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「ベルント・シュナイダー (サッカー選手)」の版間の差分

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'''ベルント・シュナイダー'''({{lang|de|Bernd Schneider}}、[[1973年]][[11月17日]] - )は、[[ドイツ]](旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]])・[[イェーナ]]出身の[[サッカードイツ代表|元同国代表]]の元[[プロサッカー選手|サッカー選手]]。ポジションは[[ミッドフィールダー]]。
'''ベルント・シュナイダー'''({{lang|de|Bernd Schneider}}、[[1973年]][[11月17日]] - )は、[[ドイツ]](旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]])・[[イェーナ]]出身の[[サッカードイツ代表|元同国代表]]の元[[プロサッカー選手|サッカー選手]]。ポジションは[[ミッドフィールダー]]。


==歴==
== ==
[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]2部の[[FCカールツァイス・イェーナ]]でプロデビューした後、[[1998年]]に1部の[[アイントラハト・フランクフルト]]へ移籍。初戦でデビューを飾り33試合に出場したが、チーム自体は2部降格こそ免れたものの15位と低迷した。
[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]2部の[[FCカールツァイス・イェーナ]]でプロデビューした後、[[1998年]]に1部の[[アイントラハト・フランクフルト]]へ移籍。初戦でデビューを飾り33試合に出場したが、チーム自体は2部降格こそ免れたものの15位と低迷した。


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ドイツ代表としては[[1999年]][[7月28日]]の[[FIFAコンフェデレーションズカップ1999]]、[[サッカーニュージーランド代表|ニュージーランド]]戦でデビューを飾るが、[[2000年]]の[[UEFA欧州選手権2000]]メンバーからは落選し、不遇の時代を過ごした。
ドイツ代表としては[[1999年]][[7月28日]]の[[FIFAコンフェデレーションズカップ1999]]、[[サッカーニュージーランド代表|ニュージーランド]]戦でデビューを飾るが、[[2000年]]の[[UEFA欧州選手権2000]]メンバーからは落選し、不遇の時代を過ごした。


[[2001年]]、[[ルディ・フェラー]]に才能を見出されて、[[2002 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・日韓大会]]欧州予選の[[サッカーウクライナ代表|ウクライナ]]とのプレーオフにて久々ピッチに立つと本大会出場権獲得に貢献。迎えた[[2002年]]のワールドカップ本大会では全試合にスタメン出場し、1次リーグの[[サッカーサウジアラビア代表|サウジアラビア]]戦では1得点を決める活躍など準優勝に貢献した。
[[2001年]]、[[ルディ・フェラー]]に才能を見出されて、[[2002 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・日韓大会]]欧州予選の[[サッカーウクライナ代表|ウクライナ]]とのプレーオフにて久々ピッチに立つと本大会出場権獲得に貢献。迎えた[[2002年]]のワールドカップ本大会では全試合にスタメン出場し、1次リーグの[[サッカーサウジアラビア代表|サウジアラビア]]戦では1得点を決めただけでなく、大会中に3つのアシストを決めるなど<ref>{{cite web|url=https://www.fifa.com/fifaplus/en/articles/top-assisters-at-world-cup-qatar-2022|title=Top assisters at Qatar 2022|work=FIFA|access-date=2023-3-16}}</ref>、準優勝に貢献した。


その後も[[ユルゲン・クリンスマン]]、[[ヨアヒム・レーヴ]]と監督が代替わりした後も主力選手として活躍。[[2004年]]の[[UEFA欧州選手権2004]]、地元開催となった[[2006年]]の[[2006 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・ドイツ大会]]にも出場した。しかし[[2008年]]の[[UEFA欧州選手権2008]]は、[[椎間板ヘルニア]]のため欠場となった。シュナイダーはこの年を最後に代表から退くまで国際Aマッチ81試合に出場し4得点を記録した。
その後も[[ユルゲン・クリンスマン]]、[[ヨアヒム・レーヴ]]と監督が代替わりした後も主力選手として活躍。[[2004年]]の[[UEFA欧州選手権2004]]、地元開催となった[[2006年]]の[[2006 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・ドイツ大会]]にも出場した。しかし[[2008年]]の[[UEFA欧州選手権2008]]は、[[椎間板ヘルニア]]のため欠場となった。シュナイダーはこの年を最後に代表から退くまで国際Aマッチ81試合に出場し4得点を記録した。
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引退後は古巣のカールツァイス・イェーナで会長を務めるペーター・シュライバーのアドバイザーと、バイエル・レバークーゼンのスカウトを務めることになった<ref>[http://www.bayer04.de/b04/de/_md_aktuell-dt.aspx?aktuell=aktuell-2883 Bernd Schneider bittet Bayer 04 um Vertragsauflösung]2009年6月27日閲覧</ref>。
引退後は古巣のカールツァイス・イェーナで会長を務めるペーター・シュライバーのアドバイザーと、バイエル・レバークーゼンのスカウトを務めることになった<ref>[http://www.bayer04.de/b04/de/_md_aktuell-dt.aspx?aktuell=aktuell-2883 Bernd Schneider bittet Bayer 04 um Vertragsauflösung]2009年6月27日閲覧</ref>。


==人物==
== 人物 ==
20代の頃は器用な足技を生かし緩急を付けたボールコントロールや、鋭く正確なクロスで「白いブラジル人」の異名をとった<ref>[http://www.vanityfair.de/biografien/bernd-schneider/0/1980.html Bernd Schneider - Biografie - VANITYFAIR.DE - Vanity Faces ...]2009年6月27日閲覧</ref>。その後は右サイドハーフだけでなく、左右サイドバック、トップ下、ボランチ、ウイングもこなす[[ユーティリティープレイヤー|ユーティリティプレーヤー]]へと変化を遂げた。高い戦術理解度を持つことから重用され、たびたびキャプテンも務めた。キックの精度の高さから[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]を任される事も多かった。
20代の頃は器用な足技を生かし緩急を付けたボールコントロールや、鋭く正確なクロスで「白い[[ブラジル人]]」の異名をとった<ref>[http://www.vanityfair.de/biografien/bernd-schneider/0/1980.html Bernd Schneider - Biografie - VANITYFAIR.DE - Vanity Faces ...]2009年6月27日閲覧</ref>。その後は右サイドハーフだけでなく、左右サイドバック、トップ下、ボランチ、ウイングもこなす[[ユーティリティープレイヤー|ユーティリティプレーヤー]]へと変化を遂げた。高い戦術理解度を持つことから重用され、たびたびキャプテンも務めた。キックの精度の高さから[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]を任される事も多かった。


==エピソード==
== エピソード ==
*2002年の[[2002 FIFAワールドカップ|日韓ワールドカップ]]ではドイツから[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]を持ち込み、ホテルでプレーしようとしたが、上手くいかずフロントに苦情を言ったことがある(日本とヨーロッパでは互換性がなかったため)。
*2002年の[[2002 FIFAワールドカップ|日韓ワールドカップ]]ではドイツから[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]を持ち込み、ホテルでプレーしようとしたが、上手くいかずフロントに苦情を言ったことがある(日本とヨーロッパでは互換性がなかったため)。
*趣味は[[繋駕速歩競走]]観戦。
*趣味は[[繋駕速歩競走]]観戦。
*プロサッカー選手としては珍しく、[[愛煙家]]であった。
*プロサッカー選手としては珍しく、[[ヘビースモーカー]]であった。


==代表歴==
== 代表歴 ==
===出場大会===
*[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]] 1999-2008
*[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]
**代表デビュー:[[1999年]][[7月28日]]
**代表デビュー:[[1999年]][[7月28日]]
**代表通算:81試合出場 4得点
**[[2002 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・日韓大会]]出場 7試合1得点
**[[2002 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・日韓大会]]出場 7試合1得点
**[[2006 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・ドイツ大会]]出場 7試合
**[[2006 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・ドイツ大会]]出場 7試合

===試合数===
*国際Aマッチ 81試合 4得点(1999年-2008年)<ref>{{Nfteams}}</ref>
{{サッカー代表個人成績|ドイツ|1}}
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|1999||5||0
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|-
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|-
|2005||14||0
|-
|2006||16||2
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|2008||1||0
|-
!通算||81||4
|}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Bernd Schneider}}
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*[http://fussballdaten.de/spieler/schneiderbernd/ Career statistics at Fussballdaten] {{de icon}}
*[http://www.bernd-schneider.lu/ 公式ホームページ]{{de icon}}
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ベルント・シュナイダー
名前
愛称 シュニックス
ラテン文字 Bernd Schneider
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1973-11-17) 1973年11月17日(51歳)
出身地 イェーナ
身長 176cm
体重 74kg
選手情報
ポジション RSH、CHRSB
利き足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1991-1998 ドイツの旗 カールツァイス・イェーナ 124 (14)
1998-1999 ドイツの旗 フランクフルト 33 (4)
1999-2009 ドイツの旗 レバークーゼン 263 (35)
2009 ドイツの旗 レバークーゼンII 8 (1)
代表歴2
1999-2008 ドイツの旗 ドイツ 81 (4)
1. 国内リーグ戦に限る。2009年6月26日現在。
2. 2008年5月20日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ベルント・シュナイダーBernd Schneider1973年11月17日 - )は、ドイツ(旧東ドイツ)・イェーナ出身の元同国代表の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー

来歴

[編集]

ブンデスリーガ2部のFCカールツァイス・イェーナでプロデビューした後、1998年に1部のアイントラハト・フランクフルトへ移籍。初戦でデビューを飾り33試合に出場したが、チーム自体は2部降格こそ免れたものの15位と低迷した。

1999年にはバイエル・レバークーゼンへ移籍。レギュラーを不動のものとすると、ミヒャエル・バラックイェンス・ノヴォトニーらと共にチームに欠かすことの出来ない選手となり、1999-00シーズンと2001-02シーズンのブンデスリーガ準優勝、2001-02シーズンUEFAチャンピオンズリーグ準優勝に貢献。2003-04シーズンのブンデスリーガでは自身最多となる10得点を記録した。

ドイツ代表としては1999年7月28日FIFAコンフェデレーションズカップ1999ニュージーランド戦でデビューを飾るが、2000年UEFA欧州選手権2000メンバーからは落選し、不遇の時代を過ごした。

2001年ルディ・フェラーに才能を見出されて、ワールドカップ・日韓大会欧州予選のウクライナとのプレーオフにて久々ピッチに立つと本大会出場権獲得に貢献。迎えた2002年のワールドカップ本大会では全試合にスタメン出場し、1次リーグのサウジアラビア戦では1得点を決めただけでなく、大会中に3つのアシストを決めるなど[1]、準優勝に貢献した。

その後もユルゲン・クリンスマンヨアヒム・レーヴと監督が代替わりした後も主力選手として活躍。2004年UEFA欧州選手権2004、地元開催となった2006年ワールドカップ・ドイツ大会にも出場した。しかし2008年UEFA欧州選手権2008は、椎間板ヘルニアのため欠場となった。シュナイダーはこの年を最後に代表から退くまで国際Aマッチ81試合に出場し4得点を記録した。

長期に渡りクラブ、代表で活躍した息の長い選手だったが、2008-09シーズンを以って慢性的な背骨の痛みの為引退した[2]

引退後は古巣のカールツァイス・イェーナで会長を務めるペーター・シュライバーのアドバイザーと、バイエル・レバークーゼンのスカウトを務めることになった[3]

人物

[編集]

20代の頃は器用な足技を生かし緩急を付けたボールコントロールや、鋭く正確なクロスで「白いブラジル人」の異名をとった[4]。その後は右サイドハーフだけでなく、左右サイドバック、トップ下、ボランチ、ウイングもこなすユーティリティプレーヤーへと変化を遂げた。高い戦術理解度を持つことから重用され、たびたびキャプテンも務めた。キックの精度の高さからフリーキックを任される事も多かった。

エピソード

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代表歴

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出場大会

[編集]

試合数

[編集]
  • 国際Aマッチ 81試合 4得点(1999年-2008年)[5]


ドイツ代表国際Aマッチ
出場得点
1999 5 0
2000 0 0
2001 2 0
2002 14 1
2003 10 0
2004 14 0
2005 14 0
2006 16 2
2007 5 1
2008 1 0
通算 81 4

脚注

[編集]

外部リンク

[編集]