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[[File:Namenlijst Opperhoofden Japan 01.jpg|thumb|150px|歴代オランダ商館長名簿{{efn|"1610 [[ヤックス・スペックス]]" から "1845/1850 [[ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン]]"まで刻まれた[[象嵌]]細工 [[アムステルダム国立美術館]]}}]]

'''カピタン'''(甲比丹、甲必丹、加比旦)は、江戸時代に[[オランダ東インド会社]]が日本に置いた[[商館]]の最高責任者「'''商館長'''」のこと。[[ポルトガル語]]の{{読み仮名|Capitão|カピタン}}は、英語の{{読み仮名|Captain|キャプテン}}に相当する、即ち「船長・隊長」の意である{{efn|[[大航海時代]]には船団を率いたカピタンが商館(砦)を開設してそのまま長となることもあった。}}。[[南蛮貿易]]時代最初の交易国が[[ポルトガル海上帝国|ポルトガル]]だったため西洋の商館長を{{読み仮名|Capitão|カピタン}}と呼んでいたが、[[オランダ海上帝国|オランダ]]が取って代わってからも[[オランダ語]]の商館長を意味する{{読み仮名|Opperhoofd|オッペルホーフト}}にはならなかった。
[[画像:Nagasaki-Dejima-1796.jpg|right|thumb|300px|復元された[[出島]][[商館]]内部]]
'''カピタン'''('''甲比丹'''、'''甲必丹'''、'''加比旦''')とは[[江戸時代]]、[[オランダ東インド会社|東インド会社]]が[[日本]]に置いた[[商館]]の最高責任者「'''商館長'''」のこと。元は[[ポルトガル語]]で「仲間の長」という意味があり、日本は初めに[[ポルトガル]]との貿易([[南蛮貿易]])を開始したため、[[西洋]]の商館長をポルトガル語のCapitão(カピタン)で呼ぶようになった。その後ポルトガルに代わり[[オランダ]]が貿易の主役になったが、この呼び名は変わらなかった。本来オランダでは商館長のことをOpperhoofd(オッペルホーフト)と呼ぶが、日本では使われなかった。

== 西洋商館の歴史 ==
== 西洋商館の歴史 ==
[[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])[[種子島]]にポルトガル人が漂着して以来、日本には多くのポルトガル人や[[スペイン|イスパニア]]([[スペイン]])人が来し、[[キリスト教]]布教や貿易活動等を始めていた。天文19年([[1550年]])[[九州]][[平戸|平戸]]にポルトガル商船が来航し、[[永禄]]4年([[1561年]])からは平戸での貿易(南蛮貿易)を許可され、平戸[[ポルトガル商館]]建設されるようになった。また[[元亀]]2年([[1570年]])にはポルトガルの要請を受けて[[長崎]]を開港、長崎にも長崎ポルトガル商館が建つようになった。また、日本で布教活動をていた[[イエズス会]]が長崎の一部に領地を得るなど、貿易港長崎はかつてない発展を遂げた。[[天正]]12年([[1584年]])には平戸にイスパニア商船が来航し、平戸[[イスパニア商館]]が建設された。
[[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])[[種子島]]にポルトガル人が漂着して以来、多くのポルトガル人や[[スペイン・ハプスブルク朝|イスパニア]]([[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン]])人が来し、貿易や[[キリスト教]]布教を始めていた。天文19年([[1550年]])[[肥前国]][[平戸島#歴史|平戸]]に来航したポルトガル商船が[[永禄]]4年([[1561年]])平戸での貿易(南蛮貿易)を許可され、平戸[[ポルトガル商館]]建設した。


[[元亀]]2年([[1571年]])ポルトガルの要請で[[長崎港#歴史|長崎]]が開港{{efn|[[宮ノ前事件]]も参照。}}した。[[イエズス会]]は土地を寄進され{{efn|[[大村純忠]]{{efn|[[千々石ミゲル]]の伯父。}}が1570年[[長崎県#中世|長崎村]]、1580年[[茂木町 (長崎県)#歴史|茂木村]]を寄進した{{Sfn|松田}}<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=n_bYAAAAMAAJ&dq=editions:LCCN56029671&hl=ja ''" Sumario de las cosas de Japon 1583 Monumenta Nipponica monographs "'']『日本事集』(1583年):『日本概要』(1592年)への追加 第1巻 [[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]] 著 Jose Luis Alvarez-Taladriz 編(1954年)</ref>。}}、ポルトガル商館が建ち、貿易港長崎はかつてない発展を遂げた。[[天正]]12年([[1584年]])平戸にイスパニア商船が来航し、平戸[[イスパニア商館]]が建設された。平戸及び長崎は南蛮貿易で大きく栄え「{{要出典|西国の京都|date=2023年12月}}」とも謳われた。
これにより一時平戸及び長崎は対西洋貿易で大きく栄え、西洋風の建物が立ち並び「'''西国の京都'''」ともうたわれたが、西洋諸国による[[植民地]]獲得と表裏一体のキリスト教布教活動に危機感を強めた[[豊臣秀吉]]は、天正15年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]](1587年[[7月24日]])に[[日本二十六聖人|天正の禁令]]を発布、キリスト教禁止を命じた。


天正15年([[1587年]])[[豊臣秀吉]]は[[バテレン追放令]]を発布した。目的は「外交貿易権掌握{{efn|同時代人の[[ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン#『日本王国記』|ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン]]も著書<ref>『日本王国記 [https://clasicoshispanicos.com/ebook/relacion-del-reino-nipon-que-llaman-corruptamente-japon/ ''Relación del Reino del Nipón a que llaman corruptamente Japón''](転訛してハポンと呼ばれている日本王国に関する報告)』(初稿 第1輯 1598年)</ref>に綴っている。}}」「神社仏閣への迫害{{Sfn|松田}}」「日本人の奴隷<ref>ルシオ・デ・ソウザ/[[東京大学史料編纂所|岡美穂子]] 著『[[大航海時代]]の[[日本人]][[奴隷]]』[[中央公論新社]] (2021年) 増補新版〈[[中公選書]]〉{{see also|ポルトガルの奴隷貿易#日本人奴隷}}</ref>売買禁止」など諸説ある。
そのような中、[[慶長]]5年[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]([[1600年]][[4月29日]])、[[オランダ]]の「ロッテルダム貿易会社」に属する商船[[リーフデ号]](同船の所属を[[オランダ東インド会社]]とする記述が見られるが、同社の設立は[[1602年]]とリーフデ号の日本漂着より後のことであり、誤りである)が難破し、[[豊後国]]に漂着した。生存者の中から[[ウィリアム・アダムス]](三浦按針)と[[ヤン・ヨーステン]]が[[江戸]]に送られ[[徳川家康]]と会見した。半年後の[[関ヶ原の戦い]]で家康が天下を取ると2人は家康の外交顧問となり、それぞれ日英・日蘭貿易のために活動を開始した。慶長14年([[1609年]])、平戸に平戸[[オランダ商館]]を建設する許可を得たオランダ東インド会社は、[[ヤックス・スペックス]]を初代オランダカピタン(商館長)として派遣した。
<gallery style="font-size:smaller">
Jesuit with Japanese nobleman circa 1600.jpg|ポルトガルのイエズス会士と神戸の大名<ref>16世紀末 ''" Asies Nouvelles - Atlas Géopolitique "'' livre et assimilé géographie, géopolitique: Sciences humaines et sociales; [https://www.belin-editeur.com/michel-foucher Michel Foucher], 13/05/2002, [https://www.belin-editeur.com/accueil Belin:éditeur]. EAN 9782701127606</ref>
Toyotomi-Hideyoshi-Purge-Directive-Order-to-the-Jesuits-July-24-1587.png|[[キリシタン|吉利支丹]][[神父|伴天連]]追放令([[松浦史料博物館]])
William adams vanderaa.png|[[徳川家康|家康]]に謁見する[[ウィリアム・アダムス|アダムス]]<ref>''" A series of accounts of famous Sea and Land-Voyages "'' 1705年ごろ [[:en:Pieter van der Aa|Pieter van der Aa]] 作</ref>
JapaneseTrade17thCentury.jpg|[[朱印船貿易]]路・[[日本人街#歴史|日本人町]]と在外邦人居留地区<ref>17世紀初頭の図 Vié, Michel 著 "''Histoire du Japon des originesà Meiji''" Presses universitaires de France出版 1969年 第6版更新</ref>
</gallery>
[[慶長]]5年([[1600年]])、[[ロッテルダム]]{{仮リンク|マゼラン社|nl|Magelhaensche Compagnie}}{{efn|マゼラン社とは[[マゼラン海峡]]を経由する航路によるアジア貿易を目指した会社で、後の[[オランダ東インド会社]]の前身にあたる12の{{仮リンク|プレカンパニー|nl|Voorcompagnie}}のうちの1社だった。{{Cite web|url=https://www.vocsite.nl/geschiedenis/schema_voorcomp.html|title=De VOC site: Geschiedenis; van voorcompagnie naar VOC|accessdate=2020-10-02|publisher=Jaap van Overbeek te Wageningen}}}}の[[リーフデ号]]が[[豊後国]]に漂着し、生存者{{efn|事務長[[メルヒオール・ファン・サントフォールト]]は江戸の大工の娘・洗礼名イサベラとの間に二女を儲け{{efn|各々'''カピタン'''[[ピーテル・ファン・サンテン]]、[[ウィレム・フルステーヘン]]と結婚。}}1639年第5次鎖国令まで自由貿易で財を成した{{Sfn|森}}。}}の中から[[ウィリアム・アダムス]]([[ウィリアム・アダムス|三浦按針]])と[[ヤン・ヨーステン|ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン]]は[[江戸]]に送られ[[徳川家康]]と会見した。[[関ヶ原の戦い]]後、両名は[[明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧#16世紀|外交顧問の旗本]]{{efn|これ以前から家康の顧問格には[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ#日本訪問|アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]](1539-1606)、[[ポルトガル海上帝国|ポルトガル]][[イエズス会]]士[[ルイス・デ・セルケイラ]]([https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/01054808 第3代日本司教]1552-1614)、家康の[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン]]との貿易交渉公使で[[フランシスコ会]]士[[アロンソ・ムニョス]](日本代理管区長 ? -1620{{Sfn|ブリタニカ}}){{efn|1610年[[サン・ブエナ・ベントゥーラ]]号で[[田中勝介]]{{efn|[[金銀島探検]]が目的の初代駐日[[フェリペ3世 (スペイン王)|スペイン]]大使・[[フェリペ3世 (スペイン王)|国王]]親書を携えた[[セバスティアン・ビスカイノ]]を伴い1611年帰朝。}}らとともに[[ヌエバ・エスパーニャ]]へ。更に[[スペイン・ハプスブルク朝|本国]]に渡り家康の[[親書]]を[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]に届けた{{Sfn|ブリタニカ}}。}}らがいた。}}に取り立てられ[[日英関係#18世紀以前|日英]]・[[日蘭関係#歴史|日蘭貿易]]に貢献した。慶長14年([[1609年]])平戸[[オランダ商館]]建設の許可([[朱印状]]){{efn|[[メルヒオール・ファン・サントフォールト|ファン・サントフォールト]]の通訳{{Sfn|森}}で特使が[[マウリッツ (オラニエ公)|オラニエ公マウリッツ]]の親書を携え[[駿府]]に向かった<ref>ニコラース・ポイク 著『最初のオランダ遣日使節の駿府旅行記』[[:nl:nationaalarchief|オランダ国立公文書館員ルーロフス]] 編 [[東京大学史料編纂所|東京大学史料編纂所員]]金井圓ら訳 [https://hmn.wiki/ja/Baden_State_Library バーデン州立図書館]: 前文「...家康は[[大航海時代]]諸外国から注目されていた...」</ref>。}}を得た[[オランダ東インド会社]]は初代'''カピタン'''に[[ヤックス・スペックス]]を派遣した。


しかし家康も日々拡大していくキリスト教を懸念し、慶長17年([[1612年]])、豊臣政権以来の新たな[[キリシタン禁教令]]を発布、貿易のみの外交関係を推進する。こうしたこともあり、西洋諸国間で対日貿易の主導権争いが過熱し、慶長18年([[1613年]])5月には[[イギリス]]平戸に[[イギリス商館]]を建設し初代イギリス商館長に[[リチャード・コックス]]を置いた。しかしイギリスは、[[1623年]]に発生した[[アンボイナ事件]]を機に対[[インド]]貿易注力する方針転換、平戸のイギリス商館を閉鎖し対日貿易から離脱した。
慶長18年([[1613年]][[イギリス東インド会社]]平戸に[[イギリス商館]]を建設し初代商館長に[[リチャード・コックス]]を置いた[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])の[[アンボイナ事件]]を機に対[[インド]]貿易注力方針転換、平戸の商館を閉鎖し対日貿易から離脱した。
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KingJamesLetter.jpg|家康宛て[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の国書 (1613年) {{efn|[[イギリス東インド会社]]代表[[:en:Thomas Smythe|Sir Thomas Smythe]]が[[クローブ号]]で[[ジョン・セーリス]]に届けさせた。}}
Bodleian Library MS. Jap. b.2 Shuinjo.jpg|[[イギリス東インド会社]]宛家康の[[朱印状]] <ref>1613年 [[ボドリアン図書館]]</ref>
Antique japanese (samurai) hon kozane dou-maru gusoku.jpg|[[徳川秀忠|秀忠]]が[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]に贈った[[当世具足]]<ref>[[ロンドン塔]] 中世復古調本小札胴丸仕立 [https://www.clair.or.jp/j/forum/c_mailmagazine/201302_2/2-4.pdf "''2013年は日英交流400周年''"] {{~}}JAPAN400 のご紹介{{~}} CLAIR メールマガジン 2013年2月配信 (ロンドン事務所)</ref>
Deshima, AK-MAK-1734-1.jpg|[[出島]]<ref>漆塗用下圖 [[京都]]製 1800年ごろ [[アムステルダム国立美術館]]</ref>
</gallery>
慶長17年([[1612年]])[[江戸幕府]]は[[禁教令]]を布告し、慶長18年(1613年)家康が公布させた「[[神父|伴天連]]追放之文」が以後の基本となる。元和6年([[1620年]])の[[平山常陳事件]]は幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけた。元和8年([[1622年]])[[元和の大殉教]]以後諸大名もキリシタン迫害を徹底した。元和9年(1623年)幕府はポルトガル人の日本在住禁止、[[朱印船]]の[[スペイン領東インド|マニラ]]渡航禁止など公布した。


その後[[江戸幕府]]は、[[元和 (日本)|元和]]9年(1623年)に発生した[[元和の大殉教]]以後キリスト教弾圧をさらに強化するとともに、[[寛永]]元年([[1624年]])には、イエズス会を組織したイスパニア船の来航を禁止し平戸イスパニア商館閉鎖した。また、ポルトガルマカオ当局対して宣教師を日本に派遣させないことを要求し、マカオも日本との貿易途絶を恐れ、これに応じた。
[[寛永]]元年([[1624年]])イエズス会を組織したイスパニア船の来航を禁止し平戸イスパニア商館閉鎖した。[[ポルトガルマカオ]]宣教師を日本に派遣させないことを要求し、日本との貿易途絶を恐れたマカオは受諾した。


それでも宣教師は諦めず、東南アジアの[[日本人街#歴史|日本人町]]に渡航して布教{{efn|[[:en:António Francisco Cardim#Career|António Francisco Cardim]]は[[アユタヤ日本人町|アユタヤ]]に1626年[[イエズス会]][[伝道所]]を設立。何百人もの住民に[[秘跡]]を授けた<ref>Ribeiro, M. 著
それでも宣教師は日本人への布教をあきらめず、日本とポルトガル、スペインの主権が及ばない東南アジアの日本町に渡航し、そこに居住・渡航する日本人に対して布教を行い、中には、商人や船員を装い、朱印船を利用して日本に密航を企てる者もいた。この状況を重く見た幕府は、キリスト教の禁教を徹底させるために、朱印船貿易の廃止を決意した。その代わり、朱印船の役割を外国人(ポルトガル人・オランダ人・中国人)に代行させる観点から、[[長崎奉行]]の定員を[[旗本]]2人とし、長崎奉行への職務規定(「鎖国令」)を通じて、中国や東南アジアとの中継貿易の拠点としての長崎の整備を進めていった。
[https://www.redalyc.org/pdf/361/36100305.pdf "''The Japanese Diaspora in the Seventeenth Century. According to Jesuit Sources''"] 2001 Bulletin of Portuguese - Japanese Studies. 3: 53–83. ISSN 0874-8438.</ref>。}}したり、朱印船で日本に密航を企てたりしたので、幕府は禁教徹底のため[[朱印船#朱印船貿易の終末|朱印船貿易]]廃止を決定し、その役割を外国人(ポルトガル人・オランダ人・中国人)に代行させる観点から[[長崎奉行]]の定員を[[旗本]]2人とした。長崎奉行への職務規定([[鎖国#キリスト教の禁止|鎖国令]])を通じて、中国や東南アジアとの中継貿易拠点としての長崎を整備していった。


寛永10年([[1633年]])の「第一次鎖国令」では、[[奉書船]]以外での渡航や5年以上東南アジアに永している日本人の帰国が禁止された。寛永12年([[1635年]])の「第三次鎖国令」では、日本人の東南アジア方面との往来全面的に禁止され、寛永13年([[1636年]])の「第四次鎖国令」では、ポルトガル人の妻子や縁者を[[バタア]]に追放した。さらに長崎に[[人工島]]である[[出島]]を建設して、出島に長崎ポルトガル商館を移築し出島内にポルトガル人を収容して管理した。
寛永10年([[1633年]])[[奉書船]]以外での渡航や5年以上在外居の帰禁止寛永12年([[1635年]])人の東南アジア方面往来全面禁止、寛永13年([[1636年]])ポルトガル人の妻子や縁者を[[バタヴィア]]に追放さらに長崎に[[出島]]を建設して長崎ポルトガル商館を移築し出島内にポルトガル人を収容管理した。


寛永14年([[1637年]])、追いつめられた[[キリシタン]]らが[[島原の乱]]を起こすと、翌年乱を鎮圧した幕府はポルトガルとの貿易の打ち切りを望むようになった。寛永16年([[1639年]])将軍徳川家光と老中全員、オランダ商館長である[[フランソワ・カロン]]との会談が行われ、幕府側はカロンから、[[台湾]]経由で生糸などの中国製品などを確保できること、台湾に渡航している中国人が[[明朝]]からの渡航可を与えられたであり、かつ、密航者ではないこと、オランダがスペインとポルトガルの妨害を跳ね返す軍事力を備えていることなどを確認し、オランダがポルトガルと朱印船の代行ができることを信じ、ポルトガルとの貿易の打ち切りを決定した。これを受けて幕府は、長崎奉行のみならず、[[九州地方]]の大名を中心とした全国の大名に、ポルトガル船の来航禁止と、ポルトガル船に対する警戒と打払いを趣旨とした命令(「第五次鎖国令」)が発布され、ポルトガル人はこれを受けて出島から追放された。
寛永14年([[1637年]])[[島原の乱]]を翌年鎮圧した幕府はポルトガル貿易の打ち切りを望むようになった。寛永16年([[1639年]])将軍[[徳川家光]]・幕閣とオランダ商館長[[フランソワ・カロン]]会談、[[台湾]]経由で[[生糸]]などの中国製品を確保できること、台湾に渡航している中国人が密航者ではない[[明|明朝]]許商であこと、オランダが対西葡軍事力を備えていることなどを確認し、ポルトガル貿易の打ち切りを決定した。幕府は全国の大名にポルトガル船に対する警戒と打払い・来航禁止令を発布、ポルトガル人は出島から追放された。

オランダは、島原の乱の鎮圧に功があったこと及び西洋諸国に関する情報収集等の目的から貿易続行を許され、寛永17年([[1640年]])、オランダ商館を平戸から長崎の出島に移設し、ここに「鎖国」は完成した。以後、日本における西洋諸国の商館は、長崎出島のオランダ商館のみが[[安政]]5年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]([[1858年]][[8月18日]])の[[日蘭修好通商条約]]締結まで存在することとなった。

== 歴代ポルトガルカピタン(商館長) ==
=== 平戸 ===
{{節stub}}
=== 長崎 ===
*'''[[シマン・ブラス・デ・パイア]]'''
{{節stub}}
== 歴代イスパニア(スペイン)カピタン(商館長) ==
=== 平戸 ===
{{節stub}}
== 歴代イギリスカピタン(商館長) ==
=== 平戸 ===
*'''初代'''、'''[[リチャード・コックス]]'''(1613年-1623年)
== 歴代オランダカピタン(商館長) ==
=== 平戸 ===
[[画像:HendrikDoeffJapan.jpg|right|thumb|150px|156代(149代)[[ヘンドリック・ドゥーフ]]]]
*'''初代'''、'''[[ヤックス・スペックス]]'''(1609年-1613年)
*'''2代'''、'''[[ヘンドリック・ブラウエル]]'''(1613年-1614年)
*'''3代'''、'''ヤックス・スペックス'''(2度目)(1614年-1621年)
*'''4代'''、'''[[レオナルド・キャンプス]]'''(1621年-1623年)
*'''5代'''、'''[[コルネリス・ファン・ナイエンローデ]]'''(1623年-1632年)
*'''6代'''、'''[[ピーテル・ファン・サンテン]]'''(1632年-1633年)
*'''7代'''、'''[[ニコラス・クーケバッケル]]'''(1633年-1638年)
*'''8代'''、'''[[フランソワ・カロン]]'''(1639年3月2日-1640年)
=== 長崎 ===
*'''8代'''(初代)、'''フランソワ・カロン'''(継続)(1640年-1641年2月13日)
*'''9代'''(2代)、'''[[マクシミリアン・ル・メール]]'''(1641年2月14日-1641年10月30日)
*'''10代'''(3代)、'''[[ヤン・ファン・エルセラック]]'''(1641年11月1日-1642年10月29日)
*'''11代'''(4代)、'''[[ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル]]'''(1642年10月29日-1643年8月1日)
*'''12代'''(5代)、'''ヤン・ファン・エルセラック'''(2度目)(1643年8月1日-1644年11月24日)
*'''13代'''(6代)、'''ピーテル・アントニススゾーン・オーフルトワーテル'''(2度目)(1644年11月24日-1645年11月30日)
*'''14代'''(7代)、'''[[レイニール・ファン・ツム]]'''(1645年11月30日-1646年10月27日)
*'''15代'''(8代)、'''[[ウィレム・フルステーヘン]]'''(1646年10月28日-1647年10月10日)
*'''16代'''(9代)、'''[[フレデリック・コイエット]]'''(1647年11月3日-1648年12月9日)
*'''17代'''(10代)、'''[[ディルク・スヌーク]]'''(1648年12月9日-1649年11月5日)
*'''18代'''(11代)、'''[[アントニオ・ファン・ブロウクホルスト]]'''(1649年11月5日-1650年10月25日)
*'''19代'''(12代)、'''[[ピーテル・ステルテミウス]]'''(1650年10月25日-1651年11月3日)
*'''20代'''(13代)、'''[[アドリアン・ファン・デル・ブルフ]]'''(1651年11月1日-1652年11月3日)
*'''21代'''(14代)、'''フレデリック・コイエット'''(2度目)(1652年11月4日-1653年11月10日)
*'''22代'''(15代)、'''[[ガブリエル・ハッパルト]]'''(1653年11月4日-1654年10月31日)
*'''23代'''(16代)、'''[[レオナルド・ウインニンクス]]'''(1654年10月31日-1655年10月23日)
*'''24代'''(17代)、'''[[ヨアン・ボウヘリヨン]]'''(1655年10月23日-1656年11月1日)
*'''25代'''(18代)、'''[[ツァハリアス・ヴァグナー]]'''(1656年11月1日-1657年10月27日)
*'''26代'''(19代)、'''ヨアン・ボウヘリヨン'''(2度目)(1657年10月27日-1658年10月23日)
*'''27代'''(20代)、'''ツァハリアス・ヴァグナー'''(2度目)(1658年10月22日-1659年11月4日)
*'''28代'''(21代)、'''ヨアン・ボウヘリヨン'''(3度目)(1659年11月4日-1660年10月26日)
*'''29代'''(22代)、'''[[ヘンドリック・インディヤック]]'''(1660年10月26日-1661年11月21日)
*'''30代'''(23代)、'''[[ディルク・ファン・リエル]]'''(1661年11月11日-1662年11月6日)
*'''31代'''(24代)、'''ヘンドリック・インディヤック'''(2度目)(1662年11月6日-1663年10月20日)
*'''32代'''(25代)、'''[[ウィレム・ボルガー]]'''(1663年10月20日-1664年11月7日)
*'''33代'''(26代)、'''[[ヤコブ・フルイス]]'''(1664年11月7日-1665年10月27日)
*'''34代'''(27代)、'''ウィレム・ボルガー'''(2度目)(1665年10月28日-1666年10月27日)
*'''35代'''(28代)、'''[[ダニエル・シックス]]'''(1666年10月18日-1667年11月6日)
*'''36代'''(29代)、'''[[コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング]]'''(1667年11月6日-1668年10月25日)
*'''37代'''(30代)、'''ダニエル・シックス'''(2度目)(1668年10月25日-1669年10月14日)
*'''38代'''(31代)、'''[[フランソワ・デ・ハース]]'''(1669年10月14日-1670年11月2日)
*'''39代'''(32代)、'''[[マルチヌス・カエサル]]'''(1670年11月2日-1671年11月12日)
*'''40代'''(33代)、'''[[ヨハネス・カンフフイス]]'''(1671年10月22日-1672年11月12日)
*'''41代'''(34代)、'''マルチヌス・カエサル'''(2度目)(1672年11月13日-1673年10月29日)
*'''42代'''(35代)、'''ヨハネス・カンフフイス'''(2度目)(1673年10月29日-1674年10月19日)
*'''43代'''(36代)、'''マルチヌス・カエサル'''(3度目)(1674年10月20日-1675年11月7日)
*'''44代'''(37代)、'''ヨハネス・カンフフイス'''(3度目)(1675年11月7日-1676年10月27日)
*'''45代'''(38代)、'''[[ディルク・デ・ハース]]'''(1676年10月27日-1677年10月16日)
*'''46代'''(39代)、'''[[アルベルト・ブレフインク]]'''(1677年10月16日-1678年11月4日)
*'''47代'''(40代)、'''ディルク・デ・ハース'''(2度目)(1678年11月4日-1679年10月24日)
*'''48代'''(41代)、'''アルベルト・ブレフインク'''(2度目)(1679年10月24日-1680年11月11日)
*'''49代'''(42代)、'''[[イサーク・ファン・スヒンネ]]'''(1680年11月11日-1681年10月31日)
*'''50代'''(43代)、'''[[ヘンドリック・カンジウス]]'''(1681年10月31日-1682年10月20日)
*'''51代'''(44代)、'''[[アンドレアス・クレイエル]]'''(1682年10月20日-1683年11月8日)
*'''52代'''(45代)、'''コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング'''(2度目)(1683年11月8日-1684年10月28日)
*'''53代'''(46代)、'''[[ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム]]'''(1684年10月25日-1685年10月7日)
*'''54代'''(47代)、'''アンドレアス・クレイエル'''(2度目)(1685年10月17日-1686年11月5日)
*'''55代'''(48代)、'''コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング'''(3度目)(1868年11月5日-1687年10月25日)
*'''56代'''(49代)、'''ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム'''(2度目)(1687年10月25日-1688年10月13日)
*'''57代'''(50代)、'''[[コルネリス・ファン・オウトホールン]]'''(1688年10月13日-1689年11月1日)
*'''58代'''(51代)、'''[[バルタザール・スウェールス]]'''(1689年11月1日-1690年10月21日)
*'''59代'''(52代)、'''ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム'''(3度目)(1690年10月21日-1691年11月9日)
*'''60代'''(53代)、'''コルネリス・ファン・オウトホールン'''(2度目)(1691年11月9日-1692年10月29日)
*'''61代'''(54代)、'''ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム'''(4度目)(1692年10月29日-1693年10月19日)
*'''62代'''(55代)、'''[[ヘリット・デ・ヘーレ]]'''(1963年10月19日-1694年11月7日)
*'''63代'''(56代)、'''[[ヘンドリック・ディックマン]]'''(1694年11月7日-1695年10月27日)
*'''64代'''(57代)、'''コルネリス・ファン・オウトホールン'''(3度目)(1695年10月27日-1696年10月15日)
*'''65代'''(58代)、'''ヘンドリック・ディックマン'''(2度目)(1696年10月15日-1697年11月3日)
*'''66代'''(59代)、'''[[ピーテル・デ・ボス]]'''(1697年11月3日-1698年10月23日)
*'''67代'''(60代)、'''ヘンドリック・ディックマン'''(3度目)(1698年10月23日-1699年10月21日)
*'''68代'''(61代)、'''ピーテル・デ・ボス'''(2度目)(1699年10月21日-1700年10月31日)
*'''69代'''(62代)、'''ヘンドリック・ディックマン'''(4度目)(1700年10月31日-1701年10月21日)
*'''70代'''(63代)、'''[[アブラハム・ドウグラス]]'''(1701年10月21日-1702年10月30日)
*'''71代'''(64代)、'''[[フェルディナント・デ・グロート]]'''(1702年11月9日-1703年10月30日)
*'''72代'''(65代)、'''[[ギデオン・タント]]'''(1703年10月30日-1704年10月18日)
*'''73代'''(66代)、'''フェルディナント・デ・グロート'''(2度目)(1704年10月18日-1705年11月6日)
*'''74代'''(67代)、'''[[ハルナス・メンシング]]'''(1705年11月-1706年10月)
*'''75代'''(68代)、'''フェルディナント・デ・グロート'''(3度目)(1706年10月26日-1707年10月15日)
*'''76代'''(69代)、'''ハルナス・メンシング'''(2度目)(1707年10月15日-1708年11月2日)
*'''77代'''(70代)、'''[[ヤスパー・ファン・マンスダレ]]'''(1708年11月2日-1709年10月22日)
*'''78代'''(71代)、'''ハルナス・メンシング'''(3度目)(1709年10月22日-1710年11月10日)
*'''79代'''(72代)、'''[[ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン]]'''(1710年11月10日-1711年10月31日)
*'''80代'''(73代)、'''[[コルネリス・ラルディヨン]]'''(1711年10月31日-1712年11月7日)
*'''81代'''(74代)、'''ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン'''(2度目)(1712年11月-1713年11月)
*'''82代'''(75代)、'''コルネリス・ラルディヨン'''(2度目)(1713年11月7日-1714年10月27日)
*'''83代'''(76代)、'''ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン'''(3度目)(1714年10月27日-1715年10月19日)
*'''84代'''(77代)、'''[[ギデオン・ボウダエン]]'''(1715年10月19日-1716年11月3日)
*'''85代'''(78代)、'''[[ヨアン・アオウェル]]'''(1716年11月3日-1717年10月24日)
*'''86代'''(79代)、'''[[クリスティアーン・ファン・ブリベルグ]]'''(1717年10月24日-1718年10月13日)
*'''87代'''(80代)、'''ヨアン・アオウェル'''(2度目)(1718年10月13日-1719年10月21日)
*'''88代'''(81代)、'''クリスティアーン・ファン・ブリベルグ'''(2度目)(1719年10月21日-1720年10月21日)
*'''89代'''(82代)、'''[[ロエロフ・ディオダティ]]'''(1720年10月21日-1721年11月9日)
*'''90代'''(83代)、'''[[ヘンドリック・デュルファン]]'''(1721年11月9日-1722年10月)
*'''91代'''(84代)、'''ヘンドリック・デュルファン'''(2度目)(1722年10月-1723年10月18日)
*'''92代'''(85代)、'''[[ヨハネス・ゼンデンス]]'''(1723年10月18日-1725年10月25日)
*'''93代'''(86代)、'''[[ヨアン・デ・ハルトグ]]'''(1725年10月25日-1726年10月15日)
*'''94代'''(87代)、'''[[ピーテル・ボーケスティン]]'''(1726年10月15日-1727年11月3日)
*'''95代'''(88代)、'''[[アブラハム・ミンネドンク]]'''(1727年11月3日-1728年10月21日)
*'''96代'''(89代)、'''ピーテル・ボーケスティン'''(2度目)(1728年10月21日-1729年10月12日)
*'''97代'''(90代)、'''アブラハム・ミンネドンク'''(2度目)(1729年10月12日-1730年10月31日)
*'''98代'''(91代)、'''ピーテル・ボーケスティン'''(3度目)(1730年10月31日-1732年11月7日)
*'''99代'''(92代)、'''[[ヘンドリック・ファン・デ・ベル]]'''(1732年11月7日-1733年10月27日)
*'''100代'''(93代)、'''[[ロジャー・デ・ラベル]]'''(1733年10月27日-1734年10月16日)
*'''101代'''(94代)、'''[[デビッド・ドリンクマン]]'''(1734年10月16日-1735年11月4日)
*'''102代'''(95代)、'''[[ベルナルドス・コーパ]]'''(1735年11月4日-1736年10月24日)
*'''103代'''(96代)、'''[[ヤン・ファン・デル・クルイッセ]]'''(1736年10月24日-1737年10月13日)
*'''104代'''(97代)、'''[[ゲラルドゥス・ベルナルデュス・ビッスヘル]]'''(1737年10月13日-1739年10月21日)
*'''105代'''(98代)、'''[[トーマス・ファン・ラヘー]]'''(1739年10月22日-1740年11月8日)
*'''106代'''(99代)、'''[[ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン]]'''(1740年11月9日-1741年10月28日)
*'''107代'''(100代)、'''トーマス・ファン・ラヘー'''(2度目)(1741年10月29日-1742年10月17日)
*'''108代'''(101代)、'''ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン'''(2度目)(1742年10月17日-1743年11月9日)
*'''109代'''(102代)、'''[[デビッド・ブロウウェル]]'''(1743年11月5日-1744年11月1日)
*'''110代'''(103代)、'''ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン'''(3度目)(1744年11月2日-1745年12月28日)
*'''111代'''(104代)、'''[[ヤン・ロウイス・デ・ウィン]]'''(1745年12月30日-1746年11月2日)
*'''112代'''(105代)、'''[[ヤコブ・バルデ]]'''(1746年11月3日-1747年10月25日)
*'''113代'''(106代)、'''ヤン・ロウイス・デ・ウィン'''(2度目)(1747年10月28日-1748年11月11日)
*'''114代'''(107代)、'''ヤコブ・バルデ'''(2度目)(1748年11月12日-1749年12月8日)
*'''115代'''(108代)、'''[[ヘンドリック・ファン・ホモエド]]'''(1749年12月8日-1750年12月24日)
*'''116代'''(109代)、'''[[アブラハム・ファン・スフテレン]]'''(1750年12月25日-1751年11月18日)
*'''117代'''(110代)、'''ヘンドリック・ファン・ホモエド'''(2度目)(1751年11月19日-1752年12月5日)
*'''118代'''(111代)、'''[[デビッド・ボエレン]]'''(1752年12月6日-1753年10月15日)
*'''119代'''(112代)、'''ヘンドリック・ファン・ホモエド'''(3度目)(1753年10月16日-1754年11月3日)
*'''120代'''(113代)、'''デビッド・ボエレン'''(2度目)(1754年11月4日-1755年10月25日)
*'''121代'''(114代)、'''[[ハーバート・ベルメウレン]]'''(1755年10月25日-1756年10月12日)
*'''122代'''(115代)、'''ダビド・ボエレン'''(3度目)(1756年10月13日-1757年10月31日)
*'''123代'''(116代)、'''ハーバート・ベルメウレン'''(2度目)(1757年11月1日-1758年11月11日)
*'''124代'''(117代)、'''[[ヨハネス・レイノウトス]]'''(1758年11月12日-1760年11月11日)
*'''125代'''(118代)、'''[[マーティン・フイスホールン]]'''(1760年11月12日-1761年10月30日)
*'''126代'''(119代)、'''ヨハネス・レイノウトス'''(2度目)(1761年10月31日-1762年12月2日)
*'''127代'''(120代)、'''[[フレドリック・ウィレム・ウィネケ]]'''(1762年12月3日-1763年11月6日)
*'''128代'''(121代)、'''[[ヤン・クランス]]'''(1763年11月7日-1764年10月24日)
*'''129代'''(122代)、'''フレドリック・ウィレム・ウィネケ'''(2度目)(1764年10月25日-1765年11月7日)
*'''130代'''(123代)、'''ヤン・クランス'''(2度目)(1765年11月8日-1766年10月31日)
*'''131代'''(124代)、'''[[ヘルマン・クリスティアーン・カステンス]]'''(1766年11月1日-1767年10月20日)
*'''132代'''(125代)、'''ヤン・クランス'''(3度目)(1767年10月21日-1769年11月8日)
*'''133代'''(126代)、'''[[オルフェルト・エリアス]]'''(1769年11月9日-1770年11月16日)
*'''134代'''(127代)、'''[[ダニエル・アーメナウルト]]'''(1770年11月17日-1771年11月9日)
*'''135代'''(128代)、'''[[アレント・ウィレム・フェイト]]'''(1771年11月10日-1772年11月3日)
*'''136代'''(129代)、'''ダニエル・アーメナウルト'''(2度目)(1772年11月4日-1773年11月22日)
*'''137代'''(130代)、'''アレント・ウィレム・フェイト'''(2度目)(1773年11月23日-1774年11月10日)
*'''138代'''(131代)、'''ダニエル・アーメナウルト'''(3度目)(1774年11月11日-1775年10月28日)
*'''139代'''(132代)、'''アレント・ウィレム・フェイト'''(3度目)(1775年10月28日-1776年11月22日)
*'''140代'''(133代)、'''[[ヘンドリック・ゴッドフリード・デゥールコープ]]'''(1776年11月23日-1777年11月11日)
*'''141代'''(134代)、'''アレント・ウィレム・フェイト'''(4度目)(1777年11月12日-1779年11月28日)
*'''142代'''(135代)、'''[[イサーク・チチング]]'''(1779年11月29日-1780年11月5日)
** 著書『オランダ商館長の見た日本 往復書翰集』(横山伊徳編訳 [[吉川弘文館]] 2005年)
*'''143代'''(136代)、'''アレント・ウィレム・フェイト'''(5度目)(1780年11月6日-1781年11月23日)
*'''144代'''(137代)、'''イサーク・チチング'''(2度目)(1781年11月24日-1783年10月26日)
*'''145代'''(138代)、'''[[ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ]]'''(1783年10月27日-1784年8月)
*'''146代'''(139代)、'''イサーク・チチング'''(3度目)(1784年8月-1784年11月30日)
*'''147代'''(140代)、'''ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ'''(2度目)(1784年11月30日-1785年11月21日)
*'''148代'''(141代)、'''[[ヤン・フレデリック・ファン・パルケレール]]'''(1785年11月22日-1786年11月20日)
*'''149代'''(142代)、'''ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ'''(3度目)(1786年11月21日-1787年11月30日)
*'''150代'''(143代)、'''ヤン・フレデリック・ファン・パルケレール'''(2度目)(1787年12月1日-1789年8月1日)
*'''151代'''(144代)、'''ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ'''(4度目)(1789年8月1日-1790年11月13日)
*'''152代'''(145代)、'''[[ペトルス・セオドルス・キャッセ]]'''(1790年11月13日-1792年11月13日)
*'''153代'''(146代)、'''[[ヘイスベルト・ヘンミー]]'''(1792年11月13日-1798年7月8日)
*'''154代'''(147代)、'''[[レオポルド・ウィレム・ラス]]'''(1798年7月8日-1800年7月17日)
*'''155代'''(148代)、'''[[ウィレム・ワルデナール]]'''(1800年7月16日-1803年11月4日)
*'''156代'''(149代)、'''[[ヘンドリック・ドゥーフ]]'''(1803年11月14日-1817年12月6日)
** 著書『ドゥーフ日本回想録』[[永積洋子]]訳 <第3期[[異国叢書|新異国叢書]]10> [[雄松堂出版]] 2003年
*'''157代'''(150代)、'''[[ヤン・コック・ブロンホフ]]'''(1817年12月6日-1823年11月20日)
*'''158代'''(151代)、'''[[ヨハン・ウィレム・デ・スチューレル]]'''(1823年11月20日-1826年8月5日)
*'''159代'''(152代)、'''[[ヘルマン・フェリックス・メイラン]]'''(1826年8月4日-1830年8月5日)
*'''160代'''(153代)、'''[[ヤン・ウィレム・フレデリック・ファン・シッテルス]]'''(1830年11月1日-1834年11月30日)
*'''161代'''(154代)、'''[[ヨハネス・エルデウィン・ニーマン]]'''(1834年12月1日-1838年11月17日)
*'''162代'''(155代)、'''[[エドゥアルド・グランディソン]]'''(1838年11月18日-1842年11月)
*'''163代'''(156代)、'''[[ピーテル・アルバート・ビック]]'''(1842年11月-1845年10月31日)
*'''164代'''(157代)、'''[[ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン]]'''(1845年11月1日-1850年10月31日)
** 著書『レフィスゾーン江戸参府日記』[[片桐一男]]訳 <第3期[[異国叢書|新異国叢書]]6> [[雄松堂出版]] 2003年
*'''165代'''(158代)、'''[[フレデリック・コルネリス・ローゼ]]'''(1850年11月1日-1852年10月31日)
*'''166代'''(159代)、'''[[ヤン・ドンケル・クルティウス]]'''(1852年11月2日-1860年2月28日)


寛永18年([[1641年]])島原の乱鎮圧を支援したオランダに、西洋諸国の情報収集<ref>[[オランダ風説書]]</ref>のため貿易続行は許可し、オランダ商館を平戸から長崎の出島に移転させ[[鎖国]]は完成した。[[安政]]5年([[1858年]])の[[日蘭修好通商条約]]締結まで出島は存続する。
== ポルトガル商館長 ==
=== 平戸(ポルトガル商館長) ===
{{節スタブ}}
=== 長崎(ポルトガル商館長) ===
*[[シマン・ブラス・デ・パイア]]
== スペイン商館長 ==
=== 平戸(スペイン商館長) ===
{{節スタブ}}
{{multiple image|align=right |direction=horizontal |header= | header_align=left/right/center|footer={{Small|'''左''':[[イギリス東インド会社]]初期[[紋章]]{{Small|(1600-1709年)}}<br>'''右''':1621年[[平戸島#歴史|平戸湾]] 左上に[[聖ゲオルギウス十字]]旗 右上に[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]国旗 [[:nl:Isaak de Graaf|Isaak de Graaf]] 製}}<ref>[[:nl:Nationaal Archief|Nationaal Archief]]</ref>|footer_align=left|image1=Coat of Arms of East India Company (1600-1709).svg|width1=98|caption1= |image2=Map of the bay of Hirado.jpg|width2=150|caption2= }}
== イギリス商館長 ==
=== 平戸(イギリス商館長) ===
*[[リチャード・コックス]](1613年-1623年)
== オランダ商館長 ==
===【1609年 - 1650年】===
==== 平戸(オランダ商館長) ====
<gallery style="font-size:smaller">
Ship Vessel De Ryp at the Shimabara Rebellion.png|[[島原の乱]]{{efn|[[ニコラス・クーケバッケル|クーケバッケル]]が[https://www.vocsite.nl/schepen/11843/ De Rijp]号で[[天草四郎]]軍を砲撃}}
François Caron - Japan - title page.jpg|[[フランソワ・カロン|カロン]]著『[[日本大王国志]]』
The arrest of the Bresken’s crew - KONB11-388A6-P-291-GRAV.jpg|[[ブレスケンス号事件]]<ref>[[銅版画]] 1669年 [[:nl:Koninklijke Bibliotheek (Nederland)|Nederland Koninklijke Bibliotheek]]</ref>
Toshogu bell.jpg|[[日光東照宮]]廻転灯籠 {{Small|ブレスケンス号乗員開放御礼時「オランダ国王」名義で奉納}}
</gallery>
*初代'''[[ヤックス・スペックス]]'''(1609年-1613年)
* 2. '''[[ヘンドリック・ブラウエル]]'''(1613年-1614年)
* 3. ヤックス・スペックス(1614年-1621年)'''(2度目)'''
* 4. [[レオナルド・キャンプス]](1621年-1623年)
* 5. [[コルネリス・ファン・ナイエンローデ]](1623年-1632年)
* 6. [[ピーテル・ファン・サンテン]](1632年-1633年)
* 7. [[ニコラス・クーケバッケル]](1633年-1638年)
* 8. [[フランソワ・カロン]](1639年3月2日-1640年2月13日)
**著作『日本大王国志』 [[幸田成友]]訳、[[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]]
* 9. [[マクシミリアン・ル・メール]](1641年2月14日-1641年5月)
==== 長崎(オランダ商館長) ====
* 9. マクシミリアン・ル・メール(1641年5月-1641年10月30日)
* 10. [[ヤン・ファン・エルセラック]](1641年11月1日-1642年10月29日)
* 11. '''[[ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル]]'''(1642年10月29日-1643年8月1日)
* 12. ヤン・ファン・エルセラック(1643年8月1日-1644年11月24日)'''(2度目)'''
* 13. ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル(1644年11月24日-1645年11月30日)'''(2度目)'''
* 14. [[レイニール・ファン・ツム]](1645年11月30日-1646年10月27日)
* 15. [[ウィレム・フルステーヘン]](1646年10月28日-1647年10月10日)
* 16. '''[[フレデリック・コイエット]]'''(1647年11月3日-1648年12月9日)
* 17. [[ディルク・スヌーク]](1648年12月9日-1649年11月5日)
* 18. [[アントニオ・ファン・ブロウクホルスト]](1649年11月5日-1650年10月25日)
* 19. [[ピーテル・ステルテミウス]](1650年10月25日-1651年11月3日)
===【1651年 - 1700年】===
<gallery style="font-size:smaller">
Schild met wapen van de familie Happart-Rijksmuseum NG-1978-92.jpeg|[[ガブリエル・ハッパルト|ハッパルト]]家紋章付[[漆塗]]盾 <ref>1650年ごろ アムステルダム国立美術館</ref>
Zacharias Wagner - Mercado de escravos no Recife.jpg|[[ツァハリアス・ヴァグナー|ヴァグナー]]著 ''"Thierbuch"'' <ref>[[レシフェ]]の[[奴隷市場]] 1637-1644年ごろ [[:de:Kupferstichkabinett Dresden|Kupferstichkabinett]] ([[:de:Residenzschloss Dresden|Residenzschloss Dresden]]内[[ドレスデン美術館|ドレスデン美術館分室]])</ref>
Wandbord Lakwerk wandbord met wapen Huydecoper, NG-480.jpg|[[:nl:Bewindhebber|VOC取締役]] [[:nl:Johan Huydecoper van Maarsseveen (1599-1661)|J. Huydecoper van Maarsseveen]]紋章付漆塗金蒔絵<ref>旋削加工 1650-1660年ごろ アムステルダム国立美術館</ref>
Set of dishes with the arms of Johannes Camphuys, China, Jingdezhen, 1671-1690 AD, porcelain - Peabody Essex Museum - DSC07690.jpg|[[ヨハネス・カンフフイス|カンフフイス]]紋章付[https://www.chinaviki.com/china-travel/attrations/Jiangxi/Jingdezhen/Jingdezhen-Porcelain-Museum/ 景徳鎮銘々皿]<ref>[https://kotobank.jp/frjaword/confiserie confiserie]用 1671-1690年ごろ [[ピーボディ・エセックス博物館]]</ref>
</gallery>
* 20. [[アドリアン・ファン・デル・ブルフ]](1651年11月1日-1652年11月3日)
* 21. フレデリック・コイエット(1652年11月4日-1653年11月10日)'''(2度目)'''
* 22. [[ガブリエル・ハッパルト]](1653年11月4日-1654年10月31日)
* 23. '''[[レオナルド・ウインニンクス]]'''(1654年10月31日-1655年10月23日)
* 24. [[ヨアン・ボウヘリヨン]](1655年10月23日-1656年11月1日)
* 25. [[ツァハリアス・ヴァグナー]](1656年11月1日-1657年10月27日)
* 26. ヨアン・ボウヘリヨン(1657年10月27日-1658年10月23日)'''(2度目)'''
* 27. ツァハリアス・ヴァグナー(1658年10月22日-1659年11月4日)'''(2度目)'''
* 28. ヨアン・ボウヘリヨン(1659年11月4日-1660年10月26日)'''(3度目)'''
* 29. [[ヘンドリック・インディヤック]](1660年10月26日-1661年11月21日)
* 30. ディルク・ファン・リエル(1661年11月11日-1662年8月17日)
* 31. ヘンドリック・インディヤック(1662年8月18日-1663年10月20日)'''(2度目)'''
* 32. [[ウィレム・ボルガー]](1663年10月20日-1664年11月7日)
* 33. ヤコブ・フルイス(1664年11月7日-1665年10月27日)
* 34. ウィレム・ボルガー(1665年10月28日-1666年10月27日)'''(2度目)'''
* 35. [[ダニエル・シックス]](1666年10月18日-1667年11月6日)
* 36. [[コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング]](1667年11月6日-1668年10月25日)
* 37. ダニエル・シックス(1668年10月25日-1669年10月14日)'''(2度目)'''
* 38. {{仮リンク|フランソワ・デ・ハース|nl|François de Haes (VOC)}}<ref>[[:nl:Lijst van VOC-directeuren van Perzië|François de Haese]] [https://www.vocsite.nl/geschiedenis/handelsposten/perzie/ オランダ東インド会社ペルシャの知事 (1671-1673年)]・[[:nl:Lijst van VOC-directeuren van Bengalen|ベンガルの知事]] [https://www.vocsite.nl/geschiedenis/handelsposten/bengalen/ (1673–1676年)]
</ref>(1669年10月14日-1670年11月2日)
* 39. {{仮リンク|マルティヌス・シーサー|nl|Martinus Caesar}}(1670年11月2日-1671年11月12日)
* 40. '''[[ヨハネス・カンフフイス]]'''(1671年10月22日-1672年11月12日)
* 41. マルティヌス・シーサー(1672年11月13日-1673年10月29日)'''(2度目)'''
* 42. ヨハネス・カンフフイス(1673年10月29日-1674年10月19日)'''(2度目)'''
* 43. マルティヌス・シーサー(1674年10月20日-1675年11月7日)'''(3度目)'''
* 44. ヨハネス・カンフフイス(1675年11月7日-1676年10月27日)'''(3度目)'''
* 45. [[:nl:Lijst van gouverneurs van Ambon|ディルク・デ・ハース]]<ref>[https://www.vocsite.nl/geschiedenis/handelsposten/amboina/ Dirck de Haas オランダ東インド会社アンボンの知事 (1687–1691年)]</ref>(1676年10月27日-1677年10月16日)
* 46. アルベルト・ブレフインク(1677年10月16日-1678年11月4日)
* 47. ディルク・デ・ハース(1678年11月4日-1679年10月24日)'''(2度目)'''
* 48. アルベルト・ブレフインク(1679年10月24日-1680年11月11日)'''(2度目)'''
* 49. {{仮リンク|イサーク・ファン・スヒンネ|en|Isaac van Schinne}}(1680年11月11日-1681年10月31日)
* 50. ヘンドリック・カンジウス(1681年10月31日-1682年10月20日)
* 51. [[アンドレアス・クレイエル]](1682年10月20日-1683年11月8日)
* 52. コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(1683年11月8日-1684年10月28日)'''(2度目)'''
* 53. ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1684年10月25日-1685年10月7日)
* 54. アンドレアス・クレイエル(1685年10月17日-1686年11月5日)'''(2度目)'''
* 55. コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(1686年11月5日-1687年10月25日)'''(3度目)'''
* 56. ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1687年10月25日-1688年10月13日)'''(2度目)'''
* 57. '''{{仮リンク|コルネリス・ファン・オウトホールン|de|Cornelisz van Outhoorn}}'''(1688年10月13日-1689年11月1日)
* 58. バルタザール・スウェールス(1689年11月1日-1690年10月21日)
* 59. ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1690年10月21日-1691年11月9日)'''(3度目)'''
* 60. コルネリス・ファン・オウトホールン(1691年11月9日-1692年10月29日)'''(2度目)'''
* 61. ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1692年10月29日-1693年10月19日)'''(4度目)'''
* 62. {{仮リンク|ヘリット・デ・ヘーレ|nl|Gerrit de Heere}}(1693年10月19日-1694年11月7日)
* 63. ヘンドリック・ディックマン(1694年11月7日-1695年10月27日)
* 64. コルネリス・ファン・オウトホールン(1695年10月27日-1696年10月15日)'''(3度目)'''
* 65. ヘンドリック・ディックマン(1696年10月15日-1697年11月3日)'''(2度目)'''
* 66. ピーテル・デ・ボス(1697年11月3日-1698年10月23日)
* 67. ヘンドリック・ディックマン(1698年10月23日-1699年10月21日)'''(3度目)'''
* 68. ピーテル・デ・ボス(1699年10月21日-1700年10月31日)'''(2度目)'''
* 69. ヘンドリック・ディックマン(1700年10月31日-1701年10月21日)'''(4度目)'''
===【1701年 - 1750年】===
<gallery style="font-size:smaller">
Charger with VOC emblem, Arita ware, Japan, late 1600s AD, porcelain - Peabody Essex Museum - DSC07693.jpg|[[オランダ東インド会社|V.O.C.]]紋章付[[有田焼]] {{efn|口縁は[[唐草文様]]で6分割し[[梅]][[竹]]と[[牡丹]]を交互に、見込みには[[鳳凰]]・[[柘榴]]・[[椿]]を染付けたクープ皿 17世紀後半 ピーボディ・エセックス博物館}}
Kist met negen flessen-Rijksmuseum NG-444.jpeg|V.O.C.紋章付[[柿右衛門]] {{efn|[[唐草模様|唐草文様]][[染付]][[瓶]] 銀細工と[[カラマンダー材|黒檀]]製の[[:en:Cellarette|Cellaret]]は[[バタヴィア]]製 1670-1675年ごろ アムステルダム国立美術館}}
Schotel, BK-1994-30.jpg|[[オランダ領東インド総督]][[:nl:Adriaan Valckenier|Adriaan Valckenier]]紋章付漆塗金蒔絵<ref>裏面[[梨地]]仕上 1690-1700年ごろ アムステルダム国立美術館</ref>
Plate with the coat of arms of Willem van Outhoorn, Japan, c. 1700 AD, lacquered wood, gold, silver - Peabody Essex Museum - DSC07682.jpg|{{仮リンク|C・ファン・オウトホールン|de|Cornelisz van Outhoorn}}兄<ref>[[:nl:Willem van Outhoorn|Willem van Outhoorn]] オランダ領東インド総督 (1691-1704)</ref>の紋章付漆塗高蒔絵<ref>[[:en:Kashkul|Kashkul]] 1700年ごろ ピーボディ・エセックス博物館</ref>
</gallery>
* 70. アブラハム・ドウグラス(1701年10月21日-1702年10月30日)
* 71. フェルディナント・デ・グロート(1702年11月9日-1703年10月30日)
* 72. ギデオン・タント(1703年10月30日-1704年10月18日)
* 73. フェルディナント・デ・グロート(1704年10月18日-1705年11月6日)'''(2度目)'''
* 74. ハルナス・メンシング(1705年11月-1706年10月)
* 75. フェルディナント・デ・グロート(1706年10月26日-1707年10月15日)'''(3度目)'''
* 76. ハルナス・メンシング(1707年10月15日-1708年11月2日)'''(2度目)'''
* 77. ヤスパー・ファン・マンスダレ(1708年11月2日-1709年10月22日)
* 78. ハルナス・メンシング(1709年10月22日-1710年11月10日)'''(3度目)'''
* 79. ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(1710年11月10日-1711年10月31日)
* 80. コルネリス・ラルディヨン(1711年10月31日-1712年11月7日)
* 81. ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(1712年11月-1713年11月)'''(2度目)'''
* 82. コルネリス・ラルディヨン(1713年11月7日-1714年10月27日)'''(2度目)'''
* 83. ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(1714年10月27日-1715年10月19日)'''(3度目)'''
* 84. ギデオン・ボウダエン(1715年10月19日-1716年11月3日)
* 85. ヨアン・アオウェル(1716年11月3日-1717年10月24日)
* 86. クリスティアーン・ファン・ブリベルグ(1717年10月24日-1718年10月13日)
* 87. ヨアン・アオウェル(1718年10月13日-1719年10月21日)'''(2度目)'''
* 88. クリスティアーン・ファン・ブリベルグ(1719年10月21日-1720年10月21日)'''(2度目)'''
* 89. {{仮リンク|ルーロフ・ディオダティ|nl|Roelof Diodati}}(1720年10月21日-1721年11月9日)
* 90. ヘンドリック・デュルファン(1721年11月9日-1722年10月)
* 91. ヘンドリック・デュルファン(1722年10月-1723年10月18日)'''(2度目)'''
* 92. '''{{仮リンク|ヨハネス・テンデンス|nl|Johannes Thedens}}'''(1723年10月18日-1725年10月25日)
* 93. ヨアン・デ・ハルトグ(1725年10月25日-1726年10月15日)
* 94. {{仮リンク|ピーテル・ボーケスティン|nl|Pieter Boockestijn}}(1726年10月15日-1727年11月3日)
* 95. アブラハム・ミンネドンク(1727年11月3日-1728年10月21日)
* 96. ピーテル・ボーケスティン(1728年10月21日-1729年10月12日)'''(2度目)'''
* 97. アブラハム・ミンネドンク(1729年10月12日-1730年10月31日)'''(2度目)'''
* 98. ピーテル・ボーケスティン(1730年10月31日-1732年11月7日)'''(3度目)'''
* 99. ヘンドリック・ファン・デ・ベル(1732年11月7日-1733年10月27日)
*100. [[:nl:Lijst van gouverneurs van Nederlands-Malakka|ロヒエル・デ・ラフェル]]<ref>[https://www.vocsite.nl/geschiedenis/handelsposten/malakka/ Rogier de Laver オランダ領マラッカ総督(1736-1743年)]</ref>(1733年10月27日-1734年10月16日)
*101. デビッド・ドリンクマン(1734年10月16日-1735年11月4日)
*102. ベルナルドス・コーパ(1735年11月4日-1736年10月24日)
*103. ヤン・ファン・デル・クルイッセ(1736年10月24日-1737年10月13日)
*104. ゲラルドゥス・ベルナルデュス・ビッスヘル(1737年10月13日-1739年10月21日)
*105. {{仮リンク|トーマス・ファン・リー|nl|Thomas van Rhee}}(1739年10月22日-1740年11月8日)
*106. ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(1740年11月9日-1741年10月28日)
*107. トーマス・ファン・リー(1741年10月29日-1742年10月17日)'''(2度目)'''
*108. ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(1742年10月17日-1743年11月9日)'''(2度目)'''
*109. デビッド・ブロウウェル(1743年11月5日-1744年11月1日)
*110. ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(1744年11月2日-1745年12月28日)'''(3度目)'''
*111. ヤン・ロウイス・デ・ウィン(1745年12月30日-1746年11月2日)
*112. ヤコブ・バルデ(1746年11月3日-1747年10月25日)
*113. ヤン・ロウイス・デ・ウィン(1747年10月28日-1748年11月11日)'''(2度目)'''
*114. ヤコブ・バルデ(1748年11月12日-1749年12月8日)'''(2度目)'''
*115. ヘンドリック・ファン・ホモエド(1749年12月8日-1750年12月24日)
*116. {{仮リンク|アブラハム・ファン・スフテレン|nl|Abraham van Suchtelen}}(1750年12月25日-1751年11月18日)
===【1751年 - 1800年】===
<gallery style="font-size:smaller">
Bord met het wapen van Van Buren en twee decoratieve banden, AK-RBK-1964-38.jpg|[[:nl:Wapen van Buren|Van Buren]]紋章付[[伊万里焼]] <ref>1700-1724年ごろ アムステルダム国立美術館</ref>
Bokaal met deksel, met een driemaster en het opschrift HET WEL VAREN VAN DE OOSTYNDYESE KOMPANIE, BK-14827.jpg|[[:nl:Bokaal|ぼかある]]『[https://www.ndl.go.jp/nichiran/data/R/113/113-003r.html 蘭説弁惑』]図示 [[大槻玄沢]] [[寛政]]11年 3本マスト船・VOC紋章<ref>[[:fr:Gravure héraldique|グラヴュール]]加飾:オランダ北部 吹きガラス:ドイツ製 1725-1750年ごろ アムステルダム国立美術館</ref>
Doos , rechthoekig met afgeschuinde hoeken, met vrijmetselaarssymbolen-Rijksmuseum AK-RBK-1958-10.jpeg|[[フリーメーソン]]シンボルの[[螺鈿|螺鈿細工]]を施した漆塗<ref>1775-1800年ごろ アムステルダム国立美術館</ref>
Bijzonderheden over Japan - titelpagina eerste deel.jpg|''"[[:en:Illustrations of Japan|Bijzonderheden over Japan]]"'' [[イサーク・ティチング|ティチング]]1824年 <ref>著者没後刊行オランダ語版 ''"Bijzonderheden over Japan, behelzende een verslag van de huwelijks plegtigheden, begrafenissen en feesten der Japanezen, de gedenkschriften der laatste Japansche keizers, en andere merkwaardigheden nopens dat rijk"'' [https://search.worldcat.org/ja/title/931568659 OCLC: 7472268] [https://www.maastrichtuniversity.nl/ マーストリヒト大学図書館] [https://www.wikidata.org/wiki/Q47869843 Johannes Allart出版]</ref>
</gallery>
*117. ヘンドリック・ファン・ホモエド(1751年11月19日-1752年12月5日)'''(2度目)'''
*118. [[:nl:Lijst van gouverneurs van Nederlands-Malakka|ダフィット・ボエレン]]<ref>[https://www.vocsite.nl/geschiedenis/handelsposten/malakka/ David Boelen オランダ領マラッカ総督(1758-1764年)]</ref>(1752年12月6日-1753年10月15日)
*119. ヘンドリック・ファン・ホモエド(1753年10月16日-1754年11月3日)'''(3度目)'''
*120. ダフィット・ボエレン(1754年11月4日-1755年10月25日)'''(2度目)'''
*121. ハーバート・ベルメウレン(1755年10月25日-1756年10月12日)
*122. ダフィット・ボエレン(1756年10月13日-1757年10月31日)'''(3度目)'''
*123. ハーバート・ベルメウレン(1757年11月1日-1758年11月11日)'''(2度目)'''
*124. ヨハネス・レイノウトス(1758年11月12日-1760年11月11日)
*125. マーティン・フイスホールン(1760年11月12日-1761年10月30日)
*126. ヨハネス・レイノウトス(1761年10月31日-1762年12月2日)'''(2度目)'''
*127. フレドリック・ウィレム・ウィネケ(1762年12月3日-1763年11月6日)
*128. [[:nl:Lijst van gouverneurs van Nederlands-Malakka|ヤン・クランス]]<ref>[https://www.vocsite.nl/geschiedenis/handelsposten/malakka/ Jan Crans オランダ領マラッカ総督(1772-1776年)]</ref>(1763年11月7日-1764年10月24日)
*129. フレドリック・ウィレム・ウィネケ(1764年10月25日-1765年11月7日)'''(2度目)'''
*130. ヤン・クランス(1765年11月8日-1766年10月31日)'''(2度目)'''
*131. ヘルマン・クリスティアーン・カステンス(1766年11月1日-1767年10月20日)
*132. ヤン・クランス(1767年10月21日-1769年11月8日)'''(3度目)'''
*133. オルフェルト・エリアス(1769年11月9日-1770年11月16日)
*134. ダニエル・アーメナウルト(1770年11月17日-1771年11月9日)
*135. [[アレント・ウィレム・フェイト]](1771年11月10日-1772年11月3日)
*136. ダニエル・アーメナウルト(1772年11月4日-1773年11月22日)'''(2度目)'''
*137. アレント・ウィレム・フェイト(1773年11月23日-1774年11月10日)'''(2度目)'''
*138. ダニエル・アーメナウルト(1774年11月11日-1775年10月28日)'''(3度目)'''
*139. アレント・ウィレム・フェイト(1775年10月28日-1776年11月22日)'''(3度目)'''
*140. {{仮リンク|ヘンドリック・ホットフリート・デゥールコープ|nl|Hendrik Godfried Duurkoop}}(1776年11月23日-1777年11月11日)
*141. アレント・ウィレム・フェイト(1777年11月12日-1779年11月28日)'''(4度目)'''
*142. '''[[イサーク・ティチング]]'''(1779年11月29日-1780年11月5日)
** 著書[https://www.google.co.jp/books/edition/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%A2%A8%E4%BF%97%E5%9B%B3%E8%AA%8C/hcgLAAAAIAAJ?hl=ja&gbpv=0&bsq=inauthor:%22Isaac%20Titsingh%22 『オランダ商館長の見た日本<small>:ティツィング往復書翰集</small>』] 横山伊徳 編 [[吉川弘文館]]、2005年
**『[[日本王代一覧]]』を仏語訳 [https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nihon_Odai_Ichiran_1834.jpg ''"Annales des Empereurs du Japon, traduites"''] [[パリ]] 1834年<ref>"Ouvrage revu, complété et corrigé sur l'original japonais-chinois, accompagné de notes, et précédé d'un aperçu de l'histoire mythologique du Japon." par J. Klaproth, [[:nl:Koninklijke Nederlandse Koloniale Bibliotheek|Koninklijke Nederlandse Koloniale Bibliotheek]]</ref>
*143. アレント・ウィレム・フェイト(1780年11月6日-1781年11月23日)'''(5度目)'''
*144. イサーク・ティチング(1781年11月24日-1783年10月26日)'''(2度目)'''
*145. {{仮リンク|ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ|en|Hendrik Caspar Romberg}}(1783年10月27日-1784年8月)
*146. イサーク・ティチング(1784年8月-1784年11月30日)'''(3度目)'''
*147. ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(1784年12月1日-1785年11月21日)'''(2度目)'''
*148. [[:nl:Van_Reede#Enkele_telgen_3|レーデ・トゥット・デ・パルケラール男爵ヨハン・フレデリック]](1785年11月22日-1786年11月20日)<ref>『[https://luot-nrg.jp/deshima_diaries.php 出島日記細目 1740-1800]』学術叢書第21 日蘭学会 2004年、[https://www.genealogieonline.nl/en/stamboom_mom/I19496.php Johan Frederik baron van Reede tot de Parkelaar]他著 ([[:nl:Van_Reede#Enkele_telgen_3|Johan Frederik van Reede, heer van de Parkeler 1684-1735]] の孫){{see also|[[:nl:Lijst van Nederlandse adellijke families (alfabetisch)|Lijst van Nederlandse adellijke families (alfabetisch)]]}}</ref>
*149. ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(1786年11月21日-1787年11月30日)'''(3度目)'''
*150. レーデ・トゥット・デ・パルケラール男爵ヨハン・フレデリック(1787年12月1日-1789年8月1日)'''(2度目)'''
*151. ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(1789年8月1日-1790年11月13日)'''(4度目)'''
*152. {{仮リンク|ピーテルス・セオドルス・シャッセ|en|Petrus Theodorus Chassé}}(1790年11月13日-1792年11月13日)
*153. [[ヘイスベルト・ヘンミー]](1792年11月13日-1798年7月8日)
*154. {{仮リンク|レオポルド・ウィレム・ラス|en|Leopold Willem Ras}}(1798年7月8日-1800年7月17日)
===【1801年 - 1860年】===
<gallery style="font-size:smaller">
Japans doosje, NG-772.jpg|[[オランダ領東インド総督]]{{仮リンク|カぺレン男爵|nl|Godert van der Capellen}}肖像画付黒漆塗小筥<ref>1816-1848年ごろ アムステルダム国立美術館</ref>
Doeff-Halma Dictionary003.jpg|[[ドゥーフ・ハルマ]]
Dromedaries - KONB11-2666-70.jpg|阿蘭陀人持渡駱駝之圖 <ref>[[山東京山|山東庵京山]] 1824年 オランダ国立民族学博物館</ref>{{efn|{{仮リンク|オランダ獅子勲章|nl|Orde van de Nederlandse Leeuw}}騎士[[ヤン・コック・ブロンホフ|コック・ブロンホフ]]が後に、馴染の遊女・糸萩に贈る番の駱駝<ref>[https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0311/index3.html| 【発見!長崎の歩き方】出島回想録~出島が日本と世界にもたらしたもの~ 4.出島を通した文化交流]</ref>。}}
Cock Blomhoff’s small wooden cabinet - KONB11-360-2013-01.jpg|[[ヤン・コック・ブロンホフ|コック・ブロンホフ]]が持ち帰った[https://www.yoseki-museum.com/about/yosegizaiku-introduction/ 箱根寄木細工] <ref>小引出箪笥 1800-1823年ごろ オランダ国立民族学博物館</ref>
</gallery>
*155. ウィレム・ワルデナール(1800年7月16日-1803年11月4日)
*156. '''[[ヘンドリック・ドゥーフ]]'''(1803年11月14日-1817年12月6日)
** 著書『{{仮リンク|オランダ獅子勲章|nl|Orde van de Nederlandse Leeuw}}を賜りし出島の元商館長ヘンドリック・ドゥーフの[https://dl.ndl.go.jp/pid/1043650/1/1 日本回想録』] [[永積洋子]]訳 <第3期[[異国叢書|新異国叢書]]10> [[雄松堂出版]] 2003年
*157. '''[[ヤン・コック・ブロンホフ]]'''(1817年12月6日-1823年11月20日)
*158. '''{{仮リンク|ヨハン・ウィレム・デ・スチューレル|nl|Johan Willem de Sturler}}'''(1823年11月20日-1826年8月5日)
*159. [[ヘルマン・フェリックス・メイラン]](1826年8月4日-1830年8月5日)
** 著書『メイラン 日本』 庄司三男訳 <第3期[[異国叢書|新異国叢書]]1> [[丸善雄松堂|雄松堂]]出版 2002年
*160. [[:nl:Van Citters#Enkele telgen|ヤン・ヴィレム・フレデリック・ファン・シッタース]](1830年11月1日-1834年11月30日)<ref>''"[https://www.zeeuwsmuseum.nl/nl/collectie/kunst/m05-033-portret-van-jan-willem-frederik-van-citters-1785-1836 Portret] van [https://www.wikidata.org/wiki/Q100249860 Jan Willem Frederik van Citters] (1785-1836)"'' [[ミニアチュール]] 1800-1836年ごろ [[:nl:Zeeuws Museum|Zeeuws Museum]]</ref>{{efn|[[:nl:Van Citters#Enkele telgen|同族]]<ref>共に [[:nl:Willem van Citters|Willem van Citters]] ([[:nl:Bewindhebber|VOC取締役]] 1713-1757) の父 [[:nl:Aernout van Citters|Aernout van Citters]] の玄孫</ref>の[[:nl:Laurens de Witte van Citters|Laurens de Witte van Citters]]はオランダ[[:nl:Hoge Raad van Adel|貴族高等評議会]]議長。その甥・娘婿 [[:nl:Arnoldus Andries des Tombe|Arnoldus Andries des Tombe]] は「[[真珠の耳飾りの少女]]」の所有者・美術品収集家{{see also|[[:nl:Lijst van Nederlandse adellijke families (alfabetisch)|Lijst van Nederlandse adellijke families (alfabetisch)]]}}}}
*161. [[ヨハネス・エルデウィン・ニーマン]](1834年12月1日-1838年11月17日)
*162. {{仮リンク|エドゥアルド・グランディソン|en|Eduard Grandisson}}(1838年11月18日-1842年11月)
*163. '''ピーター・アルバート・ビック'''(1842年11月-1845年10月31日)<ref>[https://www.wikidata.org/wiki/Q100249653 Pieter Albert Bik] (1798-1855)</ref>
*164. [[ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン]](1845年11月1日-1850年10月31日)
** 著書『レフィスゾーン江戸参府日記』 [[片桐一男]]訳 <第3期[[異国叢書|新異国叢書]]6> [[雄松堂出版]] 2003年
*165. フレデリック・コルネリス・ローズ(1850年11月1日-1852年10月31日)<ref>[https://www.wikidata.org/wiki/Q100247777 Frederik Cornelis Rose] (1808–1880)</ref>
*166. '''[[ヤン・ドンケル・クルティウス]]'''(1852年11月2日-1860年2月28日)
<gallery style="font-size:smaller">
Jacques Specx.jpg|[[ヤックス・スペックス]]
Hendrik Brouwer (1581-1643), Gouverneur-generaal (1632-36).jpg|[[ヘンドリック・ブラウエル]]
Overtwater.jpg|[[ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル]]
Coyett.jpg|[[フレデリック・コイエット]]
Huwelijksportret door Ferdinand Bol, voorstellende Jason en Medea.jpg|[[レオナルド・ウインニンクス]]夫妻婚礼画
Johannes Camphuys (1634-95). Gouverneur-generaal (1684-91) Rijksmuseum SK-A-3768.jpeg|[[ヨハネス・カンフフイス]]
Audience tsunayoshi 1692.jpg|{{仮リンク|コルネリス・ファン・オウトホールン|de|Cornelisz van Outhoorn}}(№13の人物)
Portret van gouverneur-generaal Johannes Thedens Rijksmuseum SK-A-3779.jpeg|{{仮リンク|ヨハネス・テンデンス|nl|Johannes Thedens}}
Titsingh in China - KONB11-UBLWGW-353-B-12-13-PRENT-TUSSEN-PAG-16-17.jpg|[[イサーク・チチング]](着席者左から2番目)
HendrikDoeffJapan.jpg|[[ヘンドリック・ドゥーフ]]
Jan Cock Blomhoff with a Javanese servant - KONB11-NEDERLANDER-JAVAAN-NEHA.jpg|[[ヤン・コック・ブロンホフ]]
GrootePartij.jpg|{{仮リンク|ヨハン・ウィレム・デ・スチューレル|nl|Johan Willem de Sturler}}(着席者中央)
KITLV - 47A46 - Berghaus, J.P. - P.A. Bik, main chief in Japan - 1858-08-23.tif|[https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Pieter_Albert_Bik Pieter Albert Bik]<ref>[https://www.utu.fi/en/people/mikko-toivanen Mikko Toivanen] 著 [https://www.goodreads.com/book/show/36376849-the-travels-of-pieter-albert-bik ''"The Travels of Pieter Albert Bik: Writings from the Dutch Colonial World of the Early Nineteenth Century"''] 2017.</ref>
Janus Henricus Donker Curtius (1813–1879).jpg|[[ヤン・ドンケル・クルティウス]]
</gallery>
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連文献 ==
== 関連文献 ==
: 以下の片桐一男の著書を参照。ほか多数
{{Indent|以下の[[片桐一男]]の著書を参照。ほか多数}}
*『江戸のオランダ人 カピタンの江戸参府』 ([[中公新書]]、2000年)
*『江戸のオランダ人 カピタンの江戸参府』 ([[中公新書]]、2000年)
*『開かれた鎖国 長崎出島の人・物・情報』 ([[講談社現代新書]]、1997年)
*『開かれた鎖国 長崎出島の人・物・情報』 ([[講談社現代新書]]、1997年)
*『出島 異文化交流の舞台』 ([[集英社新書]]、2000年)
*『出島 異文化交流の舞台』 ([[集英社新書]]、2000年)
*『それでも江戸は鎖国だったのか オランダ宿日本橋長崎屋』([[歴史文化ライブラリー]]・[[吉川弘文館]]、2008年)
*『それでも江戸は鎖国だったのか オランダ宿日本橋長崎屋』([[歴史文化ライブラリー]]・[[吉川弘文館]]、2008年)
* {{Cite book|和書|author=ブリタニカ|authorlink=ブリタニカ|title=国際大百科事典|date= |publisher=Britannica Japan Co., Ltd.|series=小項目事典|ref=}}

* {{Cite book|和書|author=松田毅一|authorlink=|title=大村純忠伝:付日葡交渉小史|date=1978|publisher=[[教文館]]|series=改訂版|ref=松田}}
* {{Cite book|和書|author=森良和|authorlink=|title=[[メルヒオール・ファン・サントフォールト]]:日本で生きることを選んだ[[リーフデ号]]船員の生涯|date=2014-3|publisher=[[玉川大学]]|series=論叢:[[玉川大学]][[教育学部]]紀要|ref=森}} 81-98頁
* [[東京大学史料編纂所]] [https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/58/0301/0001?m=all&n=20 イギリス商館長日記 原文編 1615年6月-1622年3月]
* [[東京大学史料編纂所]] [https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/58/0212/0027?m=all&n=20 オランダ商館長日記 訳文編 訳8(上)1643年11月-1644年7月] - 本文弐拾六頁: [[ブレスケンス号事件]]、本文四拾六頁: [[東照宮]]奉納燈籠の件(真鍮職人Carel Jonassen)
* {{Cite book|和書|author=広川獬 (丹羽漢吉 校訂)|authorlink=|title=長崎聞見録 寛政12年 巻之5|date=1800|publisher=長崎文献社|series=長崎文献叢書|ref=}}: 長崎への洋上[https://www.vocsite.nl/schepen/10987/ ''Huis te Spijk'']号で客死した{{仮リンク|ヘンドリック・ゴッドフリート・ドゥルクープ|nl|Hendrik Godfried Duurkoop}}の墓碑を挿画「長崎県の郷土史料」
* {{Cite book|洋書|author=[[:fr:Frank Lequin|Frank Lequin]]|authorlink=|title=Isaac Titsingh in China (1794-1796) : het onuitgegeven journaal van zijn ambassade naar Peking|date=2005|publisher=Alphen aan den Rijn|isbn=90-6469-809-0|series=|}}〈Titsingh Studies, vol.3〉
* {{Cite book|洋書|author=[[:nl:Andreas Everardus van Braam Houckgeest|Andreas Everardus van Braam Houckgeest]], par [[:fr:Médéric Louis Élie Moreau de Saint-Méry|Médéric Louis Élie Moreau de Saint-Méry]]|authorlink=|title=Voyage de l'ambassade de la compagnie des Indes Orientales Hollandaises, vers l'Empereur de la Chine, en 1794 et 1795 : où se trouve la description de plusieurs parties de cet empire inconnues aux Européens|date=|publisher=Chez Garnery, Chez Levrault|NCID= BA66966150|series=|}}〈 tiré du journal d'A. E. van Braam Houckgeest, publié en 1798 V. st. (An 6 de la république) 〉
* {{Cite book|洋書|author=[https://archiveshub.jisc.ac.uk/search/archives/6b0449ba-1a1b-3f95-bb9c-78c2b7d8476b Johan Frederik van Overmeer Fisscher]|authorlink=|title=[https://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/c2.html Bijdrage tot de kennis van het Japansche rijk]|date=1833|publisher=J. Muller, Amsterdam|series=|}}
* [[ヘルマン・フェリックス・メイラン]] 著『日欧貿易概観(日欧貿易史)』原題:''" Geschiedkundig Overzigt van den Hendel der Europezen op Japan "'', 初出『バタヴィア学芸協会雑誌([https://books.google.co.jp/books?id=Ip1JAAAAcAAJ&hl=ja&source=gbs_similarbooks Verhandelingen van het Bataviaasch Genootschap der Kunsten en Weetenschappen])』第14号 Egbert Heemen 出版 [[1833年]]
* [https://shinku.nichibun.ac.jp/kichosho/new/books/84/suema000000013yf.html# 歴代日本商館長年代記](雑誌「インド史料」第2巻所収) J.N. GRIMMIUS 著(1849年) 出版地 [[バタヴィア]]
* 天明老人内匠 編 [[歌川広重]] 画『[https://dl.ndl.go.jp/pid/8369324/1/15 狂歌江都名所図会]』- [[長崎屋源右衛門|長崎屋]] 画面左上の看板に"[[紅毛人]]旅宿" (1856年)
* [https://www.dbnl.org/tekst/_ned017198501_01/_ned017198501_01_0008.php ''"Nederlandse Historische Brinnen 5"''](オランダ史料5)「II 中国貿易によってオランダと日本の間に生じた重要な違いの真の起源、継続、子孫の記憶に残る物語」p.82- 日本関連(1985年) P.H.D. Leupen 著 [https://knhg.nl/ Koninklijk Nederlands Historisch Genootschap]
== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[長崎歴史文化博物館]]
*阿蘭陀[[通詞]]
* [[蘭学事始]]
*[[長崎屋源右衛門]]
*[[蘭学事始]]
* [[陀宿]]
* 阿蘭陀[[通詞]] - [https://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_3.html 江戸時代の日蘭交流]
*[[カピタン・モール]]
* [[出島]]
*[[カピタン・スズーキ]]
* [[日光東照宮#文化財|日光東照宮]]【重要文化財】:「オランダ燈籠」釣燈籠(1636年奉納)蓮燈籠(1640年 同)回転燈籠(1643年 同)
*[[オランダ海上帝国]]
*[[オランダ統治時代 (台湾)]]
* [[オランダ統治時代台湾]]
* [[コルネリア・ファン・ネイエンローデ]]
*[[じゃがたらお春]]
* [[じゃがたらお春]]
*[[キャプテン]] - [[英語]]の同義語
* [[オランダ海上帝国]]
*[[:nl:Lijst_van_opperhoofden_van_Dejima|歴代の商館長]](オランダ語版Wikipediaの記事)
* [[カピタン・モール]]

== 外部リンク ==
* [https://www.vocsite.nl/geschiedenis/handelsposten/japan/ de VOC site]
* [https://doi.org/10.11126/stanford/9780804754897.001.0001 Stanford University Press 2007] - Jan Frederik Feilke:[[ヘンドリック・ドゥーフ|ドゥーフ]]の全[[カピタン江戸参府|江戸参府]]に随行の[[出島]]付医官
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[[Category:オランダ東インド会社]]
[[Category:平戸市の歴史]]
[[Category:肥前国]]

2024年11月8日 (金) 18:55時点における最新版

歴代オランダ商館長名簿[注釈 1]

カピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)は、江戸時代にオランダ東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者「商館長」のこと。ポルトガル語Capitãoカピタンは、英語のCaptainキャプテンに相当する、即ち「船長・隊長」の意である[注釈 2]南蛮貿易時代最初の交易国がポルトガルだったため西洋の商館長をCapitãoカピタンと呼んでいたが、オランダが取って代わってからもオランダ語の商館長を意味するOpperhoofdオッペルホーフトにはならなかった。

西洋商館の歴史

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天文12年(1543年種子島にポルトガル人が漂着して以来、多くのポルトガル人やイスパニアスペイン)人が来日し、貿易やキリスト教布教を始めていた。天文19年(1550年肥前国平戸に来航したポルトガル商船が永禄4年(1561年)平戸での貿易(南蛮貿易)を許可され、平戸ポルトガル商館を建設した。

元亀2年(1571年)ポルトガルの要請で長崎が開港[注釈 3]した。イエズス会は土地を寄進され[注釈 5]、ポルトガル商館が建ち、貿易港長崎はかつてない発展を遂げた。天正12年(1584年)平戸にイスパニア商船が来航し、平戸イスパニア商館が建設された。平戸及び長崎は南蛮貿易で大きく栄え「西国の京都[要出典]」とも謳われた。

天正15年(1587年豊臣秀吉バテレン追放令を発布した。目的は「外交貿易権掌握[注釈 6]」「神社仏閣への迫害[1]」「日本人の奴隷[4]売買禁止」など諸説ある。

慶長5年(1600年)、ロッテルダムマゼラン社オランダ語版[注釈 7]リーフデ号豊後国に漂着し、生存者[注釈 9]の中からウィリアム・アダムス三浦按針)とヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン江戸に送られ徳川家康と会見した。関ヶ原の戦い後、両名は外交顧問の旗本[注釈 12]に取り立てられ日英日蘭貿易に貢献した。慶長14年(1609年)平戸オランダ商館建設の許可(朱印状)[注釈 13]を得たオランダ東インド会社は初代カピタンヤックス・スペックスを派遣した。

慶長18年(1613年イギリス東インド会社は平戸にイギリス商館を建設し初代商館長にリチャード・コックスを置いたが、元和9年(1623年)のアンボイナ事件を機に対インド貿易注力に方針転換、平戸の商館を閉鎖し対日貿易から離脱した。

慶長17年(1612年江戸幕府禁教令を布告し、慶長18年(1613年)家康が公布させた「伴天連追放之文」が以後の基本となる。元和6年(1620年)の平山常陳事件は幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけた。元和8年(1622年元和の大殉教以後諸大名もキリシタン迫害を徹底した。元和9年(1623年)幕府はポルトガル人の日本在住禁止、朱印船マニラ渡航禁止など公布した。

寛永元年(1624年)イエズス会を組織したイスパニア船の来航を禁止し平戸イスパニア商館を閉鎖した。ポルトガル領マカオには宣教師を日本に派遣させないことを要求し、日本との貿易途絶を恐れたマカオは受諾した。

それでも宣教師は諦めず、東南アジアの日本人町に渡航して布教[注釈 15]したり、朱印船で日本に密航を企てたりしたので、幕府は禁教徹底のため朱印船貿易廃止を決定し、その役割を外国人(ポルトガル人・オランダ人・中国人)に代行させる観点から長崎奉行の定員を旗本2人とした。長崎奉行への職務規定(鎖国令)を通じて、中国や東南アジアとの中継貿易拠点としての長崎を整備していった。

寛永10年(1633年奉書船以外での渡航や5年以上在外居住者の帰朝禁止、寛永12年(1635年)邦人の東南アジア方面往来全面禁止、寛永13年(1636年)ポルトガル人の妻子や縁者をバタヴィアに追放、さらに長崎に出島を建設して長崎ポルトガル商館を移築し出島内にポルトガル人を収容管理した。

寛永14年(1637年)の島原の乱を翌年鎮圧した幕府はポルトガル貿易の打ち切りを望むようになった。寛永16年(1639年)将軍徳川家光・幕閣とオランダ商館長フランソワ・カロンが会談し、台湾経由で生糸などの中国製品を確保できること、台湾に渡航している中国人が密航者ではない明朝官許商であること、オランダが対西葡軍事力を備えていることなどを確認し、ポルトガル貿易の打ち切りを決定した。幕府は全国の大名にポルトガル船に対する警戒と打払い・来航禁止令を発布、ポルトガル人は出島から追放された。

寛永18年(1641年)島原の乱鎮圧を支援したオランダに、西洋諸国の情報収集[15]のため貿易続行は許可し、オランダ商館を平戸から長崎の出島に移転させ鎖国は完成した。安政5年(1858年)の日蘭修好通商条約締結まで出島は存続する。

ポルトガル商館長

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平戸(ポルトガル商館長)

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長崎(ポルトガル商館長)

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スペイン商館長

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平戸(スペイン商館長)

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:イギリス東インド会社初期紋章(1600-1709年)
:1621年平戸湾 左上に聖ゲオルギウス十字旗 右上にオランダ国旗 Isaak de Graaf
[16]

イギリス商館長

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平戸(イギリス商館長)

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オランダ商館長

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【1609年 - 1650年】

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平戸(オランダ商館長)

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長崎(オランダ商館長)

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【1651年 - 1700年】

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  • 20. アドリアン・ファン・デル・ブルフ(1651年11月1日-1652年11月3日)
  • 21. フレデリック・コイエット(1652年11月4日-1653年11月10日)(2度目)
  • 22. ガブリエル・ハッパルト(1653年11月4日-1654年10月31日)
  • 23. レオナルド・ウインニンクス(1654年10月31日-1655年10月23日)
  • 24. ヨアン・ボウヘリヨン(1655年10月23日-1656年11月1日)
  • 25. ツァハリアス・ヴァグナー(1656年11月1日-1657年10月27日)
  • 26. ヨアン・ボウヘリヨン(1657年10月27日-1658年10月23日)(2度目)
  • 27. ツァハリアス・ヴァグナー(1658年10月22日-1659年11月4日)(2度目)
  • 28. ヨアン・ボウヘリヨン(1659年11月4日-1660年10月26日)(3度目)
  • 29. ヘンドリック・インディヤック(1660年10月26日-1661年11月21日)
  • 30. ディルク・ファン・リエル(1661年11月11日-1662年8月17日)
  • 31. ヘンドリック・インディヤック(1662年8月18日-1663年10月20日)(2度目)
  • 32. ウィレム・ボルガー(1663年10月20日-1664年11月7日)
  • 33. ヤコブ・フルイス(1664年11月7日-1665年10月27日)
  • 34. ウィレム・ボルガー(1665年10月28日-1666年10月27日)(2度目)
  • 35. ダニエル・シックス(1666年10月18日-1667年11月6日)
  • 36. コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(1667年11月6日-1668年10月25日)
  • 37. ダニエル・シックス(1668年10月25日-1669年10月14日)(2度目)
  • 38. フランソワ・デ・ハースオランダ語版[22](1669年10月14日-1670年11月2日)
  • 39. マルティヌス・シーサーオランダ語版(1670年11月2日-1671年11月12日)
  • 40. ヨハネス・カンフフイス(1671年10月22日-1672年11月12日)
  • 41. マルティヌス・シーサー(1672年11月13日-1673年10月29日)(2度目)
  • 42. ヨハネス・カンフフイス(1673年10月29日-1674年10月19日)(2度目)
  • 43. マルティヌス・シーサー(1674年10月20日-1675年11月7日)(3度目)
  • 44. ヨハネス・カンフフイス(1675年11月7日-1676年10月27日)(3度目)
  • 45. ディルク・デ・ハース[23](1676年10月27日-1677年10月16日)
  • 46. アルベルト・ブレフインク(1677年10月16日-1678年11月4日)
  • 47. ディルク・デ・ハース(1678年11月4日-1679年10月24日)(2度目)
  • 48. アルベルト・ブレフインク(1679年10月24日-1680年11月11日)(2度目)
  • 49. イサーク・ファン・スヒンネ英語版(1680年11月11日-1681年10月31日)
  • 50. ヘンドリック・カンジウス(1681年10月31日-1682年10月20日)
  • 51. アンドレアス・クレイエル(1682年10月20日-1683年11月8日)
  • 52. コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(1683年11月8日-1684年10月28日)(2度目)
  • 53. ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1684年10月25日-1685年10月7日)
  • 54. アンドレアス・クレイエル(1685年10月17日-1686年11月5日)(2度目)
  • 55. コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(1686年11月5日-1687年10月25日)(3度目)
  • 56. ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1687年10月25日-1688年10月13日)(2度目)
  • 57. コルネリス・ファン・オウトホールンドイツ語版(1688年10月13日-1689年11月1日)
  • 58. バルタザール・スウェールス(1689年11月1日-1690年10月21日)
  • 59. ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1690年10月21日-1691年11月9日)(3度目)
  • 60. コルネリス・ファン・オウトホールン(1691年11月9日-1692年10月29日)(2度目)
  • 61. ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1692年10月29日-1693年10月19日)(4度目)
  • 62. ヘリット・デ・ヘーレオランダ語版(1693年10月19日-1694年11月7日)
  • 63. ヘンドリック・ディックマン(1694年11月7日-1695年10月27日)
  • 64. コルネリス・ファン・オウトホールン(1695年10月27日-1696年10月15日)(3度目)
  • 65. ヘンドリック・ディックマン(1696年10月15日-1697年11月3日)(2度目)
  • 66. ピーテル・デ・ボス(1697年11月3日-1698年10月23日)
  • 67. ヘンドリック・ディックマン(1698年10月23日-1699年10月21日)(3度目)
  • 68. ピーテル・デ・ボス(1699年10月21日-1700年10月31日)(2度目)
  • 69. ヘンドリック・ディックマン(1700年10月31日-1701年10月21日)(4度目)

【1701年 - 1750年】

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  • 70. アブラハム・ドウグラス(1701年10月21日-1702年10月30日)
  • 71. フェルディナント・デ・グロート(1702年11月9日-1703年10月30日)
  • 72. ギデオン・タント(1703年10月30日-1704年10月18日)
  • 73. フェルディナント・デ・グロート(1704年10月18日-1705年11月6日)(2度目)
  • 74. ハルナス・メンシング(1705年11月-1706年10月)
  • 75. フェルディナント・デ・グロート(1706年10月26日-1707年10月15日)(3度目)
  • 76. ハルナス・メンシング(1707年10月15日-1708年11月2日)(2度目)
  • 77. ヤスパー・ファン・マンスダレ(1708年11月2日-1709年10月22日)
  • 78. ハルナス・メンシング(1709年10月22日-1710年11月10日)(3度目)
  • 79. ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(1710年11月10日-1711年10月31日)
  • 80. コルネリス・ラルディヨン(1711年10月31日-1712年11月7日)
  • 81. ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(1712年11月-1713年11月)(2度目)
  • 82. コルネリス・ラルディヨン(1713年11月7日-1714年10月27日)(2度目)
  • 83. ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(1714年10月27日-1715年10月19日)(3度目)
  • 84. ギデオン・ボウダエン(1715年10月19日-1716年11月3日)
  • 85. ヨアン・アオウェル(1716年11月3日-1717年10月24日)
  • 86. クリスティアーン・ファン・ブリベルグ(1717年10月24日-1718年10月13日)
  • 87. ヨアン・アオウェル(1718年10月13日-1719年10月21日)(2度目)
  • 88. クリスティアーン・ファン・ブリベルグ(1719年10月21日-1720年10月21日)(2度目)
  • 89. ルーロフ・ディオダティオランダ語版(1720年10月21日-1721年11月9日)
  • 90. ヘンドリック・デュルファン(1721年11月9日-1722年10月)
  • 91. ヘンドリック・デュルファン(1722年10月-1723年10月18日)(2度目)
  • 92. ヨハネス・テンデンスオランダ語版(1723年10月18日-1725年10月25日)
  • 93. ヨアン・デ・ハルトグ(1725年10月25日-1726年10月15日)
  • 94. ピーテル・ボーケスティンオランダ語版(1726年10月15日-1727年11月3日)
  • 95. アブラハム・ミンネドンク(1727年11月3日-1728年10月21日)
  • 96. ピーテル・ボーケスティン(1728年10月21日-1729年10月12日)(2度目)
  • 97. アブラハム・ミンネドンク(1729年10月12日-1730年10月31日)(2度目)
  • 98. ピーテル・ボーケスティン(1730年10月31日-1732年11月7日)(3度目)
  • 99. ヘンドリック・ファン・デ・ベル(1732年11月7日-1733年10月27日)
  • 100. ロヒエル・デ・ラフェル[27](1733年10月27日-1734年10月16日)
  • 101. デビッド・ドリンクマン(1734年10月16日-1735年11月4日)
  • 102. ベルナルドス・コーパ(1735年11月4日-1736年10月24日)
  • 103. ヤン・ファン・デル・クルイッセ(1736年10月24日-1737年10月13日)
  • 104. ゲラルドゥス・ベルナルデュス・ビッスヘル(1737年10月13日-1739年10月21日)
  • 105. トーマス・ファン・リーオランダ語版(1739年10月22日-1740年11月8日)
  • 106. ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(1740年11月9日-1741年10月28日)
  • 107. トーマス・ファン・リー(1741年10月29日-1742年10月17日)(2度目)
  • 108. ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(1742年10月17日-1743年11月9日)(2度目)
  • 109. デビッド・ブロウウェル(1743年11月5日-1744年11月1日)
  • 110. ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(1744年11月2日-1745年12月28日)(3度目)
  • 111. ヤン・ロウイス・デ・ウィン(1745年12月30日-1746年11月2日)
  • 112. ヤコブ・バルデ(1746年11月3日-1747年10月25日)
  • 113. ヤン・ロウイス・デ・ウィン(1747年10月28日-1748年11月11日)(2度目)
  • 114. ヤコブ・バルデ(1748年11月12日-1749年12月8日)(2度目)
  • 115. ヘンドリック・ファン・ホモエド(1749年12月8日-1750年12月24日)
  • 116. アブラハム・ファン・スフテレンオランダ語版(1750年12月25日-1751年11月18日)

【1751年 - 1800年】

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  • 117. ヘンドリック・ファン・ホモエド(1751年11月19日-1752年12月5日)(2度目)
  • 118. ダフィット・ボエレン[32](1752年12月6日-1753年10月15日)
  • 119. ヘンドリック・ファン・ホモエド(1753年10月16日-1754年11月3日)(3度目)
  • 120. ダフィット・ボエレン(1754年11月4日-1755年10月25日)(2度目)
  • 121. ハーバート・ベルメウレン(1755年10月25日-1756年10月12日)
  • 122. ダフィット・ボエレン(1756年10月13日-1757年10月31日)(3度目)
  • 123. ハーバート・ベルメウレン(1757年11月1日-1758年11月11日)(2度目)
  • 124. ヨハネス・レイノウトス(1758年11月12日-1760年11月11日)
  • 125. マーティン・フイスホールン(1760年11月12日-1761年10月30日)
  • 126. ヨハネス・レイノウトス(1761年10月31日-1762年12月2日)(2度目)
  • 127. フレドリック・ウィレム・ウィネケ(1762年12月3日-1763年11月6日)
  • 128. ヤン・クランス[33](1763年11月7日-1764年10月24日)
  • 129. フレドリック・ウィレム・ウィネケ(1764年10月25日-1765年11月7日)(2度目)
  • 130. ヤン・クランス(1765年11月8日-1766年10月31日)(2度目)
  • 131. ヘルマン・クリスティアーン・カステンス(1766年11月1日-1767年10月20日)
  • 132. ヤン・クランス(1767年10月21日-1769年11月8日)(3度目)
  • 133. オルフェルト・エリアス(1769年11月9日-1770年11月16日)
  • 134. ダニエル・アーメナウルト(1770年11月17日-1771年11月9日)
  • 135. アレント・ウィレム・フェイト(1771年11月10日-1772年11月3日)
  • 136. ダニエル・アーメナウルト(1772年11月4日-1773年11月22日)(2度目)
  • 137. アレント・ウィレム・フェイト(1773年11月23日-1774年11月10日)(2度目)
  • 138. ダニエル・アーメナウルト(1774年11月11日-1775年10月28日)(3度目)
  • 139. アレント・ウィレム・フェイト(1775年10月28日-1776年11月22日)(3度目)
  • 140. ヘンドリック・ホットフリート・デゥールコープオランダ語版(1776年11月23日-1777年11月11日)
  • 141. アレント・ウィレム・フェイト(1777年11月12日-1779年11月28日)(4度目)
  • 142. イサーク・ティチング(1779年11月29日-1780年11月5日)
  • 143. アレント・ウィレム・フェイト(1780年11月6日-1781年11月23日)(5度目)
  • 144. イサーク・ティチング(1781年11月24日-1783年10月26日)(2度目)
  • 145. ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ英語版(1783年10月27日-1784年8月)
  • 146. イサーク・ティチング(1784年8月-1784年11月30日)(3度目)
  • 147. ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(1784年12月1日-1785年11月21日)(2度目)
  • 148. レーデ・トゥット・デ・パルケラール男爵ヨハン・フレデリック(1785年11月22日-1786年11月20日)[35]
  • 149. ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(1786年11月21日-1787年11月30日)(3度目)
  • 150. レーデ・トゥット・デ・パルケラール男爵ヨハン・フレデリック(1787年12月1日-1789年8月1日)(2度目)
  • 151. ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(1789年8月1日-1790年11月13日)(4度目)
  • 152. ピーテルス・セオドルス・シャッセ英語版(1790年11月13日-1792年11月13日)
  • 153. ヘイスベルト・ヘンミー(1792年11月13日-1798年7月8日)
  • 154. レオポルド・ウィレム・ラス英語版(1798年7月8日-1800年7月17日)

【1801年 - 1860年】

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脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ "1610 ヤックス・スペックス" から "1845/1850 ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン"まで刻まれた象嵌細工 アムステルダム国立美術館
  2. ^ 大航海時代には船団を率いたカピタンが商館(砦)を開設してそのまま長となることもあった。
  3. ^ 宮ノ前事件も参照。
  4. ^ 千々石ミゲルの伯父。
  5. ^ 大村純忠[注釈 4]が1570年長崎村、1580年茂木村を寄進した[1][2]
  6. ^ 同時代人のベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンも著書[3]に綴っている。
  7. ^ マゼラン社とはマゼラン海峡を経由する航路によるアジア貿易を目指した会社で、後のオランダ東インド会社の前身にあたる12のプレカンパニーオランダ語版のうちの1社だった。De VOC site: Geschiedenis; van voorcompagnie naar VOC”. Jaap van Overbeek te Wageningen. 2020年10月2日閲覧。
  8. ^ 各々カピタンピーテル・ファン・サンテンウィレム・フルステーヘンと結婚。
  9. ^ 事務長メルヒオール・ファン・サントフォールトは江戸の大工の娘・洗礼名イサベラとの間に二女を儲け[注釈 8]1639年第5次鎖国令まで自由貿易で財を成した[8]
  10. ^ 金銀島探検が目的の初代駐日スペイン大使・国王親書を携えたセバスティアン・ビスカイノを伴い1611年帰朝。
  11. ^ 1610年サン・ブエナ・ベントゥーラ号で田中勝介[注釈 10]らとともにヌエバ・エスパーニャへ。更に本国に渡り家康の親書フェリペ3世に届けた[9]
  12. ^ これ以前から家康の顧問格にはアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539-1606)、ポルトガルイエズス会ルイス・デ・セルケイラ(第3代日本司教1552-1614)、家康のスペインとの貿易交渉公使でフランシスコ会アロンソ・ムニョス(日本代理管区長 ? -1620[9])[注釈 11]らがいた。
  13. ^ ファン・サントフォールトの通訳[8]で特使がオラニエ公マウリッツの親書を携え駿府に向かった[10]
  14. ^ イギリス東インド会社代表Sir Thomas Smytheクローブ号ジョン・セーリスに届けさせた。
  15. ^ António Francisco Cardimアユタヤに1626年イエズス会伝道所を設立。何百人もの住民に秘跡を授けた[14]
  16. ^ クーケバッケルDe Rijp号で天草四郎軍を砲撃
  17. ^ 口縁は唐草文様で6分割し牡丹を交互に、見込みには鳳凰柘榴椿を染付けたクープ皿 17世紀後半 ピーボディ・エセックス博物館
  18. ^ 唐草文様染付 銀細工と黒檀製のCellaretバタヴィア製 1670-1675年ごろ アムステルダム国立美術館
  19. ^ オランダ獅子勲章オランダ語版騎士コック・ブロンホフが後に、馴染の遊女・糸萩に贈る番の駱駝[38]
  20. ^ 同族[41]Laurens de Witte van Cittersはオランダ貴族高等評議会議長。その甥・娘婿 Arnoldus Andries des Tombe は「真珠の耳飾りの少女」の所有者・美術品収集家

出典

[編集]
  1. ^ a b 松田.
  2. ^ " Sumario de las cosas de Japon 1583 Monumenta Nipponica monographs "『日本事集』(1583年):『日本概要』(1592年)への追加 第1巻 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ 著 Jose Luis Alvarez-Taladriz 編(1954年)
  3. ^ 『日本王国記 Relación del Reino del Nipón a que llaman corruptamente Japón(転訛してハポンと呼ばれている日本王国に関する報告)』(初稿 第1輯 1598年)
  4. ^ ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子 著『大航海時代日本人奴隷中央公論新社 (2021年) 増補新版〈中公選書
  5. ^ 16世紀末 " Asies Nouvelles - Atlas Géopolitique " livre et assimilé géographie, géopolitique: Sciences humaines et sociales; Michel Foucher, 13/05/2002, Belin:éditeur. EAN 9782701127606
  6. ^ " A series of accounts of famous Sea and Land-Voyages " 1705年ごろ Pieter van der Aa
  7. ^ 17世紀初頭の図 Vié, Michel 著 "Histoire du Japon des originesà Meiji" Presses universitaires de France出版 1969年 第6版更新
  8. ^ a b .
  9. ^ a b ブリタニカ.
  10. ^ ニコラース・ポイク 著『最初のオランダ遣日使節の駿府旅行記』オランダ国立公文書館員ルーロフス東京大学史料編纂所員金井圓ら訳 バーデン州立図書館: 前文「...家康は大航海時代諸外国から注目されていた...」
  11. ^ 1613年 ボドリアン図書館
  12. ^ ロンドン塔 中世復古調本小札胴丸仕立 "2013年は日英交流400周年" 〜JAPAN400 のご紹介〜 CLAIR メールマガジン 2013年2月配信 (ロンドン事務所)
  13. ^ 漆塗用下圖 京都製 1800年ごろ アムステルダム国立美術館
  14. ^ Ribeiro, M. 著 "The Japanese Diaspora in the Seventeenth Century. According to Jesuit Sources" 2001 Bulletin of Portuguese - Japanese Studies. 3: 53–83. ISSN 0874-8438.
  15. ^ オランダ風説書
  16. ^ Nationaal Archief
  17. ^ 銅版画 1669年 Nederland Koninklijke Bibliotheek
  18. ^ 1650年ごろ アムステルダム国立美術館
  19. ^ レシフェ奴隷市場 1637-1644年ごろ Kupferstichkabinett (Residenzschloss Dresdenドレスデン美術館分室)
  20. ^ 旋削加工 1650-1660年ごろ アムステルダム国立美術館
  21. ^ confiserie用 1671-1690年ごろ ピーボディ・エセックス博物館
  22. ^ François de Haese オランダ東インド会社ペルシャの知事 (1671-1673年)ベンガルの知事 (1673–1676年)
  23. ^ Dirck de Haas オランダ東インド会社アンボンの知事 (1687–1691年)
  24. ^ 裏面梨地仕上 1690-1700年ごろ アムステルダム国立美術館
  25. ^ Willem van Outhoorn オランダ領東インド総督 (1691-1704)
  26. ^ Kashkul 1700年ごろ ピーボディ・エセックス博物館
  27. ^ Rogier de Laver オランダ領マラッカ総督(1736-1743年)
  28. ^ 1700-1724年ごろ アムステルダム国立美術館
  29. ^ グラヴュール加飾:オランダ北部 吹きガラス:ドイツ製 1725-1750年ごろ アムステルダム国立美術館
  30. ^ 1775-1800年ごろ アムステルダム国立美術館
  31. ^ 著者没後刊行オランダ語版 "Bijzonderheden over Japan, behelzende een verslag van de huwelijks plegtigheden, begrafenissen en feesten der Japanezen, de gedenkschriften der laatste Japansche keizers, en andere merkwaardigheden nopens dat rijk" OCLC: 7472268 マーストリヒト大学図書館 Johannes Allart出版
  32. ^ David Boelen オランダ領マラッカ総督(1758-1764年)
  33. ^ Jan Crans オランダ領マラッカ総督(1772-1776年)
  34. ^ "Ouvrage revu, complété et corrigé sur l'original japonais-chinois, accompagné de notes, et précédé d'un aperçu de l'histoire mythologique du Japon." par J. Klaproth, Koninklijke Nederlandse Koloniale Bibliotheek
  35. ^ 出島日記細目 1740-1800』学術叢書第21 日蘭学会 2004年、Johan Frederik baron van Reede tot de Parkelaar他著 (Johan Frederik van Reede, heer van de Parkeler 1684-1735 の孫)
  36. ^ 1816-1848年ごろ アムステルダム国立美術館
  37. ^ 山東庵京山 1824年 オランダ国立民族学博物館
  38. ^ 【発見!長崎の歩き方】出島回想録~出島が日本と世界にもたらしたもの~ 4.出島を通した文化交流
  39. ^ 小引出箪笥 1800-1823年ごろ オランダ国立民族学博物館
  40. ^ "Portret van Jan Willem Frederik van Citters (1785-1836)" ミニアチュール 1800-1836年ごろ Zeeuws Museum
  41. ^ 共に Willem van Citters (VOC取締役 1713-1757) の父 Aernout van Citters の玄孫
  42. ^ Pieter Albert Bik (1798-1855)
  43. ^ Frederik Cornelis Rose (1808–1880)
  44. ^ Mikko Toivanen"The Travels of Pieter Albert Bik: Writings from the Dutch Colonial World of the Early Nineteenth Century" 2017.

関連文献

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以下の片桐一男の著書を参照。ほか多数

関連項目

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外部リンク

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