「春秋時代」の版間の差分
編集の要約なし |
m →覇者の時代 |
||
(20人の利用者による、間の27版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
⚫ | |||
{{複数の問題 |
|||
⚫ | '''春秋時代'''(しゅんじゅうじだい)({{Lang-zh|t=春秋時代|s=春秋时代|p=Chūnqiū shídài}})は、[[中国]]における時代区分の一つ。[[周]]の[[平王 (周)|平王]]が王に即位した[[紀元前770年]]から現在の[[山西省]]一帯を占めていた大国「[[晋 (春秋)|晋]]」が[[韓 (戦国)|韓]]・[[魏 (戦国)|魏]]・[[趙 (戦国)|趙]]の三国に分裂した[[紀元前453年]]までを指す{{Sfn|伊藤|2000|p=286}}。この春秋時代の呼称は、周代に成立した[[経書|儒家経典]]の一つである歴史書『[[春秋]]』から取られている{{Sfn|伊藤|2000|p=286}}。 |
||
|出典の明記 = 2013年5月 |
|||
|正確性 = 2013年5月 |
|||
|独自研究 = 2013年5月 |
|||
}} |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
春秋時代と[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]を合わせて'''[[春秋戦国時代]]'''と一括して扱われる事も多い。洛邑を都にした紀元前771年以降の周王朝を東周と呼ぶ事から[[東周|東周時代]]とも別称される。春秋時代と戦国時代の境目を何時とするかには諸説あり、[[晋 (春秋)|晋]]が三国に分裂した紀元前453年か、その三国が正式に諸侯となった紀元前403年とするのが最も広く採用されている。{{main|春秋戦国時代}} |
|||
春秋の名称は、[[四書五経]]の一つ『[[春秋]]』に記述された時代、という意味を持つ。 |
|||
⚫ | |||
春秋時代と[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]をあわせて、'''春秋戦国時代'''(しゅんじゅうせんごくじだい)といったり'''東周時代'''(とうしゅうじだい)といったりする。どこをもって春秋時代と戦国時代の境目とするかは歴史家の間で意見が分かれている。 |
|||
{{main|春秋戦国時代}} |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
[[画像:春秋時代.PNG|right|thumb|300px|春秋時代概念地図]] |
[[画像:春秋時代.PNG|right|thumb|300px|春秋時代概念地図]] |
||
⚫ | |||
⚫ | |||
周の東遷に大きく貢献した鄭の武公はこの後、権勢を振るったが、大きすぎる功績により周王から、かえって疎んじられた。武公の子の[[荘公 (鄭)|荘公]]の代で、周の[[桓王 (周)|桓王]]による討伐を受けるも、撃退に成功した([[繻葛の戦い]])。この時に追撃するべきとの家臣の言葉に荘公は「天子に対してそのようなことは良くない」と答えた。この逸話は、周王の大幅な権威失墜を表す一方、それでも諸侯は周王への敬意を未だ抱いていたことも表している。ただ、その鄭の国威も荘公以降はあまり振るわなくなる。鄭は王室の卿士(王室直属)の家柄であったが、その統治所領は狭く、国力自体は中の下という程度であった為である。一方、周の東遷後も周王に対して敬意を払ってきた諸侯は、周王が一諸侯である鄭公に敗北した現実を目の当たりにして独自の政治的・軍事的動きを始めるようになった。現代の[[湖北省]][[随州市]]付近にあった{{仮リンク|曽 (春秋)|label=曽|zh|曾国 (姬姓)}}の春秋時代の候の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている<ref>[[佐藤信弥]]『周-理想化された古代王朝-』[[中公新書]] 2016年 ISBN 978-4-12-102396-4 p.146</ref>。さらに周王室内では幾度も王位継承争いが発生し、周の力は弱体化していった<ref>[[佐藤信弥]]『周-理想化された古代王朝-』p.166-169</ref>。 |
|||
周の東遷に大きく貢献した鄭は勢い盛んとなり、武公の子の[[荘公 (鄭)|荘公]]の時には周の領内に侵入して作物を奪う、王に図らずに[[魯]]と領地交換をするなどをしたために周の[[桓王]]との関係が悪化し、ついには[[紀元前707年]]に討伐を受けるが、撃退に成功した({{仮リンク|繻葛の戦い|zh|繻葛之战}}){{Sfn|伊藤|2000|pp=293-294}}。しかし荘公死後に後継を巡って鄭は内乱状態に陥り、これに[[宋 (春秋)|宋]]や魯などの諸侯が介入したために中原は戦場となり、鄭の国力は一気に衰えた。一方、中原以外の地域、東の[[斉 (春秋)|斉]]・北の[[晋 (春秋)|晋]]・西の[[秦]]・南の[[楚 (春秋)|楚]]などの国が周辺の小国を吸収しつつ国力を増大させて中原に進出してくるようになる{{Sfn|伊藤|2000|p=294}}。 |
|||
鄭に代わって覇権を握るのが東方の大国・[[斉 (春秋)|斉]]である。周建国の大功臣・[[呂尚|太公望]]を始祖とする斉は東の未開地帯を大きく広げ、国力を充実させていた。15代目[[釐公 (斉)|釐公]]の死後に後継争いで国内が混乱するが、内乱を収めた[[桓公 (斉)|桓公]]とその[[中国の宰相|宰相]]・[[管仲]]の活躍により、大きく飛躍する。当時、南方で周辺小国を呑み込んでいた新興国・[[楚 (春秋)|楚]]が大きく勢力を伸ばし、さらに中原の小国への侵攻の気配を見せていた。本来頼るべき周は小さくなった王室の中でなお権力争いを続けている有様であり、楚の威圧に怯えた小国は仕方なく服従していた。しかし斉に桓公が登場し、楚に対抗したことでこれら小国は斉に助けを求めるようになった。楚と対決した桓公は、召陵において楚の周に対する無礼を咎め、楚の侵攻を抑えた。これにより諸侯間の盟主と成った桓公は、[[紀元前651年]]に葵丘(現在の[[河南省]][[商丘市]][[民権県]])において[[会盟]]を開き、周王に代わって諸侯の間の取り決めを行った。この業績により桓公は[[覇者]]と呼ばれ、[[春秋五覇]]の第一に数えられる。もっとも、斉の覇権は中原を中心とした黄河流域に留まり、敗れたとはいえ楚が長江流域に勢力圏を形成するのを止める力はなく、以後も中原の最大勢力(斉・宋・晋)と南方の楚の争いは続くことになる。 |
|||
現在の[[湖北省]][[随州市]]付近にあった{{仮リンク|曽 (春秋)|label=曽|zh|曾国 (姬姓)}}の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている<ref>[[佐藤信弥]]『周-理想化された古代王朝-』[[中公新書]] 2016年 ISBN 978-4-12-102396-4 p.146</ref>。さらに周王室内では幾度も王位継承争いが発生し、周の力は弱体化していった<ref>佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.166-169</ref>。 |
|||
⚫ | しかし管仲の死後、人が変わったように堕落した桓公により国政は乱れ、さらに桓公死後の後継争いで斉は一気に覇権の座から転落した。これに代わって覇者になろうとしたのが |
||
最初に中原に進出してきたのが東の斉である。周建国の功臣太公望[[呂尚]]を始祖とする斉は14代目[[襄公 (斉)|襄公]]のときに杞<ref group="注釈">杞憂の杞とは別。</ref>を併合して領土を拡大した。襄公死後の後継争いに勝利したのが[[桓公 (斉)|桓公]]である。桓公は宰相[[管仲]]の補佐を受けて政治を整え、斉は大きく飛躍する{{Sfn|伊藤|2000|p=301}}。桓公は魯・宋・[[曹 (春秋)|曹]]・[[陳 (春秋)|陳]]などの国を集めて盛んに[[会盟]]を行い、斉を中心とした東方諸国連合が誕生した。桓公は[[衛]]や[[邢]]など滅びてしまった国を再興させ、また魯の内乱に介入して国内を安定させた{{Sfn|伊藤|2000|p=302}}。また南の楚が北方に進出しようと[[紀元前658年]]に鄭に侵攻、これに対して桓公は諸侯との連合軍で楚を撃退した。そして[[紀元前651年]]に葵丘(現在の[[河南省]][[商丘市]][[民権県]])において[[会盟]]を開き、周王に代わって諸侯の間の決まりを訓令した([[葵丘の会]]){{Sfn|伊藤|2000|pp=303-304}}。この業績により桓公は[[覇者]]と呼ばれ、[[春秋五覇]]の第一に数えられる{{Sfn|伊藤|2000|p=305}}。 |
|||
⚫ | 桓公に続く第二の覇者となるのが北の大国・ |
||
⚫ | しかし管仲の死後、人が変わったように堕落した桓公により国政は乱れ、さらに桓公死後の後継争いで斉は一気に覇権の座から転落した。これに代わって覇者になろうとしたのが宋の[[襄公 (宋)|襄公]]である{{Sfn|伊藤|2000|p=305}}。まず斉の後継争いに介入、元より太子とされて宋に預けられていた昭を位に就けて[[孝公 (斉)|孝公]]とした。さらに諸侯の盟主となるべく盂(現在の河南省商丘市[[睢県]])にて会盟を開いた{{Sfn|伊藤|2000|p=306}}。しかし紀元前638年に楚との戦いで大敗([[泓水の戦い]])。襄公自身もこの時の傷が元で後に死去。覇権の獲得は成らなかった{{Sfn|伊藤|2000|p=306}}。 |
||
文公と前後して活躍したのが、西の大国・秦の[[穆公 (秦)|穆公]]である。穆公は西の[[西戎|戎]]と戦って勝利し、[[百里奚]]などの他国出身者を積極的に起用し、小国を併合して領土を広げた。また驪姫の乱で混乱した晋に[[恵公 (晋)|恵公]]を擁立し、後に恵公が背信を繰り返すとこれを韓の地で大破し、その死後、今度は恵公の兄を即位させ晋の文公とした。秦の穆公と晋の文公の関係は良好であったが、文公の死後に再び両国の関係は悪化し、穆公はまたもや晋を大いに破っている。だが穆公死去後、家臣のほとんどが[[殉死]]したため秦は大きく後退した。 |
|||
⚫ | 桓公に続く第二の覇者となるのが北の大国・晋の[[文公 (晋)|文公]]である。晋は[[武公 (晋)|武公]]・[[献公 (晋)|献公]]の2代に亘って周辺諸国を併合して大きく伸張したが、献公の死後に起きた後継争いにより生命の危険を感じた文公国外へ逃亡した。文公は異国にあること10数年に亘り、苦労の果てに隣国・[[秦]]の助力を借りて、[[紀元前636年]]に晋公の座に就いた{{Sfn|伊藤|2000|p=310}}。君主に就いた文公は国内政治を治め、人材を登用し、周王室の内紛を収めた。楚との[[城濮の戦い]]で大勝し、践土(現在の河南省[[新郷市]][[原陽県]])に周の[[襄王 (周)|襄王]]を招き、会盟を開いて諸侯の盟主となった{{Sfn|伊藤|2000|p=311}}。 |
||
次に覇権を握るのが、南の大国・楚の[[荘王 (楚)|荘王]]である。もともと周から封建された国ではなく、実力により[[湖北省|湖北]]・[[湖南省|湖南]]を押さえて立国した経緯の為、王として認知されていなかった。のちに子爵の位を周より授かったが、国力に対して位が低すぎるとして自ら王を名乗るようになったのである。荘王は今まで朝廷にはびこっていた悪臣たちを一挙に排除し、有能な人材を登用した。国内を治めた荘王は豊富な兵力をもって北上して周辺の小国を威服させ、洛陽近くで大閲兵式を行って周王室に圧力をかけた。さらに鄭の都を包囲し、これを救援に来た晋軍を[[ヒツの戦い|邲]](ひつ、邲は必におおざと)で大破した。この勝利により中原の小国は楚に服従した。 |
|||
次に覇権を握るのが、南の楚の[[荘王 (楚)|荘王]]である。荘王即位直後は家臣団の抗争・天災・[[庸 (春秋)|庸]]国からの侵略などが続いたが、逆に庸国を併合し、国内を治めて政治を安定させた{{Sfn|伊藤|2000|p=315}}。洛陽近くで大閲兵式を行って周王室に圧力をかけた。さらに鄭の都を包囲し、これを救援に来た晋軍に大勝した([[邲の戦い]])。この勝利により晋の威信は落ち、荘王の覇権が確立された{{Sfn|伊藤|2000|p=319}}。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
この邲の戦い以降は諸侯同士の争いは少なくなる。その理由は、諸侯の下にいた大夫(たいふ)・士(し)と呼ばれる中級から下級の貴族階級が勃興して、彼らに諸国の実権が移り、他国との争いよりも国内での同格の貴族たちとの争いに忙しくなったからである。 |
|||
破れた晋もその後、[[狄]]を討ってその地を征服し、斉が魯を攻めたので斉を攻撃してこれを撃破し、国勢を回復した{{Sfn|伊藤|2000|p=322}}。 |
|||
これら諸国の実権を握った貴族としては、晋の[[晋 (春秋)#政治・軍制|六卿]](智・[[魏 (戦国)|魏]]・[[韓 (戦国)|韓]]・[[趙 (戦国)|趙]]・中行・士(范)<!--士氏本家は衰退しているが別に存在-->の六[[氏 (中国)|氏]])、斉の六卿(国・高・鮑・崔・慶・[[田斉|陳(田)]]の六氏)、魯の[[三桓氏|三桓]](仲孫(孟孫)・叔孫・季孫の三氏)、鄭の七穆(罕・駟・豊・游・印・国・良の七氏)などがいる。彼らは互いに争うこともあれば、同盟を結んで他の貴族と対立することもあり、時には君主とも対立し、君主を殺害するようなこともあった。これらの現象は伝統的な身分体制の崩壊も表している。この時期に[[儒教]]を起こした[[孔子]]もこのような伝統体制の崩壊に対する憤慨がその学の源となったとも考えられている。 |
|||
⚫ | |||
こういった背景から国同士の対立をあまり望まれなくなり、[[紀元前546年]]に弭兵の会が晋と楚の間で行われた。弭兵(びへい)とは戦いを止めるということである。 |
|||
⚫ | |||
貴族たちの伸張はそれまであまり国政の座に就くことのなかった出自の者たちを国政の舞台に押し上げ、この時期には名宰相と呼ばれる者が多く出る。代表的なものに斉の[[晏嬰]]・鄭の[[子産]]・晋の[[羊舌キツ|羊舌肸(叔向)]]などがいる。また大国同士が直接ぶつかりあうことが避けられたため、鄭の子産や魯の孔子などの活躍する小国外交が活発になった。子産は中国初の[[成文法]]を制定したことで有名である。この子産の行動についても、法律はそれまで上流階級の中で暗黙の了解で行われていたが、新しく勃興してきた層階級の人間たちにはそれが不満であったので、法律を形に残るようにしなければいけなくなったと考えられる。 |
|||
北の晋と南の楚に挟まれた鄭などの国々は晋に迫られれば晋に従い、楚に迫られれば楚に従うという態度を採らざるを得なかった。この状態に疲れ果てた諸国は平和を望むようになり、[[紀元前579年]]に宋の仲介により晋・楚に不戦条約を結ぶこととなった。しかしその後の紀元前576年に再び晋楚の間で戦端が開かれ、翌年に鄢陵にて晋軍が楚軍に大勝([[鄢陵の戦い]])。その後も何度となく戦いは起こり、諸国の間では内乱が頻発したために再び平和への機運が高まり、[[紀元前546年]]に再び和平が成立し、その後の十数年は平和が保たれた{{Sfn|伊藤|2000|p=32}}。 |
|||
この頃になると君主は貴族たちの顔色を窺わなければ立ち行かなくなり、晋では先述の六卿から2つが脱落した智・魏・韓・趙の4氏に完全に牛耳られ、斉ではかつて[[陳 (春秋)|陳]]より亡命してきた田氏の力が非常に大きくなり、楚では有力貴族と王族との争いで国政は混乱した。 |
|||
この頃の諸国の内部では[[大夫]]と呼ばれる諸侯の下にいた貴族階級が諸侯を凌ぐ勢力を持つようになり、時には晋の[[厲公 (晋)|厲公]]のように大夫の共謀によって殺されることもあった{{Sfn|伊藤|2000|p=335}}。また大夫の下にある[[士]]という階級の者たちも勢力を伸ばしていた。魯では三桓氏と呼ばれる3つの大夫の家が権力を握っていたが、ところが三桓氏の家臣であった士階級の[[陽虎]]が三桓氏を抑え込んで一時的にではあるが政権を執った{{Sfn|伊藤|2000|p=342}}。この流れの中で本来政治の中枢に座ることが出来なかった大夫層から[[晏嬰]]や[[子産]]などの名政治家と呼ばれる者が登場する。また[[孔子]]もこの中から登場し、後の中国の支配的思想となった[[儒教]]を創始することになる{{Sfn|伊藤|2000|p=343-358}}。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
完全な異民族が中原の覇者となったことで周王朝を中心とする秩序が無意味化したこと、呉越は製鉄の先駆地でこの頃から本格的に鉄器時代に入ること等から、呉越抗争の直後から戦国時代とする説もある。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | その一方、南の長江流域では[[呉 (春秋)|呉]]・[[越]]という2つの新興勢力が興っていた。呉は[[闔閭]]・[[夫差]]の2人の君主と名臣[[孫武]]・[[伍子胥]]、越は君主[[勾践]]と名臣[[范蠡]]の力により急速に勢力を拡大した。呉は楚の首都を陥落させ、滅亡寸前に追い込むほどの力を見せる{{Sfn|伊藤|2000|pp=326-327}}。さらに越を撃破して服属させ、黄河流域に進出して諸侯の盟主の座を晋と争った{{Sfn|伊藤|2000|pp=329-330}}。しかし、一旦屈服した越の入念な準備に基づいた反撃により、呉は滅亡する{{Sfn|伊藤|2000|p=331}}。越も勾践の死後は振るわず、後に楚に滅ぼされた。 |
||
⚫ | |||
⚫ | また晋では、専権を振るっていた智氏に対して反発した魏氏・韓氏・趙氏の三氏の連合により[[紀元前453年]]に滅ぼされる([[晋陽の戦い]])。智氏の旧領を分け取りにしたことでさらに力をつけた3氏はそれぞれ[[魏 (戦国)|魏]]・[[韓 (戦国)|韓]]・[[趙 (戦国)|趙]]の国を建てた。この3つを合わせて'''[[三晋]]'''とも呼ぶ。その後、魏・韓・趙の三国は[[紀元前403年]]に周王室より正式に諸侯として認められた{{Sfn|貝塚|2000|p=390}}。この時点をもって春秋時代は完全に終わり、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に入る{{Sfn|貝塚|2000|p=390}}。 |
||
{{出典の明記|date=2013年5月}} |
|||
⚫ | |||
== 軍制・戦 == |
|||
{{中国の歴史}} |
|||
春秋時代は「[[宗法]]」に基づく軍制が基本で、一軍を12,500人として、大国は三軍、次国は二軍、小国は一軍と定められており、これを大きく抜き出ることはなかった。三軍を有したのは[[晋 (春秋)|晋]]・[[楚 (春秋)|楚]]・[[斉 (春秋)|斉]]ぐらいのもので、しかも斉の場合は一軍は1万人の兵を指している。六軍を有してよいのは周王だけだが、[[周]]は春秋時代から急速に衰え六軍は形成できなかった。晋では[[文公 (晋)|文公]]の時、新たに三軍を加え六軍としたがほどなく廃止されている。 |
|||
⚫ | |||
軍が巨大化しなかったのは、周王を形式上尊ぶことから「宗法」を遵守したこと、この頃まだ鉄は使われておらず武器の質が低かったこと、鉄製農具がなく生産性が低いため人口も次の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]よりかなり少なく、長期間の戦争は著しく国力を減退させることなどが挙げられる([[鉄]]は戦国時代から使われ出す)。 |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
=== 出典 === |
|||
{{Reflist|30em}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
この頃の主な戦争は[[チャリオット|兵車]]戦であり、騎馬はほぼ存在しなかった。この頃の中華思想は、車(馬車・兵車)という高等な乗り物を使用するのが[[中華圏]]の人であり、馬に直に騎乗するのは[[狄戎]](異民族)と変わりがないと思われていた。大夫は兵車に乗り戦争指揮をし、兵車を核として歩兵を配置した。 |
|||
* {{Cite book|和書|author1=貝塚茂樹 |authorlink1=貝塚茂樹 |author2=伊藤道治 |authorlink2=伊藤道治|title=古代中国 |year=2000 |publisher=[[講談社]] |edition=初版 |series=講談社学術文庫 |isbn=978-4061594197 |ref={{SfnRef|貝塚|伊藤|1997}} }} |
|||
** {{Citation|和書|author=伊藤道治 |contribution=伝説時代 - 春秋時代 |title=古代中国 |ref={{SfnRef|伊藤|2000}} }} |
|||
** {{Citation|和書|author=貝塚茂樹 |contribution=戦国時代 |title=古代中国 |ref={{SfnRef|貝塚|2000}} }} |
|||
また、まだこの時代は戦を前にして占いをする風習も残っていた。 |
|||
春秋時代以降見られない戦争形式が、この時は見受けられる。つまり、野天での開戦時に一方の使者が相手陣地に乗り込み、戯言を言う・武勇を示すといったことをする。相手方がこの戯言に戯言で返答する、または武勇を示した相手を追いかけ出したら戦争開始となった。これは、この時代中期まではしっかりと見られ、奇襲は非礼とされていた。 |
|||
それに、この時代特有の光景も見られる。たとえば、「[[エン陵の戦い|鄢陵の戦い]]」でのことである。晋の大夫・[[郤至]]が敵国である楚の[[共王 (楚)|共王]]を発見した。郤至は共王を見ると兵車を降り、冑を脱ぎ、走り去った。共王は好感を抱き郤至に弓を贈らせたが、受け取らず自分の無事を告げて粛という礼を3回した。また、晋の君主[[厲公 (晋)|厲公]]の車右である[[欒鍼]]は、敵軍の[[子重]](公子嬰斉)の旗を見つけると、晋軍の勇を見せるため厲公に頼み込み酒樽を送ってもらった。という風に「礼」を重んじた戦が展開されたのがこの時代である。戦国時代からは、この光景は見られず戦における「礼」は消失した。 |
|||
<!-- |
|||
== 倭人との関係 == |
|||
⚫ | |||
--> |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
*[[春秋]] |
*[[春秋]] |
||
79行目: | 61行目: | ||
{{春秋戦国時代}} |
{{春秋戦国時代}} |
||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:しゆんしゆうしたい}} |
{{DEFAULTSORT:しゆんしゆうしたい}} |
||
[[Category:春秋戦国|*しゆんしゆうしたい]] |
[[Category:春秋戦国|*しゆんしゆうしたい]] |
2024年9月8日 (日) 06:41時点における最新版
春秋時代(しゅんじゅうじだい)(簡体字: 春秋时代; 繁体字: 春秋時代; 拼音: Chūnqiū shídài)は、中国における時代区分の一つ。周の平王が王に即位した紀元前770年から現在の山西省一帯を占めていた大国「晋」が韓・魏・趙の三国に分裂した紀元前453年までを指す[1]。この春秋時代の呼称は、周代に成立した儒家経典の一つである歴史書『春秋』から取られている[1]。
春秋時代と戦国時代を合わせて春秋戦国時代と一括して扱われる事も多い。洛邑を都にした紀元前771年以降の周王朝を東周と呼ぶ事から東周時代とも別称される。春秋時代と戦国時代の境目を何時とするかには諸説あり、晋が三国に分裂した紀元前453年か、その三国が正式に諸侯となった紀元前403年とするのが最も広く採用されている。
歴史
[編集]覇者の時代
[編集]周の幽王が紀元前771年に殺されると、翌年に幽王の息子が鄭の武公らの力を借りて洛陽にて周を再興する。これが平王であり、以降の周は東周と呼ばれ、春秋時代の始まりである[1]。
周の東遷に大きく貢献した鄭は勢い盛んとなり、武公の子の荘公の時には周の領内に侵入して作物を奪う、王に図らずに魯と領地交換をするなどをしたために周の桓王との関係が悪化し、ついには紀元前707年に討伐を受けるが、撃退に成功した(繻葛の戦い)[2]。しかし荘公死後に後継を巡って鄭は内乱状態に陥り、これに宋や魯などの諸侯が介入したために中原は戦場となり、鄭の国力は一気に衰えた。一方、中原以外の地域、東の斉・北の晋・西の秦・南の楚などの国が周辺の小国を吸収しつつ国力を増大させて中原に進出してくるようになる[3]。
現在の湖北省随州市付近にあった曽の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている[4]。さらに周王室内では幾度も王位継承争いが発生し、周の力は弱体化していった[5]。
最初に中原に進出してきたのが東の斉である。周建国の功臣太公望呂尚を始祖とする斉は14代目襄公のときに杞[注釈 1]を併合して領土を拡大した。襄公死後の後継争いに勝利したのが桓公である。桓公は宰相管仲の補佐を受けて政治を整え、斉は大きく飛躍する[6]。桓公は魯・宋・曹・陳などの国を集めて盛んに会盟を行い、斉を中心とした東方諸国連合が誕生した。桓公は衛や邢など滅びてしまった国を再興させ、また魯の内乱に介入して国内を安定させた[7]。また南の楚が北方に進出しようと紀元前658年に鄭に侵攻、これに対して桓公は諸侯との連合軍で楚を撃退した。そして紀元前651年に葵丘(現在の河南省商丘市民権県)において会盟を開き、周王に代わって諸侯の間の決まりを訓令した(葵丘の会)[8]。この業績により桓公は覇者と呼ばれ、春秋五覇の第一に数えられる[9]。
しかし管仲の死後、人が変わったように堕落した桓公により国政は乱れ、さらに桓公死後の後継争いで斉は一気に覇権の座から転落した。これに代わって覇者になろうとしたのが宋の襄公である[9]。まず斉の後継争いに介入、元より太子とされて宋に預けられていた昭を位に就けて孝公とした。さらに諸侯の盟主となるべく盂(現在の河南省商丘市睢県)にて会盟を開いた[10]。しかし紀元前638年に楚との戦いで大敗(泓水の戦い)。襄公自身もこの時の傷が元で後に死去。覇権の獲得は成らなかった[10]。
桓公に続く第二の覇者となるのが北の大国・晋の文公である。晋は武公・献公の2代に亘って周辺諸国を併合して大きく伸張したが、献公の死後に起きた後継争いにより生命の危険を感じた文公国外へ逃亡した。文公は異国にあること10数年に亘り、苦労の果てに隣国・秦の助力を借りて、紀元前636年に晋公の座に就いた[11]。君主に就いた文公は国内政治を治め、人材を登用し、周王室の内紛を収めた。楚との城濮の戦いで大勝し、践土(現在の河南省新郷市原陽県)に周の襄王を招き、会盟を開いて諸侯の盟主となった[12]。
次に覇権を握るのが、南の楚の荘王である。荘王即位直後は家臣団の抗争・天災・庸国からの侵略などが続いたが、逆に庸国を併合し、国内を治めて政治を安定させた[13]。洛陽近くで大閲兵式を行って周王室に圧力をかけた。さらに鄭の都を包囲し、これを救援に来た晋軍に大勝した(邲の戦い)。この勝利により晋の威信は落ち、荘王の覇権が確立された[14]。
破れた晋もその後、狄を討ってその地を征服し、斉が魯を攻めたので斉を攻撃してこれを撃破し、国勢を回復した[15]。
大夫・士の時代
[編集]北の晋と南の楚に挟まれた鄭などの国々は晋に迫られれば晋に従い、楚に迫られれば楚に従うという態度を採らざるを得なかった。この状態に疲れ果てた諸国は平和を望むようになり、紀元前579年に宋の仲介により晋・楚に不戦条約を結ぶこととなった。しかしその後の紀元前576年に再び晋楚の間で戦端が開かれ、翌年に鄢陵にて晋軍が楚軍に大勝(鄢陵の戦い)。その後も何度となく戦いは起こり、諸国の間では内乱が頻発したために再び平和への機運が高まり、紀元前546年に再び和平が成立し、その後の十数年は平和が保たれた[16]。
この頃の諸国の内部では大夫と呼ばれる諸侯の下にいた貴族階級が諸侯を凌ぐ勢力を持つようになり、時には晋の厲公のように大夫の共謀によって殺されることもあった[17]。また大夫の下にある士という階級の者たちも勢力を伸ばしていた。魯では三桓氏と呼ばれる3つの大夫の家が権力を握っていたが、ところが三桓氏の家臣であった士階級の陽虎が三桓氏を抑え込んで一時的にではあるが政権を執った[18]。この流れの中で本来政治の中枢に座ることが出来なかった大夫層から晏嬰や子産などの名政治家と呼ばれる者が登場する。また孔子もこの中から登場し、後の中国の支配的思想となった儒教を創始することになる[19]。
呉越抗争
[編集]その一方、南の長江流域では呉・越という2つの新興勢力が興っていた。呉は闔閭・夫差の2人の君主と名臣孫武・伍子胥、越は君主勾践と名臣范蠡の力により急速に勢力を拡大した。呉は楚の首都を陥落させ、滅亡寸前に追い込むほどの力を見せる[20]。さらに越を撃破して服属させ、黄河流域に進出して諸侯の盟主の座を晋と争った[21]。しかし、一旦屈服した越の入念な準備に基づいた反撃により、呉は滅亡する[22]。越も勾践の死後は振るわず、後に楚に滅ぼされた。
また晋では、専権を振るっていた智氏に対して反発した魏氏・韓氏・趙氏の三氏の連合により紀元前453年に滅ぼされる(晋陽の戦い)。智氏の旧領を分け取りにしたことでさらに力をつけた3氏はそれぞれ魏・韓・趙の国を建てた。この3つを合わせて三晋とも呼ぶ。その後、魏・韓・趙の三国は紀元前403年に周王室より正式に諸侯として認められた[23]。この時点をもって春秋時代は完全に終わり、戦国時代に入る[23]。
前後して、斉では有力大夫の田氏が完全に国政を牛耳り、紀元前386年に田和により簒奪され、太公望以来の斉は滅びた。これ以降の斉をそれまでと区別して田斉とも呼ぶ[24]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 杞憂の杞とは別。
出典
[編集]- ^ a b c 伊藤 2000, p. 286.
- ^ 伊藤 2000, pp. 293–294.
- ^ 伊藤 2000, p. 294.
- ^ 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』中公新書 2016年 ISBN 978-4-12-102396-4 p.146
- ^ 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.166-169
- ^ 伊藤 2000, p. 301.
- ^ 伊藤 2000, p. 302.
- ^ 伊藤 2000, pp. 303–304.
- ^ a b 伊藤 2000, p. 305.
- ^ a b 伊藤 2000, p. 306.
- ^ 伊藤 2000, p. 310.
- ^ 伊藤 2000, p. 311.
- ^ 伊藤 2000, p. 315.
- ^ 伊藤 2000, p. 319.
- ^ 伊藤 2000, p. 322.
- ^ 伊藤 2000, p. 32.
- ^ 伊藤 2000, p. 335.
- ^ 伊藤 2000, p. 342.
- ^ 伊藤 2000, p. 343-358.
- ^ 伊藤 2000, pp. 326–327.
- ^ 伊藤 2000, pp. 329–330.
- ^ 伊藤 2000, p. 331.
- ^ a b 貝塚 2000, p. 390.
- ^ 貝塚 2000, p. 391.
参考文献
[編集]- 貝塚茂樹、伊藤道治『古代中国』(初版)講談社〈講談社学術文庫〉、2000年。ISBN 978-4061594197。
- 伊藤道治「伝説時代 - 春秋時代」『古代中国』。
- 貝塚茂樹「戦国時代」『古代中国』。