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「シュザンヌ・ヴァラドン」の版間の差分

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{{Infobox 芸術家
{{Infobox 芸術家
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| caption = 若い頃のヴァラドン
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| caption = 20代のシュザンヌ・ヴァラドン
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'''シュザンヌ・ヴァラドン'''({{lang-fr|Suzanne Valadon}}, [[1865年]][[9月23日]]<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/シュザンヌ+ヴァラドン-1804370 |title = 367日誕生日大事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-04 }}</ref> - [[1938年]][[4月7日]])は[[フランス]][[モンマルトル]][[画家]]。'''スザンヌ(ンヌ・ヴァラド'''とも呼ばれる。画家になる前は、著名な画家のモデルでもあった。画家[[モーリス・ユトリロ]]の母である。人物をほとんど描かなかったユトリロとは対照的に、ヴァラドンの作品の主題ほとんどが人物であり、高いデッサン力に支えられた太い簡潔な線は、対象の特徴を容赦なく捉え力強いヴァはユトリロが画家として成功するまで、息子に絵画の才能あるとは思っておず、また息子も母から絵画を学ぶことはなかったため、互いに影響を受ることなく、独自画風を確立している。
'''シュザンヌ・ヴァラドン'''('''Suzanne Valadon'''、[[1865年]][[9月23日]] - [[1938年]][[4月7日]])は[[フランス]]の[[画家]]。[[モンマルトル]][[ピエール・ピヴィ・ド・シャヴァンヌ|ピュヴィスド・シャヴァンヌ]][[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|ロートレック]]らの著名な画家の[[モデル (職業)|モデル]]を務めながら[[独学]]絵を描き始め、[[エドガー・ドガ]]に師事した。[[モーリス・ユトリロ]]の母であり、幼いユトリロの[[素]]ら1921年制作の代表作《モーリス・ユトリロの肖像》まで息子を描いた絵を多数遺しているが、主に繊細[[風景画]]を描いたユトリロとは対照的に、ヴァラドンは力強い人物られ[[国民美術協会 (フランス)|国民美術協会]]に出展した初の女性画家であり国立美術学校で女性学生による[[ヌード|裸体]]モデルデッザン禁じれてた時代、女性だなく男性裸体も[[フォーヴィスム|野獣派]]的な力強線で表現した先駆的・前衛的な女性画家である。


==生涯==
== 生涯 ==
[[File:Portrait de Suzanne Valadon par Henri de Toulouse-Lautrec.jpg|left|thumb|「二日酔い」(ロートレック作、ヴァラドンの肖像)''"La Buveuse"'']]
ヴァラドンは、[[オート=ヴィエンヌ県]]ベッシーヌ=シュル=ガルタンプで貧しい洗濯女の私生児として生まれた。1870年に母マドレーヌとともに[[パリ]]へ移り住み、10代の初めから様々な職に就いた。一時期、あこがれていた[[サーカス]]の[[空中ブランコ|ブランコ]]乗りになるが、ブランコから落ちて負傷しブランコに乗れなくなったため、10代後半で絵画モデルになる。
[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]の「[[ブージヴァルのダンス]]」、「都会のダンス」<ref>有地京子『オルセーはやまわり』([[中央公論新社]])によれば、この作品の連作「田舎のダンス」では長年の恋人アリーヌが嫉妬したために顔をヴァラドンからアリーヌに替えたという。この作品の制作中にモーリスを妊娠しているが、一番の有力候補が[[ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ]]とルノワールだという。</ref>([[オルセー美術館]]蔵)、[[パリ大学]]大講堂にある[[ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ|シャヴァンヌ]]作「聖なる森」、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|ロートレック]]の「二日酔い」は、ヴァラドンがモデルである。当世一流の画家たちの仕事に接することによって、彼女もまた画家を目指すようになった。


=== 背景 ===
18歳の時、息子モーリスを生む<ref>{{Cite book|和書 |author = [[ジョン・バクスター]] |year = 2013 |title = 二度目のパリ 歴史歩き |publisher = [[ディスカヴァー・トゥエンティワン]] |page = 97 |isbn = 978-4-7993-1314-5}}</ref>。実父が誰かはわかっておらず、[[アルコール依存症|酒飲み]]のボァッシイという人物という説、ルノワールだという説など諸説ある。1886年頃からヴァラドンと同棲していたロートレックは彼女の正確で力強いデッサンを評価し、画家への道を開いた。その後、デッサンを多数購入し、彼女を庇護した[[エドガー・ドガ]]のもとで油彩と版画を学ぶ。1893年、[[エリック・サティ]]と交際したが半年で破局。1894年ドガのすすめでサロンにデッサンを出品、フランス[[国民美術協会 (フランス)|国民美術協会]](ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)女性初の会員になる。1896年、資産家のポール・ムージスと結婚。1909年、息子より3歳年下の画家志望の青年アンドレ・ユッテルを恋人にし、ムージスとは離婚。ユッテルをモデルにした「アダムとイブ」、「網を打つ人」([[アンデパンダン展]]に出品)など彼女の代表作となる作品を次々に製作した。1914年ユッテルと正式に結婚。1920年サロン・ドートンヌの会員になる。1932年パリ最大のプティ・ジョルジュ画廊で大回顧展が開催され、フランスの首相[[エドワール・エリオ]]がそのカタログに序文を寄せる。1937年、彼女の主要作品がフランス政府によって買い上げられ、後に[[国立近代美術館 (フランス)|国立近代美術館]]([[ポンピドゥー・センター]]内)に所蔵される。1938年、自宅で倒れているところを隣人に発見され、病院へ搬送中に脳充血で死去した。
シュザンヌ・ヴァラドンは1865年9月23日、フランス中部の{{仮リンク|ベッシーヌ=シュル=ガルタンプ|fr|Bessines-sur-Gartempe}}([[オート=ヴィエンヌ県]]、[[ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏]])にマリー=クレマンティーヌ・ヴァラドン(またはヴァラード)として生まれた<ref name=":0">{{Cite web|title=Suzanne ou la transgression du genre|url=http://www.revolutionpermanente.fr/Suzanne-ou-la-transgression-du-genre|website=Révolution Permanente|accessdate=2020-02-25|publisher=Nouveau Parti Anticapitaliste (NPA), Courant Communiste Révolutionnaire|author=Pierre Reip|language=fr|date=2015-10-06}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|title=Suzanne VALADON (Marie-Clémentine VALADE)|url=https://musees-occitanie.fr/encyclopedie/artistes/suzanne-valadon/|website=musees-occitanie.fr|accessdate=2020-02-25|language=fr|publisher=Musées d'Occitanie|author=Catherine Brun}}</ref>。母マドレーヌ・ヴァラドン(ヴァラード)は34歳の貧しい洗濯婦であった。父親については、クーロー(Coulaud)という姓で言及または噂されることがあるが不明である<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|title=Suzanne Valadon|url=https://www.expertisez.com/magazine/suzanne-valadon|website=www.expertisez.com|accessdate=2020-02-25|language=fr-fr}}</ref><ref name=":8">{{Cite book|title=Suzanne Valadon|date=|year=1981|publisher=Flammarion|author=Jeanne Champion|language=fr}}</ref>。


1870年頃(マリーが5歳の頃)、マドレーヌは娘を連れて[[パリ]]に出て、労働者地区のモンマルトルに居を定めた<ref name=":1" /><ref name=":9">{{Cite web|title=Toulouse-Lautrec (de) Henri (1864-1901) - 8 mars – Journée internationale des femmes – Hommage à Suzanne Valadon|url=http://www.visimuz.com/tag/lautrec/|website=VisiMuZ Éditions|accessdate=2020-02-25|language=fr-FR|publisher=}}</ref>。[[普仏戦争]]、次いで[[パリ・コミューン]]が起こった頃であり、モンマルトルは激戦地となり、この後、蜂起して犠牲となった民衆を弔うために建てられたのが[[サクレ・クール寺院]]であり<ref>{{Cite web|url=http://www.mmm-ginza.org/museum/special/backnumber/1002/special01.html|title=娯楽の街モンマルトルとボヘミアンの芸術家たち|accessdate=2020-02-25|publisher=Maison des Musées du Monde (MMM)|author=増田葉子|year=2010|language=ja|month=2}}</ref>、ヴァラドンは生涯にわたってこの地に暮らすことになる。
==代表作==
[[ファイル:Suzanne Valadon et Jeanne Wenz (a) (c 1890) photo Francois Gauzi.jpg|サムネイル|ロートレックの友人で画家の{{仮リンク|フランソワ・ゴージ|fr|François Gauzi}}によるシュザンヌ・ヴァラドン(左)とロートレックのモデルの一人ジャンヌ・ウェンツの肖像写真(1890年頃)]]
*アダムとイヴ(1909年、ポンピドゥー・センター)
マドレーヌはマリーをアパートの管理人などに預け、[[家政婦]]や洗濯・アイロン掛けの仕事をして生計を立てた。マリーはモンマルトル・サン=ジャン修道院が経営する小学校に入学したが<ref name=":0" /><ref name=":1" />、1877年、11歳のときに[[退学]]して裁縫師になり、その後、大衆食堂の給仕、[[バティニョール大通り|バティニョール]][[市場]]の[[野菜]]の売り子、店員、[[工場労働者]]などの仕事を転々とした<ref name=":2">{{Cite book|title=Dictionary of Artists' Models|date=|year=2001|publisher=Routledge|author=Johanna Brad|editor=Jill Berk Jiminez|pages=|language=en|translator=|chapter=VALADON, Suzanne}}</ref><ref name=":3">{{Cite journal|和書|author=千葉順|month=12|year=1979|title=トゥルーズ=ロートレックとシュザンヌ・ヴァラドン ―『酒を飲む女または宿酔』の制作年度をめぐって|url=http://hdl.handle.net/2065/5193|journal=早稲田商学|volume=281|page=|pages=103-119|publisher=[[早稲田大学]]商学部・早稲田商学同攻会|ISSN=0387-3404}}</ref>。15歳のとき、友だちの勧めもあって子どもの頃から憧れていた[[サーカス]]「モリエ」に入団した。[[曲芸師]]として活躍し始めたが(脇役であったとされるが<ref name=":4">{{Cite web|url=https://www.revuedesdeuxmondes.fr/wp-content/uploads/2016/11/54cd19d5342c00906e710c093dd732ba.pdf|title=Les Beaux-Arts : Suzanne Valadon au Musée National d’Art Moderne|accessdate=2020-02-25|publisher=La Revue des Deux Mondes|author=Georges Charensol|language=fr}}</ref>)、6か月後に空中ブランコから転落して重傷を負い、退団を余儀なくされた<ref name=":0" /><ref name=":2" /><ref name=":3" /><ref name=":5">{{Cite book|title=Suzanne Valadon et son œuvre|date=|year=1922|publisher=Gallimard|author=Robert Rey|language=fr}}</ref>。
*網を打つ人(1914年、ポンピドゥー・センター)


=== 画家のモデル ===
==ギャラリー==


==== ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ ====
===同時代人によって描かれたヴァラドン===
ヴァラドンはやがてモンマルトルの[[芸術家]]と付き合うようになった。1880年代のモンマルトルは、安酒を出す「[[オ・ラパン・アジル]]」や「[[ル・シャ・ノワール]]」、「[[ムーラン・ルージュ]]」などの[[キャバレー]]が、ボエーム([[ボヘミアニズム|ボヘミアン]])の芸術家だけでなく[[娼婦]]やその情夫、犯罪者、[[ホームレス|浮浪者]]、社会の周辺に生きる人々などが集まる場所であった<ref>{{Cite web|title=FRÉDÉ, GERARD Frédéric|url=https://www.tombes-sepultures.com/crbst_1864.html|website=www.tombes-sepultures.com|accessdate=2020-02-25|publisher=Tombes Sépultures dans les cimetières et autres lieux}}</ref>。ヴァラドンは洗濯婦の母マドレーヌの仕事を手伝って、画家たちのところに洗濯物を届けて回っているうちに誘われて、画家のモデルを務めるようになった<ref name=":3" />。1880年頃に登録されていた16歳から20歳のモデルは約670人であったが、肉感的な身体、くっきりとした眉や大きな青い目、そして豊かな表情が魅力のヴァラドンは人気のモデルとなった<ref name=":2" />。エドガー・ドガは、マリー=クレマンティーヌ・ヴァラドンをその才能、魅力、人格を含めて両義的な意味で「恐るべきマリア」と呼んだ<ref name=":0" /><ref name=":4" /><ref name=":5" />。一方、[[美術評論家]]の[[若桑みどり]]は、モデルとしてのヴァラドンを次のように評している。
<center><gallery widths="180px" heights="180px">
File:Pierre-Auguste Renoir - Suzanne Valadon - profile.jpg|[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]画<br />[[1880年]]
File:Henri de Toulouse-Lautrec 018.jpg|[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|ロートレック]]画<br />[[1884年]]
File:Valadon by Steinlen.jpg|[[テオフィル・アレクサンドル・スタンラン|スタンラン]]画<br />[[1880年]]
File:Satie portret Valadon 1893.jpg|[[エリック・サティ]]画<br />[[1893年]]
</gallery></center>


{{quotation|人間は、顔よりもその肉体に精神を秘めているものである。シュザンヌの肉体の、堂々とした調和は、健全で、知的な精神をもった女性を暗示している。彼女が第一級の芸術家の創作意欲を刺激したのは、彼女の肉体の中にエスプリと形式美があったからだろう<ref name=":6">{{Cite book|和書|title=女性画家列伝|date=|year=1985|publisher=[[岩波書店]]|author=[[若桑みどり]]|series=[[岩波新書]]}}</ref>。}}
===ヴァラドンによる絵画===
<center><gallery widths="180" heights="180">
ファイル:Suzanne Valadon - Portrait d'Erik Satie.jpg|『エリック・サティの肖像』<br />[[1893年]]<br />フランス[[国立近代美術館 (フランス)|国立近代美術館]]<br />''"Portrait d'Erik Satie"''
ファイル:ValadonSuzanne TheBath.jpg|『風呂場』<br />[[1908年]]<br />[[グルノーブル美術館]]<br />''"Le bain"''
ファイル:Suzanne Valadon - Nus.jpg|『裸』<br />[[1919年]]<br /><br />''"Nus"''
</gallery></center>


最初に彼女を描いた高名な画家は[[ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ]](1824-1898)であった。現在知られている限りでは、1884年の[[サロン]](官展)に出展されて話題を呼んだ大作《美神(ミューズ)と芸術にとって大切な聖なる森(''Bois Sacré cher aux Arts et aux Muses'')》(460 x 1040 cm、[[リヨン美術館]]蔵)<ref>{{Cite web|url=https://www.mba-lyon.fr/fiche-oeuvre/le-bois-sacre-cher-aux-arts-et-aux-muses|title=Le Bois sacré cher aux arts et aux muses, PIERRE PUVIS DE CHAVANNES (LYON, 1824 - PARIS, 1898), 1884|accessdate=2020-02-25|publisher=Musée des Beaux-Arts de Lyon|language=fr}}</ref><ref name=":2" />、および1891年制作の《夏》([[クリーブランド美術館]]蔵)に描かれる「骨格のしっかりとした、均衡のとれた、古典的な美しさ」をもつ肉体の女性がヴァラドンとされる<ref name=":6" />。
==参考文献==
[[ファイル:1884, Toulouse-Lautrec, The Sacred Grove.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|ロートレック作《聖なる森》のパロディー(1884年、[[プリンストン大学美術館]]蔵)]]
*『25人の画家 第15巻ユトリロ』千足伸行編著、[[高階秀爾]]監修、講談社、1980年(69-70頁にヴァラドンの作品の図版、127頁に解説がある)。
当時20歳の[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|ロートレック]](1864-1901)は、同じ1884年にシャヴァンヌのこの絵をもとに《聖なる森》の[[パロディー]]を描いている。このパロディーも絵もまた、ロートレックがちょうどこの頃出会ったヴァラドンがモデルである。この絵には、裸のミューズたちの横に、同じ画学生であった[[ルイ・アンクタン]]、作家の{{仮リンク|エドゥアール・デュジャルダン|fr|Édouard Dujardin}}と[[モーリス・バレス]]、ロートレックが最初に師事した画家[[レオン・ボナ]]、後ろを向いて立ち小便をしているロートレック自身が描かれ、警察官数人が彼ら《聖なる森》の「侵入者」に一列に並ぶように指示している<ref>{{Cite web|title=The Sacred Grove (1884), Henri de Toulouse-Lautrec (French, 1864–1901)|url=https://artmuseum.princeton.edu/collections/objects/21414|website=artmuseum.princeton.edu|accessdate=2020-02-25|language=en|publisher=Princeton University Art Museum}}</ref>。ロートレックのこのパロディーは、「伝統的なアカデミックな絵画に背を向ける」彼の心的傾向を示すものとされ<ref name=":3" />、実際、彼はこの頃からモンマルトルの画家仲間の住居を転々としながら、「ル・シャ・ノワール」の人気歌手で、[[偽善]]や[[虚飾]]を罵倒する歌詞や娼婦や浮浪者などの貧窮を歌った曲で知られる{{仮リンク|アリスティード・ブリュアン|fr|Aristide Bruant}}や「ムーラン・ルージュ」の踊り子たちを描くようになった<ref>{{Cite web|url=http://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/201402/montalembert02.html|title=モンマルトル美術館|accessdate=2020-02-25|publisher=Maison des Musées du Monde (MMM)|author=Anne de Montalembert|date=2014-01-25|language=ja}}</ref>。

==== ルノワール ====
ヴァラドンはまた、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]](1841-1919)のモデルとしても知られている。《雨傘》(1881-86年、[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]蔵、英国)、《[[ブージヴァルのダンス]]》(1883年、[[ボストン美術館]]蔵)、《[[都会のダンス]]》(1883年、[[オルセー美術館]]蔵)、《風景の中の裸婦》(1883年、[[オランジュリー美術館]]蔵)、《座って腕を拭く浴女》(1884-85年)、《髪を整える浴女》(1885年)、《シュザンヌ・ヴァラドン》(1885年頃、[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]蔵、米国)、《シュザンヌ・ヴァラドンの肖像》(1885年、個人蔵)、《髪を編む娘》(1887年、ラングマット美術館蔵、スイス)、《女性大浴女図(浴女たち)》(1887年)などである<ref name=":2" />。特に《ブージヴァルのダンス》と《都会のダンス》が有名だが、ルノワールが同じ年に後の妻{{仮リンク|アリーヌ・シャリゴ|fr|Aline Charigot}}をモデルに描いた《[[田舎のダンス]]》は、もともとヴァラドンがモデルであったが、アリーヌが嫉妬して自分の明るい笑顔に変えさせたとされる(笑顔のヴァラドンを描いた絵はほとんどない)<ref name=":2" /><ref>{{Cite web|title=Pierre Auguste Renoir, Danse à la ville|url=https://www.musee-orsay.fr/fr/collections/oeuvres-commentees/recherche/commentaire_id/danse-a-la-ville-8844.html|website=www.musee-orsay.fr|accessdate=2020-02-25|publisher=Musée d'Orsay|language=fr}}</ref>。
<gallery mode="packed" caption="ヴァラドンを描いたルノワールの絵画">
File:Dance-At-Bougival.jpg|{{small|《ブージヴァルのダンス》}}
File:Pierre-Auguste Renoir 019.jpg|{{small|《都会のダンス》}}
File:Femme Nue dans un Paysage, by Pierre-Auguste Renoir, from C2RMF cropped.jpg|{{small|《風景の中の裸婦》}}
File:Pierre-Auguste Renoir, The Umbrellas, ca. 1881-86.jpg|{{small|《雨傘》}}
File:Pierre-Auguste Renoir - Suzanne Valadon - profile.jpg|{{small|《シュザンヌ・ヴァラドン》}}
File:Pierre-Auguste Renoir - Suzanne Valadon - 1885.jpg|{{small|《シュザンヌ・ヴァラドンの肖像》}}
File:Pierre-Auguste Renoir - Suzanne Valadon - La Natte.jpg|{{small|《髪を編む娘》}}
</gallery>
ルノワールが一連のダンスの絵を描いた1883年の12月26日、18歳のヴァラドンはモンマルトルの丘のふもとの{{仮リンク|ポトー通り|fr|Rue du Poteau}}10番地で息子モーリスを出産した。父親については、「オ・ラパン・アジル」の歌手で大酒飲みのボワシー(Boissy)という人物であったとされるが不明である<ref name=":1" /><ref name=":4" /><ref name=":7">{{Cite web|title=Biographie de Maurice Utrillo - "Utrillo, Folie?", Paris 1992|url=http://www.utrillo.com/fr/content/biographie-de-maurice-utrillo|website=www.utrillo.com|accessdate=2020-02-25|publisher=Utrillo.com|author=Jean Fabris|language=fr}}</ref>。ユトリロは1891年、8歳のときに[[カタルーニャ州]]出身の[[スペイン]]人で画家・美術評論家のミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス([[:es:Miquel Utrillo|Miquel Utrillo]])に認知されて「ヴァラドン」から「ユトリロ」に改姓された<ref name=":0" /><ref name=":7" /><ref>{{Cite web|title=哀愁の街、巴里の白(旧雨今雨)|url=https://www.i-ise.com/jp/column/kyuukonu/2017/1706/1706.html|website=www.i-ise.com|accessdate=2020-02-25|publisher=国際社会経済研究所|author=加藤竹彦|language=ja}}</ref>。「ユトリロ」(または「ユトリヨ」)は「ウトリーリョ」のフランス語読みである。

[[ファイル:SValadonSelfPortrait1883.jpg|サムネイル|214x214ピクセル|1883年の《自画像》]]
ヴァラドンが本格的に絵を描くようになったのも1883年のことある。これは彼女が処女作《自画像》(国立近代美術館蔵)を描いた年である<ref>{{Cite web|title=Autoportrait|url=https://www.centrepompidou.fr/id/cqG55BB/rMdA8aA/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2020-02-25|language=fr|publisher=Centre Pompidou}}</ref>。それまでに多くの前衛画家のモデルをしながら制作過程を目にしていた彼女は、見よう見まねで自画像や裸婦、の素描を描き始めた。若桑みどりはヴァラドンの素描を、「刻みつけるように鋭く、酷薄な線で、えぐるように描かれている」、「本質的な鋭い一本の線が見つかるまで」何度も描き直し、「一点のごまかしもない」と表現している<ref name=":6" />。それはまた、「一人の女性として、画家としての自己探求」であった<ref name=":2" />。

ヴァラドンはユトリロが生まれてからも、彼を母マドレーヌに預け、モデルの仕事と制作に専念した。まだ18歳の彼女が女手一つで二人を養いながら家計を支えなければならなかったからである<ref name=":3" /><ref name=":4" />。

==== ロートレック ====
ロートレックがヴァラドンをモデルに《聖なる森》のパロディーを描いたのは1884年のことだが、さらに1886年には、ヴァラドン一家が住む{{仮リンク|トゥールラック通り|fr|Rue Tourlaque}}7番地([[18区 (パリ)|18区]])のアパートの5階にアトリエを構え、ここに二人の関係が破局を迎える1889年頃まで住んでいた<ref name=":0" /><ref name=":3" />。二人がどのような関係であったのか正確にはわかっていないが、ロートレックの代表作であるヴァラドンの肖像《二日酔い([[:fr:Gueule de bois (Toulouse-Lautrec)|''Gueule de bois'']])》(または《酒を飲む女(''La Buveuse'')》)([[フォッグ美術館]]蔵)が描かれたのはこのとき(1888年)のことである。アカデミックな絵画に背を向けた若い前衛画家の彼は、当時すでに60代のシャヴァンヌや40代のルノワールのモデルをしていることを皮肉って、彼女を「シュザンヌ」と名付けた。[[旧約聖書]][[外典]]([[ダニエル書]])に登場する[[スザンナ (ダニエル書)|スザンナ]]のことであり、スザンナは水浴中の姿を長老たちに覗き見され、関係を迫られた女性である<ref name=":0" /><ref name=":10">{{Cite web|url=https://www.sjnk-museum.org/wp/wp-content/uploads/2015/02/pr_20150213.pdf|title=ユトリロとヴァラドン 母と子の物語 ― スュザンヌ・ヴァラドン生誕150年 ―(プレスリリース)|accessdate=2020-02-25|publisher=[[東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館]]|year=2015|language=ja}}</ref>。この名前が気に入ったヴァラドンは、以後、「シュザンヌ・ヴァラドン」を名乗ることになる。
[[ファイル:Portrait de Suzanne Valadon par Henri de Toulouse-Lautrec.jpg|左|サムネイル|240x240ピクセル|ロートレックが描いたヴァラドン:《二日酔い》または《酒を飲む女》]]
実際、シャヴァンヌが「類型化された理想の女性」、ルノワールが「優雅な若い女性」、「若さと官能に溢れた」女性としてのヴァラドンを描いたのとは対照的に、ロートレックは厳しい表情やうつろな表情のヴァラドンを描いた<ref name=":2" /><ref name=":3" />。ロートレック研究家の千葉順は、ロートレックがヴァラドン像で表現したのは「厳しい生活を生きる女性の強い意志」、「ひとりの女性の内面」であり、とりわけ、《二日酔い》では、「来し方行く末を思い、沈鬱な想いに耽る現実の人生を生きるひとりの女性の姿」を描いていると評している<ref name=":3" />。また、画法としても、それまでの線を基調とする踊り子たちの絵と異なり、アシュール(線影)によって立体感をつけたうえに[[パステル]]を用いている。アシュールは1888年に制作された《[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]の肖像》で初めて用いた手法であり、パステルもロートレックとしては例外的とされる。ロートレックは同じ手法でヴァラドンを描き、その後、油彩を制作した<ref name=":3" />。二人の関係が終わる1889年頃までの間に、ロートレックは他にも《シュザンヌ・ヴァラドンの肖像》(1885年、[[ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館]]蔵、デンマーク)、《シュザンヌ・ヴァラドンの肖像》(1885年、{{仮リンク|国立美術館 (アルゼンチン)|es|Museo Nacional de Bellas Artes (Argentina)|label=アルゼンチン国立美術館}}蔵)などヴァラドンの肖像を数点制作している(素描と同じ構造の油彩を含む)が、重要なのは、ヴァラドンが密かに絵を描いているのを知り、その才能を最初に見抜いた画家がロートレックであったことである<ref name=":3" />。

この他、[[フェデリコ・ザンドメーネギ]]作《ビストロのテーブルに座る女》(1885年、個人蔵)や<ref name=":2" />、《ル・シャ・ノワール》のポスターで知られる[[テオフィル・アレクサンドル・スタンラン]]による女性の肖像にもヴァラドンがモデルとされるものがある<ref>{{Cite web|title=Lot n° 164 : Théophile Alexandre STEINLEN (1859-1923) Portrait présumé de Suzanne Valadon|url=https://www.gazette-drouot.com/lots/4755726|website=www.gazette-drouot.com|accessdate=2020-02-25|publisher=Le Gazette Drouot|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|title=Ressource Histoire des Arts Suzanne Valadon vue par Steinlen|url=http://histoiredesarts.culture.fr/notices/8906/|website=histoiredesarts.culture.fr|accessdate=2020-02-25|publisher=Culture.fr|language=fr}}</ref>。他にもアカデミックな画家[[ジャン=ジャック・エンネル]]から、後にユトリロと親交を深めた前衛画家[[アメデオ・モディリアーニ|モディリアーニ]]まで多くの画家のモデルになり<ref name=":11">{{Cite web|title=VALADON, UTRILLO & UTTER À L'ATELIER DE LA RUE CORTOT : 1912-1926|url=http://www.somogy.fr/livre/valadon-utrillo-utter?ean=9782757209523|accessdate=2020-02-25|language=fr|publisher=Somogy Éditions d'Art}}</ref><ref>{{Cite web|title=Suzanne Valadon, peintre et muse des grands artistes de son temps|url=https://www.beauxarts.com/expos/suzanne-valadon-peintre-et-muse-des-grands-artistes-de-son-temps/|website=Beaux Arts|accessdate=2020-02-25|language=fr-FR|publisher=|author=Agathe Lautréamont|date=2015-12-16}}</ref>、1891年にはミゲル・ウトリーリョの友人のスペイン人画家[[サンティアゴ・ルシニョール]]が、モンマルトルの自宅でヴァラドンとウトリーリョを描いた《夏の雲》(個人蔵)を発表している<ref>{{Cite web|title=Ramon Casas et Santiago Rusiñol|url=https://www.aparences.net/periodes/modernisme/ramon-casas-et-santiago-rusinol/|accessdate=2020-02-25|language=fr-FR|publisher=Aparences}}</ref>。

==== エリック・サティ ====
[[ファイル:Satie portret Valadon 1893.jpg|サムネイル|224x224ピクセル|サティによるヴァラドンの肖像]]
[[ファイル:Suzanne Valadon - Portrait d'Erik Satie.jpg|左|サムネイル|237x237ピクセル|ヴァラドンによるサティの肖像]]
一方、ヴァラドンが1892年から93年にかけて描いた《[[エリック・サティ]]の肖像》は、この音楽家の「最良の肖像として名高い」が<ref name=":6" />、サティもまた、1893年に[[五線譜]]の上にイラスト風に描いたヴァラドンの肖像を遺している([[国立近代美術館 (フランス)|国立近代美術館]]蔵)<ref>{{Cite web|title=Suzanne Valadon|url=https://www.centrepompidou.fr/id/c4rLRoR/rbLXqMj/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2020-02-25|language=fr|publisher=Centre Pompidou}}</ref>。彼は当時、初めて舞台にピアノを置くことを許可されたキャバレー「ル・シャ・ノワール」の[[ピアニスト]]であった<ref>{{Cite news|title=Le Chat noir, cabaret extraordinaire|url=https://www.lemonde.fr/vous/article/2012/10/10/le-chat-noir-cabaret-extraordinaire_1772991_3238.html|work=Le Monde.fr|date=2012-10-10|accessdate=2020-02-25|language=fr|author=Francis Gouge}}</ref>。26歳のサティと28歳のヴァラドンの関係は6か月間だけの「短く激しい」ものであったが<ref name=":12">{{Cite web|title=エリック・サティ —— “沈黙”の作曲家|url=http://www.diplo.jp/articles16/1608-6lecompositeur.html|website=www.diplo.jp|accessdate=2020-02-25|publisher=[[ル・モンド・ディプロマティーク]]日本語版|author=アガト・メリナン(Agathe Mélinand)|year=2016|month=8|language=ja}}</ref>、この間、サティはヴァラドン宛に300通もの手紙を書いた<ref name=":13">{{Cite web|title=Dame Valadon, fiston Utrillo|url=https://blogs.mediapart.fr/dominique-conil/blog/100309/dame-valadon-fiston-utrillo|website=Club de Mediapart|accessdate=2020-02-25|language=fr|publisher=|author=Dominique Conil|date=2009-03-10}}</ref>。二人の関係が破局を迎えたときにサティが作曲したのが、「あらゆる泥酔者、破廉恥漢、放蕩者、ならず者、にせ者たちを憐れみて」、「受けた侮辱の許しが問題となるとき」を含む『ゴシック舞曲 ― 我が魂の大いなる静けさと堅固な平安のための9日間の祈祷崇拝と聖歌的協賛』であった<ref name=":12" />。

ヴァラドンはサティの友人で裕福な資産家(銀行家)のポール・ムージスと付き合い始めた<ref name=":1" /><ref name=":14">{{Cite journal|和書|author=今野志津|year=|date=2004-03-24|title=シュザンヌ・ヴァラドンの男性ヌード|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002842|journal=表現文化研究|volume=3|issue=2|page=|pages=123-137|publisher=[[神戸大学]]表現文化研究会|ISSN=13468103}}</ref>。

=== 画家ヴァラドン ===

==== 国民美術協会 - ドガに師事 ====
ヴァラドンは1894年に(1861年に設立され、活動を中断した後)シャヴァンヌ、[[オーギュスト・ロダン]]、[[カロリュス=デュラン]]によって1890年に再結成された[[国民美術協会 (フランス)|国民美術協会]]<ref>{{Cite web|title=Histoire et présentation de la Société Nationale des Beaux Arts|url=http://www.salondesbeauxarts.com/histoire-snba/|website=Salon des Beaux Arts|accessdate=2020-02-25|language=fr-FR}}</ref>の展覧会に出展した。シャヴァンヌには反対されたが、選考委員会の委員であった彫刻家の{{仮リンク|アルベール・バルトロメ|fr|Albert Bartholomé}}の支持を得て、出展が認められた。女性画家の出展は初めてのことであった。しかも、《孫息子の身づくろい》、《祖母と孫息子》を含む素描5点を出展し、初めて買い手がついた。美術品蒐集家でもあったエドガー・ドガである<ref>{{Cite web|title=Suzanne Valadon, de Montmartre au Salon des Beaux Arts|url=http://www.salondesbeauxarts.com/suzanne-valadon-salon-beaux-arts/|website=Salon des Beaux Arts|date=2018-02-28|accessdate=2020-02-25|language=fr-FR|publisher=}}</ref>。ドガはヴァラドンを他の美術品蒐集家や、ロートレックの画商として知られる{{仮リンク|ル・バルク・ド・ブートヴィル|fr|Le Barc de Boutteville}}、画家の[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]]、[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]、[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]、[[印象派]]の画家の作品を多数買い上げた画商[[ポール・デュラン=リュエル]]らに紹介し、自らヴァラドンに銅版画、特にソフトグラウンド・[[エッチング]]の技法、さらには[[ドライポイント]]や油彩の技法も指導した<ref>{{Cite web|title=Suzanne Valadon (1865-1938)|url=http://art-deco.france.pagesperso-orange.fr/valadon.htm|website=art-deco.france.pagesperso-orange.fr|accessdate=2020-02-25|publisher=|language=fr}}</ref>。1895年にドガの紹介により、画商[[アンブロワーズ・ヴォラール]]の画廊で初めての個展が行われた<ref name=":2" />。
[[ファイル:Portrait de Maurice Utrillo à 7ans par sa mère Suzanne Valadon.jpg|サムネイル|169x169ピクセル|ヴァラドンによるユトリロ7歳の肖像]]
1896年にポール・ムージスと結婚し、{{仮リンク|コルトー通り|fr|Rue Cortot}}12番地に居を構えた。100メートル程度の小路であり、数メートル離れた6番地は1890年からサティが住んでいた(サティは1898年に越すことになる)。また、12番地は現在、[[モンマルトル美術館]]がある地所であり<ref name=":15">{{Cite web|url=https://oh-oui.com/musee-montmartre/wp-content/uploads/sites/4/2017/05/CP_Valadon-Utrillo-Utter.pdf|title=Suzanne Valadon, Maurice Utrillo, André Utter à l’atelier 12, rue Cortot 1912-1926, COMMUNIQUE DE PRESSE|accessdate=2020-02-25|publisher=Musée de Montmartre|language=fr|date=2015-06-11}}</ref>、一家はここに1905年まで住むことになるが<ref name=":8" />、後にヴァラドンがムージスと離婚してユトリロの友人で21歳年下の{{仮リンク|アンドレ・ユッテル|fr|André Utter}}と再婚した後、この場所に再び移り住むことになる(2014年にこのアトリエが復元され、モンマルトル美術館の一部として一般に公開された)<ref>{{Cite web|title=Atelier d'artistes - Musée de Montmartre Jardins Renoir|url=https://museedemontmartre.fr/atelier-appartement/|website=Musée de Montmartre|accessdate=2020-02-25|language=fr-FR}}</ref>。ムージスはまた、パリ近郊の{{仮リンク|モンマニー|fr|Montmagny (Val-d'Oise)}}([[ヴァル=ドワーズ県]])にも邸宅を構えていたため、一家はモンマルトルとモンマニーを行き来していた<ref name=":8" />。

ムージスの経済的支援により、ヴァラドンは制作に専念することができた。ユトリロは祖母マドレーヌが住むパリ近郊の[[ピエールフィット=シュル=セーヌ|ピエールフィット]](現[[セーヌ=サン=ドニ県]])のモラン寄宿学校に預けられ、[[オーベルヴィリエ]]で初等教育の修了証書を受けた<ref>{{Cite web|title=Maurice Utrillo de retour à Pierrefitte|url=http://www.leparisien.fr/seine-saint-denis-93/aubervilliers-93300/maurice-utrillo-de-retour-a-pierrefitte-03-10-2009-660710.php|website=leparisien.fr|date=2009-10-03|accessdate=2020-02-25|language=fr-FR|publisher=Le Parisien}}</ref>。だが、すでに10代から[[アルコール依存症]]になり、サン=タンヌ精神病院に入院した<ref>{{Cite web|title=Utrillo, solitude urbaine|url=https://lelephant-larevue.fr/thematiques/art-et-litterature/utrillo-solitude-urbaine/|website=Léléphant - La revue de culture générale|date=2017-09-21|accessdate=2020-02-25|language=fr-FR}}</ref>。退院後にモンマニーの邸宅に移り住んだユトリロにヴァラドンは絵を描かせた。少しでもアルコールから気を逸らせたいと思ったからである<ref name=":2" /><ref name=":4" /><ref name=":6" />。ユトリロは《モンマニーの3本の通り》、《モンマニーのティユール大通り》などを制作した。「白の時代」より前のこの時期の印象派の絵は「モンマニーの時代」と呼ばれることがある<ref>{{Cite web|title=Agence des espaces verts d'Ile de France - Parcours Maurice Utrillo|url=http://www.aev-iledefrance.fr/loisirs-nature/nature-et-culture/culture-parcours-decouverte-maurice-utrillo|website=www.aev-iledefrance.fr|accessdate=2020-02-25|language=fr-fr}}</ref>。

==== アンドレ・ユッテルとの出会い ====
[[ファイル:Adam and Eve, Suzanne Valadon.jpg|サムネイル|ヴァラドン作《アダムとイヴ》]]
ヴァラドンが画家のアンドレ・ユッテルと出会ったのはこの頃である。もともと実業家のムージスと芸術家のヴァラドンはそりが合わず、ユトリロとムーリスの不和も相俟って、夫婦間の諍いが絶えなかったが、そのような時期に出会ったユッテルは、ヴァラドンに新たなインスピレーションを与える存在であった<ref name=":14" />。ヴァラドンはユッテルをモデルに素描や油彩を次々と描いた。国立美術学校が女性の入学を認めたのは1897年のことであり<ref name=":10" />、しかも、入学が認められた後も女性の画学生は裸体モデルのデッサンが禁じられているなど多くの制約があったため、女性画家が女性の裸体を描くこと自体が例外的であり、したがって、女性が男性の裸体を描くことは、それだけで先駆的なことであった<ref name=":14" />。ユッテルをモデルに描いた作品のうち、代表作は1909年制作の《アダムとイヴ》と1914年制作の《網を打つ人》であり(いずれも国立近代美術館蔵)、これらに描かれる裸の男性は「律動的な力に満ちた男性像」である<ref name=":14" />。《アダムとイヴ》は1920年の{{仮リンク|サロン・ドートンヌ|fr|Salon d'automne}}に出展された作品である。当初はアダムの男[[性器]]が描かれていたが、サロン・ドートンヌに出展する前に、「おそらくは主催者側の要求により」性器を隠すために[[イチジク]]の葉を描いた<ref name=":14" /><ref name=":16">{{Cite web|title=Adam et Eve|url=https://www.centrepompidou.fr/id/coXKAML/r95b495/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2020-02-25|language=fr|publisher=Centre Pompidou|author=Nathalie Ernoult}}</ref>。この絵はまた、伝統的な絵画における[[アダムとエバ|アダムとイヴ]]の表象に不可欠であった[[蛇]]が描かれていず、特にヴァラドン自身をモデルとするイヴは解放的でのびやかに描かれており、女性画家としてだけでなく、絵画の伝統に対しても、[[タブー]]を破る作品である<ref name=":14" /><ref name=":16" />。

ヴァラドンはムージスに離婚を申し立て、18区アンパス・ド・ゲルマ(現{{仮リンク|ヴィラ・ド・ゲルマ|fr|Villa de Guelma}})でユッテルと同棲を始め、1911年に離婚が成立した。離婚を申し立てたのはヴァラドンであったが、コルトー通り12番地の地所を所有することは認められたため、1912年にユトリロ、ユッテル、母マドレーヌとともにここに越し、1914年にユッテルと再婚した<ref name=":17">{{Cite web|title=André Utter|url=http://www.utrillo.com/fr/node/44|website=www.utrillo.com|accessdate=2020-02-25|publisher=Utrillo.com|author=Maryse Maréchal|language=fr}}</ref>。マドレーヌはここで1915年に死去した<ref name=":4" />。ユッテルとの関係は、1926年に別居し、ヴァラドンとユトリロが{{仮リンク|ジュノー通り|fr|Avenue Junot}}に越すまで続く(ユッテルは1948年に死去するまでコルトー通り12番地に住んでいた)<ref name=":15" />。

==== 「父」のいない家族の肖像 ====
[[ファイル:Portrait de famille, 1912 - Suzanne Valadon.jpg|サムネイル|ヴァラドン作《家族の肖像》]]
1912年、ユトリロ、ユッテル、マドレーヌ、そしてヴァラドン自身を描いた《家族の肖像》(オルセー美術館蔵)を制作した。家族像とはいえ、4人は視線を交わすことなく、それぞれ異なった方向を向いている。正面を向いているのはヴァラドンで、ユトリロは頬杖をついて暗い表情である。家族を理想化するのとは逆に、それぞれが異なる歴史を生きた個人の群像であり、にもかかわらず「濃厚な家族の関係性」を漂わせる作品である<ref name=":14" />。1910年制作の《祖母と孫息子》にも同様の雰囲気がある。若桑みどりはこの作品を「彼女(ヴァラドン)の最大の傑作」であり、「完璧で非の打ちどころのない」構図であると評価し<ref name=":6" />、「悲哀と労働の人生を送ってきた」老婆マドレーヌと、彼女を「いたわるようにその膝に手をかけている」老いた犬、そして「一人の孤独な、とぎすまされた魂をもつ男」ユトリロを描いた作品であり、「〈法律〉であり、〈権威〉であり、ときには〈道徳〉でさえある …〈父〉なるものを完全に欠いた聖家族の肖像」であると絶賛している<ref name=":6" />。

とはいえ、母ヴァラドンに深い愛を抱いていたユトリロは彼女が友人ユッテルの愛人になったことに嫉妬し、精神的痛手を受けていた。3人の共同生活は互いに激しい愛を抱きながら葛藤に満ちた生活であり、モンマルトルで「地獄の3人組」、「呪われた3人組」として知られることになった<ref name=":4" /><ref name=":11" /><ref name=":15" />。一方で、こうした葛藤や激情がそれぞれの画家の創造の源泉となり、制作において最も実り多い時期となった<ref name=":15" />。

1914年7月に[[第一次世界大戦]]が勃発。ユッテルは1914年に9月1日にヴァラドンと正式に結婚した後、9月30日に志願兵として出征した<ref name=":17" />。

ヴァラドンは[[アンデパンダン展|アンデパンタン展]]、サロン・ドートンヌなど大規模な展覧会に次々と出展し、ユトリロも1910年代に入ると美術評論家の{{仮リンク|エリー・フォール|fr|Élie Faure}}や[[オクターヴ・ミルボー]]、{{仮リンク|フランシス・ジュールダン|fr|Francis Jourdain}}<ref>{{Cite web|title=フランシス ジュールダン|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%20%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%B3-1623917|website=[[コトバンク]]|accessdate=2020-02-25|language=ja|publisher=|quote=フランスの作家。…セザンヌ論、ユトリロ論など美術家論もある。}}</ref>らに評価されるようになり、1913年に{{仮リンク|ウジェーヌ・ブロ|fr|Eugène Blot}}画廊で最初の個展が行われた<ref name=":18">{{Cite web|title=Maurice Utrillo|url=https://www.larousse.fr/encyclopedie/personnage/Maurice_Utrillo/147970|website=www.larousse.fr|accessdate=2020-02-25|language=fr|first=|last=|publisher=Éditions Larousse - Encyclopédie Larousse en ligne}}</ref>。このような画家二人とともに暮らし、「家長役を担わされた」ユッテルは、「家族」を養うために、画商との交渉役を引き受けた<ref name=":17" />。1923年にはコルトー通りのアトリエとは別に、中東部[[アン県]]([[オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏]])の{{仮リンク|サン=ベルナール (アン県)|fr|Saint-Bernard (Ain)|label=サン=ベルナール}}にアトリエを構えた<ref name=":18" />。この地でヴァラドンは、{{仮リンク|サン=ベルナール城|fr|Château de Saint-Bernard}}やサン=ベルナール教会などの風景画を制作している。後期にかけての彼女の作品にはゴッホ、ゴーギャン、[[アンリ・マティス|マティス]]の影響が色濃く、かつての前衛性は影を潜めるが<ref name=":6" />、画題として静物画を多く描いたのも晩年である。

1926年にユッテルと別居し、ジュノー通りに越すことができたのは[[ベルネーム=ジューヌ画廊]]の支援によって、ここにユトリロ名義で住宅を購入することができたからだとされる<ref name=":9" />。1930年代にはフランス政府がヴァラドンの重要な作品を多数買い上げた。これらは現在、国立近代美術館が所蔵し、その一部は他の国立美術館に展示されている。

1935年、51歳のユトリロはヴァラドンの勧めで、彼女の旧友の資産家の未亡人リュシー・ヴァロール・ポーウェルと結婚した。高齢になったヴァラドンはユトリロより12歳年上のこの女性にユトリロの世話を任せたいと思ったのである<ref name=":4" /><ref name=":10" />。《リュシー・ヴァロールの肖像》を描いた1937年の翌1938年4月7日、ヴァラドンは[[脳溢血]]のために72歳で死去し、[[サン=トゥアン]]墓地([[:fr:Cimetière parisien de Saint-Ouen|Cimetière parisien de Saint-Ouen]])に埋葬された<ref>{{Cite web|title=Visite guidée du cimetière de Saint-Ouen|url=https://exploreparis.com/fr/841-la-boheme-au-cimetiere-de-saint-ouen.html|website=Explore Paris|accessdate=2020-02-25|language=fr}}</ref>。

== 作品 ==

=== 先駆性・画風 ===
上述のように、ヴァラドンは女性画家が多くの制約を受けていた時代に、特に裸体画、それも女性だけでなく男性の裸体画を描いた先駆的な女性画家である。先駆的という意味では少し前の[[ベルト・モリゾ]](1841-1895)や[[メアリー・カサット]](1844-1926)と並び称されることがあるが<ref name=":13" />、裕福な家庭に育ったモリゾやカサットと異なり、[[労働者階級]]の出身で正規の美術教育を受けていなかったヴァラドンは、むしろそのために伝統的・保守的な画壇とは無縁に、裸体表現を含む自由な独自の画風を切り開くことができた<ref name=":10" />。

女性画家として初めて国民美術協会の展覧会への出展が認められ、アンデパンタン展、サロン・ドートンヌなど大規模な展覧会に出展するなど、生前にある程度の名声を得た画家であったが、再評価が始まったのは[[フェミニズム・アート]]の紹介や研究が始まった1970年代以降のことである<ref name=":14" />。日本では若桑みどりが1985年発表の『女性画家列伝』の第一章を「底辺の人間性」と題して、一人の画家、一人の女性としてのヴァラドンを論じている(上述)。

力強い線や鮮明な色彩を特徴とするヴァラドンの画風は、[[フォーヴィスム|野獣派]]的・[[表現主義]]的であり<ref name=":2" />、印象派、むしろ[[ポスト印象派]]の画家とされることが多い<ref name=":0" />。

=== 主な作品一覧 ===
以下の情報は、各美術館のサイト、2015年に日本で開催された「ユトリロとヴァラドン 母と子の物語 ― スュザンヌ・ヴァラドン生誕150年」の出展作品一覧<ref>{{Cite web|url=https://www.sjnk-museum.org/wp/wp-content/uploads/2015/04/20150418_list.pdf|title=ユトリロとヴァラドン 母と子の物語 ―スュザンヌ・ヴァラドン生誕150年|accessdate=2020-02-25|publisher=東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館|date=2015-04-15|language=ja}}</ref>、および "Web Gallery of Impressionists"<ref>{{Cite web|title=Suzanne Valadon|url=http://impressionistsgallery.co.uk/artists/Artists/tuv/Valadon/1.html|website=impressionistsgallery.co.uk|accessdate=2020-02-25}}</ref> の情報の検証に基づくものである。

==== 国立近代美術館([[ポンピドゥー・センター]])蔵 ====
フランス政府が買い取った作品のほか、個人から寄贈・遺贈された作品を含む。一部は他の国立美術館蔵である。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!邦題(試訳)
!原題
!年
!画材(寸法)
|-
|《自画像》
|''Autoportrait''
|1883
|[[鉛筆]]・[[木炭]]・パステル(43.5 x 30.5 cm)
|-
|《画家の母の肖像》
|''Portrait de la mère de l'artiste''
|1883
|木炭・紅殻[[チョーク]]・白チョーク(35.2 x 29.5 cm)
|-
|《子どものユトリロ》
|''Utrillo enfant''
|1886
|紅殻チョーク(34.3 x 29 cm)
|-
|《ポール・ムージスと犬》
|''Paul Mousis et son chien''
|1891
|鉛筆(23.4 x 16.7 cm)
|-
|《編み物をする若い女》
|''Jeune fille faisant du crochet''
|1892
|油彩(46 x 38 cm)
|-
|《座る裸のユトリロと坐る彼の祖母》
|''Utrillo nu et sa grand-mère assis''
|1892
|鉛筆(21.7 x 27.9 cm)
|-
|《読書するポール・ムージス》
|''Paul Mousis lisant''
|1892
|木炭・鉛筆(27 x 22.9 cm)
|-
|《祖母に身体を拭いてもらうユトリロ》
|''Utrillo essuyé par sa grand-mère''
|1892
|鉛筆(23 x 19.8 cm)
|-
|《ベルナール・ルメールの母の肖像》
|''Portrait de la mère de Bernard Lemaire''
|1892 -93
|油彩(17.3 x 11.9 cm)
|-
|《ベルナール・ルメール》
|''Bernard Lemaire''
|1892-93
|油彩(35 x 27 cm)
|-
|《エリック・サティの肖像》
|''Portrait d'Erik Satie''
|1892-93
|油彩(41 x 22 cm)
|-
|《裸で座る少女》
|''Fillette nue assise''
|1894
|木炭・白の[[グワッシュ]](22.7 x 28.9 cm)
|-
|《身体を伸ばす裸婦》
|''Femme nue étendue''
|1895
|[[リトグラフ]](23 x 17 cm)
|-
|《スカートを留めながら半裸で立つ女》
|''Femme à demi-nue, debout, fixant sa jupe''
|1895
|リトグラフ(33.5 x 18 cm)
|-
|《長椅子に座る裸のユトリロ》
|''Utrillo nu assis sur un divan''
|1895
|木炭(19.2 x 20.1 cm)
|-
|《裸の子どものユトリロ》
|''Utrillo enfant nu''
|1895
|木炭(26.3 x 14.6 cm)
|-
|《老女と裸の少女》
|''Vieille femme et fillette nue''
|1896
|紅殻チョーク(33.5 x 25.2 cm)
|-
|《二人の裸婦》
|''Deux nus''
|1897
|木炭(48 x 55.7 cm)
|-
|《椅子に座る若いユトリロ》
|''Utrillo adolescent à la chaise''
|1900
|紅殻チョーク(32.5 x 15.2 cm)
|-
|《自画像》
|''Autoportrait''
|1903
|紅殻チョーク(27.4 x 25.5 cm)
|-
|《座る裸婦》
|''Nu assis''
|1908
|木炭・パステル(53.5 x 47.8 cm)
|-
|《アダムとイヴ》
|''Adam et Eve''
|1909
|油彩(162 x 131 cm)
|-
|《二人の人物(入浴後)》
|''Deux figures (Après le bain)''
|1909
|油彩(101 x 82 cm)
|-
|《浴槽から出る裸婦》
|''Nu sortant du bain''
|1909
|紅殻チョーク・白チョーク(25.5 x 19.8 cm)
|-
|《裸のユッテル》
|''Utter nu''
|1909
|木炭・鉛筆(30.1 x 16.1 cm)
|-
|《祖母と孫息子(ユトリロ、彼の祖母、犬)》
|''Grand-mère et petit-fils (Utrillo sa grand-mère et un chien)''
|1910
|油彩(70 x 50 cm)
|-
|《マルト・ジリュー》
|''Marthe Girieud''
|1910
|木炭(28.9 x 21cm)
|-
|《腕を伸ばして座る裸の男(背後から)》
|''Nu assis de dos tendant le bras''
|1910-15
|鉛筆・青[[インク]](24.3 x 19.4 cm)
|-
|《物思いにふけるユトリロ》
|''Utrillo pensif''
|1911
|木炭(42.5 x 37.5 cm)
|-
|《ユッテルの横顔》
|''Utter de profil''
|1911
|鉛筆(28.5 x 23.5 cm)
|-
|《裸のユッテルの横からの像》
|''Utter nu de profil''
|1911
|木炭(33 x 15.2 cm)
|-
|《ユッテルの斜めの像》
|''Utter de trois-quarts''
|1911-12
|木炭(29 x 21.5 cm)
|-
|《画家の母》
|''La mère de l'artiste''
|1912
|油彩(82 x 62 cm)
|-
|《家族の肖像》
|''Portrait de famille''
|1912
|油彩(97 x 73 cm)オルセー美術館
|-
|《女仕立屋》
|''La Couturière''
|1914
|油彩(80 x 65 cm)オルセー美術館
|-
|《網を打つ人》
|''Le Lancement du filet''
|1914
|油彩(201 x 301 cm)
|-
|《鏡に向かう裸婦(身づくろい)》
|''Nus au miroir (La toilette)''
|1914
|木炭・パステル(51.5 x 37.5 cm)
|-
|《{{仮リンク|モーリシア・コキオ|fr|Mauricia Coquiot}}の肖像》
|''Portrait de Mauricia Coquiot''
|1915
|油彩(93 x 73 cm)
|-
|《コルトー通りの庭から見たサクレ=クール寺院》
|''Le Sacré-Coeur vu du jardin de la rue Cortot''
|1916
|油彩(65 x 54 cm)
|-
|《ベルヴィル=シュル=ソーヌ》
|''Belleville-sur-Saône''
|1917
|紅殻チョーク(21.5 x 28.1 cm)
|-
|《黒いヴィーナス》
|''Vénus noire''
|1919
|油彩(160 x 97 cm)
|-
|《ユッテルの家族》
|''La famille Utter''
|1921
|油彩(95 x 135 cm)
|-
|《カルス夫人》
|''Mme Kars''
|1922
|油彩(73.5 x 54 cm)
|-
|《レヴィ夫人》
|''Mme Lévy''
|1922
|油彩(92 x 73 cm)
|-
|《チャールズ・ウェイクフィールド=モリの肖像》
|''Portrait de Charles Wakefield-Mori''
|1922
|油彩(68 x 55 cm)
|-
|《リリー・ワトソン嬢の肖像》
|''Portrait de Miss Lily Walton''
|1922
|油彩(100 x 81 cm)
|-
|《青い寝室》
|''La Chambre bleue''
|1923
|油彩(90 x 116 cm)
|-
|《セガラス城(庭園内の城)》
|''Le château de Ségalas (Maison dans un jardin)''
|1923
|油彩(73 x 100 cm)
|-
|《ユトリロの正面像》
|''Utrillo de face''
|1925
|木炭(20.3 x 14.1 cm)
|-
|《ユトリロの斜めの像》
|''Utrillo de trois-quarts''
|1925
|木炭(20.4 x 13.9 cm)
|-
|《パレットを持つ裸婦》
|''Nu à la palette''
|1927
|木炭(64 x 45 cm)
|-
|《薔薇、アイリス、[[グラジオラス]]の花束》
|''Bouquet de roses, iris et glaïeuls''
|1928
|油彩(92 x 73 cm)
|-
|《花》
|''Fleurs''
|1929
|油彩(61 x 50 cm){{仮リンク|アノンシアード美術館|fr|Musée de l'Annonciade}}
|-
|《サン=ベルナール教会》
|''L'église de Saint-Bernard''
|1929
|油彩
|-
|《鴨》
|''Le canard''
|1930
|油彩(73 x 60 cm)
|-
|《ロベール・ル・マール博士》
|''Le docteur Robert Le Masle''
|1930
|油彩(100 x 81 cm)
|-
|《サン=ベルナール城》
|''Le château de Saint-Bernard''
|1930
|木炭(18 x 21 cm)
|-
|《花束》
|''Bouquet de fleurs''
|1930
|油彩(73 x 54 cm)
|-
|《薔薇の花束》
|''Bouquet de roses''
|1936
|油彩(29.5 x 21 cm)
|}
その他、国立近代美術館が所蔵する20枚以上の版画の原版には、裸婦や子どもが描かれているものが多い<ref>{{Cite web|title=Adèle préparant le tub et Ketty aux bras levés|url=https://www.centrepompidou.fr/id/cdjRpa/rpXRxAL/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2020-02-26|language=fr|publisher=Centre Pompidou}}</ref><ref>{{Cite web|title=Catherine et jeune garçon nu|url=https://www.centrepompidou.fr/id/crbAbp/rBgGRro/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2020-02-26|language=fr|publisher=Centre Pompidou}}</ref>。

==== [[パリ市立近代美術館]]蔵 ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!邦題(試訳)
!原題
!年
!画材
|-
|《裸婦》
|''Nu''
|1925
|油彩
|-
|《織物と花束のある静物画》
|''Nature morte à la draperie et au bouquet''
|1924
|油彩
|-
|《縞のベッドカバーと裸婦》
|''Nu à la couverture rayée''
|1922
|油彩
|-
|《ヴァイオリンケース》
|''La boîte à violon''
|1923
|油彩
|-
|《画架の前のユトリロ》
|''Utrillo devant son chevalet''
|1919
|油彩
|-
|《入浴する三人の裸婦》
|''Trois baigneuses nues''
|1935
|素描
|-
|《母と子》
|''Mère et enfant''
|1883
|素描
|}

==== 他の美術館蔵 ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!邦題(試訳)
!原題
!年
!画材(寸法)
|-
|《サーカス》
|''The Circus''
|1889
|油彩(48.8 x 60 cm)[[クリーブランド美術館]]
|-
|《身体を拭く女たち》
|''Women drying herself''
|1895
|エッチング(29.8 x 19.8 cm)[[国立西洋美術館]]
|-
|《12歳のモーリス・ユトリロ》
|''Maurice Utrillo à 12 ans''
|1896
|紅殻チョーク・黒鉛(24.3 x 24.3 cm)ギャルリー・デ・モデルヌ(パリ)
|-
|《自画像》
|''Self-Portrait''
|1898
|油彩(40 x 26.7 cm)[[ヒューストン美術館]]
|-
|《入浴》
|''The Bath''
|1905
|パステル・黒チョーク(68.5 x 54.8 cm)[[シカゴ美術館]]
|-
|《入浴》
|''Le Bain''
|1908
|パステル(60 x 49 cm)[[グルノーブル美術館]]
|-
|《[[コントラバス]]を持つ女》
|''Woman with a Double Bass''
|1909
|油彩、{{仮リンク|プティ・パレ (ジュネーヴ)|fr|Petit Palais (Genève)}}
|-
|《蛙》
|''The Frog''
|1910
|パステル・油彩(58.4 x 49.5 cm)[[バーゼル市立美術館]]
|-
|《生きる喜び》
|''Joy of Life''
|1911
|油彩(122.9 x 205.8 cm)[[メトロポリタン美術館]]
|-
|《トランプで占う女》
|''La tireuse de cartes''
|1912
|油彩(63 x 130 cm)プティ・パレ (ジュネーヴ)
|-
|《マリー・コカと彼女の娘》
|''Marie Coca et sa fille''
|1913
|油彩(161 x 130 cm)[[リヨン美術館]]
|-
|《髪を結う裸婦》
|''Nude Doing Her Hair''
|1916
|油彩(104.77 x 75.25 cm)[[国立女性美術館]]
|-
|《側転》
|''La roue''
|1916
|油彩(38 x 46 cm)[[モンマルトル美術館]]
|-
|《裸婦たち》
|''Nudes''
|1919
|油彩(45 x 31 cm)[[サンパウロ美術館]]
|-
|《帝政時代風の花瓶の花束》
|''Bouquet of Flowers in an Empire Vase''
|1920
|油彩(73.02 x 54.61 cm)国立女性美術館
|-
|《赤いソファの上の裸婦》
|''Nu au canapé rouge''
|1920
|油彩、プティ・パレ(ジュネーヴ)
|-
|《モーリス・ユトリロの肖像》
|''Portrait de Maurice Utrillo''
|1921
|油彩(65.5 x 52 cm){{仮リンク|ユトリロ・ヴァラドン美術館|fr|Musée Utrillo-Valadon}}
|-
|《捨てられた人形》
|''The Abandoned Doll''
|1921
|油彩(129.54 x 81.28 m)国立女性美術館
|-
|《ザマロン夫人の肖像》
|''Portrait of Mme Zamaron''
|1922
|油彩(81.5 x 65.6 cm)[[ニューヨーク近代美術館]]
|-
|《入浴する女たち》
|''Les baigneuses''
|1923
|油彩(89 x 117 cm)[[ナント美術館]]
|-
|《白いストッキングの女》
|''Femme aux bas blancs''
|1924
|油彩、[[ナンシー美術館]]
|-
|《自画像》
|''Autoportrait''
|1927
|油彩(62 x 50 cm)ユトリロ・ヴァラドン美術館
|-
|《チューリップの花束》
|''Bouquet de tulipes''
|1927
|油彩(65.4 x 50.2 cm)Galerie De Jonckheere
|-
|《横たわる裸婦》
|''Reclining Nude''
|1928
|油彩(60 x 80.49 cm)メトロポリタン美術館
|-
|《ライラックと芍薬》
|''Lilacs and Peonies''
|1928
|油彩(100 x 81.3 cm)メトロポリタン美術館
|-
|《春の花》
|''Spring Flowers''
|1928
|油彩(81 x 60 cm)[[コペンハーゲン国立美術館]]
|-
|《花束》
|''Bouquet de fleurs''
|1928
|油彩、{{仮リンク|アルベール=アンドレ美術館|fr|Musée Albert-André}}
|-
|《低い塀の上の少女》
|''Girl on a Small Wall''
|1930
|油彩(91.44 x 73.66 cm)国立女性美術館
|-
|《青い布を掛けた椅子に座る裸婦》
|''Nu au châle bleu''
|1930
|油彩(8.85 x 7.75 cm){{仮リンク|ウンターリンデン美術館|fr|Musée Unterlinden}}
|-
|《窓辺の若い女》
|''Young Girl in Front of a Window''
|1930
|油彩、{{仮リンク|サンディエゴ美術館|en|San Diego Museum of Art}}
|-
|《鴨の卵の入った籠》
|''Basket of Duck Eggs''
|1931
|油彩、バーゼル市立美術館
|}

==== 個人蔵 ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!邦題(試訳)
!原題
!年
!画材(寸法)
|-
|《パイプをふかすミゲル・ウトリーリョ(ユトリロ)の肖像》
|''Portrait de Miguel Utrillo fumant sa pipe''
|1891
|木炭(17.5 x 11 cm)
|-
|《脚を拭く裸のカトリーヌ》
|''Catherine nue s'essuyant la jambe''
|1894
|鉛筆(16 x 15 cm)
|-
|《裸のユトリロの身体を拭く祖母》
|''La Grand-mère essuyant Utrillo nu''
|1894
|リトグラフ(37 x 27 cm)
|-
|《裸のユトリロの身体を拭く祖母》
|''La Grand-mère essuyant Utrillo nu''
|1894
|リトグラフ(38 x 27.5 cm)
|-
|《裸で身体を拭くカトリーヌ》
|''Catherine nue s'essuyant''
|1895
|銅版画(28.5 x 18 cm)
|-
|《自画像》
|''Autoportrait''
|1903
|紅殻チョーク(30 x 23.5 cm)
|-
|《鏡の前の裸婦の背中》
|''Nu de dos devant une glace''
|1904
|パステル(58.7 x 47.9 cm)
|-
|《身づくろい》
|''La toilette''
|1904-06
|鉛筆(17 x 22 cm)
|-
|《ピエールフィットの風景》
|''Paysage à Pierrefitte''
|1906
|油彩(46 x 54 cm)
|-
|《自慢の愛犬》
|''Ma Fière''
|1908
|色鉛筆・パステル(13 x 18 cm)
|-
|《肘掛け椅子に座るジュリエット》
|''Juliette assis au fauteuil''
|1909
|油彩(55.4 x 45.5 cm)
|-
|《鏡の前の裸婦》
|''Nude at the Mirror''
|1909
|油彩
|-
|《{{仮リンク|ベルゴデール|fr|Belgodère}}教会、[[コルシカ島]]》
|''Église de Belgodère, Corse''
|1913
|油彩(74 x 92 cm)
|-
|《身づくろいする女》
|''Femme à la toilette''
|1913
|油彩
|-
|《横たわる犬 習作I》
|''Chien couché-étude I''
|1913
|木炭・色鉛筆(25.5 x 43 cm)
|-
|《横たわる犬 習作II》
|''Chien couché-étude II''
|1913
|木炭・色鉛筆(25.5 x 43 cm)
|-
|《花瓶の薔薇》
|''Roses in a Vase''
|1914
|油彩(38.5 x 26.5 cm)
|-
|《赤い織物の上に横たわる裸婦》
|''Nu allongé à la draperie rouge''
|1914
|油彩(50.6 x 66 cm)
|-
|《試着》
|''L'essayage''
|1916
|木炭・パステル(61 x 46.5 cm)
|-
|《自画像》
|''Autoportrait''
|1916
|油彩(43.10 x 34 cm)
|-
|《薔薇の花束、果物鉢の静物画》
|''Nature morte au bouquet de roses, compotiers de fruits''
|1917
|油彩(46 x 55 cm)
|-
|《女性像》
|''Portrait of a Woman''
|1917
|油彩
|-
|《ソファに横たわる女》
|''Femme allongée sur un canapé''
|1917-18
|油彩(65.4 x 92.7 cm)
|-
|《果物鉢のある静物画》
|''Nature morte à la coupe de fruits''
|1918
|油彩(38.5 x 53 cm)
|-
|《田舎道》
|''Une route à la campagne''
|1918
|油彩(64.8 x 49.8 cm)
|-
|《{{仮リンク|イリニー|fr|Irigny}}教会》
|''L'église d'Irigny''
|1918
|油彩(62 x 50 cm)
|-
|《二匹の猫》
|''Two cats''
|1918
|油彩
|-
|《猫の習作》
|''Study of a cat''
|1918
|油彩
|-
|《自画像》
|''Self-Portrait''
|1918
|油彩
|-
|《モンコラン農場》
|''Farm Montcorin''
|1918
|油彩
|-
|《花束の前の猫》
|''Cat Lying in front of a Bouquet of Flowers''
|1919
|油彩(66.4 x 35 cm)
|-
|《花瓶に挿した1輪の薔薇》
|''Rose dans un vase''
|1919
|油彩(35.4 x 27.3 cm)
|-
|《ヴィクトリーヌまたは嫉妬深い女》
|''Victorine ou La tigresse''
|1919
|油彩(61.2 x 50.2 cm)
|-
|《織物を持つ裸婦》
|''Nude Woman with Drapery''
|1919
|油彩
|-
|《裸婦の立像と猫》
|''Nue debout et le chat''
|1919
|油彩(61 x 50 cm)
|-
|《コルトー通り12番地、モンマルトル》
|''12 rue Cortot, Montmartre''
|1919
|油彩(92 x 73 cm)
|-
|《丸いテーブルの上の花瓶》
|''Vase de fleurs sur une table ronde''
|1920
|油彩(73.3 x 53 cm)
|-
|《花のある静物画》
|''Nature morte aux fleurs''
|1920
|油彩(65.1 x 54.5 cm)
|-
|《布の上に座る猫ラミヌー》
|''Raminou sitting on a cloth''
|1920
|油彩
|-
|《ソファに横たわる裸婦》
|''Nude on the sofa''
|1920
|油彩
|-
|《ルイゾンと猫ラミヌー》
|''Louison and Raminou''
|1920
|油彩
|-
|《帝政時代風のコーヒーポットに挿された花》
|''Fleurs dans une cafetière Empire''
|1920
|油彩(61 x 50 cm)
|-
|《青いリボンのトルソー》
|''Torse au ruban bleu''
|1921
|油彩(52.4 x 45.7 cm)
|-
|《{{仮リンク|ジュネ (マンシュ県)|fr|Genêts|label=ジュネ}}([[ブルターニュ]])の私の窓からの眺め》
|''View from My Window in Genêts (Brittany)''
|1922
|油彩(80.5 x 59.7 cm)
|-
|《草原の榛の木》
|''L'Aulne dans la prairie''
|1922
|油彩(64 x 54 cm)
|-
|《長椅子に座る裸婦》
|''Nu assis sur un divan''
|1922
|油彩(61 x 46 cm)
|-
|《豹皮の上に横たわる裸のカトリーヌ》
|''Catherine nue allongée sur une peau de panthère''
|1923
|油彩(64.6 x 91.8 cm)
|-
|《サン=ベルナール城の塔》
|''Tour du Château de Saint-Bernard''
|1924
|油彩(80.6 x 65 cm)
|-
|《チューリップと果物鉢のある静物画》
|''Nature morte aux tulipes et compotier de fruits''
|1924
|油彩(80 x 60 cm)
|-
|《乳房を露わにした自画像》
|''Autoportrait aux seins dénudés''
|1924
|油彩(52.1 x 41.9 cm)
|-
|《テーブルの上の薔薇の花瓶》
|''Vase de roses sur un guéridon''
|1925
|鉛筆・油彩(60.6 x 49.8 cm)
|-
|《窓辺のジェルメーヌ・ユッテル》
|''Germaine Utter devant sa fenêtre''
|1926
|油彩(80.8 x 65 cm)
|-
|《花と果物が載ったテーブルの片隅》
|''Coin de table chargé de fleurs et de fruits''
|1926
|油彩(73 x 54.3 cm)
|-
|《サン=ベルナールの窓の前の花束》
|''Bouquet de fleurs devant une fenêtre à Saint-Bernard''
|1926
|油彩(52.7 x 38.1 cm)
|-
|《サン=ベルナールの城のテラス(アン県)》
|''La terrasse du château de Saint-Bernard (Ain)''
|1927
|油彩(81 x 60 cm)
|-
|《アルビとミス》
|''L'arbi et la misse''
|1927
|油彩(32.7 x 44.5 cm)
|-
|《ソファに横たわる裸婦》
|''Nude Reclining on a Sofa''
|1928
|油彩
|-
|《コルトー通りの庭》
|''Le Jardin de la rue Cortot''
|1928
|油彩(73 x 60.2 cm)
|-
|《身づくろいをする3人の女》
|''Trois femmes à sa toilette''
|1928
|リトグラフ(27 x 33 cm)
|-
|《浴女の習作》
|''Esquisse pour les baigneuses''
|1928
|油彩(40.5 x 33 cm)
|-
|《林檎の籠、花瓶、葡萄のある静物画》
|''Nature morte au panier de pommes, vase de fleurs, et raisins''
|1928
|油彩(60 x 50.2 cm)
|-
|《水晶の花瓶の花束》
|''Bouquet dans un vase de crystal''
|1928
|油彩(81 x 65.2 cm)
|-
|《ベッドに腰掛ける裸婦》
|''Nu assis au bord d'un lit''
|1929
|油彩(64.8 x 54.3 cm)
|-
|《野兎と雉と林檎のある静物》
|''Nature morte au lièvre, faisant et pommes''
|1930
|油彩(73 x 92 cm)
|-
|《花瓶の中のリラの花束》
|''Bouquet de Lilas dans un vase''
|1930
|油彩(81 x 65 cm)
|-
|《サン=ベルナールの教会(アン県)》
|''Église de Saint-Bernard (Ain)''
|1931
|油彩(100 x 73 cm)
|-
|《猫ラミヌーと水差しのカーネーション》
|''Raminou et pichet d'oeillets''
|1932
|油彩(51.4 x 62.8 cm)
|-
|《ハンモックに横たわる女》
|''Femme dans un hamac''
|1932
|油彩(81.5 x 100.3 cm)
|-
|《花瓶に挿した1輪の薔薇》
|''Rose dans un vase''
|1932
|油彩(32.8 x 24.3 cm)
|-
|《小さなテーブルの上の花束》
|''Bouquet de fleurs sur une petite table''
|1932
|油彩(65.2 x 54.1 cm)
|-
|《花と果物のある静物画》
|''Nature morte aux fleurs et fruits''
|1932
|油彩(92 x 73 cm)
|-
|《アンドレ・ユッテルと彼の犬》
|''André Utter and His Dogs''
|1932
|油彩
|-
|《卵の入った籠》
|''Panier aux œufs''
|1932
|油彩(26.3 x 34.8 cm)
|-
|《ポール・ペトリデスの肖像》
|''Portrait de Paul Pétridès''
|1934
|油彩(41.5 x 33 cm)
|-
|《水晶の花瓶の花束》
|''Bouquet de fleurs dans un vase de cristal''
|1934
|油彩(73 x 60 cm)
|-
|《自画像》
|''Autoportrait''
|1934
|油彩(41.3 x 33 cm)
|-
|《ジュヌヴィエーヴ・カマックス=ゾエガーの肖像》
|''Portrait de Mme. Geneviève Camax-Zoegger''
|1936
|油彩(55 x 46 cm)
|-
|《花》
|''Fleurs''
|1936
|油彩(33 x 24 cm)
|-
|《リュシー・ヴァロールの肖像》
|''Portrait de Lucie Valore''
|1936
|油彩(56 x 46 cm)
|}
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File:The Blue Room by Suzanne Valadon.jpg|{{small|《青い部屋》(1923)}}
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Reflist}}


==外部リンク==
== 参考資料 ==

{{commons|Suzanne Valadon}}
* Pierre Reip, [https://www.revolutionpermanente.fr/Suzanne-ou-la-transgression-du-genre Suzanne ou la transgression du genre], le 6 octobre 2015, Nouveau Parti Anticapitaliste (NPA), Courant Communiste Révolutionnaire.
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* Catherine Brun, [https://musees-occitanie.fr/encyclopedie/artistes/suzanne-valadon/ Suzanne VALADON (Marie-Clémentine VALADE)], Musées d'Occitanie.
*[http://www.geocities.co.jp/nack735/suzannesvaladon.html スザンヌ・ヴァラドンの作品]
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* Johanna Brad, VALADON, Suzanne, Jill Berk Jiminez (ed.), ''Dictionary of Artists' Models'', Routledge, 2001.
*[http://www.markphillips.com/blog/2002-10/valadon_adamAndEve.html Mark's Pages](英語)『アダムとイヴ』を見ることができる。
* Robert Rey, ''Suzanne Valadon et son œuvre'', Gallimard, 1922.
* Georges Charensol, [https://www.revuedesdeuxmondes.fr/wp-content/uploads/2016/11/54cd19d5342c00906e710c093dd732ba.pdf Les Beaux-Arts : Suzanne Valadon au Musée National d’Art Moderne], ''La Revue des Deux Mondes''.
*[http://www.somogy.fr/livre/valadon-utrillo-utter?ean=9782757209523 VALADON, UTRILLO & UTTER À L'ATELIER DE LA RUE CORTOT : 1912-1926] (2015), Somogy Éditions d'Art (source : Jacqueline Munck, ''La peinture de Suzanne Valadon : 1909-1914, une passion decisive'').
* Agathe Lautréamont, [https://www.beauxarts.com/expos/suzanne-valadon-peintre-et-muse-des-grands-artistes-de-son-temps/ Suzanne Valadon, peintre et muse des grands artistes de son temps], le 16 décembre 2015, ''Beaux Arts''.
*[[若桑みどり]]『女性画家列伝』[[岩波書店]]([[岩波新書]])1985年。
* 「ユトリロとヴァラドン 母と子の物語 ― スュザンヌ・ヴァラドン生誕150年」(プレスリリース、2015年)[[東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館]]。
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* 今野志津「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002842 シュザンヌ・ヴァラドンの男性ヌード]」『表現文化研究』第3巻第2号、[[神戸大学]]表現文化研究会、2004年3月24日、123-137頁。

== 関連書籍 ==

* {{仮リンク|ジャンヌ・シャンピヨン|fr|Jeanne Champion}}『シュザンヌ・ヴァラドン ― その愛と芸術』[[佐々木涼子]]、中条屋進共訳、西村書店、1998年 - 小説的伝記。

== 関連項目 ==

* [[モーリス・ユトリロ]]
* [[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック]]
* [[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]
* [[ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ]]
* [[エドガー・ドガ]]
* [[モンマルトル美術館]]


== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* [https://www.centrepompidou.fr/cpv/resource/c4robj7/rR5nrAG SUZANNE VALADON] - Centre Pompidou - [[ポンピドゥー・センター]]([[国立近代美術館 (フランス)|国立近代美術館]])
* [http://parismuseescollections.paris.fr/fr/recherche/type/oeuvre/auteur/Valadon%2C%20Suzanne Suzanne Valadon] - Musée d'art moderne de la Ville de Paris - [[パリ市立近代美術館]]
* [https://nmwa.org/explore/artist-profiles/suzanne-valadon Suzanne Valadon] - National Museum of Women in Arts - [[国立女性美術館]]([[ワシントンD.C.]])
* [https://oh-oui.com/musee-montmartre/wp-content/uploads/sites/4/2017/05/CP_Valadon-Utrillo-Utter.pdf Suzanne Valadon, Maurice Utrillo, André Utter au 12, rue Cortot (1912-1924)] - Musée de Montmartre - 2015年10月16日 - 2016年2月15日まで[[モンマルトル美術館]]で行われた展覧会
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2020年3月28日 (土) 07:47時点における版

シュザンヌ・ヴァラドン
Suzanne Valadon
20代のシュザンヌ・ヴァラドン
本名 マリー=クレマンティーヌ・ヴァラドン(Marie-Clementine Valadon)
誕生日 1865年9月23日
出生地 フランスの旗 フランス帝国ベッシーヌ=シュル=ガルタンプフランス語版ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏オート=ヴィエンヌ県
死没年 (1938-04-07) 1938年4月7日(72歳没)
死没地 フランスの旗 フランス共和国パリ
墓地 サン=トゥアン墓地(Cimetière parisien de Saint-Ouen
国籍 フランスの旗 フランス
配偶者 ポール・ムージス(Paul Mousis)
アンドレ・ユッテルフランス語版
流派 ポスト印象派
芸術分野 絵画
教育 独学、のちにエドガール・ドガに師事
代表作 《エリック・サティの肖像》(1892-93)
《アダムとイヴ》(1909)
《祖母と孫息子》(1910)
《家族の肖像》(1912)
《網を打つ人》(1914)
会員選出組織 国民美術協会
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シュザンヌ・ヴァラドンSuzanne Valadon1865年9月23日 - 1938年4月7日)はフランス画家モンマルトルピュヴィス・ド・シャヴァンヌルノワールロートレックらの著名な画家のモデルを務めながら独学で絵を描き始め、エドガー・ドガに師事した。モーリス・ユトリロの母であり、幼いユトリロの素描から1921年制作の代表作《モーリス・ユトリロの肖像》まで息子を描いた絵を多数遺しているが、主に繊細な風景画を描いたユトリロとは対照的に、ヴァラドンは力強い人物画で知られる。国民美術協会に出展した初の女性画家であり、国立美術学校で女性画学生による裸体モデルのデッザンが禁じられていた時代に、女性だけでなく男性の裸体も野獣派的な力強い線で表現した先駆的・前衛的な女性画家である。

生涯

背景

シュザンヌ・ヴァラドンは1865年9月23日、フランス中部のベッシーヌ=シュル=ガルタンプフランス語版オート=ヴィエンヌ県ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏)にマリー=クレマンティーヌ・ヴァラドン(またはヴァラード)として生まれた[1][2]。母マドレーヌ・ヴァラドン(ヴァラード)は34歳の貧しい洗濯婦であった。父親については、クーロー(Coulaud)という姓で言及または噂されることがあるが不明である[2][3][4]

1870年頃(マリーが5歳の頃)、マドレーヌは娘を連れてパリに出て、労働者地区のモンマルトルに居を定めた[2][5]普仏戦争、次いでパリ・コミューンが起こった頃であり、モンマルトルは激戦地となり、この後、蜂起して犠牲となった民衆を弔うために建てられたのがサクレ・クール寺院であり[6]、ヴァラドンは生涯にわたってこの地に暮らすことになる。

ロートレックの友人で画家のフランソワ・ゴージフランス語版によるシュザンヌ・ヴァラドン(左)とロートレックのモデルの一人ジャンヌ・ウェンツの肖像写真(1890年頃)

マドレーヌはマリーをアパートの管理人などに預け、家政婦や洗濯・アイロン掛けの仕事をして生計を立てた。マリーはモンマルトル・サン=ジャン修道院が経営する小学校に入学したが[1][2]、1877年、11歳のときに退学して裁縫師になり、その後、大衆食堂の給仕、バティニョール市場野菜の売り子、店員、工場労働者などの仕事を転々とした[7][8]。15歳のとき、友だちの勧めもあって子どもの頃から憧れていたサーカス「モリエ」に入団した。曲芸師として活躍し始めたが(脇役であったとされるが[9])、6か月後に空中ブランコから転落して重傷を負い、退団を余儀なくされた[1][7][8][10]

画家のモデル

ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ

ヴァラドンはやがてモンマルトルの芸術家と付き合うようになった。1880年代のモンマルトルは、安酒を出す「オ・ラパン・アジル」や「ル・シャ・ノワール」、「ムーラン・ルージュ」などのキャバレーが、ボエーム(ボヘミアン)の芸術家だけでなく娼婦やその情夫、犯罪者、浮浪者、社会の周辺に生きる人々などが集まる場所であった[11]。ヴァラドンは洗濯婦の母マドレーヌの仕事を手伝って、画家たちのところに洗濯物を届けて回っているうちに誘われて、画家のモデルを務めるようになった[8]。1880年頃に登録されていた16歳から20歳のモデルは約670人であったが、肉感的な身体、くっきりとした眉や大きな青い目、そして豊かな表情が魅力のヴァラドンは人気のモデルとなった[7]。エドガー・ドガは、マリー=クレマンティーヌ・ヴァラドンをその才能、魅力、人格を含めて両義的な意味で「恐るべきマリア」と呼んだ[1][9][10]。一方、美術評論家若桑みどりは、モデルとしてのヴァラドンを次のように評している。

人間は、顔よりもその肉体に精神を秘めているものである。シュザンヌの肉体の、堂々とした調和は、健全で、知的な精神をもった女性を暗示している。彼女が第一級の芸術家の創作意欲を刺激したのは、彼女の肉体の中にエスプリと形式美があったからだろう[12]

最初に彼女を描いた高名な画家はピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824-1898)であった。現在知られている限りでは、1884年のサロン(官展)に出展されて話題を呼んだ大作《美神(ミューズ)と芸術にとって大切な聖なる森(Bois Sacré cher aux Arts et aux Muses)》(460 x 1040 cm、リヨン美術館蔵)[13][7]、および1891年制作の《夏》(クリーブランド美術館蔵)に描かれる「骨格のしっかりとした、均衡のとれた、古典的な美しさ」をもつ肉体の女性がヴァラドンとされる[12]

ロートレック作《聖なる森》のパロディー(1884年、プリンストン大学美術館蔵)

当時20歳のロートレック(1864-1901)は、同じ1884年にシャヴァンヌのこの絵をもとに《聖なる森》のパロディーを描いている。このパロディーも絵もまた、ロートレックがちょうどこの頃出会ったヴァラドンがモデルである。この絵には、裸のミューズたちの横に、同じ画学生であったルイ・アンクタン、作家のエドゥアール・デュジャルダンフランス語版モーリス・バレス、ロートレックが最初に師事した画家レオン・ボナ、後ろを向いて立ち小便をしているロートレック自身が描かれ、警察官数人が彼ら《聖なる森》の「侵入者」に一列に並ぶように指示している[14]。ロートレックのこのパロディーは、「伝統的なアカデミックな絵画に背を向ける」彼の心的傾向を示すものとされ[8]、実際、彼はこの頃からモンマルトルの画家仲間の住居を転々としながら、「ル・シャ・ノワール」の人気歌手で、偽善虚飾を罵倒する歌詞や娼婦や浮浪者などの貧窮を歌った曲で知られるアリスティード・ブリュアンフランス語版や「ムーラン・ルージュ」の踊り子たちを描くようになった[15]

ルノワール

ヴァラドンはまた、ルノワール(1841-1919)のモデルとしても知られている。《雨傘》(1881-86年、ナショナル・ギャラリー蔵、英国)、《ブージヴァルのダンス》(1883年、ボストン美術館蔵)、《都会のダンス》(1883年、オルセー美術館蔵)、《風景の中の裸婦》(1883年、オランジュリー美術館蔵)、《座って腕を拭く浴女》(1884-85年)、《髪を整える浴女》(1885年)、《シュザンヌ・ヴァラドン》(1885年頃、ナショナル・ギャラリー蔵、米国)、《シュザンヌ・ヴァラドンの肖像》(1885年、個人蔵)、《髪を編む娘》(1887年、ラングマット美術館蔵、スイス)、《女性大浴女図(浴女たち)》(1887年)などである[7]。特に《ブージヴァルのダンス》と《都会のダンス》が有名だが、ルノワールが同じ年に後の妻アリーヌ・シャリゴフランス語版をモデルに描いた《田舎のダンス》は、もともとヴァラドンがモデルであったが、アリーヌが嫉妬して自分の明るい笑顔に変えさせたとされる(笑顔のヴァラドンを描いた絵はほとんどない)[7][16]

ルノワールが一連のダンスの絵を描いた1883年の12月26日、18歳のヴァラドンはモンマルトルの丘のふもとのポトー通りフランス語版10番地で息子モーリスを出産した。父親については、「オ・ラパン・アジル」の歌手で大酒飲みのボワシー(Boissy)という人物であったとされるが不明である[2][9][17]。ユトリロは1891年、8歳のときにカタルーニャ州出身のスペイン人で画家・美術評論家のミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス(Miquel Utrillo)に認知されて「ヴァラドン」から「ユトリロ」に改姓された[1][17][18]。「ユトリロ」(または「ユトリヨ」)は「ウトリーリョ」のフランス語読みである。

1883年の《自画像》

ヴァラドンが本格的に絵を描くようになったのも1883年のことある。これは彼女が処女作《自画像》(国立近代美術館蔵)を描いた年である[19]。それまでに多くの前衛画家のモデルをしながら制作過程を目にしていた彼女は、見よう見まねで自画像や裸婦、の素描を描き始めた。若桑みどりはヴァラドンの素描を、「刻みつけるように鋭く、酷薄な線で、えぐるように描かれている」、「本質的な鋭い一本の線が見つかるまで」何度も描き直し、「一点のごまかしもない」と表現している[12]。それはまた、「一人の女性として、画家としての自己探求」であった[7]

ヴァラドンはユトリロが生まれてからも、彼を母マドレーヌに預け、モデルの仕事と制作に専念した。まだ18歳の彼女が女手一つで二人を養いながら家計を支えなければならなかったからである[8][9]

ロートレック

ロートレックがヴァラドンをモデルに《聖なる森》のパロディーを描いたのは1884年のことだが、さらに1886年には、ヴァラドン一家が住むトゥールラック通りフランス語版7番地(18区)のアパートの5階にアトリエを構え、ここに二人の関係が破局を迎える1889年頃まで住んでいた[1][8]。二人がどのような関係であったのか正確にはわかっていないが、ロートレックの代表作であるヴァラドンの肖像《二日酔い(Gueule de bois)》(または《酒を飲む女(La Buveuse)》)(フォッグ美術館蔵)が描かれたのはこのとき(1888年)のことである。アカデミックな絵画に背を向けた若い前衛画家の彼は、当時すでに60代のシャヴァンヌや40代のルノワールのモデルをしていることを皮肉って、彼女を「シュザンヌ」と名付けた。旧約聖書外典ダニエル書)に登場するスザンナのことであり、スザンナは水浴中の姿を長老たちに覗き見され、関係を迫られた女性である[1][20]。この名前が気に入ったヴァラドンは、以後、「シュザンヌ・ヴァラドン」を名乗ることになる。

ロートレックが描いたヴァラドン:《二日酔い》または《酒を飲む女》

実際、シャヴァンヌが「類型化された理想の女性」、ルノワールが「優雅な若い女性」、「若さと官能に溢れた」女性としてのヴァラドンを描いたのとは対照的に、ロートレックは厳しい表情やうつろな表情のヴァラドンを描いた[7][8]。ロートレック研究家の千葉順は、ロートレックがヴァラドン像で表現したのは「厳しい生活を生きる女性の強い意志」、「ひとりの女性の内面」であり、とりわけ、《二日酔い》では、「来し方行く末を思い、沈鬱な想いに耽る現実の人生を生きるひとりの女性の姿」を描いていると評している[8]。また、画法としても、それまでの線を基調とする踊り子たちの絵と異なり、アシュール(線影)によって立体感をつけたうえにパステルを用いている。アシュールは1888年に制作された《ゴッホの肖像》で初めて用いた手法であり、パステルもロートレックとしては例外的とされる。ロートレックは同じ手法でヴァラドンを描き、その後、油彩を制作した[8]。二人の関係が終わる1889年頃までの間に、ロートレックは他にも《シュザンヌ・ヴァラドンの肖像》(1885年、ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館蔵、デンマーク)、《シュザンヌ・ヴァラドンの肖像》(1885年、アルゼンチン国立美術館蔵)などヴァラドンの肖像を数点制作している(素描と同じ構造の油彩を含む)が、重要なのは、ヴァラドンが密かに絵を描いているのを知り、その才能を最初に見抜いた画家がロートレックであったことである[8]

この他、フェデリコ・ザンドメーネギ作《ビストロのテーブルに座る女》(1885年、個人蔵)や[7]、《ル・シャ・ノワール》のポスターで知られるテオフィル・アレクサンドル・スタンランによる女性の肖像にもヴァラドンがモデルとされるものがある[21][22]。他にもアカデミックな画家ジャン=ジャック・エンネルから、後にユトリロと親交を深めた前衛画家モディリアーニまで多くの画家のモデルになり[23][24]、1891年にはミゲル・ウトリーリョの友人のスペイン人画家サンティアゴ・ルシニョールが、モンマルトルの自宅でヴァラドンとウトリーリョを描いた《夏の雲》(個人蔵)を発表している[25]

エリック・サティ

サティによるヴァラドンの肖像
ヴァラドンによるサティの肖像

一方、ヴァラドンが1892年から93年にかけて描いた《エリック・サティの肖像》は、この音楽家の「最良の肖像として名高い」が[12]、サティもまた、1893年に五線譜の上にイラスト風に描いたヴァラドンの肖像を遺している(国立近代美術館蔵)[26]。彼は当時、初めて舞台にピアノを置くことを許可されたキャバレー「ル・シャ・ノワール」のピアニストであった[27]。26歳のサティと28歳のヴァラドンの関係は6か月間だけの「短く激しい」ものであったが[28]、この間、サティはヴァラドン宛に300通もの手紙を書いた[29]。二人の関係が破局を迎えたときにサティが作曲したのが、「あらゆる泥酔者、破廉恥漢、放蕩者、ならず者、にせ者たちを憐れみて」、「受けた侮辱の許しが問題となるとき」を含む『ゴシック舞曲 ― 我が魂の大いなる静けさと堅固な平安のための9日間の祈祷崇拝と聖歌的協賛』であった[28]

ヴァラドンはサティの友人で裕福な資産家(銀行家)のポール・ムージスと付き合い始めた[2][30]

画家ヴァラドン

国民美術協会 - ドガに師事

ヴァラドンは1894年に(1861年に設立され、活動を中断した後)シャヴァンヌ、オーギュスト・ロダンカロリュス=デュランによって1890年に再結成された国民美術協会[31]の展覧会に出展した。シャヴァンヌには反対されたが、選考委員会の委員であった彫刻家のアルベール・バルトロメフランス語版の支持を得て、出展が認められた。女性画家の出展は初めてのことであった。しかも、《孫息子の身づくろい》、《祖母と孫息子》を含む素描5点を出展し、初めて買い手がついた。美術品蒐集家でもあったエドガー・ドガである[32]。ドガはヴァラドンを他の美術品蒐集家や、ロートレックの画商として知られるル・バルク・ド・ブートヴィルフランス語版、画家のエミール・ベルナールピカソセザンヌゴーギャン印象派の画家の作品を多数買い上げた画商ポール・デュラン=リュエルらに紹介し、自らヴァラドンに銅版画、特にソフトグラウンド・エッチングの技法、さらにはドライポイントや油彩の技法も指導した[33]。1895年にドガの紹介により、画商アンブロワーズ・ヴォラールの画廊で初めての個展が行われた[7]

ヴァラドンによるユトリロ7歳の肖像

1896年にポール・ムージスと結婚し、コルトー通りフランス語版12番地に居を構えた。100メートル程度の小路であり、数メートル離れた6番地は1890年からサティが住んでいた(サティは1898年に越すことになる)。また、12番地は現在、モンマルトル美術館がある地所であり[34]、一家はここに1905年まで住むことになるが[4]、後にヴァラドンがムージスと離婚してユトリロの友人で21歳年下のアンドレ・ユッテルフランス語版と再婚した後、この場所に再び移り住むことになる(2014年にこのアトリエが復元され、モンマルトル美術館の一部として一般に公開された)[35]。ムージスはまた、パリ近郊のモンマニーフランス語版ヴァル=ドワーズ県)にも邸宅を構えていたため、一家はモンマルトルとモンマニーを行き来していた[4]

ムージスの経済的支援により、ヴァラドンは制作に専念することができた。ユトリロは祖母マドレーヌが住むパリ近郊のピエールフィット(現セーヌ=サン=ドニ県)のモラン寄宿学校に預けられ、オーベルヴィリエで初等教育の修了証書を受けた[36]。だが、すでに10代からアルコール依存症になり、サン=タンヌ精神病院に入院した[37]。退院後にモンマニーの邸宅に移り住んだユトリロにヴァラドンは絵を描かせた。少しでもアルコールから気を逸らせたいと思ったからである[7][9][12]。ユトリロは《モンマニーの3本の通り》、《モンマニーのティユール大通り》などを制作した。「白の時代」より前のこの時期の印象派の絵は「モンマニーの時代」と呼ばれることがある[38]

アンドレ・ユッテルとの出会い

ヴァラドン作《アダムとイヴ》

ヴァラドンが画家のアンドレ・ユッテルと出会ったのはこの頃である。もともと実業家のムージスと芸術家のヴァラドンはそりが合わず、ユトリロとムーリスの不和も相俟って、夫婦間の諍いが絶えなかったが、そのような時期に出会ったユッテルは、ヴァラドンに新たなインスピレーションを与える存在であった[30]。ヴァラドンはユッテルをモデルに素描や油彩を次々と描いた。国立美術学校が女性の入学を認めたのは1897年のことであり[20]、しかも、入学が認められた後も女性の画学生は裸体モデルのデッサンが禁じられているなど多くの制約があったため、女性画家が女性の裸体を描くこと自体が例外的であり、したがって、女性が男性の裸体を描くことは、それだけで先駆的なことであった[30]。ユッテルをモデルに描いた作品のうち、代表作は1909年制作の《アダムとイヴ》と1914年制作の《網を打つ人》であり(いずれも国立近代美術館蔵)、これらに描かれる裸の男性は「律動的な力に満ちた男性像」である[30]。《アダムとイヴ》は1920年のサロン・ドートンヌに出展された作品である。当初はアダムの男性器が描かれていたが、サロン・ドートンヌに出展する前に、「おそらくは主催者側の要求により」性器を隠すためにイチジクの葉を描いた[30][39]。この絵はまた、伝統的な絵画におけるアダムとイヴの表象に不可欠であったが描かれていず、特にヴァラドン自身をモデルとするイヴは解放的でのびやかに描かれており、女性画家としてだけでなく、絵画の伝統に対しても、タブーを破る作品である[30][39]

ヴァラドンはムージスに離婚を申し立て、18区アンパス・ド・ゲルマ(現ヴィラ・ド・ゲルマフランス語版)でユッテルと同棲を始め、1911年に離婚が成立した。離婚を申し立てたのはヴァラドンであったが、コルトー通り12番地の地所を所有することは認められたため、1912年にユトリロ、ユッテル、母マドレーヌとともにここに越し、1914年にユッテルと再婚した[40]。マドレーヌはここで1915年に死去した[9]。ユッテルとの関係は、1926年に別居し、ヴァラドンとユトリロがジュノー通りフランス語版に越すまで続く(ユッテルは1948年に死去するまでコルトー通り12番地に住んでいた)[34]

「父」のいない家族の肖像

ヴァラドン作《家族の肖像》

1912年、ユトリロ、ユッテル、マドレーヌ、そしてヴァラドン自身を描いた《家族の肖像》(オルセー美術館蔵)を制作した。家族像とはいえ、4人は視線を交わすことなく、それぞれ異なった方向を向いている。正面を向いているのはヴァラドンで、ユトリロは頬杖をついて暗い表情である。家族を理想化するのとは逆に、それぞれが異なる歴史を生きた個人の群像であり、にもかかわらず「濃厚な家族の関係性」を漂わせる作品である[30]。1910年制作の《祖母と孫息子》にも同様の雰囲気がある。若桑みどりはこの作品を「彼女(ヴァラドン)の最大の傑作」であり、「完璧で非の打ちどころのない」構図であると評価し[12]、「悲哀と労働の人生を送ってきた」老婆マドレーヌと、彼女を「いたわるようにその膝に手をかけている」老いた犬、そして「一人の孤独な、とぎすまされた魂をもつ男」ユトリロを描いた作品であり、「〈法律〉であり、〈権威〉であり、ときには〈道徳〉でさえある …〈父〉なるものを完全に欠いた聖家族の肖像」であると絶賛している[12]

とはいえ、母ヴァラドンに深い愛を抱いていたユトリロは彼女が友人ユッテルの愛人になったことに嫉妬し、精神的痛手を受けていた。3人の共同生活は互いに激しい愛を抱きながら葛藤に満ちた生活であり、モンマルトルで「地獄の3人組」、「呪われた3人組」として知られることになった[9][23][34]。一方で、こうした葛藤や激情がそれぞれの画家の創造の源泉となり、制作において最も実り多い時期となった[34]

1914年7月に第一次世界大戦が勃発。ユッテルは1914年に9月1日にヴァラドンと正式に結婚した後、9月30日に志願兵として出征した[40]

ヴァラドンはアンデパンタン展、サロン・ドートンヌなど大規模な展覧会に次々と出展し、ユトリロも1910年代に入ると美術評論家のエリー・フォールフランス語版オクターヴ・ミルボーフランシス・ジュールダンフランス語版[41]らに評価されるようになり、1913年にウジェーヌ・ブロフランス語版画廊で最初の個展が行われた[42]。このような画家二人とともに暮らし、「家長役を担わされた」ユッテルは、「家族」を養うために、画商との交渉役を引き受けた[40]。1923年にはコルトー通りのアトリエとは別に、中東部アン県オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏)のサン=ベルナールフランス語版にアトリエを構えた[42]。この地でヴァラドンは、サン=ベルナール城フランス語版やサン=ベルナール教会などの風景画を制作している。後期にかけての彼女の作品にはゴッホ、ゴーギャン、マティスの影響が色濃く、かつての前衛性は影を潜めるが[12]、画題として静物画を多く描いたのも晩年である。

1926年にユッテルと別居し、ジュノー通りに越すことができたのはベルネーム=ジューヌ画廊の支援によって、ここにユトリロ名義で住宅を購入することができたからだとされる[5]。1930年代にはフランス政府がヴァラドンの重要な作品を多数買い上げた。これらは現在、国立近代美術館が所蔵し、その一部は他の国立美術館に展示されている。

1935年、51歳のユトリロはヴァラドンの勧めで、彼女の旧友の資産家の未亡人リュシー・ヴァロール・ポーウェルと結婚した。高齢になったヴァラドンはユトリロより12歳年上のこの女性にユトリロの世話を任せたいと思ったのである[9][20]。《リュシー・ヴァロールの肖像》を描いた1937年の翌1938年4月7日、ヴァラドンは脳溢血のために72歳で死去し、サン=トゥアン墓地(Cimetière parisien de Saint-Ouen)に埋葬された[43]

作品

先駆性・画風

上述のように、ヴァラドンは女性画家が多くの制約を受けていた時代に、特に裸体画、それも女性だけでなく男性の裸体画を描いた先駆的な女性画家である。先駆的という意味では少し前のベルト・モリゾ(1841-1895)やメアリー・カサット(1844-1926)と並び称されることがあるが[29]、裕福な家庭に育ったモリゾやカサットと異なり、労働者階級の出身で正規の美術教育を受けていなかったヴァラドンは、むしろそのために伝統的・保守的な画壇とは無縁に、裸体表現を含む自由な独自の画風を切り開くことができた[20]

女性画家として初めて国民美術協会の展覧会への出展が認められ、アンデパンタン展、サロン・ドートンヌなど大規模な展覧会に出展するなど、生前にある程度の名声を得た画家であったが、再評価が始まったのはフェミニズム・アートの紹介や研究が始まった1970年代以降のことである[30]。日本では若桑みどりが1985年発表の『女性画家列伝』の第一章を「底辺の人間性」と題して、一人の画家、一人の女性としてのヴァラドンを論じている(上述)。

力強い線や鮮明な色彩を特徴とするヴァラドンの画風は、野獣派的・表現主義的であり[7]、印象派、むしろポスト印象派の画家とされることが多い[1]

主な作品一覧

以下の情報は、各美術館のサイト、2015年に日本で開催された「ユトリロとヴァラドン 母と子の物語 ― スュザンヌ・ヴァラドン生誕150年」の出展作品一覧[44]、および "Web Gallery of Impressionists"[45] の情報の検証に基づくものである。

国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)蔵

フランス政府が買い取った作品のほか、個人から寄贈・遺贈された作品を含む。一部は他の国立美術館蔵である。

邦題(試訳) 原題 画材(寸法)
《自画像》 Autoportrait 1883 鉛筆木炭・パステル(43.5 x 30.5 cm)
《画家の母の肖像》 Portrait de la mère de l'artiste 1883 木炭・紅殻チョーク・白チョーク(35.2 x 29.5 cm)
《子どものユトリロ》 Utrillo enfant 1886 紅殻チョーク(34.3 x 29 cm)
《ポール・ムージスと犬》 Paul Mousis et son chien 1891 鉛筆(23.4 x 16.7 cm)
《編み物をする若い女》 Jeune fille faisant du crochet 1892 油彩(46 x 38 cm)
《座る裸のユトリロと坐る彼の祖母》 Utrillo nu et sa grand-mère assis 1892 鉛筆(21.7 x 27.9 cm)
《読書するポール・ムージス》 Paul Mousis lisant 1892 木炭・鉛筆(27 x 22.9 cm)
《祖母に身体を拭いてもらうユトリロ》 Utrillo essuyé par sa grand-mère 1892 鉛筆(23 x 19.8 cm)
《ベルナール・ルメールの母の肖像》 Portrait de la mère de Bernard Lemaire 1892 -93 油彩(17.3 x 11.9 cm)
《ベルナール・ルメール》 Bernard Lemaire 1892-93 油彩(35 x 27 cm)
《エリック・サティの肖像》 Portrait d'Erik Satie 1892-93 油彩(41 x 22 cm)
《裸で座る少女》 Fillette nue assise 1894 木炭・白のグワッシュ(22.7 x 28.9 cm)
《身体を伸ばす裸婦》 Femme nue étendue 1895 リトグラフ(23 x 17 cm)
《スカートを留めながら半裸で立つ女》 Femme à demi-nue, debout, fixant sa jupe 1895 リトグラフ(33.5 x 18 cm)
《長椅子に座る裸のユトリロ》 Utrillo nu assis sur un divan 1895 木炭(19.2 x 20.1 cm)
《裸の子どものユトリロ》 Utrillo enfant nu 1895 木炭(26.3 x 14.6 cm)
《老女と裸の少女》 Vieille femme et fillette nue 1896 紅殻チョーク(33.5 x 25.2 cm)
《二人の裸婦》 Deux nus 1897 木炭(48 x 55.7 cm)
《椅子に座る若いユトリロ》 Utrillo adolescent à la chaise 1900 紅殻チョーク(32.5 x 15.2 cm)
《自画像》 Autoportrait 1903 紅殻チョーク(27.4 x 25.5 cm)
《座る裸婦》 Nu assis 1908 木炭・パステル(53.5 x 47.8 cm)
《アダムとイヴ》 Adam et Eve 1909 油彩(162 x 131 cm)
《二人の人物(入浴後)》 Deux figures (Après le bain) 1909 油彩(101 x 82 cm)
《浴槽から出る裸婦》 Nu sortant du bain 1909 紅殻チョーク・白チョーク(25.5 x 19.8 cm)
《裸のユッテル》 Utter nu 1909 木炭・鉛筆(30.1 x 16.1 cm)
《祖母と孫息子(ユトリロ、彼の祖母、犬)》 Grand-mère et petit-fils (Utrillo sa grand-mère et un chien) 1910 油彩(70 x 50 cm)
《マルト・ジリュー》 Marthe Girieud 1910 木炭(28.9 x 21cm)
《腕を伸ばして座る裸の男(背後から)》 Nu assis de dos tendant le bras 1910-15 鉛筆・青インク(24.3 x 19.4 cm)
《物思いにふけるユトリロ》 Utrillo pensif 1911 木炭(42.5 x 37.5 cm)
《ユッテルの横顔》 Utter de profil 1911 鉛筆(28.5 x 23.5 cm)
《裸のユッテルの横からの像》 Utter nu de profil 1911 木炭(33 x 15.2 cm)
《ユッテルの斜めの像》 Utter de trois-quarts 1911-12 木炭(29 x 21.5 cm)
《画家の母》 La mère de l'artiste 1912 油彩(82 x 62 cm)
《家族の肖像》 Portrait de famille 1912 油彩(97 x 73 cm)オルセー美術館
《女仕立屋》 La Couturière 1914 油彩(80 x 65 cm)オルセー美術館
《網を打つ人》 Le Lancement du filet 1914 油彩(201 x 301 cm)
《鏡に向かう裸婦(身づくろい)》 Nus au miroir (La toilette) 1914 木炭・パステル(51.5 x 37.5 cm)
モーリシア・コキオフランス語版の肖像》 Portrait de Mauricia Coquiot 1915 油彩(93 x 73 cm)
《コルトー通りの庭から見たサクレ=クール寺院》 Le Sacré-Coeur vu du jardin de la rue Cortot 1916 油彩(65 x 54 cm)
《ベルヴィル=シュル=ソーヌ》 Belleville-sur-Saône 1917 紅殻チョーク(21.5 x 28.1 cm)
《黒いヴィーナス》 Vénus noire 1919 油彩(160 x 97 cm)
《ユッテルの家族》 La famille Utter 1921 油彩(95 x 135 cm)
《カルス夫人》 Mme Kars 1922 油彩(73.5 x 54 cm)
《レヴィ夫人》 Mme Lévy 1922 油彩(92 x 73 cm)
《チャールズ・ウェイクフィールド=モリの肖像》 Portrait de Charles Wakefield-Mori 1922 油彩(68 x 55 cm)
《リリー・ワトソン嬢の肖像》 Portrait de Miss Lily Walton 1922 油彩(100 x 81 cm)
《青い寝室》 La Chambre bleue 1923 油彩(90 x 116 cm)
《セガラス城(庭園内の城)》 Le château de Ségalas (Maison dans un jardin) 1923 油彩(73 x 100 cm)
《ユトリロの正面像》 Utrillo de face 1925 木炭(20.3 x 14.1 cm)
《ユトリロの斜めの像》 Utrillo de trois-quarts 1925 木炭(20.4 x 13.9 cm)
《パレットを持つ裸婦》 Nu à la palette 1927 木炭(64 x 45 cm)
《薔薇、アイリス、グラジオラスの花束》 Bouquet de roses, iris et glaïeuls 1928 油彩(92 x 73 cm)
《花》 Fleurs 1929 油彩(61 x 50 cm)アノンシアード美術館フランス語版
《サン=ベルナール教会》 L'église de Saint-Bernard 1929 油彩
《鴨》 Le canard 1930 油彩(73 x 60 cm)
《ロベール・ル・マール博士》 Le docteur Robert Le Masle 1930 油彩(100 x 81 cm)
《サン=ベルナール城》 Le château de Saint-Bernard 1930 木炭(18 x 21 cm)
《花束》 Bouquet de fleurs 1930 油彩(73 x 54 cm)
《薔薇の花束》 Bouquet de roses 1936 油彩(29.5 x 21 cm)

その他、国立近代美術館が所蔵する20枚以上の版画の原版には、裸婦や子どもが描かれているものが多い[46][47]

パリ市立近代美術館

邦題(試訳) 原題 画材
《裸婦》 Nu 1925 油彩
《織物と花束のある静物画》 Nature morte à la draperie et au bouquet 1924 油彩
《縞のベッドカバーと裸婦》 Nu à la couverture rayée 1922 油彩
《ヴァイオリンケース》 La boîte à violon 1923 油彩
《画架の前のユトリロ》 Utrillo devant son chevalet 1919 油彩
《入浴する三人の裸婦》 Trois baigneuses nues 1935 素描
《母と子》 Mère et enfant 1883 素描

他の美術館蔵

邦題(試訳) 原題 画材(寸法)
《サーカス》 The Circus 1889 油彩(48.8 x 60 cm)クリーブランド美術館
《身体を拭く女たち》 Women drying herself 1895 エッチング(29.8 x 19.8 cm)国立西洋美術館
《12歳のモーリス・ユトリロ》 Maurice Utrillo à 12 ans 1896 紅殻チョーク・黒鉛(24.3 x 24.3 cm)ギャルリー・デ・モデルヌ(パリ)
《自画像》 Self-Portrait 1898 油彩(40 x 26.7 cm)ヒューストン美術館
《入浴》 The Bath 1905 パステル・黒チョーク(68.5 x 54.8 cm)シカゴ美術館
《入浴》 Le Bain 1908 パステル(60 x 49 cm)グルノーブル美術館
コントラバスを持つ女》 Woman with a Double Bass 1909 油彩、プティ・パレ (ジュネーヴ)
《蛙》 The Frog 1910 パステル・油彩(58.4 x 49.5 cm)バーゼル市立美術館
《生きる喜び》 Joy of Life 1911 油彩(122.9 x 205.8 cm)メトロポリタン美術館
《トランプで占う女》 La tireuse de cartes 1912 油彩(63 x 130 cm)プティ・パレ (ジュネーヴ)
《マリー・コカと彼女の娘》 Marie Coca et sa fille 1913 油彩(161 x 130 cm)リヨン美術館
《髪を結う裸婦》 Nude Doing Her Hair 1916 油彩(104.77 x 75.25 cm)国立女性美術館
《側転》 La roue 1916 油彩(38 x 46 cm)モンマルトル美術館
《裸婦たち》 Nudes 1919 油彩(45 x 31 cm)サンパウロ美術館
《帝政時代風の花瓶の花束》 Bouquet of Flowers in an Empire Vase 1920 油彩(73.02 x 54.61 cm)国立女性美術館
《赤いソファの上の裸婦》 Nu au canapé rouge 1920 油彩、プティ・パレ(ジュネーヴ)
《モーリス・ユトリロの肖像》 Portrait de Maurice Utrillo 1921 油彩(65.5 x 52 cm)ユトリロ・ヴァラドン美術館フランス語版
《捨てられた人形》 The Abandoned Doll 1921 油彩(129.54 x 81.28 m)国立女性美術館
《ザマロン夫人の肖像》 Portrait of Mme Zamaron 1922 油彩(81.5 x 65.6 cm)ニューヨーク近代美術館
《入浴する女たち》 Les baigneuses 1923 油彩(89 x 117 cm)ナント美術館
《白いストッキングの女》 Femme aux bas blancs 1924 油彩、ナンシー美術館
《自画像》 Autoportrait 1927 油彩(62 x 50 cm)ユトリロ・ヴァラドン美術館
《チューリップの花束》 Bouquet de tulipes 1927 油彩(65.4 x 50.2 cm)Galerie De Jonckheere
《横たわる裸婦》 Reclining Nude 1928 油彩(60 x 80.49 cm)メトロポリタン美術館
《ライラックと芍薬》 Lilacs and Peonies 1928 油彩(100 x 81.3 cm)メトロポリタン美術館
《春の花》 Spring Flowers 1928 油彩(81 x 60 cm)コペンハーゲン国立美術館
《花束》 Bouquet de fleurs 1928 油彩、アルベール=アンドレ美術館フランス語版
《低い塀の上の少女》 Girl on a Small Wall 1930 油彩(91.44 x 73.66 cm)国立女性美術館
《青い布を掛けた椅子に座る裸婦》 Nu au châle bleu 1930 油彩(8.85 x 7.75 cm)ウンターリンデン美術館フランス語版
《窓辺の若い女》 Young Girl in Front of a Window 1930 油彩、サンディエゴ美術館英語版
《鴨の卵の入った籠》 Basket of Duck Eggs 1931 油彩、バーゼル市立美術館

個人蔵

邦題(試訳) 原題 画材(寸法)
《パイプをふかすミゲル・ウトリーリョ(ユトリロ)の肖像》 Portrait de Miguel Utrillo fumant sa pipe 1891 木炭(17.5 x 11 cm)
《脚を拭く裸のカトリーヌ》 Catherine nue s'essuyant la jambe 1894 鉛筆(16 x 15 cm)
《裸のユトリロの身体を拭く祖母》 La Grand-mère essuyant Utrillo nu 1894 リトグラフ(37 x 27 cm)
《裸のユトリロの身体を拭く祖母》 La Grand-mère essuyant Utrillo nu 1894 リトグラフ(38 x 27.5 cm)
《裸で身体を拭くカトリーヌ》 Catherine nue s'essuyant 1895 銅版画(28.5 x 18 cm)
《自画像》 Autoportrait 1903 紅殻チョーク(30 x 23.5 cm)
《鏡の前の裸婦の背中》 Nu de dos devant une glace 1904 パステル(58.7 x 47.9 cm)
《身づくろい》 La toilette 1904-06 鉛筆(17 x 22 cm)
《ピエールフィットの風景》 Paysage à Pierrefitte 1906 油彩(46 x 54 cm)
《自慢の愛犬》 Ma Fière 1908 色鉛筆・パステル(13 x 18 cm)
《肘掛け椅子に座るジュリエット》 Juliette assis au fauteuil 1909 油彩(55.4 x 45.5 cm)
《鏡の前の裸婦》 Nude at the Mirror 1909 油彩
ベルゴデールフランス語版教会、コルシカ島 Église de Belgodère, Corse 1913 油彩(74 x 92 cm)
《身づくろいする女》 Femme à la toilette 1913 油彩
《横たわる犬 習作I》 Chien couché-étude I 1913 木炭・色鉛筆(25.5 x 43 cm)
《横たわる犬 習作II》 Chien couché-étude II 1913 木炭・色鉛筆(25.5 x 43 cm)
《花瓶の薔薇》 Roses in a Vase 1914 油彩(38.5 x 26.5 cm)
《赤い織物の上に横たわる裸婦》 Nu allongé à la draperie rouge 1914 油彩(50.6 x 66 cm)
《試着》 L'essayage 1916 木炭・パステル(61 x 46.5 cm)
《自画像》 Autoportrait 1916 油彩(43.10 x 34 cm)
《薔薇の花束、果物鉢の静物画》 Nature morte au bouquet de roses, compotiers de fruits 1917 油彩(46 x 55 cm)
《女性像》 Portrait of a Woman 1917 油彩
《ソファに横たわる女》 Femme allongée sur un canapé 1917-18 油彩(65.4 x 92.7 cm)
《果物鉢のある静物画》 Nature morte à la coupe de fruits 1918 油彩(38.5 x 53 cm)
《田舎道》 Une route à la campagne 1918 油彩(64.8 x 49.8 cm)
イリニーフランス語版教会》 L'église d'Irigny 1918 油彩(62 x 50 cm)
《二匹の猫》 Two cats 1918 油彩
《猫の習作》 Study of a cat 1918 油彩
《自画像》 Self-Portrait 1918 油彩
《モンコラン農場》 Farm Montcorin 1918 油彩
《花束の前の猫》 Cat Lying in front of a Bouquet of Flowers 1919 油彩(66.4 x 35 cm)
《花瓶に挿した1輪の薔薇》 Rose dans un vase 1919 油彩(35.4 x 27.3 cm)
《ヴィクトリーヌまたは嫉妬深い女》 Victorine ou La tigresse 1919 油彩(61.2 x 50.2 cm)
《織物を持つ裸婦》 Nude Woman with Drapery 1919 油彩
《裸婦の立像と猫》 Nue debout et le chat 1919 油彩(61 x 50 cm)
《コルトー通り12番地、モンマルトル》 12 rue Cortot, Montmartre 1919 油彩(92 x 73 cm)
《丸いテーブルの上の花瓶》 Vase de fleurs sur une table ronde 1920 油彩(73.3 x 53 cm)
《花のある静物画》 Nature morte aux fleurs 1920 油彩(65.1 x 54.5 cm)
《布の上に座る猫ラミヌー》 Raminou sitting on a cloth 1920 油彩
《ソファに横たわる裸婦》 Nude on the sofa 1920 油彩
《ルイゾンと猫ラミヌー》 Louison and Raminou 1920 油彩
《帝政時代風のコーヒーポットに挿された花》 Fleurs dans une cafetière Empire 1920 油彩(61 x 50 cm)
《青いリボンのトルソー》 Torse au ruban bleu 1921 油彩(52.4 x 45.7 cm)
ジュネフランス語版ブルターニュ)の私の窓からの眺め》 View from My Window in Genêts (Brittany) 1922 油彩(80.5 x 59.7 cm)
《草原の榛の木》 L'Aulne dans la prairie 1922 油彩(64 x 54 cm)
《長椅子に座る裸婦》 Nu assis sur un divan 1922 油彩(61 x 46 cm)
《豹皮の上に横たわる裸のカトリーヌ》 Catherine nue allongée sur une peau de panthère 1923 油彩(64.6 x 91.8 cm)
《サン=ベルナール城の塔》 Tour du Château de Saint-Bernard 1924 油彩(80.6 x 65 cm)
《チューリップと果物鉢のある静物画》 Nature morte aux tulipes et compotier de fruits 1924 油彩(80 x 60 cm)
《乳房を露わにした自画像》 Autoportrait aux seins dénudés 1924 油彩(52.1 x 41.9 cm)
《テーブルの上の薔薇の花瓶》 Vase de roses sur un guéridon 1925 鉛筆・油彩(60.6 x 49.8 cm)
《窓辺のジェルメーヌ・ユッテル》 Germaine Utter devant sa fenêtre 1926 油彩(80.8 x 65 cm)
《花と果物が載ったテーブルの片隅》 Coin de table chargé de fleurs et de fruits 1926 油彩(73 x 54.3 cm)
《サン=ベルナールの窓の前の花束》 Bouquet de fleurs devant une fenêtre à Saint-Bernard 1926 油彩(52.7 x 38.1 cm)
《サン=ベルナールの城のテラス(アン県)》 La terrasse du château de Saint-Bernard (Ain) 1927 油彩(81 x 60 cm)
《アルビとミス》 L'arbi et la misse 1927 油彩(32.7 x 44.5 cm)
《ソファに横たわる裸婦》 Nude Reclining on a Sofa 1928 油彩
《コルトー通りの庭》 Le Jardin de la rue Cortot 1928 油彩(73 x 60.2 cm)
《身づくろいをする3人の女》 Trois femmes à sa toilette 1928 リトグラフ(27 x 33 cm)
《浴女の習作》 Esquisse pour les baigneuses 1928 油彩(40.5 x 33 cm)
《林檎の籠、花瓶、葡萄のある静物画》 Nature morte au panier de pommes, vase de fleurs, et raisins 1928 油彩(60 x 50.2 cm)
《水晶の花瓶の花束》 Bouquet dans un vase de crystal 1928 油彩(81 x 65.2 cm)
《ベッドに腰掛ける裸婦》 Nu assis au bord d'un lit 1929 油彩(64.8 x 54.3 cm)
《野兎と雉と林檎のある静物》 Nature morte au lièvre, faisant et pommes 1930 油彩(73 x 92 cm)
《花瓶の中のリラの花束》 Bouquet de Lilas dans un vase 1930 油彩(81 x 65 cm)
《サン=ベルナールの教会(アン県)》 Église de Saint-Bernard (Ain) 1931 油彩(100 x 73 cm)
《猫ラミヌーと水差しのカーネーション》 Raminou et pichet d'oeillets 1932 油彩(51.4 x 62.8 cm)
《ハンモックに横たわる女》 Femme dans un hamac 1932 油彩(81.5 x 100.3 cm)
《花瓶に挿した1輪の薔薇》 Rose dans un vase 1932 油彩(32.8 x 24.3 cm)
《小さなテーブルの上の花束》 Bouquet de fleurs sur une petite table 1932 油彩(65.2 x 54.1 cm)
《花と果物のある静物画》 Nature morte aux fleurs et fruits 1932 油彩(92 x 73 cm)
《アンドレ・ユッテルと彼の犬》 André Utter and His Dogs 1932 油彩
《卵の入った籠》 Panier aux œufs 1932 油彩(26.3 x 34.8 cm)
《ポール・ペトリデスの肖像》 Portrait de Paul Pétridès 1934 油彩(41.5 x 33 cm)
《水晶の花瓶の花束》 Bouquet de fleurs dans un vase de cristal 1934 油彩(73 x 60 cm)
《自画像》 Autoportrait 1934 油彩(41.3 x 33 cm)
《ジュヌヴィエーヴ・カマックス=ゾエガーの肖像》 Portrait de Mme. Geneviève Camax-Zoegger 1936 油彩(55 x 46 cm)
《花》 Fleurs 1936 油彩(33 x 24 cm)
《リュシー・ヴァロールの肖像》 Portrait de Lucie Valore 1936 油彩(56 x 46 cm)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h Pierre Reip (2015年10月6日). “Suzanne ou la transgression du genre” (フランス語). Révolution Permanente. Nouveau Parti Anticapitaliste (NPA), Courant Communiste Révolutionnaire. 2020年2月25日閲覧。
  2. ^ a b c d e f Catherine Brun. “Suzanne VALADON (Marie-Clémentine VALADE)” (フランス語). musees-occitanie.fr. Musées d'Occitanie. 2020年2月25日閲覧。
  3. ^ Suzanne Valadon” (フランス語). www.expertisez.com. 2020年2月25日閲覧。
  4. ^ a b c Jeanne Champion (1981) (フランス語). Suzanne Valadon. Flammarion 
  5. ^ a b Toulouse-Lautrec (de) Henri (1864-1901) - 8 mars – Journée internationale des femmes – Hommage à Suzanne Valadon” (フランス語). VisiMuZ Éditions. 2020年2月25日閲覧。
  6. ^ 増田葉子 (2010年2月). “娯楽の街モンマルトルとボヘミアンの芸術家たち”. Maison des Musées du Monde (MMM). 2020年2月25日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l Johanna Brad (2001). “VALADON, Suzanne”. In Jill Berk Jiminez (英語). Dictionary of Artists' Models. Routledge 
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参考資料

関連書籍

関連項目

外部リンク