的演劇の多くが独特の化粧を用いている。例えば京劇では、役柄に応じた特定の模様の化粧をする。日本の歌舞伎でも、役柄ごとに決まった化粧があり「隈取」と呼ばれる独特の化粧をする。表情や感情を伝える目的というだけでなく、隈取の種類によって役どころ(二枚目・悪役・娘役など)を見分ける一助としての役割を果たす。
男性の化粧
[編集]一般男性の化粧は、スキンケアや日焼け止め、身だしなみを整えたり、シミやニキビ跡をカバーするために行われる[15]。
部位
[編集]化粧は施される部位に応じて分類できる。以下はその一例である。
アイメイク
[編集]アイメイク(英: eye makeup)は目に施される化粧である[16]。目張りとも[17]。
アイメイクにはアイライン、アイシャドー、アイプチ、マスカラ、アイラッシュカーラー(ビューラー)、つけまつげ、まつ毛エクステンション、カラーコンタクトレンズなど様々な技法がある。歌舞伎などの舞台化粧でも採用されている[18]。
化粧品
[編集]化粧の心理作用
[編集]化粧の内容にも左右されるが、一般的な化粧によって得られる心理的効果には自尊心の向上と、社会的な幸福感がある[19]。化粧することによって自分の身体的問題点をカバーし、自己呈示したい特徴を増強することで、自己評価を高めるとともに社会的積極性を高めることになる。
化粧の作業には適度な緊張が生じることから気持ちの切り替えがしやすく、鏡に向かうことによって自己意識や内省的な傾向を高めるなど、心理的な安定をもたらす効果がある[19]。また、うつ病や老人性認知症などの患者に対して化粧指導することで、平板化した感情を活性化し、社会復帰を促す効果が示されている[20]。
大坊郁夫・二宮克美は、化粧行動は他者や世間への関心を前提として、自分の印象を管理することで関係の調和を図り、社会的承認欲求を満たすことが基本的な動機となるとしている[19]。
化粧とフェミニズム
[編集]フェミニストは、女性的な装いや化粧のような身体的な装飾に投資することは、従属的で、くだらない、束縛的なものとして理論化して否定的し、頻繁に言及してきた[21]。一方、宗教史家のマノン・ヘーデンボルク・ホワイト(Manon Hedenborg White)は、化粧の機能を広く文化的・社会的・心理的に捉え、化粧のような「女性らしさの技術」が、宗教等の儀式と同様に、ジェンダーが生じる過程に深く関わっていることを強調している[21]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ もともと、4世紀のエジプトの修道士エヴァグリオス・ポンティコスが枢要罪として「暴食」「色欲」「強欲」「憂鬱」「憤怒」「怠惰」「虚飾」「傲慢」の八つを挙げており、それら(8つ)を6世紀後半にグレゴリウス1世が七つにまとめなおした、ということらしい。
出典
[編集]- ^ 広辞苑第六版【化粧・仮粧】
- ^ なお、紅(べに)は、頬紅(ほおべに)、口紅(くちべに)など塗る部位によって呼び分けられている。
- ^ a b c ブリタニカ百科事典 「けしょう」【化粧】
- ^ 『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P11
- ^ a b 村田孝子 (2016年12月28日). “化粧文化 いにしえの素顔”. 日本経済新聞 2020年7月17日閲覧。
- ^ 『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P12
- ^ 『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P25
- ^ 『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P14
- ^ 『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P13
- ^ 『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P24
- ^ 『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P27~29
- ^ 『化粧の日本史 美意識の移りかわり』、2016年6月発行、山村博美、吉川弘文館、P31
- ^ オワコンだった“つけま”が復活。令和女子にヒットするものづくりとは? | ウェブ電通報
- ^ 平成時代とメイクの変遷~メイクはどう変わったか~│TintRoomお役立ちブログ
- ^ “【メンズメイクの完全ガイド】初心者でも簡単!ベースメイクから目元・眉毛のメイク手順まで徹底解説”. MOTEO. 2022年5月13日閲覧。
- ^ "アイメイク:アイメイクとはアイメーキャップ eye makeup の和製英語 ... 目もとの化粧のこと" p.28 より引用。三浦. (2016). 女子大学生のアイメイクの実態 ~アイメイクの使用状況と症状出現状況について~. 明治国際医療大学誌, 16号, pp. 27-37.
- ^ "日本舞踊のアイメイクのことを“目張り”といいます" Yamashita. (2022). 日本舞踊家の藤間爽子が、舞台化粧のハウツーとうる肌ケア法を公開。【セレブのスキンケア技と愛用コスメをレポート】. VOGUE JAPAN. 2022年6月20日発行.
- ^ "化粧手順を示す。... 手順 11.油紅や水紅で目張りを入れ" p.13 より引用。松永. (2009). 伝承のための歌舞伎化粧のデータ化とその応用に関する研究. 九州大学大学院芸術工学研究院, 博士論文.
- ^ a b c 大坊郁夫 二宮克美、子安増生(編)「化粧行動」『キーワードコレクション 社会心理学』 新曜社 2011 ISBN 9784788512368 pp.202-205.
- ^ 野滞桂子, 小越明美, 斉藤善子, 青木理美、「【原著】Cosmetic Program による入院がん患者のQOL改善の試み」『健康心理学研究』 2005年 18巻 1号 p.35-44, doi:10.11560/jahp.18.1_35, 日本健康心理学会, 2017年9月19日閲覧。
- ^ a b Manon Hedenborg White (2019). “11 Possession and Dispossession: Embodiment, Ecstasy, and Erotic Destruction”. The Eloquent Blood: The Goddess Babalon and the Construction of Femininities in Western Esotericism. Oxford Univ Pr. doi:10.1093/oso/9780190065027.003.0011