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「子持山」の版間の差分

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{{Infobox 山
{{Infobox 山
|名称 = 子持山
|名称 = 子持山
|画像 = [[File:Onoko Volcano & Komochi Volcano Relief Map, SRTM-1.jpg|300px]]
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|画像キャプション = [[小野子山|小野火山]](左)と子持火山(右)
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}}
'''子持山'''(こもちやま)は、[[群馬県]]北西の[[沼田市]]と[[渋川市]]との境界にある[[標高]]1,296.1mの[[火山]]である。
'''子持山'''(こもちやま)は、[[群馬県]]の中部にある[[火山]]。標高1296メートル。「ぐんま百名山」の一つに選ばれてい<ref name="県庁-百名山"/>


典型的な[[成層火山]]で、浸食が著しく進行した結果、火山の内部構造である[[火山岩頸]]や放射状岩脈が地表に露出しており、地質学の観察に適した山として知られる<ref name="新百科_子持山"/><ref name="大地_子持山"/>。火道のマグマが柱状に岩化して垂直に屹立する「獅子岩(大黒岩)」など特徴的な山容をしており、[[関越自動車道]]からも遠望できる<ref name="地図_子持山"/><ref name="大地_子持山"/>。
== 概要 ==

90万年前〜20万年前の間に活動した[[第四紀]]の[[成層火山]]で、南側の[[浸食]]が激しい。山腹には多数の放射状に広がる[[岩脈]]が、屏風岩などになって現れている。その中心には[[岩頸|火山岩頸]]の獅子岩がある、これは主[[火道]]の名残でその位置は現在の山頂から1kmも離れており[[開析]]が進んでいることがわかる。
==地理==
<gallery>
[[ファイル:子持山の広域地図.jpg|thumb|right|群馬県における子持山の位置]]
Maebashi Chuo-ohashi Bridge survey.jpg|[[小野子山|小野子火山]](中央奥左)と子持火山(中央奥右)。南方、群馬県庁舎より。
[[ファイル:子持山周辺の地形.png|thumb|right|子持山周辺の主な地形]]
獅子岩頂上から山頂への尾根を見る - panoramio.jpg|獅子岩頂上から山頂への尾根を見る
===群馬県における子持山の位置===
尾根から獅子岩 - panoramio.jpg|尾根から獅子岩
子持山は群馬県のほぼ中央部に位置する<ref name="県庁-観察"/>。東の山麓には[[利根川]]が南へ流れ、南の山麓には[[吾妻川]]が東へ流れる<ref name="平凡_子持山"/>。西には[[小野子山]]があり、子持山とのあいだの谷あいには旧[[三国街道]]が通じている。北西部には[[名久田川]]の上流部があり、その流域は[[中山盆地]]とよばれる低地になっている。北の尾根は北西から西へと向きを変えて[[破風山 (高山村・みなかみ町)|破風山]]へと連なる。
子持山頂 - panoramio.jpg|山頂

</gallery>
山域は[[沼田市]]、[[渋川市]]、[[高山村 (群馬県)|高山村]]([[吾妻郡]])にまたがる。このうち渋川市は2006年に旧[[小野上村]]・旧[[子持村]]と合併をしており、従前は沼田市、子持村、小野上村、高山村の1市3村にまたがる山だった。山頂は沼田市と渋川市(旧小野上村)にまたがる<ref name="平凡_子持山"/>。

===子持山の地勢===
子持山はきわめて典型的な[[成層火山]]である<ref name="山歩_子持山"/><ref name="山1000-224"/>。ただし[[北関東]]の火山としては規模はかなり小さく<ref name="山歩_子持山"/><ref name="山1000-224"/>、山体の基底部は南北およそ9キロメートル、東西はおよそ7.5キロメートルである<ref name="山歩_子持山"/><ref name="角川_子持山"/>。山体の体積は6立方キロメートルと見積もられている<ref name="飯島論文"/>。

山頂は「笠上(かさがみ)」と呼ばれており<ref name="角川_子持山"/><ref name="平凡_子持山"/>、一等三角点「子持山」が設置されている<ref name="一等三角点"/>。標高は1296.2メートル<ref name="地図_子持山"/>{{refnest|group="注"|標高は資料によりばらつきがある。1296.4メートル(1987年<ref name="平凡_子持山"/>・1990年<ref name="山歩_子持山"/>)、1296メートル(1988年<ref name="角川_子持山"/>・2008年<ref name="新百科_子持山"/>)など。[[国土地理院]]の2014年の標高改算による一等三角点の標高は1296.23メートル<ref name="一等三角点"/>。ここではもっとも新しい2017年の値を採用した。}}。

この山頂部は、子持山の本来の[[カルデラ]]の外縁部にあとから生まれた[[溶岩円頂丘]]である<ref name="新百科_子持山"/><ref name="角川_子持山"/>。ただし著しい浸食により原形をとどめない<ref name="新百科_子持山"/>。カルデラは標高1000m程度の峰となって、南北におよそ3キロメートル、東西におよそ2キロメートルの楕円形をしているが、長年の浸食作用による開析が進行しており、現在の姿は「カルデラの残骸<ref name="新百科_子持山"/>」というべきものである<ref name="新百科_子持山"/><ref name="角川_子持山"/><ref name="平凡_子持山"/><ref name="旧百科_子持山"/>。

子持山の火山活動の最晩期には、山頂部が噴火によって粉砕された。その多くは土石流となって南北方向へ流れ下り、北の[[沼田市]]の川田町地区では標高800メートルから600メートルにかけて、南の[[渋川市]]の[[子持村|子持地区]]付近では標高500メートルから300メートルにかけて、[[扇状地]]をつくっている<ref name="大地_子持山"/><ref name="新百科_子持山"/><ref name="飯島論文"/>。これらの扇状地地形には、その後に[[浅間山]]や[[榛名山]]の火山活動に由来する[[火山噴出物]]が厚さ10メートルの層を形成して堆積している<ref name="大地_子持山"/>。

===地表に現れた岩脈===
この著しい浸食の結果、カルデラの内側では、成層火山の内部構造が露出している<ref name="新百科_子持山"/>。[[凝灰岩]]や[[凝灰角礫岩]]などは浸食を受けやすいため既に消失し<ref name="大地_子持山"/>、火山の内部にあった[[マグマ]]が固まってできた[[安山岩]]質の[[岩脈]]が地表にあらわれている<ref name="新百科_子持山"/><ref name="角川_子持山"/>。

子持山では噴火のときに火口がほとんど移動しなかったため、地底から火口へと[[火道]]を垂直に昇ってきたマグマが、そのままの形で硬化して岩となった<ref name="大地_子持山"/>。これを[[火山岩頸]]という。子持山の火山岩頸は底部の直径150メートル、高さ100メートルの大岩塔となっており<ref name="新百科_子持山"/><ref name="山歩_子持山"/>、「'''大黒岩'''」または「'''獅子岩'''」と呼ばれている<ref name="新百科_子持山"/><ref name="角川_子持山"/><ref name="平凡_子持山"/><ref name="山歩_子持山"/><ref name="山1000-224"/>。

さらにこの大黒岩(獅子岩)を中心として、地下でマグマが岩盤の裂け目を伝って放射状に広がったものがそのまま固まり、岩(放射状岩脈)となって地表に露出している。子持山ではこの放射状岩脈が150本ほど確認されており<ref name="新百科_子持山"/>、そのうちとくに60本ほどは容易に観察できる<ref name="山歩_子持山"/>。これら放射状岩脈のうち顕著なものには、「'''屏風岩'''」、「'''拳岩'''」などの名前がつけられている<ref name="平凡_子持山"/>。

子持山は成層火山としてはそう大きなものではないが、標識的な火山地形や火山内部の構造が観察できるものとしては日本国内でも有数のものであり、地質学の学習の場として重要視されている<ref name="地図_子持山"/><ref name="山歩_子持山"/><ref name="大地_子持山"/>。

==噴火史==
[[ファイル:利根川 - panoramio (1).jpg|thumb|right|子持山の最古の噴火による岩の露頭がある綾戸渓谷]]
[[ファイル:獅子岩頂上から山頂への尾根を見る - panoramio.jpg|thumb|right|獅子岩頂上から山頂への尾根を見る]]
子持山は、古い火山活動による'''古子持火山'''が、その後の火山活動によって埋没したうえ、長い年月をかけて浸食・開析されたものと考えられている。古子持火山の活動時期については研究者による学説がいくつかあり、おおむね90万年前から50万年前ほどのものと推定されている。また、1960年代の研究では、子持山は複数の[[側火山]]をもつ[[複式火山]]とみなされていた。その後、岩石の年代測定技術の進歩により、1990年代になると側火山とみられていたものは大きく時代が離れていることがわかり、子持山とは別の火山活動によるものと推定されるようになった。

===噴火前の基盤===
今から1000万年以上前、一帯は[[新第三紀]][[中新世]]に海底で堆積した[[砂岩]]や[[凝灰岩]]からなる岩盤層だった<ref name="大地_子持山"/>。[[メッシニアン|中新世末期]]から[[鮮新世]]初期にかけて(おおよそ600万年前)、一帯では火山活動があったと推定され、溶岩が地表に出て岩盤やいくつかの溶岩ドームをつくった<ref name="飯島論文"/>。この火山活動はのちの子持山火山とは活動時期が大きく異なっており、子持山とは別個のものとみなされている<ref name="飯島論文"/>{{refnest|group="注"|従来は、これらの溶岩ドームは子持山の[[側火山]]であろうと考えられていた。しかし年代測定により子持山の火山活動とは400万年もの時期のずれがあることが確認された。このことから[[岡山大学地球物質科学研究センター|岡山大学固体地球研究センター]]の飯島義之は、両者が別個のものと結論づけている<ref name="飯島論文"/>。これらの溶岩ドームの名残りを、いまの子持山の東麓にあたる利根川沿いの[[綾戸渓谷]]にある[[JR東日本]][[上越線]]の[[岩本駅]]付近(沼田市岩本町)や、西麓の堂山地区([[高山村 (群馬県)|高山村]]でみることができる。ただしどちらも[[採石]]が行われていて、溶岩ドームの形状はまったく残っていない<ref name="飯島論文"/>。}}。このとき流出した安山岩質の溶岩([[安山岩]])、[[凝灰岩]]、[[凝灰角礫岩]]が岩盤となり、子持山の基盤となった<ref name="飯島論文"/><ref name="県庁-観察"/>。

===火山活動の初期===
子持山の火山活動が始まったのは[[第四紀]]の[[更新世]]に入ってからで、最初期の活動は今から160万年ほど前([[カラブリアン]])と推定される<ref name="飯島論文"/>{{refnest|group="注"|1950年代から1980年代にかけての推定では、子持山の火山活動の始期は90万年前から60万年前頃としていた。しかしこれらの推定は溶岩の年代測定に基づくものではなかった。技術の進歩により岩石の年代測定が従前より精度があがり、若い火山の年代測定も可能になったことで、飯島義之(1996年)は子持山火山の最古の活動時期が140万年前(測定誤差はプラスマイナス34万年ほど)に遡ると結論づけた<ref name="飯島論文"/>。}}。このときには、基盤となる岩盤を突き破って噴火活動があり、[[輝石安山岩]]を主成分とする溶岩が噴出した。この火山の姿は後の火山活動と浸食作用によってほとんど原型をとどめないが、子持山の東麓の[[利根川]]沿いの[[綾戸渓谷]]([[綾戸バイパス]]参照)付近では、当時の火山活動で生じた火成岩を見ることができる<ref name="新百科_子持山"/><ref name="飯島論文"/>{{refnest|group="注"|飯島はこの火山活動を「綾戸活動期」と命名している<ref name="飯島論文"/>。}}。

===火山活動前期===
初期の活動からおおよそ30万年間の休止期を経て<ref name="飯島論文"/>、90万年前頃から子持山火山の活動が活発化した<ref name="飯島論文"/><ref name="GSJ"/>。この噴火では、大黒岩(獅子岩)を中央火口として30万年ほど火山活動が続いた。現在みられる火山岩頸や放射状岩脈はこの時期に形成されたものである。このときの噴出物は[[輝石]]を含む玄武岩質の安山岩の溶岩流が主体で、これに[[凝灰角礫岩]]が含まれるのが特徴的である。代表的な露頭地では厚さ20メートルの溶岩、凝灰角礫岩層、厚さ20メートルの溶岩が層を成しているのが観察できる<ref name="飯島論文"/>。

===火山活動後期===
60万年前頃から20万年前頃にかけて子持山は噴火を繰り返した<ref name="飯島論文"/><ref name="GSJ"/>。子持山は火山灰、火山礫、溶岩を交互に噴出し、裾野の広い、富士山型の典型的な[[成層火山]]へと成長した<ref name="飯島論文"/><ref name="県庁-観察"/><ref name="大地_子持山"/><ref name="角川_子持山"/>。この時期の火山噴出物からは凝灰岩、凝灰角礫岩や安山岩が生まれたが、[[カンラン石]]を含むのが特徴的である<ref name="飯島論文"/>。

この火山活動の末期には、山頂付近に[[カルデラ]]が出現し、[[火口湖]]ができた<ref name="大地_子持山"/><ref name="県庁-観察"/>。さらにこのカルデラ周辺に複数の[[溶岩ドーム]]が形成された。これらの溶岩ドームはまもなく爆発によって粉砕され、山体上部が崩壊、カルデラ湖の湖水も流失した。このときの岩屑は南北に流れて扇状地を形成した<ref name="飯島論文"/><ref name="大地_子持山"/><ref name="県庁-観察"/>。現在の山頂(「笠上」)や、山頂の南にある頂部(「柳木ヶ峰」)はこうした溶岩ドームの残骸である<ref name="飯島論文"/><ref name="県庁-観察"/><ref name="角川_子持山"/>。

===火山活動の収束後===
子持山の火山活動は20万年前頃に収束した<ref name="飯島論文"/><ref name="GSJ"/>。これは、数万年前から1万年前頃までに激しい噴火を繰り返した[[榛名山]]・[[赤城山]]・[[浅間山]]などの周囲の大火山とくらべ、かなり古い部類にはいる。子持山の南北の山麓にできた山体崩壊にともなう扇状地の上には、榛名山や浅間山の噴火にともなう[[テフラ]](火山噴出物)が10メートルもの厚さで堆積している<ref name="大地_子持山"/>。また、東方にある赤城山の噴火では、噴出物によって利根川が堰き止められ、川筋が大きく西へ移動した。これにより、子持山の東麓は利根川によって大きく浸食され綾戸渓谷となった<ref name="国交省-17号バイパス"/>。

山体やカルデラそのものも、20万年の間に風雨や河川による浸食・開析により大きく姿を変えた。火山活動にともなって噴出された火山灰を主成分とする凝灰岩や凝灰角礫岩は、比較的やわらかいために削られ流されてしまい、火山の内部構造ともいうべき火道の岩脈が「骨組み」のように露出する形となった<ref name="新百科_子持山"/><ref name="大地_子持山"/>。こうした開析が最も進んでいるのが、南斜面を大きく削って谷をつくっている唐沢周辺で<ref name="県庁-観察"/>、この扇状地の根元部分に[[子持神社]]が鎮座する<ref name="平凡_子持山"/>。

==自然==
[[ファイル:子持山頂 - panoramio.jpg|right|thumb|山頂]]
;植生
子持山の山域には自然林はほとんど残っていない<ref name="山歩_子持山"/>。主に[[スギ]]、[[ヒノキ]]や[[アカマツ]]の人工林からなり、これに[[クリ]]、[[コナラ]]、[[ミズナラ]]といった低山性の樹木や[[ツツジ]]などの低木が交じる<ref name="山歩_子持山"/><ref name="県庁-観察"/><ref name="山渓9-子持山"/>。このほか沢沿いの一部にカエデやケヤキの自然樹がみられる<ref name="地図_子持山"/>。

このほか特徴的な植物としては、[[シモツケ]]、[[ヤマオダマキ]]、[[ザゼンソウ]]、[[オタカラコウ]]、[[ハクサンオミナエシ]]がみられる<ref name="県庁-観察"/>。

;動物
子持山では、5月から6月頃に40種類ほどの鳥類が観察される<ref name="山歩_子持山"/><ref name="山1000-224"/>。主なものとしては[[ヤマドリ]]、[[トビ]]、[[キジ]]、[[アカゲラ]]、[[ミソサザイ]]、[[キビタキ]]、[[オオルリ]]、[[ホトトギス]]、[[カッコウ]]など<ref name="県庁-観察"/>。

ほかに哺乳類として[[キツネ]]、[[タヌキ]]、[[アナグマ]]、[[ノウサギ]]、[[ムササビ]]、[[リス]]などが確認されている<ref name="県庁-観察"/>。

==人文史==

===古典に登場する子持山===

{| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;"
|-
|{{ruby|児毛知山|こもちやま}} {{ruby|若鶏冠木|わかかへるで}}の {{ruby|黄葉|もみ}}つまで 寝もと{{ruby|吾|わ}}は{{ruby|思|も}}ふ {{ruby|汝|な}}はあどか{{ruby|思|も}}ふ
|-style="text-align:right;"
|[[よみ人しらず|詠み人知らず]]、『[[万葉集]]』3494(14巻)東歌
|-
|(大意)子持山の春の若いカエデが秋になって紅葉するまでずっとあなたを抱いていたい。あなたはどうか<ref name="渋川市-登山図"/>{{refnest|group="注"|ふつうは、男性が女性に対して子作りをしようと誘っているものと解されるが、この歌にはとくに明確な主語がないので、女性が男性を誘っているものと解釈することもできる。平安時代成立の『[[古今和歌六帖]]』では、この歌の下の句を「寝もと吾は思ふ 汝はあどか思ふ」ではなく、「寝むと思ふを 妹はいかにぞ」として採録しており、男性から女性へ呼びかけたものとして解釈されている<ref name="平凡_子持山"/>。}}。
|}

一般に、奈良時代の『[[万葉集]]』に掲載されたこの東歌(巻14、3494)は、[[上野国]](群馬県)の子持山のことを詠んだものとされてきた<ref name="角川_子持山"/><ref name="平凡_子持山"/>。

ただし、平安時代末期の『[[五代集歌枕]]』や『[[和歌色葉]]』(1198年頃)といった[[歌学|歌学書]]では、この和歌の主題がどこの土地のものであるかは言及していない。また、同時期の[[藤原清輔]]による『[[奥義抄]]』ではこの歌を[[陸奥国]]で詠まれたものとして解説している<ref name="平凡_子持山"/>。

{| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;"
|-
|こもち山 谷懐に おひたてて ききのはぐくむ 花をこそみれ
|-style="text-align:right;"
|伝[[源俊頼]]作、『[[夫木和歌抄]]』([[延慶]]3年 (1310) 年頃成立)
|-
|}

鎌倉時代後期の『[[夫木和歌抄]]<ref name="コトバンク-夫木和歌抄"/>』掲載のこの和歌も子持山を詠んだものとされている<ref name="平凡_子持山"/>。


{| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;"
|-
|子持山 紅葉をわけて 入る月は 錦につつむ 鎖とぞ知る<ref name="渋川市-登山図"/><br>または<br>子持山 紅葉をわけて 入る月は 錦をつつむ 鏡なりけり<ref name="旧百科_円珠尼"/>
|-style="text-align:right;"
|円珠尼(? - 1582年<ref name="旧百科_円珠尼"/>)
|}

円珠尼は室町時代後期の川田城([[沼田市]])の城主、川田光清の娘で、小柳姫といった。[[沼田城]]の城主夫人の侍女となり[[長野業正]]の家臣陶田弥兵衛に嫁ぐも、まもなく離別した。18歳のときに詠んだこの歌が[[正親町天皇]](在位:1557年 - 1586年)に見出され、正親町天皇は「上野の 沼田の里に 円なる 珠のありとは 誰か知らまし」と[[御製]]を詠んだという。これにより小柳は「円珠」と名を改めた<ref name="旧百科_円珠尼"/><ref name="山1000-224"/>。円珠尼はのちに[[厩橋城]]城主となった[[滝川一益]]の和歌の師となったという
<ref name="旧百科_円珠尼"/>。この「円珠尼」の和歌が刻まれた石碑は登山口にある<ref name="山渓9-子持山"/>。

このほか子持山を詠んだ和歌として次のようなものがあり、山中に歌碑が設けられている。

{| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;"
|-
|子持山 谷{{ruby|懐露|ふところ}}に生いたてて 木々の葉子くむ 花をこそみれ<ref name="渋川市-登山図"/>
|-style="text-align:right;"
|[[姉小路済継]](1470年 - 1518年)
|-
|}


{| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;"
|-
|子持山 かえでの宮に祈らくは わが恋のさち わが歌のさち<ref name="渋川市-登山図"/>
|-
|雲わたる 天のまほらに 獅子岩は 大口あきて たけり立ちたり<ref name="渋川市-登山図"/>
|-style="text-align:right;"
|須藤泰一郎(1889年 - 1933年)
|-
|}


{| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;"
|-
|子持山 若葉のときに 我はきて 草をぞ集む 手に餘るまで<ref name="渋川市-登山図"/>
|-style="text-align:right;"
|[[土屋文明]](1890年 - 1990年)
|-
|}

===山名の由来===
[[ファイル:Maebashi Chuo-ohashi Bridge survey.jpg|thumb|right|[[前橋市]]・群馬県庁舎から遠望する子持火山(中央奥右)と[[小野子山|小野子火山]](中央奥左)]]
中世に成立した『[[神道集]]』の赤木文庫版{{refnest|group="注"|『[[神道集]]』自体は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の成立とされる。赤木文庫は、国文学者の[[横山重]](1896年 - 1980年)が収集していた稀覯本のコレクション。}}には、「児持山之事」として子持山の名称の由来に関する逸話が掲載されている<ref name="平凡_子持山"/>。これによれば、もともとこの山は「武部(たけべ)山」と呼ばれていたのだが、[[伊勢国]][[安濃津]]([[三重県]][[津市]])の[[地頭]]阿野保明の子女に子持御前という女性がいて、この娘が神通力を得て武部山に移り住んだことから、この山を「児持山」と呼ぶようになったという<ref name="平凡_子持山"/><ref name="平凡_子持神社"/>。

一般的には、山容を子どもを抱く姿にみたてて「子持山」と呼ぶようになったとされている<ref name="新百科_子持山"/><ref name="角川_子持山"/><ref name="平凡_子持山"/>。このほか女性器にみたてて「子持山」と称するとする説もある<ref name="平凡_子持山"/>。

===信仰の対象として===
カルデラ中央部が開析され、[[火山岩頸]]である大黒岩(獅子岩)が岩塔として山の中央にそそり立つ山容は、中世から[[修験道]]による信仰を受けてきた<ref name="平凡_子持山"/>。山中には「護摩壇」「昏夜の久保」「十二」「浅間」「仏岩」「梵字岩」などの固有地名や石祠が散在し、修験道の山岳信仰の名残りとみられている<ref name="平凡_子持山"/><ref name="地図_子持山"/>。

南山麓の扇状地の付け根にあたる唐沢沿いには'''[[子持神社]]'''が鎮座する。社伝では[[崇神天皇]]ないし[[嵯峨天皇]]の時代の創建とし、『[[神道集]]』は[[安濃津]]の子持御前による創建を伝う<ref name="平凡_子持山"/>。かつての祭神は児持明神といい、いまの主神は[[磐筒之女命]]{{refnest|group="注"|イワツツノメ。[[イワツツノオ]]と対をなす女神。}}と[[木花之佐久夜毘売]]といずれも女神である<ref name="平凡_子持神社"/>。女神を祀るのは、山容を女体ないし女性器にみたてたものとする説もある<ref name="平凡_子持神社"/>。社殿近くには女神と子どもの足跡と伝わる「仏足跡(女神の足跡)」がある<ref name="平凡_子持神社"/><ref name="渋川市-GUIDE"/>。

国家鎮護と受胎・安産の神として崇敬を集め、戦国時代には[[上杉憲顕]]、[[武田信玄]]、[[北条高広]]、[[真田昌幸]]らが参詣したり、寄進や保護を与えたとの史料が残る<ref name="平凡_子持神社"/>。子持山の裾野では[[上杉謙信]]と[[武田信玄]]との合戦もあったとされ、武田勢は上杉勢の水源になっていた小川に毒を流し、勝利を得たと伝わる{{refnest|group="注"|[[白井城]]参照。}}。その場所にはのちに不動尊が建立され、その法力によって毒が消されたといい「毒水よけの不動尊」と称する<ref name="渋川市-GUIDE"/>。江戸時代には山麓や近傍の村に社領を有したが、周囲は[[沼田藩]]や幕府領・旗本領などが混在し、[[入会地]]としての利用をめぐって各村や神社とのあいだで紛争が耐えなかった<ref name="平凡_子持山"/>。

明治の[[神仏分離]]と[[廃仏毀釈]]によって修験道の性格を失い、子持神社となった。社格制度では[[郷社]]に列せられている<ref name="平凡_子持神社"/>。かつて山伏が利用した山道が登山道となっている。例祭日は毎年5月1日と定められており、この日が子持山の[[山開き]]となっている<ref name="角川_子持山"/><ref name="平凡_子持山"/>。

*詳細は[[子持神社]]参照。

===登山===
[[ファイル:子持山地図.png|thumb|right|子持山地図]]
修験道時代に古くから山伏が利用した登山路が数多くある<ref name="地図_子持山"/>。主なものとして、南麓の子持神社からのルート、西麓の旧[[三国街道]]中山峠からのルート、北西麓の高山村・本宿からのルート、東麓の[[沼田市]]から小峠を越えてくるルートがある<ref name="平凡_子持山"/><ref name="地図_子持山"/>。

このうち子持神社経由の南ルートがよく整備されており<ref name="角川_子持山"/>、[[雙林寺 (渋川市)|雙林寺]]、子持神社と奥ノ院を抜け、「屏風岩」、「大黒岩(獅子岩)」、「柳木ヶ峰」といった岩場を経由して山頂をめざす<ref name="角川_子持山"/>。道中は急斜面や切り立った岩壁をクサリやハシゴで登ったり、[[トラバース]]を要する。地元の渋川市ではこのコースの難易度を「中上級者向け<ref name="渋川市-ガイド2017"/>」、[[山と渓谷社]]『分県登山ガイド』(2016年)では危険度を5段階中の3(中上級者向き、転落・滑落・落石の危険あり)、[[昭文社]]『山と高原地図』(2017年)では「足場が悪く山慣れた人向き」と位置づけている<ref name="山渓9-子持山"/>。そのぶん、「目もくらむほどの断崖絶壁に囲まれ<ref name="地図_子持山"/>」た大黒岩(獅子岩)の頂上からの展望は広く、[[関東平野]]の利根川流域を一望するほか、[[榛名山]]や[[赤城山]]、[[武尊山]]、さらには[[尾瀬]]・[[日光]]や[[越後山脈]]方面までを望む<ref name="山渓9-子持山"/>。

この南ルートには、岩場を避け、尾根伝いに「炭釜」、「浅間」、「牛十二」、「大ダルミ」を経由して「柳木ヶ峰」に至る比較的なだらかな迂回ルートもある<ref name="山渓9-子持山"/><ref name="地図_子持山"/><ref name="山歩_子持山"/>(ただしこの迂回ルートでも狭い尾根を通る場所があり、滑落事故が起きている<ref name="渋川市-ガイド2017"/>。)。

*標高差 644メートル(累積標高差 807メートル)<ref name="山渓9-子持山"/>


なお、南ルートの登山口へ至る林道では、2016年(平成28年)6月に落石や道路崩壊があり、2017年(平成29年)5月現在で車両の通行はできなくなっている<ref name="渋川市-ガイド2017"/><ref name="山渓9-子持山"/>。南ルートでは子持神社から「ソゲ岩」、「仏岩」を経由して「炭釜」へ出るルートが利用可能となっている<ref name="渋川市-ガイド2017"/>。

===開発===
[[ファイル:Komochi Gunma Canal monument.jpg|thumb|right|子持公民館にある群馬用水の記念碑]]
子持山の山麓には[[縄文時代]]から[[古墳時代]]までの遺跡があちこちにあり、住居跡、墳墓、農耕跡などによりヒトの定住があったことが知られる。とりわけ、南麓の扇状地にある[[黒井峯遺跡]]は畑作の大規模な遺構で、東日本を代表するものとして知られている。また、同じ地域にある押出遺跡からは稲籾の跡が残る北九州風の[[遠賀川式土器|遠賀川式]][[弥生式土器|弥生土器]]が出土しており、稲作が伝来していたことの証拠とみられている<ref name="上州諸街道-23"/>。しかしこれらのほとんどは、6世紀から7世紀にかけて起きた[[榛名山]]二ッ岳の大噴火にともなう土石流や膨大な量の軽石によって埋没し、瞬時に滅びたものと推定されている<ref name="平凡_北群馬郡"/><ref name="平凡_黒井峯遺跡"/><ref name="平凡_有瀬一号墳"/>。

中世になると、子持山南麓扇状地の一体は「白井」[[保]]として史料に登場するようになる。山裾の扇状地は農業用水に乏しく、江戸時代にはもっぱら養蚕が行われた。山林は子持神社の社領がおかれていたが、周辺の村とは入会地としての利用や水利をめぐって騒動が絶えなかった。近代になっても養蚕中心の畑作地帯のままだった<ref name="角川_子持山"/><ref name="平凡_北群馬郡"/><ref name="平凡_子持山"/>。

1969年(昭和44年)に[[群馬用水]]が通じ、農業の多角化の取り組みが始まった。これにあわせて扇状地の[[土地区画整理事業|区画整理]]が実施され、稲作への転換が大規模に推進された。これにより[[クワ]]栽培は途絶え、養蚕農家はほとんどみられなくなった。ところがまもなく国の減反政策があり、稲作もあまり行われなくなった。一帯では利益率の高い[[コンニャク]]栽培が広がり、子持山南麓の主要な農産物となった<ref name="角川_子持山"/><ref name="平凡_北群馬郡"/><ref name="平凡_子持山"/>。

===交通===
[[ファイル:Map of Nakayama tunnel and surrounding area.svg|thumb|right|子持山周辺の交通網]]
[[ファイル:Michinoeki komochi.jpg|thumb|right|[[道の駅こもち]]]]
関東地方と北陸地方をむすぶ交易路は、子持山東麓の利根川の峡谷(綾戸渓谷)を避け、子持山と[[小野子山]]のあいだの谷を経由して南北に通じていた。これが江戸時代に整備され[[三国街道]]となった<ref name="平凡_三国街道"/>。中世から江戸時代初期にかけては、子持山の南山麓に造営された[[白井城]]がこの交通路の要衝となっていて、[[白井藩]]の城下町として商業や流通を担って栄えた。しかし[[元和 (日本)|元和]]9年(1623年)に廃藩となり、城が破却されると、[[渋川市|渋川]]にその地位を譲るようになっていった<ref name="平凡_白井城"/><ref name="平凡_白井村"/>。

西麓には三国街道が通じる。高崎方面から来ると、南の扇状地の西端にある[[横堀宿]](旧子持村横堀字宿)を経て、小野子山との鞍部の中山峠(標高709メートル)を越え、中山盆地へと入る。ここには中山宿(高山村)が置かれていた<ref name="峠_74"/><ref name="平凡_中山宿"/>。明治時代までは、三国街道は東日本の流通の大動脈として利用され、とくに新潟方面からの年貢米や酒などの輸送を担って栄えた<ref name="新百科_中山峠"/>。しかし明治末期に碓氷峠を越える[[国鉄]][[信越本線]]、昭和初期に綾戸渓谷を通る[[上越線]]が開通すると、関東と北陸方面の物流は信越本線が担うことになり、三国街道は衰退した<ref name="平凡_三国街道"/>。[[国道17号]]や[[関越自動車道]]も渋川から[[沼田市|沼田]]まで子持山の東麓を通るルートとなりった<ref name="平凡_三国街道"/>。かつての三国街道は、いまは[[群馬県道36号渋川下新田線|群馬県道36号]]となっている。このほか北麓を権現峠経由で[[国道145号]]が東西に横断し、沼田市中心部と[[吾妻郡]]中心部の短絡路として利用されている。

1970年代から1980年代にかけて[[上越新幹線]]が建設された際には、[[高崎市]]から[[新潟県|新潟]]方面への短絡のため、かつての三国街道のルートに相当する子持山と小野子山の直下をトンネルで通過するルートが選択された。この[[中山トンネル (上越新幹線)|中山トンネル]]建設工事は、当初の見立てを裏切って歴史的な難工事となった<ref name="新百科_上越新幹線"/>。

==周辺の施設==
*[[子持神社]]・若子持神社
*[[雙林寺 (渋川市)|雙林寺]]
*[[大理石村ロックハート城]]
*[[群馬県立ぐんま天文台]]
*[[道の駅こもち]]
*([[群馬パース大学]]) - 西麓に高山キャンパスを置いていたが閉鎖になった。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[火道]]
* [[火道]]


==脚注==
===注釈===
<references group="注"/>
===出典===
{{Reflist|colwidth=30em |refs=
*<ref name="飯島論文">飯島義之([[岡山大学地球物質科学研究センター|岡山大学固体地球研究センター]]),1996,「{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/ganko/91/3/91_3_73/_pdf/-char/ja 子持火山の地質と活動年代]}}」([[日本岩石鉱物鉱床学会|岩石鉱物鉱床学会誌]]「岩鉱」 (91(3), 73-85, 1996)掲載,2017年11月26日閲覧。</ref>

*<ref name="旧百科_子持山">『群馬県百科事典』(1979年)、p389「子持山」</ref>
*<ref name="新百科_子持山">『群馬県新百科事典』(2008年)、p330「子持山」</ref>
*<ref name="角川_子持山">『角川日本地名大辞典10 群馬県』p421「子持山」</ref>
*<ref name="平凡_子持山">『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p439「子持山」</ref>
*<ref name="地図_子持山">『山と高原地図 2017年版 20 赤城・皇海・筑波・榛名山』p24-25「子持山」</ref>
*<ref name="大地_子持山">『ぐんまの大地 生いたちをたずねて』p44-45「子持山」</ref>
*<ref name="山歩_子持山">『群馬の山歩き130選』p124-125</ref>

*<ref name="山渓9-子持山">『分県登山ガイド09群馬県の山』p88-89「子持山」</ref>

*<ref name="県庁-観察">群馬県庁,群馬県生涯学習センター,[http://www.manabi.pref.gunma.jp/bunrui/gakupro/08000399/ 子持山で火山地形を観察しよう] 2018年1月19日閲覧。</ref>

*<ref name="一等三角点">[[国土地理院]] 基準点成果等閲覧サービス 基準点コード:TR15438771901 一等三角点「子持山」 2017年6月15日閲覧。</ref>

*<ref name="GSJ">独立行政法人 [[産業技術総合研究所]] [[地質調査総合センター]]
[https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/E16.html 第四紀火山 子持山] 2017年6月15日閲覧。</ref>

*<ref name="国交省-17号バイパス">[[国土交通省]][[関東地方整備局]],平成23年3月11日,{{PDFlink|[http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000037870.pdf 国道17号綾戸バイパス]}} 2018年5月13日閲覧。 </ref>

<!--和歌-->

*<ref name="コトバンク-夫木和歌抄">[[小学館]],『[[日本大百科全書|日本大百科全書(ニッポニカ)]]』,[https://kotobank.jp/word/夫木和歌抄-125748 コトバンク版] 2018年5月13日閲覧。</ref>

<!--人文-->
*<ref name="平凡_北群馬郡">『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p438-439「北群馬郡」</ref>
*<ref name="平凡_有瀬一号墳">『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p441「有瀬一号墳」</ref>
*<ref name="平凡_黒井峯遺跡">『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p446「黒井峯遺跡」</ref>
*<ref name="平凡_三国街道">『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p33-34「三国街道」</ref>
*<ref name="平凡_白井城">『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p444「白井城」</ref>
*<ref name="平凡_白井村">『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p443「白井村」</ref>
*<ref name="平凡_中山宿">『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p158「中山宿」</ref>
*<ref name="平凡_子持神社">『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p441-442「子持神社」</ref>

*<ref name="新百科_中山峠">『群馬県新百科事典』(2008年)、p579「中山峠」</ref>
*<ref name="新百科_上越新幹線">『群馬県新百科事典』(2008年)、p392「上越新幹線」</ref>
*<ref name="旧百科_円珠尼">『群馬県百科事典』(1979年)、p115「_円珠尼」</ref>

*<ref name="峠_74">『群馬の峠』p74-75</ref>

*<ref name="上州諸街道-23">『両毛と上州諸街道』p23-25</ref>

*<ref name="山1000-224">山渓カラー名鑑『日本の山1000』p224「子持山」</ref>


<!--登山-->
*<ref name="渋川市-ガイド2017">[[渋川市]],商工観光部観光課観光施設係,2017年5月31日更新,[http://www.city.shibukawa.lg.jp/kankou/outdoor/tozan/p000235.html 子持山登山道コースガイド] 2018年5月13日閲覧。</ref>

*<ref name="渋川市-登山図">[[渋川市]],商工観光部観光課観光施設係,{{PDFlink|[http://www.city.shibukawa.lg.jp/kankou/outdoor/tozan/p000235_d/fil/1_1.pdf 1等三角点の山 子持山]}} 2018年5月13日閲覧。</ref>

*<ref name="渋川市-GUIDE">[[渋川市]],子持総合支所,{{PDFlink|[http://www.city.shibukawa.lg.jp/kankou/outdoor/tozan/p000235_d/fil/2_1.pdf 子持山登山道GUIDE]}} 2018年5月13日閲覧。</ref>

*<ref name="県庁-百名山">[[群馬県庁]]環境森林部自然環境課,ぐんま百名山,[http://www.pref.gunma.jp/01/e2310048.html 44 子持山],2018年5月18日閲覧。</ref>
}}

===参考文献===
*『[[都道府県別百科事典|群馬県百科事典]]』,[[上毛新聞|上毛新聞社]],1979年
*『[[都道府県別百科事典|群馬新百科事典]]』,[[上毛新聞|上毛新聞社]],2008年,ISBN 97848800589886
*『[[角川日本地名大辞典]]10 群馬県』,角川日本地名大辞典編纂委員会・[[竹内理三]]・編,[[角川書店]],1988,ISBN 4040011007
*『[[日本歴史地名大系|日本歴史地名大系10 群馬県の地名]]』,[[平凡社]],1987
*『ぐんまの大地 生いたちをたずねて』,「ぐんまの大地」編集委員会,[[上毛新聞社]],2009,2010(初版第2刷),ISBN 9784863520158
*『群馬の山歩き130選』,安中山の会・編著,[[上毛新聞社]],1990,2014(初版第21刷),ISBN 9784863520745
*『[[山と高原地図]] 2017年版 20 赤城・皇海・筑波・榛名山』,2017年9版1刷,[[昭文社]],高橋修/調査執筆,ISBN 978-4-398-76340-2
*『分県登山ガイド09群馬県の山』,太田ハイキングクラブ/著,[[山と渓谷社]],2016,ISBN 9784635020398
*みやま文庫179『群馬の峠』,須田茂/著,みやま文庫,2005
*街道の日本史16『両毛と上州諸街道』,峰岸純夫・田中康雄・能登健/編,[[吉川弘文館]],2002,ISBN 4-642-06216-5
*山渓カラー名鑑『日本の山1000』,[[山と渓谷社]]/編,山と渓谷社,1992(初版),1999(改訂第2版第2刷),ISBN 4-635-09025-6
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline|Mount Komochi}}
* {{commonscat-inline|Mount Komochi}}
* [https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/E16.html 第四紀火山: 子持山] - 産業技術総合研究所 地質調査総合センター
* [https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/E16.html 第四紀火山 子持山] - 独立行政法人 産業技術総合研究所 地質調査総合センター
* [http://www.city.shibukawa.lg.jp/kankou/outdoor/tozan/p000235.html 子持山登山道コースガイド] - 渋川市
* [http://www.city.shibukawa.lg.jp/kankou/outdoor/komochisantozan.html 子持山登山道コースガイド] - 渋川市

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2018年5月20日 (日) 15:27時点における版

子持山
子持山のシンボル獅子岩
標高 1,296.2[1] m
所在地 日本の旗 日本 群馬県渋川市沼田市吾妻郡高山村
位置 北緯36度35分31秒 東経138度59分52秒 / 北緯36.59194度 東経138.99778度 / 36.59194; 138.99778座標: 北緯36度35分31秒 東経138度59分52秒 / 北緯36.59194度 東経138.99778度 / 36.59194; 138.99778
種類 成層火山
プロジェクト 山
テンプレートを表示

子持山(こもちやま)は、群馬県の中部にある火山。標高1296メートル。「ぐんま百名山」の一つに選ばれている[2]

典型的な成層火山で、浸食が著しく進行した結果、火山の内部構造である火山岩頸や放射状岩脈が地表に露出しており、地質学の観察に適した山として知られる[3][4]。火道のマグマが柱状に岩化して垂直に屹立する「獅子岩(大黒岩)」など特徴的な山容をしており、関越自動車道からも遠望できる[1][4]

地理

群馬県における子持山の位置
子持山周辺の主な地形

群馬県における子持山の位置

子持山は群馬県のほぼ中央部に位置する[5]。東の山麓には利根川が南へ流れ、南の山麓には吾妻川が東へ流れる[6]。西には小野子山があり、子持山とのあいだの谷あいには旧三国街道が通じている。北西部には名久田川の上流部があり、その流域は中山盆地とよばれる低地になっている。北の尾根は北西から西へと向きを変えて破風山へと連なる。

山域は沼田市渋川市高山村吾妻郡)にまたがる。このうち渋川市は2006年に旧小野上村・旧子持村と合併をしており、従前は沼田市、子持村、小野上村、高山村の1市3村にまたがる山だった。山頂は沼田市と渋川市(旧小野上村)にまたがる[6]

子持山の地勢

子持山はきわめて典型的な成層火山である[7][8]。ただし北関東の火山としては規模はかなり小さく[7][8]、山体の基底部は南北およそ9キロメートル、東西はおよそ7.5キロメートルである[7][9]。山体の体積は6立方キロメートルと見積もられている[10]

山頂は「笠上(かさがみ)」と呼ばれており[9][6]、一等三角点「子持山」が設置されている[11]。標高は1296.2メートル[1][注 1]

この山頂部は、子持山の本来のカルデラの外縁部にあとから生まれた溶岩円頂丘である[3][9]。ただし著しい浸食により原形をとどめない[3]。カルデラは標高1000m程度の峰となって、南北におよそ3キロメートル、東西におよそ2キロメートルの楕円形をしているが、長年の浸食作用による開析が進行しており、現在の姿は「カルデラの残骸[3]」というべきものである[3][9][6][12]

子持山の火山活動の最晩期には、山頂部が噴火によって粉砕された。その多くは土石流となって南北方向へ流れ下り、北の沼田市の川田町地区では標高800メートルから600メートルにかけて、南の渋川市子持地区付近では標高500メートルから300メートルにかけて、扇状地をつくっている[4][3][10]。これらの扇状地地形には、その後に浅間山榛名山の火山活動に由来する火山噴出物が厚さ10メートルの層を形成して堆積している[4]

地表に現れた岩脈

この著しい浸食の結果、カルデラの内側では、成層火山の内部構造が露出している[3]凝灰岩凝灰角礫岩などは浸食を受けやすいため既に消失し[4]、火山の内部にあったマグマが固まってできた安山岩質の岩脈が地表にあらわれている[3][9]

子持山では噴火のときに火口がほとんど移動しなかったため、地底から火口へと火道を垂直に昇ってきたマグマが、そのままの形で硬化して岩となった[4]。これを火山岩頸という。子持山の火山岩頸は底部の直径150メートル、高さ100メートルの大岩塔となっており[3][7]、「大黒岩」または「獅子岩」と呼ばれている[3][9][6][7][8]

さらにこの大黒岩(獅子岩)を中心として、地下でマグマが岩盤の裂け目を伝って放射状に広がったものがそのまま固まり、岩(放射状岩脈)となって地表に露出している。子持山ではこの放射状岩脈が150本ほど確認されており[3]、そのうちとくに60本ほどは容易に観察できる[7]。これら放射状岩脈のうち顕著なものには、「屏風岩」、「拳岩」などの名前がつけられている[6]

子持山は成層火山としてはそう大きなものではないが、標識的な火山地形や火山内部の構造が観察できるものとしては日本国内でも有数のものであり、地質学の学習の場として重要視されている[1][7][4]

噴火史

子持山の最古の噴火による岩の露頭がある綾戸渓谷
獅子岩頂上から山頂への尾根を見る

子持山は、古い火山活動による古子持火山が、その後の火山活動によって埋没したうえ、長い年月をかけて浸食・開析されたものと考えられている。古子持火山の活動時期については研究者による学説がいくつかあり、おおむね90万年前から50万年前ほどのものと推定されている。また、1960年代の研究では、子持山は複数の側火山をもつ複式火山とみなされていた。その後、岩石の年代測定技術の進歩により、1990年代になると側火山とみられていたものは大きく時代が離れていることがわかり、子持山とは別の火山活動によるものと推定されるようになった。

噴火前の基盤

今から1000万年以上前、一帯は新第三紀中新世に海底で堆積した砂岩凝灰岩からなる岩盤層だった[4]中新世末期から鮮新世初期にかけて(おおよそ600万年前)、一帯では火山活動があったと推定され、溶岩が地表に出て岩盤やいくつかの溶岩ドームをつくった[10]。この火山活動はのちの子持山火山とは活動時期が大きく異なっており、子持山とは別個のものとみなされている[10][注 2]。このとき流出した安山岩質の溶岩(安山岩)、凝灰岩凝灰角礫岩が岩盤となり、子持山の基盤となった[10][5]

火山活動の初期

子持山の火山活動が始まったのは第四紀更新世に入ってからで、最初期の活動は今から160万年ほど前(カラブリアン)と推定される[10][注 3]。このときには、基盤となる岩盤を突き破って噴火活動があり、輝石安山岩を主成分とする溶岩が噴出した。この火山の姿は後の火山活動と浸食作用によってほとんど原型をとどめないが、子持山の東麓の利根川沿いの綾戸渓谷綾戸バイパス参照)付近では、当時の火山活動で生じた火成岩を見ることができる[3][10][注 4]

火山活動前期

初期の活動からおおよそ30万年間の休止期を経て[10]、90万年前頃から子持山火山の活動が活発化した[10][13]。この噴火では、大黒岩(獅子岩)を中央火口として30万年ほど火山活動が続いた。現在みられる火山岩頸や放射状岩脈はこの時期に形成されたものである。このときの噴出物は輝石を含む玄武岩質の安山岩の溶岩流が主体で、これに凝灰角礫岩が含まれるのが特徴的である。代表的な露頭地では厚さ20メートルの溶岩、凝灰角礫岩層、厚さ20メートルの溶岩が層を成しているのが観察できる[10]

火山活動後期

60万年前頃から20万年前頃にかけて子持山は噴火を繰り返した[10][13]。子持山は火山灰、火山礫、溶岩を交互に噴出し、裾野の広い、富士山型の典型的な成層火山へと成長した[10][5][4][9]。この時期の火山噴出物からは凝灰岩、凝灰角礫岩や安山岩が生まれたが、カンラン石を含むのが特徴的である[10]

この火山活動の末期には、山頂付近にカルデラが出現し、火口湖ができた[4][5]。さらにこのカルデラ周辺に複数の溶岩ドームが形成された。これらの溶岩ドームはまもなく爆発によって粉砕され、山体上部が崩壊、カルデラ湖の湖水も流失した。このときの岩屑は南北に流れて扇状地を形成した[10][4][5]。現在の山頂(「笠上」)や、山頂の南にある頂部(「柳木ヶ峰」)はこうした溶岩ドームの残骸である[10][5][9]

火山活動の収束後

子持山の火山活動は20万年前頃に収束した[10][13]。これは、数万年前から1万年前頃までに激しい噴火を繰り返した榛名山赤城山浅間山などの周囲の大火山とくらべ、かなり古い部類にはいる。子持山の南北の山麓にできた山体崩壊にともなう扇状地の上には、榛名山や浅間山の噴火にともなうテフラ(火山噴出物)が10メートルもの厚さで堆積している[4]。また、東方にある赤城山の噴火では、噴出物によって利根川が堰き止められ、川筋が大きく西へ移動した。これにより、子持山の東麓は利根川によって大きく浸食され綾戸渓谷となった[14]

山体やカルデラそのものも、20万年の間に風雨や河川による浸食・開析により大きく姿を変えた。火山活動にともなって噴出された火山灰を主成分とする凝灰岩や凝灰角礫岩は、比較的やわらかいために削られ流されてしまい、火山の内部構造ともいうべき火道の岩脈が「骨組み」のように露出する形となった[3][4]。こうした開析が最も進んでいるのが、南斜面を大きく削って谷をつくっている唐沢周辺で[5]、この扇状地の根元部分に子持神社が鎮座する[6]

自然

山頂
植生

子持山の山域には自然林はほとんど残っていない[7]。主にスギヒノキアカマツの人工林からなり、これにクリコナラミズナラといった低山性の樹木やツツジなどの低木が交じる[7][5][15]。このほか沢沿いの一部にカエデやケヤキの自然樹がみられる[1]

このほか特徴的な植物としては、シモツケヤマオダマキザゼンソウオタカラコウハクサンオミナエシがみられる[5]

動物

子持山では、5月から6月頃に40種類ほどの鳥類が観察される[7][8]。主なものとしてはヤマドリトビキジアカゲラミソサザイキビタキオオルリホトトギスカッコウなど[5]

ほかに哺乳類としてキツネタヌキアナグマノウサギムササビリスなどが確認されている[5]

人文史

古典に登場する子持山

児毛知山こもちやま 若鶏冠木わかかへるでの 黄葉もみつまで 寝もとふ はあどか
詠み人知らず、『万葉集』3494(14巻)東歌
(大意)子持山の春の若いカエデが秋になって紅葉するまでずっとあなたを抱いていたい。あなたはどうか[16][注 5]

一般に、奈良時代の『万葉集』に掲載されたこの東歌(巻14、3494)は、上野国(群馬県)の子持山のことを詠んだものとされてきた[9][6]

ただし、平安時代末期の『五代集歌枕』や『和歌色葉』(1198年頃)といった歌学書では、この和歌の主題がどこの土地のものであるかは言及していない。また、同時期の藤原清輔による『奥義抄』ではこの歌を陸奥国で詠まれたものとして解説している[6]

こもち山 谷懐に おひたてて ききのはぐくむ 花をこそみれ
源俊頼作、『夫木和歌抄』(延慶3年 (1310) 年頃成立)

鎌倉時代後期の『夫木和歌抄[17]』掲載のこの和歌も子持山を詠んだものとされている[6]


子持山 紅葉をわけて 入る月は 錦につつむ 鎖とぞ知る[16]
または
子持山 紅葉をわけて 入る月は 錦をつつむ 鏡なりけり[18]
円珠尼(? - 1582年[18]

円珠尼は室町時代後期の川田城(沼田市)の城主、川田光清の娘で、小柳姫といった。沼田城の城主夫人の侍女となり長野業正の家臣陶田弥兵衛に嫁ぐも、まもなく離別した。18歳のときに詠んだこの歌が正親町天皇(在位:1557年 - 1586年)に見出され、正親町天皇は「上野の 沼田の里に 円なる 珠のありとは 誰か知らまし」と御製を詠んだという。これにより小柳は「円珠」と名を改めた[18][8]。円珠尼はのちに厩橋城城主となった滝川一益の和歌の師となったという [18]。この「円珠尼」の和歌が刻まれた石碑は登山口にある[15]

このほか子持山を詠んだ和歌として次のようなものがあり、山中に歌碑が設けられている。

子持山 谷懐露ふところに生いたてて 木々の葉子くむ 花をこそみれ[16]
姉小路済継(1470年 - 1518年)


子持山 かえでの宮に祈らくは わが恋のさち わが歌のさち[16]
雲わたる 天のまほらに 獅子岩は 大口あきて たけり立ちたり[16]
須藤泰一郎(1889年 - 1933年)


子持山 若葉のときに 我はきて 草をぞ集む 手に餘るまで[16]
土屋文明(1890年 - 1990年)

山名の由来

前橋市・群馬県庁舎から遠望する子持火山(中央奥右)と小野子火山(中央奥左)

中世に成立した『神道集』の赤木文庫版[注 6]には、「児持山之事」として子持山の名称の由来に関する逸話が掲載されている[6]。これによれば、もともとこの山は「武部(たけべ)山」と呼ばれていたのだが、伊勢国安濃津三重県津市)の地頭阿野保明の子女に子持御前という女性がいて、この娘が神通力を得て武部山に移り住んだことから、この山を「児持山」と呼ぶようになったという[6][19]

一般的には、山容を子どもを抱く姿にみたてて「子持山」と呼ぶようになったとされている[3][9][6]。このほか女性器にみたてて「子持山」と称するとする説もある[6]

信仰の対象として

カルデラ中央部が開析され、火山岩頸である大黒岩(獅子岩)が岩塔として山の中央にそそり立つ山容は、中世から修験道による信仰を受けてきた[6]。山中には「護摩壇」「昏夜の久保」「十二」「浅間」「仏岩」「梵字岩」などの固有地名や石祠が散在し、修験道の山岳信仰の名残りとみられている[6][1]

南山麓の扇状地の付け根にあたる唐沢沿いには子持神社が鎮座する。社伝では崇神天皇ないし嵯峨天皇の時代の創建とし、『神道集』は安濃津の子持御前による創建を伝う[6]。かつての祭神は児持明神といい、いまの主神は磐筒之女命[注 7]木花之佐久夜毘売といずれも女神である[19]。女神を祀るのは、山容を女体ないし女性器にみたてたものとする説もある[19]。社殿近くには女神と子どもの足跡と伝わる「仏足跡(女神の足跡)」がある[19][20]

国家鎮護と受胎・安産の神として崇敬を集め、戦国時代には上杉憲顕武田信玄北条高広真田昌幸らが参詣したり、寄進や保護を与えたとの史料が残る[19]。子持山の裾野では上杉謙信武田信玄との合戦もあったとされ、武田勢は上杉勢の水源になっていた小川に毒を流し、勝利を得たと伝わる[注 8]。その場所にはのちに不動尊が建立され、その法力によって毒が消されたといい「毒水よけの不動尊」と称する[20]。江戸時代には山麓や近傍の村に社領を有したが、周囲は沼田藩や幕府領・旗本領などが混在し、入会地としての利用をめぐって各村や神社とのあいだで紛争が耐えなかった[6]

明治の神仏分離廃仏毀釈によって修験道の性格を失い、子持神社となった。社格制度では郷社に列せられている[19]。かつて山伏が利用した山道が登山道となっている。例祭日は毎年5月1日と定められており、この日が子持山の山開きとなっている[9][6]

登山

子持山地図

修験道時代に古くから山伏が利用した登山路が数多くある[1]。主なものとして、南麓の子持神社からのルート、西麓の旧三国街道中山峠からのルート、北西麓の高山村・本宿からのルート、東麓の沼田市から小峠を越えてくるルートがある[6][1]

このうち子持神社経由の南ルートがよく整備されており[9]雙林寺、子持神社と奥ノ院を抜け、「屏風岩」、「大黒岩(獅子岩)」、「柳木ヶ峰」といった岩場を経由して山頂をめざす[9]。道中は急斜面や切り立った岩壁をクサリやハシゴで登ったり、トラバースを要する。地元の渋川市ではこのコースの難易度を「中上級者向け[21]」、山と渓谷社『分県登山ガイド』(2016年)では危険度を5段階中の3(中上級者向き、転落・滑落・落石の危険あり)、昭文社『山と高原地図』(2017年)では「足場が悪く山慣れた人向き」と位置づけている[15]。そのぶん、「目もくらむほどの断崖絶壁に囲まれ[1]」た大黒岩(獅子岩)の頂上からの展望は広く、関東平野の利根川流域を一望するほか、榛名山赤城山武尊山、さらには尾瀬日光越後山脈方面までを望む[15]

この南ルートには、岩場を避け、尾根伝いに「炭釜」、「浅間」、「牛十二」、「大ダルミ」を経由して「柳木ヶ峰」に至る比較的なだらかな迂回ルートもある[15][1][7](ただしこの迂回ルートでも狭い尾根を通る場所があり、滑落事故が起きている[21]。)。

  • 標高差 644メートル(累積標高差 807メートル)[15]


なお、南ルートの登山口へ至る林道では、2016年(平成28年)6月に落石や道路崩壊があり、2017年(平成29年)5月現在で車両の通行はできなくなっている[21][15]。南ルートでは子持神社から「ソゲ岩」、「仏岩」を経由して「炭釜」へ出るルートが利用可能となっている[21]

開発

子持公民館にある群馬用水の記念碑

子持山の山麓には縄文時代から古墳時代までの遺跡があちこちにあり、住居跡、墳墓、農耕跡などによりヒトの定住があったことが知られる。とりわけ、南麓の扇状地にある黒井峯遺跡は畑作の大規模な遺構で、東日本を代表するものとして知られている。また、同じ地域にある押出遺跡からは稲籾の跡が残る北九州風の遠賀川式弥生土器が出土しており、稲作が伝来していたことの証拠とみられている[22]。しかしこれらのほとんどは、6世紀から7世紀にかけて起きた榛名山二ッ岳の大噴火にともなう土石流や膨大な量の軽石によって埋没し、瞬時に滅びたものと推定されている[23][24][25]

中世になると、子持山南麓扇状地の一体は「白井」として史料に登場するようになる。山裾の扇状地は農業用水に乏しく、江戸時代にはもっぱら養蚕が行われた。山林は子持神社の社領がおかれていたが、周辺の村とは入会地としての利用や水利をめぐって騒動が絶えなかった。近代になっても養蚕中心の畑作地帯のままだった[9][23][6]

1969年(昭和44年)に群馬用水が通じ、農業の多角化の取り組みが始まった。これにあわせて扇状地の区画整理が実施され、稲作への転換が大規模に推進された。これによりクワ栽培は途絶え、養蚕農家はほとんどみられなくなった。ところがまもなく国の減反政策があり、稲作もあまり行われなくなった。一帯では利益率の高いコンニャク栽培が広がり、子持山南麓の主要な農産物となった[9][23][6]

交通

子持山周辺の交通網
道の駅こもち

関東地方と北陸地方をむすぶ交易路は、子持山東麓の利根川の峡谷(綾戸渓谷)を避け、子持山と小野子山のあいだの谷を経由して南北に通じていた。これが江戸時代に整備され三国街道となった[26]。中世から江戸時代初期にかけては、子持山の南山麓に造営された白井城がこの交通路の要衝となっていて、白井藩の城下町として商業や流通を担って栄えた。しかし元和9年(1623年)に廃藩となり、城が破却されると、渋川にその地位を譲るようになっていった[27][28]

西麓には三国街道が通じる。高崎方面から来ると、南の扇状地の西端にある横堀宿(旧子持村横堀字宿)を経て、小野子山との鞍部の中山峠(標高709メートル)を越え、中山盆地へと入る。ここには中山宿(高山村)が置かれていた[29][30]。明治時代までは、三国街道は東日本の流通の大動脈として利用され、とくに新潟方面からの年貢米や酒などの輸送を担って栄えた[31]。しかし明治末期に碓氷峠を越える国鉄信越本線、昭和初期に綾戸渓谷を通る上越線が開通すると、関東と北陸方面の物流は信越本線が担うことになり、三国街道は衰退した[26]国道17号関越自動車道も渋川から沼田まで子持山の東麓を通るルートとなりった[26]。かつての三国街道は、いまは群馬県道36号となっている。このほか北麓を権現峠経由で国道145号が東西に横断し、沼田市中心部と吾妻郡中心部の短絡路として利用されている。

1970年代から1980年代にかけて上越新幹線が建設された際には、高崎市から新潟方面への短絡のため、かつての三国街道のルートに相当する子持山と小野子山の直下をトンネルで通過するルートが選択された。この中山トンネル建設工事は、当初の見立てを裏切って歴史的な難工事となった[32]

周辺の施設

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 標高は資料によりばらつきがある。1296.4メートル(1987年[6]・1990年[7])、1296メートル(1988年[9]・2008年[3])など。国土地理院の2014年の標高改算による一等三角点の標高は1296.23メートル[11]。ここではもっとも新しい2017年の値を採用した。
  2. ^ 従来は、これらの溶岩ドームは子持山の側火山であろうと考えられていた。しかし年代測定により子持山の火山活動とは400万年もの時期のずれがあることが確認された。このことから岡山大学固体地球研究センターの飯島義之は、両者が別個のものと結論づけている[10]。これらの溶岩ドームの名残りを、いまの子持山の東麓にあたる利根川沿いの綾戸渓谷にあるJR東日本上越線岩本駅付近(沼田市岩本町)や、西麓の堂山地区(高山村でみることができる。ただしどちらも採石が行われていて、溶岩ドームの形状はまったく残っていない[10]
  3. ^ 1950年代から1980年代にかけての推定では、子持山の火山活動の始期は90万年前から60万年前頃としていた。しかしこれらの推定は溶岩の年代測定に基づくものではなかった。技術の進歩により岩石の年代測定が従前より精度があがり、若い火山の年代測定も可能になったことで、飯島義之(1996年)は子持山火山の最古の活動時期が140万年前(測定誤差はプラスマイナス34万年ほど)に遡ると結論づけた[10]
  4. ^ 飯島はこの火山活動を「綾戸活動期」と命名している[10]
  5. ^ ふつうは、男性が女性に対して子作りをしようと誘っているものと解されるが、この歌にはとくに明確な主語がないので、女性が男性を誘っているものと解釈することもできる。平安時代成立の『古今和歌六帖』では、この歌の下の句を「寝もと吾は思ふ 汝はあどか思ふ」ではなく、「寝むと思ふを 妹はいかにぞ」として採録しており、男性から女性へ呼びかけたものとして解釈されている[6]
  6. ^ 神道集』自体は南北朝時代の成立とされる。赤木文庫は、国文学者の横山重(1896年 - 1980年)が収集していた稀覯本のコレクション。
  7. ^ イワツツノメ。イワツツノオと対をなす女神。
  8. ^ 白井城参照。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 『山と高原地図 2017年版 20 赤城・皇海・筑波・榛名山』p24-25「子持山」
  2. ^ 群馬県庁環境森林部自然環境課,ぐんま百名山,44 子持山,2018年5月18日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『群馬県新百科事典』(2008年)、p330「子持山」
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 『ぐんまの大地 生いたちをたずねて』p44-45「子持山」
  5. ^ a b c d e f g h i j k 群馬県庁,群馬県生涯学習センター,子持山で火山地形を観察しよう 2018年1月19日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p439「子持山」
  7. ^ a b c d e f g h i j k l 『群馬の山歩き130選』p124-125
  8. ^ a b c d e 山渓カラー名鑑『日本の山1000』p224「子持山」
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『角川日本地名大辞典10 群馬県』p421「子持山」
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 飯島義之(岡山大学固体地球研究センター),1996,「子持火山の地質と活動年代 (PDF) 」(岩石鉱物鉱床学会誌「岩鉱」 (91(3), 73-85, 1996)掲載,2017年11月26日閲覧。
  11. ^ a b 国土地理院 基準点成果等閲覧サービス 基準点コード:TR15438771901 一等三角点「子持山」 2017年6月15日閲覧。
  12. ^ 『群馬県百科事典』(1979年)、p389「子持山」
  13. ^ a b c 独立行政法人 産業技術総合研究所 地質調査総合センター 第四紀火山 子持山 2017年6月15日閲覧。
  14. ^ 国土交通省関東地方整備局,平成23年3月11日,国道17号綾戸バイパス (PDF) 2018年5月13日閲覧。
  15. ^ a b c d e f g 『分県登山ガイド09群馬県の山』p88-89「子持山」
  16. ^ a b c d e f 渋川市,商工観光部観光課観光施設係,1等三角点の山 子持山 (PDF) 2018年5月13日閲覧。
  17. ^ 小学館,『日本大百科全書(ニッポニカ)』,コトバンク版 2018年5月13日閲覧。
  18. ^ a b c d 『群馬県百科事典』(1979年)、p115「_円珠尼」
  19. ^ a b c d e f 『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p441-442「子持神社」
  20. ^ a b 渋川市,子持総合支所,子持山登山道GUIDE (PDF) 2018年5月13日閲覧。
  21. ^ a b c d 渋川市,商工観光部観光課観光施設係,2017年5月31日更新,子持山登山道コースガイド 2018年5月13日閲覧。
  22. ^ 『両毛と上州諸街道』p23-25
  23. ^ a b c 『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p438-439「北群馬郡」
  24. ^ 『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p446「黒井峯遺跡」
  25. ^ 『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p441「有瀬一号墳」
  26. ^ a b c 『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p33-34「三国街道」
  27. ^ 『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p444「白井城」
  28. ^ 『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p443「白井村」
  29. ^ 『群馬の峠』p74-75
  30. ^ 『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』p158「中山宿」
  31. ^ 『群馬県新百科事典』(2008年)、p579「中山峠」
  32. ^ 『群馬県新百科事典』(2008年)、p392「上越新幹線」

参考文献

外部リンク