コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「大町桂月」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:インターネットアーカイブ - log
46行目: 46行目:
*[http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/O/omatikeigetu.html 大町桂月]
*[http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/O/omatikeigetu.html 大町桂月]
*{{青空文庫著作者|237|大町桂月}}
*{{青空文庫著作者|237|大町桂月}}
*{{Wayback|date=20040812150027|url=http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/letterwriting/letterwriting-toc.html |title=大町桂月ほか著 書翰講義}} - [[物語倶楽部]]の[[インターネットアーカイブ]]。
*{{Wayback|date=20040812150027|url=http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/letterwriting/letterwriting-toc.html |title=大町桂月ほか著 書翰講義}} - [[物語倶楽部]]の[[インターネットアーカイブ]]。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2017年9月4日 (月) 19:22時点における版

年月不明

大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日明治2年1月24日)- 1925年大正14年)6月10日)は高知県出身で、近代日本の詩人、歌人、随筆家、評論家。本名:大町芳衛(よしえ)。

経歴

1869年(明治2年)、高知市北門筋に元土佐藩士の通の息子として生まれる。名は芳衛。昆虫学者大町文衛は2男。雅号の桂浜月下漁郎はよさこい節にも唄われる月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。

1896年(明治29年)、東京帝国大学国文科卒[1]1899年(明治32年)、島根県で中学教師として奉職するも、1900年(明治33年)、乞われて博文館に入社[2]し、1906年(明治39年)まで在籍。『文芸倶楽部』『太陽』『中學世界』などに随筆を書き美文家として知られた。それは韻文・随筆・紀行・評論・史伝・人生訓など多彩であった。格調高い文体から擬古派と言われた。

1913年(大正2年)に出版された『人の運』は、洋の東西を問わず通ずる処世訓集として当時のベストセラーとなる。

和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれた。

また、明治大学で教鞭を執った。

終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称された。晩年は遠く朝鮮、旧満州(中国東北部)まで足を延ばしている。

大雪山系、桂月岳(右から2番目)、黒岳(右端)

桂月は北海道層雲峡羽衣の滝の名付け親でもある。北海道各地を旅行してその魅力を紀行文で紹介した。大雪山系黒岳の近くには、彼の名前にちなんだ桂月岳という山がある。

青森県十和田湖奥入瀬をことに愛し、晩年は同地の蔦温泉(現:十和田市)に居住し、1925年(大正14年)4月には本籍も蔦温泉に移したが、ほどなく胃潰瘍のため死去、57歳。墓は、蔦温泉の温泉旅館の近くにある。(現在は雑司ヶ谷霊園にもある)

仏ヶ浦極楽浜に立つ大町桂月歌碑

桂浜に碑がある。側面には「見よや見よ みな月のみのかつら浜 海のおもよりいづる月かげ」の歌が刻まれ、大正7年、38年ぶりに、故郷の土を踏んだ桂月が、同郷の愛弟子田中桃葉(貢太郎)と、この桂浜に遊歩した折の作歌である。

与謝野晶子と桂月

1904年(明治37年)9月に『明星』に発表された与謝野晶子の「きみ死にたまうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と『太陽』誌上で非難している。これに対して与謝野晶子は『明星』11月号で「ひらきぶみ」を発表し、「歌はまことの心を歌うもの」と弁明している。

現在、大町桂月の評価が低いのは、こうした当時としては「常識的」で「多数派」であった発言が、後年の目から見れば国粋主義的に写ることから来ている面もある。しかし、この騒動以前は桂月は晶子の才能を認めており、親交も深かった歌人であった。晶子は57歳で病没した桂月に「横浜貿易新報(現在の神奈川新聞)」に追憶をよせている。

主著書

  • 一蓑一笠』博文館、明治34年2月。
  • 行雲流水』博文館、明治42年4月。
  • 『桂月全集』全12巻 1922-1923年(大正11-12年)

参考文献

脚注

外部リンク

関連項目