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「ルイセンコ論争」の版間の差分

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'''ルイセンコ論争'''(ルイセンコろんそう)とは、[[環境]]因子が[[形質]]の変化を引き起こし、その[[獲得形質]]が[[遺伝]]するという[[トロフィム・ルイセンコ]]の学説に関する論争。及びそれに伴った[[ソビエト連邦]]における反[[遺伝学]]キャンペーン。[[イヴァン・ミチューリン|ミチューリン]]が先鞭をつけたといわれるミチューリンの名を冠した[[ヤロビ農法|ミチューリン主義農法]]、またこれを応用した[[ヤロビ農法]]([[春化処理]]の{{lang-ru|Яровизация}} ヤロヴィザーツィヤから)などと共に議論される場合が多い。科学(と彼等が信じた方法)とイデオロギーの双方が結びついて補強し合った結果、国家規模の被害を出した一例として疑似科学等で取り上げられる。
[[ファイル:Lysenko with Stalin.gif|300px|right|thumb|[[クレムリン]]で演説する[[トロフィム・ルイセンコ|ルイセンコ]]。<br />後ろには右から[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]、[[アンドレイ・アンドレーエフ|アンドレーエフ]]、[[アナスタス・ミコヤン|ミコヤン]]、[[スタニスラフ・コシオール|コシオール]]が並んでいる。]]

'''ルイセンコ論争'''(ルイセンコろんそう)とは、[[環境]]因子が[[形質]]の変化を引き起こし、その[[獲得形質]]が[[遺伝]]するという[[トロフィム・ルイセンコ]]の学説に関する論争とそれに伴った[[ソビエト連邦]]における反[[遺伝学]]運動である。'''ルイセンコ主義'''({{lang-en-short|Lysenkoism}}、{{lang-ru-short|Лысе́нковщина|Lysenkovshchina}})は、ルイセンコ、彼の信奉者、[[ソビエト]]当局によって実施された[[遺伝学]]ならびに科学に基づく[[農業]]に反対する政治運動であった。ルイセンコは{{仮リンク|全ソ連農業科学アカデミー|en| VASKhNIL|label=レーニン全ソ連農業科学アカデミー}}の長として活動した。ルイセンコ主義は1920年代末に始まり、1964年に公式に終焉した。

ルイセンコ主義の[[疑似科学]]的発想は{{仮リンク|獲得形質の遺伝|en|Inheritance of acquired characteristics}}性を仮定していた<ref>{{cite web|url= http://www.merriam-webster.com/dictionary/lysenkoism|title= Lysenkoism|work= merriam-webster.com}}</ref>。ルイセンコの理論は[[メンデルの法則|メンデル遺伝]]と「[[遺伝子]]」の概念を否定し、[[自然選択]]を否定することで[[ダーウィニズム|ダーウィン進化論]]から逸脱した<ref name="Perversion of Knowledge" />。支持者らは、他にも多数あるが、[[ライムギ]]が[[コムギ]]へと、コムギが[[オオムギ]]へと転換できる、雑草が穀物へと自発的に変容する、「自然選択」に対立するものとして「自然協力」が観察された、と偽って主張した<ref name="Perversion of Knowledge">{{cite book|last1= Birstein|first1= Vadim J.|title= The Perversion of Knowledge: The True Story of Soviet Science.|date= 2004|publisher= Westview Press|isbn= 0813342805}}</ref>。ルイセンコ主義は[[有性生殖|育種]]や[[農業]]において並外れた進歩を約束したが、それらが起こることはなかった。

[[ヨシフ・スターリン]]はこの政治運動を支持した。3千人以上の主流[[生物学者]]が投獄または解雇され<ref>{{cite book| last1 = Birstein| first1 = Vadim J.| title = The Perversion Of Knowledge: The True Story Of Soviet Science| url = https://books.google.com/books?id=2XqEAAAAQBAJ| publisher = Perseus Books Group| publication-date = 2013| page = | isbn = 9780786751860| accessdate = 2016-06-30| quote = Academician Schmalhausen, Professors Formozov and Sabinin, and 3,000 other biologists, victims of the August 1948 Session, lost their professional jobs because of their integrity and moral principles [...]}}</ref>、ルイセンコの科学的な反対派を抑え込むために数多くの科学者がルイセンコが推進した運動の一部として処刑された<ref>{{cite web|last1=Wade|first1=Nicholas|title=The Scourge of Soviet Science|url=https://www.wsj.com/articles/the-scourge-of-soviet-science-1466192179|website=Wall Street Journal|date=June 17, 2016}}</ref><ref>{{cite book|last1=Swedin|first1=Eric G.|title=Science in the Contemporary World : An Encyclopedia|date=2005|publisher=ABC-CLIO|location=Santa Barbara, Calif.|isbn=1851095241|pages=168, 280}}</ref><ref name="Soyfer Nature">{{cite journal|last1=Soyfer|first1=Valery N.|title=The Consequences of Political Dictatorship for Russian Science|journal=Nature Reviews Genetics|date=1 September 2001|volume=2|issue=9|pages=723–729|doi=10.1038/35088598}}</ref><ref>{{cite book|last1=deJong-Lambert|first1=William|title=The Lysenko Controversy as a Global Phenomenon, Volume 1: Genetics and Agriculture in the Soviet Union and Beyond|date=2017|publisher=Palgrave Macmillan|isbn=3319391755|page=104}}</ref>。農業科学アカデミー総裁[[ニコライ・ヴァヴィロフ]]は投獄され獄死し、遺伝学の分野における科学研究は1953年に{{仮リンク|ヨシフ・スターリンの死と国葬|en|Death and state funeral of Joseph Stalin|label=スターリンの死}}まで事実上破壊された<ref name="Perversion of Knowledge" />。{{仮リンク|神経生理学|en| Neurophysiology}}や[[細胞生物学]]、その他の多くの生物学分野における研究と教育にも悪影響が及んだり、禁止された<ref name="Soyfer Tagedy">{{cite book|last1= Soyfer|first1= Valery N.| authorlink =Valery Soyfer|title= Lysenko and The Tragedy of Soviet Science|date= 1994|publisher= Rutgers Univ. Press|location= New Brunswick, NJ|isbn= 0813520878}}</ref>。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[イヴァン・ミチューリン|ミチューリン]]が先鞭をつけたといわれるミチューリンの名を冠した[[ヤロビ農法|ミチューリン主義農法]]、またこれを応用した[[ヤロビ農法]]([[春化処理]]の{{lang-ru|Яровизация}} ヤロヴィザーツィヤから)などと共に議論される場合が多い。科学(と彼等が信じた方法)とイデオロギーの双方が結びついて補強し合った結果、国家規模の被害を出した一例として疑似科学等で取り上げられる。
[[ファイル:Lysenko with Stalin.gif|300px|right|thumb|[[クレムリン]]で演説する[[トロフィム・ルイセンコ|ルイセンコ]]<BR><SMALL>後ろには右から[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]、[[アンドレイ・アンドレーエフ|アンドレーエフ]]、[[アナスタス・ミコヤン|ミコヤン]]、[[スタニスラフ・コシオール|コシオール]]が並んでいる</SMALL>]]

ルイセンコの学説は[[1934年]]に発表され、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]政権下で「[[マルクス・レーニン主義]]の[[弁証法的唯物論]]を証明するものだ」とされ、[[メンデルの法則|メンデルの遺伝学]]は[[ブルジョア]]理論として否定された。
ルイセンコの学説は[[1934年]]に発表され、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]政権下で「[[マルクス・レーニン主義]]の[[弁証法的唯物論]]を証明するものだ」とされ、[[メンデルの法則|メンデルの遺伝学]]は[[ブルジョワ]]理論として否定された。

ルイセンコは[[春化処理|低温処理]]によって[[春まき]][[小麦]]が[[秋まき]]に、秋まき小麦が春まきに変わることを発見したとされている。これはいわゆる春化処理であるが、ルイセンコはこれを[[遺伝形質|遺伝的性質]]がこのような操作によって変化するものと見なし、これまでの[[メンデルの法則|メンデル遺伝学]]や[[自然選択説]]を否定した。後天的に[[獲得形質の遺伝|獲得した性質が遺伝]]されるというルイセンコの学説は努力すれば必ず報われるという[[共産主義]]国家には都合のよい理論であり、スターリンもこれを強く支持した。当時の[[ソビエト連邦|ソ連]]の生物学会ではルイセンコの学説に反対する生物学者は処刑されたり、[[強制収容所]]に送られるなど[[粛清]]されていた。

スターリンの死後は[[スターリン批判]]に伴い[[トロフィム・ルイセンコ|ルイセンコ]]も批判され論争で得た地位を一旦は失ったものの、[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]の知遇を得たルイセンコ派は再び巻き返すことに成功する。この結果、ソ連の農業生産は著しい被害を蒙り、分子生物学及び遺伝子工学などの分野は世界から立ち遅れる事となる。

[[デオキシリボ核酸|DNA]]の構造や機能が解明されていくにつれ、ルイセンコ学説の支持者はいなくなっていった。1964年、ソビエト科学アカデミーにおいて一連の議論と投票が行われ、この学説は途絶える事となった。

==農業==
1928年、それまで無名の[[農学|農学者]]トロフィム・ルイセンコは、コムギ種子を高湿度と低温に曝すことによって{{仮リンク|作物収量|en|Crop yield}}を3から4倍にする[[春化]]と呼ぶ農業技術を開発したと主張した。低温および湿気に対する曝露は秋播きの冬穀物の生活環では当たり前のことであるが、春化技術は曝露の強度を挙げることによって、時には積雪した凍結圃場へ浸漬種子を植え付けることによって収量を増大させると主張した。現実には、この技術は新しいものではなく(1854年には知られており、過去20年の間に広く研究されていた)、収量にいくらかの増大をもたらすものの、ルイセンコが断言した程の収穫も得られなかった。

ルイセンコが1930年代のソビエト連邦において実地調査を始めた時、{{仮リンク|ソビエト連邦の農業|en|Agriculture in the Soviet Union}}は農業を基礎にした経済から工業経済への転換の急速な変化、[[集団農場]]の誤った運営につながった[[クラーク (農家)|クラーク]](自営農家)の粛清によって重大な危機の中にあった。結果として生じた{{仮リンク|1932-33年のソビエト飢饉|en|Soviet famine of 1932–33|label=飢饉}}は、国民と政府を食料の危機的不足を解決する可能性のある策の模索に駆り立てた。ルイセンコの春化方式は農場にわずかに大きな食料生産をもたらしたため、ルイセンコはすぐにソビエト農業の英雄として認められた。

多くの農学者は[[ロシア革命|革命]]の前に教育を受けており、革命後に教育を受けたものの多くでさえも強制的な農業集団化政策に賛同していなかった。そのうえ、当時の生物学者の間で最も人気のある主題は全く農業ではなく、[[キイロショウジョウバエ]](''Drosophila melanogaster'')の研究から現われた新たな遺伝学であった。ショウジョウバエによって[[グレゴール・ヨハン・メンデル|メンデル比]]や[[遺伝率]]といった遺伝学理論の実験的検証が格段に容易となっていた。主なルイセンコ論者の{{仮リンク|イサーク・イズライレヴィチ・プリゼント|en|Isaak Izrailevich Prezent}}はルイセンコを新しい革命的農業技術を開発した[[天才]]としてソビエトの[[マスメディア]]に紹介した。この時期、{{仮リンク|ソビエト連邦のプロパガンダ|en|Propaganda in the Soviet Union}}は、自身の抜け目のない能力と知性によって現実的問題への解決策を考え付いた{{仮リンク|小作人|en|peasant}}の感動的な物語をしばしば重視していた。ルイセンコの広い人気は彼に理論的遺伝学の糾弾し、自身の農作業方式を奨励するための土台をもたらした。ルイセンコは次にソビエトのプロパガンダ機関による支持を受け、プロパガンダ機関はルイセンコの成功を誇張し、失敗については一切触れなかった。これに、恩恵とルイセンコの理論への反証の破壊を求める科学者からのルイセンコ主義を支持する虚偽の実験データが加わった。[[対照実験]]を行う代わりに、ルイセンコは農家から取られた調査のみに基づいて、春化がコムギの収量を15%増大させたと主張した{{citation needed|date=April 2017}}。

==出世==
ルイセンコの政治的成功は、大部分は[[ソビエト連邦共産党|共産党]]とソビエトイデオロギーへの訴えかけによるものであった。1920年代末の破滅的な[[集産主義|集団農場化]]の試みの後に、ルイセンコの「新しい」手法はソビエト当局者にとって「農業革命」への道を開くものとして見られた。ルイセンコ自身小作人家庭の出身であり、[[レーニン主義]]の熱狂的支持者であった。一連の人為的な農業災害を経験した時期、ルイセンコも極めて速く問題に対応したが、真の解決策は持っていなかった。党が新たな作物の植え付けや新たな農地の[[耕起|耕作]]の計画を発表した時はいつでも、ルイセンコはどのように実行するかについての早急な実践的提案をした。

ルイセンコは非常に速く、穀物の低温処理から、綿の木からの葉摘み、樹木の塊状植え付け、独自の混合肥料に致るまで様々な処方箋を作ったため、学術界の生物学者らは新しい技術が導入される前に、ある技術に勝ちがないか有害であることを実証する時間がなかった。党が支配する新聞はルイセンコの「実践的」取り組みを賞賛し、ルイセンコに批判的な人々の動機に疑いをかけた。ルイセンコの「農業における革命」は、科学に必要な忍耐と観察を要請する学術界に対する強力なプロパガンダ的優位性を持った。

ルイセンコはソ連共産党の支配層入りが認められ、農務を任された。ルイセンコは生物学者を「ハエ愛好家の人間嫌い<ref>''Epistemology and the Social'', Evandro Agazzi, Javier Echeverría, Amparo Gómez Rodríguez, Rodopi, Jan 1, 2008 - Philosophy - 231 pages, [https://books.google.com/books?id=xBvbQgWtgjsC&pg=PA149&dq=fly-lovers+and+%22people+haters%22+%22Lysenko%22&hl=en&sa=X&ei=-nMvVcfbMNKyogTn24CICA&ved=0CB4Q6AEwAA Google books scanned reference], p 149</ref>」として糾弾し、ソビエト経済を故意に機能しないようにし失敗させようとした生物学における「{{仮リンク|破壊 (ソビエトの犯罪)|en|wrecking (Soviet crime)|label=破壊分子}}」として非難するために自身の地位を使った。そのうえ、ルイセンコは理論生物学と応用生物学との区別を否定した。

ルイセンコは自身を有名で人気のあったソ連の園芸家[[イヴァン・ミチューリン|イヴァン・ヴラジーミロヴィッチ・ミチューリン]]の追随者であると述べた。しかし、ミチューリンとは異なり、ルイセンコは[[用不用説|ラマルキズム]]の一種を支持しており、非遺伝学的な技術として{{仮リンク|雑種強勢|en|Heterosis|label=交配}}と[[接ぎ木]]のみを用いて自説を強く主張した。

これには、最も重要なことだが、生物の「獲得」形質—例えば、葉摘みを行った後の葉のない状態—がその生物の子孫によって継承されるという含意も付随していた。これが、[[春化]]がより高い生産性を与えるとルイセンコが主張した理由であった。ルイセンコは、春化させた種子がより速く花を咲かせ、より多くのコムギを生産する能力が、次世代のコムギ種子へと受け渡され、したがって春化によってさらにこの過程が増幅される、と信じていた。

ヨシフ・スターリンからの支持は、ルイセンコにさらなる動機と人気を与えた。1935年、ルイセンコは生物学における反対派と、ソビエト政府の農業集団化政策にまだ抵抗していた小作人とを比較し、ルイセンコの理論に反対することによって伝統的遺伝学者はマルクス主義に反対する立場にあるのだ、と述べた。スターリンはこの演説が行われた時に聴衆の中にいて、真っ先に立ち上がり拍手を送って、「ハラショー、同志ルイセンコ。ハラショー」と叫んだ{{citation needed|date=September 2017}}。この出来事はルイセンコをつけあがらせ、まだルイセンコに声高に反対する遺伝学者を中傷する自由を彼と仲間のプリゼントに与えた。ルイセンコのかつての指導者であった[[ニコライ・ヴァヴィロフ|ニコライ・イヴァノヴィッチ・ヴァヴィロフ]]といったルイセンコ主義の反対者の多くは投獄されるか、ルイセンコおよびプリゼントの告発によって処刑された。

1948年8月7日、レーニン全ソ連農業科学アカデミーはそれ以後、ルイセンコ主義を「唯一の正しい理論」として教える、と発表した。ソビエトの科学者らはルイセンコの研究に反論するいかなる研究をも非難することを強いられた<ref>Pamela N. Wrinch. "[https://www.jstor.org/pss/2008893 Science and Politics in the U.S.S.R.: The Genetics Debate]". ''[[World Politics]]'', Vol. 3, No. 4 (Jul., 1951), pp. 486-519</ref>。ルイセンコ批判は「[[ブルジョワ]]」あるいは「[[ファシスト]]」と糾弾され、類似した「非ブルジョワ」理論も当時のソビエトアカデミーの他分野において頭角を現した({{仮リンク|ヤフェト理論|en|aphetic theory}}および[[社会主義リアリズム]]を参照のこと)。興味深いことに、おそらくスターリンの存命時に粛清を逃れた唯一のルイセンコの対立者らはソビエトの[[原子核物理学]]者の小さなコミュニティーの科学者らであった。[[トニー・ジャット]]が意見を述べたところによると、「スターリンが彼の原子核物理学者らにちょっかいを出さず、『彼らの』計算に後でとやかく言うことをしなかったと推測されるのは意義深い。スターリンは狂っていたが、愚劣ではなかった」<ref name="Judt">Judt, Tony. ''Postwar: A History of Europe Since 1945'', (New York: Penguin Books, 2006), p. 174n.</ref>。

==他国への影響==
[[東側諸国]]の多くの国々はルイセンコ主義を公的な「新しい生物学」として同様に受け入れた。しかしながら、ルイセンコ主義の受容は共産圏諸国において一様ではなかった。ポーランドでは、{{仮リンク|ヴァツワフ・ガイェヴスキー|en|Wacław Gajewski}}を除く<ref name="gaj">{{cite journal|journal=The Quarterly Review of Biology|year=1990|volume=65|issue=4|author=Gajewski W.|title=Lysenkoism in Poland|doi=10.1086/416949|pages=423–34|pmid=2082404}}</ref>全ての遺伝学者がルイセンコ主義に従った。ガイェヴスキーは学生との接触が許されなかったにもかかわらず、ワルシャワ植物園での科学研究の継続が許された。ルイセンコ主義は1956年から急速に排斥され<ref name="gaj"/>、現代的遺伝学の研究部門が設立された。これらには1958年に[[ワルシャワ大学]]で始まった、ガイェヴスキーを長とする初の遺伝学科が含まれる。

[[チェコスロバキア]]は1949年にルイセンコ主義を採用した。ヤロスラフ・ジ一ジェネツキ一(Jaroslav Kříženecký、1896年-1964年)はルイセンコ主義に反対した著名なチェコスロバキアの遺伝学者の一人であり、講義でルイセンコ主義を批判した1949年に「資本主義体制のために働き、自身を労働者階級よりも上位であると考え、人民の民主的秩序に敵対した」として農業大学を解雇され、1958年に投獄された<ref>{{cite journal|journal=Quarterly Review of Biology|last=Orel|first=Vitezslav|title=Jaroslav Kříženecký (1896-1964), Tragic Victim of Lysenkoism in Czechoslovakia|volume=67|issue=4|pages=487–494|year=1992|jstor=2832019|doi=10.1086/417797}}</ref>。1963年、ジ一ジェネツキ一は[[ブルノ]]の{{仮リンク|モラビア博物館|en|Moravské zemské muzeum}}に新たに設立された[[グレゴール・ヨハン・メンデル|グレゴール・メンデル]]部門の長に任命された。ブルノは、メンデルが遺伝的形質に関する初期の実験を続け、[[メンデルの法則]]を立てた都市である。

[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)では、ルイセンコ主義は一部の大学で教えられていたものの、数名の科学者(例えば、遺伝学者でルイセンコ主義の激しい反対派であった{{仮リンク|ハンス・シュトゥッベ|en|Hans Stubbe}})の活動によって科学に対しては非常に小さな影響しか及ぼさず、[[西ベルリン]]の研究機関との境界も開かれていた。にもかかわらず、ルイセンコ主義的理論は1964年に[[ニキータ・フルシチョフ]]が辞任するまで教科書に記載されていた<ref>{{cite journal|doi=10.1016/S0168-9525(02)02677-X|title=How did East German genetics avoid Lysenkoism?|first=Rudolf|last=Hagemann|journal=Trends in Genetics|volume=18|issue=6|year=2002|pages=320–324|pmid=12044362}}</ref>。

ルイセンコ主義は1949年から1956年まで[[中華人民共和国|中国]]の科学を支配した。[[毛沢東]]は[[大躍進政策]]の中でルイセンコの学説を採用し、数多くの餓死者を出した。この時期、遺伝学のシンポジウムではルイセンコ主義の反対派はこの理論を自由に批判し、メンデル遺伝学を主張することは許された<ref name="china">{{cite journal|title=Lysenkoism in China|last=Li|first=CC|journal=Journal of Heredity|volume=78|issue=5|page=339|year=1987}}</ref>。シンポジウムの会議録において、{{仮リンク|談傢楨|en|Tan Jiazhen}}は「ソ連がルイセンコ主義の批判を始めて以降、我々も恐れずに彼を批判してきた」と述べたと引用されている<ref name="china"/>。しばらくの間、両方の学派が共存していたが、ルイセンコ主義者の影響は数年の間大きなものとして残り続けた<ref name="china"/>。

1947年に日本の学界にも導入されルイセンコの学説を擁護する学者があらわれ、ルイセンコの提唱した低温処理を利用する[[ヤロビ農法]]が寒冷地の農家に広まった。

[[朝鮮民主主義人民共和国]]でも、[[金日成]]の指導の下にルイセンコ学説を利用した[[主体農法]]が実施されたが、土地の急速な栄養不足におちいり、これに天候不良が重なることで[[苦難の行軍|1990年代の食糧不足]]につながった。

==影響==
1934年から1940年、ルイセンコの警告とスターリンの承認の下、多くの遺伝学者が処刑されるか(Isaak Agol、Solomon Levit、Grigorii Levitskii、{{仮リンク|ゲオルギー・カルペチェンコ|en|Georgii Karpechenko}}、{{仮リンク|ゲオルギー・ナドソン|en|Georgii Nadson}}が含まれる)、{{仮リンク|労働収容所|en|Labor camp}}へ送られた。著名なソビエトの遺伝学者で農業科学アカデミーの会長であったニコライ・ヴァヴィロフは1940年に逮捕され、1943年に獄死した<ref>Cohen, Barry Mandel. "Nikolai Ivanovich Vavilov: the explorer and plant collector". ''Economic Botany'', ''45'' (1991): 38–46.</ref>。[[ハーマン・J・マラー|ハーマン・ジョーゼフ・マラー]](と彼の遺伝学に関する教育)はブルジョワ、資本主義者、帝国主義者、そしてファシズムを促進しているとして批判されたため、ソ連を離れて共和制スペインを経てアメリカ合衆国へと戻った。1948年、遺伝学は公的に「[[ブルジョワ疑似科学]]」と宣言され<ref name=gar57>{{cite book | last = Gardner | first = Martin | year = 1957 | title=Fads and Fallacies in the Name of Science | publisher=Dover Books | location = New York | url=https://books.google.com/books?id=TwP3SGAUsnkC&lpg=PP1&dq=gardner%20fads%20and%20fallacies&pg=PP1#v=onepage&q=&f=false | isbn = 9780486131627}}</ref>、全ての遺伝学者は職を失い(一部は逮捕もされた)、全ての遺伝学研究は打ち切られた。

3千人を超える生物学者がルイセンコ主義に反対しようと試みたとして投獄、解雇、処刑され、遺伝学における科学研究は1953年にスターリンが死ぬまで事実上破壊された<ref name="Perversion of Knowledge" />。ルイセンコ主義によって、ソ連における作物収量は実際には低下した<ref name="Perversion of Knowledge" /><ref name="Soyfer Tagedy" />。

1952年の終わり、おそらくスターリンがルイセンコの影響力が強まりつつあることに不快感を持ったため、状況が変化し始めた。ルイセンコ主義を批判する論説が新聞で発表された。しかし、正常な遺伝学に戻る過程は[[ニキータ・フルシチョフ]]の時代に鈍化した。これは、ルイセンコがフルシチョフに実験的農業体の想像上の成功を見せたためであった。再び、ルイセンコ主義への批判は禁止されたが、異なる見解を表明することは可能となり、全ての遺伝学者は釈放されるか、{{仮リンク|名誉回復 (ソ連)|en|Rehabilitation (Soviet)|label=死後に名誉回復}}された。この禁止令は1960年代中頃に撤回された<ref name="aleksandrovvya">''Александров, В. Я.'' [http://vivovoco.astronet.ru/VV/BOOKS/ALEXANDROV/CONTENT.HTM Трудные годы советской биологии: Записки современника].</ref>。


西側の科学者の中でほとんど唯一人、[[バークベック・カレッジ|ロンドン大学バークベック・カレッジ]]の[[物理学]]の教授で[[王立協会]]フェローであった[[ジョン・デスモンド・バナール]]は公にルイセンコを積極的に弁護し、数年後には「科学者としてのスターリン」の追悼記事を書いた。しかし、バーナルの支援にもかかわらず、イギリスの科学界のその他の者はソ連の表立った支持から撤退した。
ルイセンコは[[春化処理|低温処理]]によって[[春まき]][[小麦]]が[[秋まき]]に、秋まき小麦が春まきに変わることを発見したとされている。これはいわゆる春化処理であるが、ルイセンコはこれを[[遺伝形質|遺伝的性質]]がこのような操作によって変化するものと見なし、これまでの[[メンデルの法則|メンデル遺伝学]]や[[自然選択説]]を否定した。後天的に[[獲得形質の遺伝|獲得した性質が遺伝]]されるというルイセンコの学説は努力すれば必ず報われるという[[共産主義]]国家には都合のよい理論であり、スターリンもこれを強く支持した。


== ネオ・ルイセンコ主義 ==
当時の[[ソビエト連邦|ソ連]]の生物学会ではルイセンコの学説に反対する生物学者は処刑されたり、[[強制収容所]]に送られるなど[[粛清]]されていた。1947年に日本の学界にも導入されルイセンコの学説を擁護する学者があらわれ、ルイセンコの提唱した低温処理を利用する[[ヤロビ農法]]が寒冷地の農家に広まった。また[[中華人民共和国|中国]]でも[[毛沢東]]が[[大躍進政策]]の中でルイセンコの学説を採用し、数多くの餓死者を出した。[[朝鮮民主主義人民共和国]]でも、[[金日成]]の指導の下にルイセンコ学説を利用した[[主体農法]]が実施されたが、土地の急速な栄養不足におちいり、これに天候不良が重なることで[[苦難の行軍|1990年代の食糧不足]]につながった。スターリンの死後は[[スターリン批判]]に伴い[[トロフィム・ルイセンコ|ルイセンコ]]も批判され論争で得た地位を一旦は失ったものの、[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]の知遇を得たルイセンコ派は再び巻き返すことに成功する。この結果、ソ連の農業生産は著しい被害を蒙り、分子生物学及び遺伝子工学などの分野は世界から立ち遅れる事となる。
「ネオ・ルイセンコ主義」という単語は{{仮リンク|遺伝主義|en| Hereditarianism}}(知的発展の決定には遺伝が環境よりも重要であるという哲学的主義)研究者によって、{{仮リンク|レオン・カミン|en|Leon Kamin}}や{{仮リンク|リチャード・レウォンティン|en|Richard Lewontin}}、[[スティーヴン・ジェイ・グールド]]、{{仮リンク|バリー・メラー|en|Barry Mehler}}といった人間の行動の形成における遺伝子の役割を最小限に評価する科学者を描写するために{{仮リンク|人種と知性論争の歴史|en|History of the race and intelligence controversy|label=人種と知性に関する論争}}や[[社会生物学]]における軽蔑語として時折使われてきた<ref>Pearson, Roger. "Activist Lysenkoism: The Case of Barry Mehler." In ''Race, Intelligence and Bias in Academe'' (Washington: Scott-Townsend Publishers, 1997).</ref><ref>{{cite journal |last= Davis|first= Bernard|last2= |first2= |year= 1983|title= Neo-Lysenkoism, IQ, and the press|url= https://www.nationalaffairs.com/public_interest/detail/neo-lysenkoism-iq-and-the-press |journal= [[The Public Interest]]|publisher= [[National Affairs]]|volume= |issue= 73|pages= 41–59|doi= |accessdate=30 November 2013}}</ref>。


==脚注==
[[デオキシリボ核酸|DNA]]の構造や機能が解明されていくにつれ、ルイセンコ学説の支持者はいなくなっていった。
{{Reflist|35em}}
* Denis Buican, ''L'éternel retour de Lyssenko'', Paris, Copernic, 1978.
* [[Ronald Fisher]], "What Sort of Man is Lysenko?" ''Listener'', '''40''' (1948): 874–875. Contemporary commentary by a British evolutionary biologist ([https://web.archive.org/web/20090316173453/http://digital.library.adelaide.edu.au/coll/special//fisher/229.pdf pdf format])
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* Gary Werskey, ''The Visible College: The Collective Biography of British Scientific Socialists During the 1930s'' (New York: Holt, Rinehart and Winston, 1978). {{ISBN|0-7139-0826-2}}.
* "The Disastrous Effects of Lysenkoism on Soviet Agriculture". ''Science and Its Times'', ed. Neil Schlager and Josh Lauer, Vol. 6. (Detroit: Gale, 2001)


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1964年、ソビエト科学アカデミーにおいて一連の議論と投票が行われ、この学説は途絶える事となった。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[反知性主義]]
* [[トロフィム・ルイセンコ]]
* [[大躍進政策]]
* [[ニコライ・ヴァヴィロフ]]
* [[ヤフェト理論]]
* [[用不用説]]
* {{仮リンク|パブロフ・セッション|en|Pavlovian session}}
* {{仮リンク|科学の政治問題化|en|Politicization of science}}
* [[ロイ・メドヴェージェフ]]
* {{仮リンク|ソ連において抑圧された研究|en|Suppressed research in the Soviet Union}}
* [[TRIZ]]
* {{仮リンク|ドイツ物理学|en|Deutsche Physik}}
* {{仮リンク|ジャンクサイエンス|en|Junk science|label=タバコサイエンス}}(ジャンクサイエンス)
* {{仮リンク|疑似科学と位置付けられたトピックの一覧|en|List of topics characterized as pseudoscience}}
* [[遺伝]]
* [[遺伝]]
* [[春化処理]]
* [[春化処理]]
* [[ジャン=バティスト・ラマルク]]
* [[ジャン=バティスト・ラマルク]]
* [[ネオ・ラマルキズム]]
* [[ヨシフ・スターリン]]


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2018年1月10日 (水) 21:55時点における版

クレムリンで演説するルイセンコ
後ろには右からスターリンアンドレーエフミコヤンコシオールが並んでいる。

ルイセンコ論争(ルイセンコろんそう)とは、環境因子が形質の変化を引き起こし、その獲得形質遺伝するというトロフィム・ルイセンコの学説に関する論争とそれに伴ったソビエト連邦における反遺伝学運動である。ルイセンコ主義: Lysenkoism: Лысе́нковщина)は、ルイセンコ、彼の信奉者、ソビエト当局によって実施された遺伝学ならびに科学に基づく農業に反対する政治運動であった。ルイセンコはレーニン全ソ連農業科学アカデミー英語版の長として活動した。ルイセンコ主義は1920年代末に始まり、1964年に公式に終焉した。

ルイセンコ主義の疑似科学的発想は獲得形質の遺伝性を仮定していた[1]。ルイセンコの理論はメンデル遺伝と「遺伝子」の概念を否定し、自然選択を否定することでダーウィン進化論から逸脱した[2]。支持者らは、他にも多数あるが、ライムギコムギへと、コムギがオオムギへと転換できる、雑草が穀物へと自発的に変容する、「自然選択」に対立するものとして「自然協力」が観察された、と偽って主張した[2]。ルイセンコ主義は育種農業において並外れた進歩を約束したが、それらが起こることはなかった。

ヨシフ・スターリンはこの政治運動を支持した。3千人以上の主流生物学者が投獄または解雇され[3]、ルイセンコの科学的な反対派を抑え込むために数多くの科学者がルイセンコが推進した運動の一部として処刑された[4][5][6][7]。農業科学アカデミー総裁ニコライ・ヴァヴィロフは投獄され獄死し、遺伝学の分野における科学研究は1953年にスターリンの死まで事実上破壊された[2]神経生理学細胞生物学、その他の多くの生物学分野における研究と教育にも悪影響が及んだり、禁止された[8]

概要

ミチューリンが先鞭をつけたといわれるミチューリンの名を冠したミチューリン主義農法、またこれを応用したヤロビ農法春化処理ロシア語: Яровизация ヤロヴィザーツィヤから)などと共に議論される場合が多い。科学(と彼等が信じた方法)とイデオロギーの双方が結びついて補強し合った結果、国家規模の被害を出した一例として疑似科学等で取り上げられる。

ルイセンコの学説は1934年に発表され、スターリン政権下で「マルクス・レーニン主義弁証法的唯物論を証明するものだ」とされ、メンデルの遺伝学ブルジョワ理論として否定された。

ルイセンコは低温処理によって春まき小麦秋まきに、秋まき小麦が春まきに変わることを発見したとされている。これはいわゆる春化処理であるが、ルイセンコはこれを遺伝的性質がこのような操作によって変化するものと見なし、これまでのメンデル遺伝学自然選択説を否定した。後天的に獲得した性質が遺伝されるというルイセンコの学説は努力すれば必ず報われるという共産主義国家には都合のよい理論であり、スターリンもこれを強く支持した。当時のソ連の生物学会ではルイセンコの学説に反対する生物学者は処刑されたり、強制収容所に送られるなど粛清されていた。

スターリンの死後はスターリン批判に伴いルイセンコも批判され論争で得た地位を一旦は失ったものの、フルシチョフの知遇を得たルイセンコ派は再び巻き返すことに成功する。この結果、ソ連の農業生産は著しい被害を蒙り、分子生物学及び遺伝子工学などの分野は世界から立ち遅れる事となる。

DNAの構造や機能が解明されていくにつれ、ルイセンコ学説の支持者はいなくなっていった。1964年、ソビエト科学アカデミーにおいて一連の議論と投票が行われ、この学説は途絶える事となった。

農業

1928年、それまで無名の農学者トロフィム・ルイセンコは、コムギ種子を高湿度と低温に曝すことによって作物収量英語版を3から4倍にする春化と呼ぶ農業技術を開発したと主張した。低温および湿気に対する曝露は秋播きの冬穀物の生活環では当たり前のことであるが、春化技術は曝露の強度を挙げることによって、時には積雪した凍結圃場へ浸漬種子を植え付けることによって収量を増大させると主張した。現実には、この技術は新しいものではなく(1854年には知られており、過去20年の間に広く研究されていた)、収量にいくらかの増大をもたらすものの、ルイセンコが断言した程の収穫も得られなかった。

ルイセンコが1930年代のソビエト連邦において実地調査を始めた時、ソビエト連邦の農業英語版は農業を基礎にした経済から工業経済への転換の急速な変化、集団農場の誤った運営につながったクラーク(自営農家)の粛清によって重大な危機の中にあった。結果として生じた飢饉英語版は、国民と政府を食料の危機的不足を解決する可能性のある策の模索に駆り立てた。ルイセンコの春化方式は農場にわずかに大きな食料生産をもたらしたため、ルイセンコはすぐにソビエト農業の英雄として認められた。

多くの農学者は革命の前に教育を受けており、革命後に教育を受けたものの多くでさえも強制的な農業集団化政策に賛同していなかった。そのうえ、当時の生物学者の間で最も人気のある主題は全く農業ではなく、キイロショウジョウバエDrosophila melanogaster)の研究から現われた新たな遺伝学であった。ショウジョウバエによってメンデル比遺伝率といった遺伝学理論の実験的検証が格段に容易となっていた。主なルイセンコ論者のイサーク・イズライレヴィチ・プリゼント英語版はルイセンコを新しい革命的農業技術を開発した天才としてソビエトのマスメディアに紹介した。この時期、ソビエト連邦のプロパガンダ英語版は、自身の抜け目のない能力と知性によって現実的問題への解決策を考え付いた小作人の感動的な物語をしばしば重視していた。ルイセンコの広い人気は彼に理論的遺伝学の糾弾し、自身の農作業方式を奨励するための土台をもたらした。ルイセンコは次にソビエトのプロパガンダ機関による支持を受け、プロパガンダ機関はルイセンコの成功を誇張し、失敗については一切触れなかった。これに、恩恵とルイセンコの理論への反証の破壊を求める科学者からのルイセンコ主義を支持する虚偽の実験データが加わった。対照実験を行う代わりに、ルイセンコは農家から取られた調査のみに基づいて、春化がコムギの収量を15%増大させたと主張した[要出典]

出世

ルイセンコの政治的成功は、大部分は共産党とソビエトイデオロギーへの訴えかけによるものであった。1920年代末の破滅的な集団農場化の試みの後に、ルイセンコの「新しい」手法はソビエト当局者にとって「農業革命」への道を開くものとして見られた。ルイセンコ自身小作人家庭の出身であり、レーニン主義の熱狂的支持者であった。一連の人為的な農業災害を経験した時期、ルイセンコも極めて速く問題に対応したが、真の解決策は持っていなかった。党が新たな作物の植え付けや新たな農地の耕作の計画を発表した時はいつでも、ルイセンコはどのように実行するかについての早急な実践的提案をした。

ルイセンコは非常に速く、穀物の低温処理から、綿の木からの葉摘み、樹木の塊状植え付け、独自の混合肥料に致るまで様々な処方箋を作ったため、学術界の生物学者らは新しい技術が導入される前に、ある技術に勝ちがないか有害であることを実証する時間がなかった。党が支配する新聞はルイセンコの「実践的」取り組みを賞賛し、ルイセンコに批判的な人々の動機に疑いをかけた。ルイセンコの「農業における革命」は、科学に必要な忍耐と観察を要請する学術界に対する強力なプロパガンダ的優位性を持った。

ルイセンコはソ連共産党の支配層入りが認められ、農務を任された。ルイセンコは生物学者を「ハエ愛好家の人間嫌い[9]」として糾弾し、ソビエト経済を故意に機能しないようにし失敗させようとした生物学における「破壊分子英語版」として非難するために自身の地位を使った。そのうえ、ルイセンコは理論生物学と応用生物学との区別を否定した。

ルイセンコは自身を有名で人気のあったソ連の園芸家イヴァン・ヴラジーミロヴィッチ・ミチューリンの追随者であると述べた。しかし、ミチューリンとは異なり、ルイセンコはラマルキズムの一種を支持しており、非遺伝学的な技術として交配接ぎ木のみを用いて自説を強く主張した。

これには、最も重要なことだが、生物の「獲得」形質—例えば、葉摘みを行った後の葉のない状態—がその生物の子孫によって継承されるという含意も付随していた。これが、春化がより高い生産性を与えるとルイセンコが主張した理由であった。ルイセンコは、春化させた種子がより速く花を咲かせ、より多くのコムギを生産する能力が、次世代のコムギ種子へと受け渡され、したがって春化によってさらにこの過程が増幅される、と信じていた。

ヨシフ・スターリンからの支持は、ルイセンコにさらなる動機と人気を与えた。1935年、ルイセンコは生物学における反対派と、ソビエト政府の農業集団化政策にまだ抵抗していた小作人とを比較し、ルイセンコの理論に反対することによって伝統的遺伝学者はマルクス主義に反対する立場にあるのだ、と述べた。スターリンはこの演説が行われた時に聴衆の中にいて、真っ先に立ち上がり拍手を送って、「ハラショー、同志ルイセンコ。ハラショー」と叫んだ[要出典]。この出来事はルイセンコをつけあがらせ、まだルイセンコに声高に反対する遺伝学者を中傷する自由を彼と仲間のプリゼントに与えた。ルイセンコのかつての指導者であったニコライ・イヴァノヴィッチ・ヴァヴィロフといったルイセンコ主義の反対者の多くは投獄されるか、ルイセンコおよびプリゼントの告発によって処刑された。

1948年8月7日、レーニン全ソ連農業科学アカデミーはそれ以後、ルイセンコ主義を「唯一の正しい理論」として教える、と発表した。ソビエトの科学者らはルイセンコの研究に反論するいかなる研究をも非難することを強いられた[10]。ルイセンコ批判は「ブルジョワ」あるいは「ファシスト」と糾弾され、類似した「非ブルジョワ」理論も当時のソビエトアカデミーの他分野において頭角を現した(ヤフェト理論英語版および社会主義リアリズムを参照のこと)。興味深いことに、おそらくスターリンの存命時に粛清を逃れた唯一のルイセンコの対立者らはソビエトの原子核物理学者の小さなコミュニティーの科学者らであった。トニー・ジャットが意見を述べたところによると、「スターリンが彼の原子核物理学者らにちょっかいを出さず、『彼らの』計算に後でとやかく言うことをしなかったと推測されるのは意義深い。スターリンは狂っていたが、愚劣ではなかった」[11]

他国への影響

東側諸国の多くの国々はルイセンコ主義を公的な「新しい生物学」として同様に受け入れた。しかしながら、ルイセンコ主義の受容は共産圏諸国において一様ではなかった。ポーランドでは、ヴァツワフ・ガイェヴスキー英語版を除く[12]全ての遺伝学者がルイセンコ主義に従った。ガイェヴスキーは学生との接触が許されなかったにもかかわらず、ワルシャワ植物園での科学研究の継続が許された。ルイセンコ主義は1956年から急速に排斥され[12]、現代的遺伝学の研究部門が設立された。これらには1958年にワルシャワ大学で始まった、ガイェヴスキーを長とする初の遺伝学科が含まれる。

チェコスロバキアは1949年にルイセンコ主義を採用した。ヤロスラフ・ジ一ジェネツキ一(Jaroslav Kříženecký、1896年-1964年)はルイセンコ主義に反対した著名なチェコスロバキアの遺伝学者の一人であり、講義でルイセンコ主義を批判した1949年に「資本主義体制のために働き、自身を労働者階級よりも上位であると考え、人民の民主的秩序に敵対した」として農業大学を解雇され、1958年に投獄された[13]。1963年、ジ一ジェネツキ一はブルノモラビア博物館英語版に新たに設立されたグレゴール・メンデル部門の長に任命された。ブルノは、メンデルが遺伝的形質に関する初期の実験を続け、メンデルの法則を立てた都市である。

ドイツ民主共和国(東ドイツ)では、ルイセンコ主義は一部の大学で教えられていたものの、数名の科学者(例えば、遺伝学者でルイセンコ主義の激しい反対派であったハンス・シュトゥッベ英語版)の活動によって科学に対しては非常に小さな影響しか及ぼさず、西ベルリンの研究機関との境界も開かれていた。にもかかわらず、ルイセンコ主義的理論は1964年にニキータ・フルシチョフが辞任するまで教科書に記載されていた[14]

ルイセンコ主義は1949年から1956年まで中国の科学を支配した。毛沢東大躍進政策の中でルイセンコの学説を採用し、数多くの餓死者を出した。この時期、遺伝学のシンポジウムではルイセンコ主義の反対派はこの理論を自由に批判し、メンデル遺伝学を主張することは許された[15]。シンポジウムの会議録において、談傢楨英語版は「ソ連がルイセンコ主義の批判を始めて以降、我々も恐れずに彼を批判してきた」と述べたと引用されている[15]。しばらくの間、両方の学派が共存していたが、ルイセンコ主義者の影響は数年の間大きなものとして残り続けた[15]

1947年に日本の学界にも導入されルイセンコの学説を擁護する学者があらわれ、ルイセンコの提唱した低温処理を利用するヤロビ農法が寒冷地の農家に広まった。

朝鮮民主主義人民共和国でも、金日成の指導の下にルイセンコ学説を利用した主体農法が実施されたが、土地の急速な栄養不足におちいり、これに天候不良が重なることで1990年代の食糧不足につながった。

影響

1934年から1940年、ルイセンコの警告とスターリンの承認の下、多くの遺伝学者が処刑されるか(Isaak Agol、Solomon Levit、Grigorii Levitskii、ゲオルギー・カルペチェンコ英語版ゲオルギー・ナドソン英語版が含まれる)、労働収容所英語版へ送られた。著名なソビエトの遺伝学者で農業科学アカデミーの会長であったニコライ・ヴァヴィロフは1940年に逮捕され、1943年に獄死した[16]ハーマン・ジョーゼフ・マラー(と彼の遺伝学に関する教育)はブルジョワ、資本主義者、帝国主義者、そしてファシズムを促進しているとして批判されたため、ソ連を離れて共和制スペインを経てアメリカ合衆国へと戻った。1948年、遺伝学は公的に「ブルジョワ疑似科学」と宣言され[17]、全ての遺伝学者は職を失い(一部は逮捕もされた)、全ての遺伝学研究は打ち切られた。

3千人を超える生物学者がルイセンコ主義に反対しようと試みたとして投獄、解雇、処刑され、遺伝学における科学研究は1953年にスターリンが死ぬまで事実上破壊された[2]。ルイセンコ主義によって、ソ連における作物収量は実際には低下した[2][8]

1952年の終わり、おそらくスターリンがルイセンコの影響力が強まりつつあることに不快感を持ったため、状況が変化し始めた。ルイセンコ主義を批判する論説が新聞で発表された。しかし、正常な遺伝学に戻る過程はニキータ・フルシチョフの時代に鈍化した。これは、ルイセンコがフルシチョフに実験的農業体の想像上の成功を見せたためであった。再び、ルイセンコ主義への批判は禁止されたが、異なる見解を表明することは可能となり、全ての遺伝学者は釈放されるか、死後に名誉回復英語版された。この禁止令は1960年代中頃に撤回された[18]

西側の科学者の中でほとんど唯一人、ロンドン大学バークベック・カレッジ物理学の教授で王立協会フェローであったジョン・デスモンド・バナールは公にルイセンコを積極的に弁護し、数年後には「科学者としてのスターリン」の追悼記事を書いた。しかし、バーナルの支援にもかかわらず、イギリスの科学界のその他の者はソ連の表立った支持から撤退した。

ネオ・ルイセンコ主義

「ネオ・ルイセンコ主義」という単語は遺伝主義英語版(知的発展の決定には遺伝が環境よりも重要であるという哲学的主義)研究者によって、レオン・カミン英語版リチャード・レウォンティン英語版スティーヴン・ジェイ・グールドバリー・メラー英語版といった人間の行動の形成における遺伝子の役割を最小限に評価する科学者を描写するために人種と知性に関する論争英語版社会生物学における軽蔑語として時折使われてきた[19][20]

脚注

  1. ^ Lysenkoism”. merriam-webster.com. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  2. ^ a b c d e Birstein, Vadim J. (2004). The Perversion of Knowledge: The True Story of Soviet Science.. Westview Press. ISBN 0813342805 
  3. ^ Birstein, Vadim J. (2013). The Perversion Of Knowledge: The True Story Of Soviet Science. Perseus Books Group. ISBN 9780786751860. https://books.google.com/books?id=2XqEAAAAQBAJ 2016年6月30日閲覧. "Academician Schmalhausen, Professors Formozov and Sabinin, and 3,000 other biologists, victims of the August 1948 Session, lost their professional jobs because of their integrity and moral principles [...]" 
  4. ^ The Scourge of Soviet Science”. Wall Street Journal (2016年6月17日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  5. ^ Swedin, Eric G. (2005). Science in the Contemporary World : An Encyclopedia. Santa Barbara, Calif.: ABC-CLIO. pp. 168, 280. ISBN 1851095241 
  6. ^ Soyfer, Valery N. (1 September 2001). “The Consequences of Political Dictatorship for Russian Science”. Nature Reviews Genetics 2 (9): 723–729. doi:10.1038/35088598. 
  7. ^ deJong-Lambert, William (2017). The Lysenko Controversy as a Global Phenomenon, Volume 1: Genetics and Agriculture in the Soviet Union and Beyond. Palgrave Macmillan. p. 104. ISBN 3319391755 
  8. ^ a b Soyfer, Valery N. (1994). Lysenko and The Tragedy of Soviet Science. New Brunswick, NJ: Rutgers Univ. Press. ISBN 0813520878 
  9. ^ Epistemology and the Social, Evandro Agazzi, Javier Echeverría, Amparo Gómez Rodríguez, Rodopi, Jan 1, 2008 - Philosophy - 231 pages, Google books scanned reference, p 149
  10. ^ Pamela N. Wrinch. "Science and Politics in the U.S.S.R.: The Genetics Debate". World Politics, Vol. 3, No. 4 (Jul., 1951), pp. 486-519
  11. ^ Judt, Tony. Postwar: A History of Europe Since 1945, (New York: Penguin Books, 2006), p. 174n.
  12. ^ a b Gajewski W. (1990). “Lysenkoism in Poland”. The Quarterly Review of Biology 65 (4): 423–34. doi:10.1086/416949. PMID 2082404. 
  13. ^ Orel, Vitezslav (1992). “Jaroslav Kříženecký (1896-1964), Tragic Victim of Lysenkoism in Czechoslovakia”. Quarterly Review of Biology 67 (4): 487–494. doi:10.1086/417797. JSTOR 2832019. 
  14. ^ Hagemann, Rudolf (2002). “How did East German genetics avoid Lysenkoism?”. Trends in Genetics 18 (6): 320–324. doi:10.1016/S0168-9525(02)02677-X. PMID 12044362. 
  15. ^ a b c Li, CC (1987). “Lysenkoism in China”. Journal of Heredity 78 (5): 339. 
  16. ^ Cohen, Barry Mandel. "Nikolai Ivanovich Vavilov: the explorer and plant collector". Economic Botany, 45 (1991): 38–46.
  17. ^ Gardner, Martin (1957). Fads and Fallacies in the Name of Science. New York: Dover Books. ISBN 9780486131627. https://books.google.com/books?id=TwP3SGAUsnkC&lpg=PP1&dq=gardner%20fads%20and%20fallacies&pg=PP1#v=onepage&q=&f=false 
  18. ^ Александров, В. Я. Трудные годы советской биологии: Записки современника.
  19. ^ Pearson, Roger. "Activist Lysenkoism: The Case of Barry Mehler." In Race, Intelligence and Bias in Academe (Washington: Scott-Townsend Publishers, 1997).
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参考文献

  • 『ルイセンコ学説の興亡』ジョレス・A・メドヴェージェフ(著)、金光不二夫(訳)、河出書房新社(1971年)
  • 『日本のルィセンコ論争』中村禎里(著)、みすず書房(1997年、1974年出版の『ルイセンコ論争』の再版)
  • 『日本農民のヤロビ農法 ミチューリン主義農業技術の実地手引』下伊那ミチューリン会菊池謙一(編著)蒼樹社(1953年)
  • Dominique Lecourt, 1976 Lyssenko. Histoire réelle d'un <<science proletariennne>>, Françoit Maspero.

関連項目