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アジアとの関係を見ると、2003年には[[廣山望]]がプリメイラ・リーガ初の日本人選手として在籍し<ref name="スポナビ">[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/0910/portugal/text/200910220005-spnavi.html “ポルトガルのアーセナル”の大躍進]スポーツナビ、2009年10月23日</ref>、2005-06シーズンには[[金東ヒョン|金東炫]]が同リーグ初の韓国人選手として在籍している<ref>鰐部 (2012)、142頁</ref>。2003年夏には[[ジェズアウド・フェレイラ]]監督が就任し、2003-04シーズンにはリーグ戦で5位となって[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]出場権を獲得。この時期から国内と国外での躍進が始まった。2005-06シーズンにはシーズン終盤まで優勝を争って4位となり、2006年夏に[[カルロス・カルヴァリャル]]監督が就任すると、2006-07シーズン序盤は低調な成績であり、UEFAカップでは1回戦で[[キエーヴォ・ヴェローナ]](イタリア)に2試合合計3-2で勝利したが、グループリーグ序盤戦では[[AZアルクマール]](オランダ)に0-4で敗れたほか、国内リーグでは[[CSマリティモ]]に1-4で敗れた。カルバリャル監督は2006年11月に辞任し、[[ロジェリオ・ゴンサウヴェス]]が後任監督に就任すると、アシスタントコーチに元[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]キャプテンの[[ジョルジュ・コスタ]]が就任。ゴンサウヴェス監督就任初戦の[[SLベンフィカ]]戦には1-3で敗れ、UEFAカップでは[[セビージャFC]](スペイン)に0-2で敗れた。[[UDレイリア|ウニオン・レイリア]]に0-1で敗れた後、ゴンサウヴェス監督は2007年2月18日に辞任した。アントニオ・サルヴァドール会長はジョルジュ・コスタの監督就任を発表し、ジョルジュ・コスタ監督は就任初戦となったUEFAカップ・決勝トーナメント1回戦で[[パルマFC]](イタリア)に1-0で勝利。決勝トーナメント2回戦では[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム]](イングランド)と対戦し、2試合合計4-6で敗れた。国内リーグ戦では最終節で[[CFベレネンセス]]をかわし、3シーズン連続で4位となった。 |
アジアとの関係を見ると、2003年には[[廣山望]]がプリメイラ・リーガ初の日本人選手として在籍し<ref name="スポナビ">[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/0910/portugal/text/200910220005-spnavi.html “ポルトガルのアーセナル”の大躍進]スポーツナビ、2009年10月23日</ref>、2005-06シーズンには[[金東ヒョン|金東炫]]が同リーグ初の韓国人選手として在籍している<ref>鰐部 (2012)、142頁</ref>。2003年夏には[[ジェズアウド・フェレイラ]]監督が就任し、2003-04シーズンにはリーグ戦で5位となって[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]出場権を獲得。この時期から国内と国外での躍進が始まった。2005-06シーズンにはシーズン終盤まで優勝を争って4位となり、2006年夏に[[カルロス・カルヴァリャル]]監督が就任すると、2006-07シーズン序盤は低調な成績であり、UEFAカップでは1回戦で[[キエーヴォ・ヴェローナ]](イタリア)に2試合合計3-2で勝利したが、グループリーグ序盤戦では[[AZアルクマール]](オランダ)に0-4で敗れたほか、国内リーグでは[[CSマリティモ]]に1-4で敗れた。カルバリャル監督は2006年11月に辞任し、[[ロジェリオ・ゴンサウヴェス]]が後任監督に就任すると、アシスタントコーチに元[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]キャプテンの[[ジョルジュ・コスタ]]が就任。ゴンサウヴェス監督就任初戦の[[SLベンフィカ]]戦には1-3で敗れ、UEFAカップでは[[セビージャFC]](スペイン)に0-2で敗れた。[[UDレイリア|ウニオン・レイリア]]に0-1で敗れた後、ゴンサウヴェス監督は2007年2月18日に辞任した。アントニオ・サルヴァドール会長はジョルジュ・コスタの監督就任を発表し、ジョルジュ・コスタ監督は就任初戦となったUEFAカップ・決勝トーナメント1回戦で[[パルマFC]](イタリア)に1-0で勝利。決勝トーナメント2回戦では[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム]](イングランド)と対戦し、2試合合計4-6で敗れた。国内リーグ戦では最終節で[[CFベレネンセス]]をかわし、3シーズン連続で4位となった。 |
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2006年7月、フランスの保険会社である[[アクサ]]が年間数百万ドルを支払うスポンサーとなり、スタジアムの名称がエスタディオ・ムニシパル・デ・ブラガ(ブラガ市営スタジアム)から[[エスタディオ・ムニシパル・デ・ブラガ|エスタディオ・アクサ]]に変更された。スタジアムに命名権名称を導入したのはポルトガル初(2012年時点で唯一)である<ref name="魔力128頁">鰐部 (2012)、133頁</ref>。2007-08シーズンのUEFAカップでは[[ハンマルビーIF]](スウェーデン)と対戦し、アウェーで行なわれたファーストレグには1-2で敗れたが、ホームで行なわれたセカンドレグには4-0で勝利して2シーズン連続のグループリーグ出場を決めた。グループリーグ初戦の[[ボルトン・ワンダラーズFC|ボルトン]](イングランド)戦には1-1で引き分け、2戦目は優勝候補の[[バイエルン・ミュンヘン]](ドイツ)戦だったが、[[ロランド・ルイス]]の得点でやはり1-1で引き分けた。3戦目の[[アリス・テッサロニキFC]](ギリシャ)戦ではリンツの得点で1-1で引き分け、最終戦の[[レッドスター・ベオグラード]](セルビア)戦は2-0で初勝利を飾った。決勝トーナメントでは[[ヴェルダー・ブレーメン]](ドイツ)と対戦し、ファーストレグではPKを2度も失敗して0-3で敗れた。セカンドレグには1-0で勝利したが、2試合合計1-3で敗退した。2008年夏の[[UEFAインタートトカップ]]では[[スィヴァススポル]](トルコ)を下して優勝。その結果出場した[[UEFAカップ 2008-09|2008-09シーズンのUEFAカップ]]では、予選2回戦で[[HŠKズリニスキ・モスタル]](ボスニア・ヘルツェゴビナ)を2試合合計3-0で下し、本選1回戦の[[FCペトルジャルカ・アカデーミア|FCアルトメディア・ペトルジャルカ]](スロバキア)戦ではファーストレグで[[アルベール・メヨン・ゼ]]がハットトリックを達成するなどして2試合合計6-0で快勝した。3シーズン連続でグループリーグ出場権を獲得し、グループリーグでは[[ポーツマスFC]](イングランド)、[[ACミラン]](イタリア)、[[VfLヴォルフスブルク]](ドイツ)、[[SCヘーレンフェーン]](オランダ)と同組となった。初戦のポーツマス戦には[[ルイス・アギラール]]の1得点2アシストで3-0と勝利し、この試合は相手監督である[[ハリー・レドナップ]]のトッテナム監督就任前ラストゲームとなった。[[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サン・シーロ]]で行なわれたミラン戦では長い時間試合を支配し、試合終了直前の93分まで無失点に抑えていたが、35mの距離から[[ロナウジーニョ]]にミドルシュートを決められて敗れた。決勝トーナメント1回戦では[[フェリックス・マガト]]監督率いるヴォルフスブルクと対戦し、2点先行したが2-3で敗れた。ヘーレンフェーン戦には2-1で勝利し、2勝2敗の勝ち点6でグループ3位となって決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦では[[スタンダール・リエージュ]](ベルギー)と対戦し、2試合合計4-1で勝利した。決勝トーナメント2回戦では[[パリ・サンジェルマンFC]](フランス)に2試合合計0-1で敗れたが、UEFAインタートトカップ優勝組(11クラブ)の中では最高の成績を残した。 |
2006年7月、フランスの保険会社である[[アクサ]]が年間数百万ドルを支払うスポンサーとなり、スタジアムの名称がエスタディオ・ムニシパル・デ・ブラガ(ブラガ市営スタジアム)から[[エスタディオ・ムニシパル・デ・ブラガ|エスタディオ・アクサ]]に変更された。スタジアムに命名権名称を導入したのはポルトガル初(2012年時点で唯一)である<ref name="魔力128頁">鰐部 (2012)、133頁</ref>。2007-08シーズンのUEFAカップでは[[ハンマルビーIF]](スウェーデン)と対戦し、アウェーで行なわれたファーストレグには1-2で敗れたが、ホームで行なわれたセカンドレグには4-0で勝利して2シーズン連続のグループリーグ出場を決めた。グループリーグ初戦の[[ボルトン・ワンダラーズFC|ボルトン]](イングランド)戦には1-1で引き分け、2戦目は優勝候補の[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]](ドイツ)戦だったが、[[ロランド・ルイス]]の得点でやはり1-1で引き分けた。3戦目の[[アリス・テッサロニキFC]](ギリシャ)戦ではリンツの得点で1-1で引き分け、最終戦の[[レッドスター・ベオグラード]](セルビア)戦は2-0で初勝利を飾った。決勝トーナメントでは[[ヴェルダー・ブレーメン]](ドイツ)と対戦し、ファーストレグではPKを2度も失敗して0-3で敗れた。セカンドレグには1-0で勝利したが、2試合合計1-3で敗退した。2008年夏の[[UEFAインタートトカップ]]では[[スィヴァススポル]](トルコ)を下して優勝。その結果出場した[[UEFAカップ 2008-09|2008-09シーズンのUEFAカップ]]では、予選2回戦で[[HŠKズリニスキ・モスタル]](ボスニア・ヘルツェゴビナ)を2試合合計3-0で下し、本選1回戦の[[FCペトルジャルカ・アカデーミア|FCアルトメディア・ペトルジャルカ]](スロバキア)戦ではファーストレグで[[アルベール・メヨン・ゼ]]がハットトリックを達成するなどして2試合合計6-0で快勝した。3シーズン連続でグループリーグ出場権を獲得し、グループリーグでは[[ポーツマスFC]](イングランド)、[[ACミラン]](イタリア)、[[VfLヴォルフスブルク]](ドイツ)、[[SCヘーレンフェーン]](オランダ)と同組となった。初戦のポーツマス戦には[[ルイス・アギラール]]の1得点2アシストで3-0と勝利し、この試合は相手監督である[[ハリー・レドナップ]]のトッテナム監督就任前ラストゲームとなった。[[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サン・シーロ]]で行なわれたミラン戦では長い時間試合を支配し、試合終了直前の93分まで無失点に抑えていたが、35mの距離から[[ロナウジーニョ]]にミドルシュートを決められて敗れた。決勝トーナメント1回戦では[[フェリックス・マガト]]監督率いるヴォルフスブルクと対戦し、2点先行したが2-3で敗れた。ヘーレンフェーン戦には2-1で勝利し、2勝2敗の勝ち点6でグループ3位となって決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦では[[スタンダール・リエージュ]](ベルギー)と対戦し、2試合合計4-1で勝利した。決勝トーナメント2回戦では[[パリ・サンジェルマンFC]](フランス)に2試合合計0-1で敗れたが、UEFAインタートトカップ優勝組(11クラブ)の中では最高の成績を残した。 |
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2017年8月29日 (火) 09:51時点における版
SCブラガ | |||
---|---|---|---|
原語表記 | Sporting Clube de Braga | ||
愛称 |
Arcebispos (大主教), Arsenalistas (アルセナリスタス), Minhotos (ミーニョ地方出身者), Guerreiros do Minho (ミーニョの戦士), Bracarenses (ブラカレンセス) | ||
クラブカラー | 赤と白 | ||
創設年 | 1921年 | ||
所属リーグ | プリメイラ・リーガ | ||
所属ディビジョン | 1部 | ||
ホームタウン | ブラガ | ||
ホームスタジアム | エスタディオ・アクサ | ||
収容人数 | 30,286 | ||
代表者 | アントニオ・サルヴァドール | ||
監督 | アベル・フェレイラ | ||
公式サイト | 公式サイト | ||
| |||
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
スポルティング・クルーベ・デ・ブラガ(ポルトガル語: Sporting Clube de Braga, ポルトガル語発音: [ˈspɔɾtĩŋ ˈkluβ(ɨ) ðɨ ˈβɾaɣɐ])は、ポルトガル北西部の都市ブラガに本拠地を置く総合スポーツクラブである。特にサッカーチームが有名であり、ポルトガルで開催されたUEFA EURO 2004開幕前に建設されたエスタディオ・アクサ(愛称は「石切り場」)をホームスタジアムとしている。マクロン(スポーツ衣料品、イタリア)やアクサ(保険会社、フランス)がスポンサーを務めている。スポルティング・ブラガと表記される場合もある。
国内大会では、1965-66シーズンにタッサ・デ・ポルトガルで優勝し、2012-13シーズンにタッサ・ダ・リーガで優勝している。2009-10シーズンにはプリメイラ・リーガで過去最高位の2位となった。21世紀に入ってからの躍進が目覚ましく、ポルトガルの伝統的なビッグ3(FCポルト、SLベンフィカ、スポルティングCP)の支配構造に風穴をあけるクラブに成長している[1]。
国際大会では、2008年にUEFAインタートトカップで優勝し、2010-11シーズンのUEFAヨーロッパリーグで準優勝した。2010-11シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではクラブ史上初めて本選グループリーグに出場し、2012-13シーズンには再び本選グループリーグに出場した。
歴史
トップチームのユニフォームカラ―が変更された1946-47シーズンにセカンド・ディヴィジョン(当時2部)で優勝し、クラブ史上初めてプリメイラ・リーガ(1部)に昇格した。また、ユースチームの名称をアルセナル・デ・ブラガに変更した。1960年代と1970年代にはリーグ戦で好成績を収め、何度か欧州カップ戦に参加した。
2000年代
アジアとの関係を見ると、2003年には廣山望がプリメイラ・リーガ初の日本人選手として在籍し[2]、2005-06シーズンには金東炫が同リーグ初の韓国人選手として在籍している[3]。2003年夏にはジェズアウド・フェレイラ監督が就任し、2003-04シーズンにはリーグ戦で5位となってUEFAカップ出場権を獲得。この時期から国内と国外での躍進が始まった。2005-06シーズンにはシーズン終盤まで優勝を争って4位となり、2006年夏にカルロス・カルヴァリャル監督が就任すると、2006-07シーズン序盤は低調な成績であり、UEFAカップでは1回戦でキエーヴォ・ヴェローナ(イタリア)に2試合合計3-2で勝利したが、グループリーグ序盤戦ではAZアルクマール(オランダ)に0-4で敗れたほか、国内リーグではCSマリティモに1-4で敗れた。カルバリャル監督は2006年11月に辞任し、ロジェリオ・ゴンサウヴェスが後任監督に就任すると、アシスタントコーチに元ポルトガル代表キャプテンのジョルジュ・コスタが就任。ゴンサウヴェス監督就任初戦のSLベンフィカ戦には1-3で敗れ、UEFAカップではセビージャFC(スペイン)に0-2で敗れた。ウニオン・レイリアに0-1で敗れた後、ゴンサウヴェス監督は2007年2月18日に辞任した。アントニオ・サルヴァドール会長はジョルジュ・コスタの監督就任を発表し、ジョルジュ・コスタ監督は就任初戦となったUEFAカップ・決勝トーナメント1回戦でパルマFC(イタリア)に1-0で勝利。決勝トーナメント2回戦ではトッテナム(イングランド)と対戦し、2試合合計4-6で敗れた。国内リーグ戦では最終節でCFベレネンセスをかわし、3シーズン連続で4位となった。
2006年7月、フランスの保険会社であるアクサが年間数百万ドルを支払うスポンサーとなり、スタジアムの名称がエスタディオ・ムニシパル・デ・ブラガ(ブラガ市営スタジアム)からエスタディオ・アクサに変更された。スタジアムに命名権名称を導入したのはポルトガル初(2012年時点で唯一)である[4]。2007-08シーズンのUEFAカップではハンマルビーIF(スウェーデン)と対戦し、アウェーで行なわれたファーストレグには1-2で敗れたが、ホームで行なわれたセカンドレグには4-0で勝利して2シーズン連続のグループリーグ出場を決めた。グループリーグ初戦のボルトン(イングランド)戦には1-1で引き分け、2戦目は優勝候補のバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)戦だったが、ロランド・ルイスの得点でやはり1-1で引き分けた。3戦目のアリス・テッサロニキFC(ギリシャ)戦ではリンツの得点で1-1で引き分け、最終戦のレッドスター・ベオグラード(セルビア)戦は2-0で初勝利を飾った。決勝トーナメントではヴェルダー・ブレーメン(ドイツ)と対戦し、ファーストレグではPKを2度も失敗して0-3で敗れた。セカンドレグには1-0で勝利したが、2試合合計1-3で敗退した。2008年夏のUEFAインタートトカップではスィヴァススポル(トルコ)を下して優勝。その結果出場した2008-09シーズンのUEFAカップでは、予選2回戦でHŠKズリニスキ・モスタル(ボスニア・ヘルツェゴビナ)を2試合合計3-0で下し、本選1回戦のFCアルトメディア・ペトルジャルカ(スロバキア)戦ではファーストレグでアルベール・メヨン・ゼがハットトリックを達成するなどして2試合合計6-0で快勝した。3シーズン連続でグループリーグ出場権を獲得し、グループリーグではポーツマスFC(イングランド)、ACミラン(イタリア)、VfLヴォルフスブルク(ドイツ)、SCヘーレンフェーン(オランダ)と同組となった。初戦のポーツマス戦にはルイス・アギラールの1得点2アシストで3-0と勝利し、この試合は相手監督であるハリー・レドナップのトッテナム監督就任前ラストゲームとなった。サン・シーロで行なわれたミラン戦では長い時間試合を支配し、試合終了直前の93分まで無失点に抑えていたが、35mの距離からロナウジーニョにミドルシュートを決められて敗れた。決勝トーナメント1回戦ではフェリックス・マガト監督率いるヴォルフスブルクと対戦し、2点先行したが2-3で敗れた。ヘーレンフェーン戦には2-1で勝利し、2勝2敗の勝ち点6でグループ3位となって決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦ではスタンダール・リエージュ(ベルギー)と対戦し、2試合合計4-1で勝利した。決勝トーナメント2回戦ではパリ・サンジェルマンFC(フランス)に2試合合計0-1で敗れたが、UEFAインタートトカップ優勝組(11クラブ)の中では最高の成績を残した。
シーズン | UEFAチームランキング | ポイント |
---|---|---|
2003-04 | – | – |
2004-05 | 139位 | 15.739 |
2005-06 | 136位 | 17.533 |
2006-07 | 96位 | 27.107 |
2007-08 | 79位 | 33.176 |
2008-09 | 50位 | 39.292 |
2009-10 | 48位 | 39.659 |
2010-11 | 28位 | 62.319 |
2011-12 | 29位 | 63.069 |
2012-13 | 29位 | 62.833 |
2009-10シーズンの国内リーグでは開幕から7連勝を記録し、その後も安定した成績を残して2010年1月まで首位を守った。その後も2位の座を守りきり、ベンフィカと勝ち点5差の2位でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した[5]。2010-11シーズンにはクラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグに出場した[5]。予選3回戦のセルティックFC(スコットランド)戦ではホームで3-0と快勝し[6]、アウェーのセルティック・パークでは1-2と敗れたものの、2試合合計4-2としてプレーオフ出場を決めた[7]。プレーオフではセビージャと対戦し、2試合合計4-4(ホームで1-0、アウェーで3-4)ではあったが、アウェーゴールルールで本選グループリーグ初出場を決め[8]、アーセナルFC(イングランド)、FCシャフタール・ドネツク(ウクライナ)、FKパルチザン(セルビア)と同組となった。ブラガのユニフォームカラ―はアーセナルに由来している(後述)。グループリーグ初戦、エミレーツ・スタジアムで行なわれたアーセナル戦には0-6で大敗し[9]、シャフタール戦には0-3で敗れたが、パルチザン戦には2-0で勝利した。その2週間後には再びパルチザンに1-0で勝利し、ホームでのアーセナル戦には2-0で勝利した。5戦を終えて3勝2敗(勝ち点9)のグループ2位だったが、最終戦のシャフタール戦に0-2で敗れ、またアーセナルがパルチザンに勝利したことでグループ3位に転落し、シャフタールとアーセナルが決勝トーナメントに進出した。ブラガはUEFAヨーロッパリーグに回り、レフ・ポズナン(ポーランド)、リヴァプールFC(イングランド)を破って準々決勝に進出した。欧州カップ戦でベスト8以上の成績を残すのはクラブ史上初だった。準々決勝ではFCディナモ・キエフ(ウクライナ)を破り、ベンフィカやFCポルトとともに、欧州カップ戦で初めてベスト4にポルトガルから3クラブが勝ち残った。同国対決となった準決勝のベンフィカ戦ファーストレグには1-2で敗れたが、セカンドレグには1-0で勝利し、2試合合計2-2ながらアウェーゴール差で決勝進出を決めた。アイルランド・ダブリンのアビバ・スタジアムで行なわれたポルトとの決勝には0-1で敗れて準優勝に終わった。国内リーグこそ4位と順位を落としたが、ドミンゴス・パシエンシア監督の下、クラブ史上最高のシーズンのひとつとなった。
2011年夏にはパシエンシア監督がスポルティングCPに引き抜かれ、レオナルド・ジャルディム監督が就任した。国内リーグではクラブ新記録となる13連勝を記録し、最終的に3位となった[5]。2012-13シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ・プレーオフではウディネーゼ(イタリア)と対戦し、ホーム&アウェーの2試合とも1-1だったが、PK戦に勝利して2シーズンぶりの本選グループリーグ出場を決めた[10][11][12]。ホームで行なわれたグループリーグ初戦のCFRクルジュ(ルーマニア)戦に0-2で敗れ、アウェーで行なわれた第2節のガラタサライ(トルコ)戦には2-0で勝利した。オールド・トラッフォードで行なわれたマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)戦では2点先行したが、逆転されて2-3で敗れた。ホームでのマンチェスター・U戦でも80分まで1-0でリードしていたが、逆転されて1-3で敗れた。アウェーでのCFR戦、ホームでのガラタサライ戦にも敗れ、1勝5敗(勝ち点3)のグループ最下位で敗退した。同シーズンの国内リーグ戦では前年度からひとつ順位を落として4位となり、4シーズンぶりにビッグ3以外のクラブ(3位はFCパソス・デ・フェレイラ)の後塵を拝した。タッサ・ダ・リーガ(リーグカップ)の準決勝では4連覇中のベンフィカと対戦し、ポルトガル国内の3大会(リーグ、カップ、リーグカップ)でシーズン開幕から26戦無敗を続けていたベンフィカにPK戦の末勝利した。決勝では国内リーグで開幕から25戦無敗を続けていたポルトを1-0で下した。2007-08シーズンの初開催以来ベンフィカが4連覇していた大会で初優勝を果たし、1965-66シーズンのタッサ・デ・ポルトガル以来となるタイトルを獲得した。
文化
ライバル
最大のライバルはヴィトーリア・ギマランイスであり、ブラガとヴィトーリア・ギマランイスの対戦はオ・デルビー・デ・ミーニョ(ミーニョ・ダービー)と呼ばれる。ブラガとギマランイスはともにブラガ県に所在し、両都市は約18kmの近距離にある。ブラガ県はかつてミーニョ州という行政区分に含まれ、現在でも付近はミーニョ地方と呼ばれる。このダービーはポルトガルでもっとも白熱する試合のひとつであり、13歳以下の子どもは保護者同伴でない限り入場を制限される。ライバル意識はブラガがガラエキア(古代ローマの属州)の首都だった時代に遡る。12世紀にアフォンソ1世がポルトガル王国を形成するまで、ブラガはポルトガル最大の都市だったが、その後ギマランイスが国王と貴族の地となり、ブラガは宗教の中心地(大主教の地)としての地位にとどまった。
エンブレム
ブラガ市のエンブレムは青色の盾の上に銀色の城壁冠が被された構図であり、盾の中にはイエスを胸に抱いた聖母マリアと2本の塔が配置されている。SCブラガのエンブレムもブラガ市のエンブレムに良く似ているが、盾の色は赤色と白色であり、城壁冠の色は金色である。また、盾の中には「Sporting Clube de Braga」というクラブ名称が刻まれている。多くのブラガファンは聖母マリアがクラブに幸運をもたらすとしている。
ユニフォーム
当初はスポルティングCPのような緑色と白色のユニフォームだったが、1940年代に在職したジョゼ・アントゥネス・ギマランイス会長がアーセナルFC(イングランド)のファンであり、ロンドンに仕事上のつながりを持っていたため、1940年代半ば[13]にアーセナルのような赤色のユニフォームに変更した。なお、これは一つの説であり、アーセナルのプレースタイルを愛したハンガリー人のヨージェフ・サボー監督が会長にユニフォームカラ―の変更を求めたとする説もある[2][14]。これらのことから、クラブやサポーターにアルセナリスタス (Arsenalistas) という愛称が用いられる[15]。また、ブラガがあるミーニョ地方はかつてケルト人が居住してブラカリ (Bracari) と呼ばれていた土地であるため、ブラカレンセスという愛称も持っている。
タイトル
国内タイトル
- タッサ・デ・ポルトガル:2回
- 1965-66, 2015-16
- タッサ・ダ・リーガ:1回
- 2012-13
- セカンド・ディヴィジョン:2回[16]
- 1946-47, 1963-64
- タッサ・フェデラシオン・ポルトゥゲーザ:1回
- 1976-77
国際タイトル
- UEFAインタートトカップ:1回
- 2008
過去の成績
シーズン | 国内リーグ | 国内カップ | 国内リーグカップ | 欧州カップ | その他 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 順位 | 試合数 | 勝 | 分 | 敗 | 得点 | 失点 | 勝ち点 | |||||||
1989-90 | プリメイラ | 12位 | 34 | 8 | 12 | 14 | 32 | 41 | 28 | 4回戦敗退 | 創設前 | ||||
1990-91 | プリメイラ | 7位 | 38 | 13 | 8 | 17 | 42 | 45 | 34 | 準々決勝敗退 | |||||
1991-92 | プリメイラ | 12位 | 34 | 12 | 5 | 17 | 41 | 49 | 29 | 準々決勝敗退 | |||||
1992-93 | プリメイラ | 12位 | 34 | 12 | 6 | 16 | 33 | 34 | 30 | 準々決勝敗退 | |||||
1993-94 | プリメイラ | 15位 | 34 | 9 | 10 | 15 | 33 | 43 | 28 | 4回戦敗退 | |||||
1994-95 | プリメイラ | 10位 | 34 | 11 | 10 | 13 | 34 | 42 | 32 | 5回戦敗退 | |||||
1995-96 | プリメイラ | 8位 | 34 | 12 | 9 | 3 | 44 | 47 | 45 | 3回戦敗退 | |||||
1996-97 | プリメイラ | 4位 | 34 | 15 | 10 | 9 | 39 | 40 | 55 | 準々決勝敗退 | |||||
1997-98 | プリメイラ | 10位 | 34 | 11 | 12 | 11 | 48 | 49 | 45 | 準優勝 | UEFAカップ | 3回戦敗退 | |||
1998-99 | プリメイラ | 9位 | 34 | 10 | 12 | 12 | 38 | 50 | 42 | 3回戦敗退 | UCWC | 2回戦敗退 | スーペルタッサ | 準優勝 | |
1999-00 | プリメイラ | 9位 | 34 | 12 | 7 | 15 | 44 | 45 | 43 | 4回戦敗退 | |||||
2000-01 | プリメイラ | 4位 | 34 | 16 | 9 | 9 | 58 | 48 | 57 | 3回戦敗退 | |||||
2001-02 | プリメイラ | 10位 | 34 | 10 | 12 | 12 | 43 | 43 | 42 | 準決勝敗退 | |||||
2002-03 | プリメイラ | 14位 | 34 | 8 | 14 | 12 | 34 | 47 | 38 | 4回戦敗退 | |||||
2003-04 | プリメイラ | 5位 | 34 | 15 | 9 | 10 | 36 | 38 | 54 | 準決勝敗退 | |||||
2004-05 | プリメイラ | 4位 | 34 | 16 | 10 | 8 | 45 | 28 | 58 | 準々決勝敗退 | UEFAカップ | 1回戦敗退 | |||
2005-06 | プリメイラ | 4位 | 34 | 17 | 7 | 10 | 38 | 22 | 58 | 4回戦敗退 | UEFAカップ | 1回戦敗退 | |||
2006-07 | プリメイラ | 4位 | 30 | 14 | 8 | 8 | 35 | 30 | 50 | 準決勝敗退 | UEFAカップ | ベスト16 | |||
2007-08 | プリメイラ | 7位 | 30 | 10 | 11 | 9 | 32 | 34 | 41 | 4回戦敗退 | 3回戦敗退 | UEFAカップ | ベスト32 | ||
2008-09 | プリメイラ | 5位 | 30 | 13 | 11 | 6 | 38 | 21 | 50 | 4回戦敗退 | 2回戦敗退 | UEFAカップ | ベスト16 | インタートトカップ | 優勝 |
2009-10 | プリメイラ | 2位 | 30 | 22 | 5 | 3 | 48 | 20 | 71 | 準々決勝敗退 | 3回戦敗退 | EL | 予選3回戦敗退 | ||
2010-11 | プリメイラ | 4位 | 30 | 13 | 7 | 10 | 45 | 33 | 46 | 4回戦敗退 | 3回戦敗退 | EL | 準優勝 | ||
2011-12 | プリメイラ | 3位 | 30 | 19 | 5 | 6 | 59 | 29 | 62 | 4回戦敗退 | 準決勝敗退 | EL | ベスト32 | ||
2012-13 | プリメイラ | 4位 | 30 | 16 | 4 | 10 | 60 | 44 | 52 | ベスト16 | 優勝 | CL | グループリーグ敗退 | ||
2013-14 | プリメイラ | 9位 | 30 | 10 | 7 | 13 | 39 | 37 | 37 | 準決勝敗退 | 準決勝敗退 | EL | プレーオフ敗退 | ||
2014-15 | プリメイラ | 4位 | 34 | 17 | 7 | 10 | 55 | 28 | 58 | 準優勝 | 3回戦敗退 | - | - | ||
2015-16 | プリメイラ | 4位 | 34 | 16 | 10 | 8 | 54 | 35 | 58 | 優勝 | 準決勝敗退 | EL | 準々決勝敗退 | ||
2016-17 | プリメイラ | 5位 | 34 | 15 | 9 | 10 | 51 | 36 | 54 | 5回戦敗退 | 準優勝 | EL | グループリーグ敗退 | スーペルタッサ | 準優勝 |
2017-18 | プリメイラ | 位 | 34 | EL |
現所属メンバー
- 2017年6月16日時点
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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ローン移籍
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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歴代監督
- ヨージェフ・サボー 1935-1937
- ヨージェフ・サボー 1945
- ヨージェフ・サボー 1953-1954
- Mario Imbelloni 1955-1956
- Eduardo Viso 1955-1956
- ヨージェフ・サボー 1956-1957
- ヨージェフ・サボー 1960-1961
- アントニオ・テイシェイラ 1964-1965
- ホセ・バジェ 1965-1966
- Rui Sim-Sim 1966
- フェルナンド・カイアド 1966-1967
- ホセ・バジェ 1967
- ジョゼ・マリア・ヴィエイラ 1967-1968
- アルトゥール・カレスマ 1968-1969
- フェデリコ・パソス 1969
- アルベルト・ペレイラ 1969-1970
- Joaquim Coimbra 1970
- ジョゼ・カルロス 1975-1976
- マリオ・リノ 1976-1977
- イラリオ・コンセイソン 1977
- Mario Imbelloni 1977-1978
- フェルナンド・カイアド 1978-1979
- イラリオ・コンセイソン 1979-1980
- マリオ・リーノ 1980-1981
- キニート 1981-1982
- ジュカ 1982-1983
- キニート 1983-1985
- エンリケ・カリスト 1985
- ウンベルト・コエリョ 1985-1987
- マヌエル・ジョゼ 1987-1989
- ラウル・アグアス 1990
- カルロス・ガルシア 1990-1992
- ヴィトール・マヌエル 1992
- アントニオ・オリヴェイラ 1992-1994
- ネカ 1994
- マヌエル・カジューダ 1994.7-1997.6
- フェルナンド・カストロ・サントス 1997-1998
- ヴィトール・オリヴェイラ 1998
- カルロス・マヌエル 1998
- マヌエル・カジューダ 1999.4-2002.6
- フェルナンド・カストロ・サントス 2002-2003
- ジェズアウド・フェレイラ 2003.4-2006.5
- カルロス・カルヴァリャル 2006.5-2006.11
- ロジェリオ・ゴンサウヴェス 2006.11-2007.2
- ジョルジュ・コスタ 2007.2-2007.10
- アントニオ・カルダス 2007.10-2007.11 (暫定)
- マヌエル・マシャド 2007.11-2008.4
- ジョルジェ・ジェズス 2008.5-2009.6
- ドミンゴス・パシエンシア 2009.6-2011.6
- レオナルド・ジャルディム 2011.7-2012.6
- ジョゼ・ペセイロ 2012.7-2013.5
- ジェズアウド・フェレイラ 2013.5-2014.2
- ジョルジュ・ペイション 2014.2-2014.5
- セルジオ・コンセイソン 2014.5-2015
- / パウロ・フォンセカ 2015-2016
- ジョゼ・ペゼイロ 2016
- ジョルジュ・シモン 2016-2017
- アベル・フェレイラ 2017-
歴代所属選手
GK
- キム 1996-2004, 2010-2013
- パウロ・サントス 2003-2008
- エドゥアルド 2005-2010, 2013-
- クリスティアーノ・ペレイラ 2009-
- アルトゥール・モラエス 2010-2011
- トンマーゾ・ベルニ 2011-2012
- ベト 2012-2013
DF
- カルロス・セクレタリオ 1992-1993
- アベル 2004-2005
- レオナルド・モウラ 2005
- ヌーノ・フレシャウト 2006-2009
- ジョアン・ペレイラ 2007-2009
- パブロ・コントレラス 2008
- シルヴィオ 2010-2011
- マルコ・ラモス 2011-2012
- ミゲル・ロペス 2012
MF
FW
- ジエゴ・コスタ 2006-2007
- ローランド・リンツ 2007-2009
- オルランド・サ 2007-2009
- アルベール・メヨン・ゼ 2008-2011
- ピッツィ 2008-
- エルデル・バルボーザ 2010-
- エウトン 2010
- ロドリゴ・リマ 2010-2012
- ヌーノ・ゴメス 2011-2012
- カルロン 2011-
脚注
- ^ 鰐部 (2012)、128頁
- ^ a b “ポルトガルのアーセナル”の大躍進スポーツナビ、2009年10月23日
- ^ 鰐部 (2012)、142頁
- ^ 鰐部 (2012)、133頁
- ^ a b c 鰐部 (2012)、144頁
- ^ “Braga 3 – 0 Celtic”. BBC Sport. (2010年7月28日) 2010年8月25日閲覧。
- ^ Grahame, Ewing (2010年8月4日). “Celtic 2 Sporting Braga 1; agg 2–4: match report”. The Telegraph (London) 2010年8月25日閲覧。
- ^ “Sevilla dumped out by Sporting Braga”. CNN.com. (2010年8月24日) 2010年8月25日閲覧。
- ^ “Arsenal 6 – 0 Braga”. BBC Sport. (2010年9月15日) 2010年9月28日閲覧。
- ^ “"Podíamos ter ganho o jogo nos 90 minutos" – Rúben Micael”. A Bola (2012年8月28日). 2012年10月11日閲覧。
- ^ “"Estou satisfeito e emocionado; fomos uma equipa soberba" – José Peseiro”. A Bola (2012年8月28日). 2012年10月11日閲覧。
- ^ “Mil adeptos receberam a equipa, Salvador levado em ombros (fotos)”. A Bola (2012年8月29日). 2012年10月11日閲覧。
- ^ リザーブチームは1945-46シーズンから、トップチームは1946-47シーズンから赤色のユニフォームを着用している。
- ^ なお、「“ポルトガルのアーセナル”の大躍進」では1920年にサボー監督の発案でユニフォームカラ―が変更されたとしているが、サボー監督が在職したのは1930年代から1940年代であり、1920年代にはまだハンガリーのクラブでプレーする現役選手だった。
- ^ Braga break into big time UEFA.com
- ^ 1990年にリーガ・デ・オンラ(現2部)が創設されるまで、セカンド・ディヴィジョンがポルトガルの2部リーグだった。
参考文献
- 鰐部哲也『ポルトガルサッカーの魔力』白夜書房サッカー小僧新書、2012年