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「ノート:エホバの証人」の版間の差分

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削除された内容 追加された内容
Rigel (会話 | 投稿記録)
追記
O^tsuka (会話 | 投稿記録)
ノート:エホバの証人とホロコースト 2006年7月8日 (土) 19:10 (UTC) 主な編集者:Rigel、および 利用者‐会話:O^tsuka 2006年7月13日 (木) 17:49 (UTC) 主な編集者:Rigelから議
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:日本語話者にとっての中立性の一番良いお手本は、NHK の報道姿勢であると私は思います。ニュースにおいては事実のみを淡々と述べ、ワイドショーのように騒ぎ立てたりはしません。特別番組においては、内容をさらに深く掘り下げ問題点を指摘しつつも、視聴者に何らかの結論を押し付けるような構成ではありません。
:日本語話者にとっての中立性の一番良いお手本は、NHK の報道姿勢であると私は思います。ニュースにおいては事実のみを淡々と述べ、ワイドショーのように騒ぎ立てたりはしません。特別番組においては、内容をさらに深く掘り下げ問題点を指摘しつつも、視聴者に何らかの結論を押し付けるような構成ではありません。
:一方、使命感に突き動かされて「なんでもかんでも」記述するという姿勢は、中立性を度外視したノンフィクション作品の範疇であって、確かにそれはそれで貴重な情報を読者に与えるものとなり得ますが、中立性を重んじる辞書には馴染まない考え方であるようにも感じます。[[利用者:Rigel|Rigel]] 2006年7月4日 (火) 08:44 (UTC)
:一方、使命感に突き動かされて「なんでもかんでも」記述するという姿勢は、中立性を度外視したノンフィクション作品の範疇であって、確かにそれはそれで貴重な情報を読者に与えるものとなり得ますが、中立性を重んじる辞書には馴染まない考え方であるようにも感じます。[[利用者:Rigel|Rigel]] 2006年7月4日 (火) 08:44 (UTC)

==兵役拒否==
::<small>他のページにあった議論でしたが、本記事に関係ある話題のためこちらへ移動させていただきました。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年7月13日 (木) 17:56 (UTC)</small>
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エホバの証人の編集における要約欄ですが、第一次世界大戦当時は兵役拒否の教義は存在しませんでした。この当時、行動指針が明確でなかったために、ある者は「政府の命令に従わなければならないので軍務にも服すべきだが、クリスチャンは殺人を犯すべきではないから、銃を空に向かって撃つべきか?」と考えながら従軍し、別の者は「殺人を犯すべきではないから、兵役そのものを拒否すべきだ」と考え合衆国政府に投獄された、という記録が残っています。ラザフォードは2代目の会長であり、それ以前ということになると初代会長ということになりますが、[[チャールズ・テイズ・ラッセル|初代会長]]は1916年に死亡、[[第一次世界大戦]]の終結が1918年ですので、明らかに間違っています。それを「はずです」という極めて曖昧な理由で強引に文章を変更していることになるのです。

そうすると、いったい誰がどの項目への統合に賛成しているというのでしょう?。[[利用者:Rigel|Rigel]] 2006年6月18日 (日) 01:50 (UTC)

:兵役拒否についてですが、第二次世界大戦中に発表された見解とは「代替公務」に服することは神との関係が絶たれるというものであり[http://www.jwic.com/history5.htm#3]、またその教義も1996年には撤回され、代替公務は自由であるという元のラッセル時代の解釈に戻っています。すなわちその時代には代替公務を受け入れるか否かという見解が変わったのであって、兵役拒否自体の見解が変わったのではないのです。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年6月19日 (月) 17:26 (UTC)

::あなたは要約欄に「兵役拒否は」と記述し、私は兵役拒否がラザフォード以前に存在しなかったことを具体的に説明しました。それがなぜ「代替公務」に変化するのでしょう?。また、あなたの弁明にあるように、「代替公務」に関する言及がラッセルの時代に実際になされていたと仮定するならば、そもそも上記のような混乱が起こる事はまず考えられないのです。それに、まず兵役拒否という問題があって、その後に代替公務(公共奉仕、社会奉仕と定義されるような活動)が問題解決のために用意されたと考えるべきであり、代替公務なるものがラッセルの時代に存在した、という前提を要するあなたの説明は整合性を欠いています。従って、あなたが示した引用元の解説が誤っていることは明らかなのであり、すると、あなたは自身の調査を元に編集したのではなく、他人の推論、それも正しいか誤っているかをあなた自身が判断できない事柄を、事実であると信じ込んで編集したことになりはしませんか?。<br />これに対する反論はないものと思っていますので、わざわざ議論の場所を移動するようなことはしませんでした。もし、さらなる反論があるのであれば、議論の移動をお願い致します。それと、私は Wikipedia におけるあなたのこれまでの地道な活動を評価しています(エホバの証人関連の編集を除いては)。どうか、暴走してあなた自身の名誉を傷つけることがないよう、自重した言動を望んでいます。[[利用者:Rigel|Rigel]] 2006年6月20日 (火) 09:28 (UTC)

:::私の12月のコメントはJWICの記述を基にしたものでしたので、JWICの記述が間違っているのであれば当然私のコメントも間違っていると言うことになると思います。[[Wikipedia:独自の調査|自身の調査]]を基に編集すると言うのはWikipediaでは禁止されている行為ですが、もちろん間違っていることが明らかなのであれば、正しい記述にすることに反対するつもりはありません。具体的にこれ以上ここで議論できることはないので、編集姿勢の確認をば。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年7月8日 (土) 06:19 (UTC)

::::これに対する回答は、[[利用者‐会話:O^tsuka|O^tsuka さんの会話ページ]]にて行いました。[[利用者:Rigel|Rigel]] 2006年7月8日 (土) 19:10 (UTC)
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:<small>ここまでの議論は、[[ノート:エホバの証人とホロコースト]]で行われたものです。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年7月13日 (木) 17:56 (UTC)</small>
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===まだ議論を継続したいのですか? ===

O^tsuka さんの発言によって、[[Wikipedia:独自の調査]]というページの存在に初めて気がつきました。しかも、「''ウィキペディアの三大コンテンツ方針の1つ''」などと書かれているので2度ビックリ。何で今まで気がつかなかったのだろう?と思い履歴を見ると、なるほど、まだ新しい文書なのですね(しかも、[[Wikipedia:プロジェクト関連文書]]からはまだリンクされていません)。

あちらのノートでこれ以上突っ込んだ内容に踏み込むのは間違っているものと思われますし、かといって議論の場を別のノートへ移動してまで深く掘り下げるべき事柄とも思えませんので、失礼とは思いましたが、こちらで説明させて頂きます。

JWICの文中にある「''非戦闘代替勤務''」という見慣れない語は、「非戦闘要員([[工兵]]、[[衛生兵]])への配置転換」を意味しているようです。一方、参照されている『ものみの塔』96年5月1日号20ページ「カエサルのものはカエサルに返す - 一般市民的奉仕」にて挙げられているのは、''井戸掘り、道路建設、道路・学校・病院などの清掃''、といった活動であり、戦争とは全く関係ありません。O^tsuka さんの語る代替公務の「代替」という概念をその雑誌の内容に当てはめると、「戦闘の代替」ではなく「投獄の代替」ということになります。つまり、「近年になって兵役拒否者への一律的な投獄に代わる、社会奉仕への参加という代替手段が用意されるようになった国家においては、エホバの証人は投獄と社会奉仕のどちらかを自らの意思で選択しなければならない」、という意味のことを同雑誌は伝えているわけです。もちろん、未だこうした代替処置が用意されるに至らない国家も存在します。

しかし実際のところ、JWICが情報源を示しているわけですから、JWICの主張の正誤については、同雑誌を調べるだけで判断できるはずです。私の「自身の調査」とうい発言は、O^tsuka さんがそうした調査さえ怠っているのではないか?との疑問を投げかけたものです。

JWICに関してさらに言及するなら、JWICに代表されるような、ウェブ上での情報発信を個人運営で行っているページというのは、[[Wikipedia:独自の調査#何が信頼のおける出版物とされるのか?]]で定義されるところの「''信頼のおけるソース''」に該当しないようにも思うのですが、私のこうした解釈は O^tsuka さんの理解と同一でしょうか?。[[利用者:Rigel|Rigel]] 2006年7月8日 (土) 19:07 (UTC)

:節タイトルの意味もイマイチ分かりませんが、それ以上に仰っている意味がよく理解できません。代替公務とは軍務に就く代わりに与えられる役務のことであり、兵役拒否を認める国では兵器を持たない兵役活動や社会奉仕への従事が代替役務として義務付けられています。ですのであなたが挙げた機関紙の記述(「非軍事の国家奉仕について自分で決定できる」)は、代替公務に関する組織の方針が変わったとするJWICの解説となんら矛盾していません。
:またこのことは、JWIC以外にもレイモンド・フランズ著の『良心の危機』で取り上げられていますので、検証可能性は十分に満たしていると言えるはずです。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年7月9日 (日) 14:47 (UTC)

:#「代替公務」という言葉はJWICにも同雑誌中にも出現せず、一般的な国語辞典にさえ存在しませんので、この言葉を上記のように定義することは不可能です。
:#エホバの証人は「兵役拒否」で知られていますので、標準的な信者は「''兵器を持たない兵役活動''」についても当然ながら拒否することでしょう。
:#同雑誌で言及されている活動は'''上記の3つのみ'''であり、「''兵器を持たない兵役活動''」には一切触れていません。
:#JWICは「方針が変わった」ではなく「''ラッセル当時の聖書解釈に戻った''」と主張しております([http://www.jwic.com/history5.htm 「非戦闘代替勤務の解禁」の項])。
:#O^tsuka さんご自身も「''元のラッセル時代の解釈に戻っています''」と主張しております([[ノート:エホバの証人とホロコースト]])。
:#『良心の危機』の日本語版の出版社が「せせらぎ出版」[http://www.seseragi-s.com/pub06.html]で、オリジナルの英語版の出版社が「Commentary Press」[http://www.commentarypress.com/booklist-jap.html]のようです。[http://www.seseragi-s.com/outline.html せせらぎ出版の会社概要]を見る限り、日本語版は「信頼のおけるソース」に該当せず、[http://www.commentarypress.com/commentmain.html このページ]を見る限りでは Commentary Press はキリスト教関連の出版社であるようなので、とても中立的な第三者機関であるとは考えられません。従って、『良心の危機』は「信頼のおけるソース」に合致せず、検証可能性も満たしていないように思われます。
::[[利用者:Rigel|Rigel]] 2006年7月10日 (月) 09:33 (UTC)

:::代替公務、代替業務、代替勤務、代替労役、代替役務等は意味としては同じだと思います(代替公務という言葉は良心の危機で用いられていた表現でしたので、その表現を尊重しました)。論っても仕方ないので柔軟に解釈してください。
:::{{User|Rigel}}さんの発言では相変わらず何を論点にされているのかつかめませんが、代替役務として何を与えられるかは、兵役拒否を認めるか否かと同じくそれぞれの国の政府が決めることであり、それをどう受け入れるかと言うのもまた個人の決定でしょうから、ここで議論しても仕方ないと思います。ただ、何らかの軍務に代わる国家奉仕が課せられている場合、96年からはそれを受け入れることができるというふうに指導部の方針が変わったと言うことです。
:::学会誌などが存在しない分野の場合、信頼できる情報源とは何かというのは難しい問題ではありますが、そのような場合はノートでの合意形成によって判断されるべきです。また少なくともその分野で著名な人物の著作は情報源として認められています(英語版でもソースとして挙げられています)し、中立的な第三者機関でないから信頼できず、検証可能性を満たしていないと言う発言であれば、Wikipediaの基本方針をご理解なさっていないということが明らかですのでもう一度よく方針文章をお読みになることをお勧めします。
:::そもそもこの手の少数派分野で、大手マスメディアからの情報を多く期待するのは難しいと言う現実もあります。それでも絶対に良心の危機以外のソースをと仰るのでしたら、三一書房から出版された『エホバの証人 カルト集団の実態』にも同じ事が簡潔にではありますが書かれていますので参照してください。
:::自分の解釈と異なるからといって、示された出典にけちをつけるばかりではなく、ご自分で「信頼できる情報源」から示して反論して頂かない限り、不毛なやり取りになってしまうでしょう。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年7月11日 (火) 14:01 (UTC)

*私が議論を続ける必要性を感じているのは、明確な間違いを O^tsuka さんが頑ななまでに認めないからです。「''間違っているかもしれない''」という発言は間違いを認めたことと同義ではなく、単に結論をぼかしたにすぎません。後になってから別の書籍に言及し、その書籍の信頼性に疑問を投げかけるとさらに別の書籍を持ってくる、こうしたことを行わずに最初から全て列挙してくれればこんなに議論が長引くことはなかったことでしょう。間違った内容は掲載すべきではない、というのは「検証可能性」以前の問題です。
*私が示したのは一次資料ともいえるもの(問題とされる『ものみの塔』誌そのもの)なのですが、これ以上のものを示す必要があるとでも言うのでしょうか?。「指導部の方針が変わった」というのは完全なる虚偽の推論です(正確には「元に戻った」でしょう?。表現を勝手にすり替えないように、これで何度目でしょう?)。もしそれが真実であるならば、「その記事を目にして動揺が広がった」との報告がネット上で、しかも世界規模であってもおかしくはないはずですが、そうしたものを見出すことは出来ないことでしょう。いや、今から急いで作れば見つけることは可能かもしれませんが、私は O^tsuka さんがそうした裏工作をしてまで事実を捏造するような人物とは思っていませんので、やはりきっとそうした情報に出会うことはないでしょう。
*『エホバの証人 カルト集団の実態』に「同じ事が書かれて」というのは、『良心の危機』を二次資料として参照する三次資料である可能性が高いのですが、執筆者は全く違った切り口から出発して同じ結論に至っているのでしょうか?。もしも何の根拠も示さずに同じ結論に至っているのであれば、それは単なる無責任であり、とても「信頼に値する情報」とは言えません。
*レイモンド・フランズ氏は「エホバの証人の反対者」という意味では確かに著名な人物かもしれませんが、「その分野で著名な人物」というのはちょっと意味が違うでしょう?。著名なエホバの証人なのですか?。それとも著名な'''元'''証人なのですか?。英語版でソースとして挙げられている、というのは信頼に値することの証明にはなりません。それほど自信がおありなのであれば、信頼性の是非についての問題を英語版にて提起すると良いでしょう。場所は[[:en:Wikipedia talk:WikiProject Jehovah's Witnesses]]あたりが適切です。
*[[Wikipedia:検証可能性]]によれば、たとえ''著名な専門研究者''であっても、''その人の著作がこれまでに信頼できる第三者によって出版済みであるなら''との条件付きなのですが…。一方、[[Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイト]]文中にある''それらの情報源自身に関する記事においては、情報源として使用することができます。''の適用である、「[[レイモンド・フランズ]]」という記事内での言及については何の問題もありませんので、そのことまでも否定しているわけではありません。そして、エホバの証人の関連項目としてレイモンド・フランズへリンクすると良いでしょう。むしろ中立的な観点からは、そうしたリンクが存在したほうが望ましいものと私は考えます。いや、この場合ものみの塔聖書冊子協会からかな?。両方の記事からリンクするのはくどすぎると私は感じるのですが、それは私の主観であるのかもしれません。

最後に、私が単なるとち狂った狂信者ではないことを、以下の内容によって納得して頂けますならば幸いです。

*[[ホロコースト]]、[[エホバの証人とホロコースト]]の両記事ですが、いつまでも「統合の提案」を貼り付けたままでいるのは良くありません。このテンプレートを貼り付けた当事者として、統合に賛成意見が得られなかった結果をもって、自らの手でテンプレートを撤去する潔さが必要でしょう(ホロコースト側はIPユーザーによって撤去されていました)。これをこのまま放置し続けることは、周囲のあなたに対する信頼を失墜させかねません。
*[[ノート:エホバの証人]]のサブページである、GFDL違反記事群に対する善処、これもあなたが行うべき仕事です。
*エホバの証人関連の記事を減らしたいのであれば、[[ものみの塔]]と[[目ざめよ!]]の両記事を[[ものみの塔聖書冊子協会]]へ統合すると良いでしょう。十分な加筆がなされていない現時点での内容であれば、統合するのが妥当であると私は考えます。
*利用者の会話ページの扱いについては、利用者自身の裁量に任されていますので、この内容を項目ごと全撤去することもあなたの自由です。わざわざ過去ログとして参照可能な形で残さなければならないという義務はありません。ただし、利用者自身の裁量に任されているとはいえ、他者の発言を勝手に改竄するような悪質な行為までは許容されていませんので、その点のみご注意を。ついでに申し上げると、このページへのリンクが[[ノート:エホバの証人とホロコースト]]から張られていますので、そちらの私の発言についても撤去したいとお考えであれば、その撤去を許可する旨、ここに宣言します。

以上、これでご理解いただけましたでしょうか?。[[利用者:Rigel|Rigel]] 2006年7月13日 (木) 11:42 (UTC)

::申し訳ありませんが、相変わらず具体的に何を主張されたいのか理解できません。私は[[ノート:エホバの証人とホロコースト]]で、間違っていることが明らかなら正しい内容に直すことに賛成する旨の発言をしました(当たり前のことですが)。間違いだとお考えならRigelさんご自身で、出典を明記した上で「正しい記述」に直せば(加筆すれば)いいだけのことでしょう。私の12月の編集ではその記述に出典がなかったこと、および以前からその教義が存在していたとする情報を聞いた事があったため削除しましたが、半年も経った後で難癖をつけてこられるような覚えはどこにもありません。「ラザフォード体制になってから兵役拒否の教義が確立された」とする出典を示して本文に加筆されれば何の問題もありませんし、私が反対する理由も反対できる理由もありません。
::なお、私は96年のものみの塔なら持っていますが、ラッセルの時代までさかのぼってまで機関紙を調べることはできないので、もしもRigelさんが仰るものみの塔がラッセル時代のものならば私は検証できていないことは申し上げたいと思います。
::<blockquote>''間違った内容は掲載すべきではない、というのは「検証可能性」以前の問題です。''</blockquote>具体的にどの部分について仰ってるのか分かりませんが、あなたが問題とされる内容について、私は「間違った内容を掲載」したでしょうか。あなたが問題とされているのは、記述の除去なのではないですか。
::<blockquote>''「指導部の方針が変わった」というのは完全なる虚偽の推論です''</blockquote><blockquote>''もしそれが真実であるならば、・・・''</blockquote>この点が、私が検証可能性の方針を正確にはご理解いただいていないのではないかと発言した根拠です。(既に[[Wikipedia‐ノート:検証可能性]]でもKanjyさんから指摘があったと思いますが)Wikipediaでは、それが真実であるか否かと言う点は問われません。それが、''「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」''ということの意味です。複数の本が「方針が変わった」と指摘している以上は、Wikipediaには書くに値するものとなります。当然、教団側の文章として反論があれば、それもまた載せられるべきです。しかし、一編集者が''完全なる虚偽の推論です''と主張したところでオリジナルリサーチに過ぎません。
::<blockquote>''とても「信頼に値する情報」とは言えません''</blockquote>この点についても同じです。なぜ方針文章に、''「この文脈における「検証可能性」とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。」''とあるのかよく考えてみてください。
::<blockquote>''レイモンド・フランズ氏は「エホバの証人の反対者」という意味では確かに著名な人物かもしれませんが、「その分野で著名な人物」というのはちょっと意味が違うでしょう?''</blockquote>フランズ氏はものみの塔の最高幹部にいた人物ですから、エホバの証人という宗教団体を語る上では非常に重要な情報源と言えます。もしも氏の本が信頼できないと仰るのでしたら、まずはあなたがノートで根拠を提示して議論を起こし、合意を得るべきでしょう。

::なお、このような議論は記事のノートで行うべきであり、明らかに個人の会話ページの用途からは逸脱していますので、以降は記事について議論する場である[[ノート:エホバの証人]]にてお願いしたいと思います。ここまでのやり取りは全てに向こうにコピーさせていただこうと思います。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年7月13日 (木) 17:41 (UTC)
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:<small>ここまでの議論は、[[利用者‐会話:O^tsuka]]で行われたものです。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年7月13日 (木) 17:56 (UTC)</small>
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===補足説明===
このセクションについて説明しなければなりません。編集保護のかかる前の12月の編集で、「起源と歴史」セクション内の「ラザフォード体制になってから導入された活動」の部分において、私は''兵役拒否の確立''という文言を取り除き、要約欄に「兵役拒否はラザフォード以前からあった教義のはずです」とコメントしました。というのは[http://www.jwic.com/history5.htm JWIC]にそのような解説があったからなのですが、それから半年以上経った今、Rigel氏が別記事のノートで「ラザフォード以前にはなかった」と主張されました。Wikipedia的にはネット上の情報はWP:RSに該当しませんから、Rigel氏が信頼できる文献から示していただければ私は反論することができない(しする必要がない)のですが、私の議論の進め方のまずさもあり、こうも長い議論をする羽目になってしまいました・・・。

一応、この議論に関しては文献の提示で片付く問題だと思うので、これ以上長引くことはないと思うのですが、本記事に関係する議論がメインでしたので、こちらに移転と言う形を取らせていただきました。皆様に御迷惑をおかけしてしまい申し訳ありませんでした。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年7月13日 (木) 17:56 (UTC)

2006年7月13日 (木) 17:56時点における版

この項目は特定の版の削除が行われています。削除に関する議論はノート:エホバの証人/削除をご覧ください。


科学的根拠

感染症は病原体感染が原因ではないといった主張に対して、科学的根拠がないという記述は問題ないのではないでしょうか。 神さまの存在は科学的根拠がないといったものであれば問題でしょうが、そうではないのですし・・・。O^tsuka 2006年1月10日 (火) 17:25 (UTC)[返信]

香油を塗ると病気が治ると主張する世界宗教も、豚肉は不潔であると主張する世界宗教も、水銀から不死の薬を製造できると主張する民族宗教もありますが、科学的根拠が無いという但し書きを見たことはありません。
また、ラザフォードの時代の科学の水準も考慮する必要があります。例えば、当時は「脚気菌」に効くと称する下痢止め(東洋の島国ではいまだに売られているそうです)が使われていました。203.141.155.228 2006年1月10日 (火) 22:48 (UTC)[返信]
豚肉は不潔であるという主張と、病原体起源説に対する非難は次元の異なる話ではないかと思います。教団は、パスツールの死後何十年も経った後でも、パスツールへの根拠のない誹謗中傷を繰り返してきました。O^tsuka 2006年1月11日 (水) 17:26 (UTC)[返信]
うーん、次元が異なるようには思えません。新しい宗教であるぶん見掛けが異なっているだけではありませんか?パスツール云々についても、地動説や進化論に対する伝統的キリスト教の態度に比べればおとなしいものだと思います。203.141.155.228 2006年1月12日 (木) 07:26 (UTC)[返信]
キリスト教が弾圧していた行為も正しくなかったという点は指摘されるべきですが、ものみの塔の偽医療や疑似科学はその当時からインチキであることが指摘されていました。ものみの塔が医師会等に攻撃的になったのも、医師会のいかさま治療への警告が原因とも言われています。O^tsuka 2006年1月13日 (金) 17:05 (UTC)[返信]
  • 後発の宗教だけが主張に科学的根拠を求められるとすれば、公平性を欠きます。
  • 科学の立場から批判を受けたのに教義を撤回しなかったことを問題にするなら、科学を宗教の上位に置くことになります。これはWikipediaで言うところの中立的な観点ではありません。
  • 病者の塗油に警告を出さない医師会のあり方はどうなのでしょうか。
科学的根拠云々について触れなければ、これらの問題を避けることができ、また必要な知識も十分に伝えることができます。203.141.155.228 2006年1月14日 (土) 18:02 (UTC)[返信]
  • 病者の塗油に警告を出さないのは、多くの場合、毒にも薬にも治療の妨げにもならないし、誰も直るなどといってませんが? 無菌室に居るような状態では、当然医師が許しませんし、無理を通すこともありません。結果的に医療妨害になり医師と対立する教義と無理やり同列としようという姿勢に作為を感じます。LR 2006年1月25日 (水) 03:22 (UTC)[返信]
  • 病者の塗油にははっきり病気治しを願う意味が含まれており(昔のカトリックでは違いましたが)、従ってある立場からは偽医療になります。また、無理を通すかどうかは本人の信仰のあり方で決まることです。医療妨害に関しても、今や宗教と無関係に「積極的な治療の拒否」が市民権を得てしまったので、種痘拒否やら輸血拒否やらもそれなりに尊重するか、逆に患者を無条件に治療する時代に戻せという立場でなければダブルスタンダードです。203.141.155.228 2006年1月28日 (土) 01:47 (UTC)[返信]
宗教の教義に科学的根拠が求められているわけではありませんが、偽医療や疑似科学については指摘されるべきでしょう。この点を指摘しないことは逆に中立的な観点に反することになると思います。この点で「科学的根拠云々」以外でよい指摘方法があればお願いします。O^tsuka 2006年1月15日 (日) 16:40 (UTC)[返信]
半世紀前の主張に対して偽医療だの疑似科学だの書くことは、中傷と受け止められても仕方無いと思います。「逆に中立的な観点に反する」という点はちょっと理解できません。最大限譲歩しても、「医師などからは、このような主張は非科学的であるとの非難を浴びていた」です。203.141.155.228 2006年1月16日 (月) 13:21 (UTC)[返信]
対象が古いとはいえ、偽医療や疑似科学であったという指摘は事実であって、まして中傷に当たるというのは理解できません。ものみの塔が「人命を救ったこともなければ、天然痘を防いだこともない」と述べ禁止していた種痘は、当時から各国の法律で義務付けられていましたし、日本においても1909年には種痘を義務付ける法律が制定され、9割近い接種を達成していたようです。ものみの塔が種痘を批判し禁止したのは、それよりかなり後になってからのことです。また、非科学的な主張であったこと(当時の科学レベルでも十分に)を書かないことは中立的な観点に反すると思います。表現方法には気をつけるべきですが。O^tsuka 2006年1月17日 (火) 17:01 (UTC)[返信]
  • 生きている人物に関する記事で「祖父は詐欺師であった」と書いたら、たとえ事実でも中傷にあたります。
  • 科学そのものを信頼しない人々の主張に対して「非科学的だ」と書くのは、中傷であるだけでなく的外れです。
  • 米国はいまだに創造論が大きな影響力を持つ国であり、科学の地位は現代日本と異なります。
どうやら「中立的な観点」の定義がお互いで一致していないようです。各論の前に、まずはそこを一致させましょう。
「中傷」という言葉は、「ありもしないことをわざと言い立て、名誉を傷つける」という意味のようですが。
何がどのように中立的な観点に反するのでしょうか。中立的な観点に「事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな」とありますが、これに照らし合わせて問題があるとは思えないのですが。エホバの証人は科学そのものを信頼しない集団ではありませんし、何百万人という信者を指揮する立場の教団と、「ある人物の祖父」とを同列に語ることに意味があるとも思えません。創造論に関しては、完全に文化的な問題であって、この問題とは関係ないでしょう。当時米国でも種痘を義務付ける法律はあったわけです(証人たちが種痘を受けたことにするため医師に嘘の証明書を書いてもらった、などの話は有名です)。O^tsuka 2006年1月18日 (水) 17:57 (UTC)[返信]

はじめに、外掘から埋めようとして焦点をぼかしてしまったことをお詫びします。仕切り直しということで、単刀直入に述べます。

「〜に科学的根拠が無い」という言葉は、形式的には根拠が科学以外にある可能性を残していますが、事実上「〜は誤りである」という意味を含みます。特に、具体的な反駁を伴わない形で使われるのは、大抵非難の文脈においてです。中立性を重んずる場所でこのような言葉を使う場合、相応の理由が必要です。

ところが、対象になっているのは宗教団体の主張であり、しかも半世紀以上前のものです。宗教の主張は、最も外から口を挟むべきでないものの一つであり、特に伝統宗教なら健康被害などを出してもなかなか非難されません。また、あくまで過去の主張ですから、科学的根拠が無いなどと述べる切迫した必要性もありません。従って、単に歴史の一ページとして過去の主張を紹介して、特に評価(あるいは評価と受け取られやすいもの)を差し挟まないのが望ましいと考えられるのです。203.141.155.228 2006年1月19日 (木) 10:32 (UTC)[返信]

主張に科学的根拠がなかった、という記述は、Wikipediaの中立的な観点に反するものではないと思います。客観的事実なのですから、これを記述しない理由はありません。宗教団体の主張は疑似科学であってもその記述が出来ないとか、事態が切迫していないと記述できない、といった方針はないはずです。
単に宗教の教義のみであれば、口を挟むなということも理解できますが(但し反社会的な教義で批判が多い等の場合は、その点についての記述は不可欠でしょう)、教団が科学的内容の伴った疑似科学的な言説を繰り返してきて、また種痘拒否等によって多くの死傷者を出した以上は、この点を記述しないと重要な情報を欠くことになると思います。この問題は、より最近の臓器移植拒否や輸血拒否の問題と繋がってくる点でもあります。O^tsuka 2006年1月19日 (木) 16:54 (UTC)[返信]
「科学的根拠が無かった」というのは、「水は100度で沸騰する」とか「種痘拒否などを実践した者に死傷者が出た」と同じ種類の「客観的事実」でしょうか。日本の言語習慣からして、むしろ「教団の主張は誤りである」という意見の表明に近い、というのが私の主張の根幹です。箇条書された主張が通常の意味での科学と異なっていることは誰の目にも明らかであり、わざわざ科学的根拠が無かったなどと述べることで記事に反教団の色を付ける必要はありません。203.141.155.228 2006年1月19日 (木) 23:55 (UTC)[返信]
「科学的根拠がなかった」というのは客観的事実です、間違いなく。また、私は個人的にはエホバの証人に批判的な立場に立っています。でも、私は、宗教的主張に対して科学的裏づけを暗に要求するようなその記述には違和感があり、その一文を無条件に載せることには反対します。「科学的論説らしきものを捏造してまで主張した」など、宗教の領分を踏み越えた主張を繰り返す事について述べているのだと文脈上誤解のない形でなら、好きなだけ批判してやってください。LR 2006年1月20日 (金) 02:19 (UTC)[返信]
「宗教的主張」と「宗教団体の主張」は似て非なるもので、宗教団体であっても疑似科学的な主張をする例はいくらでもあるかと思います。ご指摘の通り、記述では「疑似科学的」な主張であったことを強調する必要がありそうです。O^tsuka 2006年1月21日 (土) 16:15 (UTC)[返信]
まず、「宗教的主張」と「宗教団体の主張」の差はかなり形式的なものです。これらは教学のような活動でようやく区別される性格のもので、しかも宗教自身にとっての重要性を必ずしも反映しません。また、科学への言及が宗教の領分を踏み越えているというのも偏見です。歴史的に見れば、宗教はしばしば「全ての知識」を扱い、固有の理論と技術を作り上げてきました。医学などに深く踏み込むことも(そして死人を出すことも)決して珍しいことではありません。現代であれば、独自の思考法で科学と接触し、一般的な科学と異なる結論を出したりします。いずれにしても、宗教は決して神仏と倫理だけを語るものではなく、公平であるためには「何でもあり」という態度を取らねばならないのです。203.141.155.228 2006年1月21日 (土) 22:57 (UTC)[返信]

では、どのような表現にすると良いでしょうか・・・。私は疑似科学的な主張であったことを強調することで、客観的事実だけを述べ、中立的な観点にも合致した記述が出来ると思うのですが、この点、他の方のご意見も伺ってみたいです・・・。O^tsuka 2006年1月24日 (火) 16:53 (UTC)[返信]

「なんでもあり」なら、それは記述されるべきですね。また、宗教団体内部での重要性など一切関係ありません。もちろん宗教学的な判定は「外部が」するのが「中立」です。極論な例として「本人の承諾の元、悪霊にダメージを与える聖なる棍棒(?)で悪霊憑き(?)を滅多打ちにしたら悪霊も離れた(?)が信者も結果的に死亡した」なんて事件がおきたら、ハテナを全部無視して「棍棒で滅多打ちにして撲殺した」とみなされ悪霊祓い師の無罪はありえませんよ。科学は司法根拠になり、宗教はなりませんのでね。LR 2006年1月25日 (水) 03:22 (UTC)[返信]
まず、「外部が」する判断が「中立」、というのはWikipediaでは二重の意味で間違っています。一つには、外部からの判断は一般的には「客観的な事実」を決める方法として使われていますが、これはWikipediaの事実の定義とは異なります。「深刻な争いが無い」命題がここでいう事実であり、LRさんの例でいえば悪霊祓い師の言い分も尊重しなければなりません。二つ目は、事実だけを書いているからといって中立的とは限らないということです。「どのような特定の観点も全く表明しない(暗に示したり、読者を信じ込ませようとしたりもしない)」というのが中立性です。DHMOの記事を読めばその意味が分かるはずです。このように考えると、わざわざ疑似科学的であるなどと書けば、既成キリスト教やオウム真理教(現在の版)の記事に対し均衡を欠くという判断が出来るはずです。203.141.155.228 2006年1月26日 (木) 15:59 (UTC)[返信]
ここまで議論してなお、どのような点でWikipediaの中立的な観点に反するのかが不明確なままですね。疑似科学的であるという記述は、宗教的なものとの混同を避けるという意味でいい表現だと思ったのですが、全くそのようなことを書くなということであれば、逆に特定の立場に寄与するものになってしまい、中立的な観点に反するという可能性もあります。(宗教的な主張や言い分を)尊重することと事実を書かないことは全く違うことです。
Wikipedia:中立的な観点#偏った意見を削除して良いかには
われわれの多くは、ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。
とあります。O^tsuka 2006年1月26日 (木) 17:14 (UTC)[返信]
宗教的なものとの混同を避けるという意味が分かりません。「宗教的な主張」と「宗教団体の主張」の区別が恣意的であることは既に指摘しました。また、一般的な科学と異なる主張であることは自明なので、疑似科学的であるという記述に情報としての価値は乏しく、単なる事実上の批判になってしまうと思います。医師会などとの対立があった、という記述であれば有意義だと思います(互いに批判し合っているので「医師会などからの批判」より「対立」が望ましい)。203.141.155.228 2006年1月28日 (土) 01:47 (UTC)[返信]
LRさんO^tsukaさん大変ですね。
私セクトの項を出したものですけど。こういう人種と話をしていると頭が痛くなってきませんか?どう考えても難しい理屈に持ち込むまでもなくエホバの証人が種痘を拒否させたから死人がでたというのは客観的事実で意見には見えないのですが。こういう話を書くのは中立的な科学雑誌や科学番組に近いとおもいますよ。それと中傷といっても公的な大きな団体に関する話や社会的に意味がある話ならば事実に基づいた誹謗中傷であっても普通は名誉毀損の対象にすらなりません。だから大丈夫だと思いますが?--210.147.40.241 2006年1月28日 (土) 21:37 (UTC)[返信]
その節はお疲れ様でした。
さて、事実を記述するのがWikipediaですから、宗教団体に限ってそれが出来ないというのはおかしな話です。「自明」であることを書かないというのはWikipediaの方針ではないはずですし、情報としての価値に乏しいから、単なる批判になるから書くべきではないと言う意見のほうが「恣意的」であると感じます。問題を記述する上である程度批判的記述になってしまうのは止むを得ないと思います、そういった事実がある以上は。教団にとって不利な事実や意見の存在を書かないというのはWikipediaの方針ではないはずです。O^tsuka 2006年1月29日 (日) 16:44 (UTC)[返信]
私の主張は、宗教団体に都合の悪い事実を書くなというものではありません。種痘拒否者に死人が出ていることなどは、大いに書くべき事実です。一方、科学的根拠が無いという言葉は事実と意見の中間にあり、用法によってその性格が大きく変わります。具体的な反証を伴っていれば事実の側に近くなり、逆に体内温浴健康法云々の後に書かれていれば事実上の批判になるわけです。あと、名誉毀損の条件より中立性の条件の方がずっと厳しいですよ。203.141.155.228 2006年1月29日 (日) 21:51 (UTC)[返信]
ここまで長々と議論してきましたが、結局は「科学的根拠が無い」と言う言葉が客観的事実なのか、あるいは意見としてみなすのかと言う点がが問題のようですね。私はこれまで述べてきた通り、それは「事実」であって、それを書くことによって教団にとって不利になったり、批判的・否定的な表現になったとしても止むを得ないだろうと言う立場です(当然表現には注意すべきですが)。議論が閉塞気味なので、他の方のご意見も伺ってみたいですね・・・。 O^tsuka 2006年2月1日 (水) 17:06 (UTC)[返信]

中立的な観点とは何か

現在の版は、かなりエホバの証人に批判的な書き方になっています。まず、次のことを押さえてください。

  • Wikipediaで言う中立性とは、客観性を意味しません。
  • Wikipediaのポリシーは、疑似科学、差別主義などにも一定の敬意を持って記事を書くことを要求します。
  • 誰もが事実と認める事柄でも、その組合せできわめて偏向した表現になることがあります(例:DHMO)。
  • 「エホバの証人」のページは、「エホバの証人と既成キリスト教の比較」のページではありません。

このような視点から、例えば次のような記述は問題があると思います。

  • 「〜であるとの反エホバの証人側の意見がある」のように「批判の存在」を至るところに書くのは、事実上反エホバの証人の立場に与することになります。
  • 「既成キリスト教会では〜」という記述も同様の問題があるだけでなく、既成キリスト教会を持ち上げることになります。聖書の言葉を長々と引用する場合は特にそうです。
  • 「〜の問題」という記述は、「〜」を問題であると捉え、さらに「〜」の責をエホバの証人に負わせる書き方です。
  • 子供を鞭で叩くことは、定義から明らかに体罰ですが、虐待かどうかは教育観に依存します。(性的虐待については、教団も当然重罪とみなすでしょうから、虐待と書くことに問題はありません。)
  • エホバの証人#フェアでない勧誘方法と、マインドコントロールの存在の部分は、広く報道されているような内容ではありますが、教団は否定するか、正当な勧誘方法であると主張するでしょう。

そのあたりを直そうというのがこの版なのですが、批判をまとめた部分以外ほとんどrevertされてしまいましたね・・・203.141.155.228 2006年1月16日 (月) 13:21 (UTC)[返信]

意見の存在や出所を示すことがどうしてそれに与することになるのか、理解できません。仮にもしそうであっても、それならば逆にwikipediaに項目が立つこと自体がその団体や事柄や意見を肯定する事になりますから、同量の反対意見の併記なしには中立な記述は不可能、という結論が導かれて、貴方の具体的意見は却って不正なものになります。LR 2006年1月24日 (火) 03:05 (UTC)[返信]

Wikipediaは「宗教なんでも百科」ではなく、特定の思想を宣伝する場でもなければ批判する場でもありません。宗教・思想に関わる記事は否定派と肯定派の応酬になることが多いようですが、どうにかならないものでしょうか。現状は既成キリスト教からの視点が色濃く反映されており、汎神論者(私のこと)の立場から見ても、中立性が許容する範囲を逸脱しているように思えます。ハイゼン 2006年1月24日 (火) 02:09 (UTC)[返信]

では、どこが問題なのか具体的な各論を批判なさってください。印象批判では、記事の改善には全く訳には立ちません。私からはむしろ、いわゆる「正統」な既成キリスト教からの教理的な「異端視」は慎重に抑制され、宗教観に拠らない社会的な振る舞いについて多くを裂いた、宗教的中立には十分配慮された記述であると評価できますが、自分に偏向や見落としがないとは申しませんので。LR 2006年1月24日 (火) 03:05 (UTC)[返信]
確かに、保護中の版については思想宣伝と受け取れる部分はありませんね(既成キリスト教を引き合いに出しているのは「母子室」のみ)。あt、「宗教何でも百科」の感覚で書くこと自体は問題ないかと思います。203.141.155.228 2006年1月26日 (木) 15:59 (UTC)[返信]
現在の版は不当に内容が削られている部分もあると思うので、基本的には二つ前の版[1]の記述に戻すべきだと思います。既成キリスト教からの視点の強さが問題だとすれば、「既成キリスト教からの批判」といった項目を新たに設け、そこでまとめて既成キリスト教からの視点を言及することで、中立性を保つことが出来ると思います。O^tsuka 2006年1月27日 (金) 16:38 (UTC)[返信]
特定の宗教からの批判という形だと宗教対立を煽るような形になりますので、「既成キリスト教との主な相違」でしょうね。203.141.155.228 2006年1月28日 (土) 01:47 (UTC)[返信]


「既成キリスト教との主な相違」という項目を増やしてみては如何でしょう?ウィキペディアは百科辞典ですから、既成キリスト教とエホバの証人の違いが分からないから調べたい、という人もいらっしゃると思います。その際、具体的に聖書の何処に根拠があるのか、聖書の個所を明記すした方が良いと思われます。--Bigkoro 2006年2月16日 (木) 01:04 (UTC)[返信]

アーカイブ化

かなりノートページが長くなっていたので、とりあえず目次までの部分を除きました。アーカイブにするのは初めてで、手順等を間違っているかもしれないので、気付かれた方は直して頂けるとうれしいです。O^tsuka 2006年1月15日 (日) 16:40 (UTC)[返信]

目次より後の部分も長すぎるので、思い切って節単位でアーカイブに移してしまいました。ついでに、アーカイブへのリンクを独立させて(ノート:エホバの証人/archives)、includeする形にしてみました。203.141.155.228 2006年1月16日 (月) 11:37 (UTC)[返信]

ありがとうございます。すっきりしました。O^tsuka 2006年1月17日 (火) 17:01 (UTC)[返信]

archive5として新たに過去ログを作りました。ご覧になっていない方は確認していただければと思います。O^tsuka 2006年3月30日 (木) 16:36 (UTC)[返信]

エホバの証人への批判

  • 中立的な記述になるように、表現をいくつか訂正しました。間違い等ありましたら、ご指摘のうえ訂正ください。教団に批判的な方も庇護される方も、中立的な見地による記述を心がけましょう。ここは意見ではなく、事実を書く場所です。210.165.117.249 2006年1月16日 (月) 17:34 (UTC)[返信]
署名がおかしくなっていたので修正しました。203.141.155.228 2006年1月16日 (月) 18:32 (UTC)[返信]
署名は半角チルダ4つ~~~~です。O^tsuka 2006年1月17日 (火) 17:01 (UTC)[返信]
  • 事実も大切ですが、その事実について著述者の意見は絶対に書かないようにするべきです。最初の版はずたずたでした。また、情報を記す際、出典先を明記しておくべきです。--58.70.19.170 2006年2月3日 (金) 07:01 (UTC)[返信]

 宗教的・思想的信条に「事実」というのはいうのはあるのでしょうか。見方を変えれば違った見方が生まれる。我々の信じて疑わない客観というのも結局は主観の集合体でしかない。「真実」だと信じて投稿される内容についても、投稿者の主観から発せられる不安定な「真実」でしかない。しかし、それもまた一種の「真実」だ。であるとするならば、このサイトの評価内容は若干、平衡を欠いてる。その内容について悪意を含んでいるかとも受け取れる内容をそのまま掲載してはいないか。自由な意見を戦わせ、事実を追究しようとする姿勢について、全て反対ではない。しかし、運営側も、当然に発言者にも悪意的なニュアンスを帯びないようにことさら注意するべきではないか。それは、自由な発言の場を与えられている我々に課されている最低限度のモラルだと思う。 --以上の署名のないコメントは、222.11.63.239会話/Whois)さんが 2006年3月17日 (金) 19:33 (UTC) に投稿したものです。[返信]

というか、「エホバの証人は誤っている」という偏った見地から記述されており、お世辞にも中立的な記述とはいえません。--以上の署名のないコメントは、61.22.157.95会話/Whois)さんが 2006年4月8日 (土) 11:11 (UTC) に投稿したものです。[返信]
具体的にどのような点が問題なのかを指摘していただけると、議論もやりやすいかと思います。記事が特定の立場をとって主張するようなことがあれば問題ですが、少数の人々が支持する観点が、あたかも非常に広く受け入れられている観点と同じだけ注目に値するかのような書き方をするべきではありません。--O^tsuka 2006年4月16日 (日) 17:14 (UTC)[返信]
あなたの言う「非常に広く受け入れられている観点」が真実だという記述もPOVだろ!--以上の署名のないコメントは、61.22.157.95会話/Whois)さんが 2006年4月17日 (月) 10:13 (UTC) に投稿したものです。[返信]
具体的に何を仰りたいのかがよく理解できないのですが。/archive4でも指摘されていたことですが、批判的なことを書かないというのは中立的な観点とむしろ対立することになります。O^tsuka 2006年4月18日 (火) 16:38 (UTC)[返信]

現在の記事の問題点(NPOVとは言えない点)

しばしば問題視される教義・習慣の中の

  • 「1985年4月、神奈川県川崎市で交通事故に遭った小学校6年生男児の手術に当たって、エホバの証人の信者であった書店経営の両親が輸血を拒否したため、男児は出血多量で死亡した。」の点→エホバの証人側や後の裁判所の判決、国会議員による調査などでは両親の過失ではなく、交通事故による出血死が原因とされた。また、当時両親は無輸血治療を施すことができる他の病院への転院を希望していたが、病院側に拒否された。こういった事実が無視されている。
  • 「現在もエホバの証人は無輸血治療を推奨しているが、無輸血治療のためには病院側に莫大な設備投資が求められる上、患者に対する危険も高いのは事実である。」→これは嘘である。エホバの証人に協力的な医師によれば、無輸血治療は輸血による治療より安全であり、コストがかからないとのことである。
  • 「教団では、親の言うことを聞かない場合、説教をした上で子供をムチで叩くことを推奨している。」→鞭を使うこともできるとしているが推奨しているわけではない。ただ、残念ながら、過去何人かのエホバの証人の親がこの点で過剰な反応を示したのは事実である。いずれにしても「体罰によって子供をコントロールすることが目的」なのではない!
  • 「多くの問題は、エホバの証人の排他性、独特の戒律を家庭に持ち込むことにより起こる」→エホバの証人に「戒律」というものは存在しない。
  • 「格闘技禁止の問題:『もはや戦いを学ばない』というヤコブ書の解釈による」→多分「イザヤ書」の間違い
  • 「生活の不安定:高等教育や正規雇用での就労を否定している」→そんな事実はない。
  • 「辞めることの困難:信者を辞めることは構築してきた人間関係を一瞬にして失ってしまうために大変な困難を伴い、辞めたくても辞められない状態で苦しむ信者の存在が問題視されている」→そんな証拠はない。断絶・排斥後も会衆の長老がその自宅を訪問をするよう取り決めがなされている。
  • 「教団に「背教者」と見なされないために、自然消滅という形で名目上は信者であり続けなければならない非信者が相当数に登る」→これは証拠あっての記述か?
  • 「教団では繰り返し「ハルマゲドンの恐怖」を教え、信者を辞めた者は永遠に滅ぼされて楽園への復活は無いと繰り返し述べられている」→それは初耳です。そんな話がいつされたのでしょうか?
  • 「子供連れの主婦の場合、子供と一緒に戸別訪問をしたり、集会へ出席したりしなければならない」→勧められているが義務ではない。
  • 「もしも子供が少しでもぐずついたりすれば、物置に連れて行かれて体罰を加えられるといった虐待行為が日常化している」→普通よほどのことがない限り鞭などはしないし、それが「虐待」といえるのか疑問。
  • 「教育を受ける機会の喪失:教団では高等教育に対して否定的な見方をしており」→高等教育を受けることと「教育を受ける機会」とは意味が全く違う。

--以上の署名のないコメントは、61.22.157.95会話/Whois)さんが 2006年4月17日 (月) 12:08 (UTC) に投稿したものです。

議論

両親の過失ではなく、交通事故による出血死が原因とされた。また、当時両親は無輸血治療を施すことができる他の病院への転院を希望していたが、病院側に拒否された。

確かに、「両親が輸血を拒否したため」という表現より、「両親は輸血を拒否し、男児は出血性ショック死で約5時間後に死亡した」といった表現の方がより適切だと思います。なお、病院が転院を拒んだのは医学的常識に沿ったものだったと記憶しています。詳しい方フォローをお願いします・・・。

エホバの証人に協力的な医師によれば、無輸血治療は輸血による治療より安全であり、コストがかからないとのことである。

そのような証言をしている医師と言うのは具体的にはどなたでしょうか?私は医療については全くの素人ですが、「無輸血治療」というものが、より安全でコストもかからないのであれば、全て世の中の輸血治療はなくなって居なければおかしいのではないでしょうか。実際には殆どの医師の方が、輸血治療の必要性を訴えていらっしゃいます。「無輸血治療絶対神話」は、ものみの塔という限られたコミュニティーの中では絶対なのでしょうが、百科事典に書くべき事実であるとは思えません。
上記のサイトは、ある医師たちが参加するメーリングリストのログですが、ものみの塔の輸血問題について、「輸血拒否によって生じる一般の患者さんへ不利益も考慮されるべき」といった意見や、「医学的根拠によらない治療法を選択するぜいたくは自費での場合に限られるべきである」と言った意見が書かれています。あくまでも一例ですが、安全であり、コストがかからないという神話が広く認められた事実ではないということは言えるでしょう。

鞭を使うこともできるとしているが推奨しているわけではない。ただ、残念ながら、過去何人かのエホバの証人の親がこの点で過剰な反応を示したのは事実である。

一例ですが、1972年発行の機関紙『ものみの塔』には、
「子どもを懲らしめることは、幼児のときから始めてください」
「懲らしめを施すさい、むちを用いることを躊躇しないでください」
といった記述があります。
また、カルトの実態調査をっている服部雄一氏の論文「エホバの証人の児童虐待」によると、調査した元関係者39人のうち、90%が子供を叩くように教えられ、85%の人が周囲から叩くよう圧力を受けていたそうです(米本和広 『カルトの子-心を盗まれた家族』より)。
他にも参考になる資料としては
等があります。以上の事実や証言より、少なくとも「過去何人か」と主張する61.22.157.95氏の言い分に説得力はありません。
以上、主な論点について返答しました。事情を知る者にとっては明らかであろうと思われる部分については言及していません。O^tsuka 2006年4月18日 (火) 16:38 (UTC)[返信]
すいません。最後の点について反論をひとつ
確かに、「子どもを懲らしめることは、幼児のときから始めてください」とありますが、続けて、「しかしながら,そうした懲罰は決して腹立ちまぎれに加えてはなりませんし,自制心を失って感情を爆発させるものであってもなりません。まちがっているということを一度も教えられていない事がらをした子どもを罰するのは,およそ公正とはいえません。まず,慎重かつ辛抱強い教訓が与えられねばなりません。つまり,「エホバの……精神の調整」が施されねばなりません。そうすれば,子どもは,何が当然期待されているかだけでなく,なぜ期待されているかをも知ります。(エペソ 6:4,新)ですから,規則や規定を設ける場合,それが聖書の原則と調和するものであり,この点でいつでも,『神のみことばはこう述べています』と言えるようにしてください。そうすれば,神を恐れ,その律法を愛する子どもは,家庭の規則に喜んで服せるようになります。次いでそののちに,子どもを罰する必要が生ずるとすれば,それは聖書に基づく教訓を故意に,そしてわざと無視したためであることを子どもは知るでしょう。しかしそうした場合でさえ,公正にあわれみを加味して罰を与えてください。親は天の父にならって,辛抱強さと自制を働かせるとともに理解と同情を表わすべきです。とあります。(「ものみの塔」1975年 1/15 48ページ)--以上の署名のないコメントは、61.22.157.95会話/Whois)さんが 2006年4月18日 (火) 23:49 (UTC) に投稿したものです。[返信]
過去の「ものみの塔」誌(1973/12/15)には「子どもの命がかかっています。子どもが誤った道を進むままに放任されるなら,それは子どもの不幸を,そしてやがては神の恵みからはずれた死を導く結果になるでしょう。それゆえ,聖書はこう述べます。『むちを加へざる者はその子を憎むなり 子を愛する者はしきりにこれをいましむ』。(箴 13:24)子どもの歩みを正すために,しりをたたくことを含めて親ができるだけのことを行なうのは,子どもに対する真の愛の表われとなります。これは神の定めておられる道です。」とあります。この記事は、子供をエホバの証人として育てるために訓練が必要なことを強調しており、体罰も親の愛の表れであり、神の要求であることがはっきり断言されています。むしろ、それを怠るなら、子供は不幸になり死ぬだろうと脅迫まがいのことまでしています。当時の親たちが、体罰を「推奨」されたことは否定できない事実です。Nights 2006年4月23日 (日) 01:16 (UTC)[返信]
無輸血治療の問題については、争いのある事実という扱いで両論併記の形にしましょう。教団側の主張はまったくの少数意見であり、医学記事などを全部両論併記にするのは適当ではありませんが、ことエホバの証人の記事については教団側の主張を大幅に取り入れて良いと思います。一方体罰の方は、「推奨」という語が適当かどうかというのは瑣末な論点で、「鞭の使用は虐待であり悪である」という暗黙の前提の方を問題にすべきです。特定の価値判断を前提にしない言い回しに直さなければ、「推奨」だけ別の語に置き換えても教団側からの反発はなくなりません。203.141.155.228 2006年5月6日 (土) 00:01 (UTC)[返信]
「鞭の使用は虐待である」というのは、虐待の定義から明らかなことです(身体的虐待)。また、虐待が法律で禁止されている行為である以上、ある程度批判的な見方に立って記述されることも止むを得ないと考えられます。それにそもそも教団側の反発など相手にしていては記事が書けません。O^tsuka 2006年5月6日 (土) 02:59 (UTC)[返信]
誰からも反発されない記事を書くことはそんなに難しいでしょうか?オウム真理教など、うまく(八方美人的に)書かれている記事はたくさんあります。一回で完璧な記事を書くことは出来ませんが、叩き台を作って、文句が出た部分を改良していけばいいのです。それから「虐待」は注意を要する語です。「虐待」を辞書で引くと「しいたげること」「むごい扱いをすること」などと書いてありますが、「むごい」は全く主観的な概念で、しかも感情を伴っています。そのため、「虐待」の意味内容を具体的・客観的にしようとすれば必然的に特定の価値観に与することになるのです。実際、この語はしばしば政治的に利用されてきました。例えば「身体的暴力は虐待である」と定義することで「全ての体罰は悪である」という価値観を広める、といった具合です。こういう用語を回避するのは基本的な技法です。203.141.155.228 2006年5月7日 (日) 10:36 (UTC)[返信]
オウム真理教のことは詳しくは存じませんが、反発異論はあるようです。「虐待」については注意を要するも何も、児童虐待防止法で定義されている語です。O^tsuka 2006年5月7日 (日) 17:27 (UTC)[返信]
どのような視点からの反発や異論であれ、ノートで議論を展開してくれる限りは役に立つと思いますが。それから、法律の条文の中の定義はあくまでもその法律の中だけで有効であり、「少年」のように法律によって定義が異なる語もあります。さらに、実際の法の運用は社会通念に大きく依存します。例えば頬を叩く行為は、「外傷が生じるおそれのある暴行」を文字通りに解釈すれば虐待に該当しますが、よほどの場合を除いては許容されています。男子に対する割礼などは先進国でも大きく評価が分かれています。このような語に文字通りの定義をあてはめることは危険なのです。203.141.155.228 2006年5月8日 (月) 03:17 (UTC)[返信]

エホバの証人に関する視点について エホバの証人、特有の教義について以下の視点で分類してみることをお勧めします。 1)聖書に直接、あるいは間接的に書かれたことを基にする教義 2)エホバの証人が信仰をまっとうする上で障害となる事柄への不関与・または回避

1)については聖書に何らかの記述があるので分かりやすいかと思います。聖書の解釈の仕方によって見解は異なりますが元が公になっている分、論議しやすいと思います。もちろん聖典ですので個々で禁止されていることは禁忌になっていると考えて問題はないかと思います。 2)に関しては一般にこのことが一番誤解を受けているのではと考えられる事柄です。 一般にエホバの証人は生活において聖書の研究や宣教活動を第一優先とします。このため協会(ものみの塔本部・支部)でも信者に私生活においてこれらの宗教活動の妨げになることを避けるように指示しています。 実際には個々の事象によって異なるため協会側でもいちいちすべてにおいて指図はしていないようで個人の判断によるところが大きいのですが本文でも指摘があるように宗教活動にもっぱら専念する生活を送ることを良い生き方とする傾向が強く自然にそちらに誘導されているケースが見られます。 2)に関する例としては“高等教育を受ける機会の喪失”ですが本文中では“1997年に解禁となった”とされていますが’97年以前の1990年の神戸高専剣道実技拒否事件(1995年最高裁にて結審)があります。協会の機関紙では勝訴となった控訴審判決および上告審判決において内容を掲載していました。もし、仮に“高等教育を受けてはいけない”としているなら5年制の高専に進学した信者を紹介することは考えられません。また高専は始め寮生活になるため“信仰をまっとうする上での障害”ととらえられなくもありません。この例から言えるのは2、に該当するケースはあくまで判断は信者にまかされており教団として禁止された事項ではない、ということです。2)二該当するケースは教義と切り離して論議するのが望ましいと考えます。以上の署名の無いコメントは、Wasa1(会話履歴)氏が[2006年6月18日 (日) 08:54 (UTC)]に投稿したものです[返信]

エホバの証人の高等教育と社会的地位についてによると、大学教育が解禁されたのは1992年のようですね。次の編集で修正しておきたいと思います。あと、教団が主に警告を発しているのは、高等教育の中でも学術的な研究を扱う大学教育についてだと思います。一方技術学校を若者に勧めることはこの宗教では一般的ですので、高専に通っていたと言うのはそれほど違和感があるとは思いません。
聖書にかかれているかという点ですが、機関紙では高等教育の多くは聖書の「健全な教え」に反しているとしています。そもそも教団側の観点に立てば、全ての行動は聖書に基づいていることになるのでょうし、また禁止事項や戒律は存在しないと言うことになるのでしょう(過去に匿名ユーザ氏が発言していたように)。O^tsuka 2006年6月19日 (月) 16:27 (UTC)[返信]

ここでいいんだろうか。2回目。やたら批判が多いな・・・

えっと・・・、批判だらけですね。一通りこの項目を見させてもらったんですが、ここは、エホバの証人を批判する場所ですか?辞典ですよね。リンクも排教者のサイトばかりだし。書いていることも、中途半端に聖書の知識をもっているのか、いないのかわからない人が書いた内容だし。 この辞典の信用問題にかかわることですよね。目的を持って書いてほしいな。この項目自体、ものみの塔協会の承諾をもらっていないみたいだし。素人が、何も知らずに事の本質をとやかく言うこと自体間違ってるんじゃない? まあ、ここの世間に及ぼす影響力がどれくらいかは知らないですけど。ものみの塔協会は、必要なら、裁判を起こしてでも、自分たちの正当性を立証しようとしますけどね。以上の署名の無いコメントは、辞書(会話履歴)氏が[2006年6月2日 (金) 12:02 (UTC)]に投稿したものです[返信]

ええとこれって言論弾圧を狙った脅迫ととらえましょうか? それとも中立性を心配している方かな? どちらとも取れますね。 どうでもいいけど。 聖書に関してはエホ証の解釈がおかしいからな。 たんなる古本として考古学の対象として成立をとらえたWikiの聖書に関する 記述を呼んでみろよ。

こういうものの言い方は、共同して百科辞典を編集作成する態度からは程遠いでしょう。自分の好き嫌いで書くものではありません。どうぞ、2チャンネルへでも行って下さい。


エホバの証人は誕生日を祝っていたときもあります。煙草をすっていたときもあります。このように考え方を修正することがあります。1世紀当時の割礼の問題のときもそうです。 鞭に関してはこのノートを読んでいると体罰(虐待)-以前はそう解釈されていた?-として話し合われていますが、詩編23:1-6にあるように言葉で注意を促すことが真意なのではないでしょうか。 イエスも父から大工の仕事を教えられたことを考えると、専門職を学ぶ場として高等教育を受けてはいけないはずはないでしょう。「解禁」という言葉は間違っているのではないでしょうか?

宗教に関して外から見ると批判したいと思うことが多いかもしれません。しかし彼らは理由があるので(外から見るとありえないが)その行動をとっているのでしょう。 wikipediaに書くのなら「聖書にxxxと書いてあるためxxxしている」という程度で収めるべきだと思います。誰がどう批判しているとか、私はこう思うとかそんなことを書く場所ではありません。

「誰がどう批判しているとか、私はこう思うとかそんなことを書く場所ではありません」と、言われていますが、このエホバの証人の項目全体が最初から、エホバの証人を批判する目的が組み込まれているのではないですか?いかがなものでしょうか?

最初に「エホバの証人」の項目を作った目的が明記されていれば、こういった批判だらけにはなってはいなかったのではないでしょうか?誰が、どんな目的で、最初に記述したのかは知りませんが、本文の前半と後半を比べると、完全に意図が異なっています。

批判があれこれ出るのは、辞典を作るうえで当たり前だと思いますが、それはノートで留めておくべきことではないでしょうか?本文にまで、ちゃんとした討議もせずに持ち込むべきですか?3からは、完全に悪意を持って記述されていますので、削除が妥当だと思われます。

(ここから)

内容そのものの間違いなど
  • 聖典として現在では主に新世界訳聖書を使用している。
「聖書はあなたがたの聖典ですか?」と尋ねるなら、すべてのエホバの証人が「はい」と答えることでしょう。しかし、「新世界訳聖書はあなたがたの聖典ですか?」と尋ねるなら、答えにばらつきが生じることでしょう(正確に「いいえ」と答える人がどれくらいいることか…)。「新世界訳が聖典」であるとするこの言い回しは、「ひっかけ問題」によく似た間違いです。
もしここで「聖典」の語を取り除いたとしても、それは日本という、ほぼ単一民族で構成される世界的にも特殊な国家内においては真実ですが、世界全体では真実でありません。これは、Wikipedia:観点の最初に挙げられている項目に明らかに抵触しています。また、宣教には相手の望む翻訳を用いるよう薦められ、さらには、様々な種類の翻訳を比較・研究することが推奨されていますので、誤った内容といえるでしょう。よって、撤去すべきです。
  • バプテスト派との袂をわかって現在に至る。
英語版にあるように、聖書解釈をめぐる意見の相違から、初期研究メンバー(Nelson H. Barbour)と袂を分かった事実はあるが、どこかの組織と袂を分かったとうい事実は無い。ラッセル自身は長老派出身であり、初期研究メンバーはミラー派(ウィリアム・ミラー(en:William Miller (preacher)/後の再臨派系の思想に影響を与えた人物)の聖書解釈に共感した者たちです。そして通常はミラーの出身教派であるバプテスト派ではなく、再臨派との関連が言及されますので、このくだりは正確ではありません。
  • アメリカ白人男性十数人で構成される
統治体を構成する現役メンバー全員の氏名とプロフィールが公表されたことは無いと思うのですが、これが事実であるならば、これを記述した人物はどうやってこれら事実関係を知ることができたのでしょう?。なお、過去のメンバーの中にはジョージ・ギャンギャス(ギリシャ人、1994年没)のような非アメリカ出身者も含まれていました。本部のあるニューヨークで長年生活していたので、アメリカ国籍を取得していた可能性は大きいですが、そんな理論がまかり通るなら、全ての記事が辞書らしからぬ内容とされてしまうでしょう。証明不可能なうえ内容が作為的ですので、撤去すべきでしょう。
  • 「輸血と献血の禁止による問題」 - レビ記17章14節の「血を食べてはならない」という聖句を
キリストの贖いによって律法を厳守する必要性はなくなったと解釈するため、レビ記(モーセ五書の一つであり、文字通りの律法)では的外れであり、通常はクリスチャン向けに語られた言葉である使徒 15章29節の聖句を用います(ローマ 3:20-24参照)。この点については、ある(批判者側の)人が、「エホバの証人が輸血拒否を説明するロジックは、使徒の聖句を用いるワンパターン」というようなことを言っていたと記憶しています。
  • 「体罰(ムチ)の問題」 - 教団では、…推奨している。
現在進行形で記述されていますが、いったいいつ頃の話でしょう?。聞くところによると、15~20年くらい前までは文字通りのムチ(水道のホースなど)が用いられたそうですが、その頃は竹刀やムチ棒を振り回していた学校教師が存在していた時代であり、そうした熱血教員が次第に「体罰教師」と呼ばれるようになる過渡期のことなのではありませんか?。
  • 体罰によって子供をコントロールすることが目的だが
コントロールという言葉(証明不可能、従って自らの空想によるPOV)がお好きのようですし、「教団」という表現と併せて、ネット上で「カルト研究者」を自称する人達の主張をオウム返ししているだけでしょう(事情通なら「教団」ではなく「協会」もしくは「ものみの塔」などの表現を用いるはずですので)。その例に漏れず、以降の内容は間違いだらけです。
  • 「家庭崩壊の問題」 - 聖書活道の著しい妨害(霊的淫行)
「霊的淫行」という言葉から私が連想するのは、「オホラとオホリバ」(エゼキエル 23章/偶像崇拝)や「大バビロン」(黙示録 17章)、つまり本文で触れられているような、クリスマスを祝ったりするなどの異教に由来する行事へ参加する事なんですけれども…。こういうのは通常、単に「反対」と表現されます。そしてその程度では離婚する正当な理由とはなりません。正当な理由となりうるのは、命の危険を感じるくらいの暴力を振るわれるようなケース(迫害)ですが、その場合、離婚は可能でも再婚は不可能です。再婚が可能なのは、あくまで配偶者の姦淫を理由とした離婚の場合のみです(マタイ 5:32)。このあたりの解釈に誤解があるように感じられます。
  • …以外の理由での離婚は認めておらず…
コリント第一 7:12-15参照。聖書は、同信でない配偶者から離婚の要求がなされた場合、その要求に応じることを推奨しています(この場合も再婚不可)。つまり、聖書の内容と相容れませんので、これはエホバの証人の信条であるはずがありません。もちろん、離婚に反対するエホバの証人もいることでしょう。しかしそれは、信者になって間もない人であるとか、研究では扱わない聖書の細かい部分を長年経っても理解していない信者などであって、一般的なエホバの証人の反応ではありえません。いわゆる「木を見て森を見ず」の典型でしょう。エホバの証人の解説としては不適切ですので、全文撤去すべきでしょう。
  • 「格闘技禁止の問題」 - 「もはや戦いを学ばない」というヤコブ書の解釈による。
改めて調べてみましたが、ヤコブの手紙にそんな聖句はありません。イザヤ 2:3参照。
  • 「生活の不安定」 - 指導部は、…高等教育や正規雇用での就労を否定している。
そもそもエホバの証人はイエス以外の人間の指導者を認めないので、「指導部は」という表現も変です(マタイ 23:10)。過去の多くの記述にも共通する事なのですが、もし本当に何らかの命令が与えられているのであれば、これはまさに「信仰の主人」となる行為そのものなので、エホバの証人の組織はほっておいても内部崩壊することでしょう。コリント第二 1章24節参照。
  • エホバの証人の生活水準は、諸宗教の中でもきわめて不安定なものとなっている実態がある。
「質素な生活を送っている」と表現するのとどう違うのかというと、文面に悪意があるか無いかの差のように思えます。POVでしょう。「質素な生活」に修正しても宣伝にしかならないうえ、内容も現状と異なるため、撤去が妥当でしょう。
  • 「辞めることの困難」 - 信者を辞めた者は「背教者」と呼ばれ、…
「背教者」とは仲間を陥れる者(箴言 11:9 / apostasy(新世界訳))のことなので、辞めた者(棄教者:自らの意思で辞めた者)とも強制的に辞めさせられた者(排斥者:何らかの主要な聖書原則を踏み越えた者)とも異なります。排斥者全員が背教者というわけではなく、むしろ現役信者の中に背教者が隠れている可能性すらあります。「背教者」とはそういう言葉なのです。「エホバの証人のコミュニティーからは完全に断絶され…」から始まる説明はほぼ全て排斥者に関するものですので、「辞めることの困難」という表題は完全にミスマッチです。排斥制度(除名処分)はキリスト教のどの教派にも存在するでしょう?(機能していないかもしれませんが)。他の教派にも存在するものであれば、なぜわざわざここだけに記述する必要があるのでしょう?。それとも他の教派には存在しないのですか?(聖書に書かれているのに…、コリント第一 5:11-13参照)。従って撤去が妥当です。
※「棄教者」という表現はエホバの証人の表現ではなく、ネット上で広く一般に用いられている語です。この概念に該当するエホバの証人用語は、ちょっと思い当たりません(恐らくは存在しないものと思われます)。
  • 「信者を親に持つ子供の問題」 - 虐待行為が日常化している
「体罰(ムチ)の問題」に同じ
  • 「教育を受ける機会の喪失」
「生活の不安定」に同じ
  • 「勧誘方法」
こんな内容、本当に必要なんですか?(辞書としての品格を下げるだけでしょう?)。それに、宗教に「勧誘」という表現を当てはめると、通常は悪いイメージを与えるためNGかと。表題を「宣教」に改め、宣教方法の変遷(開始されたのはいつか?、過去にどのような宣教方法が採用されたか?、など)について記述するなら存在する価値があるものとは思いますが、現在の文面は全撤去が妥当でしょう。
  • 元エホバの証人2世のサイト
「元エホバの証人2世」という表現、確かに広く用いられてはいますが、日本語としては間違っています。「エホバの証人」はエホバの証人、「2世」は2世、エホバの証人は幼児洗礼等を否定しますので、2世であることが即エホバの証人であることを意味しません。親(1世)がエホバの証人を辞めたのであれば、その子供は確かに「元2世」になるのでしょうが、そうした理由で「元2世」を名乗るケースに、未だ出会ったことがありません(ちなみに、エホバの証人の子供を「2世」と表現する協会の公式文書は見当たりません)。

(ここまで)Rigel 2006年7月2日 (日) 04:55 (UTC)[返信]

(追記)

  • 神の名はエホバである。(詩編83:18)
これは信条ではないと思います。地域によって違いますので(ヤハウェを用いる言語もある)。「神の御名を用いる」なら確かに信条ですが…。
また、詩編83編18節が選ばれる理由ですが、『欽定訳』の神名が"LORD"に置き換えられなかった4ヶ所のうち、神名であることを最も明確に伝えやすい内容であるためです(従って英語話者を想定したもの)。現在一般に出回っている日本語訳聖書では当然ながら「主」となっていますので、日本語版においては適切な聖句とはいえません(『新共同訳聖書』の 83:19)。Rigel 2006年7月4日 (火) 08:44 (UTC)[返信]

解決しなければならない問題点

これまで、中立的な記事がどうのこうのと、いかにももっともらしい議論が展開されてきたようですが、表現が扇動的であれば、中立以前の問題なのではなでしょうか?。「カルト」という表現は十分扇動的でしょう?。カルトというレッテルを貼る行為を「現代の魔女狩り」と表現した一般紙さえ存在するそうなのですが、そうした指摘は的をはずしたものなのでしょうか?。一般的ではない見解を広く認知されている事実であるかのように提供している場合、その記述は中立的であるといえるのでしょうか?(投票でも行わないと実情が分からないのでしょうか?)。もちろん、「利用するな」などとは言いません。Snufkin さんのように扇動的でない利用法も可能なのであり、実際、編集履歴を確認すると、その内容が編集合戦を招いたことはないように感じます。参考までに、「カルト宗教」という表現はシャロン・テート殺人事件(1969年)をきっかけに生まれた比較的新しい言葉であり、その後しばらくの間は、あくまで殺人事件や集団自殺に限定して用いられていたそうです。他に「マインドコントロール」という表現も、通常は「カルト」とセットで語られる言葉ですので、記事中に無思慮に登場させることに違和感を感じます。

また、信者は組織から命令されているかのような表現を盛り込む人がいますが、輸血拒否・格闘技の忌避といった信条に代表されるように、エホバの証人が聖書の厳格な適用にこだわる、という点を疑う人はおらず、その聖書に「信仰の主人」となることを戒める内容が記述されている以上、表現方法を改めるべきでしょう。「命令が与えられている」とする前提がないと困るのは、エホバの証人をカルトであると定義したいカルト研究者だけなのであり、彼らの都合に合わせて事実を歪曲して伝える記事とするべきではないはずです。

最低限でも上記の事柄が守られないならば、いつでも編集合戦が再発する可能性があるでしょう。

また、Wikipedia‐ノート:保護解除依頼でも指摘した通り、現在の文面を元にした場合には過去の編集内容を失う結果を招きますので、記事を一旦リバートする必要があるものと思われます。どの版へ戻すかについての協議もする必要があるでしょう。

もう一点付け加えると、記述のほとんどが日本の出来事に偏っているため、地域POVとなっている、という問題もあります。

それと、このノートもかなり大きくなっているので過去ログ化しようと思ったのですが、これまでのアーカイブは全てコピペ移動(GFDL違反なうえ、差分表示が出来ないため議論の流れが掴みにくい)で作成されているため、二の足を踏んでしまいました。Rigel 2006年7月2日 (日) 04:55 (UTC)[返信]

他、改定案

記事の役割分担について

現状、エホバの証人に関する2つの記事が存在します(もう1つはものみの塔聖書冊子協会)。エホバの証人は自らのことを「(エホバの)クリスチャン証人」とも表現しますので、このあたりの事(なぜか?、エホバの証人という言葉の持つ意味)などを説明することによって、両記事の違いを明確にすることができるはずです。従って、

  • 「法人」
  • 「財源および資金運用」
  • 「日本での活動」(三田・東京⇒沼津・静岡、など、記述できることはまだまだたくさんあります)

など、組織に関する事柄については「ものみの塔聖書冊子協会」側に記述する方が適切かと思われます。最終的には、こちらの記事を教義面に特化した記事とすることも出来るでしょう。

「しばしば問題視される教義・習慣」という表題

表題に「問題」という語を含むことに対する議論が過去のノート内にも存在しますが、これは「問題がある」という前提が必要な表現であり、また、そうした先入観を与えかねない表現であるため、表題を改めるべきかと。「社会との摩擦」というあたりが妥当であろうと思います。

外部リンクの修正

金沢文庫の作者は背教者であるとの風聞があります。都合の良いことに、現在の文面には排斥者に関する記述があるのですが、エホバの証人は排斥者を避けること以上に、背教者に警戒するよう促されています。従って、こうしたリンクを何の説明もなしにこの記事内に置くことは、エホバの証人の周囲に罠を仕掛けることに似ています。何らかの説明文が付されるか(その説明に「背教者」の語を含んでも問題ないのであればの話ですが…)、または批判系を明確に分離するくらいの配慮はあっても良いのではないかと思います。

他、裁判がらみの以下3つのリンクの追加

上の2つは証人側が喜ぶ内容で、下の1つは反対者側が喜ぶ内容かと思います。なにも中立的でない記述で記事を肥大化させる必要などなく、記事には最低限の事柄だけを記し、あとは外部リンクを用いて読者に判断させる、という手法を採ることも可能なはずです。記事内の特定の項目のみ肥大化させることもまた、「全体のバランスが崩れる」という点で問題があり、詳細に記述する必要があると思うならば、その人は独立した記事を新規作成すべきでしょう。記事全体のバランスを崩すこともまた、編集合戦を呼び込む温床となっているように感じます。Rigel 2006年7月2日 (日) 04:55 (UTC)[返信]

過去のノートの発言へのコメント

  • 「エホバの証人」と「信者」という言葉の違い(archive6)
「未信者の(夫、親族)」という表現が、機関紙内に過去何度も登場していますので、「信者」という表現は妥当です。
  • 既成のキリスト教会との比較(archive6)
細部まで比較したものを掲載するとなるとかなりの分量となることが予想されますので、そうした内容がもし本当に必要なのであれば、「エホバの証人の教義との統合について」(archive4)の議論に逆行する形になりますが、こちらの記事内ではなく、あちらで記述すべき事柄のように感じます。
  • 中立性について
日本語話者にとっての中立性の一番良いお手本は、NHK の報道姿勢であると私は思います。ニュースにおいては事実のみを淡々と述べ、ワイドショーのように騒ぎ立てたりはしません。特別番組においては、内容をさらに深く掘り下げ問題点を指摘しつつも、視聴者に何らかの結論を押し付けるような構成ではありません。
一方、使命感に突き動かされて「なんでもかんでも」記述するという姿勢は、中立性を度外視したノンフィクション作品の範疇であって、確かにそれはそれで貴重な情報を読者に与えるものとなり得ますが、中立性を重んじる辞書には馴染まない考え方であるようにも感じます。Rigel 2006年7月4日 (火) 08:44 (UTC)[返信]

兵役拒否

他のページにあった議論でしたが、本記事に関係ある話題のためこちらへ移動させていただきました。O^tsuka 2006年7月13日 (木) 17:56 (UTC)[返信]

エホバの証人の編集における要約欄ですが、第一次世界大戦当時は兵役拒否の教義は存在しませんでした。この当時、行動指針が明確でなかったために、ある者は「政府の命令に従わなければならないので軍務にも服すべきだが、クリスチャンは殺人を犯すべきではないから、銃を空に向かって撃つべきか?」と考えながら従軍し、別の者は「殺人を犯すべきではないから、兵役そのものを拒否すべきだ」と考え合衆国政府に投獄された、という記録が残っています。ラザフォードは2代目の会長であり、それ以前ということになると初代会長ということになりますが、初代会長は1916年に死亡、第一次世界大戦の終結が1918年ですので、明らかに間違っています。それを「はずです」という極めて曖昧な理由で強引に文章を変更していることになるのです。

そうすると、いったい誰がどの項目への統合に賛成しているというのでしょう?。Rigel 2006年6月18日 (日) 01:50 (UTC)[返信]

兵役拒否についてですが、第二次世界大戦中に発表された見解とは「代替公務」に服することは神との関係が絶たれるというものであり[2]、またその教義も1996年には撤回され、代替公務は自由であるという元のラッセル時代の解釈に戻っています。すなわちその時代には代替公務を受け入れるか否かという見解が変わったのであって、兵役拒否自体の見解が変わったのではないのです。O^tsuka 2006年6月19日 (月) 17:26 (UTC)[返信]
あなたは要約欄に「兵役拒否は」と記述し、私は兵役拒否がラザフォード以前に存在しなかったことを具体的に説明しました。それがなぜ「代替公務」に変化するのでしょう?。また、あなたの弁明にあるように、「代替公務」に関する言及がラッセルの時代に実際になされていたと仮定するならば、そもそも上記のような混乱が起こる事はまず考えられないのです。それに、まず兵役拒否という問題があって、その後に代替公務(公共奉仕、社会奉仕と定義されるような活動)が問題解決のために用意されたと考えるべきであり、代替公務なるものがラッセルの時代に存在した、という前提を要するあなたの説明は整合性を欠いています。従って、あなたが示した引用元の解説が誤っていることは明らかなのであり、すると、あなたは自身の調査を元に編集したのではなく、他人の推論、それも正しいか誤っているかをあなた自身が判断できない事柄を、事実であると信じ込んで編集したことになりはしませんか?。
これに対する反論はないものと思っていますので、わざわざ議論の場所を移動するようなことはしませんでした。もし、さらなる反論があるのであれば、議論の移動をお願い致します。それと、私は Wikipedia におけるあなたのこれまでの地道な活動を評価しています(エホバの証人関連の編集を除いては)。どうか、暴走してあなた自身の名誉を傷つけることがないよう、自重した言動を望んでいます。Rigel 2006年6月20日 (火) 09:28 (UTC)[返信]
私の12月のコメントはJWICの記述を基にしたものでしたので、JWICの記述が間違っているのであれば当然私のコメントも間違っていると言うことになると思います。自身の調査を基に編集すると言うのはWikipediaでは禁止されている行為ですが、もちろん間違っていることが明らかなのであれば、正しい記述にすることに反対するつもりはありません。具体的にこれ以上ここで議論できることはないので、編集姿勢の確認をば。O^tsuka 2006年7月8日 (土) 06:19 (UTC)[返信]
これに対する回答は、O^tsuka さんの会話ページにて行いました。Rigel 2006年7月8日 (土) 19:10 (UTC)[返信]

ここまでの議論は、ノート:エホバの証人とホロコーストで行われたものです。O^tsuka 2006年7月13日 (木) 17:56 (UTC)[返信]

まだ議論を継続したいのですか?

O^tsuka さんの発言によって、Wikipedia:独自の調査というページの存在に初めて気がつきました。しかも、「ウィキペディアの三大コンテンツ方針の1つ」などと書かれているので2度ビックリ。何で今まで気がつかなかったのだろう?と思い履歴を見ると、なるほど、まだ新しい文書なのですね(しかも、Wikipedia:プロジェクト関連文書からはまだリンクされていません)。

あちらのノートでこれ以上突っ込んだ内容に踏み込むのは間違っているものと思われますし、かといって議論の場を別のノートへ移動してまで深く掘り下げるべき事柄とも思えませんので、失礼とは思いましたが、こちらで説明させて頂きます。

JWICの文中にある「非戦闘代替勤務」という見慣れない語は、「非戦闘要員(工兵衛生兵)への配置転換」を意味しているようです。一方、参照されている『ものみの塔』96年5月1日号20ページ「カエサルのものはカエサルに返す - 一般市民的奉仕」にて挙げられているのは、井戸掘り、道路建設、道路・学校・病院などの清掃、といった活動であり、戦争とは全く関係ありません。O^tsuka さんの語る代替公務の「代替」という概念をその雑誌の内容に当てはめると、「戦闘の代替」ではなく「投獄の代替」ということになります。つまり、「近年になって兵役拒否者への一律的な投獄に代わる、社会奉仕への参加という代替手段が用意されるようになった国家においては、エホバの証人は投獄と社会奉仕のどちらかを自らの意思で選択しなければならない」、という意味のことを同雑誌は伝えているわけです。もちろん、未だこうした代替処置が用意されるに至らない国家も存在します。

しかし実際のところ、JWICが情報源を示しているわけですから、JWICの主張の正誤については、同雑誌を調べるだけで判断できるはずです。私の「自身の調査」とうい発言は、O^tsuka さんがそうした調査さえ怠っているのではないか?との疑問を投げかけたものです。

JWICに関してさらに言及するなら、JWICに代表されるような、ウェブ上での情報発信を個人運営で行っているページというのは、Wikipedia:独自の調査#何が信頼のおける出版物とされるのか?で定義されるところの「信頼のおけるソース」に該当しないようにも思うのですが、私のこうした解釈は O^tsuka さんの理解と同一でしょうか?。Rigel 2006年7月8日 (土) 19:07 (UTC)[返信]

節タイトルの意味もイマイチ分かりませんが、それ以上に仰っている意味がよく理解できません。代替公務とは軍務に就く代わりに与えられる役務のことであり、兵役拒否を認める国では兵器を持たない兵役活動や社会奉仕への従事が代替役務として義務付けられています。ですのであなたが挙げた機関紙の記述(「非軍事の国家奉仕について自分で決定できる」)は、代替公務に関する組織の方針が変わったとするJWICの解説となんら矛盾していません。
またこのことは、JWIC以外にもレイモンド・フランズ著の『良心の危機』で取り上げられていますので、検証可能性は十分に満たしていると言えるはずです。O^tsuka 2006年7月9日 (日) 14:47 (UTC)[返信]
  1. 「代替公務」という言葉はJWICにも同雑誌中にも出現せず、一般的な国語辞典にさえ存在しませんので、この言葉を上記のように定義することは不可能です。
  2. エホバの証人は「兵役拒否」で知られていますので、標準的な信者は「兵器を持たない兵役活動」についても当然ながら拒否することでしょう。
  3. 同雑誌で言及されている活動は上記の3つのみであり、「兵器を持たない兵役活動」には一切触れていません。
  4. JWICは「方針が変わった」ではなく「ラッセル当時の聖書解釈に戻った」と主張しております(「非戦闘代替勤務の解禁」の項)。
  5. O^tsuka さんご自身も「元のラッセル時代の解釈に戻っています」と主張しております(ノート:エホバの証人とホロコースト)。
  6. 『良心の危機』の日本語版の出版社が「せせらぎ出版」[3]で、オリジナルの英語版の出版社が「Commentary Press」[4]のようです。せせらぎ出版の会社概要を見る限り、日本語版は「信頼のおけるソース」に該当せず、このページを見る限りでは Commentary Press はキリスト教関連の出版社であるようなので、とても中立的な第三者機関であるとは考えられません。従って、『良心の危機』は「信頼のおけるソース」に合致せず、検証可能性も満たしていないように思われます。
Rigel 2006年7月10日 (月) 09:33 (UTC)[返信]
代替公務、代替業務、代替勤務、代替労役、代替役務等は意味としては同じだと思います(代替公務という言葉は良心の危機で用いられていた表現でしたので、その表現を尊重しました)。論っても仕方ないので柔軟に解釈してください。
利用者:Rigel会話 / 投稿記録さんの発言では相変わらず何を論点にされているのかつかめませんが、代替役務として何を与えられるかは、兵役拒否を認めるか否かと同じくそれぞれの国の政府が決めることであり、それをどう受け入れるかと言うのもまた個人の決定でしょうから、ここで議論しても仕方ないと思います。ただ、何らかの軍務に代わる国家奉仕が課せられている場合、96年からはそれを受け入れることができるというふうに指導部の方針が変わったと言うことです。
学会誌などが存在しない分野の場合、信頼できる情報源とは何かというのは難しい問題ではありますが、そのような場合はノートでの合意形成によって判断されるべきです。また少なくともその分野で著名な人物の著作は情報源として認められています(英語版でもソースとして挙げられています)し、中立的な第三者機関でないから信頼できず、検証可能性を満たしていないと言う発言であれば、Wikipediaの基本方針をご理解なさっていないということが明らかですのでもう一度よく方針文章をお読みになることをお勧めします。
そもそもこの手の少数派分野で、大手マスメディアからの情報を多く期待するのは難しいと言う現実もあります。それでも絶対に良心の危機以外のソースをと仰るのでしたら、三一書房から出版された『エホバの証人 カルト集団の実態』にも同じ事が簡潔にではありますが書かれていますので参照してください。
自分の解釈と異なるからといって、示された出典にけちをつけるばかりではなく、ご自分で「信頼できる情報源」から示して反論して頂かない限り、不毛なやり取りになってしまうでしょう。O^tsuka 2006年7月11日 (火) 14:01 (UTC)[返信]
  • 私が議論を続ける必要性を感じているのは、明確な間違いを O^tsuka さんが頑ななまでに認めないからです。「間違っているかもしれない」という発言は間違いを認めたことと同義ではなく、単に結論をぼかしたにすぎません。後になってから別の書籍に言及し、その書籍の信頼性に疑問を投げかけるとさらに別の書籍を持ってくる、こうしたことを行わずに最初から全て列挙してくれればこんなに議論が長引くことはなかったことでしょう。間違った内容は掲載すべきではない、というのは「検証可能性」以前の問題です。
  • 私が示したのは一次資料ともいえるもの(問題とされる『ものみの塔』誌そのもの)なのですが、これ以上のものを示す必要があるとでも言うのでしょうか?。「指導部の方針が変わった」というのは完全なる虚偽の推論です(正確には「元に戻った」でしょう?。表現を勝手にすり替えないように、これで何度目でしょう?)。もしそれが真実であるならば、「その記事を目にして動揺が広がった」との報告がネット上で、しかも世界規模であってもおかしくはないはずですが、そうしたものを見出すことは出来ないことでしょう。いや、今から急いで作れば見つけることは可能かもしれませんが、私は O^tsuka さんがそうした裏工作をしてまで事実を捏造するような人物とは思っていませんので、やはりきっとそうした情報に出会うことはないでしょう。
  • 『エホバの証人 カルト集団の実態』に「同じ事が書かれて」というのは、『良心の危機』を二次資料として参照する三次資料である可能性が高いのですが、執筆者は全く違った切り口から出発して同じ結論に至っているのでしょうか?。もしも何の根拠も示さずに同じ結論に至っているのであれば、それは単なる無責任であり、とても「信頼に値する情報」とは言えません。
  • レイモンド・フランズ氏は「エホバの証人の反対者」という意味では確かに著名な人物かもしれませんが、「その分野で著名な人物」というのはちょっと意味が違うでしょう?。著名なエホバの証人なのですか?。それとも著名な証人なのですか?。英語版でソースとして挙げられている、というのは信頼に値することの証明にはなりません。それほど自信がおありなのであれば、信頼性の是非についての問題を英語版にて提起すると良いでしょう。場所はen:Wikipedia talk:WikiProject Jehovah's Witnessesあたりが適切です。
  • Wikipedia:検証可能性によれば、たとえ著名な専門研究者であっても、その人の著作がこれまでに信頼できる第三者によって出版済みであるならとの条件付きなのですが…。一方、Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイト文中にあるそれらの情報源自身に関する記事においては、情報源として使用することができます。の適用である、「レイモンド・フランズ」という記事内での言及については何の問題もありませんので、そのことまでも否定しているわけではありません。そして、エホバの証人の関連項目としてレイモンド・フランズへリンクすると良いでしょう。むしろ中立的な観点からは、そうしたリンクが存在したほうが望ましいものと私は考えます。いや、この場合ものみの塔聖書冊子協会からかな?。両方の記事からリンクするのはくどすぎると私は感じるのですが、それは私の主観であるのかもしれません。

最後に、私が単なるとち狂った狂信者ではないことを、以下の内容によって納得して頂けますならば幸いです。

  • ホロコーストエホバの証人とホロコーストの両記事ですが、いつまでも「統合の提案」を貼り付けたままでいるのは良くありません。このテンプレートを貼り付けた当事者として、統合に賛成意見が得られなかった結果をもって、自らの手でテンプレートを撤去する潔さが必要でしょう(ホロコースト側はIPユーザーによって撤去されていました)。これをこのまま放置し続けることは、周囲のあなたに対する信頼を失墜させかねません。
  • ノート:エホバの証人のサブページである、GFDL違反記事群に対する善処、これもあなたが行うべき仕事です。
  • エホバの証人関連の記事を減らしたいのであれば、ものみの塔目ざめよ!の両記事をものみの塔聖書冊子協会へ統合すると良いでしょう。十分な加筆がなされていない現時点での内容であれば、統合するのが妥当であると私は考えます。
  • 利用者の会話ページの扱いについては、利用者自身の裁量に任されていますので、この内容を項目ごと全撤去することもあなたの自由です。わざわざ過去ログとして参照可能な形で残さなければならないという義務はありません。ただし、利用者自身の裁量に任されているとはいえ、他者の発言を勝手に改竄するような悪質な行為までは許容されていませんので、その点のみご注意を。ついでに申し上げると、このページへのリンクがノート:エホバの証人とホロコーストから張られていますので、そちらの私の発言についても撤去したいとお考えであれば、その撤去を許可する旨、ここに宣言します。

以上、これでご理解いただけましたでしょうか?。Rigel 2006年7月13日 (木) 11:42 (UTC)[返信]

申し訳ありませんが、相変わらず具体的に何を主張されたいのか理解できません。私はノート:エホバの証人とホロコーストで、間違っていることが明らかなら正しい内容に直すことに賛成する旨の発言をしました(当たり前のことですが)。間違いだとお考えならRigelさんご自身で、出典を明記した上で「正しい記述」に直せば(加筆すれば)いいだけのことでしょう。私の12月の編集ではその記述に出典がなかったこと、および以前からその教義が存在していたとする情報を聞いた事があったため削除しましたが、半年も経った後で難癖をつけてこられるような覚えはどこにもありません。「ラザフォード体制になってから兵役拒否の教義が確立された」とする出典を示して本文に加筆されれば何の問題もありませんし、私が反対する理由も反対できる理由もありません。
なお、私は96年のものみの塔なら持っていますが、ラッセルの時代までさかのぼってまで機関紙を調べることはできないので、もしもRigelさんが仰るものみの塔がラッセル時代のものならば私は検証できていないことは申し上げたいと思います。

間違った内容は掲載すべきではない、というのは「検証可能性」以前の問題です。

具体的にどの部分について仰ってるのか分かりませんが、あなたが問題とされる内容について、私は「間違った内容を掲載」したでしょうか。あなたが問題とされているのは、記述の除去なのではないですか。

「指導部の方針が変わった」というのは完全なる虚偽の推論です

もしそれが真実であるならば、・・・

この点が、私が検証可能性の方針を正確にはご理解いただいていないのではないかと発言した根拠です。(既にWikipedia‐ノート:検証可能性でもKanjyさんから指摘があったと思いますが)Wikipediaでは、それが真実であるか否かと言う点は問われません。それが、「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」ということの意味です。複数の本が「方針が変わった」と指摘している以上は、Wikipediaには書くに値するものとなります。当然、教団側の文章として反論があれば、それもまた載せられるべきです。しかし、一編集者が完全なる虚偽の推論ですと主張したところでオリジナルリサーチに過ぎません。

とても「信頼に値する情報」とは言えません

この点についても同じです。なぜ方針文章に、「この文脈における「検証可能性」とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。」とあるのかよく考えてみてください。

レイモンド・フランズ氏は「エホバの証人の反対者」という意味では確かに著名な人物かもしれませんが、「その分野で著名な人物」というのはちょっと意味が違うでしょう?

フランズ氏はものみの塔の最高幹部にいた人物ですから、エホバの証人という宗教団体を語る上では非常に重要な情報源と言えます。もしも氏の本が信頼できないと仰るのでしたら、まずはあなたがノートで根拠を提示して議論を起こし、合意を得るべきでしょう。
なお、このような議論は記事のノートで行うべきであり、明らかに個人の会話ページの用途からは逸脱していますので、以降は記事について議論する場であるノート:エホバの証人にてお願いしたいと思います。ここまでのやり取りは全てに向こうにコピーさせていただこうと思います。O^tsuka 2006年7月13日 (木) 17:41 (UTC)[返信]

ここまでの議論は、利用者‐会話:O^tsukaで行われたものです。O^tsuka 2006年7月13日 (木) 17:56 (UTC)[返信]


補足説明

このセクションについて説明しなければなりません。編集保護のかかる前の12月の編集で、「起源と歴史」セクション内の「ラザフォード体制になってから導入された活動」の部分において、私は兵役拒否の確立という文言を取り除き、要約欄に「兵役拒否はラザフォード以前からあった教義のはずです」とコメントしました。というのはJWICにそのような解説があったからなのですが、それから半年以上経った今、Rigel氏が別記事のノートで「ラザフォード以前にはなかった」と主張されました。Wikipedia的にはネット上の情報はWP:RSに該当しませんから、Rigel氏が信頼できる文献から示していただければ私は反論することができない(しする必要がない)のですが、私の議論の進め方のまずさもあり、こうも長い議論をする羽目になってしまいました・・・。

一応、この議論に関しては文献の提示で片付く問題だと思うので、これ以上長引くことはないと思うのですが、本記事に関係する議論がメインでしたので、こちらに移転と言う形を取らせていただきました。皆様に御迷惑をおかけしてしまい申し訳ありませんでした。O^tsuka 2006年7月13日 (木) 17:56 (UTC)[返信]