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「ノート:幻視芸術」の版間の差分

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Basicsur (会話 | 投稿記録)
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:*ヴィジョナリー・アートという表現は、まだ上の意味での信頼できる資料が元となっておらず、また確認できても少数派の表現だろう(はい・いいえ)
:*ヴィジョナリー・アートという表現は、まだ上の意味での信頼できる資料が元となっておらず、また確認できても少数派の表現だろう(はい・いいえ)
:*[[Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)]]にて、原語など別名が定義として説明されることは一般的でないことを確認した(はい・いいえ)--[[利用者:タバコはマーダー|タバコはマーダー]]([[利用者‐会話:タバコはマーダー|会話]]) 2017年6月26日 (月) 02:23 (UTC)
:*[[Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)]]にて、原語など別名が定義として説明されることは一般的でないことを確認した(はい・いいえ)--[[利用者:タバコはマーダー|タバコはマーダー]]([[利用者‐会話:タバコはマーダー|会話]]) 2017年6月26日 (月) 02:23 (UTC)


タバコはマーダーさんの日本語を何度も読んでも理解できず、こちらの日本語も理解されないことがこちらで確認できましたので、以後このページに情報提供することを当分、停止することに決めました。
編集ごくろうさまです。頑張ってください。できれば幻視芸術そのものを鑑賞し体感し言葉にし、芸術鑑識の向上に役立つページになるよう期待してこの場を去ります。後はよろしくお願いします--[[利用者:Basicsur|Basicsur]]([[利用者‐会話:Basicsur|会話]]) 2017年6月26日 (月) 14:40 (UTC)


== 「伝統芸術」という言葉の曖昧性 ==
== 「伝統芸術」という言葉の曖昧性 ==

2017年6月26日 (月) 14:40時点における版

このページは一度削除が検討されました。削除についての議論は「Wikipedia:削除依頼/ヴィジョナリーアート」をご覧ください。

ヴィジョナリーアートの呼び方は定着していない

ウィリアム・ブレイクなど古いですが、

  • 『聖なる鏡―アレックス・グレイの幻視的芸術』(2010年) Sacred Mirrors : The Visionary Art of Alex Gray, 1990.
  • 『ジャン・コクトー : 幻視芸術の魔術師』(1995年)
  • 「幻視芸術」『ウィリアム・ブレイク』(牧神社、1977年)

といった著書があります。またヴィジョナリーアートを書名に持つ著作はありませんでした。--タバコはマーダー会話2017年4月1日 (土) 17:18 (UTC)[返信]

上の三者は画家(ブレイクは詞でも)として知られていますが、幻視芸術ではなくても「幻視」として言及されています。

改名

Wikipedia:記事名の付け方には、日本語での正式名称、信頼できる情報源において最も一般的といった基準があります。日本語には上の節に挙げた書籍がありますし、ヴィジョナリーアートでは英語直ですし自己出版のようなものしか見つからず信頼性が低いという理由で、Wikipedia:ページの改名#改名前にすべきこと「明らかに、ページ名が記事名の付け方のガイドラインに沿っていないとき」におけるただちに改名ケースとして改名します。--タバコはマーダー会話2017年4月4日 (火) 07:07 (UTC)[返信]

「幻視芸術」も「幻想芸術」と比較すると国内では使用頻度が低い

幻視芸術は国語辞書にも掲載されておらず、Visionary Artの和訳を「幻視芸術」とすべきかどうか議論や同意がまだ確認されていません。Visionary Artは60年代にアメリカで使用され始めた英語であり、ある程度、対応する日本語が「幻想芸術」以外まだ存在しないため、現状ではカタカナ英語でヴィジョナリー・アートおよびビジョナリー・アートとするのが適切であると考えます。 日本国内において,Visionary Art=ヴィジョナリーアートという言葉を本来の意味で使用した美術館、展覧会は現実に存在しており、それは明確に60年代以降の芸術の動向を受け継いでいるものです。今の段階でVisionary Artを「幻視芸術」という使用頻度が極めて低い言葉に和訳することには慎重になるべきだと思います。 そもそもこのヴィジョナリーアートの記事は国外の芸術運動の動向を扱ったものであり、国際的に「幻視芸術」という言葉がほぼ皆無である以上、ヴィジョナリーアートという記事名に変更することを提案します。--以上の署名のないコメントは、Basicsur会話投稿記録)さんが 2017年4月20日14:31‎ に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。

Wikipedia:記事名の付け方に従っていません。そもそもWikipedia:独自研究は載せないが理解されていないように思います。
#ヴィジョナリーアートの呼び方は定着していない」にありますように、幻視芸術という言葉は使われています。ですが、ヴィジョナリー・アートという言葉は文献に見つけられませんでした。
信頼できる情報源ではないので、強い根拠とはできませんが。
  • 国際幻想芸術展-幻想と幻視芸術(Fantastic & Visionary art)」フライヤーに日本語が記載されている2011年の展覧会が開催されたことがあるようです。その解説文でも主が「幻視芸術」となり括弧して「ヴィジョナリーアート」とされている。これは国際的なものであり、専門家のコンセンサスと無関係とは言えないかと思います。
  • 「VISIONs-21世紀の幻視芸術展(Contemporary Visionary Art In The 21st Century)」という8名の画家の展覧会も2009年に開催されております。
  • 幻視-屋久島」という2009年の展覧会は、屋久島の精霊との対話を描いた4名の画家によるもので、幻視芸術を指しているものと思われます。言葉が使われているのであれば、こちらの方が日本語です。
「幻視芸術という言葉の使用頻度が極めて低い」ということを裏付ける資料などもまったく提示されておらず、「ヴィジョナリー・アート」という言葉を使った美術館・展覧会の存在は、当方による検索の上でまったく確認できません。「アウトサイダー・アート」のように、信頼できる情報源、そうでなくてもなんらかの資料にて、カタカナ語が頻用されていることが確認できないということです。--タバコはマーダー会話2017年4月21日 (金) 04:40 (UTC)[返信]
アウトサイダーアートには、幻視を芸術したものが含まれるということは確認できます。以下では Visionary が、空想・ファンタジーだとは確認できず、および、ヴィジョナリー・アートというカタカナ語だけの使用は確認できません。
  • 『パラレル・ヴィジョン―20世紀美術とアウトサイダー・アート』 1993年10月。ISBN 978-4-473-01301-9
上記翻訳書は、ロサンゼルス・カウンティ・ミュージアムの展覧会の著作で、1993年に世田谷美術館がアウトサイダーアートの展覧会を開いたのに合わせて翻訳された著作です。ここでは例えば章のタイトルに「幻視的美術」が使われており、そして原著と照合すると Visionary Art の英単語が元です。
対応する日本語が幻想芸術だともちょっと確認できません。--タバコはマーダー会話2017年5月4日 (木) 05:08 (UTC)[返信]

ヴィジョナリー アートに関する日本国内最初の論考

欧米におけるVisionary artに関する書物は日本国内では皆無です。しかし8年前において国内最初の論考をしたサイトが存在します。「検証の上でウィキペディアにおける引用、要約が可能です。」と明記されているので、記事の再編集、改善に利用できます。 http://mixi.jp/view_community.pl?id=3970390&from=home_joined_community ——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月24日 (土) 15:45 (UTC) に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。[返信]

そういう自己公表されたブログなどはWikipediaでは使えません。Wikipedia:信頼できる情報源#オンラインや自己公表された情報源の利用をお読みください。また、その8年前の2009年は、1993年の世田谷美術館での「パラレル・ヴィジョン」展の出版より16年も後です。その同年の翻訳書、『パラレル・ヴィジョン―20世紀美術とアウトサイダー・アート』が、私の確認したさらに古い、しかりしっかりとした出版物となっている論考です。--タバコはマーダー会話2017年6月25日 (日) 03:13 (UTC)[返信]

幻視と幻想の区別が全く記載されておらず、日本語では同じ意味であるものが二つの記事に分裂している問題

日本語の辞書において幻想と幻視の意味は同じであり、「幻想芸術」の記事と「幻視芸術」の記事が併存している事態は矛盾、および同語反復であると思います。 言葉の本来の意味のほかに通常、慣習的に現実世界でどのような言葉が人々の間で交わされているかを念頭にいれて記事編集をすることを提案します。--Basicsur会話) 2017年6月25日 (日) 15:09 (UTC)——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月22日 (木) 14:52 (UTC) に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。[返信]

まずWikipedia:独自研究は載せないを参照してください。独自研究を述べるのではなくて、そう述べている出典を探してください。
goo辞書で調べましたが、「幻視はないものが見えること」「幻想は現実にないことを描くこと」です。意味は違います。私は精神医学の文献も読んでいますが、幻視とは一般に視覚における幻覚であり、実際には存在しないけれど、本人にははっきりと見えているものです。典型的には草間彌生の作品なんかがそれに該当すると思います。上に示していますが、文献や実際の使用例でも幻覚における幻視をよく指しています。
幻想は、イメージしているだけであって、はっきりとまざまざと見えていないと思います。--タバコはマーダー会話2017年6月24日 (土) 13:02 (UTC)[返信]
まずは我々の良識と常識、そして辞書が有効な出典

出典はまず我々自身の脳です。空が青いという事実に出典は必要でしょうか。「幻視はないものが見えること」「幻想は現実にないことを描くこと」どちらも無いものを有ると認知することであり同じ意味です。どちらも幻なのです。ところが visionary には明確な未来計画といった意味があります。fantasticにも素晴らしいという形容詞的意味があります。出典はすべて英語辞書、国語辞書で足ります。より言語に対して謙虚にのぞみたいものです。——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月24日 (土) 16:00 (UTC) に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。[返信]

幻想と幻想絵画は違うものであり幻視と幻視芸術は違うものである

馬鹿真面目に言葉に拘ると見えなくなるものがあります。 印象主義芸術 と印象は違うものです。どうように幻視芸術と幻視は違います。芸術とは具体的に絵の具や粘土で活動するものであり、幻視があって作品になることもあれば幻視がなくても結果的に幻視っぽい作品になることもあります。——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月24日 (土) 16:25‎ に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。

Wikipedia:ノートページのガイドラインの「個人的な見解を開陳する演壇として用いられるべきではありません」をご理解ください。個人的な主張の議論を目的としたサイトではありませんので、典型的には出版された信頼できる出典を元に、そこからかけ離れた空想ではなく、忠実にどのように記述するのか議論していただきたいと思います。--タバコはマーダー会話2017年6月25日 (日) 04:14 (UTC)[返信]
幻視芸術という言葉が国内で一般的であれば幻視芸術家も日本に存在するはずである(次のBasicsur氏の返信後ですが話題が分散しているのでここに纏めさせて戴きました

日本には幻視芸術家と名のる人物は一人も居ないはずです。幻視芸術家は日本国内では誰が居るでしょうか。ゼロです。——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月24日 (土) 16:48 に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。

以下のような出版物があります。
  • 『パラレル・ヴィジョン―20世紀美術とアウトサイダー・アート』 1993年10月。ISBN 978-4-473-01301-9
上記出典には既に示したところですが、Visionary artについて言及されています。これが翻訳されたときの世田谷美術館での「パラレル・ヴィジョン」展があります。
  • そのパラレル・ヴィジョン展資料、『日本のアウトサイダー・アート パラレル・ヴィジョン―20世紀美術とアウトサイダー・アート』という展覧会資料があります。
まえがきにあたる「あいさつ」は世田谷美術館と朝日新聞社が筆者となって書かれており、ひとつの文章に「精神に障害を負う人々や霊的能力に優れた幻視者たちの作品」と書かれており、これは英文も併記されていますが、幻視者にあたると思われる部分は visionaries の単語が使われています。30-31頁に8人の作者が紹介されていますが、山下清では知的障害でしょうし、そういう風に見ていくと、ここで紹介されている「幻視者」に該当しそうなのは、水玉模様の幻覚を見たと書かれる草間彌生ですし、12ページの紹介でも幻影にさいなまされたエピソードと、続いて草間へのインタビューで、絵を描きはじめたの経緯として、こうした映像が見え始めるとスケッチブックに移しはじめたとありますから。自称ではなく、他称での幻視者の作品だと認識されているということです。24年前の資料ですね。--タバコはマーダー会話2017年6月25日 (日) 03:47 (UTC)ここまで、Basicsur氏の返信後ですが話題が分散しているのでここに纏めさせて戴きました[返信]

すみません。ウィキペディアをだいぶ離れていたので、返信の仕方に疎くなっていました。

巌谷 國士の「シュルレアリスムとは何か」の175ページにフランス絵画の一派が使用するヴィジョネールという概念が紹介されています。1994年に国内で開催された展覧会「現代パリの幻想画家たち」のカタログではこのヴィジョネールという言葉が幻視芸術と訳され幻想芸術との比較をふくむ論考が掲載されています。おそらくこれが「幻視芸術」という言葉が国内で公になった古い例の一つではないでしょうか。カタログの中で画商のエルヴェ・セランは幻視芸術あるいは幻視絵画の特徴を三つ出しています。

1 霊的な奥行き 2無時間性 3完璧な技法

Visionary Artの 英語版 ウィキペディアの記述でも「霊的な」Spiritual という言葉があったと思います。幻視芸術の説明に「霊的」という言葉があっても良いのではないでしょうか。

カタログにおける巌谷 國士の文章を要約すると「幻想芸術」はそもそもファンタスティック・アートの訳としては不適切としながら、1979年に出版されたミシェル・ランドンの『ヴィジョネール美術』を引用し幻想芸術と幻視芸術との違いを紹介しています。重要な資料ですが、もし『現代パリの幻想画家たち』が手に入りにくければ 資料をそちらへ送る手段もあります。

「伝統的な美術の外側であるアウトサイダー・アートの定義と同様にして、幻視に由来するものであり、精神障害から幻視者までを含む[1][4]。または幻想芸術を指していることもある。」

形容詞として幻視的、幻想的としたときに本来の外国語の意味が出てくるので、幻視も幻想も日本語の名詞としてはポジティブな意味がそれほどありません。説明文では的を使用し、幻視芸術という言葉においては幻視が形容詞的に使われているという含みの自覚が必要かもしれません。さらにそれらが外国語の翻訳であるという記述が必要です。

改善案として、伝統芸術の外にアウトサイダー・アートが位置づけられているという記述はどうしても納得できません。フォーマル、公式という意味は教育を含んでおり、教育の外がアウトサイダーであるとするほうが自然だと思います。日本の美術教育は伝統的なデッサンを重要視しており欧米の美術教育は技術よりも現代的なコンセプトを重視しています。欧米の美術教育は伝統的ではないと聞いています。 アウトサイダー・アートを伝統芸術の外側にしようとするなら、日本には適合しますが欧米には合いません。欧米の美術教育はそもそも伝統芸術の外側に出ようとして展開してきたからです。考案した定義は以下のものです。

「幻視芸術とはフランス語のラール・ヴィジョネール および英語のヴィジョナリー・アートの和訳である。公式な美術教育の外側で展開されているアウトサイダー・アートもまた幻視的要素を含むものであり、精神障害者が造り出す芸術や幻視的能力を持った芸術家の作品まで幻視芸術と呼ぶことができる。またファンタスティック・アートの和訳としての幻想芸術を指すこともあれば、違うものとして比較されることもある。」    より良い定義についてご意見を伺いたいと思います。

『現代パリの幻想画家たち』中の重要な幻視芸術家として ジェラール・ディマシオがいますが、彼の美術館が北海道に存在しアルファベットのVisionary Artが表看板に使用されています。さらにカタカナのヴィジョナリーアートを使用した国内最初のグループ展が2009年に銀座のギャラリー アートポイントで開催されていたことはすでに御存知だと思います。Basicsur会話2017年6月25日 (日) 15:09 (UTC)  [返信]

ぐちゃぐちゃに議論するのではなく議論しやすい形にしていただけますと助かります。どの文章表現に対して、どういう裏付けをもとに、どう表現した方がよいのか、このように絞って書かれることを望みます。あまり独自研究に脱線させてほしくはありません。その際にWikipedia:信頼できる情報源を参照し、単なる個人ブログなどは、個人的な経験など、基本的に信頼できる情報ではないとして除外されるものと考えてください。
幻想芸術と幻視芸術との違いがないような主張から、一転して区別しだしておられますが、区別がついたなら議論を終了してください。つまり、1994年「現代パリの幻想画家たち」資料で、「ヴィジョネール」が「幻視芸術」と訳され、幻想芸術と比較されている(むしろ、どう比較されているんでしょうか)。その展示会での、重要な「幻視芸術家」として(「幻視芸術家」として認知されている?)、ジェラール・ディマシオがおり、北海道に存在しアルファベットのVisionary Artが看板に使用されている(信頼できる情報源ではない)。ヴィジョネールという概念が紹介されている(どのように?区別がされているということですけど)。「霊的」という言葉があってもよいのでは(なぜ?新たな議論の追加)。
幻視芸術、幻視的芸術などで資料に確認がとれていますね。Wikipedia:記事名の付け方Wikipedia:信頼できる情報源を参照してください。
アウトサイダー・アートについては、資料に基づいて改定すべきであり、延々と独自研究の議論をしたくはありません。「公式な美術教育の外側」でもいいんですが。ウィキペディアは、「日本の美術教育は」といった持論や「と聞いています」という不確かな情報を反映させるものではないです。
「○○とは、何語の和約である」これは定義になってないですね。説明になっておらず、言葉の意味がわからないです。こういう書き方は一般的でないです。Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)を参照してください。
霊的な Spiritual をどう解釈されているのか分かりませんが、そちらの言うものは現在既にすべて含まれており、あなたの言うスタイルマニュアルにない「定義の仕方」、独自研究・伝聞的な「公式」などの表現の仕方に議論の焦点があります。
  1. 霊性の領域の幻視(ウィリアム・ブレイクの様な啓示、観想の眼、通常の知覚を超越した、またはサイケデリックやシャーマニズムであり、宗教学、神学などに近いですね)アレックス・グレイからのものでしょう。
  2. 病的な領域の幻視(精神障害、上を厳密に区別すると霊的ではない)アウトサイダー・アートとしての『パラレルヴィジョン展』
  3. 幻想芸術と区別のない用法(俗な言葉の用法、ファンタジーですね)ただ幻視芸術を含んで区別しているようである『幻想芸術展』
確認をお願いします。
  • Wikipedia:信頼できる情報源とは、出版された書籍・論文が優先され、名もなき個人のブログや個人の経験は除外されることを理解した(はい・いいえ)
  • 幻視芸術、幻視的芸術のような「幻視」を含む訳語は信頼できる資料に登場するようだと認識できているか。(はい・いいえ)
  • Wikipedia:記事名の付け方において、信頼できる資料によく使われ、また日本語の正式名称が記事名としてふさわしいと理解した(はい・いいえ)
  • ヴィジョナリー・アートという表現は、まだ上の意味での信頼できる資料が元となっておらず、また確認できても少数派の表現だろう(はい・いいえ)
  • Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)にて、原語など別名が定義として説明されることは一般的でないことを確認した(はい・いいえ)--タバコはマーダー会話2017年6月26日 (月) 02:23 (UTC)[返信]


タバコはマーダーさんの日本語を何度も読んでも理解できず、こちらの日本語も理解されないことがこちらで確認できましたので、以後このページに情報提供することを当分、停止することに決めました。 編集ごくろうさまです。頑張ってください。できれば幻視芸術そのものを鑑賞し体感し言葉にし、芸術鑑識の向上に役立つページになるよう期待してこの場を去ります。後はよろしくお願いします--Basicsur会話2017年6月26日 (月) 14:40 (UTC)[返信]

「伝統芸術」という言葉の曖昧性

「伝統芸術」が何を指すのかが曖昧なまま幻視芸術およびアウトサイダーアートの定義に用いられています。検討を提案します。——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月22日 (木) 15:14 (UTC) に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。[返信]

伝統芸術という言葉は使用されていませんが、本文では正式な訓練がなかったという文章に続きますし、アウトサイダー・アートの記事でも私が編集したのでもなく以前からそのような感じであり、定義はおかしなものではないと思われます。--タバコはマーダー会話2017年6月24日 (土) 13:02 (UTC)[返信]
伝統芸術は国によって意味が違う

まず言うまでもない常識に照らせば、欧米の伝統芸術は具象美術であり、それを破壊したのがアメリカの抽象的現代美術です。現代美術はアメリカによってメジャーになりその外側にアウトサイダーアートがあります。 伝統芸術の外側にアウトサイダーアートがあるという表現は正確ではありません。「伝統」よりも「公式」という言葉が妥当だと思います。「定義はおかしなものではないと思われます。」とありますが物凄く変です気付いてください。 そのために出典を要求しないでください。常識だからです。もっと勉強してください。——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月24日 (土) 16:08 に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。

Wikipedia:個人攻撃はしないWikipedia:独自研究は載せないWikipedia:ノートページのガイドラインの「個人的な見解を開陳する演壇として用いられるべきではありません」をご理解ください。--タバコはマーダー会話2017年6月25日 (日) 04:14 (UTC)[返信]
あなたは、幻視芸術(2010年4月26日08:54)にて、引用していますが、以下の出典にも引用記述があり同一の文章を元としているかと思います。
この文章では、traditional fine art system とあり、traditional 伝統ですね、formal とかではないですね。
アウトサイダー・アートでも、当方が編集したのではないですが、伝統の用語が使われていますよね。--タバコはマーダー会話2017年6月25日 (日) 05:11 (UTC)[返信]

定義とは定まった義理のためではない、コミュニケーションをするための明確な指標を模索するものである

日本人でウィキペディアにのめりこむタイプが居るとするならdefineを定義と捉え、定まった義理と解釈する場合があると思います。なぜ定義が必要かというと人々が言葉の意味を明確にしコミュニケーションをするためであって、その目的のためにウィキの定義編集は存在すると思います。——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月24日 (土) 16:40 に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。

Wikipedia:独自研究は載せないを参照してください。出典に確認のできない定義は、それは独自研究です。--タバコはマーダー会話2017年6月25日 (日) 03:47 (UTC)[返信]

タバコはマーダーさんの日本語能力は完全ではない

これからの成長を望みます。——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月24日 (土) 17:02‎ に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。

Wikipedia:個人攻撃はしないWikipedia:礼儀を忘れないといった行動規範をお忘れなく。--タバコはマーダー会話2017年6月25日 (日) 03:13 (UTC)[返信]
非常に無関係なノート―ページの使い方ですので、Basicsur氏によって、この節の私の発言ごと除去されることをお願いしたいです。--タバコはマーダー会話2017年6月26日 (月) 01:23 (UTC)[返信]