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{{Battlebox
'''馬陵の戦い'''(ばりょうのたたかい{{lang-zh|馬陵之戰, Mǎlíng zhī zhàn}})は、[[中国]]の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]にあたる[[紀元前341年]][[魏 (戦国)|魏]][[田斉|斉]]が激突した戦い。斉の圧勝に終わり[[ (春秋)|]]の後継者として天下の覇国たとした魏はこの戦いをさかいに衰微してゆき、[[]]と並び大陸二分する大勢力へと成長てゆく
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|conflict=戦国時代(中国)
|date=紀元前342年
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'''馬陵の戦い'''(ばりょうのたたかい)({{lang-zh|馬陵之戰, Mǎlíng zhī zhàn}})は、[[中国]]の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]にあたる[[紀元前341年]]の馬陵(現在の[[山東省]][[聊城市]]莘県)において[[田斉|斉]]と[[魏 (戦国)|魏]]の間で行われた戦い。[[孫子 (書物)|孫子の兵法]]が用いられた代表的な戦いとしてれる。[[孫ピン|孫臏]]を軍師とした斉軍が、[[ホウ涓|龐涓]]を将軍とする魏軍に勝利
==事前の経緯==
魏の将軍・[[ホウ涓|龐涓]]は、若いころは[[孫ピン|孫臏]]と机を並べ兵法を学んでいた同門であった。孫臏が龐涓の招きを受けて[[食客]]として魏にやってきたとき、以前から自分の才が孫臏に及ばないことを知っていた龐涓は、地位を脅かされることをおそれ、孫臏を罠にかけて冤罪陥れた。そのため孫臏は脚切りの刑(両足を切断する刑。これを臏といった)に処された上、面に黥([[入れ墨|いれずみ]])を入れられて獄中に幽閉された。その後、斉の使者が魏に来たとき、孫臏は計略を用いひそかに使者と面会し、共に魏から斉に脱出した。こうして孫臏は斉国の軍師となり、龐涓に復讐する機会を待った。


この戦いの結果、北の大国に位置付けられていた[[魏 (戦国)|魏]]は衰退する事になり、反対に[[田斉|斉]]は東の大国となる足掛かりを得て、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の勢力図は斉と西の大国・[[秦]]の二強時代へと移り変わっていった。
[[韓 (戦国)|韓]]は{{仮リンク|桂陵の戦い|zh|桂陵之战}}([[囲魏救趙]])で魏が敗退したのをみて、斉と結び魏と戦うことにしたが魏軍は想像以上の底力をみせ、韓は魏と五度戦って五度負けた。逆に魏に滅ぼされそうになった韓は斉に援軍を求め、斉の[[威王 (斉)|威王]]は信頼する孫臏を師将として派遣しようとしたが、孫臏はこれを断って{{仮リンク|田忌|zh|田忌}}を推薦した。田忌を将とする斉軍は[[臨シ区|臨淄]]を発して魏に攻め込んだ。このため韓にいた魏軍は慌てて魏に引き返したため韓は救われた。


==孫臏の計略==
== 孫臏と龐涓 ==
孫臏は魏の領内に侵攻した斉軍に撤退を命じた。退却に際し、初日は露営地に十万人分の[[竈]]を作らせ、翌日は五万人分の竈を、その次の日は二万人分の竈を作るように命じた。斉軍を追撃する魏軍を指揮する龐涓は、竈の数が減っているとの報告を受け「戦意の低い斉軍は、脱走兵が続出しているのだろう」と考えた。そこで龐涓は一刻も早く斉軍を捕捉して撃破しようと考え、歩兵部隊を残して騎兵隊のみを率い、昼夜兼行で急行した。


=== 同門の徒 ===
孫臏は魏軍進行速度から、夕方ごろ狭隘な[[馬陵]](現在[[東省]][[臨沂市]][[タン城県|郯城県]])の地至るだろうと予測した。そこで馬陵の街道脇の大樹の木肌を削り、白木に墨で「龐涓この樹下に死す」と大書し、周囲に[[弩]]持たせた一万伏せた。伏兵には、夕闇火がとものが見えたら、その火めがけて一斉に箭放つように命令し。果たして魏軍は日没後に馬陵に到達し、指揮官の龐涓は道端の大なにやら字記されるのを見つけたが、すでりは暗くてよく見えないそこで松明を持ってこせ、火をつけて字を読もうとし瞬間、周から一斉に矢が飛んできた。龐涓は満身に無数の矢を受け「遂に豎子の名を成せり(あの小僧に、名を挙げせてまったか」と叫んで絶命した。討たれた魏軍は混乱陥って大敗し、{{仮リンク|魏申|zh|太子申|label=太子申}}は捕虜となった<ref>『[[戦国策]]』「巻23魏2斉魏戦于馬陵」によると、龐涓は斉軍に捕虜とされ太子申は戦死したと記されている。「龐涓戦于馬陵 魏師大敗 殺太子申 虜龐涓」(原文)。また、『孟子』によると、魏の恵王が晩年に[[孟子]]と会見した時に「私は先年、可愛い息子を陣没させ失ってしまった」と嘆いていたことが伝えられている。</ref>。
若い頃の[[孫ピン|孫臏]]と[[ホウ涓|龐涓]]は、共に同じ学問の師の下で兵法を学んでいた。龐涓も優秀だったが孫臏の方が常に勝っていたので、自分の資質が到底及ばない事を悟らされた龐涓は、孫臏と才能を認め合い友誼を結びながらも、その裏で激しい嫉妬心を燃やしていた。


師から皆伝を受けた後の孫臏は斉に仕えたが、龐涓の方は魏に仕官して一足先に将軍へと出世していた。魏と斉の関係が思わしくなくなると、斉軍との対決を予期した龐涓は敵方にいる孫臏の存在が気掛かりとなった。孫臏の才能を恐れた龐涓は先に手を打つ事を考え、旧好を温めたいと孫臏に書簡を送り、魏へ招待した上でスパイの濡れ衣を着せてそのまま処刑しようとした。しかし、断罪前に発せられた孫臏の友情の一言により罪悪感を得た龐涓は躊躇し、死罪の代わりに脚切りの刑にして額に刺青を施し自分の屋敷に幽閉する事にした。動けないようにしておけば問題ないと考えた龐涓の食客として遇される事になった孫臏は、憤激の念を抑えてしばらくの間は静かに過ごしたので、やがて監視の目も無くなった。その後、斉からの使者が魏王宮を訪れている事を知った孫臏は、一計を講じて密かに使者と面会し魏からの脱出に成功した。帰国した孫臏は斉軍の軍師として迎えられ、数々の献策を以って活躍した。
==後==
斉軍の司令官として戦功を上げて凱旋した田忌であったが、[[宰相]]の[[鄒忌]]の讒言によって威王に叛意を疑われてそのまま[[楚 (春秋)|楚]]に亡命することとなった。


=== 囲魏救趙の計 ===
名将の龐涓を失った魏はこの戦いをさかいに国力が衰微し始め、秦の侵略を防ぎきれなくなってのちに魏の[[恵王 (魏)|恵王]]は韓の[[昭侯 (韓)|昭侯]]とともに斉に従属することになる。
紀元前354年、[[ホウ涓|龐涓]]率いる[[魏 (戦国)|魏軍]]は[[趙 (戦国)|趙]]を攻めてその首都・[[邯鄲市|邯鄲]]にまで押し寄せていた。危機に陥った趙は同盟国である[[田斉|斉]]に救援を求めたので、斉の[[威王 (斉)|威王]]は{{仮リンク|田忌|zh|田忌}}を主将とし[[孫ピン|孫臏]]を軍師とした援軍を派遣した。田忌は魏軍が包囲する趙の邯鄲に軍を向かわせようとしたが、孫臏は「他人の喧嘩を手助けするにしても一緒になって殴り合っては駄目です。相手の虚を突いてこそ形勢は有利になります。」と助言し、自軍を趙ではなく魏の首都・[[大梁]]に向けて進ませるよう献策した。


魏本国からの急使で、首都・大梁に斉軍が迫ってる事を知らされた龐涓は、邯鄲の囲みを解くと慌てて軍勢を帰国させたが、その道中の桂陵(現在の[[河南省]][[新郷市]]長垣県)の地において斉軍の待ち伏せを受ける事になり、強行軍で疲れ果てていた魏軍は散々に打ち破られて敗北した。この見事な計略による勝利で孫臏の名は広く知れ渡るようになり、反対に一矢報いられる事になった龐涓は処刑時に躊躇した事を悔いて無念のほぞを噛んだ。
孫臏もこの戦いで復讐を終え、歴史上から姿を消した。一説によると彼は[[孫ピン兵法|兵法書]]を残したとされている。

== 馬陵の戦い ==

=== 龐涓の反撃 ===
紀元前342年、[[韓 (戦国)|韓]]は[[田斉|斉]]と同盟を結んで[[魏 (戦国)|魏]]を攻めた。しかし、{{仮リンク|魏申|zh|太子申|label=太子申}}を上将軍とし龐涓を次将軍とした魏軍の反撃を受けて押し返され、逆に韓の首都・[[新鄭市|新鄭]]が魏軍によって包囲されそうになった。韓からの救援依頼を受けた斉の[[威王 (斉)|威王]]は、再び{{仮リンク|田忌|zh|田忌}}を主将とし[[孫ピン|孫臏]]を軍師とした一軍を興して出撃させた。

田忌が前回と同様に魏の首都・[[大梁]]を突く作戦を提示すると、孫臏は「龐涓は二度と同じ失敗はしません。恐らく本国にも精鋭を残してるはずです。」と断りを入れた上で、敵の出方を探る為にも大梁への進軍を了承した。孫臏の読み通り、龐涓は大梁にも精鋭部隊を残しており、魏軍に迎撃された斉軍は一進一退の攻防を繰り広げる事になった。それを知った龐涓は直ちに自軍を韓領内から取って返して、本国の軍勢と交戦する斉軍の背後を突いて挟み撃ちにする作戦に出た。前面と背面に敵を受けて形勢不利と見なした孫臏は魏領内からの撤退を田忌に進言した。孫臏の裏をかいたと喜ぶ龐涓は勝利を確信し、前回の雪辱を果たすべく全軍に号令して斉軍の追撃に取り掛かった。

=== 増兵減竈の計 ===
斉本国に向けて自軍を退かせる中で[[孫ピン|孫臏]]は一計を講じると、主将の田忌に「[[ホウ涓|龐涓]]は斉兵を弱兵と見ておりますので士気の乱れを装えば容易く信じるでしょう。」と語り、まずその日は自軍の野営地に十万人分の[[竈|竈(かまど)]]を作るようにし、翌日は五万人分に減らし、更に翌日は二万五千人分に減らすよう献策した。当時の軍隊は野営の際に土を盛り固めて竈(かまど)を作り兵糧を煮炊きしていた。斉軍を追撃する龐涓は、通過する敵野営地跡の竈(かまど)の数が日ごとに減っているのを見て「斉軍は著しく統率を欠いていて脱走兵が相次いでいる。」と判断した。追い付きさえすれば勝てると勢い付いた龐涓は、一刻も早く斉軍を捕捉する為に足の遅い歩兵隊を残す事にし騎兵隊のみを率いて昼夜兼行での全力追走を命じた。

一方、逃げる孫臏は馬陵の地にある山林に囲まれた狭隘な地形を戦場に定め、魏軍の進行速度を計算した上で龐涓は夕方頃にここに到るだろうと予測した。孫臏は街道を囲む山林に一万人の[[弩|弩兵]]を伏せさせ、夕闇の中を進む松明の灯りが立ち止まったら、その火を目掛けて一斉に矢を放つように命じた。また街道を柵で封鎖し、その側脇にあった大樹の木肌を白く削った上で「龐涓この樹の下に死す」と大きく墨で書かせた。

孫臏の計算通り、夕暮れ時龐涓は騎兵だけを伴って馬陵の山到着した。龐涓このまま追走続行さ真っ暗闇となっ山林街道進んでいった。程なくして街道を塞ぐ柵立ち止ま事になり、その撤去兵士達に命た龐涓は、同時に道端の大何か書いるのに気付いた。松明の灯りで照らし出れた文字を龐涓がみ、これが孫臏の罠である事を知っ途端、周から一斉に矢が放たれてその場にいた魏兵全員が一瞬の内に射倒された。龐涓も全身に無数の矢を受け「遂にあの小僧名をさしたか」と叫んで絶命した。龐涓と先陣の騎兵隊失った魏軍は斉軍の反撃の前為す術もなく大敗し、上将軍であった太子申は斉軍の捕虜となった<ref>『[[戦国策]]』「巻23魏2斉魏戦于馬陵」によると、龐涓は斉軍に捕虜とされ太子申は戦死したと記されている。「龐涓戦于馬陵 魏師大敗 殺太子申 虜龐涓」(原文)。また、『孟子』によると、魏の恵王が晩年に[[孟子]]と会見した時に「私は先年、可愛い息子を陣没させ失ってしまった」と嘆いていたことが伝えられている。</ref>。

==その後==
その後の孫臏は再び戦場でその名を聞く事はなくなり歴史から姿を消した。一説によると彼は残りの人生を兵法書の執筆に費やしたとされ、彼の著作と考えられている「[[孫ピン兵法|孫臏兵法]]」の竹簡が[[漢代]]の陵墓から発掘されている。


==脚註==
==脚註==

2018年7月22日 (日) 23:55時点における版

馬陵の戦い

戦争:戦国時代(中国)
年月日:紀元前342年
場所:馬陵(現在の山東省聊城市莘県)
結果:斉の勝利
交戦勢力
指導者・指揮官
主将 田忌
軍師 孫臏
上将軍 太子申
次将軍 龐涓
戦力
兵力 12万 兵力 10万
損害
損失 2千 損失 10万

馬陵の戦い(ばりょうのたたかい)(中国語: 馬陵之戰, Mǎlíng zhī zhàn)は、中国戦国時代にあたる紀元前341年の馬陵(現在の山東省聊城市莘県)においての間で行われた戦い。孫子の兵法が用いられた代表的な戦いとして知られる。孫臏を軍師とした斉軍が、龐涓を将軍とする魏軍に勝利した。

この戦いの結果、北の大国に位置付けられていたは衰退する事になり、反対には東の大国となる足掛かりを得て、戦国時代の勢力図は斉と西の大国・の二強時代へと移り変わっていった。

孫臏と龐涓

同門の徒

若い頃の孫臏龐涓は、共に同じ学問の師の下で兵法を学んでいた。龐涓も優秀だったが孫臏の方が常に勝っていたので、自分の資質が到底及ばない事を悟らされた龐涓は、孫臏と才能を認め合い友誼を結びながらも、その裏で激しい嫉妬心を燃やしていた。

師から皆伝を受けた後の孫臏は斉に仕えたが、龐涓の方は魏に仕官して一足先に将軍へと出世していた。魏と斉の関係が思わしくなくなると、斉軍との対決を予期した龐涓は敵方にいる孫臏の存在が気掛かりとなった。孫臏の才能を恐れた龐涓は先に手を打つ事を考え、旧好を温めたいと孫臏に書簡を送り、魏へ招待した上でスパイの濡れ衣を着せてそのまま処刑しようとした。しかし、断罪前に発せられた孫臏の友情の一言により罪悪感を得た龐涓は躊躇し、死罪の代わりに脚切りの刑にして額に刺青を施し自分の屋敷に幽閉する事にした。動けないようにしておけば問題ないと考えた龐涓の食客として遇される事になった孫臏は、憤激の念を抑えてしばらくの間は静かに過ごしたので、やがて監視の目も無くなった。その後、斉からの使者が魏王宮を訪れている事を知った孫臏は、一計を講じて密かに使者と面会し魏からの脱出に成功した。帰国した孫臏は斉軍の軍師として迎えられ、数々の献策を以って活躍した。

囲魏救趙の計

紀元前354年、龐涓率いる魏軍を攻めてその首都・邯鄲にまで押し寄せていた。危機に陥った趙は同盟国であるに救援を求めたので、斉の威王田忌中国語版を主将とし孫臏を軍師とした援軍を派遣した。田忌は魏軍が包囲する趙の邯鄲に軍を向かわせようとしたが、孫臏は「他人の喧嘩を手助けするにしても一緒になって殴り合っては駄目です。相手の虚を突いてこそ形勢は有利になります。」と助言し、自軍を趙ではなく魏の首都・大梁に向けて進ませるよう献策した。

魏本国からの急使で、首都・大梁に斉軍が迫ってる事を知らされた龐涓は、邯鄲の囲みを解くと慌てて軍勢を帰国させたが、その道中の桂陵(現在の河南省新郷市長垣県)の地において斉軍の待ち伏せを受ける事になり、強行軍で疲れ果てていた魏軍は散々に打ち破られて敗北した。この見事な計略による勝利で孫臏の名は広く知れ渡るようになり、反対に一矢報いられる事になった龐涓は処刑時に躊躇した事を悔いて無念のほぞを噛んだ。

馬陵の戦い

龐涓の反撃

紀元前342年、と同盟を結んでを攻めた。しかし、太子申中国語版を上将軍とし龐涓を次将軍とした魏軍の反撃を受けて押し返され、逆に韓の首都・新鄭が魏軍によって包囲されそうになった。韓からの救援依頼を受けた斉の威王は、再び田忌中国語版を主将とし孫臏を軍師とした一軍を興して出撃させた。

田忌が前回と同様に魏の首都・大梁を突く作戦を提示すると、孫臏は「龐涓は二度と同じ失敗はしません。恐らく本国にも精鋭を残してるはずです。」と断りを入れた上で、敵の出方を探る為にも大梁への進軍を了承した。孫臏の読み通り、龐涓は大梁にも精鋭部隊を残しており、魏軍に迎撃された斉軍は一進一退の攻防を繰り広げる事になった。それを知った龐涓は直ちに自軍を韓領内から取って返して、本国の軍勢と交戦する斉軍の背後を突いて挟み撃ちにする作戦に出た。前面と背面に敵を受けて形勢不利と見なした孫臏は魏領内からの撤退を田忌に進言した。孫臏の裏をかいたと喜ぶ龐涓は勝利を確信し、前回の雪辱を果たすべく全軍に号令して斉軍の追撃に取り掛かった。

増兵減竈の計

斉本国に向けて自軍を退かせる中で孫臏は一計を講じると、主将の田忌に「龐涓は斉兵を弱兵と見ておりますので士気の乱れを装えば容易く信じるでしょう。」と語り、まずその日は自軍の野営地に十万人分の竈(かまど)を作るようにし、翌日は五万人分に減らし、更に翌日は二万五千人分に減らすよう献策した。当時の軍隊は野営の際に土を盛り固めて竈(かまど)を作り兵糧を煮炊きしていた。斉軍を追撃する龐涓は、通過する敵野営地跡の竈(かまど)の数が日ごとに減っているのを見て「斉軍は著しく統率を欠いていて脱走兵が相次いでいる。」と判断した。追い付きさえすれば勝てると勢い付いた龐涓は、一刻も早く斉軍を捕捉する為に足の遅い歩兵隊を残す事にし騎兵隊のみを率いて昼夜兼行での全力追走を命じた。

一方、逃げる孫臏は馬陵の地にある山林に囲まれた狭隘な地形を戦場に定め、魏軍の進行速度を計算した上で龐涓は夕方頃にここに到るだろうと予測した。孫臏は街道を囲む山林に一万人の弩兵を伏せさせ、夕闇の中を進む松明の灯りが立ち止まったら、その火を目掛けて一斉に矢を放つように命じた。また街道を柵で封鎖し、その側脇にあった大樹の木肌を白く削った上で「龐涓この樹の下に死す」と大きく墨で書かせた。

孫臏の計算通り、夕暮れ時に龐涓は騎兵だけを伴って馬陵の山林に到着した。龐涓はこのまま追走を続行させ真っ暗闇となった山林の街道を進んでいった。程なくして街道を塞ぐ柵の前で立ち止まる事になり、その撤去を兵士達に命じた龐涓は、同時に道端の大樹に何かが書いてあるのに気付いた。松明の灯りで照らし出された文字を龐涓が読み、これが孫臏の罠である事を知った途端、周囲から一斉に矢が放たれてその場にいた魏兵全員が一瞬の内に射倒された。龐涓も全身に無数の矢を受け「遂にあの小僧の名を成さしめたか!」と叫んで絶命した。龐涓と先陣の騎兵隊を失った魏軍は斉軍の反撃の前に為す術もなく大敗し、上将軍であった太子申は斉軍の捕虜となった[1]

その後

その後の孫臏は再び戦場でその名を聞く事はなくなり歴史から姿を消した。一説によると彼は残りの人生を兵法書の執筆に費やしたとされ、彼の著作と考えられている「孫臏兵法」の竹簡が漢代の陵墓から発掘されている。

脚註

  1. ^ 戦国策』「巻23魏2斉魏戦于馬陵」によると、龐涓は斉軍に捕虜とされ太子申は戦死したと記されている。「龐涓戦于馬陵 魏師大敗 殺太子申 虜龐涓」(原文)。また、『孟子』によると、魏の恵王が晩年に孟子と会見した時に「私は先年、可愛い息子を陣没させ失ってしまった」と嘆いていたことが伝えられている。

参考文献

『人物 中国の歴史2 -諸子百家の時代-』集英社、1987年、pp.114-119