「長狭国造」の版間の差分
→概要: 敬称を除く(Wikipedia:スタイルマニュアル#人物・人名による)。 |
学者気取りの先頭はここで終わり! (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
||
(5人の利用者による、間の10版が非表示) | |||
4行目: | 4行目: | ||
|家紋名称 = |
|家紋名称 = |
||
|本姓 = [[長狭氏]]か |
|本姓 = [[長狭氏]]か |
||
|家祖 = |
|家祖 = [[武沼田命]] |
||
|種別 = [[皇別]] |
|種別 = [[皇別]] |
||
|出身地 = |
|出身地 = 大和国 |
||
|根拠地 = 長狭国(のちの[[安房国]][[長狭郡]]と[[朝夷郡]]) |
|根拠地 = 長狭国(のちの[[安房国]][[長狭郡]]と[[朝夷郡]]) |
||
|人物 = |
|人物 = |
||
16行目: | 16行目: | ||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
=== |
=== 表記 === |
||
『[[古事記]]』に'''長狭国造'''と表記される。 |
|||
⚫ | |||
=== 祖先 === |
|||
(無出典のためコメントアウトしました)なお系図によれば、長狭国造には2系統ある。まず[[多氏]]の祖[[武敷美]](神八井耳命の6世孫にあたる)の弟'''[[武間米]]'''は、長狭国造と[[日下部氏]]の祖である。またこの二人の叔父にあたる初代[[仲国造]][[建借馬]]の子である'''[[武沼田]]'''が初代長狭国造であるという。その子には[[大住那]]がいる。 --> |
|||
⚫ | |||
=== 氏族 === |
=== 氏族 === |
||
長狭国造の氏族は不明であるが、長狭国造の後裔に |
長狭国造の氏族は不明であるが、長狭国造の後裔に長狭氏がいる([[#子孫]]参照)ので、国造の氏族も'''[[長狭氏]]'''(ながさうじ)だった可能性がある。また[[カバネ|姓]]も不明であるが、国造には全国的に[[直 (姓)|直]]の姓を持つものが多く([[国造#諸国造一覧]]参照)、長狭国造も直姓だった可能性がある。[[#祖先|上記]]の『古事記』の内容や系図からは、[[意富氏]]([[カバネ|姓]]は[[臣]])や[[都祁氏]]<ref group="注">[[闘鶏国造]]の氏族。</ref>(姓は[[直 (姓)|直]])・[[道奥]][[石城国造]]・[[常陸|常道]][[仲国造]]などと同祖関係にあることが分かる。 |
||
== 本拠 == |
|||
の |
国造の本拠は後の[[安房国]]'''[[長狭郡]]'''<ref>『[[#chizu|日本歴史地図 原始・古代編 下]]』。</ref>で、概ね現在の[[千葉県]][[鴨川市]]の大部分に当たる。長狭国造の本拠地に比定されているのはその中にある'''[[広場古墳群]]'''([[鴨川市]]。[[#墓]]参照。)である<ref name="日本辞典">[http://www.nihonjiten.com/data/263220.html 長狭国造 ( 安房)] - 日本辞典(2018年2月6日 午後5時38分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。 |
||
なお、「長狭」の名を持つ自治体としては[[長狭町]]があった。 |
なお、「長狭」の名を持つ自治体としては[[長狭町]]があった。 |
||
34行目: | 35行目: | ||
長狭国造が全国の国造の設置時期と任命された者らの記録がある「[[国造本紀]]」(『[[先代旧事本紀]]』巻10)に記載されていないのは、北に『[[日本書紀]]』[[安閑天皇]]元年([[534年]])4月条にみえる[[伊甚屯倉]]に接し、南からは[[阿波国造]]の圧迫を受けて、[[7世紀]]には勢力を失ったためと見られている。 |
長狭国造が全国の国造の設置時期と任命された者らの記録がある「[[国造本紀]]」(『[[先代旧事本紀]]』巻10)に記載されていないのは、北に『[[日本書紀]]』[[安閑天皇]]元年([[534年]])4月条にみえる[[伊甚屯倉]]に接し、南からは[[阿波国造]]の圧迫を受けて、[[7世紀]]には勢力を失ったためと見られている。 |
||
長狭国など11国([[阿波国造|阿波国]]、長狭国、[[須恵国造|須恵国]]、[[馬来田国造|馬来田国]]、[[菊麻国造|菊麻国]]、[[伊甚国造|伊甚国]]、[[上海上国造|上海上国]]、[[武社国造|武社国]]、[[下海上国造|下海上国]]、[[千葉国造|千葉国]]、[[印波国造|印波国]])は[[総国|総国(捄国)]]と呼ばれたが、『[[古語拾遺]]』によれば |
長狭国など11国([[阿波国造|阿波国]]、長狭国、[[須恵国造|須恵国]]、[[馬来田国造|馬来田国]]、[[菊麻国造|菊麻国]]、[[伊甚国造|伊甚国]]、[[上海上国造|上海上国]]、[[武社国造|武社国]]、[[下海上国造|下海上国]]、[[千葉国造|千葉国]]、[[印波国造|印波国]])は[[総国|総国(捄国)]]と呼ばれたが、『[[古語拾遺]]』によれば天富命が植えた麻の育ちが良かったために、麻の別称である「''総''」から、「総国」(一説には「総道」)と命名したと言われている。[[安閑天皇]]元年([[534年]])(『[[帝王編年記]]』説)には捄国のうち長狭国を含む8国(阿波国、長狭国、須恵国、馬来田国、菊麻国、伊甚国、上海上国、武社国)が分立して[[上総国]](上捄国)となった。この分立の時期については、[[毛野|毛野国]]から分かれた上野国と同じく「上」を冠する形式をとることから[[6世紀]]中葉とみる説もある<ref>楠原佑介他・編『古代地名語源辞典』「総」の項、[[東京堂出版]] 1981年。ISBN 4-490-10148-1</ref>。上総国は[[7世紀]]に[[令制国]]となった。[[養老]]2年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]([[718年]][[6月4日]])に上総国より[[平郡|平群郡]]・[[安房郡]](以上2郡は旧[[阿波国造|阿波国]])・[[朝夷郡]]・[[長狭郡]](以上2郡は旧長狭国)の4郡を割いて安房国を新設したが、[[天平]]13年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]([[742年]][[1月20日]])に安房国は再び上総国に併合された。その後[[天平宝字]]元年([[757年]])にもとの4郡をもって安房国が再設置された。 |
||
== 氏神 == |
|||
長狭国造 |
『[[延喜式]]』には長狭郡の[[式内社]]は記載されておらず、かつて長狭国造が何を[[氏神]]とし、どのような[[神社]]を祀ったかは不明である。 |
||
=== 墓 === |
=== 墓 === |
||
* '''[[広場古墳群]]''' |
* '''[[広場古墳群]]''' |
||
*: [[千葉県]][[鴨川市]](旧長挟郡)にある[[古墳群]]。長狭国造の墓とも目される<ref name="日本辞典"/>。古墳時代後期になるとこの古墳群中の[[円墳]]から[[砂岩]]製の刳抜式[[舟形石棺]]が発見されている<ref name="南房総の歴史">[https://www.mboso-etoko.jp/kyoudo/gyousei/kodai_01.html 南房総の歴史 行政史](2018年2月6日 午後6時27分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。刳抜式舟形石棺の出土例は、鴨川のものが県内唯一である<ref name="南房総の歴史"/>。 |
*: [[千葉県]][[鴨川市]](旧長挟郡)にある[[古墳群]]。長狭国造の墓とも目される<ref name="日本辞典"/>。古墳時代後期になるとこの古墳群中の[[円墳]]から[[砂岩]]製の刳抜式[[舟形石棺]]が発見されている<ref name="南房総の歴史">[https://www.mboso-etoko.jp/kyoudo/gyousei/kodai_01.html 南房総の歴史 行政史](2018年2月6日 午後6時27分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。刳抜式舟形石棺の出土例は、鴨川のものが県内唯一である<ref name="南房総の歴史"/>。 |
||
== 子孫 == |
|||
* '''[[長狭氏]]''' |
* '''[[長狭氏]]''' |
||
*: [[長狭郡]]([[#支配領域|上記]])を根拠地とした<ref name="日本辞典"/>氏族。『[[#seishi|姓氏家系大辞典. 第3巻]]』は「長狭国造の後裔ならん」としている。 |
*: [[長狭郡]]([[#支配領域|上記]])を根拠地とした<ref name="日本辞典"/>氏族。『[[#seishi|姓氏家系大辞典. 第3巻]]』は「長狭国造の後裔ならん」としている。 |
||
51行目: | 52行目: | ||
=== 注釈 === |
=== 注釈 === |
||
{{Reflist|group="注"}} |
{{Reflist|group="注"}} |
||
=== 出典 === |
=== 出典 === |
||
{{Reflist|2}} |
{{Reflist|2}} |
||
57行目: | 57行目: | ||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
* 小笠原長和・監 『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』 平凡社、1996年、ISBN 4-582-49012-3、1063頁 |
* 小笠原長和・監 『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』 平凡社、1996年、ISBN 4-582-49012-3、1063頁 |
||
* {{Cite book|和書|editor=|author=太田亮|authorlink=太田亮|url= |
* {{Cite book|和書|editor=|author=太田亮|authorlink=太田亮|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1131019/47|accessdate=2018-02-06|year=1936|chapter=|title=姓氏家系大辞典. 第3巻|publisher=[[姓氏家系大辞典刊行会]]|isbn=|page=4163|ref=seishi}}リンクは[[国立国会図書館デジタルコレクション]]、47コマ目。 |
||
* {{Cite book|和書|author=|editor=[[竹内理三]]等|title=[[日本歴史地図]] 原始・古代編 下|year=1982|publisher=[[柏書房]]|isbn=|page=289|chapter=|ref=chizu}} |
* {{Cite book|和書|author=|editor=[[竹内理三]]等|title=[[日本歴史地図]] 原始・古代編 下|year=1982|publisher=[[柏書房]]|isbn=|page=289|chapter=|ref=chizu}} |
||
70行目: | 70行目: | ||
[[Category:国造]] |
[[Category:国造]] |
||
[[Category:千葉県の歴史]] |
[[Category:千葉県の歴史]] |
||
[[Category:多氏]] |
[[Category:多氏|#なかさのくにのみやつこ]] |
2022年7月15日 (金) 02:41時点における最新版
長狭国造 | |
---|---|
本姓 | 長狭氏か |
家祖 | 武沼田命 |
種別 | 皇別 |
出身地 | 大和国 |
主な根拠地 | 長狭国(のちの安房国長狭郡と朝夷郡) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
長狭国造(ながさのくにのみやつこ、ながさこくぞう)は、のちに安房国東部となる地域(長狭国)を支配した国造である。
『先代旧事本紀』巻10の「国造本紀」には全国の国造の設置時期と任命された者らの記録があるが、この長狭国造に関する記載はなく、この国造の存在は、『古事記』神武天皇段の記載より確認される。
概要
[編集]表記
[編集]『古事記』に長狭国造と表記される。
祖先
[編集]氏族
[編集]長狭国造の氏族は不明であるが、長狭国造の後裔に長狭氏がいる(#子孫参照)ので、国造の氏族も長狭氏(ながさうじ)だった可能性がある。また姓も不明であるが、国造には全国的に直の姓を持つものが多く(国造#諸国造一覧参照)、長狭国造も直姓だった可能性がある。上記の『古事記』の内容や系図からは、意富氏(姓は臣)や都祁氏[注 1](姓は直)・道奥石城国造・常道仲国造などと同祖関係にあることが分かる。
本拠
[編集]国造の本拠は後の安房国長狭郡[1]で、概ね現在の千葉県鴨川市の大部分に当たる。長狭国造の本拠地に比定されているのはその中にある広場古墳群(鴨川市。#墓参照。)である[2]。
なお、「長狭」の名を持つ自治体としては長狭町があった。
支配領域
[編集]長狭国造の支配領域は当時長狭国と呼ばれていた地域である。長狭国はのちの令制国の安房国の東部(長狭郡(加茂川流域)と朝夷郡(丸山川流域))をさし、現在の千葉県鴨川市と南房総市の一部に当たる。
長狭国造が全国の国造の設置時期と任命された者らの記録がある「国造本紀」(『先代旧事本紀』巻10)に記載されていないのは、北に『日本書紀』安閑天皇元年(534年)4月条にみえる伊甚屯倉に接し、南からは阿波国造の圧迫を受けて、7世紀には勢力を失ったためと見られている。
長狭国など11国(阿波国、長狭国、須恵国、馬来田国、菊麻国、伊甚国、上海上国、武社国、下海上国、千葉国、印波国)は総国(捄国)と呼ばれたが、『古語拾遺』によれば天富命が植えた麻の育ちが良かったために、麻の別称である「総」から、「総国」(一説には「総道」)と命名したと言われている。安閑天皇元年(534年)(『帝王編年記』説)には捄国のうち長狭国を含む8国(阿波国、長狭国、須恵国、馬来田国、菊麻国、伊甚国、上海上国、武社国)が分立して上総国(上捄国)となった。この分立の時期については、毛野国から分かれた上野国と同じく「上」を冠する形式をとることから6世紀中葉とみる説もある[3]。上総国は7世紀に令制国となった。養老2年5月2日(718年6月4日)に上総国より平群郡・安房郡(以上2郡は旧阿波国)・朝夷郡・長狭郡(以上2郡は旧長狭国)の4郡を割いて安房国を新設したが、天平13年12月10日(742年1月20日)に安房国は再び上総国に併合された。その後天平宝字元年(757年)にもとの4郡をもって安房国が再設置された。
氏神
[編集]『延喜式』には長狭郡の式内社は記載されておらず、かつて長狭国造が何を氏神とし、どのような神社を祀ったかは不明である。
墓
[編集]子孫
[編集]- 長狭氏
- 長狭郡(上記)を根拠地とした[2]氏族。『姓氏家系大辞典. 第3巻』は「長狭国造の後裔ならん」としている。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『日本歴史地図 原始・古代編 下』。
- ^ a b c 長狭国造 ( 安房) - 日本辞典(2018年2月6日 午後5時38分(JST)閲覧)
- ^ 楠原佑介他・編『古代地名語源辞典』「総」の項、東京堂出版 1981年。ISBN 4-490-10148-1
- ^ a b 南房総の歴史 行政史(2018年2月6日 午後6時27分(JST)閲覧)
参考文献
[編集]- 小笠原長和・監 『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』 平凡社、1996年、ISBN 4-582-49012-3、1063頁
- 太田亮『姓氏家系大辞典. 第3巻』姓氏家系大辞典刊行会、1936年、4163頁 。2018年2月6日閲覧。リンクは国立国会図書館デジタルコレクション、47コマ目。
- 竹内理三等 編『日本歴史地図 原始・古代編 下』柏書房、1982年、289頁。