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「コンスタンティヌス1世」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
{{基礎情報 君主
| 人名 = コンスタンティヌス1世
| 人名 = コンスタンティヌス1世
| 各国語表記 = Constantinus I
| 各国語表記 = Constantinus I
| 君主号 = ローマ皇帝
| 君主号 = [[ローマ皇帝]]
| 画像 = 0 Constantinus I - Palazzo dei Conservatori (2).JPG
| 画像 = Statua di Costantino ai musei capitolini.jpg
| 画像サイズ =
| 画像サイズ =
| 画像説明 = コンスタンティヌス1世の頭像([[カピトリーノ美術館]]所蔵)
| 画像説明 = コンスタンティヌス1世
| 在位 = [[306年]][[7月25日]] - [[312年]][[10月29日]](西方副帝)<br/>312年10月29日 - [[324年]][[9月19日]](西方正帝)<br/>324年9月19日 - [[337年]][[5月22日]](ローマ皇帝)
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| 戴冠日 =
| 戴冠日 =
| 全名 = ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス<br>(Gaius Flavius Valerius Constantinus)
| 別号 =
| 出生日 = 270年頃、[[2月27日]]
| 全名 = ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス<br>(Gaius Flavius Valerius Constantinus)
| 生地 = [[モエシア]]属州ナイッスス<br />(現{{SRB}}、[[ニシュ]])
| 出生日 = [[272年]][[2月27日]]
| 死亡日 = 337年5月22日
| 生地 = [[モエシア]]属州ナイッスス<br />(現{{SRB}}、[[ニシュ]])
| 没地 = [[ニコメディア]]<br />(現{{TUR}}、[[イズミット]])
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|272|2|27|337|5|22}}
| 埋葬日 =
| 没地 = [[ニコメディア]]<br />(現{{TUR}}、[[イズミット]])
| 埋葬 =
| 埋葬 =
| 配偶者1 = {{仮リンク|ミネルウィナ|en|Minervina}}
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = {{仮リンク|ミネルウィ|en|Minervina}}
| 配偶者2 = {{仮リンク|ファウスタ・フラウィア・マクシマ|en|Fausta|label=ファウスタ}}([[マクシミアヌス]]の娘)
| 子女 = [[クリスプス]]<br/>[[コンスタンティヌス2世]]<br/>[[コンスタンティウス2世]]<br/>[[コンスタンス1世]]<br/>{{仮リンク|フラウィア・ウァレリア・コンスタンティナ|label=コンスタンティナ|en|Constantina}}
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([[ハンニバリアヌス]]妃のち[[コンスタンティウス・ガッルス|ガッルス]]妃)<br/>{{仮リンク|ヘレナ (ユリアヌスの妻)|label=ヘレナ|en|Helena (wife of Julian)}}([[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]妃)<br>ファウスタ
| 王朝 = [[コンスタンティヌス朝]]
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| 父親 = [[コンスタンティウス・クロルス]]
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[[ファイル:Byzantinischer Mosaizist um 1000 002.jpg|200px|thumb|[[アヤソフィア]]のモザイク画:聖母子に[[コンスタンティノポリス]]の街を捧げるコンスタンティヌス1世(顔の部分を拡大)]]


'''ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス'''(<small>[[古典ラテン語]]</small>:{{Lang|la|'''Gaius Flavius Valerius Constantinus'''|ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス}}、[[270年]]代前半の[[2月27日]] - [[337年]][[5月22日]])は、[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝|皇帝]](在位:[[306年]] - 337年)。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、[[ドミナトゥス|専制君主制]]を発展させたことから「[[大帝]]」と
'''ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス'''(<small>[[古典ラテン語]]</small>:{{Lang|la|Gaius Flavius Valerius Constantinus|ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス}}、[[270年]]代前半の[[2月27日]]-[[337年]][[5月22日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Constantine-I-Roman-emperor Constantine I Roman emperor] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝|皇帝]](在位:[[306年]]-337年)。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、[[元老院 (ロマ)|元老院]]からマクシムス(Maximus、偉大な/大帝)の号を与えら


[[ミラノ勅令]]を発布たことで[[キリスト教]]を公認、その後の発展の政治的社会的基盤用意したことから、[[正教会]]、[[東方諸教会]]、[[東方典礼カトリック教会]]では、[[聖人]]とされている。記憶日は母太后[[聖ヘレナ]]と共に6月3日。[[日本正教会]]正式には「[[亜使徒]]聖大帝コスタンティン」呼称される
ローマ帝国の皇帝とて初めて[[キリスト教]]を信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響与えのためキリスト教の歴史上特に重要な人物の1人であり、[[ローマカトリック]]、[[正教会]]、[[東方諸教会]]、[[東方典礼カトリック教会]]など主要な宗派において[[聖人]]とされている。またコンスタンティヌス1世が自ら名前を付して建設した都市[[コンスタンティノープル]](現:[[イスタンブル]]、その後[[東ローマ帝国]](ビザツ帝国)の首都なり、正教会の総本山としての機能を果たした


== 概要 ==
[[1950年]]に[[ギリシャ]]で発行された旧100[[ドラクマ]]紙幣に肖像が使用されていた。
コンスタンティヌス1世は[[モエシア]]属州のナイッスス(現:[[セルビア]]領[[ニシュ]])でローマ帝国の軍人[[コンスタンティウス・クロルス]]の息子として生まれた。父はその後、ローマ帝国で[[テトラルキア]](四帝統治)体制が形成されると西の[[カエサル (称号)|副帝]](カエサル)を務め、後に[[アウグストゥス (称号)|正帝]](アウグストゥス、在位305年-306年)となった。父が[[ブリタンニア]](現:[[イギリス]])で死亡した後、コンスタンティヌス1世はその軍団をひき継いで306年に正帝を自称し、[[312年]]に東の正帝ガレリウスから正式に正帝としての承認を獲得した。軍人として卓越した手腕を発揮し、帝国国境外の「蛮族」との戦いに従事するとともに、複数の皇帝たちの間で戦われた内戦で勝利を重ねた。306年の正帝自称以来、20年近い歳月を費やして対立する皇帝たちを打ち破り(310年に[[マクシミアヌス]]、312年に[[マクセンティウス]]、324年に[[リキニウス]])、ローマ帝国を再統一した。


[[3世紀の危機]]と呼ばれる長い政治的・軍事的な動乱の時代を経ていたローマ帝国では、長期にわたって内政の再編が行われていた。コンスタンティヌス1世に先立ってこの混乱を一時終息させたディオクレティアヌス帝(在位:284年-305年)も新しい安定した統治機構の形成を模索し、各種の改革を実施していた。単独の皇帝となったコンスタンティヌス1世はディオクレティアヌスの改革を引き継ぎ、官僚制を整備し、文官と武官を分離するなどしてこれを完成させた。
== 概略 ==


内政的には、ディオクレティアヌス帝まで拡大し続けた[[エクィテス]](''equites''、騎士)身分の重職への登用を止め、かわりに形骸化しつつあった[[元老院 (ローマ)|元老院]]を拡充させた。そしてこれまで騎士身分のための職だった官職を元老院身分にまで解放し、元老院身分者を大幅に増加させた。また半公式の身分であった伯(''Comes''、総監)を公式の身分とした。この結果、従来の元老院身分の構成員が大きく変化するとともに、元老院身分と騎士身分を内包し、それを超える新たな社会的地位が形作られた。


経済・社会面では、品質の安定した[[ソリドゥス金貨]]を発行したことが特筆される。この金貨はギリシア語で[[ノミスマ]]と呼ばれ、その後地中海世界で最も信頼される貨幣として流通することになる。大事業を次々起こし、彼に由来する多くの都市や建造物が残された。これを支えるために多額の財政出動が必要となったことから、徴税に力が入れられ、[[コロヌス]]の移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った<ref name="長谷川樋脇2010p118">[[#長谷川・樋脇 2010|長谷川・樋脇 2004]], p. 118</ref>。これらの施策はその後の西欧中世社会の原型の一部をも形作った<ref name="長谷川樋脇2010p118"/>。
[[ディオクレティアヌス]]の時代に西の[[カエサル (称号)|副帝]]を務め、後に[[アウグストゥス (称号)|正帝]](在位305年 - 306年)となった[[コンスタンティウス・クロルス]]の子として生まれたコンスタンティヌスは、[[312年]]に帝国の西の正帝となり、ディオクレティアヌス退位後の内乱を収拾して[[324年]]に帝国を再統一した。


宗教においては、ローマ帝国においてたびたび迫害されていたキリスト教を庇護し、コンスタンティヌス1世自身もキリスト教に改宗した。彼がキリスト教を受容したことは、未だ多数ある宗教の1つであったキリスト教がローマ帝国領内で圧倒的な存在となる契機となり、その後の[[地中海世界]]、[[ヨーロッパ]]の歴史に重大な影響を与えた。統一以前にリキニウスと共に313年発布したいわゆる『[[ミラノ勅令]]』はしばしば'''ローマ帝国においてキリスト教を公認'''したものとみなされる。コンスタンティヌス1世がキリスト教に好意的であった理由や、その改宗の動機ははっきりとはわかっていない。初のキリスト教徒ローマ皇帝であったコンスタンティヌス1世は、[[ドナトゥス派]]や[[アリウス派]]のようなキリスト教の分派の問題に直面した最初の為政者でもあり、教会の分裂の収拾に取り組んだ。またその過程で非正統宗派への弾圧にも初めて手を付けた。[[325年]]にキリスト教の歴史で最初の全教会規模の公会議([[第1ニカイア公会議]])を招集した。この会議とその後の経過によってニカイア派([[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシウス派]])が正統の地位を占めていく。
[[330年]]には帝国東方の交易都市である[[ギリシア人]]の植民都市[[ビュザンティオン]](後の[[コンスタンティノポリス]]、現[[イスタンブール]])に遷都した。統一された帝国の皇帝として、コンスタンティヌスは官僚制を整備し、[[属州]]における軍事指揮権と行政権を完全に分離するなどディオクレティアヌスが始めた専制君主制([[ドミナートゥス]])を強化した。経済・社会面では、[[ソリドゥス金貨]]を発行して通貨を安定させ、[[コロヌス]]の移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った<ref>「古代ローマを知る事典」p118 長谷川岳男・樋脇博敏著 東京堂出版 2004年10月1日初版発行</ref>。内政面では、ディオクレティアヌス帝までずっと盛んになる一方だった[[エクィテス]](騎士)身分の重職への進出を停止し、かわりに形骸化しつつあった[[元老院 (ローマ)|元老院]]を拡充させ、騎士身分や地方有力者を多数元老院議員に任命するとともに、これまで騎士身分のための職だった官職を元老院身分にまで解放した。これにより、経済・政治的に一大勢力を築いてきた騎士身分は栄達の道を閉ざされ、これ以降歴史から姿を消していくこととなった<ref>『新・ローマ帝国衰亡史』p57 南川高志 岩波新書、2013.5 ISBN 4004314267</ref>。


優秀な軍人であったコンスタンティヌス1世は軍事面でも多くの改革を実施した。この改革によって[[プラエトリアニ|近衛軍団]](''Praetorianae''、プラエトリアニ)が解体され、コミタテンセス(''Comitatenses''、野戦機動軍)と呼ばれる中央軍と、河川監視軍(''Ripenses'')や辺境防衛軍(''Limitanei'')といった国境軍が設置された。一般的にはこの国境軍はその名の通り各地の辺境属州の国境に常駐して国境や地域の安全を守り、野戦軍は普段は帝国の属州の都市に常駐して、敵の大規模な侵入や外征などの際には主力を担うという体制であったとされている。これは[[軍人皇帝時代]]より徐々に進められてきた政策であったが、ディオクレティアヌス時代にはこの戦略は修正され、辺境に従来の倍の兵を貼り付け国境で防衛する戦略に変わっていた。コンスタンティヌス1世は辺境の軍を分割して再び国境の国境軍と機動軍である中央軍の体制に戻したうえで明確化した。
宗教政策の面では、帝国の統一を維持するため寛容な政策を採り、[[ネロ]]以来禁止されていたキリスト教に信教の自由を与えて公認した。[[ミラノ勅令]]によって彼がキリスト教を公認したことは、後年キリスト教がローマ帝国領であった[[ヨーロッパ]]へ浸透するきっかけとなる一方、教義決定に皇帝の介入を受けることにもつながった。


また、帝国東方の都市である[[ビュザンティオン]]に自らの名前を与えて[[コンスタンティノープル]](コンスタンティノポリス、現:[[イスタンブル]])と改称し大規模な都市に改造し、[[330年]]にはこの都市の落成式が執り行われた。コンスタンティヌス1世による内政の整備、キリスト教の拡大、コンスタンティノープルの建設といった事業は、後の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の前提を作り上げた。
コンスタンティヌス時代の軍事の特徴としては、[[プラエトリアニ]](親衛隊)を解体して、中央軍(野戦部隊、コミタテンセス)と、辺境軍(辺境部隊、リミタネイ)とを明確に分離して設置したことがあげられる。辺境軍はその名の通り各地の辺境属州の国境に常駐して国境や地域の安全を守り、野戦軍はふだんは帝国の中心部に近い属州に常駐し、敵の大規模な侵入や外征などの際には主力となった。これは[[軍人皇帝時代]]より徐々に進められてきた政策であったが、ディオクレティアヌス時代にはこの戦略は修正され、辺境に従来の倍の兵を貼り付け国境で防衛する戦略に変わっていた。コンスタンティヌス1世は辺境の軍を分割して再び国境の辺境軍と機動軍である中央軍の体制に戻したうえで明確化し、この戦略はこの時代に確立された。<ref>エイドリアン・ゴールズワージー著、遠藤利国訳『図説古代ローマの戦い』東洋書林 2003年5月30日</ref>また、プラエトリアニの隊長であった[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ]]の称号は残ったものの軍事的要素を失い、以後は行政職の称号となった。


コンスタンティヌス自身、キリスト教徒が多い[[ビテュニア]]生まれ[[コンスタンティノリスのヘレナ|ヘレナ]]を母として生まれたのでもともとキリスト教に好意的であったと言われる一時期[[ミトラ教]]に傾倒したが、晩年にはキリスト教の[[洗礼]]を受けた。[[正教会]]ではキリスト教徒であった母とともに「[[亜使徒]]」の称号を付与されて尊崇された。また、コンスタンティヌス1世は[[325年]]にキリスト教の歴史で最初の公会議(全教会規模の会議)である[[第1ニカイア公会議]]を開かせ、この会議で[[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシウス派]]が正統とされ、[[アリウス派]]が異端とされた。
コンスタンティヌス1世337年にコメディ近郊離宮で死去した。その遺体はコンスタンティノープルでキリス12人の使徒たちに準ずる存在として棺に納められた。晩年にはキリスト教の[[洗礼]]を受け[[正教会]]ではキリスト教徒であった母とともに「[[亜使徒]]」の称号を付与されて尊崇された。

コンスタンティノポリスを首都とした[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)では、彼と同じ名([[ギリシア語]]形:[[コンスタンティノス]])を持つ皇帝が多数即位した。東ローマ帝国はコンスタンティヌスが創始した専制君主制とキリスト教の信仰の上に成り立っていたため、その先駆者であるコンスタンティヌス1世を「最初のビザンツ皇帝」と呼ぶ{{誰範囲|date=2015年10月26日 (月) 16:25 (UTC)|[[歴史家]]もいる}}。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 出自 ===
=== 出自 ===
コンスタンティヌス1世、即ちフラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスは[[モエシア]]属州のナイッスス(現:[[セルビア]]の[[ニシュ]])に生まれた<ref name="ジョーンズ2008p15">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 15</ref><ref name="ランソン2012p14">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 14</ref>。誕生日は2月27日であるが、生年は明らかではなく現代の学者による推定は西暦270年から290年までの範囲に及ぶ<ref name="ジョーンズ2008p15"/><ref name="ランソン2012p14"/>。誕生日がわかるのは後世この日が祝日とされたためである<ref name="ジョーンズ2008p15"/>。主に[[アウレリウス・ウィクトル]]や[[エウセビオス]]が残した年齢と死亡年、在位期間の記録に基づいて計算すると270年代前半の生誕となり、これが「慎重な見解」であるとされる<ref name="ランソン2012p14"/>。しかし、その他の生年を導き出すことが可能な根拠もあり正確には不明である。コンスタンティヌス1世自身が自分が生まれた正確な年を知らなかった可能性も十分にある<ref name="ジョーンズ2008p16">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 16</ref>。
コンスタンティヌス1世、即ちフラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスは[[モエシア]]属州のナイッスス(現:[[セルビア]]の[[ニシュ]])に生まれた<ref name="ジョーンズ2008p15">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 15</ref><ref name="ランソン2012p14">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 14</ref>。誕生日は2月27日であるが、生年は明らかではなく現代の学者による推定は西暦270年から290年までの範囲に及ぶ<ref name="ジョーンズ2008p15"/><ref name="ランソン2012p14"/>。誕生日がわかるのは後世この日が祝日とされたためである<ref name="ジョーンズ2008p15"/>。主に[[アウレリウス・ウィクトル]]や[[エウセビオス]]が残した年齢と崩御年、在位期間の記録に基づいて計算すると270年代前半の生誕となり、これが「慎重な見解」であるとされる<ref name="ランソン2012p14"/>。しかし、その他の生年を導き出すことが可能な根拠もあり正確には不明である。コンスタンティヌス自身が自分が生まれた正確な年を知らなかった可能性もある<ref name="ジョーンズ2008p16">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 16</ref>。


父親はローマの将軍[[コンスタンティウス・クロルス]]であり、母親はその最初の妻[[コンスタンティノポリスのヘレナ|ヘレナ]]である<ref name="ランソン2012p15">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 15</ref>。後にコンスタンティヌス1世は父コンスタンティウスを[[クラウディウス・ゴティクス]]帝(在位:268年-270年)と結び付けたが、これが真実である可能性はほとんど無い<ref name="ランソン2012p15"/>。貴族出身ともされるが恐らくはコンスタンティウスは農民であり一兵卒から成り上がったものであろう<ref name="ジョーンズ2008p15"/>。[[ビテュニア]]の[[ドレパナ]](小アジア北西部)出身とも伝えられる母ヘレナが卑賎な身分の出身であったことは広く知られており、彼女は給仕婦であったとも<ref name="ジョーンズ2008p15"/>ナイッススの宿屋で働いていたとも言われる<ref name="ブルクハルト2003p401注釈44">[[#ブルクハルト 2003|ブルクハルト 2003]], p. 401, 注釈44番</ref>。彼女はコンスタンティウスが[[西ローマ帝国]]帝[[マクシミアヌス]]の義娘であるフラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚する際、政略的な理由から離縁されたが、コンスタンティヌス1世はヘレナとの間に密接な関係を維持した<ref name="ランソン2012p16">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 16</ref>。コンスタンティウスとテオドラの間には6人の子供が生まれた。
父親はローマの将軍フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティウス、即ち[[コンスタンティウス・クロルス]]([[250年]][[3月31日]] - [[306年]][[7月25日]]、{{lang-la|Flavius Valerius Constantius}}、{{lang-el|Κωνστάντιος χλωρός}})であり、母親はその最初の妻[[コンスタンティノポリスのヘレナ|ヘレナ]]である<ref name="ランソン2012p15">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 15</ref>。後にコンスタンティヌス1世は父コンスタンティウスの出自を[[クラウディウス・ゴティクス]]帝(在位:268年-270年)と結び付けたが、これが真実である可能性はほとんど無い<ref name="ランソン2012p15"/>。コンスタンティウスはまた貴族出身ともされるが恐らくは農民であり一兵卒から成り上がったものであろう<ref name="ジョーンズ2008p15"/>。[[ビテュニア]]の[[ドレパナ]](小アジア北西部)出身とも伝えられる母ヘレナが卑賎な身分の出身であったことは広く知られており、彼女は給仕婦であったとも<ref name="ジョーンズ2008p15"/>ナイッススの宿屋で働いていたとも言われる<ref name="ブルクハルト2003p401注釈44">[[#ブルクハルト 2003|ブルクハルト 2003]], p. 401, 注釈44番</ref>。彼女はコンスタンティウスが西の帝[[マクシミアヌス]]の義娘であるフラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚する際、政略的な理由から離縁されたが、コンスタンティヌスはヘレナとの間に密接な関係を維持した<ref name="ランソン2012p16">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 16</ref>。コンスタンティウスとテオドラの間には6人の子供が生まれた。


コンスタンティヌス1世が生まれた当時、ローマ帝国は一般に[[3世紀の危機]]と呼ばれる政治・軍事的混乱の時代の終末期にあり、主に[[バルカン半島]]の農民(イリュリア人)などから成り上がった皇帝たち([[軍人皇帝]])が次々と即位していた<ref name="井上2015pp54_105">[[#井上 2015|井上 2015]], pp. 54-105</ref><ref name="村1997pp411_417">[[#村 1997|村 1997]], pp. 411-417</ref><ref name="ルメルル2003pp8_10">[[#ルメルル 2003|ルメルル 2003]], pp. 8-10</ref>。この混乱はコンスタンティヌス1世が極若い頃に皇帝として即位した[[ディオクレティアヌス]]帝(在位:284年-305年)によって収され、かれは293年までに2名の正帝(アウグストゥス)と2名の副帝(カエサル)によって帝国を統治する四分統治([[テトラルキア]])体制を確立した<ref name="レミィ2010pp39_43">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], pp. 39-43</ref>。
コンスタンティヌスが生まれた当時、ローマ帝国は一般に[[3世紀の危機]]と呼ばれる政治・軍事的混乱の時代の終末期にあり、主に[[バルカン半島]]の農民(イリュリア人)などから成り上がった皇帝たち([[軍人皇帝]])が次々と即位していた<ref name="井上2015pp54_105">[[#井上 2015|井上 2015]], pp. 54-105</ref><ref name="村1997pp411_417">[[#村 1997|村 1997]], pp. 411-417</ref><ref name="ルメルル2003pp8_10">[[#ルメルル 2003|ルメルル 2003]], pp. 8-10</ref>。父コンスタンティウスの出世もまたこの歴史的な経緯の中に位置付けられる<ref name="井上2015pp54_105"/>。この混乱はコンスタンティヌスが極若い頃に皇帝として即位した[[ディオクレティアヌス]]帝(在位:284年-305年)によって収され、は293年までに2名の正帝(アウグストゥス)と2名の副帝(カエサル)によって帝国を統治する四分統治([[テトラルキア]])体制を確立した<ref name="レミィ2010pp39_43">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], pp. 39-43</ref>。


=== 皇帝前のキャリア ===
=== 皇帝即位前のキャリア ===
[[File:Constantine, York Minster.jpg|thumb|[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]にあるコンスタンティヌス1世の青銅像]]
テトラルキアにおいて2人いる副帝の片方に父コンスタンティウスが任命された。若きコンスタンティヌスは[[ニコメディア]]にある[[ディオクレティアヌス]]帝の宮廷に仕えた。[[305年]]、正帝ディオクレティアヌスと[[マクシミアヌス]]が揃って退位し、クロルスがマクシミアヌス帝から西方正帝位を引き継いだ。権力争いの結果、新しい副帝には、皇帝の嫡男(コンスタンティヌスやマクシミアヌスの子[[マクセンティウス]])ではなく、[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス]]と[[マクシミヌス・ダイア]]とが選ばれた。


テトラルキア体制の成立と共に、西方の副帝にコンスタンティウス・クロルスが指名された(コンスタンティウス1世、副帝在位:293年-305年)<ref name="レミィ2010pp39_43"/>。副帝としてコンスタンティウスは目覚ましい活躍を見せ、皇帝を称していた[[カラウシウス]]から[[ブーローニュ]]を奪還し{{仮リンク|アッレクトゥス|en|Allectus}}支配下の[[ブリテン島]]も再征服した<ref name="井上2015p100">[[#井上 2015|井上 2015]], p. 100</ref>。
その後、コンスタンティヌスはニコメディアを去って、[[ガリア]]にいるクロルスのもとに行った。ところが、クロルスは[[カレドニア]](現在の[[スコットランド]])の[[ピクト人]]に対する遠征の途中で病を発し、[[306年]][[7月25日]]にエボラクム(現[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]])で死去した。[[アレマン族]]の血を引くクロクス将軍をはじめとする軍団は、亡きクロルスを慕っており、息子コンスタンティヌスを新しい正帝とするとの宣告を直ちに発した。


父のコンスタンティウスが副帝として即位するとともにコンスタンティヌスはディオクレティアヌスの下へと送られ、以降10年余りの間、父親と会うことはなかった<ref name="ジョーンズ2008pp25_26">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 25-26</ref><ref name="ランソン2012pp16_17">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 16-17</ref>。この処置はコンスタンティウスの誠実な行動を保証するための人質としてのものであったであろう<ref name="ジョーンズ2008pp25_26"/><ref name="ランソン2012pp16_17"/>。各地の行政機関を監督するために、また外敵の侵入を退けるためにディオクレティアヌスは自分の担当区域を宮廷および軍隊と共に常に移動していた<ref name="ジョーンズ2008p28">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 28</ref>。
コンスタンティヌスは、東方正帝[[ガレリウス]]に対し、父の後を継ぎ西方正帝となったことを承認するように求めた。しかし、テトラルキア制度の元でのコンスタンティヌスによる皇位継承は適法ではなかった。前正帝クロルスは次に正帝となる副帝を指名しているのだから、コンスタンティヌスがいきなり正帝を名乗ることは305年に制定された皇位継承のルールを無視していることになる。このためガレリウスは、コンスタンティヌスが父の遺領をそのまま支配することは認めたものの、位は副帝として、西方正帝にはセウェルスを昇格させた。


コンスタンティヌスはこのディオクレティアヌスの移動する宮廷に随伴して各地を移動した。恐らく292年末から293年初頭に[[シルミウム]](現:[[セルビア]]領[[スレムスカ・ミトロヴィツァ]])で合流した後、ディオクレティアヌスと共にバルカン半島各地の都市を回って294年にはディオクレティアヌスの中核拠点であった[[ニコメディア]]に行って越冬した<ref name="ジョーンズ2008pp28_29">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 28-29</ref>。295年5月に[[シュリア属州|シリア]]の[[ダマスカス]]に移動し、296年には{{仮リンク|ドミティウス・ドミティアヌス|en|Domitius Domitianus}}の反乱を鎮圧するためにエジプトに進軍して、8ヶ月の包囲の後[[アレクサンドリア]]を陥落させた<ref name="ジョーンズ2008pp28_29"/>。297年の夏、[[サーサーン朝]]の侵攻に対応するため再びシリアに移動し、サーサーン朝との間にそれまでで最も有利な講和を結ぶことに成功した<ref name="ジョーンズ2008pp28_29"/>。302年に再びディオクレティアヌスはエジプトに移動した<ref name="ジョーンズ2008pp28_29"/>。少なくともコンスタンティヌスはこの302年までには「既に幼少期を過ぎ青年期に入っていた」とされる<ref name="ジョーンズ2008pp28_29"/>。この間に彼は軍で実績を積み階級の階段を上っていた<ref name="ランソン2012p17">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 17</ref>。
=== 並立する皇帝の1人として(306年 - 311年) ===
コンスタンティヌスの支配領域は[[ブリタンニア]]、[[ガリア]]、[[ゲルマニア]]、および[[ヒスパニア]]だった。そして彼は、重要な[[ライン川]]国境線を拠点に、ローマ軍団の中でも大軍を指揮した。ガリアはローマ帝国の中でも肥沃な地域だったが、[[3世紀の危機]]による被害が大きく、地域の多くは荒れ果て、都市は破壊されていた。このため、ガリアに駐在(主に[[トリーア]]に居住)した [[306年]]から[[316年]]にかけて、コンスタンティヌスは父と同じくライン川国境の守備とガリア属州の再建とに尽力した。


[[File:Romuliana Galerius head.jpg|thumb|left|ガレリウスの頭像]]
コンスタンティヌスは、父が進めていたブリタンニアの攻略をすぐに取りやめ、ガリアに戻って[[フランク人]]の蜂起を鎮圧した。[[308年]]にも再びフランク人制圧のために遠征した。これにも勝利した後、ライン川の右岸に常設の要塞を築こうと考え、[[ケルン]]にてライン川を渡る橋を築いた。[[310年]]にも再び遠征したが、[[マクシミアヌス]]の反乱(下記参照)のために途中で中止となった。フランク人制圧にコンスタンティヌスが最後に遠征したのは、イタリアから帰還した[[313年]]で、このときも勝利を収めた。治世の安定を目的とするコンスタンティヌスは、短時間で目的を達成するためには厳しい手段も選んだ。反逆する部族に対して冷酷なまでの厳しい処罰を与えることも多く、軍事力を誇示するためにライン川国境の内側で敵を倒したり、競技場で囚人を虐殺したりすることもあった。結果的にはこの方法は成功し、コンスタンティヌスの残る治世の間、ライン川国境は比較的平穏だった。


303年の即位20周年の儀式の際、東の正帝ディオクレティアヌスは退位の意思を明らかにした<ref name="レミィ2010p134">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 134</ref>。彼は西の正帝マクシミアヌスにも同様に退位することを誓約させ、両正帝は305年に揃って退位した<ref name="レミィ2010p134"/>。5月1日にニコメディアとメディオラヌム(現:[[ミラノ]])で2皇帝の退位式典と即位式典が同時に行われ、新たな正帝としてコンスタンティウス・クロルスとガレリウスが即位した<ref name="レミィ2010p135">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 135</ref>。コンスタンティヌスはコンスタンティウス・クロルスの息子という出自、またその実績から副帝への即位が予想されており、当初はディオクレティアヌスも実際に血統原理に基づいて将来後継者となるべき副帝にコンスタンティウスの息子コンスタンティヌスと、マクシミアヌスの息子[[マクセンティウス]]を任命しようとしたという記録もある([[ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス|ラクタンティウス]])<ref name="レミィ2010p134"/><ref name="ランソン2012p18">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 18</ref><ref name="ジョーンズ2008p64">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 64</ref>。しかし実際には[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス]](セウェルス2世)と[[マクシミヌス・ダイア]]という2人のイリュリア人が副帝に選ばれ、コンスタンティヌスはガレリウスの下に留め置かれた<ref name="ランソン2012p19">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 19</ref>。ディオクレティアヌスはテトラルキア体制における複数の皇帝の皇位継承という難題を武力衝突を引き起こすことなく実施することに成功した<ref name="レミィ2010p136">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 136</ref>。
[[テトラルキア]]の下での帝国内部の争いには、コンスタンティヌスはあまり関らなかった。[[307年]]、正帝マクシミアヌス(305年に退位したが、この頃政界に復帰していた)がコンスタンティヌスを訪ね、[[マクセンティウス]]帝と[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス|セウェルス]]帝および[[ガレリウス]]帝との争いでの助力を願った。コンスタンティヌスはマクシミアヌスの娘{{仮リンク|ファウスタ・フラウィア・マクシマ|en|Fausta|label=ファウスタ}}と結婚して同盟を結び、マクシミアヌスによって正帝への昇格を認められた。しかし、コンスタンティヌスはマクセンティウスの動きに何も干渉することはなかった。マクシミアヌスは、息子マクセンティウスを退位させることができないまま、308年にガリアに戻った。この年の暮れに[[カルヌントム]]で会合が開かれて、[[ディオクレティアヌス]]、ガレリウス、マクシミアヌスが会談した結果、マクシミアヌスは再び退位を余儀なくされ、コンスタンティヌスは副帝に戻されることになった。


その後、コンスタンティウス・クロルスがコンスタンティヌスを自分の下に呼び寄せた時、もう1人の正帝ガレリウスはこれを拒否した<ref name="レミィ2010p137">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 137</ref>。恐らくこれはガレリウスが、コンスタンティヌスの名声と野心、更にはコンスタンティウスが持つ正帝位の「世襲」を警戒したためであろう<ref name="レミィ2010p137"/><ref name="ランソン2012p20">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 20</ref><ref name="ジョーンズ2008p65">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 65</ref>。ある伝承によればガレリウスはコンスタンティヌスの死を望み[[サルマタイ]]との戦いに派遣していたという<ref name="ランソン2012p20"/>。後にコンスタンティヌスの補佐役となるラクタンティウスの記録によれば、コンスタンティウスの度重なる要請に折れたガレリウスはある日コンスタンティヌスの出発を許可したが、その後に自分の決断を後悔しコンスタンティヌスを呼び戻すように命じた。しかしコンスタンティヌスは素早く出発しており、ガレリウスからの追撃を計略を用いて振り切って父の下へ到着したという<ref name="ジョーンズ2008p65"/>。
[[309年]]、コンスタンティヌスがフランク人を制圧する遠征に赴いている間に、マクシミアヌスは義理の息子であるコンスタンティヌスに対して反乱を起こした。この反乱はすぐに鎮圧され、マクシミアヌスは落命した(殺されたか自殺に追い込まれたかは不明)。


コンスタンティヌスは、[[カレドニア]](現在の[[スコットランド]])の[[ピクト人]]を討伐すべく[[ブリタンニア]]に進発するために[[ブローニュ=シュル=メール|ブーローニュ]]にいたコンスタンティウスと合流した<ref name="ジョーンズ2008p65"/>。この遠征から戻った後、306年7月25日にエボラクム(現:[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]])でコンスタンティウスは急死した<ref name="ジョーンズ2008p65"/>。ここでコンスタンティウスが持っていた正帝位の継承はガレリウスによって決定されるべきものであったが、ブリタンニアの兵士たちは即座にコンスタンティヌスを新たな正帝として歓呼した<ref name="ジョーンズ2008p66">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 66</ref>。この兵士たちによる皇帝への推戴が自然発生的なものであったのかどうかは不明であるが、複数の史料がコンスタンティヌスがその野心から帝位に昇り、兵士たちに働きかけたことを証言している<ref name="ランソン2012p20">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 20</ref>。
コンスタンティヌスもマクシミヌス・ダイアも、自分たちが副帝でリキニウスが正帝になったことを不満に思い、正帝を自称し振舞った。これを[[310年]]にガレリウスが追認したので、公式に4人の正帝が並立する事態となった。[[311年]]にガレリウスが死ぬと、テトラルキアの維持を図る権力者はいなくなったため、この制度は急速に瓦解していった。この後に続く権力争いでは、コンスタンティヌスはリキニウスと同盟を結び、マクシミヌス・ダイアは未だ公式には簒奪皇帝とみなされているマクセンティウスに接近した。


=== 唯一の皇帝(312年 - 324年) ===
=== 西方おけテトラルキアの破綻 ===
コンスタンティヌス1世はブリタンニアで推戴を受けた306年7月25日をその後の即位記念日として扱っていたが、ローマ帝国の公式文書においてはそうではなかった<ref name="ランソン2012p21"/>。コンスタンティヌス1世はガレリウスに自分の正帝即位承認を要求したが、ガレリウスはこの[[僭称]]行為を認めなかった<ref name="ジョーンズ2008p67">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 67</ref>。しかし、コンスタンティヌス1世が現地の軍団を掌握している現状を鑑みて現状を追認するのが賢明であると判断し、コンスタンティヌス1世を副帝として承認した<ref name="ジョーンズ2008p67"/>。そしてそれまで副帝であったセウェルス2世を正帝とし、コンスタンティヌス1世はその下位であるとされた<ref name="ジョーンズ2008p67"/>。
[[312年]]の初めの頃、コンスタンティヌスは軍勢を伴ってアルプスを超え、マクセンティウスを襲撃した。彼は[[トリノ]]と[[ヴェローナ]]で戦ってイタリア北部をすばやく征服し、ローマに兵を向けた。そして、[[ミルウィウス橋の戦い]]でマクセンティウスを破って西の正帝となり、[[西ローマ帝国]]全体の支配者となった。その後、彼は徐々に軍事力を強化し、テトラルキアで競合する他の皇帝たちに優位になっていった。


その3ヶ月後、セウェルス2世が[[イタリア]]と更にはローマ市において課税査定を行い近衛兵の解体を宣言すると、イタリアの軍団は反乱を起こし、退位したマクシミアヌスの息子[[マクセンティウス]]が皇帝に担ぎ上げられた<ref name="ジョーンズ2008p67"/>。彼はコンスタンティヌス1世と同じようにガレリウスの承認を求めたが、マクセンティウスに対してはガレリウスは頑として譲らず、セウェルス2世に対してマクセンティウス討伐の命令を出した<ref name="ジョーンズ2008p67"/>。正帝を自称したマクセンティウスはイタリアを迅速に支配下に収め、更に[[アフリカ]]の属州も支配下に置き、また退位した父マクシミアヌスをもう1人の正帝として復位させる宣言を行った<ref name="ジョーンズ2008p68">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 68</ref><ref name="スカー1998p261">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 261</ref>。306年末か307年初頭にマクシミアヌスはコンスタンティヌス1世の支援を求めて[[ガリア]]へ向かった<ref name="ジョーンズ2008p68"/><ref name="ランソン2012p23">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 23</ref>。
[[313年]]、彼は[[ミラノ]]でリキニウス帝と会談し、異母妹フラウィア・ユリア・コンスタンティアナをリキニウスに嫁がせて同盟を固めた。この会合において、2人の皇帝は連名でいわゆる[[ミラノ勅令]]を発し、帝国内で全ての宗教(特にキリスト教)を寛容すると公認した。ところがこの会談中に、リキニウスに敵対するマクシミヌス・ダイア帝が[[ボスポラス海峡]]を渡りリキニウス領土に侵攻したとの知らせが入り、会談は打ち切られた。戦地に向かったリキニウスは結局マクシミヌス・ダイアを破り、[[ローマ帝国]]東側の完全な支配を取り戻した。この後、2人になった皇帝コンスタンティヌスとリキニウスの関係は冷え込んでいき、[[314年]]か[[316年]]に争いが起こってコンスタンティヌスが勝利した。[[317年]]のマルディアの戦いにて両者は再び衝突し、その結果、コンスタンティヌスの息子[[クリスプス]]および[[コンスタンティヌス2世]]と、リキニウスの息子リキニアヌス([[リキニウス2世]])を副帝に据えることで両者は合意した。


[[File:Maxentius02 pushkin.jpg|thumb|マクセンティウスの胸像]]
[[320年]]、リキニウス帝は全宗教を公認した313年のミラノ勅令を破り、キリスト教徒に迫害を加えた。これがやがて西のコンスタンティヌス帝との対決につながって内戦となり、その内戦は[[324年]]に最も激しくなった。古来から伝わる異教崇拝([[ペイガニズム]])の勢力を代表する[[ゴート族]]の傭兵がリキニウス帝を支えた。コンスタンティヌス帝と配下の[[フランク人]]はキリスト教を象徴する[[ラバルム]]の旗印の下に行軍した。かくして戦いは宗教戦争の様相を呈し、数では劣ったようだが熱意に勝るコンスタンティヌス軍が、324年の[[ハドリアノポリスの戦い (324年)|ハドリアノポリス]]、[[ヘレスポントスの海戦|ヘレスポントス海峡]]、クリュソポリスなどの戦いを制した。敗れたリキニウスは翌年に処刑され、コンスタンティヌスは全ローマ帝国で唯一の皇帝となった。


この老マクシミアヌスはかつて娘のテオドラをコンスタンティウス・クロルスに嫁がせていたため、コンスタンティヌス1世にとっては義理の祖父にあたる人物でもあった<ref name="ランソン2012p23"/>。当時コンスタンティヌス1世は、父が進めていたブリタンニアの攻略を取りやめ、ガリアに戻って「[[フランク人]]」を攻撃して打ち破り、[[ライン川]]に橋を架けて「フランク人」の一派[[ブルクテリ族]]の根拠地を荒らすなどの勝利を収めていた<ref name="ランソン2012p21">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 21</ref>。マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世にも自分の娘{{仮リンク|ファウスタ・フラウィア・マクシマ|en|Fausta|label=フラウィア・マクシミア・ファウスタ}}との結婚を持ちかけ、正帝位を差し出した<ref name="ジョーンズ2008p68"/>。ファウスタはマクセンティウスの妹であり当時7歳であった。この時コンスタンティヌス1世は深刻な決断を迫られていたと見られる。コンスタンティヌス1世は疑問の余地のなく正統な、かつ最も上位の正帝であるガレリウスから正式に副帝の地位を承認されていた<ref name="ジョーンズ2008p68"/>。しかし同時にガレリウスの自分に対する心証が良好ではないことを自覚してもいた<ref name="ジョーンズ2008p68"/>。一方のマクシミアヌスとマクセンティウスは明らかに僭称者であったが、それでもマクシミアヌスもかつてはディオクレティアヌス帝によって認められていた正帝の地位にあった人物であり、その行動は成功しているようにも思われたためである<ref name="ジョーンズ2008p68"/>。結局コンスタンティヌス1世はマクシミアヌスの申し出にのり、307年3月31日にファウスタと結婚した<ref name="ジョーンズ2008p68"/>。彼には既に息子[[クリスプス]]を産んでいた妻{{仮リンク|ミネルウィナ|en|Minervina}}がいたが、既に死別していたか、あるいはかつて父コンスタンティウスが行ったのと同じように離縁したと考えられる<ref name="ランソン2012p23"/>{{refnest|group="注釈"|マクシミアヌスの娘ファウスタとコンスタンティヌス1世の結婚の事情を巡る時系列は各出典で微妙に異なるため以下に注記する。ブルクハルトはマクシミアヌスとマクセンティウスの反目はガレリウスとの戦いの前に始まっており、コンスタンティヌス1世の下へ赴き縁談を持ち込んだのはガレリウスに対抗すると共にマクセンティウスに対する優位を得るためであったともする<ref name="ブルクハルト2003p365">[[#ブルクハルト 2003|ブルクハルト 2003]], p. 365</ref>。また、ジョーンズはこの結婚を307年3月31日のことと断言しており、ガレリウスとマクセンティウスの戦いはその後であると描写する<ref name="ジョーンズ2008p68"/>。これはランソンも同様であるが、ただし彼の描写では3月31日というのはラテン語頌歌第6番が発表された日付である<ref name="ランソン2012p23"/>。以上の出典は事情の説明を多少異にするが、コンスタンティヌス1世とファウスタとの結婚の後ガレリウスとマクセンティウスの戦いが行われたという時系列は一致している。一方、レミィは9月にガレリウスがマクセンティウスに撃退された後、12月頃にマクシミアヌスとコンスタンティヌス1世が互いを正帝として承認し、コンスタンティヌス1世とファウスタが結婚したと説明する<ref name="レミィ2010p140">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 140</ref>。スカーはファウスタとの結婚について、厳密な時系列には言及しない<ref name="スカー1998p262">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 262</ref>。}}。
=== コンスタンティノポリスの建設 ===
リキニウスの敗北が意味したものは、過去のローマの時代の終焉であり、東方がローマ帝国の中心となる時代の始まりでもあった。教育も富も文化財も、東に中心が移ることとなった。コンスタンティヌスは新たな拠点として最初は[[ブルガリア]]の[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]に注目して同地を「我がローマ」と呼んだが、後には[[シルミウム]]と[[テッサロニキ]]にも目を向け、最終的には[[ギリシャ]]の[[ビュザンティオン]]を「ノウァ・ローマ(新ローマ)」と名づけたという。ただし「新ローマ」という認識は都市建設当時には存在していなかったともいわれる<ref>井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年</ref>。この都市には首都ローマに倣って[[元老院 (ローマ)#コンスタンティノポリス元老院|元老院]]など幾つかの役所が設置されたが、[[プラエトル|法務官]]、[[クァエストル|財務官]]、[[護民官]]、首都長官など幾つかの重要な首都機能は設けられなかった。また元老院も首都ローマの元老院とは異なり、この都市の元老院の議員はクラリッシムス(称号)とは見なされなかった。


このコンスタンティヌス1世の判断は当面において的中し、セウェルス2世はマクセンティウスに敗退して[[ラヴェンナ]]で降伏した<ref name="ジョーンズ2008p68"/><ref name="ランソン2012p24">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 24</ref>。その後ガレリウスが自らマクシミアヌスとマクセンティウス討伐に乗り出したが、この討伐も同じように失敗に終わり、ガレリウスはイタリアからの撤退に追い込まれた<ref name="ジョーンズ2008p69">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 69</ref><ref name="ランソン2012p24"/>。だが、ガレリウスの脅威が去ると間もなくこの親子は権力を巡って反目するようになり、308年4月にはマクシミアヌスは軍に向かって息子マクセンティウスを非難する演説を行い、その地位を奪おうとした<ref name="ジョーンズ2008p69">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 69</ref><ref name="スカー1998p262"/>。しかし兵士たちはマクシミアヌスよりもマクセンティウスの方を支持し、マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世の下へ逃亡を余儀なくされた<ref name="ジョーンズ2008p69"/>。コンスタンティヌス1世は今度は義父マクシミアヌスにつくか、既にイタリア・アフリカ・[[ヒスパニア]]を手中に収めていたマクセンティウスにつくかの決断を再び迫られ、マクシミアヌスに組することを決定した<ref name="ジョーンズ2008p69"/>。
この都市は[[聖十字架]]や[[モーゼ]]の鞭をはじめとするキリスト教の[[聖遺物]]に守護されていたと言われる。ローマの神々への崇拝も残るものの<ref group="注釈">[[エルミタージュ美術館]]に収蔵される[http://www.hermitagerooms.com/exhibitions/Byzantium/sardonyx.asp カメオ]にはコンスタンティヌスが新都市の運命の女神[[ティケ]]に戴冠されている図が描かれている。</ref>、旧来の神々を描いた図の多くはキリスト教の象徴主義の図に代えられたり、加筆されたりした。[[アプロディテ]]神殿が建てられるべき場所には、新しく聖使徒教会が建てられた。後世の人は、コンスタンティヌスはこの場所に導く啓示を受けて、彼だけが見える天使が案内したと伝えた。死後、彼が作り上げた新しい都は「[[コンスタンティノポリス]]」と呼ばれるようになった。[[325年]]には[[第1ニカイア公会議]]が小アジアの[[ニカイア]]で行われた。


ここまでの経過で、ディオクレティアヌスが用意したテトラルキア体制はローマ帝国の東方では正帝ガレリウスと副帝マクシミヌス・ダイアによって維持されていたが、西方では全く形骸化しつつあった<ref name="レミィ2010p141">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 141</ref>。西方に副帝は1人もいなかった一方で、コンスタンティヌス1世、マクシミアヌス、マクセンティウスという3人の自称正帝が並び立っており、308年には北アフリカでマクセンティウスに対する反乱指導者となった{{仮リンク|ルキウス・ドミティウス・アレクサンドロス|en|Domitius Alexander}}がこの列に加わった<ref name="レミィ2010p141"/>。コンスタンティヌス1世は同年の時点でガリアとブリタンニアを支配下に置いており、マクセンティウスはイタリアとシチリアを支配し、ドミティウス・アレクサンドロスが北アフリカを抑えていた<ref name="レミィ2010p141"/>。マクシミアヌスには根拠地が無かった<ref name="レミィ2010p141"/>。
=== 晩年まで(326年 - 337年) ===
[[ファイル:Raphael Baptism Constantine.jpg|thumb|225px|コンスタンティヌスの洗礼;[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]の弟子の作]]
[[326年]]、前妻ミネルウィナの子である長男クリスプスがコンスタンティヌスの2度目の妻ファウスタと密通したとの密告を名目に、コンスタンティヌスはクリスプスを処刑した。数ヶ月後、この告発は虚偽で、その出所が明らかにファウスタであるとの名目でファウスタも処刑された。


=== マクシミアヌスとマクセンティウスの打倒 ===
統一後も、コンスタンティヌスは外征を行い続けた。328年には[[ライン川]]にてアレマンニ族に勝利し、[[332年]]には[[ドナウ川]]で[[ゴート人]]に、334年にはサルマティア人と戦い、勝利を収めた。その後、[[337年]]にローマ最大の敵である[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]討伐の軍を挙げたが、軍旅中に倒れ、コンスタンティノポリスからいくらも離れていない[[ニコメディア]]で亡くなった。
正式な正帝であるガレリウスはこの混乱を収拾するために308年11月11日、[[パンノニア]]の[[カルヌントゥム]]に、隠棲していたディオクレティアヌスと、かつて正規の西の正帝であったマクシミアヌスを招待し、会談の席を設けた<ref name="ランソン2012p24"/>。ディオクレティアヌスは自らが再び皇帝となることを拒み、代わりにマクシミアヌスに再度退位するよう促した<ref name="ジョーンズ2008p69"/><ref name="レミィ2010p142">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 142</ref>。マクシミアヌスがこれを受け入れたことで、新たな四帝統治の枠組みの構築が模索された<ref name="レミィ2010p142"/>。この会談でマクシミアヌスは正帝の称号に対する主張を取り下げ、コンスタンティヌス1世は正式な副帝であるということが確認された。ガレリウスの強い主張によって、もう1人の正帝位には彼の親しい友人であった[[リキニウス|ウァレリウス・リキニアヌス・リキニウス ]]が就任することになった<ref name="ジョーンズ2008p69"/><ref name="レミィ2010p142"/><ref name="ランソン2012p24"/>。そしてマクセンティウスとアレクサンドロスは僭称者として全く無視された<ref name="ジョーンズ2008p70">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 70</ref><ref name="レミィ2010p142"/>。


しかし、副帝マクシミヌス・ダイアはリキニウスが自分を飛び越えて正帝に昇進したことに納得せず自らも正帝の称号を要求した。翌年には「正帝の息子」という称号を与えるという妥協案をガレリウスが示したが、これを受け入れることは無かった<ref name="ジョーンズ2008p70"/>。そしてコンスタンティヌス1世もまた、一旦名乗った正帝から副帝への「降格」を拒否した<ref name="ジョーンズ2008p70"/><ref name="ランソン2012p24"/>。この会議の決定はコンスタンティヌス1世にとっては屈辱であり、自らの支配地にある造幣所で打刻される貨幣から正帝ガレリウスの名前を削って、自分の地位を譲るつもりがないことを示した<ref name="レミィ2010p143">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 143</ref>。結局コンスタンティヌス1世とマクシミヌス・ダイアは要求を押し通すことに成功し、310年にはガレリウスは副帝を廃止して両者とも正帝であることを宣言した<ref name="レミィ2010p143"/><ref name="ジョーンズ2008p70"/>。
神学者[[ヒエロニムス]]が伝えるところによると、コンスタンティヌスは[[337年]]に亡くなる少し前に[[洗礼]]を受けた。当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった<ref group="注釈">この時代には幼児の洗礼は未だ習慣化されていなかった(幼児洗礼は、初めは非常時のみ行われていた。この頃には幼児洗礼を受けるものも増えていたが、これはキリスト教徒として生きるという重みを持った選択というよりは、将来キリスト教にしたがう予定という意味合いだった)。自らの意思で洗礼を受ける成人は、神の贖罪により身を守るという信心をはっきりと宣誓した。聴衆に洗礼を促す聖職者と洗礼を放棄した者との板ばさみになったりして、様々な理由から、年をとるか死の間際になるかまで洗礼を待つ者もいた(Thomas M. Finn (1992), ''Early Christian Baptism and the Catechumenate: West and East Syria'' および Philip Rousseau (1999). "Baptism", in ''Late Antiquity: A Guide to the Post Classical World'', ed. Peter Brown)。</ref>。
ヒエロニムスによると、コンスタンティヌスが洗礼を受けたのは、異端とされた[[アレイオス]]を信奉する[[アリウス派]]でありながらも司教の座を保っていたニコメディアのエウセビウスに説得されたためだった。


[[File:MSR - Tête de l'empreur Maximien Hercule - Inv 34 b (cropped).jpg|thumb|マクシミアヌス像]]
改宗者であるにもかかわらず、彼は神格化された(これは、キリスト教に帰依した後の他の皇帝も同様である)。その遺体はコンスタンティノポリスに運ばれて聖使徒教会に埋葬された。
ガレリウスから正式に正帝としての承認を得たコンスタンティヌス1世にとって、義父マクシミアヌスは最早内部の敵と化していた<ref name="ジョーンズ2008p70"/>。ディオクレティアヌスの意向に従って2度目の退位をした後もマクシミアヌスは旺盛な野心を維持し、コンスタンティヌス1世の権力を自らのものとする賭けに打って出た<ref name="ジョーンズ2008p70"/>。310年の春に「フランク人」(ブルクテリ族)討伐のためにコンスタンティヌス1世が出征に出ると、マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世が戦死したと触れ回り、ガリア・ナルボネンシスの[[アルル]]で3度目の正帝即位を宣言するとともに各地の軍団に急使を送った<ref name="ジョーンズ2008p71">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 71</ref>。コロニア(現:[[ケルン]])でこの知らせを受けたコンスタンティヌス1世は強行軍で引き返し、マクシミアヌスが軍勢を集める前に攻撃を開始することに成功した<ref name="ジョーンズ2008p71"/>。マクシミアヌスはマッサリア([[マルセイユ]])に逃れたが、コンスタンティヌス1世はこれを追撃して310年の夏にはマクシミアヌスを死に追いやった<ref name="ジョーンズ2008p71"/><ref name="ランソン2012p25">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 25</ref>。

マクシミアヌスがコンスタンティヌス1世によって殺害されるとマクセンティウスは「突如再び親孝行な息子となり『父なる神帝マクシミアヌス』を称える貨幣を発行した<ref name="ジョーンズ2008p80">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 80</ref>。」(ジョーンズ)。更にマクセンティウスはマクシミアヌスがコンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルスの義父でもあったことをも利用して、「義兄弟」である「神帝コンスタンティウス・クロルス」を称揚し、暗にその後継者としてコンスタンティヌス1世が支配するガリアとブリタンニアに対する正当な権利を主張した<ref name="ジョーンズ2008p80"/>。

311年にはガレリウスも死去し、312年夏までにはマクセンティウスがドミティウス・アレクサンドロスを打倒して北アフリカを奪回したため、残存する「正帝」たちはコンスタンティヌス1世、マクセンティウス、マクシミヌス・ダイア、リキニウスの4人となった<ref name="ジョーンズ2008p80"/><ref name="レミィ2010p143"/>。コンスタンティヌス1世はマクセンティウスに対抗するためにリキニウスとの同盟を模索し、異母姉妹コンスタンティアとリキニウスの婚約を進めた<ref name="ジョーンズ2008p80"/>。この動きに脅威を覚えたマクシミヌス・ダイアはマクセンティウスと同盟を結んだ<ref name="ジョーンズ2008p80"/>。間もなく、マクセンティウスはローマ市を含むイタリアの諸都市に設置されていたコンスタンティヌス1世の像や肖像画を破壊し、対決姿勢を鮮明にした<ref name="ジョーンズ2008p80"/>。後世の歴史家[[ゾシモス]]はこの時、コンスタンティヌス1世が[[ゲルマン人]]や[[ケルト人]]などを含め歩兵9万人、騎兵8,000騎を擁し、マクセンティウスは歩兵17万人、騎兵1万8千騎を集めたと記す<ref name="ジョーンズ2008p80"/><ref name="ランソン2012p26">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 26</ref>。しかし、現代の学者はこの数字は大幅に誇張されたものであると考えている<ref name="ジョーンズ2008p80"/><ref name="ランソン2012p26"/>。同じくゾシモスの記録によれば、マクセンティウスは[[ラエティア]](現:[[スイス]]南部)を攻略してコンスタンティヌス1世とリキニウスの勢力圏を分断しようとしたが、コンスタンティヌス1世は機先を制しアルプスを越えてイタリアに入った<ref name="ジョーンズ2008p81">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 81</ref><ref name="ランソン2012p26"/>。[[セグシオ]](現:[[スーザ]])を攻略したのを皮切りに、メディオラヌム(現:ミラノ)を味方につけ、タウリノルム(現:[[トリノ]])近郊、[[プレシャ]]、[[ヴェローナ]]など各地でマクセンティウスの軍勢を打ち破った<ref name="ジョーンズ2008p81"/><ref name="ランソン2012p26"/>。

やはりゾシモスの記録によれば、コンスタンティヌス1世の軍団がローマ市に迫ると、ローマの民衆は敗北を重ねるマクセンティウスを嘲笑し、平静を失ったマクセンティウスは宣託にすがった。そして彼は自分自身の即位記念日(10月28日)に吉兆があると知ってその日に戦うべく進軍した<ref name="ジョーンズ2008p82">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 82</ref>。こうして[[ティベレ川]]沿いで両者は戦い([[ミルウィウス橋の戦い]])、コンスタンティヌス1世が完勝を収めてマクセンティウスを戦死させた<ref name="ジョーンズ2008p83">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 83</ref><ref name="ランソン2012p27">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 27</ref>。312年10月29日、コンスタンティヌス1世はローマに凱旋し、マクセンティウスの首を槍の穂先に刺して行進することで古い支配者が世を去ったことをローマ市民に知らしめた<ref name="ジョーンズ2008p83"/>。ローマ[[元老院 (ローマ)|元老院]]はコンスタンティヌス1世にマクシムス(偉大な/大帝)の称号を授けて称えた<ref name="ランソン2012p27"/>。コンスタンティヌス1世のローマ入場にまつわる一連の出来事は碑文の情報からも確認できる<ref name="ランソン2012p27"/>。

=== 改宗 ===
312年、コンスタンティヌス1世は何らかの形でキリスト教を受け入れた<ref name="ジョーンズ2008p84">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 84</ref>。この点に関しては衆目は一致しているが、しかしそれが単なる政治上の都合からきたものであったのか、宗教的信念によるものだったのか、単なる儀式的なものであったのか、またどの程度真剣なものであったのか、様々な点において議論が続いている<ref name="ジョーンズ2008p84"/><ref name="ヴェーヌ2010p70">[[#ヴェーヌ 2010|ヴェーヌ 2010]], p. 70</ref>。伝説的な説話では[[ミルウィウス橋の戦い]]で神の啓示を受けて勝利したことがその切っ掛けであるとされる。コンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルスが治世中にキリスト教徒に対して寛大であったことから、既にコンスタンティウス・クロルスもキリスト教徒であったという説もある<ref name="ランソン2012p99">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 99</ref>。しかし、それを証明する証拠は皆無であり、少なくともコンスタンティヌス1世が当初からキリスト教徒ではなかったことは、ローマ古来の神々に対して彼が捧げた奉献や、コンスタンティヌス1世を称える演説家たちが彼をユピテル(ゼウス)になぞらえて褒めることが問題になっていないことによって明らかである<ref name="ランソン2012p99"/><ref name="ジョーンズ2008p85">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 85</ref>。

しかし、少なくとも312年のローマ入場の後、コンスタンティヌス1世のキリスト教に対する姿勢ははっきりと寛大さ以上のものとなった<ref name="ジョーンズ2008p85"/>。312年末から313年初頭までのいずれかの時点でコンスタンティヌス1世が[[カルタゴ]][[司教]][[カエキリアヌス]]に当てた手紙の中で「アフリカ、ヌミディア、マウレタニアの全属州」において「合法的かつ至聖なる[[カトリック]]の宗教の奉仕者のうちの指定された者たち」に対して公的資金による補助の提供を決定したことが通知されている<ref name="ジョーンズ2008p86">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 86</ref>。

313年2月、メディオラヌムでコンスタンティヌス1世とリキニウスが会談し、311年に約束されていたコンスタンティヌス1世の異母妹コンスタンティアとリキニウスの結婚が正式に執り行われた<ref name="ジョーンズ2008p88">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 88</ref><ref name="ランソン2012p29">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 29</ref>。この2人の皇帝は(当時まだマクシミヌス・ダイアの支配下にある)[[ビュテニア]]と[[パレスティナ]]の総督に対して[[セルディカ勅令]](311年にガレリウスが発布していたキリスト教徒迫害を停止させる寛容令)の履行を指示する通達を出した<ref name="ランソン2012p99"/>。これは(ランソンによれば不正確にも)『'''[[ミラノ勅令]]'''』と呼ばれており、後世本来持っていた以上の重要性を与えられることになる<ref name="ランソン2012p100">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 100</ref>。

ただし、これらの点が指摘されてもなおコンスタンティヌス1世のキリスト教への改宗がこの時に行われたのか完全に断言できるわけではない。彼はコインに不敗太陽神([[ソル・インウィクトゥス|ソル]])の図像を残していたし、公的に宗教的な文言を用いる際にはキリスト教徒にも非キリスト教徒にも都合よく解釈可能な曖昧な表現を採用していた<ref name="ランソン2012p105">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 105</ref>。前述の通り一般的には312年にコンスタンティヌス1世がキリスト教を受け入れたとされるが、ランソンは315年の段階でもまだ彼はキリスト教徒ではなく、彼の宗教はキリスト教とソル信仰が融合した初期段階のものであったとも推測できるとしている<ref name="ランソン2012pp105_106">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 105_106</ref>。歴史家たちの間では、どのような思考・振る舞いをしていればキリスト教徒と見做しうるのか、という観点においても相違がある。

=== リキニウスとの戦い ===
==== 衝突と和平 ====

同じ頃、マクシミヌス・ダイアは[[ボスポラス海峡]]を渡り[[ビュザンティオン]]を攻略した<ref name="ジョーンズ2008p89">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 89</ref>。この報せを受けたリキニウスはコンスタンティヌス1世との会談を中断してただちにイタリアから[[バルカン半島|バルカン]]へ渡り、3万の軍勢で[[アドリアノープル]](ハドリアノポリス)へ向かうマクシミヌス・ダイア軍の前面を封鎖した<ref name="ジョーンズ2008p89"/>。間もなくリキニウスはマクシミヌス・ダイアを打ち破り、アナトリアへ後退する彼を追撃して自殺へと追い込んだ<ref name="ジョーンズ2008p90">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 90</ref>。一方のコンスタンティヌス1世は「フランク人」の侵攻に対処すべくアルプスを越えて北上し、これを撃退した<ref name="ジョーンズ2008p130">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 130</ref>。

こうしてローマ帝国の西半がコンスタンティヌス1世の支配下に入り、東半がリキニウスの支配下に入った。だが、共通の敵を失った両正帝は間もなく対立を始めた。切っ掛けは新たに副帝(カエサル)として{{仮リンク|バッシアヌス (元老院議員)|label=バッシアヌス|en|Bassianus (senator)}}を任命するというコンスタンティヌス1世の提案であった。コンスタンティヌス1世は彼に自分の異母妹{{仮リンク|アナスタシア (コンスタンティヌス1世の妹)|label=アナスタシア|en|Anastasia (sister of Constantine I)}}を嫁がせていた<ref name="ジョーンズ2008p130"/>。この任免の詳細を巡って両者は対立し武力衝突に至った<ref name="ジョーンズ2008p130"/><ref name="スカー1998p269">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 269</ref>{{refnest|group="注釈"|バッシアヌスの副帝任命を巡る事情についても、出典間で細部が異なるため以下にまとめる。ジョーンズはコンスタンティヌス1世がリキニウスの警戒心を和らげるためにバッシアヌスを副帝として自分の支配地を分割することを提案したが、リキニウスは自分の臣下でバッシアヌスの兄弟であったセネキオを利用してバッシアヌスをコンスタンティヌス1世から離反させようとしたため両者は対立に至ったと描写する<ref name="ジョーンズ2008p130"/>。ランソンはリキニウスが自身の側近であったバッシアヌスを副帝としてイリュリアに配置したが、コンスタンティヌス1世はバッシアヌスが陰謀をたくらんだことを理由に排除し、イリュリアに侵攻する口実としたとする<ref name="ランソン2012p30">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 30</ref>。スカーはリキニウスとコンスタンティアの間に生まれた息子リキニウス2世が将来副帝に就くことを妨害するために、義弟だったバッシアヌスを副帝としてイタリアの支配権を与える提案をしたと描写する<ref name="スカー1998p269"/>。}}。

コンスタンティヌス1世は314年の晩夏<ref name="ジョーンズ2008p130"/>、または316年の秋<ref name="ランソン2012p30"/><ref name="スカー1998p269"/>、リキニウスの領土への侵攻を開始し、10月8日に初戦となったイリュリアのキバラエ(現:[[クロアチア]]領[[ヴィンコヴツィ]])で数的不利を跳ね返してリキニウス軍を大敗させた ([[:en:Battle of Cibalae|キバラエの戦い]])<ref name="ジョーンズ2008p130"/>。リキニウスは[[ドナウ川]]を下って[[シルミウム]]へと逃れ、更に自軍をアドリアノープルへと集結させた<ref name="ジョーンズ2008p131">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 131</ref>。その間、[[第2モエシア属州]]のドゥクス(''Dux'':公、将軍)でドナウ川下流域の軍を束ねていた{{仮リンク|ウァレリウス・ウァレンス|en|Valerius Valens}}を(恐らくその忠誠を繋ぎとめるために)正帝に任命した<ref name="ジョーンズ2008p131"/><ref name="スカー1998p269"/><ref name="ランソン2012p30"/>。そしてアドリアノープル近郊で2度目の戦闘が行われた<ref name="スカー1998p269"/>。その勝敗は史料上はっきりしないが、この戦いの後、両者は和平条件を巡る交渉を行った<ref name="ジョーンズ2008p131"/>。だが、使節を通した交渉は失敗し戦闘が再開された<ref name="ジョーンズ2008p131"/>。2度目の戦闘が[[アルダ川]]流域で行われたが、衝突後に両軍は敵を見失い、コンスタンティヌス1世はリキニウスが東のビュザンティオンに退却したと見て進軍し、一方のリキニウスは北西のベロイアへ移動したために双方が後方連絡線を遮断された<ref name="ジョーンズ2008p131"/>。317年3月1日<ref name="スカー1998p269"/><ref name="ランソン2012p31">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 31</ref>、セルディカで再び和平交渉が行われ今度は和平合意が成立した<ref name="スカー1998p269"/><ref name="ランソン2012p31"/>(ジョーンズの採用する編年では和平は315年は成立したとされている<ref name="ジョーンズ2008p131"/>)。合意では領土的にはコンスタンティヌス1世が大幅な拡大に成功し、トラキアを除くバルカン半島のほぼ全域がコンスタンティヌス1世の支配下に入る事となった<ref name="ジョーンズ2008p131"/>。そしてウァレリウス・ウァレンスは廃位されて処刑され、コンスタンティヌス1世の長子[[クリスプス]](13歳前後)、ファウスタとの間の別の息子[[コンスタンティヌス2世|小コンスタンティヌス]](当時出生直後)、そしてリキニウス2世(1歳8か月)の3名を副帝とすることが定められた<ref name="ジョーンズ2008p132">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 132</ref><ref name="ランソン2012p31"/>{{refnest|group="注釈"|この3名の副帝即位は317年3月1日である。ただし、314年から戦争が始まったという時系列を採用しているジョーンズは315年には和平が成立し、コンスタンティヌス1世とリキニウスが同年の[[執政官]](コンスル)職を共に担当したとする。317年3月1日まで「不明な理由」によりこの3名の副帝即位が延期されたとする<ref name="ジョーンズ2008p132"/>。ランソン、スカーの採用する時系列では和平から即位までの間にこのような時間差は想定されていない。}}。以降、321年または323年までの6年間、この和平は維持された<ref name="ジョーンズ2008p132"/><ref name="スカー1998p269"/>。

==== リキニウスの死 ====
比較的長く続いた平和の後、コンスタンティヌス1世とリキニウスの関係は再び悪化した。その要因にはコンスタンティヌス1世が息子のクリスプスと小コンスタンティヌスをリキニウスと相談することなく(ジョーンズによれば321年に)執政官職(コンスル)に就けたこと<ref name="ジョーンズ2008p132"/>、その後もリキニウスの同意なしにコンスルの任命をし続けたこと、リキニウスが自領内でコンスタンティヌス1世が任命したコンスルを無視したこと<ref name="ジョーンズ2008p132"/>、323年にコンスタンティヌス1世が第2モエシア属州に侵入した[[ゴート人]]を討伐するためにリキニウスの領土に侵入したこと<ref name="ジョーンズ2008p132"/><ref name="ランソン2012p32">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 32</ref>、キリスト教徒の庇護者として振る舞うコンスタンティヌス1世の姿を見たリキニウスが、自分の領内のキリスト教徒をスパイだと疑い始めたこと<ref name="スカー1998p269"/><ref name="ランソン2012p32"/><ref name="ジョーンズ2008p133">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 133</ref>などが挙げられている。リキニウスはコンスタンティヌス1世よりもはっきりと[[一神教]]的な見解を持っていたようにも見受けられるが、古くからの神々を拒否することは無く、それらを偉大な[[ユーピテル|ユピテル神]]の別側面であるとみなしたと考えられる<ref name="ジョーンズ2008p133"/>。一方でコンスタンティヌス1世はキリスト教徒への庇護の傾斜を強め、320年にはコンスタンティヌス1世のコインに残されていた最後の異教の神、不敗太陽神([[ソル・インウィクトゥス|ソル]])の図像が姿を消した<ref name="ジョーンズ2008p134">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 134</ref>。コンスタンティヌス1世がキリスト教への傾倒を強めるほどに、リキニウスはキリスト教徒たちの礼拝がコンスタンティヌス1世のためのものであるという認識を強め、教会の活動への統制を強めていった<ref name="ジョーンズ2008p133"/>。324年には両者は再び武力衝突に至った<ref name="ジョーンズ2008p133"/>。彼らは自分が基盤を置く宗教組織へ協力を求めたとされている。コンスタンティヌス1世はキリスト教の[[司教]]たちを呼び寄せ、自軍の兵士たちに至高の神への祈りを強制し、リキニウスは祭司、占い師、魔術師をエジプトから呼び寄せ神々に犠牲を捧げたという<ref name="ジョーンズ2008p134">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 134</ref>。

コンスタンティヌス1世とリキニウスはともに過去の内戦で動員されたよりもはるかに大きな兵力を擁していた{{refnest|group="注釈"|ジョーンズによればコンスタンティヌス1世はガリアとイリュリクムの兵力を中心とする練度の高い陸軍を120,000人、リキニウスは歩兵150,000人と[[フリュギア]]、[[カッパドキア]]から動員した騎兵15,000を集めたとされる<ref name="ジョーンズ2008p136">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 136</ref>。ただし海軍戦力はコンスタンティヌス1世が[[ガレー船]]200隻であったのに対し、リキニウスは350隻の艦隊を保持しており優勢であった<ref name="ジョーンズ2008p136"/>。ランソンは、コンスタンティヌス1世が騎兵10,000騎、歩兵120,000人と軍船200隻、輸送船2,000隻を持ち、リキニウスは165,000人の兵力を擁していたとするゾシモスの記録を紹介している<ref name="ランソン2012p32"/>。ただし、ランソンは両軍の実数は確実にもっと少ないとしている<ref name="ランソン2012p32"/>。}}。戦いはコンスタンティヌス1世の先制攻撃で始まり、彼は324年7月3日にアドリアノープル近郊に駐留していたリキニウス軍を攻撃した<ref name="ジョーンズ2008p136"/>。コンスタンティヌス1世自身が腿に負傷を追う激戦の末に彼は勝利を収め、リキニウスはビュザンティオンに退却した({{仮リンク|アドリアノープルの戦い (324年)|label=アドリアノープル(ハドリアノポリス)の戦い|en|Battle of Adrianople (324)}}<ref name="ジョーンズ2008p137">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 137</ref><ref name="ランソン2012p32"/>)。

リキニウスはビュザンティオンで{{仮リンク|諸局長官|en|Magister officiorum}}(''Magister officiorum''{{refnest|group="注釈"|name="諸局長官"|尚樹によればこの諸局長官(''Magister officiorum'')の設置はコンスタンティヌス1世によるものである<ref name="尚樹2005p45">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 45</ref>。しかし、ジョーンズはリキニウスの宮廷における諸局長官の地位に言及している<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。}})の{{仮リンク|マルティニアヌス (皇帝)|label=セクストゥス・マルキウス・マルティニアヌス|en|Martinian (emperor)}}を共同皇帝に擁立した<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。コンスタンティヌス1世はビュザンティオンを包囲したが、リキニウスは海上優位を活用して都市への補給を続けこれに耐えた<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。しかしコンスタンティヌス1世は同時に息子のクリスプスが指揮する艦隊に攻撃を命じており、リキニウスの海軍司令官アバントゥスの失策も手伝ってクリスプスが大勝を収め([[ヘレスポントスの海戦]])た。これによってビュザンティオンの維持を諦めたリキニウスはボスポラス海峡をわたって小アジアの[[クリュソポリス]](現:トルコ領[[ユスキュダル]]、イスタンブルの対岸)へと後退した。324年9月18日、クリュソポリスで最後の戦いが行われ、ここでもコンスタンティヌス1世が勝利を収めた<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。敗北したリキニウスは更に[[ニコメディア]]に逃れたが、そこで包囲され妻コンスタンティアを兄であるコンスタンティヌス1世の下へ送り助命を嘆願させた<ref name="ジョーンズ2008p137"/><ref name="ランソン2012p33">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 33</ref>。コンスタンティヌス1世はリキニウスとマルティニアヌスが命を保つことを認め降伏させた後[[テッサロニキ]]に送ったが、しばらく後に処刑した<ref name="ジョーンズ2008p137"/><ref name="ランソン2012p33"/>。後世の史料はリキニウスが蛮族を集め再起を図ったためにコンスタンティヌス1世が彼を処刑したのだとするが、実際のところは確たる理由はなくコンスタンティヌス1世の警戒心によるものであろう<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。少なくとも当時の人々にとってこの処刑が名誉ある行動ではなかったことは、コンスタンティヌス1世を称揚する教会史家[[エウセビオス]]がこの処刑を曖昧に書いていることなどから推測できる<ref name="ジョーンズ2008p138">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 138</ref>。

=== 単独の皇帝として ===
[[File:Constance II Colosseo Rome Italy.jpg|thumb|left|コンスタンティウス2世像]]

324年という年はコンスタンティヌス1世にとって、またローマ帝国にとって大きな転換点となる年である<ref name="ランソン2012p33"/>。リキニウスの死によって、コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌスによる帝権分割以来となる単独のローマ皇帝となった<ref name="ランソン2012p33"/>。彼は未だ7歳であった息子の[[コンスタンティウス2世]]を副帝に据え、新たな体制の構築に乗り出した<ref name="ランソン2012p33"/>。

帝国の政治・経済・文化の重心が東方へ移っていたことから、324年中にはコンスタンティヌス1世はボスポラス海峡に面する要衝の都市ビュザンティオンに着目し、自らの名前を与えてコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンティヌスの町)と改称することを決めた<ref name="ランソン2012p34">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 34</ref>。そして330年に(工事はまだ途中であったが)落成式が執り行われた<ref name="尚樹1999p27">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 27</ref>。また、ディオクレティアヌス以来続けられていた行政改革を引き継ぎ、中央政府組織を整備した<ref name="ランソン2012p31">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 31</ref>。[[元首制]]期の皇帝は個人的な友人・同僚たちの助言集団を持ったが、これは次第に公的なものとなり、3世紀の危機を経てディオクレティアヌスの時代には[[枢密院 (ローマ)|枢密院]](''consistorium''{{refnest|group="注釈"|name="consistorium"|原語名と和訳の対応は[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 156の索引に依った。ランソンは実際にはコンスタンティヌス1世の治世中はこの組織は顧問会(''consilium'')と呼ばれており、''consistorium''と呼ばれるようになるのはコンスタンティヌス1世死後であるとしている<ref name="ランソン2012p63">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 63</ref>。 本文中で枢密院としたのは尚樹の著作による。なお、''consistorium''の日本語訳は一定しない。尚樹は「枢密院」と訳すが、ランソンの著作を訳した大清水は「御前会議」の語をあてている。}})と呼ばれるようになった<ref name="尚樹1999p31">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 31</ref>。コンスタンティヌス1世はこの枢密院をより確固たる組織に仕立て上げ<ref name="尚樹2005p28">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 28</ref>、また、軍制改革を行い、この結果行政機関の文民部門と軍事部門の分離が進行した<ref name="ジョーンズ2008p218">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 218</ref>。財政面では純度の安定した[[ソリドゥス金貨]]を発行したことが特筆される<ref name="尚樹2005p34">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 34</ref>。従来からソリドゥスと呼ばれる金貨は発行されていたが、コンスタンティヌス1世は新たな基準でこれを発行した。この新貨幣は[[ノミスマ]]と呼ばれ、後に帝国の標準貨幣として流通することになる<ref name="尚樹2005p34"/><ref name="ジョーンズ2008pp221_222">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 221-222</ref>。

宗教面ではキリスト教の教義上の分裂の収拾を試みた。コンスタンティヌス1世はかつての迫害によってキリスト教の教会が被った損失の回復を行い、教会の庇護者として振る舞っていたが、帝国内のキリスト教には教義の差異が生じており、[[復活祭]]の日付もバラバラであった<ref name="ランソン2012p34"/>。そして彼が皇帝となった時には、アレクサンドリア[[司教]][[アレクサンドロス (アレクサンドリア司教)|アレクサンドロス]]と[[司祭]][[アリウス]]
(アレイオス)との間の論争に端を発して、東方の属州全域の司教たちを巻き込んだ分裂が生じていた<ref name="ジョーンズ2008pp141_142">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 141-142</ref>。コンスタンティヌス1世はこれに介入し、教義の細部に拘泥せず和解するよう促した<ref name="ジョーンズ2008pp147_149">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 147-149</ref>。しかし、この[[アリウス派]]と反アリウス派の対立が容易に解決する段階にないことが明らかとなると、325年5月20日に[[ニカイア]](ニケア)に数百名の司教を招集し、'''[[第1ニカイア公会議|ニカイア公会議]]'''(第1回全教会会議)を開催した<ref name="尚樹1999p45">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 45</ref><ref name="ランソン2012p34"/><ref name="ジョーンズ2008p157">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 157</ref>。コンスタンティヌス1世自らも議論に加わり、妥協的な結論を出すことが探られたが、結局アリウス派の排除が決定されると共に、他の各司教に共通の信条([[ニカイア信条]])を受け入れるよう圧力が加えられ、それが結論とされた<ref name="尚樹1999pp45_46">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], pp. 45-46</ref>。同時にローマ、アレクサンドリア、アンティオキアの教会の首位性の確認や、群小異端の禁止などが行われた<ref name="尚樹1999pp45_46"/>。しかしその後もコンスタンティヌス1世はアリウス派との妥協を模索し、アリウスの教会への復帰を認めた<ref name="尚樹1999p47">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 47</ref>。

==== クリスプス処刑とファウスタの変死 ====
{{multiple image|total_width=350
|image1=Crispus.jpg
|caption1=クリスプスのコイン
|image2=P1070865 Louvre tête de Fausta Ma4881 rwk.JPG
|caption2=ファウスタ像
}}
326年、コンスタンティヌス1世は妻ファウスタと息子のクリスプス(ファウスタの子ではない)を処刑した<ref name="ランソン2012p35">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 35</ref>。この謎の事件について知ることができることは限られている<ref name="ジョーンズ2008p236">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 236</ref>。偉大な皇帝の家庭内で発生したこの事件は同時代の著作家たちに「注意深く無視」(ジョーンズ)されており、現代に残された記録は後世に書かれたゴシップのようなものばかりのためである<ref name="ジョーンズ2008p236"/>。はっきりしていることは、この年に充分にその能力を認められていた長子クリスプスが処刑され、その後間もなく皇后ファウスタが変死したことである(ある噂では浴場で窒息死したという)<ref name="ジョーンズ2008p236"/><ref name="ランソン2012p35"/>。

残されたそうした噂の記録では、義理の息子クリスプスの人気に嫉妬したファウスタは、彼が自分との姦通を試みたとコンスタンティヌス1世に訴え出たためにクリスプスが処刑され、これに怒ったコンスタンティヌス1世の母ヘレナは、お気に入りの孫クリスプスの仇を討とうと、この醜聞で問題があったのはファウスタの方だとコンスタンティヌス1世に主張し、その結果としてファウスタも殺害されたのだという<ref name="ジョーンズ2008p236"/><ref name="ランソン2012p35"/>。また、ファウスタが官吏との間で姦通したという噂も残されている<ref name="ジョーンズ2008p236"/>。

326年4月25日の勅法でコンスタンティヌス1世が姦通を告発する権利を夫に限るという手を加えていることや、あるいは[[ソレント]]の碑文からファウスタとクリスプスの名前が削り取られていることなどの状況証拠が存在するため、現代の学者はこうしたゴシップめいた情報の史実性を完全に否定できるわけでもない<ref name="ジョーンズ2008pp236_239">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 236-239</ref><ref name="ランソン2012p35"/>{{refnest|group="注釈"|クリスプスの罪を考える上で、ジョーンズは326年4月1日に[[アクィレリア]]で発布された少女の誘拐について定めた奇妙な勅令を論拠に、クリスプスが無名の少女を誘拐して関係を持った可能性を推測している。この勅令は誘拐された少女がそれを進んで受け入れた場合、愛人と同じく罪を追うべきであり、拒否した場合でも(叫んで助けを求めることができたはずなので)なお罪を追うと定められている。そして少女の両親がこれを黙認した場合にはその両親も追放刑に処されるべきとされている<ref name="ジョーンズ2008p237">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 237</ref>。更に仲介役を担った[[奴隷]]は[[鉛]]で口を封じられるべきであるともされている<ref name="ジョーンズ2008p237"/>。この勅令の具体的な内容、発布された日付、ヒステリックな調子から、ジョーンズはこれがクリスプスに関連して出されたものであり、クリスプスが無名の少女を誘拐し、彼女の両親がそれを妥協によって処理しようとした可能性を推測している<ref name="ジョーンズ2008p237"/>。クリスプスは既婚者であり、しかも同時期に妻帯者が妾を持つことを禁止する法律(或いはこの事件に関連して発布されたものである可能性もある)が出されていることから、これが事実とすればクリスプスの罪は単なる醜聞以上のものであった<ref name="ジョーンズ2008p238">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 238</ref>。}}。

==== 対外遠征と崩御 ====
[[File:ConstantineEmpire.png|thumb|left|コンスタンティヌス1世崩御時のローマ帝国の勢力範囲。]]

330年代に入った頃、恐らくは側近である司教たちの影響を受けてコンスタンティヌス1世は宗教的な寛容さを失いつつあった<ref name="ランソン2012p36">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 36</ref>。また、既に複数の正帝のうちの1人であった頃から、軍におけるキリスト教の普及や教会への支援に熱心であったが、関心の多くが信仰に関する事柄に向けられるようになった晩年には宮廷のキリスト教化にも取り組んだ<ref name="ジョーンズ2008p214">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 214</ref>。官吏たちに対する演説をしばしば神の裁きについての話で締めくくり、数多くのキリスト教徒を新たに[[伯|コメス]](''Comes''、伯、総監)の身分に昇進させた<ref name="ジョーンズ2008p215">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 215</ref>。キリスト教信仰を告白することが皇帝の歓心を買う有効な手段であることは誰の目にも明らかとなり、いくつもの都市や村落がキリスト教への帰依を明らかにすることで皇帝からの恩寵を得た<ref name="ジョーンズ2008p215"/>。上流階級においても出世のために改宗する者が幾人も出てコンスタンティヌス1世のキリスト教徒に対する気前の良い分配の恩恵に預かった<ref name="ジョーンズ2008p215"/>。このような風潮については教会史家[[エウセビオス]]すら批判的な見解を述べている<ref name="ジョーンズ2008p215"/>。

内政面においては333年に息子の[[コンスタンス1世]]を、335年に甥の{{仮リンク|ダルマティウス|en|Dalmatius}}を副帝に任命した<ref name="ランソン2012p36"/><ref name="尚樹1999p29">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 29</ref>。ミネルウィナとの間の息子で殺害されたクリスプスを除き、既に副帝であったファウスタとの間の息子[[コンスタンティヌス2世]]、[[コンスタンティウス2世]]、[[コンスタンス1世]]の3名にダルマティウスを合わせて4人の副帝を擁する体制となった<ref name="ランソン2012p36"/><ref name="尚樹1999p29"/>。これは恐らく帝位継承の準備であったであろう<ref name="ランソン2012p36"/>。コンスタンティヌス2世がアジア・エジプトを、コンスタンティウス2世がガリアを、コンスタンス1世がイタリア・アフリカ・パンノニアを、ダルマティウスがトラキア・マケドニア・ダキア(ドナウ川流域)を、それぞれ分割して担当した<ref name="尚樹1999p29"/>。コンスタンティヌス1世が
このような処置をとったことは、結局のところ広大かつ複雑化したローマ帝国の統治が1人で担当可能なものでは無かったことを示している<ref name="尚樹1999p30">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 30</ref>。

対外的には統一後もコンスタンティヌス1世は熱心に軍事遠征を繰り返していた。328年に息子コンスタンティウス2世と共に[[ライン川]]方面で[[アレマン人]]と戦って勝利を収め、332年にはドナウ川で[[ゴート人]]を降伏させた。334年にはダキア方面で[[サルマタイ]]を破った<ref name="スカー1998p275">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 275</ref>。東方では[[アルメニア王国|アルメニア]]王[[ティグラネス5世]]が[[サーサーン朝]]の[[シャープール2世]]によって廃立され同国が占領されたことをきっかけにサーサーン朝との関係が悪化した<ref name="尚樹1999p30"/>。アルメニアの親ローマ派がアルメニアをローマ帝国に献上することを申し出たことを受けて、コンスタンティヌス1世は甥の[[ハンニバリアヌス]]をアルメニア王とした。この処置は将来のローマ帝国とサーサーン朝の戦争の原因となったが、実際に戦端が開かれるのはコンスタンティヌス1世崩御後のこととなる<ref name="尚樹1999p30"/><ref name="ランソン2012p36"/>。コンスタンティヌス1世の統治最後の3年間はサーサーン朝への遠征の準備に費やされ、ペルシア人をキリスト教に転向させ、また彼が[[イエス・キリスト|キリスト]]と同じように[[ヨルダン川]]で[[洗礼]]を受ける計画が立てられた<ref name="スカー1998p276">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 276</ref>。しかし337年の復活祭の直後、コンスタンティヌス1世は体調を崩して倒れ、この計画を実行に移すことは不可能となった<ref name="スカー1998p278">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 278</ref>。神学者[[ヒエロニムス]]が伝えるところによると、死期を悟ったコンスタンティヌス1世は崩御する少し前に[[洗礼]]を受けた。当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった<ref group="注釈">この時代には幼児の洗礼は未だ習慣化されていなかった(幼児洗礼は、初めは非常時のみ行われていた。この頃には幼児洗礼を受けるものも増えていたが、これはキリスト教徒として生きるという重みを持った選択というよりは、将来キリスト教にしたがう予定という意味合いだった)。自らの意思で洗礼を受ける成人は、神の贖罪により身を守るという信心をはっきりと宣誓した。聴衆に洗礼を促す聖職者と洗礼を放棄した者との板ばさみになったりして、様々な理由から、年をとるか死の間際になるかまで洗礼を待つ者もいた(Thomas M. Finn (1992), ''Early Christian Baptism and the Catechumenate: West and East Syria'' および Philip Rousseau (1999). "Baptism", in ''Late Antiquity: A Guide to the Post Classical World'', ed. Peter Brown)。</ref>。そして同年の聖霊降臨祭の日(5月22日)にニコメディア近郊の[[アンキュロナ]]の離宮で崩御した<ref name="スカー1998p278"/>。

コンスタンティヌス1世の遺体は紫衣に包まれた金棺に納められてコンスタンティノープルに運ばれ、高官たちの礼拝を受けた後に諸使徒聖堂に安置された<ref name="スカー1998p278"/><ref name="尚樹1999p48">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 48</ref>。伝統的なローマの葬儀ではなくキリスト教の作法による葬儀が行われ、キリストの12人の使徒たちの石棺(遺体は安置されていないハリボテであったが)の中央に13番目としてコンスタンティヌス1世の棺が安置された<ref name="スカー1998p278"/>。これは彼のキリスト教信仰を明白に示すものであり、その業績とキリスト教公認とによって死後も「大帝」の贈り名とともに記憶され、また「使徒に等しき者(亜使徒)」として列聖された<ref name="尚樹1999p48"/>。ローマ市は皇帝が埋葬地としてローマではなく新たな都コンスタンティノープルを選んだことに反発した。そしてコンスタンティヌス1世がキリスト教徒であることが周知であるにもかかわらず、ローマの元老院はそれまでの皇帝と同じように彼自身にローマの神々の一員たる名誉を与えた<ref name="スカー1998p279">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 279</ref>。


=== 後継者 ===
=== 後継者 ===
コンスタンティヌスの後継者には彼とファウスタの間に生まれた息子3人、すなわち長兄の[[コンスタンティヌス2世]]、次兄[[コンスタンティ2]]、末弟[[コンスタンス1世]]がり、また、コンスタンティヌス1世のである[[ダルマティウス]]と[[ハンニバリアヌス]]にも領土と副帝の地位が分け与えられた後継者となっ正帝3人はそれぞれ、コンスタンティヌス2がブタニアガリア・イスパニアの帝国西方を、コンスタンティウス2世がビュザンティンをはじめとする、小アジアア・ジプといっ帝国東方、コンスタンス1世がイリア半島を中心にイリュリクムやギリシア北アフリカをそれぞれ統治することとなり、ダルマティは[[モエシア]][[トラキア]]を統治区域とした。これにより、コンスタンティの遺児は当初のコンスタンティヌス1世と同じよう帝国分割統治することなった。
コンスタンティヌス1世崩御後、激しい権力闘争が行われたコンスタンティノープル軍団はコンスタンティ1世の息子以外に皇帝たるべき人物はいいと主張して暴動を起こし、コンスタンティヌス1世の兄弟{{仮リンク|フラウィウス・ダルマティウス|en|Flavius Dalmatius}}とその息子である副帝ダルマティウスおよびアルメニア王ハンニバリアヌスを殺害した<ref name="尚樹1999p52">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 52</ref>たコンスタンティヌス1の別の兄弟[[ユウス・コンスタンティウス]]も殺害され、他にプタトゥスリエ道長官[[アブラビウス]]なども処刑され<ref name="尚樹1999p52"/>。3ヶ月にわたるこの混乱の空位期間の後、コンスタンティヌス1世とファウスの間の息子[[コンスタンティ2世]][[コンスタンティ2世]]、[[コンスタンス1世]]が337年9月9日揃って自ら正帝宣言し<ref name="尚樹1999p52"/><ref name="スカー1998p282">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 282</ref>


後継者となった正帝3人はそれぞれ、コンスタンティヌス2世がブリタニア・ガリア・ヒスパニアの帝国西方を支配し、残りの2名はダルマティウスの支配地も分割してコンスタンティウス2世が[[トラキア]]・[[ポンティカ]]・アジア(アシアナ)、オリエンス(シリア・エジプト)を、コンスタンス1世が[[パンノニア]]・[[イタリア]]・[[アフリカ]]・[[ダキア]](ドナウ川流域)・[[マケドニア]]を支配することになった<ref name="尚樹1999p52"/>。一応コンスタンティヌス2世が帝国全土に対する権威を保有していたが、この体制は長続きしなかった<ref name="尚樹1999p52"/><ref name="スカー1998p282"/>。340年、コンスタンティヌス2世は自らの権威を愚弄したとして弟コンスタンス1世の支配するイタリアへ侵攻したが[[アクィレイア]]で敗北して崩御した<ref name="尚樹1999p53">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 53</ref><ref name="スカー1998p283">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 283</ref>。これによってコンスタンス1世がその遺領も掌中に収め、帝国全土の3分の2を支配するに至った<ref name="尚樹1999p53"/><ref name="スカー1998p283"/>。その後10年余りの詳細な経過は不明であるが、コンスタンス1世の支配地ではブリタニアやアフリカで紛争が絶えず、他方のコンスタンティウス2世もサーサーン朝との間に勃発した戦争に忙殺されていた<ref name="尚樹1999p53"/>。そして350年1月、皇帝領伯[[マルケリヌス]]と[[ゲルマン人]]の血を引く将軍[[マグネンティウス]]による陰謀によってコンスタンス1世が殺害され、マグネンティウスが皇帝を称した<ref name="尚樹1999p53"/>。同年3月1日にはイリュリクムでコンスタンス1世配下の歩兵軍司令官であった[[ヴェトラニオ]]も皇帝を称し、コンスタンティヌス1世の甥であった[[ネポティアヌス]]もローマ市を占領して皇帝を名乗った<ref name="尚樹1999p53"/>。
しかし、コンスタンティヌス1世の死後、コンスタンティウスの支持者によって[[ダルマティウス]]と[[ハンニバリアヌス]]をはじめとする多くの血縁者が殺害された。ダルマティウスの統治区域のうちモエシアをコンスタンス1世に、トラキアをコンスタンティウス2世に再分配してふたたび3帝による統治が始まったものの、長兄のコンスタンティヌス2世はこの配分に不満を持ち、末弟のコンスタンス1世の領域へ[[340年]]に進攻したものの、アクィレイア近郊での戦いによってコンスタンティヌス2世は敗北し、命を落とした。しかしコンスタンス1世も[[マグネンティウス]]による反乱により死亡し、結局[[353年]]にコンスタンティウス2世がマグネンティウスを滅ぼして帝国を再統一するまで、コンスタンティヌス1世の死後15年にも及ぶ内戦が勃発することとなった。彼には2人の娘コンスタンティアーナ(307年以後から317年以前 - 354年)とヘレナがおり、ヘレナは[[ユリアヌス]]帝の妻となった。ヘレナがいくつか年上であったらしい。ヘレナはユリアヌスの子の死産を二度繰り返した後は健康が優れず、[[ガリア]]の地で360年に亡くなった(没年齢は不明)。この死産時の子供達以外にこの2人の間に子女は確認できない。コンスタンティアーナは初め、アルメニア王位を約束されていた副帝[[ハンニバリアヌス]]と結婚、337年に[[ハンニバリアヌス]]がコンスタンティウス2世に殺害された後は未亡人となってローマに居を移し、同母兄弟コンスタンス1世を殺害した[[マグネンティウス]]と連絡を取り合って接近した。動機は夫を殺されたこと、アルメニア王妃の地位を奪われたことであり、コンスタンティウス2世を憎悪していたのである。マグネンティウスと結婚すれば、帝国西方の支配者の妻となれるという計算もあったのかもしれない。マグネンティウスにとっても、コンスタンティヌス1世の実の娘を妻とするメリットを知っていた。この策略を阻止する為にコンスタンティウス2世は、351年にコンスタンティアーナはユリアヌスの異母兄であり、副帝に任命した[[コンスタンティウス・ガッルス]]と再婚させられた。コンスタンティアーナの方がいくつか年上であったらしい。一人娘アナスタシアを儲けたが、このアナスタシアの生涯については、両親が結婚した351年から父ガッルスが殺害される354年の間に生まれたということや結婚してその血筋が[[東ローマ帝国]][[皇帝]][[アナスタシウス1世]]とその弟妹(及び弟妹の子孫)に繋がったこと以外、知られていない(もしくはそれしか推測できない)。354年、ガッルスはコンスタンティウス2世からミラノへ招聘された。ガッルスは招聘が召喚であることが分かっており、コンスタンティウス2世の実の姉妹だからと、妻コンスタンティアーナを弁護役にし、先にミラノへ発たせた。しかし、コンスタンティアーナはシリアからイタリアへの長旅の途中で病に倒れ、病死した(没年齢は不明)。ガッルスも宦官エウセビウスの策略により[[ポーラ]]で処刑された。残されたユリアヌスも363年のペルシア戦役にて投槍を受け、陣中で死去。後継にはユリアヌスとは血縁が無い[[ヨウィアヌス]]が選ばれ、適当な男子が無かったコンスタンティヌス朝は断絶した。


ネポティアヌスは間もなくマグネンティウスによって滅ぼされ、マグネンティウスとヴェトラニオは共にコンスタンティウス2世に正式な正帝としての承認を求めた<ref name="尚樹1999p53"/>。マグネンティウスは和解を演出するためにマルケリヌスを使者としてコンスタンティヌス1世の娘{{仮リンク|フラウィア・ウァレリア・コンスタンティナ|label=コンスタンティナ|en|Constantina}}との結婚、およびコンスタンティウス2世に自身の娘を嫁がせることを提案した<ref name="ギボン1996p143">[[#ギボン 1996|ギボン 1996]], p. 143</ref>。コンスタンティウス2世はマグネンティウスの地位を断固として認めず、またヴェトラニオは退位と引き換えに年金を得ることで合意し、皇帝を退いた<ref name="尚樹1999p53"/><ref name="スカー1998p283"/>。コンスタンティウス2世は甥の[[コンスタンティウス・ガッルス]]を副帝にして東方を任せ、マグネンティウスも兄弟の[[デケンティウス]]を副帝にしてガリア統治を委任し、両者は互いにバルカン半島へと進軍した<ref name="尚樹1999p53"/><ref name="スカー1998p283"/>。351年9月28日、[[ムルサの戦い]]でコンスタンティウス2世が勝利を収めた<ref name="尚樹1999p53"/><ref name="スカー1998p283"/>。マグネンティウスはイタリアを経てガリアへ引いたが、353年の夏、[[モンス=セレウクスの戦い]]で敗れコンスタンティウス2世が帝国を再統一した<ref name="尚樹1999p53"/><ref name="スカー1998p283"/>。
その後、コンスタンティヌス朝の血統自体は存続。ヨウィアヌスの後を継いだ[[ウァレンティニアヌス1世]]の後妻ユスティナは、ユストゥスという男性とガッルスの同母姉妹(ユリアヌスの異母姉妹)の娘でマグネンティウスの妻だった女性であり、ウァレンティニアヌス1世との間に、[[ウァレンティニアヌス2世]]、グラタ、ユスタ、ガッラの1男3女を儲け、ガッラは[[テオドシウス1世]]の後妻となり、グラティアヌス、[[ガッラ・プラキディア]]、ヨハネスの2男1女の母となった。この内、ガッラ・プラキディアのみが子孫を残し、その血筋は少なくとも6世紀の終わりまで、コンスタンティノープルのローマ貴族であり続けた。一方、コンスタンティウス2世の一人娘で、その死後に生まれたコンスタンティアは皇統の連続性と継続性を示す為にウァレンティニアヌス1世の長男でウァレンティニアヌス2世の異母兄[[グラティアヌス]]と結婚。男子を儲けたが、この男子の消息は不明である。


==== その他の子孫 ====
== コンスタンティヌス1世とキリスト教 ==
コンスタンティヌス1世には2人の娘がいた。1人は先述の{{仮リンク|フラウィア・ウァレリア・コンスタンティナ|label=コンスタンティナ|en|Constantina}}(コンスタンティアとも、? - 354年)であり、もう1人は[[ユリアヌス]]帝の妻となったヘレナである。ヘレナはユリアヌスの子の流産と死産を繰り返した後は健康が優れず、[[ガリア]]の地で360年に亡くなった(没年齢は不明)。この死産時の子供達以外にこの2人の間に子女は確認できない<ref name="松原2010p1498">[[#松原 2010|西洋古典学事典]], p. 1497 コンスタンティヌス朝関係系図より</ref><ref name="ギボン1996p171_172">[[#ギボン 1996|ギボン 1996]], p. 180</ref><ref name="アンミアヌスマルケリヌス">[[#アンミアヌス・マルケリヌス|アンミアヌス・マルケリヌス]],『ローマ帝政の歴史』</ref>。コンスタンティナは初め、アルメニア王位を約束されていた副帝[[ハンニバリアヌス]]と結婚した。337年にハンニバリアヌスがコンスタンティウス2世に殺害された後はローマに居を移し、同母兄弟コンスタンス1世を殺害した[[マグネンティウス]]と連絡を取り合って接近した。その後、コンスタンティウス2世は351年にコンスタンティナを[[コンスタンティウス・ガッルス]]と再婚させた。彼はユリアヌスの異母兄であり副帝に任命されていた。コンスタンティナはガッルスとの間に一人娘アナスタシアを儲けた。354年、ガッルスはコンスタンティウス2世からミラノへ招聘された。ガッルスは招聘が召喚であることを分かっており、コンスタンティウス2世の実の姉妹であることに望みを繋いで妻コンスタンティナを弁護役にし、先にミラノへ発たせた。しかし、コンスタンティナはシリアからイタリアへの長旅の途中で病に倒れ、病死した(没年齢は不明)。ガッルスも宦官エウセビウスの策略により[[プーラ (クロアチア)|ポーラ]]で処刑された<ref name="ギボン1996pp171_172">[[#ギボン 1996|ギボン 1996]], p. 171_172</ref><ref name="アンミアヌスマルケリヌス"/>。
コンスタンティヌス1世は、初めての[[キリスト教徒]]皇帝として有名である。それ以前のローマ帝国では、[[ネロ]]帝(54年 - 68年)のキリスト教徒迫害に始まり、[[ディオクレティアヌス]]帝(284年 - 305年)の迫害まで、何度かキリスト教が迫害を受ける時期があった。そんな一部の時期を除くほとんどの間、キリスト教徒であることは黙認されていたが、発覚した場合は改宗を迫られ拒絶した者は処刑された。


== 統治 ==
5世紀の歴史家{{仮リンク|ソゾメノス|en|Sozomen}}によると、コンスタンティヌスはガリアまたはブリタンニアの辺りに駐在している間、現地で広まっていたキリスト教の洗礼を受けたという。ただし、洗礼の時期については、当時の風習に従い死の直前だったという説もある。コンスタンティヌスは自らキリスト教を信仰しただけではなく、宮殿でもキリスト教を広めようとした。コンスタンティヌスがキリスト教を広めた理由について、哲学者[[バートランド・ラッセル]]を始めとする多くの歴史家は、キリスト教の持つ組織力に目をつけたためだと指摘している。
=== 建設活動 ===
==== コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)建設 ====
{{Location map+|Mediterranean|width=450|float=right|caption={{Center|コンスタンティヌス1世と関係する地中海の都市}}|places=
{{Location map~|Mediterranean|lat=41.01|long=28.96|label=コンスタンティノープル|label_size=80|position=top|mark=Red pog.svg}}
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}}
324年、彼はボスポラス海峡に面する要衝の都市ビュザンティオン(ビュザンティウム)に自らの名前を与えコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンティヌスの町)と改称した<ref name="ランソン2012p34">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 34</ref>。この都市は海陸が交叉する地理上の要衝であり、ドナウ川の国境とアジアの国境の双方へ睨みを利かせる拠点として優れていたことに加え、ローマ帝国の政治・経済・文化の重心が東方へと移っていたことがこの選択に繋がった<ref name="尚樹1999p27">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 27</ref>。母なる都市ローマを模して7つの丘が定められ14区が設置されたという<ref name="尚樹1999p27"/>{{refnest|group="注釈"|南雲泰輔によれば、ローマ市をモデルにして7つの丘を定めたという話は、この都市が「新たなるローマ」として建設されたという説明の典型であるが、後代の後付けである。コンスタンティヌス1世の治世には市内に丘は6つしかなく、7つ目の丘が市内に組み込まれたのは[[テオドシウス2世]](在位:408年-450年)の治世に入ってからのことになる<ref name="南雲2019p150">[[#南雲 2018|南雲 2018]], p. 150</ref>。}}。また、元老院や聖堂、広場([[フォルム]])、[[宮殿]]やその他の公共施設が建設された<ref name="尚樹1999p27"/>。工事の完了を待たず、330年5月11日には落成式が執り行われた<ref name="尚樹1999p27"/>。


コンスタンティノープル建設はコンスタンティヌス1世の政策の中でも後世の歴史に最も大きな影響を残したものの1つであり、「新たなるローマ」として建設されたと後世の記録は伝えるが<ref name="井上2008p42">[[#井上 2008|井上 2008]], p. 42</ref>、同時代の記録者たちはコンスタンティノープルの建設にほとんど注意を払っていない<ref name="ジョーンズ2008p226">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 226</ref>。実際には新たなるローマという認識は建設当時には無かったとも言われている<ref name="井上2008p42"/>。これは当時属州の都市に皇帝が名前を付けることはあり触れたことであったためであろう<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。皇帝が都市に自分の名前を与えるのは、初代[[アウグストゥス]]の頃から繰り返されてきたことであり、ローマ帝国の領内は皇帝の名を与えられた都市がひしめいていた<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。また、ローマ帝国の重心が東に移っていることも周知のことで、コンスタンティヌス1世の姿勢は特に特殊なものではなく、既にディオクレティアヌスやガレリウスといった上位の正帝がニコメディアを中心に、東方に拠点を構えて滞在し続ける状況は何十年も継続していた<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。当時ローマは首都長官(''Praefectus urbi'')の管理下に置かれ、精神的な面を含めて首都であることに変わりなかったが、行政の中心としての役割を果たさなくなって久しく、実質的な行政府は前線で外敵と(そしてしばしば内戦を)戦う皇帝たちに付随して移動していた<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。皇帝がローマ市に立ち寄ることは滅多になく、平時にはそれぞれの任地の都市に建設した宮殿に居住しており、コンスタンティヌス1世も西の正帝であった頃は[[トリーア]]に住み、イリュリクムを平定した後には[[ソフィア (ブルガリア)|セルディカ]](現:ブルガリア領ソフィア)を「我がローマ」と言ったと伝えられる<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。
伝説によると、コンスタンティヌスが改宗したのは、神の予兆を見たためと伝えられる。伝説では、コンスタンティヌスは、312年のミルウィウス橋の戦いに向かう行軍中に太陽の前に逆十字<ref group="注釈">シンボリスム的解釈では、十字(架)が太陽の象徴であるのに対し、逆さ十字(架)は金星(明けの明星)の象徴である。</ref>とギリシア文字 Χ と Ρ(ギリシア語で「キリスト」の先頭2文字)が浮かび、並んで「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見た。この伝説は[[ラクタンティウス]]などいくつかの資料で詳しく伝えられているが、4-5世紀頃の文献に多く現れる神の予兆や魔法などの話のひとつである。ちなみに、この後のローマ軍団兵の盾にはそれを模った紋章が描かれたという。


上記のようにコンスタンティヌス1世が実際にコンスタンティノープルを「新たなローマ」として建設したのかは定かではないが、しかし一般的な都市よりは特別な存在に仕立て上げられたことも事実であった<ref name="ジョーンズ2008p227">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 227</ref>。新都市建設にあたっては惜しみない費用がかけられ、建築部材や装飾用の美術品を求めて各地の神殿から略奪が行われた<ref name="ジョーンズ2008p227"/>。その市域は既存のビュザンティオンの3.5倍にも拡張され、都市を囲う城壁や宮殿も用意された<ref name="ランソン2012p122">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 122</ref><ref name="芳賀ら2017pp486_488">[[#芳賀ら 2017|芳賀ら 2017]], pp. 486-488</ref>。ローマ市よりは明確に格下であったにせよ、一般的な属州都市よりは高い法的地位が与えられ、ビュザンティオンの[[都市参事会]]を改組して[[元老院]]が置かれた<ref name="ジョーンズ2008p227"/>。ローマの元老院議員は爵位としてクラーリッシムスだったのに対しコンスタンティノープルの元老院は格下のクラールスとされた<ref name="ジョーンズ2008p227"/><ref name="尚樹1999p36">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 36</ref>。両都市の位置付けが法的に対等となるのはコンスタンティウス2世の治世であり<ref name="尚樹1999p36"/>、実際にコンスタンティノープルが事実上の「首都」として機能し始めるのは[[テオドシウス1世]](在位:379年-395年)の治世のことである<ref name="南雲2019p137">[[#南雲 2018|南雲 2018]], p. 137</ref>。
のちに「[[コンスタンティヌスの寄進状]]」という文書が偽造され、ヨーロッパ史に影響を及ぼした。


コンスタンティヌス1世自身が真実この都市をどのように位置づけていたかを窺い知ることができる史料はほとんど残されていない。「神の命令によって」行動した結果であるとしている勅法は存在するが、これは単に敬虔さを示す修辞としての要素が強いであろう<ref name="ジョーンズ2008p228">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 228</ref>。異教に汚されることのない、聖別されたキリスト教の都市として神に捧げられたものであったとする見解もあるが<ref name="ジョーンズ2008p228"/>、コンスタンティノープルにおいて[[テュケー]](幸運)や不敗太陽神([[ソル・インウィクトゥス|ソル]])崇拝などの伝統的要素が完全に排除されたわけでもなかった<ref name="ランソン2012p124">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 124</ref>。ただし、実際がどうであれ、後世成立する[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)が1453年に[[オスマン帝国]]に征服されるまで、この都市を舞台にして「ローマ帝国」は継続した。そしてこの都市は[[正教会]]の総本山でありキリスト教世界の中心の一つとして機能した。
なお、コンスタンティヌス1世を[[正教会]]は「亜使徒聖大帝コンスタンティン」として記憶する事は冒頭に述べた通りであるが、[[日本正教会]]の宇都宮ハリストス正教会の会堂は「亜使徒聖大帝コンスタンティン及び聖大后エレナ会堂」であり、コンステンティヌス1世と母太后ヘレナを記憶している<ref>[http://www.orthodoxjapan.jp/annai/t-utsunomiya.html 宇都宮ハリストス正教会・亜使徒聖大帝コンスタンティン及び聖大后エレナ会堂]</ref>。


==== ローマ ====
== コンスタンティヌス1世の功罪 ==
[[File:Arch of Constantine at Night (Rome).jpg|thumb|コンスタンティヌス1世の凱旋門]]
名君として称揚されることの多いコンスタンティヌス1世ではあるが、それらは多分に後世のキリスト教的史観による。例えば降伏した[[リキニウス]]とその息子[[リキニウス2世]]や、リキニウスとの戦いの中で優れた才覚を示し、兵士たちに絶大な人気のあった長男クリスプスをローマ再統一後に突如幽閉して殺したことなどは、[[エウセビオス]]など古代のほとんどのキリスト教歴史学者からは無視される傾向にある。


ローマ皇帝として、コンスタンティヌス1世は真の首都ローマでも活発な建設活動を行った。ローマ市に入場した後、当然のことながら彼は自身の皇帝としての威光を建造物で示そうとした。315年には[[コンスタンティヌスの凱旋門]]が建設された<ref name="青柳1992p389">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 389</ref><ref name="芳賀ら2017pp481_485">[[#芳賀ら 2017|芳賀ら 2017]], pp. 481-485</ref>。[[セプティミウス・セウェルスの凱旋門|セプティミウス・セウェルス凱旋門]]を模したこの凱旋門はローマ世界最大の凱旋門であり、過去の建造物から転用された浮彫彫刻で装飾された<ref name="青柳1992p389"/>。まずマクセンティウスを破ってローマに入場した後、マクセンティウスが建造を始め、ほぼ完成していたバシリカを[[マクセンティウスのバシリカ|コンスタンティヌスのバシリカ]]と改名して集会や謁見に用いた<ref name="青柳1992p390">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 390</ref><ref name="芳賀ら2017pp481_485"/>。
「ノウァ・ローマ」と名づけられた後のコンスタンティノポリスも美しい都ではあったが、戦乱後のローマにはそのような華美な都を建設するだけの財力はなかったので、そこに設置された彫刻などの多くはローマ市や各地にあったものを撤去して移送しただけのものであった。また、コンスタンティヌス1世は農民が生まれた土地から離れてはならないと定めることによって都市部への人口の流入を防ぎ、財政収益の安定を図った。これは後世の[[封建制]]の始まりとも言えるが、皇帝の権威を高めるためにキリスト教と結びつき華麗な式典を行った一方で、農村では重税に喘ぐ農民たちの姿があった。さらに、豪華な宮廷などの東方化に伴い[[宦官]]もはびこるようになる。


これ以外にも、ローマでキリスト教建築を大々的に設置した。コンスタンティヌス1世が首都で本格的に新しく建設した最初の建物は[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂|救世主のバシリカ]]と呼ばれる大聖堂である<ref name="青柳1992p391">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 391</ref>。これはかつて[[ラテラヌス家]]が所有していた大邸宅の跡地に建てられたもので、312年から建設が始められローマの大司教座教会堂とされ、現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の前身となった<ref name="青柳1992p391"/>。また、母ヘレナがエルサレムで取得した聖遺物を奉納するためにヘレナの邸宅であったパラティウム・セッソリアヌムを改築して聖堂とした。これは現在の[[サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂]]の前身となっている<ref name="青柳1992p391"/>。上記はローマの城壁内に建造されたものであるが、城壁外にもバシリカ・アポストロルム(使徒聖堂、現:{{仮リンク|サン・セバスチアーノ教会|en|San Sebastiano fuori le mura}})、[[サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂]]、サン・ペトリ・イン・ウァティカノ([[サン・ピエトロ大聖堂]])などを建造した<ref name="青柳1992p392">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 392</ref>。
またコンスタンティヌス1世がキリスト教に帰依したのも政略にキリスト教を利用しようとした側面が非常に大きい。西ローマを治めるコンスタンティヌス1世がキリスト教に対して寛容な政策をとることで、ライバルのリキニウスとキリスト教徒との折り合いを悪くすることが目的であったといわれる。また、「[[カエサルのものはカエサルに]]」という言葉に示されるように、定められた現世の運命を受け入れることを是とするキリスト教の教義は相次ぐ内乱によって弱体化した皇帝の権威を強化するのに非常に適していた。キリスト教は東洋における[[儒教]]のような役割を果たしたとされる。


こうしたキリスト教建築は城壁外の、郊外の地でより活発に行われた。帝国の首都ローマは伝統的宗教の牙城であり、それ故に少なくとも入城当初のコンスタンティヌス1世は古くからの神ユピテルへの配慮を見せていた。このため、新たなキリスト教建築はローマ市民の反応を見ながら進められ、また目立たない場所での実施が中心になったためである<ref name="青柳1992p393">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 393</ref>。郊外が選ばれたもう一つの理由には、ローマ市の中心部は既に数世紀に渡る建築活動で建設された公共建造物がひしめいており、必要な用地を容易に確保できなかったことがある<ref name="青柳1992p395">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 395</ref>。既存の建造物の転用には様々な困難があり、また市民の反発を受ける可能性も無視できなかった<ref name="青柳1992p395"/>。これらのことが、新たな都市コンスタンティノープルへの「遷都」を決定付けた理由の1つであるという見解もある<ref name="青柳1992p396">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 396</ref>。
コンスタンティヌス1世は[[第1ニカイア公会議]]で[[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシウス派]]と[[アリウス派]]のどちらを正当とするかの論争に決着を付けたが、彼自身はそれらの教義の違いを明確には理解しておらず、判断の基準となったのはそれぞれの支持者の数だけであったという。


==== トリーア ====
ローマ皇帝でありながらローマを軽視したコンスタンティヌス1世に少なからず反感を抱く者も多く、キリスト教徒でありながら神格化されたのも、それに対する市民のささやかな反抗であったとも言われる。
[[File:Trier Kaiserthermen BW 1.JPG|thumb|コンスタンティヌス1世によって建造された[[トリーア]]の公衆浴場([[テルマエ]])]]


306年に副帝に即位して以来、西方の皇帝としてコンスタンティヌス1世が拠点としていた[[トリーア]]では、お膝元として大規模な整備が行われた<ref name="ランソン2012p117">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 117</ref>。皇帝や皇后、息子クリスプスの住居や、浴場、円形闘技場、大掛かりなバシリカも建造され、バシリカにはお湯を流して温める床暖房も供えられていた<ref name="ランソン2012p117"/>。コンスタンティヌス1世の宮殿[[アウラ・パラティナ]]は、後に[[フランク王国]]の[[カール大帝|カール1世]](大帝)が[[アーヘン]]の宮殿を建造する際の参考にされたとも言われる<ref name="加藤益田2016pp197_201">[[#加藤, 益田 2016|加藤, 益田 2016]], pp. 197-201</ref>。トリーア近郊には夏用の[[ヴィッラ]]も建造された<ref name="ランソン2012p117"/>。
== 年譜 ==

* [[272年]] - 誕生。当時、父コンスタンティウス・クロルスはまだ士官であった。
==== その他の都市 ====
* [[292年]] - 宮廷に送られ、ディオクレティアヌスや後に東の正帝となった[[ガレリウス]](在位:[[305年]] - [[311年]])に従軍する。
複数の町がコンスタンティヌス1世によって再建され、彼やその家族の名を与えられたと伝わる。そのような都市には現在の[[フランス]]にある[[オータン]](フラウィア・アエドゥオルム)、現在の[[アルジェリア]]にある[[キルタ]](コンスタンティナ、現:[[コンスタンティーヌ]])などがある<ref name="ランソン2012pp117_121">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 117-121</ref>。また、コンスタンティヌス1世は323年から324年にかけて現在のギリシアにある[[テッサロニキ]]に滞在した際、この町を非常に気に入り、巨大な教会や港湾、浴場など数多くの建物を建てたという<ref name="ランソン2012pp117_121"/>。
* [[306年]] - ガレリウスの下から、西の正帝でブリタンニア滞在中の父クロルス(在位:[[305年]] - [[306年]])のところへ向ったが、クロルスが死去。ガレリウスの部下[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス|セウェルス]]が西の正帝となり、コンスタンティヌスは副帝となった。

* [[312年]] - [[イタリア]]・[[北アフリカ]]を制圧していた簒奪皇帝[[マクセンティウス]]を[[ミルウィウス橋の戦い]]で破り[[ローマ]]へ入城、西方の正帝となる。
=== 内政 ===
** この戦いの前にコンスタンティヌスは光り輝く[[十字架]](ギリシア語でキリストを意味する Χ と Ρ の組み文字である[[ラバルム]]という説もある)と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見たため、十字架を旗印として戦いに勝利し、これがきっかけでキリスト教を信仰するようになったと言われている。
コンスタンティヌス1世は多岐にわたる制度改革を実施した<ref name="尚樹1999p30">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 30</ref>。一連の改革によって構築された政府機構は後の[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)の政府の原型となり、「初期ビザンツの中央政府組織はほぼ彼の時代に形造られた」(尚樹啓太郎)とも評される<ref name="尚樹1999p30"/>。一連の改革はディオクレティアヌスが行っていた帝国の再編を継承したものでもあり、また軍事部門の再編と行政の再編を通じて国政を組織化し分担することで帝国の統一を維持しようとしたものであった<ref name="尚樹1999p31">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 31</ref>。
* [[313年]] - ミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認。

* [[324年]] - 東方の正帝[[リキニウス]]を破り、全ローマ帝国の単独皇帝となる。
==== 官職の整備 ====
* [[325年]] - キリスト教徒間の教義論争を解決するために初の[[公会議]]である[[第1ニカイア公会議]]を開催、[[アリウス派]]を異端と決定し、皇帝がキリスト教の教義決定に介入する嚆矢となった。
ディオクレティアヌス時代に整備された中央政府の組織はコンスタンティヌス1世治下で更に発展・整備された。宮廷には皇帝の飲食・衣装・ベッドメイクなど家政部門を担う'''寝室'''(''Cubiculum'')があったが、コンスタンティヌス1世時代にはそれを統括する宮内長官(''Praepositus Sacri Cubiculi'')とその補佐役である執事長(''Castrensis sacri palatii'')が置かれてこの組織を管理した<ref name="ランソン2012pp62_63">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 62-63</ref>。
* [[330年]] - ローマから[[バルカン半島]]のビュザンティオンに遷都し、「ノウァ・ローマ(新ローマ)」と改称。

* [[337年]] - [[アナトリア半島|小アジア]]の[[ニコメディア]]で[[洗礼]]を受け、その直後に死去。
旧来からの枢密院(''Consistorium''<ref group="注釈" name="consistorium"/>)では書記官長の役割が強化され、上級役職者や軍司令官への将軍への命令は書記官長から出されるようになった<ref name="尚樹1999p31"/>。文武官の長は伯(総監、''Comes'')の地位を与えられそのメンバーとなった<ref name="ランソン2012p63"/>。この組織が重要方針の策定や役人の任命を担った<ref name="ランソン2012p63"/>。

[[ファイル:Notitia dignitatum - insignia praefecti praetorio per illyricum.jpg|right|thumb|イリュリクム道(''Praefectura praetorio per Illyricum'')の記章。各道に近衛長官(道長官)が置かれた。]]
また、3世紀の危機の間に大きな権威を持つようになっていた近衛長官(''Praefectus praetorio'')の地位にも変更が加えられた。この役職は制度的には元来軍事面における皇帝の私的な使用人に過ぎなかったが、この頃までに司法や徴税、経済などの分野まで統括するようになり、皇帝に次ぐ権威・権力を保持して皇帝不在時にはその代理のような役割を果たすようにもなっていた<ref name="豊田1994p60">[[#豊田 1994|豊田 1994]], p. 60</ref><ref name="レミィ2010p62">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 62</ref><ref name="尚樹1999pp31_32">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], pp. 31-32</ref>。それだけにこの地位にある者の役割は重要であり、皇帝にとっては常に警戒を要する存在であった<ref name="豊田1994p60"/>。コンスタンティヌス1世は新たに軍事長官(''Magister militum'')を設置し、近衛長官の職務内容を主として特定の地方における徴税・司法・行政・郵便・経済などの分野に限って文官化を目論んだ<ref name="豊田1994p62">[[#豊田 1994|豊田 1994]], p. 62</ref><ref name="尚樹1999pp31_32"/>。『[[ノティティア・ディグニタートゥム|官職要覧]](''Notitia Dignitatum'')』と呼ばれる文書の記録を信ずるならば、ローマ帝国はガリア、イタリア・アフリカ、イリュリクム、オリエンスという四つの道(''Praefectura'')に分割され、その下に管区(''Dioecesis'')、さらに州(''Provincia'')が階層的に設定された<ref name="田中2010pp375_376">[[#田中 2010|田中 2010]], pp. 375-376</ref>。そして近衛長官は実質的にそれぞれの道を管轄する職位になっていった<ref name="田中2010pp375_376"/>。ラテン語の役職名が変更されることはなかったが、日本語では上記のことから4世紀以降、文官化した''Praefectus praetorio''は「近衛長官」ではなく「道長官」と訳す場合が多い<ref name="田中2010pp375_376"/><ref name="豊田1994p62">[[#豊田 1994|豊田 1994]], p. 62</ref>。

また、コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌス時代に置かれていた貨幣管理長官(''Rationaris summarum''{{refnest|group="注釈"|大清水の訳では財産管理官<ref name="ランソン2012p64">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 64</ref>。}})を{{仮リンク|恩賜伯|en|Comes sacrarum largitionum}}(''Comes sacrarum largitionum''{{refnest|group="注釈"|大清水の訳では帝室財務総監<ref name="ランソン2012p64"/>。}})に、皇帝領長官(''Rationaris rei privatae''{{refnest|group="注釈"|大清水の訳では帝室財産管理官<ref name="ランソン2012p64"/>。}})を皇帝領伯(''Comes rei privatae''{{refnest|group="注釈"|大清水の訳からは帝室財産総監となる<ref name="ランソン2012p64"/>。}})に改称し、収入や支出、皇帝の財産を管理させた<ref name="ランソン2012p64"/>。コンスタンティヌス1世はこの財務管理職の他にも各行政部門の長を設置し、更に各官庁を{{仮リンク|諸局長官|en|Magister officiorum}}(''Magister officiorum''{{refnest|group="注釈"|大清水の訳では官房長官<ref name="ランソン2012p64"/>。}}<ref name="諸局長官" group="注釈"/>)に統括させた。この役職はそのほかに、帝国の東半部では部隊の指揮権や要塞の管理など軍事的な役割を担うようにもなっている<ref name="尚樹1999pp31_32"/><ref name="ランソン2012p64"/>。これは強大化し過ぎた近衛長官へ対抗させるための処置でもあった<ref name="尚樹1999pp31_32"/>。これらは枢密院の構成員となる高官職であった。

==== 軍制改革 ====
コンスタンティヌス1世は帝国の軍事組織に様々な改変を行った。ディオクレティアヌス時代にはローマ帝国の国境防衛は、国境に常駐する駐屯軍を主軸とし、皇帝が指揮する野戦軍は少数の連隊だけで構成され、必要に応じて国境から引き揚げた部隊を組み込んで補強するという体制がとられていたが、コンスタンティヌス1世は外敵の攻撃に柔軟に対応するべくこの国境の部隊を削減し国内の都市に駐屯させることでコミタテンセス(''Comitatenses''、野戦機動軍)と呼ばれる大規模な常備野戦軍を組織し<ref name="ジョーンズ2008p218">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 218</ref><ref name="尚樹1999p35">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 35</ref>、その指揮官として歩兵軍司令官(''Magister peditum'')と騎兵軍司令官(''Magister equitum'')という地位が作られた<ref name="ジョーンズ2008p218"/><ref name="尚樹1999p35"/><ref name="ブルクハルト2003p477">[[#ブルクハルト 2003|ブルクハルト 2003]], p. 477</ref>。そしてこの軍は河川監視軍(''Ripenses'')や辺境防衛軍(''Limitanei'')と名付けられた国境軍よりも上位の存在とされた<ref name="ジョーンズ2008p218"/>。この国境軍の指揮体系もディオクレティアヌス以来の再編を引継ぎ、国境全体を複数の方面に分けて各々を公(''Dux''、方面軍司令官)の管轄とする体制を完成させた<ref name="ジョーンズ2008p218"/><ref name="ゴールズワージー2003">[[#ゴールズワーシー 2003|ゴールズワーシー 2003]]</ref>{{refnest|group="注釈"|コンスタンティヌス1世がこのような新たな戦略に基づいて軍団を再編したことは従来より通説となっている。しかしランソンは、この新たな編成は混乱していた階級秩序を正し、野戦機動軍、河川監視軍、アラレスやコホルタレスといった最下層の軍、という3段階のヒエラルキーを軍に確立することを主眼とした規定上の改革であり、地理的・戦略的な要素は無かったと主張している<ref name="ランソン2012pp74_75">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 74-75</ref>。}}。

また、コンスタンティヌス1世は312年にローマを占領した後、アウグストゥス以来精鋭部隊として組織されていた[[プラエトリアニ|近衛軍団]](''Praetorianae'')-近衛歩兵隊と{{仮リンク|エクィティス・シンギュラレス・アウグスティ|label=近衛騎兵隊|en|Equites singulares Augusti}}(''Equites singulares'')-を解体し、新たにスコラ隊(''Score Paratinae''、近衛軍{{refnest|group="注釈"|大清水の訳では宮廷警護隊<ref name="ランソン2012p73">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 73</ref>。}})を置いた<ref name="ジョーンズ2008p220">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 220</ref>。この部隊はその後、諸局長官の指揮下に置かれ、精鋭部隊として、また政治的支配の手段としてコンスタンティヌス1世の支配に貢献した<ref name="尚樹1999p35"/>。これとは別にドメスティクス伯(''Comes domesticorum'')によって率いられる皇帝護衛担当の親衛隊(''Domesticus'')もあった<ref name="尚樹1999p35"/><ref name="尚樹2005pp29,31,48">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], pp. 29, 31, 48</ref>。この部隊は特別の任務につき、その構成員は将来の士官候補生のような存在となった<ref name="尚樹1999p35"/>。

この一連の改革の進展によって近衛長官(''Praefectus praetorio'')の軍事的性質は大きく削減され、その職務は文民行政や新兵の徴収などに限られて行くことになり<ref name="ジョーンズ2008p218"/>、また例外は残るものの文官と武官が分離された<ref name="尚樹1999p35"/>。

そして、後世から見て重要な影響を与えたかもしれないコンスタンティヌス1世の軍事上の処置に[[ゲルマン人]]を始めとした「蛮族」の大規模な徴兵がある。既に306年に父親から引き継いだ野戦軍をマクセンティウスとの戦いに充分な規模にするために蛮族の捕虜を組み込んでいた<ref name="ランソン2012p72">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 72</ref>。こうした処置はコンスタンティヌス1世が初めてだったわけではないが、彼のゲルマン人の動員は過去のものよりも大規模なものであった<ref name="ランソン2012p72"/><ref name="ジョーンズ2008p220"/>。スコラ隊もゲルマン人の兵たちを中心に構成されており、ゲルマン人を軍司令官として、更には執政官([[コンスル]])として任命することもした<ref name="ジョーンズ2008p220"/>。こうした処置はローマ帝国を蛮族で汚したものとして、後の皇帝[[ユリアヌス]]や非キリスト教徒の歴史家[[ゾシモス]]らから非難されている<ref name="ランソン2012p72"/><ref name="ジョーンズ2008p220"/>。ただし、少なくともコンスタンティヌス1世の時代には新たに軍団に導入されたゲルマン人たちはローマの指揮官に、またはゲルマン人であったとしてもその部族と特別の関係を有していない指揮官によって統率されており、当時においてローマ帝国に重大な問題は引き起こさなかった<ref name="ジョーンズ2008p220"/>。ゲルマン人の軍事力の利用がローマ帝国の統一にとって実際的な問題となるのは、彼らが「部族丸ごと」[[フォエデラティ|同盟軍]](''Foederati'')として組み込まれるようになってからである<ref name="ジョーンズ2008p220"/>。

==== 騎士身分と元老院身分 ====
[[共和制ローマ|共和制]]期以来、ローマの国家機構において主導的地位にあった[[元老院]]は3世紀の危機を通じて皇帝が前線に常駐するようになると、次第に国政の中枢から外れていった<ref name="井上2015p190">[[#井上 2015|井上 2015]], p. 190</ref>。これは元老院身分(''Ordo senatorius'')の上級官職者が軍人としての経歴を持っておらず、むしろ文人志向を強め軍事を忌避する傾向があったため、継続的な外敵の侵入と内乱の中で、より実戦能力のある人材が統治機構に必要であったことによる<ref name="井上2015pp144,190">[[#井上 2015|井上 2015]], pp. 144, 190</ref>。また、行政機構が皇帝と共に前線にあったため、物理的にも元老院と行政機構の関わりが薄くなっていた<ref name="井上2015p190"/>。変わって軍才を見込まれた人々が皇帝たちによって要職に騎士身分([[エクィテス]]、''Equites'')として登用された。こうして属州総督など多くの上級官職が騎士身分の人間で占められるようになり、彼らはその後婚姻によって結びつき新たな軍事貴族階層を形成していた<ref name="井上2015p190"/><ref name="尚樹1999p36">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 36</ref>。騎士という身分は共和制以来の伝統を持っていたが、元老院身分と異なり元来は世襲のものではなく、この頃には近衛長官に与えられるエミネンティッシムス級(''Vir eminentissimus''、侯爵<ref name="豊田1994p80注釈10">和訳は[[#豊田 1994|豊田 1994]], p. 80、注釈10番による。</ref>)を最高位とする5段階の爵位が役職に応じて皇帝から贈られていた<ref name="尚樹1999p36"/>。

コンスタンティヌス1世は各地の総督や上級官職に再び元老院身分に再び開放した<ref name="井上2015p195">[[#井上 2015|井上 2015]], p. 195</ref>。そして「元老院議員が担当する」官職に非元老院議員が就任した時には、その人物に元老院身分が付与されたため、人員自体が大幅に拡充された。このことは元老院身分の構成員に変化をもたらした<ref name="井上2015p195"/>。従来騎士身分にいた軍事貴族たちが元老院身分(新貴族階級)へと参入していったが、形式的には同じ元老院身分であった両者は質的に統合されることはなく、さらに従来元老院身分の爵位であったクラリッシムス級(''Clārissimus'')を頂点とする爵位の価値が暴落して意味をなさなくなって行き、元老院身分の新たな爵位制度が準備された<ref name="尚樹2005p38">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 38</ref>。

また、コンスタンティヌス1世は新たな身分として'''伯'''(''Comes''、総監とも)を創設した。この名称は旧来から皇帝たちの私的な助言者を指して半ば公式的に使用されていたが、コンスタンティヌス1世はこれを完全に公式の身分とした<ref name="尚樹2005p37">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 37</ref>。伯は1等から3等までに分類され、枢密院の構成員から軍の司令官、地方組織の長官にいたるまで伯と呼ばれるようになった<ref name="尚樹2005p37"/>。この身分は従来の元老院身分、騎士身分にあり新たに元老院身分にも参入しつつあった軍事貴族たち、そしてそのいずれにも属さない人々の間を貫通する新たな地位を形作って行き<ref name="尚樹2005p37"/>、後には[[フランク王国]]や[[西ゴート王国]]など、中世西欧の諸国にも形を変えながら引き継がれていく。

==== 経済・財政 ====
[[File:Constantinus.JPG|thumb|コンスタンティヌス1世のコイン。]]

経済におけるコンスタンティヌス1世の特筆すべき事業は[[ソリドゥス金貨]]の発行であった<ref name="尚樹1999p34">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 34</ref>。ソリドゥスと呼ばれる金貨はディオクレティアヌス時代には既に発行されていたが、コンスタンティヌス1世は新たな標準規格でこれを発行し、信用度の高い共通通貨として確立した<ref name="尚樹1999p34"/>。初の発行はまだ統一する前の309年にトリーアで発行したもので、その後支配領域の拡大と共に各地で発行するようになった<ref name="尚樹1999p34"/><ref name="ジョーンズ2008p221">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 221</ref>。これはギリシア語で[[ノミスマ]]と呼ばれ、更にソリドゥスの2分の1であるセミシス、3分の1であるトレセミシスがあった<ref name="尚樹1999p34"/>。

信用度の高い貨幣の流通はローマ経済に重大な影響を与え、また後世の税制の改革にも繋がった。徴税や軍団への支給は当時なお物納・現物支給を主としていたが、貨幣の流通とともにコンスタンティヌス1世は新たな{{仮リンク|コッラティオ・ルストラリス|en|Collatio lustralis}}(''Collatio lustralis''、5年税{{refnest|group="注釈"|ランソン、およびスカーの解説では会計年度(4年ごと、''lustrum'')ごとに徴収されたとなっている。また、制定したのはリキニウスである可能性もあるという<ref name="ランソン2012p81">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 81</ref><ref name="スカー1998p274">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 274</ref>。本文では尚樹、およびジョーンズの著書を訳した戸田が5年税という訳語を用いていることから、それに従った。}})を導入した<ref name="尚樹1999p34"/><ref name="ランソン2012p81"/>。これは商人や金融業者(実質的には農民以外の全ての人々を含む)に5年毎に金貨(後に銀貨も加えられた)による納税を定めたもので、ローマ帝国の財政が5世紀以降金貨によって運営されるようになるその端緒となり、後世には軍団への支給や臨時の恩典の支出にも金貨が用いられるようになっていった<ref name="尚樹1999p34"/><ref name="ジョーンズ2008pp221_222"/>。コンスタンティヌス1世に端を発するローマ帝国のノミスマは[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)時代の1030年代まで高純度を保ち続け、最も信頼される標準貨幣として地中海世界で使用され続けることになる<ref name="尚樹1999p34"/><ref name="ブウサール1973p52">[[#ブウサール 1972 |ブウサール 1972]], p. 52</ref>。

財政面ではコンスタンティヌス1世は多額の支出を厭わなかった。『{{仮リンク|皇帝伝要約|en|Epitome de Caesaribus}}(''Epitome de Caesaribus'')』では、彼の治世最後の3分の1は「浪費の時代」と描写されており<ref name="ランソン2012p83">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 83</ref>、[[20世紀]]の学者ジョーンズは「過剰に気前が良かった」と評している<ref name="ジョーンズ2008p222">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 222</ref>。治世前半、統一前にはコンスタンティヌスス1世の課税は寛容であるとも言えるものであったが<ref name="ランソン2012p80">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 80</ref>、上述のソリドゥス金貨の発行の他、コンスタンティノープルの建設、教会堂の建設、コンスタンティノープル市民へのパンの配給、恩典としての年金や皇帝領の贈与などが盛んに行われ、この結果として財政は短期間のうちに逼迫した<ref name="ジョーンズ2008p222"/>。コンスタンティヌス1世の大事業を支えるための財源は当初は打倒したリキニウスが貯めこんでいた財貨であった<ref name="ランソン2012p82">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 82</ref>。短期間にそれを使い果たした後は、出費を賄うための財源は第一には異教の神殿からの没収、第二には新たな課税であり<ref name="ジョーンズ2008p222"/>、治世後半には半ば略奪に近いものを含めた過酷な徴税が行われた<ref name="ランソン2012p80"/><ref name="ジョーンズ2008p222"/>。前述の5年税の制定もこの流れの中から出てきたものであり、314年から318年の間に定められた<ref name="ジョーンズ2008p222"/><ref name="ランソン2012p81"/>。また、325年頃には[[元老院]]議員に対して地所の保有量に基づく金納の税金(土地税)を定め<ref name="ジョーンズ2008p222"/><ref name="ランソン2012p80"/>、さらに各地の都市が集めていた地方税を国庫に編入した可能性もある<ref name="ジョーンズ2008p222"/>。こうした増税は当然のことながら評判は悪く、税額の公正さを維持することも困難であった<ref name="ジョーンズ2008p223">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 223</ref><ref name="ランソン2012p82"/>。とりわけ5年税は、5年毎に一度に課税されたために、資産的余裕が無い人々にとって納税の年は「恐るべき年」となった<ref name="ジョーンズ2008p223"/>。

==== 立法・社会 ====
コンスタンティヌス1世はその治世の間に、特に西方の支配者となった治世半ばの314年から319年頃を中心に数多くの法律を定め<ref name="ランソン2012p88">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 88</ref>、法律の運用を強化するためにその運用原則、国法、[[勅令]]、[[勅答]](請願に対する返答)、[[覚書]]といった法的文書の効力や優先順位も定められた<ref name="ランソン2012p89">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 89</ref>。

裁判を健全性の維持のために、密告や中傷の禁止、手続き期限の厳密化が定められ<ref name="ランソン2012p89"/>、属州総督の裁定で収まらない時は皇帝への上訴審をすべきことも通達された<ref name="ランソン2012p89"/>。役人の腐敗については厳罰をもってあたり、多くの罪状に死刑が適用された<ref name="ランソン2012p89"/><ref name="ジョーンズ2008p223"/>。これは常態化していた役人への付け届けの習慣を改めようとしたコンスタンティヌス1世の方針と関係していた。当時、訴訟を起こす場合にはまず官吏への贈り物が必要であり、コンスタンティヌス1世はこうした慣習を激しく非難した<ref name="ジョーンズ2008p223"/>。そして属州総督たちに対して、それぞれの任地でこうした慣行を放置するならば同様の刑罰を与えるという脅しをも加えた<ref name="ジョーンズ2008p224">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 224</ref>。しかし、汚職対策が大きな成功を収めることはなかった<ref name="ジョーンズ2008p223"/>。こうした官吏の服務規程や収賄に関する規定のほか、郵便、ソリドゥス金貨の偽造・私鋳の禁止、家族・相続関連の規定、退役兵の特権や一時金の支給、身分など国家・社会全般にわたって様々な法が定められている<ref name="ランソン2012pp91_92">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 91-92</ref><ref name="ジョーンズ2008p224"/>。

コンスタンティヌス1世はキリスト教を重視したが、一連の立法に対するキリスト教の影響を明確にそれと断定すること困難である。しかし、中には恐らくコンスタンティヌス1世の信仰に影響された内容を含むものも散見される<ref name="ランソン2012p96">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 96</ref><ref name="ジョーンズ2008p224"/>。はっきりとキリスト教の影響と見做せるものの1つには死刑の際の十字架刑の廃止が挙げられる<ref name="ランソン2012p96"/>。同じくキリスト教と関係するであろうものに古代ローマにおいて伝統的娯楽であった[[剣闘士]]競技の禁止規定(325年)があり、これによって従来闘技場送りにされていた犯罪者たちは代わりに鉱山送りにされるようになった(ただし帝国の西方では剣闘士競技が実際に終了するのは100年あまりも後のことである)<ref name="ジョーンズ2008p225">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 225</ref>。また、[[結婚]]・[[家族]]の神聖性を重視する規定も恐らくキリスト教的価値観から現れたものであろう。コンスタンティヌス1世のは離婚の規定を厳格化し、重大な犯罪や売春などの嫌疑によらない限り離婚が許可されなくなった<ref name="ジョーンズ2008p225"/>。他方ではイタリアやアフリカにおいて、貧しい両親が子供を売却することのないように公金から補助を与えることも命じられている。これもまた、同時代のキリスト教会の類例から影響を受けたものであると考えられる<ref name="ジョーンズ2008p225"/>。女性の「慎ましさ」を保護する法も定められ、いかなる契約においても夫が妻の代理人であるべきことを定める法律や、資産の差し押さえの際に財産の代わりに女性を連れ去ることを厳罰をもって禁止する法律も残されている<ref name="ジョーンズ2008p226">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 226</ref>。コンスタンティヌス1世の家族を重視する姿勢を明確に示すもう1つの法律は皇帝御料地が複数の賃借人によって分割された際の奴隷の家族離散を禁止する法律である<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。ただしこれはコンスタンティヌス1世が奴隷制に対して何らかの否定的見解を持っていたことを示すものではない。彼が定めた他の法律において奴隷や[[コロヌス]](小作農)に対する規定は過酷であり、主人による拷問の末に奴隷が死んだとしても罪とはされなかったし、奴隷・コロヌスの逃亡や反抗についても厳罰が加えられた<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。

== キリスト教 ==
=== 改宗 ===
[[ファイル:Labarum of Constantine the Great.svg|right|thumb|ラバルムを戴いたローマの旗。ギリシア語におけるキリストの綴り、{{el|ΧΡΙΣΤΟΣ}}の最初の2文字、[[Χ|キー]]({{el|'''Χ'''}})と[[Ρ|ロー]]({{el|'''Ρ'''}})を組み合わせた紋章。]]
コンスタンティヌス1世は、初めての[[キリスト教徒]]ローマ皇帝として有名である。それ以前のローマ帝国では、[[ネロ]]帝(54年-68年)のキリスト教徒迫害に始まり<ref name="松本2009p32">[[#松本 2009|松本 2009]], p. 32</ref>{{refnest|group="注釈"|ただし、ネロ帝によるキリスト教徒への弾圧はキリスト教の信奉者それ自体を理由にしたものではなく、キリスト教への弾圧というよりは、政治的な理由によるものであった<ref name="松本2009p32"/>。}}、[[ディオクレティアヌス]]帝(284年-305年)の[[大迫害]]まで<ref name="松本2009pp82_84">[[#松本 2009|松本 2009]], pp. 82-84</ref>、何度かキリスト教が迫害を受ける時期があった。そんな一部の時期を除くほとんどの間、キリスト教徒であることは黙認されていたが、発覚した場合は改宗を迫られ拒絶した者は処刑された。

しかし、ローマの正帝の1人として実力を持っていたコンスタンティヌス1世は312年(と、言われる)頃に何らかの形でキリスト教を受け入れた<ref name="ジョーンズ2008p84">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 84</ref>。伝説によると、コンスタンティヌス1世が改宗したのは、神の予兆を見たためと伝えられる。コンスタンティヌス1世は、312年にマクセンティウス軍と戦うためにミルウィウス橋に向かう行軍中に太陽の前に逆十字<ref group="注釈">シンボリスム的解釈では、十字(架)が太陽の象徴であるのに対し、逆さ十字(架)は金星(明けの明星)の象徴である。</ref>とギリシア文字 Χ と Ρ(ギリシア語で「キリスト」の先頭2文字)が浮かび、並んで「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見た<ref name="ヴェーヌ2010pp7_8">[[#ヴェーヌ 2010|ヴェーヌ 2010]], pp. 7-8</ref>。この伝説は[[ラクタンティウス]]などいくつかの資料で詳しく伝えられているが、4-5世紀頃の文献に多く現れる神の予兆や魔法などの話のひとつである。この後のローマ軍団兵の盾にはそれを模った紋章([[ラバルム]])が描かれたという。

==== 改宗についての諸見解 ====
当時キリスト教はローマ帝国の領内に強固に根付きつつあったが、キリスト教徒ローマ皇帝の登場、すなわち、コンスタンティヌス1世の改宗はその当然の帰結であったわけではない{{refnest|group="注釈"|[[ピーター・ブラウン (歴史学者)|ピーター・ブラウン]]などはコンスタンティヌス1世の改宗はその頃までにキリスト教がローマの支配階級にとって重要な宗教になっていたためであると描写している<ref name="ブラウン2016p76">[[#ブラウン 2016|ブラウン 2016]], p. 76</ref>。しかし、日本の学者[[豊田浩志]]は、当時の史料において元老院身分の中に登場するキリスト教徒を抽出し、支配階層のキリスト教への改宗が4世紀、コンスタンティヌス1世の時代以降もなお限定的であったことを具体的な数値と共に示しており、またヴェーヌおよびジョーンズの解説も豊田のそれと整合的であるため<ref name="ヴェーヌ2010p2">[[#ヴェーヌ 2010|ヴェーヌ 2010]], p. 2</ref><ref name="ジョーンズ2008p84"/>、本文の説明はこの見解に従う<ref name="豊田1994pp89_92">[[#豊田 1994|豊田 1994]], pp. 89-92</ref>。}}。コンスタンティヌス1世の改宗の時点で、ローマ帝国内のキリスト教徒比率は多く見積もっても10パーセント程度でしかなかったと見られているし<ref name="ヴェーヌ2010p2"/>、また[[A.H.M.ジョーンズ|ジョーンズ]]によれば<ref group="注釈">[[豊田浩志]]の紹介・要約による。</ref>、キリスト教徒は都市部に偏在しており、主要な支持基盤は下層・中産階級を構成する手工業者や書記。小売商、商人、下級都市参事会員などであったという<ref name="豊田1994pp85_86">[[#豊田 1994|豊田 1994]], pp. 85-86</ref>。

コンスタンティヌス1世の改宗が312年、またはその頃に行われたということについては一般的に受け入れられている<ref name="ジョーンズ2008p84"/><ref name="ヴェーヌ2010p70"/>。しかし、コンスタンティヌス1世のキリスト教への改宗がこの時に行われたのか完全に断言できるわけではなく<ref name="ランソン2012p105"/>、その動機、つまりは有効利用可能な組織を動員するための政治的動機から来る形式に過ぎないものであったのか、宗教的な真剣さを持ったものだったのか、といったことについてもはっきりわかることは何もない<ref name="ジョーンズ2008p84"/><ref name="ヴェーヌ2010p70"/>。また、少なくとも彼は当初は自分の宗教的姿勢に曖昧さを維持し続け、公的な文章においてはキリスト教徒もその他の宗教者も都合よく解釈可能な表現を用いることを常としていた<ref name="ランソン2012p105"/>{{refnest|group="注釈"|ヴェーヌはコンスタンティヌス1世の改宗についてその内心を知ることは不可能であり、それを推し量ることは無意味であると言う。ヴェーヌはこの問題について「心理学者たちが語るところの、あの開くことのできない『ブラックボックス』(もしくは、もしひとが信者なら、『助力の恩恵〔神の超自然の助け〕』)のうちに見いだされるものなのだ。宗教的な感情を覚えるとはひとつの情動であり、ある存在、ある神が実在するというむき出しの事実を信じることは説明不可能なままにとどまる表象行為なのである。」と述べている<ref name="ヴェーヌ2010p70"/>。}}。

はっきりしていることは。キリスト教が当時既に取るに足らないほど小さな宗教ではなく、ローマの知的階級の考察の対象になるほどには大きく、関心を持たれる思想となっていたことである<ref name="ランソン2012pp18,19_20">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 18, 19-20</ref>。また、現代の歴史家の中にはヴェーヌのように、当時のキリスト教が異教に対して精神性・哲学・倫理などの面で優越性を備えていたと考える人物もいる<ref name="ランソン2012pp18,19_20"/>。しかし一方で、前述の通りその数は多数派と呼ぶには程遠く、信者の多くは中産階級以下の人々であり政治的・社会的に無力であった<ref name="ジョーンズ2008p84"/>。上流階級たる元老院身分、騎士身分、都市参事会員層の信徒は極めて少数であり、元老院身分におけるキリスト教の勢力は3世紀後半ですらほとんど皆無であったし<ref name="豊田1994pp88_89">[[#豊田 1994|豊田 1994]], pp. 88-89</ref><ref name="ジョーンズ2008p84"/>、とりわけ軍隊はその大半が非キリスト教徒であり、属州の前線に近い都市を含めて東方由来の[[密儀宗教]]、[[ミトラス教]]が流行していた<ref name="ジョーンズ2008p84"/><ref name="小川1993pp189,222_227">[[#小川 1993|小川 1993]], pp. 189, 222-227</ref>。コンスタンティヌス1世が最後まで配慮を続けた異教の神、不敗太陽神([[ソル・インウィクトゥス|ソル]])は[[ミトラス]](ミトラ)の神性を表す称号の1つである<ref name="小川1993p219">[[#小川 1993|小川 1993]], p. 219</ref>。また、コンスタンティヌス1世は312年以前から明確にキリスト教に対して好意的であったが、一方でこの時期に彼がキリスト教徒であったと証言する古代の著作家は存在せず、コンスタンティヌス1世に向けて歓呼の声をあげる人々は、彼を[[ユーピテル|ユピテル]]を始めとしたローマの神々に擬することを躊躇していない<ref name="ジョーンズ2008p85"/>。

もう一つ、コンスタンティヌス1世のキリスト教信仰を巡って重要な出来事として、313年にはビテュニア総督宛にキリスト教の信仰の自由を承認することを通知し、没収されたキリスト教会の財産を返還するよう命じる法令(書簡)が送付されている。これは現在では『'''[[ミラノ勅令]]'''』と呼ばれ、一般に'''ローマ帝国におけるキリスト教の公認'''という出来事として語られる<ref name="ランソン2012p100"/><ref name="ウィルケン2016p139">[[#ウィルケン 2016|ウィルケン 2016]], p. 139</ref>。ただし、正確に表現するならばこれは勅令ではなく、また、コンスタンティヌス1世が発したという説明も正しくない。これはコンスタンティヌス1世とリキニウスが同盟者であった時期に、リキニウスが両皇帝の連名で帝国の東部に対して発した書簡であった<ref name="ウィルケン2016p139"/><ref name="ランソン2012p100"/>。また、重要なこととして、この書簡は特にキリスト教徒を特記してはいるものの、厳密には「キリスト教の信仰を公認した」のではなく、神格に対する畏敬を保証するために、「キリスト者にも万人に対しても、各人が欲した宗教に従う自由な権利を与える」と宣言するものであった<ref name="ウィルケン2016p140">[[#ウィルケン 2016|ウィルケン 2016]], p. 140</ref><ref name="ジョーンズ2008p90">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 90</ref>。

改宗を巡っては古代の歴史家たちの記録、例えば、異教徒ゾシモスとキリスト教徒エウセビオスの記録はそれぞれに矛盾があり、これらが政治的動機と宗教的動機についての近現代の学者たちの様々な見解の元となった<ref name="尚樹2005p42">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 42</ref>。

[[ヤーコプ・ブルクハルト]]は「野心と権勢欲が一刻の平穏の時も与えないような天才的人間においては、キリスト教と異教、意識的信仰と不信仰ということは全然問題になりえない。このような人間はじつにその本質において無宗教なのである」と述べ、コンスタンティヌス1世のキリスト教に対する姿勢の政治的動機を強調する<ref name="ブルクハルト2003p409">[[#ブルクハルト 2003|ブルクハルト 2003]], p. 409</ref><ref name="尚樹2005p42"/>。他方、ジョーンズはコンスタンティヌス1世が当時キリスト教が保持していた政治力の乏しさから「キリスト教徒の好意など得る価値はほとんどなく、そしてそれを得たければ、単に彼らに寛容であることによってえられたはずである」と評し<ref name="ジョーンズ2008p84"/>、ヴェーヌはコンスタンティヌス1世がキリスト教という前衛的な新しい宗教に惹かれ、また君主の宗教として「豪奢を誇示」するのに相応しいと感じたことは充分あり得ることとしている<ref name="ヴェーヌ2010pp71_74">[[#ヴェーヌ 2010|ヴェーヌ 2010]], p. 71-74</ref>。そして「コンスタンティヌスをただ計算高い政治家としか見ない歴史家はさして深く事態を見きわめられないだろう」と述べ、社会的・経済的な要素を重視する現代的観点から判断すべきではないとする<ref name="ヴェーヌ2010pp71_74"/>。

いずれにせよ重要な事実は、コンスタンティヌス1世の改宗以降、ほとんど全てのローマ皇帝がキリスト教徒であったことであり、コンスタンティヌス1世のキリスト教改宗は歴史上最も重大な事件の1つであった。ヴェーヌは「もしコンスタンティヌスがいなかったなら、キリスト教はひとつの前衛的宗派にとどまっていたことだろう」と評する<ref name="ヴェーヌ2010p4">[[#ヴェーヌ 2010|ヴェーヌ 2010]], p. 4</ref>。

=== 皇帝と教会 ===
キリスト教徒ローマ皇帝の登場はローマ帝国と教会の関係、また教会それ自体に大きな変革をもたらした。教会は独立した一つの社会を形成しており、その司教たちは伝統的なローマの祭司とは異なり帝国の役人ではなかったし、教会に対して皇帝がどの程度、どのように関係を持つべきか知っている人間はいなかった<ref name="ウィルケン2016p143">[[#ウィルケン 2016|ウィルケン 2016]], p. 143</ref><ref name="ジョーンズ2008p107">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 107</ref>。さらに各地のキリスト教会の信条・教義は極基本的な問題についてさえ統一されておらず、復活祭の日付もそれぞれに異なっていた<ref name="ランソン2012p34"/><ref name="ウィルケン2016p143"/>。また、コンスタンティヌス1世の経歴は哲学者・宗教家としてではなく軍人としてのものであり、こうした問題を解決するために必要な知識を欠いていた<ref name="ウィルケン2016p143"/>。

==== ドナトゥス派問題 ====
コンスタンティヌス1世がキリスト教を受け入れた時、既にキリスト教会内部では分裂が生じていた。真っ先に問題になったのは北アフリカにおける分裂であった。ディオクレティアヌスによる大迫害の時代、皇帝からの圧力に対してキリスト教の司教たちがとった対応は様々であった。多くは皇帝に対して表立って反抗するような真似はしなかったが、面従腹背の姿勢で応ずるものもおり、またこうした逃げ腰の姿勢を批判する厳格主義者たちがいた<ref name="ジョーンズ2008p109">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 109</ref>。こうして北アフリカでは信念を曲げる行為を批判する厳格主義者たちと、不必要に殉教を求める行為を批判する穏健派は互いに批判を強め、厳格主義者たちは穏健派(主流派)のカルタゴ司教[[カエリキアヌス]]を承認することを拒否し、独自に[[マヨリヌス]]をカルタゴ司教に選出し、それぞれに支持者を集めて二つの陣営へと分裂していた<ref name="ジョーンズ2008pp109_111">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 109-111</ref><ref name="尚樹2005pp43_44">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], pp. 43-44</ref>。

コンスタンティヌス1世はこの問題に介入した。ローマ司教(教皇)[[ミルティアデス (ローマ教皇)|ミルティアデス]](またはメルキアデス)に対して自分が教会の分裂を欲しておらず双方当事者からの聞き取りを行って裁判を実施し解決を図るよう指示を出し、その結論を出す役にガリアから招集した司教を任命した<ref name="ジョーンズ2008pp111_112">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 111-112</ref><ref name="尚樹2005p44">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 44</ref>。ミルティアデスは教会の問題が司教たちによる会議([[公会議]])によって決定されるべきという立場を取り、コンスタンティヌス1世が任命した司教に加えてイタリアから15人の司教を集めた。以後コンスタンティヌス1世はそれを受け入れ、教会の問題は公会議によって決定されることが慣行になった<ref name="ジョーンズ2008pp111_112"/>。しかし最終的に公会議を招集する権利やその結論に対して上位者として裁定を行う権利を放棄することもなかった<ref name="ジョーンズ2008pp111_112"/>。

並立する2人のカルタゴ司教カエリキアヌスとマヨリヌスのうち、実際に公会議が始まる前にマヨリヌスが死亡したため、その支持者たちは[[ドナトゥス]]を新たな司教に選出した<ref name="ジョーンズ2008p112">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 112</ref>。彼の名にちなんで北アフリカの反主流派は'''[[ドナトゥス派]]'''(ドナティスト)と呼ばれる<ref name="ジョーンズ2008p112"/>。313年10月2日にローマで行われた会議ではカエリキアヌス派に有利な決定がなされ、ドナトゥス派の主張は退けられた<ref name="ジョーンズ2008p113">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 113</ref><ref name="尚樹2005p44"/>。しかしドナトゥス派はこの決定を受け入れず、その強硬な反対の前に翌314年8月1日に[[アレラーテー]]([[アルル]])でより大規模な公会議([[アルル公会議]])が開催された<ref name="ジョーンズ2008p113"/><ref name="尚樹2005p44"/>。当時、コンスタンティヌス1世がドナトゥス派の姿勢に不快感を持っていたことを示す書簡の文章が現存しており、またその中で彼はこの「兄弟同士」の争いが異教徒の間でキリスト教の評判を落とすかもしれないことを心配している<ref name="ジョーンズ2008p114">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 114</ref>。さらにこの会議の機会をとらえて、[[復活祭]](イースター)の日付の統一や司教の叙任、任地、信徒の破門に関する規定なども行われた<ref name="ジョーンズ2008p116">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 116</ref>。

結局アルルの会議でもドナトゥス派の主張は退けられ、ローマの会議の結論が正しいとされた<ref name="尚樹2005p44"/>。ドナトゥス派はなおもこれを受け入れず、コンスタンティヌス1世への直訴を行った<ref name="尚樹2005p44"/><ref name="ジョーンズ2008p121">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 121</ref>。コンスタンティヌス1世はさらなる説得を試みたが、ドナトゥス派内部で更に分裂が生じ見苦しい争いが始まると、最終的に力づくでドナトゥス派を抑えつけることを決定し、ドナトゥス派の教会は没収され指導者達は追放された<ref name="ジョーンズ2008pp124_127">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 124-127</ref>。これはキリスト教的政府による最初の[[異端|キリスト教徒分派]]への迫害となった<ref name="ジョーンズ2008p127">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 127</ref>。しかしキリスト教徒を弾圧することへの躊躇からコンスタンティヌス1世の姿勢は徹底を欠き、321年には弾圧を中止して彼らの処遇は「神の裁きに任せる」とした<ref name="尚樹2005p44"/><ref name="ジョーンズ2008p128">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 128</ref>。結局コンスタンティヌス1世は分裂を解決することに失敗し、ドナトゥス派はローマ教会の支持を得てカトリコス(''Catholicos''、[[カトリック]])を称したカルタゴ教会に対抗する北アフリカの土着的な勢力として、イスラームの征服によって北アフリカのキリスト教が消滅するまで存続した<ref name="尚樹2005p44"/><ref name="ジョーンズ2008p129">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 129</ref>。

しかし同時にドナトゥス派を巡る一連の経過によって、コンスタンティヌス1世は自らの主催する公会議によって、また自らの決裁によって教会内の問題に皇帝として判決を下す権利、そして司教の任免、教会の接収などを実施する権利を、自然に教会に認めさせ、その主人たる地位を確立することに成功してもいた<ref name="ジョーンズ2008p129"/>。

==== アリウス派問題とニカイア公会議 ====
{{Quote box
| quote = そこで、現在の問題の発端は次のところにあったと余は理解している。すなわち、アレクサンドロスよ、汝が、法に書かれたうちの或る箇所について、或いはむしろ何らかの問いのつまらない部分について、司祭たちの各々が何を理解するかということを彼らに訪ねて、アレイオス(アリウス)よ、汝が、そもそも思念されてはならず、また思念されたとしても沈黙に付すのが至当であったことを、不注意にも返答したのだ。それゆえに汝らの間に不一致が生じ、集会の交わりは否定され、至聖なる民は両者に分裂し、共通のからだの調和から分離された。それゆえ汝らは各々等しく赦しを与えて、汝らと同じしもべが正しくも汝らに勧めることを受け入れよ。ではそれは何か。そもそもこのような事柄については、問うことはふさわしくなく問われた側は答えることはふさわしくなかったのだ...
| source=-コンスタンティヌス1世からアレクサンドロスとアリウスに送られた手紙<ref>[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 147の引用より孫引き</ref>。
| align = right
| width = 23em
}}
324年にリキニウスの支配していた東方を手中に収めたコンスタンティヌス1世は、この新たな征服地のキリスト教徒たちが西方におけるドナトゥス派よりも深刻で広範な分裂を起こしているという事実に直面した<ref name="ジョーンズ2008p142">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 142</ref>。東方の教会の分裂は[[アエギュプトゥス|エジプト]]の[[アレクサンドリア]]司教[[アレクサンドロス1世 (アレクサンドリア主教)|アレクサンドロス]]と司祭[[アリウス]](アレイオス)との間の、絶対者である[[神]]とその子[[キリスト]]をどのような存在であると認識するか、という問題についての論争に端を発するものであった<ref name="ジョーンズ2008p143">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 143</ref><ref name="ウィルケン2016p145">[[#ウィルケン 2016|ウィルケン 2016]], p. 145</ref><ref name="尚樹2005p45"/>。

アリウスは神が「永遠にして不可知」たる[[モナド (哲学)|モナド]](単子、存在の究極の単位)であり、完全に単一で分割不可能であると主張した<ref name="ウィルケン2016p145"/><ref name="尚樹2005p45"/><ref name="ジョーンズ2008p143"/>。この神の超越性を厳格に強調する立場の下、父(神)が分割不可能である以上はその御子(キリスト)は神と同一の存在ではありえず、完全なる神性を備えない下位の被造物であるとした<ref name="ウィルケン2016p145"/><ref name="尚樹2005p45"/><ref name="ジョーンズ2008p143"/>。そして父なる神とは別個の存在であり被造物である以上、キリストは無から創造されたものであるとも主張した<ref name="ウィルケン2016p145"/><ref name="尚樹2005p45"/><ref name="ジョーンズ2008p143"/>。一方の司教アレクサンドロスはキリストが万物の創造主、人類の罪をあがなう存在であり、神そのものであると主張した<ref name="松本2009p98">[[#松本 2009|松本 2009]], p. 98</ref>。アレクサンドロスはアリウスを破門したが、アリウスは各地の教会に支持を呼びかけ、論争は小アジアやパレスチナにも飛び火していた<ref name="尚樹2005p45"/><ref name="ジョーンズ2008p145">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 145</ref>。

コンスタンティヌス1世はこの状況の解決を求めた。彼はこの難解な形而上学的・神学的論争について理解できなかったか、少なくともそれを厳密に追及することに興味を持たなかった<ref name="ジョーンズ2008p147">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 147</ref><ref name="尚樹2005p45"/><ref name="ウィルケン2016p147">[[#ウィルケン 2016|ウィルケン 2016]], p. 147</ref>。そして「取るに足らぬ非常に小さな事柄」(ウィルケン)を争うのをやめ速やかに論争を止めることを要求した<ref name="ジョーンズ2008p147"/><ref name="尚樹2005p45"/><ref name="ウィルケン2016p147"/>。しかし両派は頑なであり論争と分裂は拡大の一途を辿った<ref name="ジョーンズ2008p148">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 148</ref><ref name="尚樹2005p45"/>。その後、本格的な介入が考慮されるようになると、エジプトではさらに[[メリティオス派]]がアレクサンドリアの教会と対立し分裂していることも明らかとなった<ref name="ジョーンズ2008pp149_152">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 149-152</ref>。

散発的に行われる各地の司教会議で事態が一向に沈静化しないことに業を煮やしたコンスタンティヌス1世は、ドナトゥス派の時と同じようにより大きな規模の公会議によってこれを解決しようと目論み、325年5月20日に[[ニカイア]](ニケア)に東方から数百名の司教を招集し、西方から司教6名とローマ司教(教皇)の代理の[[助祭]]2名を加え'''[[第1ニカイア公会議|ニカイア公会議]]'''(第1回全教会会議)を開催した<ref name="尚樹2005p45"/><ref name="ジョーンズ2008p157">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 157</ref>。この会議はローマの元老院や都市参事会の会議をモデルに進められ、教義において重要な論争にはコンスタンティヌス1世が自ら参加し指導的な役割を演じた<ref name="ジョーンズ2008p157"/>。その中で、コンスタンティヌス1世は、アリウスを積極的に支援した。何故なら、アリウスの理論は、子なる神を父なる神に従属させることで、神の唯一性を理論的に基礎づけることができ、これによって帝国独裁政治理念に都合のいいイデオロギーを提供したからである。<ref>{{Cite book|和書|title=中世思想原典集成1 初期ギリシャ教父|date=1995-02-06|publisher=平凡社}}</ref>

主要な参加者としてアリウス派からアリウス本人の他、強力なアリウス派の司教であった{{仮リンク|ニコメディアのエウセビオス|en|Eusebius of Nicomedia}}、反アリウス派からアレクサンドリア司教アレクサンドロスや特に強硬であったことで知られる{{仮リンク|アンティオキアのエウスタティオス|en|Eustathius of Antioch}}、そして当時はまだ重要な人物ではなかったものの、アレクサンドロスの死後に反アリウス派(ニカイア派、[[アタナシウス派]])の議論を主導することになる助祭[[アレクサンドリアのアタナシオス|アレクサンドリアのアタナシウス]](アタナシオス)らが参加した。さらにアリウス派には組しないものの、コンスタンティヌス1世の信頼厚く妥協的な態度を取った[[エウセビオス|カエサレアのエウセビオス]]や、西方の教会に属しコンスタンティヌス1世の相談役を務めた{{仮リンク|コルドバのホシウス|en|Hosius of Corduba}}なども重要な役割を果たしたと言われている<ref name="ジョーンズ2008pp154_160">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 150-160</ref>。他に、東方の指導的な司教のほとんどが参加していた他、[[アルメニア]]や[[クリミア半島|クリミア]]、[[ペルシア]]といったローマ帝国外の司教も参加し、その世界性・普遍性が強調された<ref name="ジョーンズ2008pp154_160"/>。

この会議におけるコンスタンティヌス1世の姿勢は明確であった。彼はこの論争が本来不要なものであり、また教会の分裂はそれ自体が罪であると見做した<ref name="ジョーンズ2008p157"/>。このため、全体が受け入れられるような包括的かつ妥協的な決着が探られたが、各派が神性について多様な見解を提出し容易に収拾はつかなかった。そして会議の最中、コンスタンティヌス1世は「ホモウーシオス(''Homousios''、同一本質の)」という用語で父(神)と御子(キリスト)の関係を表現するという(ジョーンズによれば不用意な)提案を行った<ref name="ジョーンズ2008p162">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 162</ref><ref name="尚樹2005p46">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 46</ref>。これは相談役であったヒスパニアの司教ホシウスの影響を受けて、西方の教会の信条から着想を得たものと推定され、東方の教会関係者はこの用語を受け入れることを嫌った。しかし、この皇帝自らの提案をアリウス派が神学的に受け入れることが不可能であることに乗じた東方の反アリウス派は、まずアリウス派を排除することを優先してこの用語の受け入れを表明し議論をリードすることに成功した<ref name="ジョーンズ2008p163">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 163</ref>。この結果、ニカイア公会議においてアリウスの破門とアリウス派の排除が決定され、コンスタンティヌス1世は各司教たちにこの信条([[ニカイア信条]])を圧力をかけて受け入れさせた<ref name="尚樹2005p46"/>。

こうして反アリウス派がアリウス派に勝利したが、アリウス派はその後も自分達の信条を捨てることはなく、またコンスタンティヌス1世もその死までアリウス派との妥協による教会の統一を諦めなかった<ref name="尚樹2005p47">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 47</ref>。そのため327年に再びニカイアで公会議が開催され、アリウスの教会復帰が認められた<ref name="尚樹2005p47"/>。しかし、その後もアリウス派、反アリウス派(主流派)、メリティオス派など各派が諍いを続け、コンスタンティヌス1世はこれに激しく苛立った<ref name="ジョーンズ2008p189">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 189</ref>。特にアレクサンドロスの死後の328年にアレクサンドリア司教となったアタナシウスは強固な信念を持ち、皇帝と帝国政府からいかなる圧力を受けてもアリウス派を拒否し続け、コンスタンティヌス1世の妥協的な方針を断固として受け入れなかった<ref name="ジョーンズ2008pp180_181">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 180-181</ref>。

コンスタンティヌス1世は335年に[[テュロス]]で公会議を開き、さらに[[エルサレム]]で大教会会議を開催して、自身がキリストの墓に建てた大聖堂で統治30周年の式典が執り行われること、そして教会の統一が為されることを求めた<ref name="尚樹2005p47"/>。しかし、最終的に教会は統一されることなく、アリウス派と反アリウス派の争いはその後も1世紀以上に渡って継続することになる。

=== 後世のキリスト教世界におけるコンスタンティヌス1世 ===
[[File:Donationconstantine.jpg|thumb|[[バチカン宮殿]]の[[ラファエロの間#コンスタンティヌスの間|コンスタンティヌスの間]]に描かれた『''The Donation of Constantine''』([[ラファエロ・サンティ]]作)]]
コンスタンティヌス1世は後世のキリスト教徒たちにとって最も重要な皇帝と1人と見なされ、キリスト教世界において長きにわたって権威の源泉であり続けた。彼にまつわる虚実織り交ざった歴史的記憶は政治・社会・宗教において大きな影響を与えた。

ローマカトリック教会においてその影響を示すものが『[[コンスタンティヌスの寄進状]](''Constitutum Constantini'')』と呼ばれる偽造文書である<ref name="シンメルペニッヒ2017p113">[[#シンメルペニッヒ 2017|シンメルペニッヒ 2017]], p. 113</ref>。『コンスタンティヌスの寄進状』によれば、コンスタンティヌス1世は使徒[[ペテロ]]、[[パウロ]]、そしてローマ教皇[[シルウェステル1世]]によってキリスト教へ改宗したという。そして、天上の皇帝が座を占めるべき場所(ローマ)に俗界の皇帝が身を置くべきではないことからコンスタンティノープルへの遷都を行い、教皇シルウェステル1世に「都市ローマと、イタリアおよび西方のすべての地区、都市、属州」の支配権を授与した<ref name="バラクロウ2012p71">[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], p. 71</ref><ref name="シンメルペニッヒ2017p113"/>。さらにコンスタンティヌス1世はローマ教皇庁が東方の4つの総大司教座([[コンスタンティノープル総主教庁|コンスタンティノープル]]、[[アレクサンドリア総主教庁|アレクサンドリア]]、[[アンティオキア総主教庁|アンティオキア]]、[[エルサレム総主教庁|エルサレム]])に対する首位権を持つことや、皇帝が教皇の騎乗を補助する義務を負うこと、皇帝が教皇に[[教皇冠]](''Tiara'')を含む各種の権標を授けたこと、教皇が皇帝と同格であることなどを定めたとされる<ref name="シンメルペニッヒ2017p113"/><ref name="バラクロウ2012p71"/>。

8世紀に入る頃になるとビザンツ帝国(東ローマ帝国)はローマを含むイタリアでの影響力を喪失しつつあり、その庇護を当てにできなくなったローマ教皇庁は帝国と距離を置き自立の道を探るようになっていた<ref name="シンメルペニッヒ2017p113"/>。この文章がこの頃にローマ教皇の周囲で作成された偽造文書であることに疑いはなく、それが作成された動機についてはっきりわかることもない<ref name="シンメルペニッヒ2017p113"/><ref name="バラクロウ2012p72">[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], p. 72</ref>。しかし、この文書は11世紀の[[叙任権闘争]]以降、ローマ教皇庁側の政治的地位の根拠として重要な役割を果たすことになる<ref name="シンメルペニッヒ2017p114">[[#シンメルペニッヒ 2017|シンメルペニッヒ 2017]], p. 114</ref>。

また、800年に「ローマ皇帝」に即位し西ローマ帝国を「復活」させた[[フランク王国]]([[カロリング朝]])の王[[カール大帝|カール1世]](大帝)はローマ教皇[[ハドリアヌス1世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス1世]]によってコンスタンティヌス1世に擬せられており、カール1世自身もコンスタンティヌス1世の印璽を模倣したものを用いていた<ref name="佐藤1995pp161">[[#佐藤 1995|佐藤 1995]], p. 161</ref>。また、コンスタンティヌス1世の宮殿[[アウラ・パラティナ]]を、[[アーヘン]]の宮殿を建造する際の参考にしたとも言われる<ref name="加藤益田2016pp197_201"/>。
[[File:AyaSophia.JPG|thumb|right|240px|[[聖母子]]にコンスタンティノープルの街を捧げるコンスタンティヌス(右)と[[アヤソフィア]](ハギア・ソフィア大聖堂)を捧げる[[ユスティニアヌス1世]](左)のモザイク画(アヤソフィア)]]
キリスト教世界におけるコンスタンティヌス1世の権威は、彼が建設した都市コンスタンティノープルを都としたビザンツ帝国においても同様に高かった。それを端的に証明するのは皇帝の名前である。ビザンツ帝国の60名あまりの皇帝のうち「コンスタンティノス」(コンスタンティヌス)を名前とした皇帝は実に11名に達する<ref name="和田2006p30">[[#和田 2006|和田 2006]], p. 30</ref>。初のキリスト教徒皇帝として「地上における主キリストの唯一の代理者」となったコンスタンティヌス1世は、ビザンツ皇帝にとってその出発点であるとも考えられ、コンスタンティヌス1世に関するあらゆる事物は「聖なる」という形容詞を付与された<ref name="和田2006pp29_30">[[#和田 2006|和田 2006]], pp. 29-30</ref>。

コンスタンティヌス1世の残像は東の皇帝と西の皇帝の間の権威を巡る論争でもたびたび議題に上り続けた。968年に(神聖ローマ)皇帝[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]の使者としてコンスタンティノープルを訪問した[[リュートプランド (クレモナ司教)|リウトプランド]]は「フランク人」の皇帝号を承認しようとしないビザンツ宮廷との論争においてコンスタンティヌス1世がローマ教皇庁や「フランク人」に与えた「贈り物」の数々に言及し、またコンスタンティヌス1世の名前を与えられた都市に依拠しつつ、祖先の言葉(ラテン語)と衣服を変更した「ギリシア人の皇帝」がいかにその後継者として相応しくないかを強調し、ビザンツ皇帝に対する西方の皇帝の優位を主張した<ref name="大月2014pp24_34">[[#大月 2014|大月 2014]], pp. 23-34</ref>。そしてリウトプランドとも面会した、コンスタンティヌス1世と同じ名前を持つ当時のビザンツ皇帝[[コンスタンティノス7世]]は息子[[ロマノス2世]]に、当時議題にあがっていた「フランク人」諸侯との縁組の可能性について、「コンスタンティヌス大帝の遺訓」に基づいてローマ人の皇帝が蛮族と通婚してはならないとした<ref name="根津2009p14">[[#根津 2009|根津 2009]], p. 14</ref>。

== 評価 ==
{{Quote box
| quote = コンスタンティヌス帝は生まれながら、心身ともに実にすぐれた資質に恵まれていた。長大な体躯、威容に充ちた風貌、優雅な挙措。そしてそのすばらしい体力と俊敏さとは、あらゆる男性的競技に見事に発揮された。幼少時から晩年まで一貫して節制、純潔の美徳を守ることにより、強靭な体質を維持しつづけた...彼自身無学無教育という弱点があったが、学問文事の価値を正しく評価するだけの雅量はあった...政務処理における精励ぶりにいたっては、まことに驚くべきものがあった。疲労を知らぬその精神力は、ほとんどたえず読書、執事、思索、さてはまた外国使節たちの引見、人民からの訴願書審査、等々の政務に捧げられた...ひとたび戦場に立てば、不撓不屈のその精神は、たちまち軍の内部にまで浸透、ほとんど間然するところない将帥の才をもってこれを率いた...
| source=-エドワード・ギボン、『ローマ帝国衰亡史』<ref name="ギボン1996pp94_95">[[#ギボン 1996|ギボン 1996]], pp. 94-95</ref>。
| align = right
| width = 23em
}}
コンスタンティヌス1世は後世のキリスト教世界において最も偉大なローマ皇帝として、また神と特別な関係を結び「地上における主キリストの唯一の代理者」となった人物として称えられ、権威の拠り所とされた。彼に対する崇拝は既にその死のすぐ後には始まっており、[[エウセビオス|カエサレアのエウセビオス]]はコンスタンティヌス1世の伝記の冒頭部で「東であれ、西であれ、全地の上であれ、ほかならぬ天の方であれ-どこにおいても、あらゆる仕方で、帝国それ自体とともにおられる祝福されたお方コンスタンティヌスを目にするのです」と始めている<ref name="エウセビオス§2">[[#エウセビオス|エウセビオス]],第1巻§2 秦訳, p.4</ref>。彼に代表されるキリスト教徒の著述家は一般にコンスタンティヌス1世の聖徳を称揚することに熱心であった<ref name="ランソン2012p14">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 14</ref>。一方で[[ゾシモス]]に代表される非キリスト教徒の歴史家たちはコンスタンティヌス1世の柔弱さ、伝統の無視がローマ帝国の没落の原因となったとして非常に厳しい視線を向けている<ref name="ランソン2012p14"/>。

{{Quote box
| quote = コンスタンティヌス帝の場合は長年にわたり国民には親愛感を抱かせ、敵どもを恐怖に慄え上がらせたはずの英雄が、晩年には栄達によって堕落し、数々の征服によりもはや偽装の必要ないほどの高位にまで登りつめた結果は、一転して冷酷放縦の君主に堕し去った人物の姿を見る事ができる...帝晩年の汚点となった数々の処刑、というよりもむしろ殺人にいたっては、どう公平に考えても恐るべき暴君-みずからの激情、また利益の命ずる前には、正義の法も人情の自然も平然として犠牲にすることができるという、そうした種類の帝王像しか浮ばぬはずである。
| source=-エドワード・ギボン、『ローマ帝国衰亡史』<ref name="ギボン1996pp97_98">[[#ギボン 1996|ギボン 1996]], pp. 97-98</ref>。
| align = left
| width = 23em
}}
19世紀から20世紀にかけて、西洋の歴史家たちによって多数のコンスタンティヌス1世の伝記が作成された。当時の西洋社会においては聖俗関係が大きなテーマの1つであり、彼ら近代の歴史家たちは、古代の著述家たちの記録の影響を受けて、また当時のヨーロッパにおける政教関係に対するそれぞれの立場も反映してコンスタンティヌス1世を評価した<ref name="ランソン2012p15">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 15</ref>。特に世俗主義者、反教権主義者、[[自由主義]]者らは、教会批判的な論調を背景にコンスタンティヌス1世を激しく批判している<ref name="ランソン2012p15"/>。現代の歴史家たちが近代以前のように聖者として、あるいは暴君・暗君としての一面的なコンスタンティヌス1世像を描くことは基本的にない。ただし、コンスタンティヌス1世が重要な人物であること自体に異論はなく、彼についての評価は多岐にわたる。

軍人としての評価は一般に極めて高い。[[ベルトラン・ランソン]]はコンスタンティヌス1世の軍事的才幹を確かなものと評し、324年に彼が使用した「勝利者(''Victor'')」という称号を「実態をみごとに反映したものだった」としている<ref name="ランソン2012p149">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 149</ref>。この評価については[[A.H.M.ジョーンズ]]も同様である<ref name="ジョーンズ2008p240">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 240</ref>。

ランソンによればコンスタンティヌス1世は政略・戦略においても概ね成功のうちに人生を終え、ローマ帝国における行政・軍隊・社会の姿を変化させ、それを長期にわたり持続させた「偉大な改革者」であった<ref name="ランソン2012p150">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 150</ref>。そしてランソンは、コンスタンティヌス1世の改革は「コンスタンティヌス革命」と呼びうるものであったと評している。

一方でその人格は後世のキリスト教徒たちが想像したような聖者・卓越した政治家としての姿とは遠く離れたものでもあったとも言われる。ジョーンズは人間としてのコンスタンティヌス1世の姿を「人物から見ても能力から見ても、コンスタンティヌスは、後世が彼に与えた『大帝』という称号には到底値しない」と言い放っている<ref name="ジョーンズ2008p240"/>。ジョーンズは、戦争におけるコンスタンティヌス1世の決断力や大胆さを高く評価する一方、その人格は非常に気性が荒く、行動は性急であり、おべっかに弱く、行政において公正さを真摯に追及してはいたが、それを実現する意思と行動は一貫性を欠き、周囲にいる臣下の影響を受けやすかったとしている<ref name="ジョーンズ2008p240"/>。また、その放漫財政とそれによる農民層の負担増大にも厳しい目を向けている<ref name="ジョーンズ2008p240"/>。一方で、同じくジョーンズによれば、コンスタンティヌス1世は彼なりに善良さを追求した人物ではあり、それはとりわけ権力者が陥りがちな性的放蕩を避けたことによって示されているという<ref name="ジョーンズ2008p241">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 241</ref>。

しかし、実態と伝承の差異はどうあれ、キリスト教に対する彼の姿勢は以降の西洋世界における宗教地図を決定付け<ref name="ヴェーヌ2010p4"/>、コンスタンティノープルの建設、ローマ帝国の再編、といった業績は後世のビザンツ帝国の前提を準備した。これのために現代の歴史学者はしばしばコンスタンティヌス1世の治世をビザンツ帝国の始まりとしても扱う。具体的にそのような立場を取る研究者にはたとえば[[尚樹啓太郎]]<ref name="尚樹2005p3">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 3</ref>や[[ポール・ルメルル]]<ref name="ルメルル2003p5">[[#ルメルル 2003|ルメルル 2003]], p. 5</ref>などがいる。ビザンツ帝国の「開始」にまつわる問題は非常に複雑であるため([[東ローマ帝国]]を参照)、無論このような見解に立たない学者は無数に存在し(例えばランソンは彼の治世をビザンツ帝国の始まりとする見解を一応斥けている)、しばしばその開始時期は明確に語られない。しかし、そのような場合でも、「前史」や「背景」としてコンスタンティヌス1世に何らかの言及をすることはごく一般的である。例えば[[南雲泰輔]]は明確にコンスタンティヌス1世の時代をビザンツ帝国の開始とはしないが、「ビザンツ的世界秩序形成」の背景としてやはりコンスタンティヌス1世の治世を解説しているし<ref name="南雲2019">[[#南雲 2018|南雲 2018]]</ref>、[[ジョナサン・ハリス]]<ref name="ハリス2018">[[#ハリス 2018|ハリス 2018]]</ref>や[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]<ref name="井上2008">[[#井上 2008|井上 2008]]</ref>らも、ビザンツ帝国の通史を書くにあたってコンスタンティヌス1世の時代から叙述を始めている。

コンスタンティヌス1世は多くを成し遂げた人物の常として毀誉褒貶が激しいが、コンスタンティヌス1世の歴史的遺産それ自体の重要性に疑問の余地はない。上記のように、ローマ帝国・ビザンツ帝国・キリスト教、あるいは地中海世界の歴史の転換点を作り上げた、西洋史における特に重要な人物の1人であると考えられている。

== 年表 ==
{| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small"
|-
!西暦
!日付
!出来事
|-
|270年頃
|2月27日
|誕生
|-
|293年
|3月1日
|父[[コンスタンティウス・クロルス]]が西方の[[カエサル (称号)|副帝]](カエサル)に就任。コンスタンティヌスは東方のディオクレティアヌスの下へ送られた。
|-
|305年
|5月1日
|東方正帝[[ディオクレティアヌス]]、西方正帝[[マクシミアヌス]]が退位。父コンスタンティウス・クロルスが西の正帝となる。東方の正帝には[[ガレリウス]]が即位。
|-
|305-306年
|
|ガレリウスの下を脱出し、父の下へ走る。[[ブローニュ=シュル=メール|ブーローニュ]]で合流。
|-
|306年
|7月25日
|ブリタンニアでコンスタンティウス・クロルス急死。[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]にて父の軍団を継承し、正帝を自称。
|-
|306年
|10月28日
|[[マクセンティウス]]がローマ市で権力を掌握し正帝を自称。マクセンティウスの父マクシミアヌスも正帝に復位することが宣言される
|-
|308年
|4月
|マクセンティウスとマクシミアヌスが不和となり、マクシミアヌスがコンスタンティヌス1世の下へ逃亡。
|-
|308年
|前半
|{{仮リンク|ルキウス・ドミティウス・アレクサンドロス|en|Domitius Alexander}}が北アフリカで正帝を自称。
|-
|308年
|11月11日
|[[カルヌントゥム]]でディオクレティアヌス、ガレリウス、マクシミアヌスが会談。[[リキニウス]]が正帝、コンスタンティヌス1世が副帝であると宣言されるが、コンスタンティヌス1世はこれを拒否。
|-
|310年
|
|ガレリウス、コンスタンティヌス1世が正帝であることを承認。
|-
|311年
|春
|マクシミアヌスがコンスタンティヌス1世の軍勢を奪取しようと試みるが失敗。コンスタンティヌス1世、夏までにマクシミアヌスを殺害。
|-
|311年
|5月11日
|ガレリウス死去。
|-
|312年
|夏
|この頃までにドミティウス・アレクサンドロス、マクセンティウスに倒される。
|-
|312年
|10月28日
|[[ミルウィウス橋の戦い]]、コンスタンティヌス1世、マクセンティウスを滅ぼす。
|-
|312年頃
|
|コンスタンティヌス1世、この頃にキリスト教信仰を受け入れる。
|-
|313年
|2月
|[[リキニウス]]とコンスタンティヌス1世、連名でキリスト教を含む諸宗教の信仰の自由を承認する書簡を送付(『[[ミラノ勅令]]』、一般にローマ帝国におけるキリスト教の公認とみなされる)
|-
|314/316年
|夏/秋
|コンスタンティヌス1世とリキニウス、武力衝突に入る。
|-
|314年
|8月1日
|アレラーテー([[アルル]])にて公会議([[アルル公会議]])開催。ドナトゥス派の主張が退けられる。
|-
|315/317年
|
|コンスタンティヌス1世とリキニウス、和平合意。317年3月1日に息子の[[クリスプス]]および[[コンスタンティヌス2世]]をリキニウスの息子[[リキニウス2世]]と共に副帝とする。
|-
|324年
|11月13日
|息子[[コンスタンティウス2世]]を副帝とする。
|-
|324年
|
|コンスタンティヌス1世とリキニウス、再び武力衝突に入る。7月に[[ビザンティウム包囲戦 (324年)|ビュザンティオン占領]]、9月18日に[[クリュソポリスの戦い]]でコンスタンティヌス1世が勝利。リキニウス降伏の後処刑される。
|-
|325年
|5月20日-6月19日
|[[第1ニカイア公会議]]。[[アリウス派]]の排除が議決し、[[アリウス]](アレイオス)破門される。
|-
|326年
|
|息子[[クリスプス]]を処刑。皇后{{仮リンク|ファウスタ・フラウィア・マクシマ|label=ファウスタ|en|Fausta}}変死。
|-
|327年
|
|アリウスの教会復帰が認められる。
|-
|330年
|5月11日
|[[コンスタンティノープル]]の落成式が執り行われる。
|-
|333年
|12月25日
|息子[[コンスタンス1世]]を副帝に就ける。
|-
|335年
|9月18日
|甥の{{仮リンク|フラウィウス・ダルマティウス|en|Dalmatius}}を副帝に就ける。
|-
|337年
|5月22日
|死去。
|}


== 史料 ==
== 史料 ==
147行目: 480行目:
== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[キリスト教]]
* [[ローマ皇帝]]
* [[ローマ教皇]]
* [[コンスタンティノープル]]
* [[コンスタンティノープル]]
* [[ローマ]]
* [[コンスタンティノープル競馬場]]
* [[トリーア]]
* [[コンスタンティヌスの寄進状]]
* [[コンスタンティヌスの寄進状]]
* [[剣闘士]]
* [[ラバルム]]
* [[ラバルム]]
* [[コンスタンチン大帝]](映画)


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 外国語文献 ===
=== 史料 ===
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=== 日本語 ===
=== 書籍・論文 ===
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* {{Cite book |和書 |author=井上浩一|authorlink=井上浩一 (歴史学者) |title=生き残った帝国ビザンティン |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社学術文庫]] |date=2008-3 |isbn=978-4-06-159866-9 |ref=井上 2008}}
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* {{Cite book |和書 |author=井上文則|authorlink=井上文則 |title=軍人皇帝のローマ |publisher=講談社 |series=講談社選書メチエ |date=2015-5 |isbn=978-4-06-258602-3 |ref=井上 2015}}
* {{Cite book |和書 |author=[[井上文則]] |title=軍人皇帝のローマ |publisher=[[講談社]] |series=講談社選書メチエ |date=2015-5 |isbn=978-4-06-258602-3 |ref=井上 2015}}
* {{Cite book |和書 |author=大月康弘|authorlink=大月康弘 |editor1-first=尚志|editor1-last=甚野|editor1-link=甚野尚志|editor2-first=共二|editor2-last=踊|editor2-link=踊共二 |title=中近世ヨーロッパ宗教と政治 |chapter=第1章 中世キリスト教世界と「ローマ」理念 |pages=19-42 |publisher=[[ミネルヴァ書房]] |series=MINERVA 西洋史ライブラリー 100 |date=2014-3 |isbn=978-4-623-06945-3 |ref=大月 2014}}
* {{Cite book |和書 |author=[[ヤーコプ・ブルクハルト]] |translator=[[新井靖一]] |title=コンタンティヌス大帝の時代 衰微する古典世界からキリスト中世へ |publisher=[[筑摩書房]] |date=2003-3 |isbn=978-4-480-84714-0 |ref=ブルクハルト 2003}}
* {{Cite book |和書 |author=小川英雄|authorlink=小川英雄 |title=ミトラス教研究 |publisher=[[リトン]] |date=1993-2 |isbn=978-4-947668-05-9 |ref=小川 1993 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[A.H.M.ジョーンズ]] |translator=[[戸聡]] |title=ヨーロッパの改宗 コンンティヌス〈大帝〉の生涯 |publisher=[[教文館]] |date=2008-12 |isbn=978-4-7642-7284-2 |ref=ジョーンズ 2008}}
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* {{Cite book |和書 |author=本村凌二|authorlink=本村凌二 |chapter=11 地中海帝国の変貌 |title=ギリシアとローマ |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |pages=411-435 |series=世界の歴史 5 |date=1997-10 |isbn=978-4-12-403405-9 |ref=本村 1997 }}
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* {{Cite book |和書 |author=尚樹啓太郎 |title=ビザンツ国の政制度 |publisher=東海大学出版会 |date=2005-5 |isbn=978-4-486-01667-0 |ref=尚樹 2005 }}(主に役職の原語名の確認に使用)
* {{Cite book |和書 |author=[[ポール・ルメルル]] |translator=[[西村六郎]] |title=ビザンツ帝国史 |publisher=[[白水社]] |series=文庫クセジュ 870 |date=2003-12 |isbn=978-4-560-05870-1 |ref=ルメルル 2003}}
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* {{Cite book |和書 |author=南雲泰輔|authorlink=南雲泰輔 |editor=南川高志|editor-link=南川高志 |title=378年 失われた古代帝国の秩序 |chapter=三章 ビザンツ的世界秩序の形成 |pages=124-175 |publisher=[[山川出版社]] |series=歴史の転換期 2 |date=2018-6 |isbn=978-4-634-44502-4 |ref=南雲 2018}}
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* {{Cite book |和書 |author=根津由喜夫|authorlink=根津由喜夫 |title=夢想のなかのビザンティウム |publisher=[[昭和堂]] |date=2009-7 |isbn=978-4-8122-0937-0 |ref=根津 2009}}
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== 外部リンク ==
{{Commons|Constantine I (emperor)}}
*{{Wikiquotelang-inline|en|Constantine the Great}}
*{{Wikisource author-inline}}
*{{Commons-inline|Gaius Flavius Valerius Constantinus}}
*{{Internet Archive author|name=Constantine I}}
* [http://www.newadvent.org/cathen/05121a.htm "Donatists"], ''The Catholic Encyclopedia'' (1909).
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2024年6月12日 (水) 02:00時点における最新版

コンスタンティヌス1世
Constantinus I
ローマ皇帝
コンスタンティヌス1世
在位 306年7月25日 - 312年10月29日
(西方副帝)
312年10月29日 - 324年9月19日
(西方正帝)
324年9月19日 - 337年5月22日
(ローマ皇帝)

全名 ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス
(Gaius Flavius Valerius Constantinus)
出生 270年頃、2月27日
モエシア属州ナイッスス
(現セルビアの旗 セルビアニシュ
死去 337年5月22日
ニコメディア
(現トルコの旗 トルコイズミット
配偶者 ミネルウィナ英語版
  ファウスタ英語版マクシミアヌスの娘)
子女

クリスプス
コンスタンティヌス2世
コンスタンティウス2世
コンスタンス1世
コンスタンティナ英語版

ハンニバリアヌス妃のちガッルス妃)
ヘレナ英語版ユリアヌス妃)
ファウスタ
王朝 コンスタンティヌス朝
父親 コンスタンティウス・クロルス
母親 ヘレナ
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ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス古典ラテン語Gaius Flavius Valerius Constantinus ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス270年代前半の2月27日-337年5月22日[1])は、ローマ帝国皇帝(在位:306年-337年)。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、元老院からマクシムス(Maximus、偉大な/大帝)の称号を与えられた。

ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響を与えた。このためキリスト教の歴史上特に重要な人物の1人であり、ローマカトリック正教会東方諸教会東方典礼カトリック教会など、主要な宗派において聖人とされている。また、コンスタンティヌス1世が自らの名前を付して建設した都市コンスタンティノープル(現:イスタンブル)は、その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、正教会の総本山としての機能を果たした。

概要

[編集]

コンスタンティヌス1世はモエシア属州のナイッスス(現:セルビアニシュ)でローマ帝国の軍人コンスタンティウス・クロルスの息子として生まれた。父はその後、ローマ帝国でテトラルキア(四帝統治)体制が形成されると西の副帝(カエサル)を務め、後に正帝(アウグストゥス、在位305年-306年)となった。父がブリタンニア(現:イギリス)で死亡した後、コンスタンティヌス1世はその軍団をひき継いで306年に正帝を自称し、312年に東の正帝ガレリウスから正式に正帝としての承認を獲得した。軍人として卓越した手腕を発揮し、帝国国境外の「蛮族」との戦いに従事するとともに、複数の皇帝たちの間で戦われた内戦で勝利を重ねた。306年の正帝自称以来、20年近い歳月を費やして対立する皇帝たちを打ち破り(310年にマクシミアヌス、312年にマクセンティウス、324年にリキニウス)、ローマ帝国を再統一した。

3世紀の危機と呼ばれる長い政治的・軍事的な動乱の時代を経ていたローマ帝国では、長期にわたって内政の再編が行われていた。コンスタンティヌス1世に先立ってこの混乱を一時終息させたディオクレティアヌス帝(在位:284年-305年)も新しい安定した統治機構の形成を模索し、各種の改革を実施していた。単独の皇帝となったコンスタンティヌス1世はディオクレティアヌスの改革を引き継ぎ、官僚制を整備し、文官と武官を分離するなどしてこれを完成させた。

内政的には、ディオクレティアヌス帝まで拡大し続けたエクィテスequites、騎士)身分の重職への登用を止め、かわりに形骸化しつつあった元老院を拡充させた。そしてこれまで騎士身分のための職だった官職を元老院身分にまで解放し、元老院身分者を大幅に増加させた。また半公式の身分であった伯(Comes、総監)を公式の身分とした。この結果、従来の元老院身分の構成員が大きく変化するとともに、元老院身分と騎士身分を内包し、それを超える新たな社会的地位が形作られた。

経済・社会面では、品質の安定したソリドゥス金貨を発行したことが特筆される。この金貨はギリシア語でノミスマと呼ばれ、その後地中海世界で最も信頼される貨幣として流通することになる。大事業を次々起こし、彼に由来する多くの都市や建造物が残された。これを支えるために多額の財政出動が必要となったことから、徴税に力が入れられ、コロヌスの移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った[2]。これらの施策はその後の西欧中世社会の原型の一部をも形作った[2]

宗教においては、ローマ帝国においてたびたび迫害されていたキリスト教を庇護し、コンスタンティヌス1世自身もキリスト教に改宗した。彼がキリスト教を受容したことは、未だ多数ある宗教の1つであったキリスト教がローマ帝国領内で圧倒的な存在となる契機となり、その後の地中海世界ヨーロッパの歴史に重大な影響を与えた。統一以前にリキニウスと共に313年発布したいわゆる『ミラノ勅令』はしばしばローマ帝国においてキリスト教を公認したものとみなされる。コンスタンティヌス1世がキリスト教に好意的であった理由や、その改宗の動機ははっきりとはわかっていない。初のキリスト教徒ローマ皇帝であったコンスタンティヌス1世は、ドナトゥス派アリウス派のようなキリスト教の分派の問題に直面した最初の為政者でもあり、教会の分裂の収拾に取り組んだ。またその過程で非正統宗派への弾圧にも初めて手を付けた。325年にキリスト教の歴史で最初の全教会規模の公会議(第1ニカイア公会議)を招集した。この会議とその後の経過によってニカイア派(アタナシウス派)が正統の地位を占めていく。

優秀な軍人であったコンスタンティヌス1世は軍事面でも多くの改革を実施した。この改革によって近衛軍団Praetorianae、プラエトリアニ)が解体され、コミタテンセス(Comitatenses、野戦機動軍)と呼ばれる中央軍と、河川監視軍(Ripenses)や辺境防衛軍(Limitanei)といった国境軍が設置された。一般的にはこの国境軍はその名の通り各地の辺境属州の国境に常駐して国境や地域の安全を守り、野戦軍は普段は帝国の属州の都市に常駐して、敵の大規模な侵入や外征などの際には主力を担うという体制であったとされている。これは軍人皇帝時代より徐々に進められてきた政策であったが、ディオクレティアヌス時代にはこの戦略は修正され、辺境に従来の倍の兵を貼り付け国境で防衛する戦略に変わっていた。コンスタンティヌス1世は辺境の軍を分割して再び国境の国境軍と機動軍である中央軍の体制に戻したうえで明確化した。

また、帝国東方の都市であるビュザンティオンに自らの名前を与えてコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、現:イスタンブル)と改称し大規模な都市に改造し、330年にはこの都市の落成式が執り行われた。コンスタンティヌス1世による内政の整備、キリスト教の拡大、コンスタンティノープルの建設といった事業は、後の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の前提を作り上げた。

コンスタンティヌス1世は337年にニコメディア近郊の離宮で死去した。その遺体はコンスタンティノープルでキリストの12人の使徒たちに準ずる存在として棺に納められた。晩年にはキリスト教の洗礼を受け、正教会ではキリスト教徒であった母とともに「亜使徒」の称号を付与されて尊崇された。

生涯

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出自

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コンスタンティヌス1世、即ちフラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスはモエシア属州のナイッスス(現:セルビアニシュ)に生まれた[3][4]。誕生日は2月27日であるが、生年は明らかではなく現代の学者による推定は西暦270年から290年までの範囲に及ぶ[3][4]。誕生日がわかるのは後世この日が祝日とされたためである[3]。主にアウレリウス・ウィクトルエウセビオスが残した年齢と崩御年、在位期間の記録に基づいて計算すると270年代前半の生誕となり、これが「慎重な見解」であるとされる[4]。しかし、その他の生年を導き出すことが可能な根拠もあり正確には不明である。コンスタンティヌス自身が自分が生まれた正確な年を知らなかった可能性もある[5]

父親はローマの将軍フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティウス、即ちコンスタンティウス・クロルス(250年3月31日 - 306年7月25日ラテン語: Flavius Valerius Constantiusギリシア語: Κωνστάντιος χλωρός)であり、母親はその最初の妻ヘレナである[6]。後にコンスタンティヌス1世は父コンスタンティウスの出自をクラウディウス・ゴティクス帝(在位:268年-270年)と結び付けたが、これが真実である可能性はほとんど無い[6]。コンスタンティウスはまた貴族出身ともされるが、恐らくは農民であり一兵卒から成り上がったものであろう[3]ビテュニアドレパナ(小アジア北西部)出身とも伝えられる母ヘレナが卑賎な身分の出身であったことは広く知られており、彼女は給仕婦であったとも[3]ナイッススの宿屋で働いていたとも言われる[7]。彼女はコンスタンティウスが西の正帝マクシミアヌスの義娘であるフラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚する際、政略的な理由から離縁されたが、コンスタンティヌスは母ヘレナとの間に密接な関係を維持した[8]。コンスタンティウスとテオドラの間には6人の子供が生まれた。

コンスタンティヌスが生まれた当時、ローマ帝国は一般に3世紀の危機と呼ばれる政治・軍事的混乱の時代の終末期にあり、主にバルカン半島の農民(イリュリア人)などから成り上がった皇帝たち(軍人皇帝)が次々と即位していた[9][10][11]。父コンスタンティウスの出世もまたこの歴史的な経緯の中に位置付けられる[9]。この混乱はコンスタンティヌスが極若い頃に皇帝として即位したディオクレティアヌス帝(在位:284年-305年)によって収拾され、彼は293年までに2名の正帝(アウグストゥス)と2名の副帝(カエサル)によって帝国を統治する四分統治(テトラルキア)体制を確立した[12]

皇帝即位前のキャリア

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ヨークにあるコンスタンティヌス1世の青銅像

テトラルキア体制の成立と共に、西方の副帝にコンスタンティウス・クロルスが指名された(コンスタンティウス1世、副帝在位:293年-305年)[12]。副帝としてコンスタンティウスは目覚ましい活躍を見せ、皇帝を称していたカラウシウスからブーローニュを奪還しアッレクトゥス英語版支配下のブリテン島も再征服した[13]

父のコンスタンティウスが副帝として即位するとともにコンスタンティヌスはディオクレティアヌスの下へと送られ、以降10年余りの間、父親と会うことはなかった[14][15]。この処置はコンスタンティウスの誠実な行動を保証するための人質としてのものであったであろう[14][15]。各地の行政機関を監督するために、また外敵の侵入を退けるためにディオクレティアヌスは自分の担当区域を宮廷および軍隊と共に常に移動していた[16]

コンスタンティヌスはこのディオクレティアヌスの移動する宮廷に随伴して各地を移動した。恐らく292年末から293年初頭にシルミウム(現:セルビアスレムスカ・ミトロヴィツァ)で合流した後、ディオクレティアヌスと共にバルカン半島各地の都市を回って294年にはディオクレティアヌスの中核拠点であったニコメディアに行って越冬した[17]。295年5月にシリアダマスカスに移動し、296年にはドミティウス・ドミティアヌス英語版の反乱を鎮圧するためにエジプトに進軍して、8ヶ月の包囲の後アレクサンドリアを陥落させた[17]。297年の夏、サーサーン朝の侵攻に対応するため再びシリアに移動し、サーサーン朝との間にそれまでで最も有利な講和を結ぶことに成功した[17]。302年に再びディオクレティアヌスはエジプトに移動した[17]。少なくともコンスタンティヌスはこの302年までには「既に幼少期を過ぎ青年期に入っていた」とされる[17]。この間に彼は軍で実績を積み階級の階段を上っていた[18]

ガレリウスの頭像

303年の即位20周年の儀式の際、東の正帝ディオクレティアヌスは退位の意思を明らかにした[19]。彼は西の正帝マクシミアヌスにも同様に退位することを誓約させ、両正帝は305年に揃って退位した[19]。5月1日にニコメディアとメディオラヌム(現:ミラノ)で2皇帝の退位式典と即位式典が同時に行われ、新たな正帝としてコンスタンティウス・クロルスとガレリウスが即位した[20]。コンスタンティヌスはコンスタンティウス・クロルスの息子という出自、またその実績から副帝への即位が予想されており、当初はディオクレティアヌスも実際に血統原理に基づいて将来後継者となるべき副帝にコンスタンティウスの息子コンスタンティヌスと、マクシミアヌスの息子マクセンティウスを任命しようとしたという記録もある(ラクタンティウス[19][21][22]。しかし実際にはフラウィウス・ウァレリウス・セウェルス(セウェルス2世)とマクシミヌス・ダイアという2人のイリュリア人が副帝に選ばれ、コンスタンティヌスはガレリウスの下に留め置かれた[23]。ディオクレティアヌスはテトラルキア体制における複数の皇帝の皇位継承という難題を武力衝突を引き起こすことなく実施することに成功した[24]

その後、コンスタンティウス・クロルスがコンスタンティヌスを自分の下に呼び寄せた時、もう1人の正帝ガレリウスはこれを拒否した[25]。恐らくこれはガレリウスが、コンスタンティヌスの名声と野心、更にはコンスタンティウスが持つ正帝位の「世襲」を警戒したためであろう[25][26][27]。ある伝承によればガレリウスはコンスタンティヌスの死を望みサルマタイとの戦いに派遣していたという[26]。後にコンスタンティヌスの補佐役となるラクタンティウスの記録によれば、コンスタンティウスの度重なる要請に折れたガレリウスはある日コンスタンティヌスの出発を許可したが、その後に自分の決断を後悔しコンスタンティヌスを呼び戻すように命じた。しかしコンスタンティヌスは素早く出発しており、ガレリウスからの追撃を計略を用いて振り切って父の下へ到着したという[27]

コンスタンティヌスは、カレドニア(現在のスコットランド)のピクト人を討伐すべくブリタンニアに進発するためにブーローニュにいたコンスタンティウスと合流した[27]。この遠征から戻った後、306年7月25日にエボラクム(現:ヨーク)でコンスタンティウスは急死した[27]。ここでコンスタンティウスが持っていた正帝位の継承はガレリウスによって決定されるべきものであったが、ブリタンニアの兵士たちは即座にコンスタンティヌスを新たな正帝として歓呼した[28]。この兵士たちによる皇帝への推戴が自然発生的なものであったのかどうかは不明であるが、複数の史料がコンスタンティヌスがその野心から帝位に昇り、兵士たちに働きかけたことを証言している[26]

西方におけるテトラルキアの破綻

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コンスタンティヌス1世はブリタンニアで推戴を受けた306年7月25日をその後の即位記念日として扱っていたが、ローマ帝国の公式文書においてはそうではなかった[29]。コンスタンティヌス1世はガレリウスに自分の正帝即位承認を要求したが、ガレリウスはこの僭称行為を認めなかった[30]。しかし、コンスタンティヌス1世が現地の軍団を掌握している現状を鑑みて現状を追認するのが賢明であると判断し、コンスタンティヌス1世を副帝として承認した[30]。そしてそれまで副帝であったセウェルス2世を正帝とし、コンスタンティヌス1世はその下位であるとされた[30]

その3ヶ月後、セウェルス2世がイタリアと更にはローマ市において課税査定を行い近衛兵の解体を宣言すると、イタリアの軍団は反乱を起こし、退位したマクシミアヌスの息子マクセンティウスが皇帝に担ぎ上げられた[30]。彼はコンスタンティヌス1世と同じようにガレリウスの承認を求めたが、マクセンティウスに対してはガレリウスは頑として譲らず、セウェルス2世に対してマクセンティウス討伐の命令を出した[30]。正帝を自称したマクセンティウスはイタリアを迅速に支配下に収め、更にアフリカの属州も支配下に置き、また退位した父マクシミアヌスをもう1人の正帝として復位させる宣言を行った[31][32]。306年末か307年初頭にマクシミアヌスはコンスタンティヌス1世の支援を求めてガリアへ向かった[31][33]

マクセンティウスの胸像

この老マクシミアヌスはかつて娘のテオドラをコンスタンティウス・クロルスに嫁がせていたため、コンスタンティヌス1世にとっては義理の祖父にあたる人物でもあった[33]。当時コンスタンティヌス1世は、父が進めていたブリタンニアの攻略を取りやめ、ガリアに戻って「フランク人」を攻撃して打ち破り、ライン川に橋を架けて「フランク人」の一派ブルクテリ族の根拠地を荒らすなどの勝利を収めていた[29]。マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世にも自分の娘フラウィア・マクシミア・ファウスタ英語版との結婚を持ちかけ、正帝位を差し出した[31]。ファウスタはマクセンティウスの妹であり当時7歳であった。この時コンスタンティヌス1世は深刻な決断を迫られていたと見られる。コンスタンティヌス1世は疑問の余地のなく正統な、かつ最も上位の正帝であるガレリウスから正式に副帝の地位を承認されていた[31]。しかし同時にガレリウスの自分に対する心証が良好ではないことを自覚してもいた[31]。一方のマクシミアヌスとマクセンティウスは明らかに僭称者であったが、それでもマクシミアヌスもかつてはディオクレティアヌス帝によって認められていた正帝の地位にあった人物であり、その行動は成功しているようにも思われたためである[31]。結局コンスタンティヌス1世はマクシミアヌスの申し出にのり、307年3月31日にファウスタと結婚した[31]。彼には既に息子クリスプスを産んでいた妻ミネルウィナ英語版がいたが、既に死別していたか、あるいはかつて父コンスタンティウスが行ったのと同じように離縁したと考えられる[33][注釈 1]

このコンスタンティヌス1世の判断は当面において的中し、セウェルス2世はマクセンティウスに敗退してラヴェンナで降伏した[31][37]。その後ガレリウスが自らマクシミアヌスとマクセンティウス討伐に乗り出したが、この討伐も同じように失敗に終わり、ガレリウスはイタリアからの撤退に追い込まれた[38][37]。だが、ガレリウスの脅威が去ると間もなくこの親子は権力を巡って反目するようになり、308年4月にはマクシミアヌスは軍に向かって息子マクセンティウスを非難する演説を行い、その地位を奪おうとした[38][36]。しかし兵士たちはマクシミアヌスよりもマクセンティウスの方を支持し、マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世の下へ逃亡を余儀なくされた[38]。コンスタンティヌス1世は今度は義父マクシミアヌスにつくか、既にイタリア・アフリカ・ヒスパニアを手中に収めていたマクセンティウスにつくかの決断を再び迫られ、マクシミアヌスに組することを決定した[38]

ここまでの経過で、ディオクレティアヌスが用意したテトラルキア体制はローマ帝国の東方では正帝ガレリウスと副帝マクシミヌス・ダイアによって維持されていたが、西方では全く形骸化しつつあった[39]。西方に副帝は1人もいなかった一方で、コンスタンティヌス1世、マクシミアヌス、マクセンティウスという3人の自称正帝が並び立っており、308年には北アフリカでマクセンティウスに対する反乱指導者となったルキウス・ドミティウス・アレクサンドロス英語版がこの列に加わった[39]。コンスタンティヌス1世は同年の時点でガリアとブリタンニアを支配下に置いており、マクセンティウスはイタリアとシチリアを支配し、ドミティウス・アレクサンドロスが北アフリカを抑えていた[39]。マクシミアヌスには根拠地が無かった[39]

マクシミアヌスとマクセンティウスの打倒

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正式な正帝であるガレリウスはこの混乱を収拾するために308年11月11日、パンノニアカルヌントゥムに、隠棲していたディオクレティアヌスと、かつて正規の西の正帝であったマクシミアヌスを招待し、会談の席を設けた[37]。ディオクレティアヌスは自らが再び皇帝となることを拒み、代わりにマクシミアヌスに再度退位するよう促した[38][40]。マクシミアヌスがこれを受け入れたことで、新たな四帝統治の枠組みの構築が模索された[40]。この会談でマクシミアヌスは正帝の称号に対する主張を取り下げ、コンスタンティヌス1世は正式な副帝であるということが確認された。ガレリウスの強い主張によって、もう1人の正帝位には彼の親しい友人であったウァレリウス・リキニアヌス・リキニウス が就任することになった[38][40][37]。そしてマクセンティウスとアレクサンドロスは僭称者として全く無視された[41][40]

しかし、副帝マクシミヌス・ダイアはリキニウスが自分を飛び越えて正帝に昇進したことに納得せず自らも正帝の称号を要求した。翌年には「正帝の息子」という称号を与えるという妥協案をガレリウスが示したが、これを受け入れることは無かった[41]。そしてコンスタンティヌス1世もまた、一旦名乗った正帝から副帝への「降格」を拒否した[41][37]。この会議の決定はコンスタンティヌス1世にとっては屈辱であり、自らの支配地にある造幣所で打刻される貨幣から正帝ガレリウスの名前を削って、自分の地位を譲るつもりがないことを示した[42]。結局コンスタンティヌス1世とマクシミヌス・ダイアは要求を押し通すことに成功し、310年にはガレリウスは副帝を廃止して両者とも正帝であることを宣言した[42][41]

マクシミアヌス像

ガレリウスから正式に正帝としての承認を得たコンスタンティヌス1世にとって、義父マクシミアヌスは最早内部の敵と化していた[41]。ディオクレティアヌスの意向に従って2度目の退位をした後もマクシミアヌスは旺盛な野心を維持し、コンスタンティヌス1世の権力を自らのものとする賭けに打って出た[41]。310年の春に「フランク人」(ブルクテリ族)討伐のためにコンスタンティヌス1世が出征に出ると、マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世が戦死したと触れ回り、ガリア・ナルボネンシスのアルルで3度目の正帝即位を宣言するとともに各地の軍団に急使を送った[43]。コロニア(現:ケルン)でこの知らせを受けたコンスタンティヌス1世は強行軍で引き返し、マクシミアヌスが軍勢を集める前に攻撃を開始することに成功した[43]。マクシミアヌスはマッサリア(マルセイユ)に逃れたが、コンスタンティヌス1世はこれを追撃して310年の夏にはマクシミアヌスを死に追いやった[43][44]

マクシミアヌスがコンスタンティヌス1世によって殺害されるとマクセンティウスは「突如再び親孝行な息子となり『父なる神帝マクシミアヌス』を称える貨幣を発行した[45]。」(ジョーンズ)。更にマクセンティウスはマクシミアヌスがコンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルスの義父でもあったことをも利用して、「義兄弟」である「神帝コンスタンティウス・クロルス」を称揚し、暗にその後継者としてコンスタンティヌス1世が支配するガリアとブリタンニアに対する正当な権利を主張した[45]

311年にはガレリウスも死去し、312年夏までにはマクセンティウスがドミティウス・アレクサンドロスを打倒して北アフリカを奪回したため、残存する「正帝」たちはコンスタンティヌス1世、マクセンティウス、マクシミヌス・ダイア、リキニウスの4人となった[45][42]。コンスタンティヌス1世はマクセンティウスに対抗するためにリキニウスとの同盟を模索し、異母姉妹コンスタンティアとリキニウスの婚約を進めた[45]。この動きに脅威を覚えたマクシミヌス・ダイアはマクセンティウスと同盟を結んだ[45]。間もなく、マクセンティウスはローマ市を含むイタリアの諸都市に設置されていたコンスタンティヌス1世の像や肖像画を破壊し、対決姿勢を鮮明にした[45]。後世の歴史家ゾシモスはこの時、コンスタンティヌス1世がゲルマン人ケルト人などを含め歩兵9万人、騎兵8,000騎を擁し、マクセンティウスは歩兵17万人、騎兵1万8千騎を集めたと記す[45][46]。しかし、現代の学者はこの数字は大幅に誇張されたものであると考えている[45][46]。同じくゾシモスの記録によれば、マクセンティウスはラエティア(現:スイス南部)を攻略してコンスタンティヌス1世とリキニウスの勢力圏を分断しようとしたが、コンスタンティヌス1世は機先を制しアルプスを越えてイタリアに入った[47][46]セグシオ(現:スーザ)を攻略したのを皮切りに、メディオラヌム(現:ミラノ)を味方につけ、タウリノルム(現:トリノ)近郊、プレシャヴェローナなど各地でマクセンティウスの軍勢を打ち破った[47][46]

やはりゾシモスの記録によれば、コンスタンティヌス1世の軍団がローマ市に迫ると、ローマの民衆は敗北を重ねるマクセンティウスを嘲笑し、平静を失ったマクセンティウスは宣託にすがった。そして彼は自分自身の即位記念日(10月28日)に吉兆があると知ってその日に戦うべく進軍した[48]。こうしてティベレ川沿いで両者は戦い(ミルウィウス橋の戦い)、コンスタンティヌス1世が完勝を収めてマクセンティウスを戦死させた[49][50]。312年10月29日、コンスタンティヌス1世はローマに凱旋し、マクセンティウスの首を槍の穂先に刺して行進することで古い支配者が世を去ったことをローマ市民に知らしめた[49]。ローマ元老院はコンスタンティヌス1世にマクシムス(偉大な/大帝)の称号を授けて称えた[50]。コンスタンティヌス1世のローマ入場にまつわる一連の出来事は碑文の情報からも確認できる[50]

改宗

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312年、コンスタンティヌス1世は何らかの形でキリスト教を受け入れた[51]。この点に関しては衆目は一致しているが、しかしそれが単なる政治上の都合からきたものであったのか、宗教的信念によるものだったのか、単なる儀式的なものであったのか、またどの程度真剣なものであったのか、様々な点において議論が続いている[51][52]。伝説的な説話ではミルウィウス橋の戦いで神の啓示を受けて勝利したことがその切っ掛けであるとされる。コンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルスが治世中にキリスト教徒に対して寛大であったことから、既にコンスタンティウス・クロルスもキリスト教徒であったという説もある[53]。しかし、それを証明する証拠は皆無であり、少なくともコンスタンティヌス1世が当初からキリスト教徒ではなかったことは、ローマ古来の神々に対して彼が捧げた奉献や、コンスタンティヌス1世を称える演説家たちが彼をユピテル(ゼウス)になぞらえて褒めることが問題になっていないことによって明らかである[53][54]

しかし、少なくとも312年のローマ入場の後、コンスタンティヌス1世のキリスト教に対する姿勢ははっきりと寛大さ以上のものとなった[54]。312年末から313年初頭までのいずれかの時点でコンスタンティヌス1世がカルタゴ司教カエキリアヌスに当てた手紙の中で「アフリカ、ヌミディア、マウレタニアの全属州」において「合法的かつ至聖なるカトリックの宗教の奉仕者のうちの指定された者たち」に対して公的資金による補助の提供を決定したことが通知されている[55]

313年2月、メディオラヌムでコンスタンティヌス1世とリキニウスが会談し、311年に約束されていたコンスタンティヌス1世の異母妹コンスタンティアとリキニウスの結婚が正式に執り行われた[56][57]。この2人の皇帝は(当時まだマクシミヌス・ダイアの支配下にある)ビュテニアパレスティナの総督に対してセルディカ勅令(311年にガレリウスが発布していたキリスト教徒迫害を停止させる寛容令)の履行を指示する通達を出した[53]。これは(ランソンによれば不正確にも)『ミラノ勅令』と呼ばれており、後世本来持っていた以上の重要性を与えられることになる[58]

ただし、これらの点が指摘されてもなおコンスタンティヌス1世のキリスト教への改宗がこの時に行われたのか完全に断言できるわけではない。彼はコインに不敗太陽神(ソル)の図像を残していたし、公的に宗教的な文言を用いる際にはキリスト教徒にも非キリスト教徒にも都合よく解釈可能な曖昧な表現を採用していた[59]。前述の通り一般的には312年にコンスタンティヌス1世がキリスト教を受け入れたとされるが、ランソンは315年の段階でもまだ彼はキリスト教徒ではなく、彼の宗教はキリスト教とソル信仰が融合した初期段階のものであったとも推測できるとしている[60]。歴史家たちの間では、どのような思考・振る舞いをしていればキリスト教徒と見做しうるのか、という観点においても相違がある。

リキニウスとの戦い

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衝突と和平

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同じ頃、マクシミヌス・ダイアはボスポラス海峡を渡りビュザンティオンを攻略した[61]。この報せを受けたリキニウスはコンスタンティヌス1世との会談を中断してただちにイタリアからバルカンへ渡り、3万の軍勢でアドリアノープル(ハドリアノポリス)へ向かうマクシミヌス・ダイア軍の前面を封鎖した[61]。間もなくリキニウスはマクシミヌス・ダイアを打ち破り、アナトリアへ後退する彼を追撃して自殺へと追い込んだ[62]。一方のコンスタンティヌス1世は「フランク人」の侵攻に対処すべくアルプスを越えて北上し、これを撃退した[63]

こうしてローマ帝国の西半がコンスタンティヌス1世の支配下に入り、東半がリキニウスの支配下に入った。だが、共通の敵を失った両正帝は間もなく対立を始めた。切っ掛けは新たに副帝(カエサル)としてバッシアヌス英語版を任命するというコンスタンティヌス1世の提案であった。コンスタンティヌス1世は彼に自分の異母妹アナスタシア英語版を嫁がせていた[63]。この任免の詳細を巡って両者は対立し武力衝突に至った[63][64][注釈 2]

コンスタンティヌス1世は314年の晩夏[63]、または316年の秋[65][64]、リキニウスの領土への侵攻を開始し、10月8日に初戦となったイリュリアのキバラエ(現:クロアチアヴィンコヴツィ)で数的不利を跳ね返してリキニウス軍を大敗させた (キバラエの戦い)[63]。リキニウスはドナウ川を下ってシルミウムへと逃れ、更に自軍をアドリアノープルへと集結させた[66]。その間、第2モエシア属州のドゥクス(Dux:公、将軍)でドナウ川下流域の軍を束ねていたウァレリウス・ウァレンス英語版を(恐らくその忠誠を繋ぎとめるために)正帝に任命した[66][64][65]。そしてアドリアノープル近郊で2度目の戦闘が行われた[64]。その勝敗は史料上はっきりしないが、この戦いの後、両者は和平条件を巡る交渉を行った[66]。だが、使節を通した交渉は失敗し戦闘が再開された[66]。2度目の戦闘がアルダ川流域で行われたが、衝突後に両軍は敵を見失い、コンスタンティヌス1世はリキニウスが東のビュザンティオンに退却したと見て進軍し、一方のリキニウスは北西のベロイアへ移動したために双方が後方連絡線を遮断された[66]。317年3月1日[64][67]、セルディカで再び和平交渉が行われ今度は和平合意が成立した[64][67](ジョーンズの採用する編年では和平は315年は成立したとされている[66])。合意では領土的にはコンスタンティヌス1世が大幅な拡大に成功し、トラキアを除くバルカン半島のほぼ全域がコンスタンティヌス1世の支配下に入る事となった[66]。そしてウァレリウス・ウァレンスは廃位されて処刑され、コンスタンティヌス1世の長子クリスプス(13歳前後)、ファウスタとの間の別の息子小コンスタンティヌス(当時出生直後)、そしてリキニウス2世(1歳8か月)の3名を副帝とすることが定められた[68][67][注釈 3]。以降、321年または323年までの6年間、この和平は維持された[68][64]

リキニウスの死

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比較的長く続いた平和の後、コンスタンティヌス1世とリキニウスの関係は再び悪化した。その要因にはコンスタンティヌス1世が息子のクリスプスと小コンスタンティヌスをリキニウスと相談することなく(ジョーンズによれば321年に)執政官職(コンスル)に就けたこと[68]、その後もリキニウスの同意なしにコンスルの任命をし続けたこと、リキニウスが自領内でコンスタンティヌス1世が任命したコンスルを無視したこと[68]、323年にコンスタンティヌス1世が第2モエシア属州に侵入したゴート人を討伐するためにリキニウスの領土に侵入したこと[68][69]、キリスト教徒の庇護者として振る舞うコンスタンティヌス1世の姿を見たリキニウスが、自分の領内のキリスト教徒をスパイだと疑い始めたこと[64][69][70]などが挙げられている。リキニウスはコンスタンティヌス1世よりもはっきりと一神教的な見解を持っていたようにも見受けられるが、古くからの神々を拒否することは無く、それらを偉大なユピテル神の別側面であるとみなしたと考えられる[70]。一方でコンスタンティヌス1世はキリスト教徒への庇護の傾斜を強め、320年にはコンスタンティヌス1世のコインに残されていた最後の異教の神、不敗太陽神(ソル)の図像が姿を消した[71]。コンスタンティヌス1世がキリスト教への傾倒を強めるほどに、リキニウスはキリスト教徒たちの礼拝がコンスタンティヌス1世のためのものであるという認識を強め、教会の活動への統制を強めていった[70]。324年には両者は再び武力衝突に至った[70]。彼らは自分が基盤を置く宗教組織へ協力を求めたとされている。コンスタンティヌス1世はキリスト教の司教たちを呼び寄せ、自軍の兵士たちに至高の神への祈りを強制し、リキニウスは祭司、占い師、魔術師をエジプトから呼び寄せ神々に犠牲を捧げたという[71]

コンスタンティヌス1世とリキニウスはともに過去の内戦で動員されたよりもはるかに大きな兵力を擁していた[注釈 4]。戦いはコンスタンティヌス1世の先制攻撃で始まり、彼は324年7月3日にアドリアノープル近郊に駐留していたリキニウス軍を攻撃した[72]。コンスタンティヌス1世自身が腿に負傷を追う激戦の末に彼は勝利を収め、リキニウスはビュザンティオンに退却した(アドリアノープル(ハドリアノポリス)の戦い英語版[73][69])。

リキニウスはビュザンティオンで諸局長官英語版Magister officiorum[注釈 5])のセクストゥス・マルキウス・マルティニアヌス英語版を共同皇帝に擁立した[73]。コンスタンティヌス1世はビュザンティオンを包囲したが、リキニウスは海上優位を活用して都市への補給を続けこれに耐えた[73]。しかしコンスタンティヌス1世は同時に息子のクリスプスが指揮する艦隊に攻撃を命じており、リキニウスの海軍司令官アバントゥスの失策も手伝ってクリスプスが大勝を収め(ヘレスポントスの海戦)た。これによってビュザンティオンの維持を諦めたリキニウスはボスポラス海峡をわたって小アジアのクリュソポリス(現:トルコ領ユスキュダル、イスタンブルの対岸)へと後退した。324年9月18日、クリュソポリスで最後の戦いが行われ、ここでもコンスタンティヌス1世が勝利を収めた[73]。敗北したリキニウスは更にニコメディアに逃れたが、そこで包囲され妻コンスタンティアを兄であるコンスタンティヌス1世の下へ送り助命を嘆願させた[73][75]。コンスタンティヌス1世はリキニウスとマルティニアヌスが命を保つことを認め降伏させた後テッサロニキに送ったが、しばらく後に処刑した[73][75]。後世の史料はリキニウスが蛮族を集め再起を図ったためにコンスタンティヌス1世が彼を処刑したのだとするが、実際のところは確たる理由はなくコンスタンティヌス1世の警戒心によるものであろう[73]。少なくとも当時の人々にとってこの処刑が名誉ある行動ではなかったことは、コンスタンティヌス1世を称揚する教会史家エウセビオスがこの処刑を曖昧に書いていることなどから推測できる[76]

単独の皇帝として

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コンスタンティウス2世像

324年という年はコンスタンティヌス1世にとって、またローマ帝国にとって大きな転換点となる年である[75]。リキニウスの死によって、コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌスによる帝権分割以来となる単独のローマ皇帝となった[75]。彼は未だ7歳であった息子のコンスタンティウス2世を副帝に据え、新たな体制の構築に乗り出した[75]

帝国の政治・経済・文化の重心が東方へ移っていたことから、324年中にはコンスタンティヌス1世はボスポラス海峡に面する要衝の都市ビュザンティオンに着目し、自らの名前を与えてコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンティヌスの町)と改称することを決めた[77]。そして330年に(工事はまだ途中であったが)落成式が執り行われた[78]。また、ディオクレティアヌス以来続けられていた行政改革を引き継ぎ、中央政府組織を整備した[67]元首制期の皇帝は個人的な友人・同僚たちの助言集団を持ったが、これは次第に公的なものとなり、3世紀の危機を経てディオクレティアヌスの時代には枢密院consistorium[注釈 6])と呼ばれるようになった[80]。コンスタンティヌス1世はこの枢密院をより確固たる組織に仕立て上げ[81]、また、軍制改革を行い、この結果行政機関の文民部門と軍事部門の分離が進行した[82]。財政面では純度の安定したソリドゥス金貨を発行したことが特筆される[83]。従来からソリドゥスと呼ばれる金貨は発行されていたが、コンスタンティヌス1世は新たな基準でこれを発行した。この新貨幣はノミスマと呼ばれ、後に帝国の標準貨幣として流通することになる[83][84]

宗教面ではキリスト教の教義上の分裂の収拾を試みた。コンスタンティヌス1世はかつての迫害によってキリスト教の教会が被った損失の回復を行い、教会の庇護者として振る舞っていたが、帝国内のキリスト教には教義の差異が生じており、復活祭の日付もバラバラであった[77]。そして彼が皇帝となった時には、アレクサンドリア司教アレクサンドロス司祭アリウス (アレイオス)との間の論争に端を発して、東方の属州全域の司教たちを巻き込んだ分裂が生じていた[85]。コンスタンティヌス1世はこれに介入し、教義の細部に拘泥せず和解するよう促した[86]。しかし、このアリウス派と反アリウス派の対立が容易に解決する段階にないことが明らかとなると、325年5月20日にニカイア(ニケア)に数百名の司教を招集し、ニカイア公会議(第1回全教会会議)を開催した[87][77][88]。コンスタンティヌス1世自らも議論に加わり、妥協的な結論を出すことが探られたが、結局アリウス派の排除が決定されると共に、他の各司教に共通の信条(ニカイア信条)を受け入れるよう圧力が加えられ、それが結論とされた[89]。同時にローマ、アレクサンドリア、アンティオキアの教会の首位性の確認や、群小異端の禁止などが行われた[89]。しかしその後もコンスタンティヌス1世はアリウス派との妥協を模索し、アリウスの教会への復帰を認めた[90]

クリスプス処刑とファウスタの変死

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クリスプスのコイン
ファウスタ像

326年、コンスタンティヌス1世は妻ファウスタと息子のクリスプス(ファウスタの子ではない)を処刑した[91]。この謎の事件について知ることができることは限られている[92]。偉大な皇帝の家庭内で発生したこの事件は同時代の著作家たちに「注意深く無視」(ジョーンズ)されており、現代に残された記録は後世に書かれたゴシップのようなものばかりのためである[92]。はっきりしていることは、この年に充分にその能力を認められていた長子クリスプスが処刑され、その後間もなく皇后ファウスタが変死したことである(ある噂では浴場で窒息死したという)[92][91]

残されたそうした噂の記録では、義理の息子クリスプスの人気に嫉妬したファウスタは、彼が自分との姦通を試みたとコンスタンティヌス1世に訴え出たためにクリスプスが処刑され、これに怒ったコンスタンティヌス1世の母ヘレナは、お気に入りの孫クリスプスの仇を討とうと、この醜聞で問題があったのはファウスタの方だとコンスタンティヌス1世に主張し、その結果としてファウスタも殺害されたのだという[92][91]。また、ファウスタが官吏との間で姦通したという噂も残されている[92]

326年4月25日の勅法でコンスタンティヌス1世が姦通を告発する権利を夫に限るという手を加えていることや、あるいはソレントの碑文からファウスタとクリスプスの名前が削り取られていることなどの状況証拠が存在するため、現代の学者はこうしたゴシップめいた情報の史実性を完全に否定できるわけでもない[93][91][注釈 7]

対外遠征と崩御

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コンスタンティヌス1世崩御時のローマ帝国の勢力範囲。

330年代に入った頃、恐らくは側近である司教たちの影響を受けてコンスタンティヌス1世は宗教的な寛容さを失いつつあった[96]。また、既に複数の正帝のうちの1人であった頃から、軍におけるキリスト教の普及や教会への支援に熱心であったが、関心の多くが信仰に関する事柄に向けられるようになった晩年には宮廷のキリスト教化にも取り組んだ[97]。官吏たちに対する演説をしばしば神の裁きについての話で締めくくり、数多くのキリスト教徒を新たにコメスComes、伯、総監)の身分に昇進させた[98]。キリスト教信仰を告白することが皇帝の歓心を買う有効な手段であることは誰の目にも明らかとなり、いくつもの都市や村落がキリスト教への帰依を明らかにすることで皇帝からの恩寵を得た[98]。上流階級においても出世のために改宗する者が幾人も出てコンスタンティヌス1世のキリスト教徒に対する気前の良い分配の恩恵に預かった[98]。このような風潮については教会史家エウセビオスすら批判的な見解を述べている[98]

内政面においては333年に息子のコンスタンス1世を、335年に甥のダルマティウス英語版を副帝に任命した[96][99]。ミネルウィナとの間の息子で殺害されたクリスプスを除き、既に副帝であったファウスタとの間の息子コンスタンティヌス2世コンスタンティウス2世コンスタンス1世の3名にダルマティウスを合わせて4人の副帝を擁する体制となった[96][99]。これは恐らく帝位継承の準備であったであろう[96]。コンスタンティヌス2世がアジア・エジプトを、コンスタンティウス2世がガリアを、コンスタンス1世がイタリア・アフリカ・パンノニアを、ダルマティウスがトラキア・マケドニア・ダキア(ドナウ川流域)を、それぞれ分割して担当した[99]。コンスタンティヌス1世が このような処置をとったことは、結局のところ広大かつ複雑化したローマ帝国の統治が1人で担当可能なものでは無かったことを示している[100]

対外的には統一後もコンスタンティヌス1世は熱心に軍事遠征を繰り返していた。328年に息子コンスタンティウス2世と共にライン川方面でアレマン人と戦って勝利を収め、332年にはドナウ川でゴート人を降伏させた。334年にはダキア方面でサルマタイを破った[101]。東方ではアルメニアティグラネス5世サーサーン朝シャープール2世によって廃立され同国が占領されたことをきっかけにサーサーン朝との関係が悪化した[100]。アルメニアの親ローマ派がアルメニアをローマ帝国に献上することを申し出たことを受けて、コンスタンティヌス1世は甥のハンニバリアヌスをアルメニア王とした。この処置は将来のローマ帝国とサーサーン朝の戦争の原因となったが、実際に戦端が開かれるのはコンスタンティヌス1世崩御後のこととなる[100][96]。コンスタンティヌス1世の統治最後の3年間はサーサーン朝への遠征の準備に費やされ、ペルシア人をキリスト教に転向させ、また彼がキリストと同じようにヨルダン川洗礼を受ける計画が立てられた[102]。しかし337年の復活祭の直後、コンスタンティヌス1世は体調を崩して倒れ、この計画を実行に移すことは不可能となった[103]。神学者ヒエロニムスが伝えるところによると、死期を悟ったコンスタンティヌス1世は崩御する少し前に洗礼を受けた。当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった[注釈 8]。そして同年の聖霊降臨祭の日(5月22日)にニコメディア近郊のアンキュロナの離宮で崩御した[103]

コンスタンティヌス1世の遺体は紫衣に包まれた金棺に納められてコンスタンティノープルに運ばれ、高官たちの礼拝を受けた後に諸使徒聖堂に安置された[103][104]。伝統的なローマの葬儀ではなくキリスト教の作法による葬儀が行われ、キリストの12人の使徒たちの石棺(遺体は安置されていないハリボテであったが)の中央に13番目としてコンスタンティヌス1世の棺が安置された[103]。これは彼のキリスト教信仰を明白に示すものであり、その業績とキリスト教公認とによって死後も「大帝」の贈り名とともに記憶され、また「使徒に等しき者(亜使徒)」として列聖された[104]。ローマ市は皇帝が埋葬地としてローマではなく新たな都コンスタンティノープルを選んだことに反発した。そしてコンスタンティヌス1世がキリスト教徒であることが周知であるにもかかわらず、ローマの元老院はそれまでの皇帝と同じように彼自身にローマの神々の一員たる名誉を与えた[105]

後継者

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コンスタンティヌス1世の崩御後、激しい権力闘争が行われた。コンスタンティノープルの軍団はコンスタンティヌス1世の息子以外に皇帝たるべき人物はいないと主張して暴動を起こし、コンスタンティヌス1世の兄弟フラウィウス・ダルマティウス英語版とその息子である副帝ダルマティウスおよびアルメニア王ハンニバリアヌスを殺害した[106]。またコンスタンティヌス1世の別の兄弟ユリウス・コンスタンティウスも殺害され、他にオプタトゥス・オリエント道長官アブラビウスなども処刑された[106]。3ヶ月にわたるこの混乱の空位期間の後、コンスタンティヌス1世とファウスタの間の息子、コンスタンティヌス2世コンスタンティウス2世コンスタンス1世が337年9月9日に揃って自らを正帝と宣言した[106][107]

後継者となった正帝3人はそれぞれ、コンスタンティヌス2世がブリタニア・ガリア・ヒスパニアの帝国西方を支配し、残りの2名はダルマティウスの支配地も分割してコンスタンティウス2世がトラキアポンティカ・アジア(アシアナ)、オリエンス(シリア・エジプト)を、コンスタンス1世がパンノニアイタリアアフリカダキア(ドナウ川流域)・マケドニアを支配することになった[106]。一応コンスタンティヌス2世が帝国全土に対する権威を保有していたが、この体制は長続きしなかった[106][107]。340年、コンスタンティヌス2世は自らの権威を愚弄したとして弟コンスタンス1世の支配するイタリアへ侵攻したがアクィレイアで敗北して崩御した[108][109]。これによってコンスタンス1世がその遺領も掌中に収め、帝国全土の3分の2を支配するに至った[108][109]。その後10年余りの詳細な経過は不明であるが、コンスタンス1世の支配地ではブリタニアやアフリカで紛争が絶えず、他方のコンスタンティウス2世もサーサーン朝との間に勃発した戦争に忙殺されていた[108]。そして350年1月、皇帝領伯マルケリヌスゲルマン人の血を引く将軍マグネンティウスによる陰謀によってコンスタンス1世が殺害され、マグネンティウスが皇帝を称した[108]。同年3月1日にはイリュリクムでコンスタンス1世配下の歩兵軍司令官であったヴェトラニオも皇帝を称し、コンスタンティヌス1世の甥であったネポティアヌスもローマ市を占領して皇帝を名乗った[108]

ネポティアヌスは間もなくマグネンティウスによって滅ぼされ、マグネンティウスとヴェトラニオは共にコンスタンティウス2世に正式な正帝としての承認を求めた[108]。マグネンティウスは和解を演出するためにマルケリヌスを使者としてコンスタンティヌス1世の娘コンスタンティナ英語版との結婚、およびコンスタンティウス2世に自身の娘を嫁がせることを提案した[110]。コンスタンティウス2世はマグネンティウスの地位を断固として認めず、またヴェトラニオは退位と引き換えに年金を得ることで合意し、皇帝を退いた[108][109]。コンスタンティウス2世は甥のコンスタンティウス・ガッルスを副帝にして東方を任せ、マグネンティウスも兄弟のデケンティウスを副帝にしてガリア統治を委任し、両者は互いにバルカン半島へと進軍した[108][109]。351年9月28日、ムルサの戦いでコンスタンティウス2世が勝利を収めた[108][109]。マグネンティウスはイタリアを経てガリアへ引いたが、353年の夏、モンス=セレウクスの戦いで敗れコンスタンティウス2世が帝国を再統一した[108][109]

その他の子孫

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コンスタンティヌス1世には2人の娘がいた。1人は先述のコンスタンティナ英語版(コンスタンティアとも、? - 354年)であり、もう1人はユリアヌス帝の妻となったヘレナである。ヘレナはユリアヌスの子の流産と死産を繰り返した後は健康が優れず、ガリアの地で360年に亡くなった(没年齢は不明)。この死産時の子供達以外にこの2人の間に子女は確認できない[111][112][113]。コンスタンティナは初め、アルメニア王位を約束されていた副帝ハンニバリアヌスと結婚した。337年にハンニバリアヌスがコンスタンティウス2世に殺害された後はローマに居を移し、同母兄弟コンスタンス1世を殺害したマグネンティウスと連絡を取り合って接近した。その後、コンスタンティウス2世は351年にコンスタンティナをコンスタンティウス・ガッルスと再婚させた。彼はユリアヌスの異母兄であり副帝に任命されていた。コンスタンティナはガッルスとの間に一人娘アナスタシアを儲けた。354年、ガッルスはコンスタンティウス2世からミラノへ招聘された。ガッルスは招聘が召喚であることを分かっており、コンスタンティウス2世の実の姉妹であることに望みを繋いで妻コンスタンティナを弁護役にし、先にミラノへ発たせた。しかし、コンスタンティナはシリアからイタリアへの長旅の途中で病に倒れ、病死した(没年齢は不明)。ガッルスも宦官エウセビウスの策略によりポーラで処刑された[114][113]

統治

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建設活動

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コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)建設

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コンスタンティヌス1世の位置(地中海内)
コンスタンティノープル
コンスタンティノープル
ニコメディア
ニコメディア
アレクサンドリア
アレクサンドリア
ローマ
ローマ
アンティオキア
アンティオキア
コンスタンティナ
コンスタンティナ
セルディカ
セルディカ
コンスタンティヌス1世と関係する地中海の都市

324年、彼はボスポラス海峡に面する要衝の都市ビュザンティオン(ビュザンティウム)に自らの名前を与えコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンティヌスの町)と改称した[77]。この都市は海陸が交叉する地理上の要衝であり、ドナウ川の国境とアジアの国境の双方へ睨みを利かせる拠点として優れていたことに加え、ローマ帝国の政治・経済・文化の重心が東方へと移っていたことがこの選択に繋がった[78]。母なる都市ローマを模して7つの丘が定められ14区が設置されたという[78][注釈 9]。また、元老院や聖堂、広場(フォルム)、宮殿やその他の公共施設が建設された[78]。工事の完了を待たず、330年5月11日には落成式が執り行われた[78]

コンスタンティノープル建設はコンスタンティヌス1世の政策の中でも後世の歴史に最も大きな影響を残したものの1つであり、「新たなるローマ」として建設されたと後世の記録は伝えるが[116]、同時代の記録者たちはコンスタンティノープルの建設にほとんど注意を払っていない[117]。実際には新たなるローマという認識は建設当時には無かったとも言われている[116]。これは当時属州の都市に皇帝が名前を付けることはあり触れたことであったためであろう[117]。皇帝が都市に自分の名前を与えるのは、初代アウグストゥスの頃から繰り返されてきたことであり、ローマ帝国の領内は皇帝の名を与えられた都市がひしめいていた[117]。また、ローマ帝国の重心が東に移っていることも周知のことで、コンスタンティヌス1世の姿勢は特に特殊なものではなく、既にディオクレティアヌスやガレリウスといった上位の正帝がニコメディアを中心に、東方に拠点を構えて滞在し続ける状況は何十年も継続していた[117]。当時ローマは首都長官(Praefectus urbi)の管理下に置かれ、精神的な面を含めて首都であることに変わりなかったが、行政の中心としての役割を果たさなくなって久しく、実質的な行政府は前線で外敵と(そしてしばしば内戦を)戦う皇帝たちに付随して移動していた[117]。皇帝がローマ市に立ち寄ることは滅多になく、平時にはそれぞれの任地の都市に建設した宮殿に居住しており、コンスタンティヌス1世も西の正帝であった頃はトリーアに住み、イリュリクムを平定した後にはセルディカ(現:ブルガリア領ソフィア)を「我がローマ」と言ったと伝えられる[117]

上記のようにコンスタンティヌス1世が実際にコンスタンティノープルを「新たなローマ」として建設したのかは定かではないが、しかし一般的な都市よりは特別な存在に仕立て上げられたことも事実であった[118]。新都市建設にあたっては惜しみない費用がかけられ、建築部材や装飾用の美術品を求めて各地の神殿から略奪が行われた[118]。その市域は既存のビュザンティオンの3.5倍にも拡張され、都市を囲う城壁や宮殿も用意された[119][120]。ローマ市よりは明確に格下であったにせよ、一般的な属州都市よりは高い法的地位が与えられ、ビュザンティオンの都市参事会を改組して元老院が置かれた[118]。ローマの元老院議員は爵位としてクラーリッシムスだったのに対しコンスタンティノープルの元老院は格下のクラールスとされた[118][121]。両都市の位置付けが法的に対等となるのはコンスタンティウス2世の治世であり[121]、実際にコンスタンティノープルが事実上の「首都」として機能し始めるのはテオドシウス1世(在位:379年-395年)の治世のことである[122]

コンスタンティヌス1世自身が真実この都市をどのように位置づけていたかを窺い知ることができる史料はほとんど残されていない。「神の命令によって」行動した結果であるとしている勅法は存在するが、これは単に敬虔さを示す修辞としての要素が強いであろう[123]。異教に汚されることのない、聖別されたキリスト教の都市として神に捧げられたものであったとする見解もあるが[123]、コンスタンティノープルにおいてテュケー(幸運)や不敗太陽神(ソル)崇拝などの伝統的要素が完全に排除されたわけでもなかった[124]。ただし、実際がどうであれ、後世成立する東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が1453年にオスマン帝国に征服されるまで、この都市を舞台にして「ローマ帝国」は継続した。そしてこの都市は正教会の総本山でありキリスト教世界の中心の一つとして機能した。

ローマ

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コンスタンティヌス1世の凱旋門

ローマ皇帝として、コンスタンティヌス1世は真の首都ローマでも活発な建設活動を行った。ローマ市に入場した後、当然のことながら彼は自身の皇帝としての威光を建造物で示そうとした。315年にはコンスタンティヌスの凱旋門が建設された[125][126]セプティミウス・セウェルス凱旋門を模したこの凱旋門はローマ世界最大の凱旋門であり、過去の建造物から転用された浮彫彫刻で装飾された[125]。まずマクセンティウスを破ってローマに入場した後、マクセンティウスが建造を始め、ほぼ完成していたバシリカをコンスタンティヌスのバシリカと改名して集会や謁見に用いた[127][126]

これ以外にも、ローマでキリスト教建築を大々的に設置した。コンスタンティヌス1世が首都で本格的に新しく建設した最初の建物は救世主のバシリカと呼ばれる大聖堂である[128]。これはかつてラテラヌス家が所有していた大邸宅の跡地に建てられたもので、312年から建設が始められローマの大司教座教会堂とされ、現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の前身となった[128]。また、母ヘレナがエルサレムで取得した聖遺物を奉納するためにヘレナの邸宅であったパラティウム・セッソリアヌムを改築して聖堂とした。これは現在のサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂の前身となっている[128]。上記はローマの城壁内に建造されたものであるが、城壁外にもバシリカ・アポストロルム(使徒聖堂、現:サン・セバスチアーノ教会英語版)、サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、サン・ペトリ・イン・ウァティカノ(サン・ピエトロ大聖堂)などを建造した[129]

こうしたキリスト教建築は城壁外の、郊外の地でより活発に行われた。帝国の首都ローマは伝統的宗教の牙城であり、それ故に少なくとも入城当初のコンスタンティヌス1世は古くからの神ユピテルへの配慮を見せていた。このため、新たなキリスト教建築はローマ市民の反応を見ながら進められ、また目立たない場所での実施が中心になったためである[130]。郊外が選ばれたもう一つの理由には、ローマ市の中心部は既に数世紀に渡る建築活動で建設された公共建造物がひしめいており、必要な用地を容易に確保できなかったことがある[131]。既存の建造物の転用には様々な困難があり、また市民の反発を受ける可能性も無視できなかった[131]。これらのことが、新たな都市コンスタンティノープルへの「遷都」を決定付けた理由の1つであるという見解もある[132]

トリーア

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コンスタンティヌス1世によって建造されたトリーアの公衆浴場(テルマエ

306年に副帝に即位して以来、西方の皇帝としてコンスタンティヌス1世が拠点としていたトリーアでは、お膝元として大規模な整備が行われた[133]。皇帝や皇后、息子クリスプスの住居や、浴場、円形闘技場、大掛かりなバシリカも建造され、バシリカにはお湯を流して温める床暖房も供えられていた[133]。コンスタンティヌス1世の宮殿アウラ・パラティナは、後にフランク王国カール1世(大帝)がアーヘンの宮殿を建造する際の参考にされたとも言われる[134]。トリーア近郊には夏用のヴィッラも建造された[133]

その他の都市

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複数の町がコンスタンティヌス1世によって再建され、彼やその家族の名を与えられたと伝わる。そのような都市には現在のフランスにあるオータン(フラウィア・アエドゥオルム)、現在のアルジェリアにあるキルタ(コンスタンティナ、現:コンスタンティーヌ)などがある[135]。また、コンスタンティヌス1世は323年から324年にかけて現在のギリシアにあるテッサロニキに滞在した際、この町を非常に気に入り、巨大な教会や港湾、浴場など数多くの建物を建てたという[135]

内政

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コンスタンティヌス1世は多岐にわたる制度改革を実施した[100]。一連の改革によって構築された政府機構は後の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の政府の原型となり、「初期ビザンツの中央政府組織はほぼ彼の時代に形造られた」(尚樹啓太郎)とも評される[100]。一連の改革はディオクレティアヌスが行っていた帝国の再編を継承したものでもあり、また軍事部門の再編と行政の再編を通じて国政を組織化し分担することで帝国の統一を維持しようとしたものであった[80]

官職の整備

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ディオクレティアヌス時代に整備された中央政府の組織はコンスタンティヌス1世治下で更に発展・整備された。宮廷には皇帝の飲食・衣装・ベッドメイクなど家政部門を担う寝室Cubiculum)があったが、コンスタンティヌス1世時代にはそれを統括する宮内長官(Praepositus Sacri Cubiculi)とその補佐役である執事長(Castrensis sacri palatii)が置かれてこの組織を管理した[136]

旧来からの枢密院(Consistorium[注釈 6])では書記官長の役割が強化され、上級役職者や軍司令官への将軍への命令は書記官長から出されるようになった[80]。文武官の長は伯(総監、Comes)の地位を与えられそのメンバーとなった[79]。この組織が重要方針の策定や役人の任命を担った[79]

イリュリクム道(Praefectura praetorio per Illyricum)の記章。各道に近衛長官(道長官)が置かれた。

また、3世紀の危機の間に大きな権威を持つようになっていた近衛長官(Praefectus praetorio)の地位にも変更が加えられた。この役職は制度的には元来軍事面における皇帝の私的な使用人に過ぎなかったが、この頃までに司法や徴税、経済などの分野まで統括するようになり、皇帝に次ぐ権威・権力を保持して皇帝不在時にはその代理のような役割を果たすようにもなっていた[137][138][139]。それだけにこの地位にある者の役割は重要であり、皇帝にとっては常に警戒を要する存在であった[137]。コンスタンティヌス1世は新たに軍事長官(Magister militum)を設置し、近衛長官の職務内容を主として特定の地方における徴税・司法・行政・郵便・経済などの分野に限って文官化を目論んだ[140][139]。『官職要覧Notitia Dignitatum)』と呼ばれる文書の記録を信ずるならば、ローマ帝国はガリア、イタリア・アフリカ、イリュリクム、オリエンスという四つの道(Praefectura)に分割され、その下に管区(Dioecesis)、さらに州(Provincia)が階層的に設定された[141]。そして近衛長官は実質的にそれぞれの道を管轄する職位になっていった[141]。ラテン語の役職名が変更されることはなかったが、日本語では上記のことから4世紀以降、文官化したPraefectus praetorioは「近衛長官」ではなく「道長官」と訳す場合が多い[141][140]

また、コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌス時代に置かれていた貨幣管理長官(Rationaris summarum[注釈 10])を恩賜伯英語版Comes sacrarum largitionum[注釈 11])に、皇帝領長官(Rationaris rei privatae[注釈 12])を皇帝領伯(Comes rei privatae[注釈 13])に改称し、収入や支出、皇帝の財産を管理させた[142]。コンスタンティヌス1世はこの財務管理職の他にも各行政部門の長を設置し、更に各官庁を諸局長官英語版Magister officiorum[注釈 14][注釈 5])に統括させた。この役職はそのほかに、帝国の東半部では部隊の指揮権や要塞の管理など軍事的な役割を担うようにもなっている[139][142]。これは強大化し過ぎた近衛長官へ対抗させるための処置でもあった[139]。これらは枢密院の構成員となる高官職であった。

軍制改革

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コンスタンティヌス1世は帝国の軍事組織に様々な改変を行った。ディオクレティアヌス時代にはローマ帝国の国境防衛は、国境に常駐する駐屯軍を主軸とし、皇帝が指揮する野戦軍は少数の連隊だけで構成され、必要に応じて国境から引き揚げた部隊を組み込んで補強するという体制がとられていたが、コンスタンティヌス1世は外敵の攻撃に柔軟に対応するべくこの国境の部隊を削減し国内の都市に駐屯させることでコミタテンセス(Comitatenses、野戦機動軍)と呼ばれる大規模な常備野戦軍を組織し[82][143]、その指揮官として歩兵軍司令官(Magister peditum)と騎兵軍司令官(Magister equitum)という地位が作られた[82][143][144]。そしてこの軍は河川監視軍(Ripenses)や辺境防衛軍(Limitanei)と名付けられた国境軍よりも上位の存在とされた[82]。この国境軍の指揮体系もディオクレティアヌス以来の再編を引継ぎ、国境全体を複数の方面に分けて各々を公(Dux、方面軍司令官)の管轄とする体制を完成させた[82][145][注釈 15]

また、コンスタンティヌス1世は312年にローマを占領した後、アウグストゥス以来精鋭部隊として組織されていた近衛軍団Praetorianae)-近衛歩兵隊と近衛騎兵隊英語版Equites singulares)-を解体し、新たにスコラ隊(Score Paratinae、近衛軍[注釈 16])を置いた[148]。この部隊はその後、諸局長官の指揮下に置かれ、精鋭部隊として、また政治的支配の手段としてコンスタンティヌス1世の支配に貢献した[143]。これとは別にドメスティクス伯(Comes domesticorum)によって率いられる皇帝護衛担当の親衛隊(Domesticus)もあった[143][149]。この部隊は特別の任務につき、その構成員は将来の士官候補生のような存在となった[143]

この一連の改革の進展によって近衛長官(Praefectus praetorio)の軍事的性質は大きく削減され、その職務は文民行政や新兵の徴収などに限られて行くことになり[82]、また例外は残るものの文官と武官が分離された[143]

そして、後世から見て重要な影響を与えたかもしれないコンスタンティヌス1世の軍事上の処置にゲルマン人を始めとした「蛮族」の大規模な徴兵がある。既に306年に父親から引き継いだ野戦軍をマクセンティウスとの戦いに充分な規模にするために蛮族の捕虜を組み込んでいた[150]。こうした処置はコンスタンティヌス1世が初めてだったわけではないが、彼のゲルマン人の動員は過去のものよりも大規模なものであった[150][148]。スコラ隊もゲルマン人の兵たちを中心に構成されており、ゲルマン人を軍司令官として、更には執政官(コンスル)として任命することもした[148]。こうした処置はローマ帝国を蛮族で汚したものとして、後の皇帝ユリアヌスや非キリスト教徒の歴史家ゾシモスらから非難されている[150][148]。ただし、少なくともコンスタンティヌス1世の時代には新たに軍団に導入されたゲルマン人たちはローマの指揮官に、またはゲルマン人であったとしてもその部族と特別の関係を有していない指揮官によって統率されており、当時においてローマ帝国に重大な問題は引き起こさなかった[148]。ゲルマン人の軍事力の利用がローマ帝国の統一にとって実際的な問題となるのは、彼らが「部族丸ごと」同盟軍Foederati)として組み込まれるようになってからである[148]

騎士身分と元老院身分

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共和制期以来、ローマの国家機構において主導的地位にあった元老院は3世紀の危機を通じて皇帝が前線に常駐するようになると、次第に国政の中枢から外れていった[151]。これは元老院身分(Ordo senatorius)の上級官職者が軍人としての経歴を持っておらず、むしろ文人志向を強め軍事を忌避する傾向があったため、継続的な外敵の侵入と内乱の中で、より実戦能力のある人材が統治機構に必要であったことによる[152]。また、行政機構が皇帝と共に前線にあったため、物理的にも元老院と行政機構の関わりが薄くなっていた[151]。変わって軍才を見込まれた人々が皇帝たちによって要職に騎士身分(エクィテスEquites)として登用された。こうして属州総督など多くの上級官職が騎士身分の人間で占められるようになり、彼らはその後婚姻によって結びつき新たな軍事貴族階層を形成していた[151][121]。騎士という身分は共和制以来の伝統を持っていたが、元老院身分と異なり元来は世襲のものではなく、この頃には近衛長官に与えられるエミネンティッシムス級(Vir eminentissimus、侯爵[153])を最高位とする5段階の爵位が役職に応じて皇帝から贈られていた[121]

コンスタンティヌス1世は各地の総督や上級官職に再び元老院身分に再び開放した[154]。そして「元老院議員が担当する」官職に非元老院議員が就任した時には、その人物に元老院身分が付与されたため、人員自体が大幅に拡充された。このことは元老院身分の構成員に変化をもたらした[154]。従来騎士身分にいた軍事貴族たちが元老院身分(新貴族階級)へと参入していったが、形式的には同じ元老院身分であった両者は質的に統合されることはなく、さらに従来元老院身分の爵位であったクラリッシムス級(Clārissimus)を頂点とする爵位の価値が暴落して意味をなさなくなって行き、元老院身分の新たな爵位制度が準備された[155]

また、コンスタンティヌス1世は新たな身分としてComes、総監とも)を創設した。この名称は旧来から皇帝たちの私的な助言者を指して半ば公式的に使用されていたが、コンスタンティヌス1世はこれを完全に公式の身分とした[156]。伯は1等から3等までに分類され、枢密院の構成員から軍の司令官、地方組織の長官にいたるまで伯と呼ばれるようになった[156]。この身分は従来の元老院身分、騎士身分にあり新たに元老院身分にも参入しつつあった軍事貴族たち、そしてそのいずれにも属さない人々の間を貫通する新たな地位を形作って行き[156]、後にはフランク王国西ゴート王国など、中世西欧の諸国にも形を変えながら引き継がれていく。

経済・財政

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コンスタンティヌス1世のコイン。

経済におけるコンスタンティヌス1世の特筆すべき事業はソリドゥス金貨の発行であった[157]。ソリドゥスと呼ばれる金貨はディオクレティアヌス時代には既に発行されていたが、コンスタンティヌス1世は新たな標準規格でこれを発行し、信用度の高い共通通貨として確立した[157]。初の発行はまだ統一する前の309年にトリーアで発行したもので、その後支配領域の拡大と共に各地で発行するようになった[157][158]。これはギリシア語でノミスマと呼ばれ、更にソリドゥスの2分の1であるセミシス、3分の1であるトレセミシスがあった[157]

信用度の高い貨幣の流通はローマ経済に重大な影響を与え、また後世の税制の改革にも繋がった。徴税や軍団への支給は当時なお物納・現物支給を主としていたが、貨幣の流通とともにコンスタンティヌス1世は新たなコッラティオ・ルストラリス英語版Collatio lustralis、5年税[注釈 17])を導入した[157][159]。これは商人や金融業者(実質的には農民以外の全ての人々を含む)に5年毎に金貨(後に銀貨も加えられた)による納税を定めたもので、ローマ帝国の財政が5世紀以降金貨によって運営されるようになるその端緒となり、後世には軍団への支給や臨時の恩典の支出にも金貨が用いられるようになっていった[157][84]。コンスタンティヌス1世に端を発するローマ帝国のノミスマは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)時代の1030年代まで高純度を保ち続け、最も信頼される標準貨幣として地中海世界で使用され続けることになる[157][161]

財政面ではコンスタンティヌス1世は多額の支出を厭わなかった。『皇帝伝要約英語版Epitome de Caesaribus)』では、彼の治世最後の3分の1は「浪費の時代」と描写されており[162]20世紀の学者ジョーンズは「過剰に気前が良かった」と評している[163]。治世前半、統一前にはコンスタンティヌスス1世の課税は寛容であるとも言えるものであったが[164]、上述のソリドゥス金貨の発行の他、コンスタンティノープルの建設、教会堂の建設、コンスタンティノープル市民へのパンの配給、恩典としての年金や皇帝領の贈与などが盛んに行われ、この結果として財政は短期間のうちに逼迫した[163]。コンスタンティヌス1世の大事業を支えるための財源は当初は打倒したリキニウスが貯めこんでいた財貨であった[165]。短期間にそれを使い果たした後は、出費を賄うための財源は第一には異教の神殿からの没収、第二には新たな課税であり[163]、治世後半には半ば略奪に近いものを含めた過酷な徴税が行われた[164][163]。前述の5年税の制定もこの流れの中から出てきたものであり、314年から318年の間に定められた[163][159]。また、325年頃には元老院議員に対して地所の保有量に基づく金納の税金(土地税)を定め[163][164]、さらに各地の都市が集めていた地方税を国庫に編入した可能性もある[163]。こうした増税は当然のことながら評判は悪く、税額の公正さを維持することも困難であった[166][165]。とりわけ5年税は、5年毎に一度に課税されたために、資産的余裕が無い人々にとって納税の年は「恐るべき年」となった[166]

立法・社会

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コンスタンティヌス1世はその治世の間に、特に西方の支配者となった治世半ばの314年から319年頃を中心に数多くの法律を定め[167]、法律の運用を強化するためにその運用原則、国法、勅令勅答(請願に対する返答)、覚書といった法的文書の効力や優先順位も定められた[168]

裁判を健全性の維持のために、密告や中傷の禁止、手続き期限の厳密化が定められ[168]、属州総督の裁定で収まらない時は皇帝への上訴審をすべきことも通達された[168]。役人の腐敗については厳罰をもってあたり、多くの罪状に死刑が適用された[168][166]。これは常態化していた役人への付け届けの習慣を改めようとしたコンスタンティヌス1世の方針と関係していた。当時、訴訟を起こす場合にはまず官吏への贈り物が必要であり、コンスタンティヌス1世はこうした慣習を激しく非難した[166]。そして属州総督たちに対して、それぞれの任地でこうした慣行を放置するならば同様の刑罰を与えるという脅しをも加えた[169]。しかし、汚職対策が大きな成功を収めることはなかった[166]。こうした官吏の服務規程や収賄に関する規定のほか、郵便、ソリドゥス金貨の偽造・私鋳の禁止、家族・相続関連の規定、退役兵の特権や一時金の支給、身分など国家・社会全般にわたって様々な法が定められている[170][169]

コンスタンティヌス1世はキリスト教を重視したが、一連の立法に対するキリスト教の影響を明確にそれと断定すること困難である。しかし、中には恐らくコンスタンティヌス1世の信仰に影響された内容を含むものも散見される[171][169]。はっきりとキリスト教の影響と見做せるものの1つには死刑の際の十字架刑の廃止が挙げられる[171]。同じくキリスト教と関係するであろうものに古代ローマにおいて伝統的娯楽であった剣闘士競技の禁止規定(325年)があり、これによって従来闘技場送りにされていた犯罪者たちは代わりに鉱山送りにされるようになった(ただし帝国の西方では剣闘士競技が実際に終了するのは100年あまりも後のことである)[172]。また、結婚家族の神聖性を重視する規定も恐らくキリスト教的価値観から現れたものであろう。コンスタンティヌス1世のは離婚の規定を厳格化し、重大な犯罪や売春などの嫌疑によらない限り離婚が許可されなくなった[172]。他方ではイタリアやアフリカにおいて、貧しい両親が子供を売却することのないように公金から補助を与えることも命じられている。これもまた、同時代のキリスト教会の類例から影響を受けたものであると考えられる[172]。女性の「慎ましさ」を保護する法も定められ、いかなる契約においても夫が妻の代理人であるべきことを定める法律や、資産の差し押さえの際に財産の代わりに女性を連れ去ることを厳罰をもって禁止する法律も残されている[117]。コンスタンティヌス1世の家族を重視する姿勢を明確に示すもう1つの法律は皇帝御料地が複数の賃借人によって分割された際の奴隷の家族離散を禁止する法律である[117]。ただしこれはコンスタンティヌス1世が奴隷制に対して何らかの否定的見解を持っていたことを示すものではない。彼が定めた他の法律において奴隷やコロヌス(小作農)に対する規定は過酷であり、主人による拷問の末に奴隷が死んだとしても罪とはされなかったし、奴隷・コロヌスの逃亡や反抗についても厳罰が加えられた[117]

キリスト教

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改宗

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ラバルムを戴いたローマの旗。ギリシア語におけるキリストの綴り、ΧΡΙΣΤΟΣの最初の2文字、キーΧ)とローΡ)を組み合わせた紋章。

コンスタンティヌス1世は、初めてのキリスト教徒ローマ皇帝として有名である。それ以前のローマ帝国では、ネロ帝(54年-68年)のキリスト教徒迫害に始まり[173][注釈 18]ディオクレティアヌス帝(284年-305年)の大迫害まで[174]、何度かキリスト教が迫害を受ける時期があった。そんな一部の時期を除くほとんどの間、キリスト教徒であることは黙認されていたが、発覚した場合は改宗を迫られ拒絶した者は処刑された。

しかし、ローマの正帝の1人として実力を持っていたコンスタンティヌス1世は312年(と、言われる)頃に何らかの形でキリスト教を受け入れた[51]。伝説によると、コンスタンティヌス1世が改宗したのは、神の予兆を見たためと伝えられる。コンスタンティヌス1世は、312年にマクセンティウス軍と戦うためにミルウィウス橋に向かう行軍中に太陽の前に逆十字[注釈 19]とギリシア文字 Χ と Ρ(ギリシア語で「キリスト」の先頭2文字)が浮かび、並んで「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見た[175]。この伝説はラクタンティウスなどいくつかの資料で詳しく伝えられているが、4-5世紀頃の文献に多く現れる神の予兆や魔法などの話のひとつである。この後のローマ軍団兵の盾にはそれを模った紋章(ラバルム)が描かれたという。

改宗についての諸見解

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当時キリスト教はローマ帝国の領内に強固に根付きつつあったが、キリスト教徒ローマ皇帝の登場、すなわち、コンスタンティヌス1世の改宗はその当然の帰結であったわけではない[注釈 20]。コンスタンティヌス1世の改宗の時点で、ローマ帝国内のキリスト教徒比率は多く見積もっても10パーセント程度でしかなかったと見られているし[177]、またジョーンズによれば[注釈 21]、キリスト教徒は都市部に偏在しており、主要な支持基盤は下層・中産階級を構成する手工業者や書記。小売商、商人、下級都市参事会員などであったという[179]

コンスタンティヌス1世の改宗が312年、またはその頃に行われたということについては一般的に受け入れられている[51][52]。しかし、コンスタンティヌス1世のキリスト教への改宗がこの時に行われたのか完全に断言できるわけではなく[59]、その動機、つまりは有効利用可能な組織を動員するための政治的動機から来る形式に過ぎないものであったのか、宗教的な真剣さを持ったものだったのか、といったことについてもはっきりわかることは何もない[51][52]。また、少なくとも彼は当初は自分の宗教的姿勢に曖昧さを維持し続け、公的な文章においてはキリスト教徒もその他の宗教者も都合よく解釈可能な表現を用いることを常としていた[59][注釈 22]

はっきりしていることは。キリスト教が当時既に取るに足らないほど小さな宗教ではなく、ローマの知的階級の考察の対象になるほどには大きく、関心を持たれる思想となっていたことである[180]。また、現代の歴史家の中にはヴェーヌのように、当時のキリスト教が異教に対して精神性・哲学・倫理などの面で優越性を備えていたと考える人物もいる[180]。しかし一方で、前述の通りその数は多数派と呼ぶには程遠く、信者の多くは中産階級以下の人々であり政治的・社会的に無力であった[51]。上流階級たる元老院身分、騎士身分、都市参事会員層の信徒は極めて少数であり、元老院身分におけるキリスト教の勢力は3世紀後半ですらほとんど皆無であったし[181][51]、とりわけ軍隊はその大半が非キリスト教徒であり、属州の前線に近い都市を含めて東方由来の密儀宗教ミトラス教が流行していた[51][182]。コンスタンティヌス1世が最後まで配慮を続けた異教の神、不敗太陽神(ソル)はミトラス(ミトラ)の神性を表す称号の1つである[183]。また、コンスタンティヌス1世は312年以前から明確にキリスト教に対して好意的であったが、一方でこの時期に彼がキリスト教徒であったと証言する古代の著作家は存在せず、コンスタンティヌス1世に向けて歓呼の声をあげる人々は、彼をユピテルを始めとしたローマの神々に擬することを躊躇していない[54]

もう一つ、コンスタンティヌス1世のキリスト教信仰を巡って重要な出来事として、313年にはビテュニア総督宛にキリスト教の信仰の自由を承認することを通知し、没収されたキリスト教会の財産を返還するよう命じる法令(書簡)が送付されている。これは現在では『ミラノ勅令』と呼ばれ、一般にローマ帝国におけるキリスト教の公認という出来事として語られる[58][184]。ただし、正確に表現するならばこれは勅令ではなく、また、コンスタンティヌス1世が発したという説明も正しくない。これはコンスタンティヌス1世とリキニウスが同盟者であった時期に、リキニウスが両皇帝の連名で帝国の東部に対して発した書簡であった[184][58]。また、重要なこととして、この書簡は特にキリスト教徒を特記してはいるものの、厳密には「キリスト教の信仰を公認した」のではなく、神格に対する畏敬を保証するために、「キリスト者にも万人に対しても、各人が欲した宗教に従う自由な権利を与える」と宣言するものであった[185][62]

改宗を巡っては古代の歴史家たちの記録、例えば、異教徒ゾシモスとキリスト教徒エウセビオスの記録はそれぞれに矛盾があり、これらが政治的動機と宗教的動機についての近現代の学者たちの様々な見解の元となった[186]

ヤーコプ・ブルクハルトは「野心と権勢欲が一刻の平穏の時も与えないような天才的人間においては、キリスト教と異教、意識的信仰と不信仰ということは全然問題になりえない。このような人間はじつにその本質において無宗教なのである」と述べ、コンスタンティヌス1世のキリスト教に対する姿勢の政治的動機を強調する[187][186]。他方、ジョーンズはコンスタンティヌス1世が当時キリスト教が保持していた政治力の乏しさから「キリスト教徒の好意など得る価値はほとんどなく、そしてそれを得たければ、単に彼らに寛容であることによってえられたはずである」と評し[51]、ヴェーヌはコンスタンティヌス1世がキリスト教という前衛的な新しい宗教に惹かれ、また君主の宗教として「豪奢を誇示」するのに相応しいと感じたことは充分あり得ることとしている[188]。そして「コンスタンティヌスをただ計算高い政治家としか見ない歴史家はさして深く事態を見きわめられないだろう」と述べ、社会的・経済的な要素を重視する現代的観点から判断すべきではないとする[188]

いずれにせよ重要な事実は、コンスタンティヌス1世の改宗以降、ほとんど全てのローマ皇帝がキリスト教徒であったことであり、コンスタンティヌス1世のキリスト教改宗は歴史上最も重大な事件の1つであった。ヴェーヌは「もしコンスタンティヌスがいなかったなら、キリスト教はひとつの前衛的宗派にとどまっていたことだろう」と評する[189]

皇帝と教会

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キリスト教徒ローマ皇帝の登場はローマ帝国と教会の関係、また教会それ自体に大きな変革をもたらした。教会は独立した一つの社会を形成しており、その司教たちは伝統的なローマの祭司とは異なり帝国の役人ではなかったし、教会に対して皇帝がどの程度、どのように関係を持つべきか知っている人間はいなかった[190][191]。さらに各地のキリスト教会の信条・教義は極基本的な問題についてさえ統一されておらず、復活祭の日付もそれぞれに異なっていた[77][190]。また、コンスタンティヌス1世の経歴は哲学者・宗教家としてではなく軍人としてのものであり、こうした問題を解決するために必要な知識を欠いていた[190]

ドナトゥス派問題

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コンスタンティヌス1世がキリスト教を受け入れた時、既にキリスト教会内部では分裂が生じていた。真っ先に問題になったのは北アフリカにおける分裂であった。ディオクレティアヌスによる大迫害の時代、皇帝からの圧力に対してキリスト教の司教たちがとった対応は様々であった。多くは皇帝に対して表立って反抗するような真似はしなかったが、面従腹背の姿勢で応ずるものもおり、またこうした逃げ腰の姿勢を批判する厳格主義者たちがいた[192]。こうして北アフリカでは信念を曲げる行為を批判する厳格主義者たちと、不必要に殉教を求める行為を批判する穏健派は互いに批判を強め、厳格主義者たちは穏健派(主流派)のカルタゴ司教カエリキアヌスを承認することを拒否し、独自にマヨリヌスをカルタゴ司教に選出し、それぞれに支持者を集めて二つの陣営へと分裂していた[193][194]

コンスタンティヌス1世はこの問題に介入した。ローマ司教(教皇)ミルティアデス(またはメルキアデス)に対して自分が教会の分裂を欲しておらず双方当事者からの聞き取りを行って裁判を実施し解決を図るよう指示を出し、その結論を出す役にガリアから招集した司教を任命した[195][196]。ミルティアデスは教会の問題が司教たちによる会議(公会議)によって決定されるべきという立場を取り、コンスタンティヌス1世が任命した司教に加えてイタリアから15人の司教を集めた。以後コンスタンティヌス1世はそれを受け入れ、教会の問題は公会議によって決定されることが慣行になった[195]。しかし最終的に公会議を招集する権利やその結論に対して上位者として裁定を行う権利を放棄することもなかった[195]

並立する2人のカルタゴ司教カエリキアヌスとマヨリヌスのうち、実際に公会議が始まる前にマヨリヌスが死亡したため、その支持者たちはドナトゥスを新たな司教に選出した[197]。彼の名にちなんで北アフリカの反主流派はドナトゥス派(ドナティスト)と呼ばれる[197]。313年10月2日にローマで行われた会議ではカエリキアヌス派に有利な決定がなされ、ドナトゥス派の主張は退けられた[198][196]。しかしドナトゥス派はこの決定を受け入れず、その強硬な反対の前に翌314年8月1日にアレラーテーアルル)でより大規模な公会議(アルル公会議)が開催された[198][196]。当時、コンスタンティヌス1世がドナトゥス派の姿勢に不快感を持っていたことを示す書簡の文章が現存しており、またその中で彼はこの「兄弟同士」の争いが異教徒の間でキリスト教の評判を落とすかもしれないことを心配している[199]。さらにこの会議の機会をとらえて、復活祭(イースター)の日付の統一や司教の叙任、任地、信徒の破門に関する規定なども行われた[200]

結局アルルの会議でもドナトゥス派の主張は退けられ、ローマの会議の結論が正しいとされた[196]。ドナトゥス派はなおもこれを受け入れず、コンスタンティヌス1世への直訴を行った[196][201]。コンスタンティヌス1世はさらなる説得を試みたが、ドナトゥス派内部で更に分裂が生じ見苦しい争いが始まると、最終的に力づくでドナトゥス派を抑えつけることを決定し、ドナトゥス派の教会は没収され指導者達は追放された[202]。これはキリスト教的政府による最初のキリスト教徒分派への迫害となった[203]。しかしキリスト教徒を弾圧することへの躊躇からコンスタンティヌス1世の姿勢は徹底を欠き、321年には弾圧を中止して彼らの処遇は「神の裁きに任せる」とした[196][204]。結局コンスタンティヌス1世は分裂を解決することに失敗し、ドナトゥス派はローマ教会の支持を得てカトリコス(Catholicosカトリック)を称したカルタゴ教会に対抗する北アフリカの土着的な勢力として、イスラームの征服によって北アフリカのキリスト教が消滅するまで存続した[196][205]

しかし同時にドナトゥス派を巡る一連の経過によって、コンスタンティヌス1世は自らの主催する公会議によって、また自らの決裁によって教会内の問題に皇帝として判決を下す権利、そして司教の任免、教会の接収などを実施する権利を、自然に教会に認めさせ、その主人たる地位を確立することに成功してもいた[205]

アリウス派問題とニカイア公会議

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そこで、現在の問題の発端は次のところにあったと余は理解している。すなわち、アレクサンドロスよ、汝が、法に書かれたうちの或る箇所について、或いはむしろ何らかの問いのつまらない部分について、司祭たちの各々が何を理解するかということを彼らに訪ねて、アレイオス(アリウス)よ、汝が、そもそも思念されてはならず、また思念されたとしても沈黙に付すのが至当であったことを、不注意にも返答したのだ。それゆえに汝らの間に不一致が生じ、集会の交わりは否定され、至聖なる民は両者に分裂し、共通のからだの調和から分離された。それゆえ汝らは各々等しく赦しを与えて、汝らと同じしもべが正しくも汝らに勧めることを受け入れよ。ではそれは何か。そもそもこのような事柄については、問うことはふさわしくなく問われた側は答えることはふさわしくなかったのだ...
-コンスタンティヌス1世からアレクサンドロスとアリウスに送られた手紙[206]

324年にリキニウスの支配していた東方を手中に収めたコンスタンティヌス1世は、この新たな征服地のキリスト教徒たちが西方におけるドナトゥス派よりも深刻で広範な分裂を起こしているという事実に直面した[207]。東方の教会の分裂はエジプトアレクサンドリア司教アレクサンドロスと司祭アリウス(アレイオス)との間の、絶対者であるとその子キリストをどのような存在であると認識するか、という問題についての論争に端を発するものであった[208][209][74]

アリウスは神が「永遠にして不可知」たるモナド(単子、存在の究極の単位)であり、完全に単一で分割不可能であると主張した[209][74][208]。この神の超越性を厳格に強調する立場の下、父(神)が分割不可能である以上はその御子(キリスト)は神と同一の存在ではありえず、完全なる神性を備えない下位の被造物であるとした[209][74][208]。そして父なる神とは別個の存在であり被造物である以上、キリストは無から創造されたものであるとも主張した[209][74][208]。一方の司教アレクサンドロスはキリストが万物の創造主、人類の罪をあがなう存在であり、神そのものであると主張した[210]。アレクサンドロスはアリウスを破門したが、アリウスは各地の教会に支持を呼びかけ、論争は小アジアやパレスチナにも飛び火していた[74][211]

コンスタンティヌス1世はこの状況の解決を求めた。彼はこの難解な形而上学的・神学的論争について理解できなかったか、少なくともそれを厳密に追及することに興味を持たなかった[212][74][213]。そして「取るに足らぬ非常に小さな事柄」(ウィルケン)を争うのをやめ速やかに論争を止めることを要求した[212][74][213]。しかし両派は頑なであり論争と分裂は拡大の一途を辿った[214][74]。その後、本格的な介入が考慮されるようになると、エジプトではさらにメリティオス派がアレクサンドリアの教会と対立し分裂していることも明らかとなった[215]

散発的に行われる各地の司教会議で事態が一向に沈静化しないことに業を煮やしたコンスタンティヌス1世は、ドナトゥス派の時と同じようにより大きな規模の公会議によってこれを解決しようと目論み、325年5月20日にニカイア(ニケア)に東方から数百名の司教を招集し、西方から司教6名とローマ司教(教皇)の代理の助祭2名を加えニカイア公会議(第1回全教会会議)を開催した[74][88]。この会議はローマの元老院や都市参事会の会議をモデルに進められ、教義において重要な論争にはコンスタンティヌス1世が自ら参加し指導的な役割を演じた[88]。その中で、コンスタンティヌス1世は、アリウスを積極的に支援した。何故なら、アリウスの理論は、子なる神を父なる神に従属させることで、神の唯一性を理論的に基礎づけることができ、これによって帝国独裁政治理念に都合のいいイデオロギーを提供したからである。[216]

主要な参加者としてアリウス派からアリウス本人の他、強力なアリウス派の司教であったニコメディアのエウセビオス英語版、反アリウス派からアレクサンドリア司教アレクサンドロスや特に強硬であったことで知られるアンティオキアのエウスタティオス英語版、そして当時はまだ重要な人物ではなかったものの、アレクサンドロスの死後に反アリウス派(ニカイア派、アタナシウス派)の議論を主導することになる助祭アレクサンドリアのアタナシウス(アタナシオス)らが参加した。さらにアリウス派には組しないものの、コンスタンティヌス1世の信頼厚く妥協的な態度を取ったカエサレアのエウセビオスや、西方の教会に属しコンスタンティヌス1世の相談役を務めたコルドバのホシウス英語版なども重要な役割を果たしたと言われている[217]。他に、東方の指導的な司教のほとんどが参加していた他、アルメニアクリミアペルシアといったローマ帝国外の司教も参加し、その世界性・普遍性が強調された[217]

この会議におけるコンスタンティヌス1世の姿勢は明確であった。彼はこの論争が本来不要なものであり、また教会の分裂はそれ自体が罪であると見做した[88]。このため、全体が受け入れられるような包括的かつ妥協的な決着が探られたが、各派が神性について多様な見解を提出し容易に収拾はつかなかった。そして会議の最中、コンスタンティヌス1世は「ホモウーシオス(Homousios、同一本質の)」という用語で父(神)と御子(キリスト)の関係を表現するという(ジョーンズによれば不用意な)提案を行った[218][219]。これは相談役であったヒスパニアの司教ホシウスの影響を受けて、西方の教会の信条から着想を得たものと推定され、東方の教会関係者はこの用語を受け入れることを嫌った。しかし、この皇帝自らの提案をアリウス派が神学的に受け入れることが不可能であることに乗じた東方の反アリウス派は、まずアリウス派を排除することを優先してこの用語の受け入れを表明し議論をリードすることに成功した[220]。この結果、ニカイア公会議においてアリウスの破門とアリウス派の排除が決定され、コンスタンティヌス1世は各司教たちにこの信条(ニカイア信条)を圧力をかけて受け入れさせた[219]

こうして反アリウス派がアリウス派に勝利したが、アリウス派はその後も自分達の信条を捨てることはなく、またコンスタンティヌス1世もその死までアリウス派との妥協による教会の統一を諦めなかった[221]。そのため327年に再びニカイアで公会議が開催され、アリウスの教会復帰が認められた[221]。しかし、その後もアリウス派、反アリウス派(主流派)、メリティオス派など各派が諍いを続け、コンスタンティヌス1世はこれに激しく苛立った[222]。特にアレクサンドロスの死後の328年にアレクサンドリア司教となったアタナシウスは強固な信念を持ち、皇帝と帝国政府からいかなる圧力を受けてもアリウス派を拒否し続け、コンスタンティヌス1世の妥協的な方針を断固として受け入れなかった[223]

コンスタンティヌス1世は335年にテュロスで公会議を開き、さらにエルサレムで大教会会議を開催して、自身がキリストの墓に建てた大聖堂で統治30周年の式典が執り行われること、そして教会の統一が為されることを求めた[221]。しかし、最終的に教会は統一されることなく、アリウス派と反アリウス派の争いはその後も1世紀以上に渡って継続することになる。

後世のキリスト教世界におけるコンスタンティヌス1世

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バチカン宮殿コンスタンティヌスの間に描かれた『The Donation of Constantine』(ラファエロ・サンティ作)

コンスタンティヌス1世は後世のキリスト教徒たちにとって最も重要な皇帝と1人と見なされ、キリスト教世界において長きにわたって権威の源泉であり続けた。彼にまつわる虚実織り交ざった歴史的記憶は政治・社会・宗教において大きな影響を与えた。

ローマカトリック教会においてその影響を示すものが『コンスタンティヌスの寄進状Constitutum Constantini)』と呼ばれる偽造文書である[224]。『コンスタンティヌスの寄進状』によれば、コンスタンティヌス1世は使徒ペテロパウロ、そしてローマ教皇シルウェステル1世によってキリスト教へ改宗したという。そして、天上の皇帝が座を占めるべき場所(ローマ)に俗界の皇帝が身を置くべきではないことからコンスタンティノープルへの遷都を行い、教皇シルウェステル1世に「都市ローマと、イタリアおよび西方のすべての地区、都市、属州」の支配権を授与した[225][224]。さらにコンスタンティヌス1世はローマ教皇庁が東方の4つの総大司教座(コンスタンティノープルアレクサンドリアアンティオキアエルサレム)に対する首位権を持つことや、皇帝が教皇の騎乗を補助する義務を負うこと、皇帝が教皇に教皇冠Tiara)を含む各種の権標を授けたこと、教皇が皇帝と同格であることなどを定めたとされる[224][225]

8世紀に入る頃になるとビザンツ帝国(東ローマ帝国)はローマを含むイタリアでの影響力を喪失しつつあり、その庇護を当てにできなくなったローマ教皇庁は帝国と距離を置き自立の道を探るようになっていた[224]。この文章がこの頃にローマ教皇の周囲で作成された偽造文書であることに疑いはなく、それが作成された動機についてはっきりわかることもない[224][226]。しかし、この文書は11世紀の叙任権闘争以降、ローマ教皇庁側の政治的地位の根拠として重要な役割を果たすことになる[227]

また、800年に「ローマ皇帝」に即位し西ローマ帝国を「復活」させたフランク王国カロリング朝)の王カール1世(大帝)はローマ教皇ハドリアヌス1世によってコンスタンティヌス1世に擬せられており、カール1世自身もコンスタンティヌス1世の印璽を模倣したものを用いていた[228]。また、コンスタンティヌス1世の宮殿アウラ・パラティナを、アーヘンの宮殿を建造する際の参考にしたとも言われる[134]

聖母子にコンスタンティノープルの街を捧げるコンスタンティヌス(右)とアヤソフィア(ハギア・ソフィア大聖堂)を捧げるユスティニアヌス1世(左)のモザイク画(アヤソフィア)

キリスト教世界におけるコンスタンティヌス1世の権威は、彼が建設した都市コンスタンティノープルを都としたビザンツ帝国においても同様に高かった。それを端的に証明するのは皇帝の名前である。ビザンツ帝国の60名あまりの皇帝のうち「コンスタンティノス」(コンスタンティヌス)を名前とした皇帝は実に11名に達する[229]。初のキリスト教徒皇帝として「地上における主キリストの唯一の代理者」となったコンスタンティヌス1世は、ビザンツ皇帝にとってその出発点であるとも考えられ、コンスタンティヌス1世に関するあらゆる事物は「聖なる」という形容詞を付与された[230]

コンスタンティヌス1世の残像は東の皇帝と西の皇帝の間の権威を巡る論争でもたびたび議題に上り続けた。968年に(神聖ローマ)皇帝オットー1世の使者としてコンスタンティノープルを訪問したリウトプランドは「フランク人」の皇帝号を承認しようとしないビザンツ宮廷との論争においてコンスタンティヌス1世がローマ教皇庁や「フランク人」に与えた「贈り物」の数々に言及し、またコンスタンティヌス1世の名前を与えられた都市に依拠しつつ、祖先の言葉(ラテン語)と衣服を変更した「ギリシア人の皇帝」がいかにその後継者として相応しくないかを強調し、ビザンツ皇帝に対する西方の皇帝の優位を主張した[231]。そしてリウトプランドとも面会した、コンスタンティヌス1世と同じ名前を持つ当時のビザンツ皇帝コンスタンティノス7世は息子ロマノス2世に、当時議題にあがっていた「フランク人」諸侯との縁組の可能性について、「コンスタンティヌス大帝の遺訓」に基づいてローマ人の皇帝が蛮族と通婚してはならないとした[232]

評価

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コンスタンティヌス帝は生まれながら、心身ともに実にすぐれた資質に恵まれていた。長大な体躯、威容に充ちた風貌、優雅な挙措。そしてそのすばらしい体力と俊敏さとは、あらゆる男性的競技に見事に発揮された。幼少時から晩年まで一貫して節制、純潔の美徳を守ることにより、強靭な体質を維持しつづけた...彼自身無学無教育という弱点があったが、学問文事の価値を正しく評価するだけの雅量はあった...政務処理における精励ぶりにいたっては、まことに驚くべきものがあった。疲労を知らぬその精神力は、ほとんどたえず読書、執事、思索、さてはまた外国使節たちの引見、人民からの訴願書審査、等々の政務に捧げられた...ひとたび戦場に立てば、不撓不屈のその精神は、たちまち軍の内部にまで浸透、ほとんど間然するところない将帥の才をもってこれを率いた...
-エドワード・ギボン、『ローマ帝国衰亡史』[233]

コンスタンティヌス1世は後世のキリスト教世界において最も偉大なローマ皇帝として、また神と特別な関係を結び「地上における主キリストの唯一の代理者」となった人物として称えられ、権威の拠り所とされた。彼に対する崇拝は既にその死のすぐ後には始まっており、カエサレアのエウセビオスはコンスタンティヌス1世の伝記の冒頭部で「東であれ、西であれ、全地の上であれ、ほかならぬ天の方であれ-どこにおいても、あらゆる仕方で、帝国それ自体とともにおられる祝福されたお方コンスタンティヌスを目にするのです」と始めている[234]。彼に代表されるキリスト教徒の著述家は一般にコンスタンティヌス1世の聖徳を称揚することに熱心であった[4]。一方でゾシモスに代表される非キリスト教徒の歴史家たちはコンスタンティヌス1世の柔弱さ、伝統の無視がローマ帝国の没落の原因となったとして非常に厳しい視線を向けている[4]

コンスタンティヌス帝の場合は長年にわたり国民には親愛感を抱かせ、敵どもを恐怖に慄え上がらせたはずの英雄が、晩年には栄達によって堕落し、数々の征服によりもはや偽装の必要ないほどの高位にまで登りつめた結果は、一転して冷酷放縦の君主に堕し去った人物の姿を見る事ができる...帝晩年の汚点となった数々の処刑、というよりもむしろ殺人にいたっては、どう公平に考えても恐るべき暴君-みずからの激情、また利益の命ずる前には、正義の法も人情の自然も平然として犠牲にすることができるという、そうした種類の帝王像しか浮ばぬはずである。
-エドワード・ギボン、『ローマ帝国衰亡史』[235]

19世紀から20世紀にかけて、西洋の歴史家たちによって多数のコンスタンティヌス1世の伝記が作成された。当時の西洋社会においては聖俗関係が大きなテーマの1つであり、彼ら近代の歴史家たちは、古代の著述家たちの記録の影響を受けて、また当時のヨーロッパにおける政教関係に対するそれぞれの立場も反映してコンスタンティヌス1世を評価した[6]。特に世俗主義者、反教権主義者、自由主義者らは、教会批判的な論調を背景にコンスタンティヌス1世を激しく批判している[6]。現代の歴史家たちが近代以前のように聖者として、あるいは暴君・暗君としての一面的なコンスタンティヌス1世像を描くことは基本的にない。ただし、コンスタンティヌス1世が重要な人物であること自体に異論はなく、彼についての評価は多岐にわたる。

軍人としての評価は一般に極めて高い。ベルトラン・ランソンはコンスタンティヌス1世の軍事的才幹を確かなものと評し、324年に彼が使用した「勝利者(Victor)」という称号を「実態をみごとに反映したものだった」としている[236]。この評価についてはA.H.M.ジョーンズも同様である[237]

ランソンによればコンスタンティヌス1世は政略・戦略においても概ね成功のうちに人生を終え、ローマ帝国における行政・軍隊・社会の姿を変化させ、それを長期にわたり持続させた「偉大な改革者」であった[238]。そしてランソンは、コンスタンティヌス1世の改革は「コンスタンティヌス革命」と呼びうるものであったと評している。

一方でその人格は後世のキリスト教徒たちが想像したような聖者・卓越した政治家としての姿とは遠く離れたものでもあったとも言われる。ジョーンズは人間としてのコンスタンティヌス1世の姿を「人物から見ても能力から見ても、コンスタンティヌスは、後世が彼に与えた『大帝』という称号には到底値しない」と言い放っている[237]。ジョーンズは、戦争におけるコンスタンティヌス1世の決断力や大胆さを高く評価する一方、その人格は非常に気性が荒く、行動は性急であり、おべっかに弱く、行政において公正さを真摯に追及してはいたが、それを実現する意思と行動は一貫性を欠き、周囲にいる臣下の影響を受けやすかったとしている[237]。また、その放漫財政とそれによる農民層の負担増大にも厳しい目を向けている[237]。一方で、同じくジョーンズによれば、コンスタンティヌス1世は彼なりに善良さを追求した人物ではあり、それはとりわけ権力者が陥りがちな性的放蕩を避けたことによって示されているという[239]

しかし、実態と伝承の差異はどうあれ、キリスト教に対する彼の姿勢は以降の西洋世界における宗教地図を決定付け[189]、コンスタンティノープルの建設、ローマ帝国の再編、といった業績は後世のビザンツ帝国の前提を準備した。これのために現代の歴史学者はしばしばコンスタンティヌス1世の治世をビザンツ帝国の始まりとしても扱う。具体的にそのような立場を取る研究者にはたとえば尚樹啓太郎[240]ポール・ルメルル[241]などがいる。ビザンツ帝国の「開始」にまつわる問題は非常に複雑であるため(東ローマ帝国を参照)、無論このような見解に立たない学者は無数に存在し(例えばランソンは彼の治世をビザンツ帝国の始まりとする見解を一応斥けている)、しばしばその開始時期は明確に語られない。しかし、そのような場合でも、「前史」や「背景」としてコンスタンティヌス1世に何らかの言及をすることはごく一般的である。例えば南雲泰輔は明確にコンスタンティヌス1世の時代をビザンツ帝国の開始とはしないが、「ビザンツ的世界秩序形成」の背景としてやはりコンスタンティヌス1世の治世を解説しているし[242]ジョナサン・ハリス[243]井上浩一[244]らも、ビザンツ帝国の通史を書くにあたってコンスタンティヌス1世の時代から叙述を始めている。

コンスタンティヌス1世は多くを成し遂げた人物の常として毀誉褒貶が激しいが、コンスタンティヌス1世の歴史的遺産それ自体の重要性に疑問の余地はない。上記のように、ローマ帝国・ビザンツ帝国・キリスト教、あるいは地中海世界の歴史の転換点を作り上げた、西洋史における特に重要な人物の1人であると考えられている。

年表

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西暦 日付 出来事
270年頃 2月27日 誕生
293年 3月1日 コンスタンティウス・クロルスが西方の副帝(カエサル)に就任。コンスタンティヌスは東方のディオクレティアヌスの下へ送られた。
305年 5月1日 東方正帝ディオクレティアヌス、西方正帝マクシミアヌスが退位。父コンスタンティウス・クロルスが西の正帝となる。東方の正帝にはガレリウスが即位。
305-306年 ガレリウスの下を脱出し、父の下へ走る。ブーローニュで合流。
306年 7月25日 ブリタンニアでコンスタンティウス・クロルス急死。ヨークにて父の軍団を継承し、正帝を自称。
306年 10月28日 マクセンティウスがローマ市で権力を掌握し正帝を自称。マクセンティウスの父マクシミアヌスも正帝に復位することが宣言される
308年 4月 マクセンティウスとマクシミアヌスが不和となり、マクシミアヌスがコンスタンティヌス1世の下へ逃亡。
308年 前半 ルキウス・ドミティウス・アレクサンドロス英語版が北アフリカで正帝を自称。
308年 11月11日 カルヌントゥムでディオクレティアヌス、ガレリウス、マクシミアヌスが会談。リキニウスが正帝、コンスタンティヌス1世が副帝であると宣言されるが、コンスタンティヌス1世はこれを拒否。
310年 ガレリウス、コンスタンティヌス1世が正帝であることを承認。
311年 マクシミアヌスがコンスタンティヌス1世の軍勢を奪取しようと試みるが失敗。コンスタンティヌス1世、夏までにマクシミアヌスを殺害。
311年 5月11日 ガレリウス死去。
312年 この頃までにドミティウス・アレクサンドロス、マクセンティウスに倒される。
312年 10月28日 ミルウィウス橋の戦い、コンスタンティヌス1世、マクセンティウスを滅ぼす。
312年頃 コンスタンティヌス1世、この頃にキリスト教信仰を受け入れる。
313年 2月 リキニウスとコンスタンティヌス1世、連名でキリスト教を含む諸宗教の信仰の自由を承認する書簡を送付(『ミラノ勅令』、一般にローマ帝国におけるキリスト教の公認とみなされる)
314/316年 夏/秋 コンスタンティヌス1世とリキニウス、武力衝突に入る。
314年 8月1日 アレラーテー(アルル)にて公会議(アルル公会議)開催。ドナトゥス派の主張が退けられる。
315/317年 コンスタンティヌス1世とリキニウス、和平合意。317年3月1日に息子のクリスプスおよびコンスタンティヌス2世をリキニウスの息子リキニウス2世と共に副帝とする。
324年 11月13日 息子コンスタンティウス2世を副帝とする。
324年 コンスタンティヌス1世とリキニウス、再び武力衝突に入る。7月にビュザンティオン占領、9月18日にクリュソポリスの戦いでコンスタンティヌス1世が勝利。リキニウス降伏の後処刑される。
325年 5月20日-6月19日 第1ニカイア公会議アリウス派の排除が議決し、アリウス(アレイオス)破門される。
326年 息子クリスプスを処刑。皇后ファウスタ英語版変死。
327年 アリウスの教会復帰が認められる。
330年 5月11日 コンスタンティノープルの落成式が執り行われる。
333年 12月25日 息子コンスタンス1世を副帝に就ける。
335年 9月18日 甥のフラウィウス・ダルマティウス英語版を副帝に就ける。
337年 5月22日 死去。

史料

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コンスタンティヌス1世の時代についての史料は現在かなりの量が残されている[245][246]。ただし、これらには後世付加された伝説に彩られていたり、キリスト教的・反キリスト教的な潤色と脚色が加えられたりしているものが多数含まれ、一貫性と信頼性に欠けるために取り扱いには細心の注意が必要である[246]

4世紀のローマ皇帝についての主たる情報源はアンミアヌス・マルケリヌスの『歴史(Res Gestae)』[注釈 23]であるが、これはコンスタンティヌス1世の時代を取り扱った巻が散逸し現存していない[246]。比較的同時代に近い情報源は、4世紀半ばのアウレリウス・ウィクトルエウトロピウスの著作、4世紀末の著者不明の『皇帝伝要約英語版Epitome de Caesaribus)』、5世紀末のゾシモスらの残した作品などである[246]。異教徒であるゾシモスはコンスタンティヌス1世に対する敵意を露わにしている[247]。またその他のギリシア人作家の作品の中からも断片的な情報を拾い集めることが可能である[246]

教会史家たちは多くの記録を残しており、エウセビオスは『コンスタンティヌスの生涯英語版Vita Constantini)』をコンスタンティヌス1世の死の直後に著述した。ただしこの著作については長らく真贋が論争されている[246][248]。他にヒエロニムスの『年代記』やアクィレイアのルフィヌス英語版フィロストルギオス英語版キュジコスのゲラシオス英語版キュロスのテオドレトスコンスタンティノープルのソクラテスソゾメノス英語版らが記した『教会史』の記録がコンスタンティヌス1世への言及を残している[246][247]。彼ら教会史家は参照した典拠から長文の引用を行う習慣を発達させており、このおかげでコンスタンティヌス1世時代の文書が保存されている[245]。この他、神学者アウグスティヌスも多数の引用を残している[247]。307年から321年の間の頌歌や、『テオドシウス法典』、コインのような考古学的遺物、コンスタンティヌス1世像などからも情報が得られる[246]

脚注

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注釈

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  1. ^ マクシミアヌスの娘ファウスタとコンスタンティヌス1世の結婚の事情を巡る時系列は各出典で微妙に異なるため以下に注記する。ブルクハルトはマクシミアヌスとマクセンティウスの反目はガレリウスとの戦いの前に始まっており、コンスタンティヌス1世の下へ赴き縁談を持ち込んだのはガレリウスに対抗すると共にマクセンティウスに対する優位を得るためであったともする[34]。また、ジョーンズはこの結婚を307年3月31日のことと断言しており、ガレリウスとマクセンティウスの戦いはその後であると描写する[31]。これはランソンも同様であるが、ただし彼の描写では3月31日というのはラテン語頌歌第6番が発表された日付である[33]。以上の出典は事情の説明を多少異にするが、コンスタンティヌス1世とファウスタとの結婚の後ガレリウスとマクセンティウスの戦いが行われたという時系列は一致している。一方、レミィは9月にガレリウスがマクセンティウスに撃退された後、12月頃にマクシミアヌスとコンスタンティヌス1世が互いを正帝として承認し、コンスタンティヌス1世とファウスタが結婚したと説明する[35]。スカーはファウスタとの結婚について、厳密な時系列には言及しない[36]
  2. ^ バッシアヌスの副帝任命を巡る事情についても、出典間で細部が異なるため以下にまとめる。ジョーンズはコンスタンティヌス1世がリキニウスの警戒心を和らげるためにバッシアヌスを副帝として自分の支配地を分割することを提案したが、リキニウスは自分の臣下でバッシアヌスの兄弟であったセネキオを利用してバッシアヌスをコンスタンティヌス1世から離反させようとしたため両者は対立に至ったと描写する[63]。ランソンはリキニウスが自身の側近であったバッシアヌスを副帝としてイリュリアに配置したが、コンスタンティヌス1世はバッシアヌスが陰謀をたくらんだことを理由に排除し、イリュリアに侵攻する口実としたとする[65]。スカーはリキニウスとコンスタンティアの間に生まれた息子リキニウス2世が将来副帝に就くことを妨害するために、義弟だったバッシアヌスを副帝としてイタリアの支配権を与える提案をしたと描写する[64]
  3. ^ この3名の副帝即位は317年3月1日である。ただし、314年から戦争が始まったという時系列を採用しているジョーンズは315年には和平が成立し、コンスタンティヌス1世とリキニウスが同年の執政官(コンスル)職を共に担当したとする。317年3月1日まで「不明な理由」によりこの3名の副帝即位が延期されたとする[68]。ランソン、スカーの採用する時系列では和平から即位までの間にこのような時間差は想定されていない。
  4. ^ ジョーンズによればコンスタンティヌス1世はガリアとイリュリクムの兵力を中心とする練度の高い陸軍を120,000人、リキニウスは歩兵150,000人とフリュギアカッパドキアから動員した騎兵15,000を集めたとされる[72]。ただし海軍戦力はコンスタンティヌス1世がガレー船200隻であったのに対し、リキニウスは350隻の艦隊を保持しており優勢であった[72]。ランソンは、コンスタンティヌス1世が騎兵10,000騎、歩兵120,000人と軍船200隻、輸送船2,000隻を持ち、リキニウスは165,000人の兵力を擁していたとするゾシモスの記録を紹介している[69]。ただし、ランソンは両軍の実数は確実にもっと少ないとしている[69]
  5. ^ a b 尚樹によればこの諸局長官(Magister officiorum)の設置はコンスタンティヌス1世によるものである[74]。しかし、ジョーンズはリキニウスの宮廷における諸局長官の地位に言及している[73]
  6. ^ a b 原語名と和訳の対応は尚樹 2005, p. 156の索引に依った。ランソンは実際にはコンスタンティヌス1世の治世中はこの組織は顧問会(consilium)と呼ばれており、consistoriumと呼ばれるようになるのはコンスタンティヌス1世死後であるとしている[79]。 本文中で枢密院としたのは尚樹の著作による。なお、consistoriumの日本語訳は一定しない。尚樹は「枢密院」と訳すが、ランソンの著作を訳した大清水は「御前会議」の語をあてている。
  7. ^ クリスプスの罪を考える上で、ジョーンズは326年4月1日にアクィレリアで発布された少女の誘拐について定めた奇妙な勅令を論拠に、クリスプスが無名の少女を誘拐して関係を持った可能性を推測している。この勅令は誘拐された少女がそれを進んで受け入れた場合、愛人と同じく罪を追うべきであり、拒否した場合でも(叫んで助けを求めることができたはずなので)なお罪を追うと定められている。そして少女の両親がこれを黙認した場合にはその両親も追放刑に処されるべきとされている[94]。更に仲介役を担った奴隷で口を封じられるべきであるともされている[94]。この勅令の具体的な内容、発布された日付、ヒステリックな調子から、ジョーンズはこれがクリスプスに関連して出されたものであり、クリスプスが無名の少女を誘拐し、彼女の両親がそれを妥協によって処理しようとした可能性を推測している[94]。クリスプスは既婚者であり、しかも同時期に妻帯者が妾を持つことを禁止する法律(或いはこの事件に関連して発布されたものである可能性もある)が出されていることから、これが事実とすればクリスプスの罪は単なる醜聞以上のものであった[95]
  8. ^ この時代には幼児の洗礼は未だ習慣化されていなかった(幼児洗礼は、初めは非常時のみ行われていた。この頃には幼児洗礼を受けるものも増えていたが、これはキリスト教徒として生きるという重みを持った選択というよりは、将来キリスト教にしたがう予定という意味合いだった)。自らの意思で洗礼を受ける成人は、神の贖罪により身を守るという信心をはっきりと宣誓した。聴衆に洗礼を促す聖職者と洗礼を放棄した者との板ばさみになったりして、様々な理由から、年をとるか死の間際になるかまで洗礼を待つ者もいた(Thomas M. Finn (1992), Early Christian Baptism and the Catechumenate: West and East Syria および Philip Rousseau (1999). "Baptism", in Late Antiquity: A Guide to the Post Classical World, ed. Peter Brown)。
  9. ^ 南雲泰輔によれば、ローマ市をモデルにして7つの丘を定めたという話は、この都市が「新たなるローマ」として建設されたという説明の典型であるが、後代の後付けである。コンスタンティヌス1世の治世には市内に丘は6つしかなく、7つ目の丘が市内に組み込まれたのはテオドシウス2世(在位:408年-450年)の治世に入ってからのことになる[115]
  10. ^ 大清水の訳では財産管理官[142]
  11. ^ 大清水の訳では帝室財務総監[142]
  12. ^ 大清水の訳では帝室財産管理官[142]
  13. ^ 大清水の訳からは帝室財産総監となる[142]
  14. ^ 大清水の訳では官房長官[142]
  15. ^ コンスタンティヌス1世がこのような新たな戦略に基づいて軍団を再編したことは従来より通説となっている。しかしランソンは、この新たな編成は混乱していた階級秩序を正し、野戦機動軍、河川監視軍、アラレスやコホルタレスといった最下層の軍、という3段階のヒエラルキーを軍に確立することを主眼とした規定上の改革であり、地理的・戦略的な要素は無かったと主張している[146]
  16. ^ 大清水の訳では宮廷警護隊[147]
  17. ^ ランソン、およびスカーの解説では会計年度(4年ごと、lustrum)ごとに徴収されたとなっている。また、制定したのはリキニウスである可能性もあるという[159][160]。本文では尚樹、およびジョーンズの著書を訳した戸田が5年税という訳語を用いていることから、それに従った。
  18. ^ ただし、ネロ帝によるキリスト教徒への弾圧はキリスト教の信奉者それ自体を理由にしたものではなく、キリスト教への弾圧というよりは、政治的な理由によるものであった[173]
  19. ^ シンボリスム的解釈では、十字(架)が太陽の象徴であるのに対し、逆さ十字(架)は金星(明けの明星)の象徴である。
  20. ^ ピーター・ブラウンなどはコンスタンティヌス1世の改宗はその頃までにキリスト教がローマの支配階級にとって重要な宗教になっていたためであると描写している[176]。しかし、日本の学者豊田浩志は、当時の史料において元老院身分の中に登場するキリスト教徒を抽出し、支配階層のキリスト教への改宗が4世紀、コンスタンティヌス1世の時代以降もなお限定的であったことを具体的な数値と共に示しており、またヴェーヌおよびジョーンズの解説も豊田のそれと整合的であるため[177][51]、本文の説明はこの見解に従う[178]
  21. ^ 豊田浩志の紹介・要約による。
  22. ^ ヴェーヌはコンスタンティヌス1世の改宗についてその内心を知ることは不可能であり、それを推し量ることは無意味であると言う。ヴェーヌはこの問題について「心理学者たちが語るところの、あの開くことのできない『ブラックボックス』(もしくは、もしひとが信者なら、『助力の恩恵〔神の超自然の助け〕』)のうちに見いだされるものなのだ。宗教的な感情を覚えるとはひとつの情動であり、ある存在、ある神が実在するというむき出しの事実を信じることは説明不可能なままにとどまる表象行為なのである。」と述べている[52]
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出典

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関連項目

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参考文献

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史料

[編集]
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書籍・論文

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外部リンク

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先代
フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス
ローマ西方副帝
306年 - 312年
次代
なし
先代
マクセンティウス
ローマ西方正帝
312年 - 324年
次代
コンスタンティヌス朝
先代
リキニウス(東方正帝)
ローマ皇帝
324年 - 337年
次代
コンスタンティウス2世
コンスタンティヌス2世
コンスタンス1世