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'''国民革命軍'''(こくみんかくめいぐん、{{ピン音|Guómín Gémìng Jūn}})は、1925年から1947年にかけて存在した[[中国国民党]]の党軍隊である。1925年に[[国民党政府]]が開かれた[[広東省 (中華民国)|広東省]]で[[コミンテルン]]の支援を受けて建軍された。翌1926年から開始された[[北伐 (中国国民党)|北伐]]で[[北京政府]]を倒し、1928年に[[南京市|南京]]を首都とする[[中華民国]]を成立させた後は国軍となった。北伐の中で[[反共主義]]化した。 |
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1937年からの[[抗日戦争]](日中戦争)では侵攻する日本軍を相手にして頑強に抵抗を続けた。日本側はもっぱら'''国民党軍'''と呼び、1938年に[[国民党政府]]が[[南京市|南京]]から遷都した後は'''重慶軍'''と呼んでいた。終戦後の1946年から始まった[[国共内戦]]では[[中国人民解放軍|中国共産党軍]]の前に敗れて台湾へと逃れた。[[中国国民党]]が1949年に[[台湾政府]]を樹立した後は[[中華民国国軍]]と名称を変えた。 |
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元々は[[軍閥]]割拠の状態であった中国を国民党が統一する目的を持って[[ソビエト連邦]]の援助で組織され、[[北伐 (中国国民党)|北伐]]では[[北洋軍閥]]と、[[日中戦争]]では[[日本軍]]と、さらに[[国共内戦]]では[[中国人民解放軍]]との主な会戦を戦った。 |
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日中戦争期には指揮は別ながら[[中国共産党]]の軍隊は名目上は国民革命軍に編入されていたが、国共内戦時には中国人民解放軍を組織するため分離された。 |
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1925年、[[中国国民党]]は[[広東省 (中華民国)|広東省]]を本拠地とする[[国民政府|広東国民政府]]を開いた。同時に[[北京政府]]を倒して中国統一を果たすための軍隊設立に着手し、[[コミンテルン]]の支援を得て建軍されたのが「国民革命軍」であった。コミンテルンの狙いは[[第一次国共合作]]で[[中国工農紅軍|共産党]]の[[細胞 (政党)|細胞]]を植え付けておき、中国制覇が迫った所で乗っ取らせる為の寄生先として利用する事にあった。士官の多くは[[黄埔軍官学校]]の卒業生で占められており、その初代校長であった[[蒋介石]]は、北伐開始前の1926年に国民革命軍の最高司令官に就任した。 |
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1926年、蒋介石は[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を開始し各地の軍閥を服従させつつ、1928年に[[北京政府]]の攻略に成功して表向き中国全土を統一した。同年に[[南京市|南京]]を首都とする[[中華民国]]が樹立されたが、すぐさま地方軍閥の反目が相次いで元の内戦状態に逆戻りした。1927年の[[上海クーデター]]と[[南昌蜂起]]に見舞われた[[蒋介石]]は、共産党を危険視して弾圧対象とした。1930年に軍閥連合との間で行なわれた[[中原大戦]]において決定的勝利を収めるも、混乱の収束までは到らず、[[中国共産党]]の活動も大きな懸念となっていた。1931年の[[満州事変]]で日本軍が[[満州]]全土を占領したのと同時期に、[[中国共産党|共産党]]を率いる立場となった毛沢東も[[江西省 (中華民国)|江西省]]に[[中華ソビエト共和国|中華ソビエト政府]]を打ち立てていた。抗日よりも反共作戦を重要視した蒋介石は、大軍を動員して共産党軍への攻撃を開始した。数度に渡って共産軍を撃破した後に、1934年に江西省の[[瑞金市|共産党本拠地]]を包囲した。進退窮まった共産軍は[[ソ連]]と直接連絡を取れる[[陝西省 (中華民国)|陝西省]]を目指して[[長征]]と称する逃避行を開始した。蒋介石は各軍閥の掃討戦と並行して共産軍の追撃も続けた。1936年に共産軍は陝西省まで辿り着き[[長征]]を終えたが、これを追う蒋介石は再び大軍で包囲網を敷き、毛沢東は絶体絶命の窮地に置かれた。しかし同年12月に蒋介石が友軍の[[張学良]]に監禁されるという[[西安事件]]が発生した。その中で蒋介石は[[国共合作|国共合作案]]を呑まされて止む無く共産軍と休戦し、抗日統一戦線を組む事になった。なお、当時の国民革命軍200万に対して共産軍は1万人程であり、この国民党側にとって明らかに割に合わない[[国共合作]]が実現した[[西安事件]]の真相は未だに不明である。 |
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[[1947年]]の[[中華民国憲法]]の発布と[[ユーラシア大陸|大陸本土]]の中国国民党支配域がほぼ消滅した事により、国民革命軍は[[中華民国国軍]]と名称を変え、[[1949年]]に[[台湾]]へ逃れた。 |
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日本では[[国民政府]]軍、国府軍、国民党軍、[[重慶市|重慶]]軍などと呼んでいた。 |
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1937年、[[盧溝橋事件]]の発生から日本軍の侵攻が始まると、共産軍は華北の[[八路軍]]と華南の[[新四軍]]に再編制されて国民革命軍に組み込まれた。1938年に[[南京市|南京]]が陥落すると[[国民政府]]は[[重慶市|重慶]]に首都を移して立て篭もった。中国大陸のほぼ東半分を舞台にして国民革命軍と日本軍の泥沼の戦いが続けられる中で、毛沢東はソ連の支援を受けながら各地の農村を[[オルグ (社会運動)|オルグ]]して急速に支持層を増やし、また共産軍の兵力も拡大させていた。1945年に日本が無条件降伏して日本軍が武装解除されるのと同時に国民党と共産党の争いも再燃し、1946年に[[国共内戦]]の火蓋が切られた。抗日戦争期間中に漁夫の利を得ていた共産軍はすでに国民革命軍を凌ぐ戦力を蓄えていたので終始優勢に立ち、蒋介石は敗退に次ぐ敗退を重ねた。加えて国民革命軍は各部隊の離反や共産党への転向といった問題にも悩まされていた。[[広州市|広州]]まで追い詰められた蒋介石は[[台湾]]へ逃れ、1949年に[[台湾政府]]を樹立した。生き残った国民革命軍の各部隊も台湾へ撤退し、新天地を得た彼らは[[中華民国国軍]]と名称を変えた。 |
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国民革命軍は、北伐により[[中国]]を統一することを使命とする軍隊として1925年に[[中国国民党]]によって建軍された。[[コミンテルン]]の支援を得て組織され、[[三民主義]]のイデオロギーに基づき指導が行われ、党、政府、軍の区別がはっきりしないことが度々あった。軍の[[将校]]の多くは[[黄埔軍官学校]]を卒業し、この学校の最初の校長であった[[蒋介石]]は1925年、後に成功する北伐が開始される前に国民革命軍の[[最高指揮官]]に就任した。国民革命軍の有名な[[司令官]]には蒋介石以外にも[[杜聿明]]と[[陳誠]]がいた。 |
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[[日中戦争]]の時期には[[中国共産党]]の軍隊は名目上は国民革命軍の一部として[[八路軍]]と[[新四軍]]を組織して戦ったが、この協力体制は後に崩壊した。中国の国共内戦において国民革命軍には、[[脱走兵]]の発生や、多数の[[部隊]]が部隊ごと中国共産党側に寝返るという問題を抱えていた。[[1949年]]に人民解放軍に敗北した後は台湾に逃れ、後に[[中華民国国軍]]と名称を変え、今日に至っている。 |
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== 組織 == |
== 組織 == |
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=== 概要 === |
=== 概要 === |
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[[ファイル:Countermand concession.jpg|thumb|国民革命軍の歩兵|代替文=]] |
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[[ファイル:NRA cavalry.jpg|thumb|国民革命軍の騎兵隊]] |
[[ファイル:NRA cavalry.jpg|thumb|国民革命軍の騎兵隊]] |
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国民革命軍は、約370個の師団('''師''')、46個の新編師団('''新編師)'''、12個の騎兵師団('''騎兵師''')、8個の新編騎兵師団('''新編騎兵師''')の以上が内訳となるおおよそ440個の[[師団]]を1925年から1947年の間にかけて編制していた。その総兵員数は430万人であった。建軍前期の各師団の定員数は5千から6千人であり、日本など他の近代軍隊の師団が1万から1万5千人だったのに比べてはるかに少なかった。[[中独合作]]の下でドイツ式の編制と訓練を施された[[国民革命軍ドイツ訓練師団|ドイツ式師団]]('''徳械師''')の定員は1万4千人となっており<ref>[[:en:German-trained_divisions]]</ref>、他の師団も徐々に定員の増強が図られた。新編師団は抗日戦争前に再編ないし編制されたものであり、装備と部隊構成がやや改新されていた。師団の大半はその充足率が低く、前線に投入されて稼働状態になる際は他の師団が複数個編入されて数合わせされる事が多かったので、同時に活動している実際の師団数はずっと少なかったとされる。国民革命軍は、国民党の直属師団と傍系師団、地方軍閥の私設師団、共産党師団の寄せ集めであったので人数、装備、練度、規律に大きなばらつきがあった。1937年の総兵力は225万人、1941年は述べ380万人の兵士が動員されていた。 |
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[[ファイル:Countermand concession.jpg|thumb|[[北伐 (中国国民党)|北伐]]の時代、[[漢口]]の英国租界の中へ行進する国民革命軍兵士]] |
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国民革命軍はその存続した期間を通して370個の標準[[師団]] (正式師)、46個の新師団(新編師)、12個の[[騎兵]]師団(騎兵師)、8個の新騎兵師団(新編騎兵師)、66個の臨時師団(暫編師)、及び13個の予備師団(預備師)からなる総数515個の師団に、およそ430万人の正規兵を入隊させた。実際には多くの師団はふたつ以上の別の師団から構成され、同時に活動してはいなかった。また、新師団は戦争初期に失われた標準の師団に代わるものとして編成され、古い師団の番号が与えられた。ゆえにどの時代でも活動していた師団の数は前述の総数よりかなり少ない。 |
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師団は編制上の基本単位であり、'''教導團'''と呼ばれる模範部隊が置かれて全体の中核となり全兵員を教化した。師団はそれぞれが独自に兵士の募集または強制徴募を行なって人数を揃えていた。前線へ向かう際はほとんどの場合、戦術上の基本単位である'''軍'''の下に編入されて行動した。軍は2個師団を動かし、それを支援する砲兵連隊('''砲兵團''')と工兵連隊('''特務團''')を追加されて実働戦力を完成させた。 |
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記録によれば、[[1941年]]の中国では380万人の兵士がおり、246個の師団は最前線に、70個の師団が後方に配置されていた。 |
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兵員の確保は強制徴募と募兵で行なわれており、市内の溜まり場で健康そうな若者を見つけると強制的に入隊させるような兵隊狩りが横行していた。手配師の周旋先が実は軍隊で向かった労働者たちがそのまま部隊に編入されてしまうような詐欺紛いの募兵も頻発していた。また、町区や村落に圧力をかけて一定数の男子を供出させる事もあった。「良い鉄は釘にならず、良い人は兵隊にならない」の言葉通り、後者の寡兵では食い詰め者やならず者ばかりが集まり、地方の部隊では匪賊の類がそのまま編入されてる事もあった。1936年から近代国家に倣った兵役制度が各都市に指示されたが戸籍の不備からほとんど機能していなかったとされる。しかし、国民党直轄下の南京、上海、広州、武漢、北平天津などでは愛国心に燃える若者が多く得られて精鋭部隊の編制が可能となった。兵士への給与の支払いと食糧の支給は滞る事が多く、住民からの徴発と略奪行為が横行していた。暴虐行為も頻繁に起き、殺人も珍しくなかったと言われる。部隊編入時に支給された小銃を売却してしまう者もおり、次の日には手ぶらになっている兵士も時折見られたという。こうした規律の低さから兵士たちの戦意も低く、ほとんどの者が何時でも逃げ出せるように着替え用の私服(便衣)を隠し持っていた。彼らを信用していない指揮官たちは[[督戦隊]]を頻繁に組織して後方から監視させ、持ち場を離れる者を容赦なく射殺していた。同様の目的で兵士を入れた[[トーチカ]]に外から鍵を懸けたり、[[塹壕]]に配置した兵士を鎖で繋ぎ止めることも行なわれた。そのため、西洋の軍事評論家の多くは国民革命軍が全体として20世紀の軍隊というより19世紀を思い出させるものであるとの印象を持った<ref>p.5 http://www.history.army.mil/brochures/72-38/72-38.htm</ref>。 |
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国民革命軍の師団は普通、5,000 - 6,000の兵からなったが、[[日本軍|日本]]を含めた他国の師団なら10,000 - 15,000の兵を擁した。[[中独合作]]の下、ドイツ式の訓練を受けた師団は14,000の定員から成った<ref>[[:en:German-trained_divisions]]</ref>。 |
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国民党政権直属の部隊と[[軍閥]]や共産党軍から編入した部隊では装備・練度・規律に大きなばらつきがあった。 |
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兵員の募集では、[[戸籍]]が整備されていなかったので恣意的な[[徴兵制|徴兵]]が行われ、兵隊に適した男性を見つけると強制的に軍に入隊させるような兵隊狩りが横行していた。兵士には給与や食糧もろくに支給されず、各兵士が武器を使って一般市民を脅し、金品を徴発するのが兵士の[[権利]]と考えられていた。兵士による一般市民への暴行、[[強姦|レイプ]]も頻繁に起き、[[殺人]]も珍しくなかった、兵士の戦意も低く、殆どの兵が常に逃亡の準備に[[便衣]]を隠し持っていた。[[戦闘]]では兵士を監視する為に頻繁に[[督戦隊]]が組織され、逃亡する兵士を射殺した。その他に兵士の逃亡を防ぐ為に、兵士が入った[[トーチカ]]に外から鍵を懸けたり、[[塹壕]]に鎖で兵士を繋ぎ止めることなどが実行された。 |
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国民革命軍も数は少ないが[[機甲部隊]]と[[機械化歩兵|機械化歩兵部隊]]を編制していた。日中戦争が始まった1937年時の[[機甲部隊]]は3個大隊で組織され、ソ連、ドイツ、イタリアから輸入された[[戦車]]と[[装甲車]]を持っていた。これらが[[第二次上海事変|上海戦]]と[[南京攻略戦|南京戦]]で壊滅した後は、[[ソビエト連邦|ソ連]]から戦車と装甲車の提供を受けて唯一の[[機甲師団]]となる第200師を編制した。1938年6月に第200師は再編制され、麾下から機甲部隊が外されて第5軍の指揮下に移管されたので、装甲車部隊のみを持つ[[機械化歩兵]]師団となった。その後の第200師は1939年から40年にかけて[[広西省]]の[[賓陽作戦|桂南会戦]]に参加し、1942年には[[雲南省|雲南]]と[[ミャンマー|ビルマ]]で活動した。[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]の後半期に現地の中国軍は[[M4中戦車|シャーマン戦車]]が配備された機甲大隊をひとつ持っていた。 |
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== 編制序列 == |
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そのため、西洋の軍事批評家の多くは国民革命軍が全体として[[20世紀]]の軍隊というより[[19世紀]]を思い出させるものであるとの印象を持った<ref>p.5 http://www.history.army.mil/brochures/72-38/72-38.htm</ref>。 |
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国民革命軍を構成する編制単位は以下の通りである。'''戦区'''は[[日中戦争]]が始まった1937年から設置され、当初は中国全土を5区に分けてそれぞれが複数の集団軍を統括した。1938年末に10区、1945年には12区まで増やされていた。戦区内の兵力が増えると更に区分けされて'''兵団'''が設けられた。兵団は地名が冠せられるか戦区内での通し番号が振られた。 |
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#'''行営''' -- 必要に応じて各地方に設置された軍事委員会の出先機関。複数の戦區を管理した。 |
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#'''戦區'''([[抗日戦争戦区|戦区]])-- 単数ないし複数の省を範囲にする[[軍管区]]である。複数の集團軍とその他を統括した。 |
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#'''兵團'''(兵団)-- 戦區を更に分割したもの。1個以上の集團軍とその他を持った。 |
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残りの師団は元軍閥に所属していたため、定員割れであり、概して訓練もされていなかった。約40個程度の国民革命軍の師団には欧州製の装備が配備された。<br/ > |
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#'''集團軍'''(集団軍)-- 2個以上の軍とその他を持った。 |
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#集團軍と軍の間 |
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#*'''路軍''' -- 2個以上の軍を持った。集團軍の小型版。1929~1937年まで存在。 |
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#*'''方面軍''' -- 集團軍または[[中国陸軍総司令部|総司令部]]の下で2個以上の軍を指揮した。1926~28年と44年に存在。 |
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#*'''軍團''' -- 1928年から存在。28年は蒋介石直属の小型集団軍だった。32年からは地方軍閥所属の軍を1個以上まとめた編制単位となった。37年以降は集團軍の小型版となり2個以上の軍を持った。 |
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#'''軍''' -- 軍団に相当する。2個以上の歩兵師と砲兵團と特務團(工兵)を持った。 |
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#'''師''' -- 師団に相当する。2個の旅と教導團(全兵員を教化する模範部隊)を持った。 |
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#'''旅''' -- 旅団に相当する。2個の團を持った。2個以上の團を持つ'''独立旅'''は師の小型版だった。 |
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#'''團''' -- 連隊に相当する。ここから全軍中の通し番号が振られた。 |
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#'''營''' -- 大隊 |
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#'''連''' -- 中隊 |
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#'''排''' -- 小隊 |
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#'''班''' -- 分隊 |
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編制上の基本単位は'''師'''であり、それぞれが独自に兵員の募集または強制徴募を行なって人数を揃える仕組みとなっていた。各師は通常2個の旅ナンバーと4個の團ナンバーを連番で軍中央から与えられており、師の全兵員は師長の裁量で分割され、前述のナンバーを振られて旅と團が作られていた。ナンバーは全軍中で一意なものだった。團は連隊に相当するが、日本の様に各郷土ごとに組織されて下から師団を組み立てるものではなく、師を分割して上から組織される点で異なっていた。なお、砲兵や工兵および機甲部隊などの團は軍中央の下で計画的に組織された。戦術上の基本単位は'''軍'''であり、通常2個の師を砲兵團と特務團の支援下で連携させて実働戦力を完成させた。 |
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国民革命軍は少数の装甲車両と機械化部隊を持っているだけだった。[[1937年]]の戦争開始の時点では機甲部隊([[装甲部隊]])は3つの機甲大隊で組織され、各国から入手した[[戦車]]と[[装甲車]]を持っていた。これらの大隊の大部分が[[第二次上海事変|上海戦]]と[[南京攻略戦|南京戦]]で破壊された後は、[[ソビエト連邦]]と[[イタリア王国]]から入手した新しい戦車、装甲車および[[貨物自動車|トラック]]により唯一の[[機甲師団]]である第200師の編成が可能になった。[[1938年]]6月の師団再編の後、この師団は結局機甲師団としては存続しなかった。 |
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指揮官の称号は、行営は主任、戦区は司令長官、兵団は司令官、集団軍は総司令、路軍と方面軍は総指揮で、当時は日本式に倣っていた。他は軍団長、軍長、師長、旅長、團長であった。 |
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機甲連隊と火砲連隊は第五軍の直接の指揮下に置かれ、第200師は同じ軍の[[機械化歩兵]]師団になった。この軍は車両の損失と機械の故障のため装甲部隊を減らしながら[[1939年]]から[[1940年]]にかけては[[広西省]]の[[賓陽作戦|桂南会戦]]、[[1942年]]には[[雲南省|雲南]]・[[ミャンマー]]における会戦を戦った。 |
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[[ビルマの戦い]]の遅い時期、現地の国民革命軍は[[M4中戦車|シャーマン戦車]]が配備された機甲大隊をひとつ持っていた。 |
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== 軍階 == |
== 軍階序列 == |
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|[[File:01陆军二等兵.png|100px]] |
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=== 軍編成 === |
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国民革命軍の単位の構造は以下の通りである。各単位はそのすぐ上の単位に対して必ずしも下位であるわけではないことには注意が必要である。例えばいくつかの連隊(團) は軍集団(集團軍)の下位に置かれたことが分かっている。 |
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'''最高司令官'''<br/ > |
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[[蒋介石]] [[1925年]] - [[1947年]] |
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* [[軍区]] ×12(軍區) |
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** [[兵団]] ×4(兵團) |
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*** [[軍集団]] ×40(集團軍) |
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**** [[方面軍]] (路軍) |
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***** [[軍]] ×30(軍) |
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****** [[軍団]] ×133(軍團) |
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******* [[師団]] (師) |
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******** [[旅団]] (旅) |
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********* [[連隊]] (團) |
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********** [[大隊]] (營) |
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*********** [[中隊]] (連) |
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************ [[小隊]] (排) |
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************* [[分隊]] (班) |
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== 装備 == |
== 装備 == |
2019年7月9日 (火) 02:37時点における版
國民革命軍 National Revolutionary Army (NRA) | |
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国民革命軍の軍旗 | |
活動期間 | 1925年 – 1947年 |
国籍 | 中華民国 |
忠誠 |
中国国民党 中華民国 |
兵科 | 陸軍、海軍、空軍 |
主な戦歴 |
北伐 長征 中原大戦 日中戦争 国共内戦 |
指揮 | |
著名な司令官 |
蒋介石 張学良 閻錫山 馮玉祥 白崇禧 孫立人 何応欽 |
国民革命軍(こくみんかくめいぐん、拼音: )は、1925年から1947年にかけて存在した中国国民党の党軍隊である。1925年に国民党政府が開かれた広東省でコミンテルンの支援を受けて建軍された。翌1926年から開始された北伐で北京政府を倒し、1928年に南京を首都とする中華民国を成立させた後は国軍となった。北伐の中で反共主義化した。
1937年からの抗日戦争(日中戦争)では侵攻する日本軍を相手にして頑強に抵抗を続けた。日本側はもっぱら国民党軍と呼び、1938年に国民党政府が南京から遷都した後は重慶軍と呼んでいた。終戦後の1946年から始まった国共内戦では中国共産党軍の前に敗れて台湾へと逃れた。中国国民党が1949年に台湾政府を樹立した後は中華民国国軍と名称を変えた。
歴史
1925年、中国国民党は広東省を本拠地とする広東国民政府を開いた。同時に北京政府を倒して中国統一を果たすための軍隊設立に着手し、コミンテルンの支援を得て建軍されたのが「国民革命軍」であった。コミンテルンの狙いは第一次国共合作で共産党の細胞を植え付けておき、中国制覇が迫った所で乗っ取らせる為の寄生先として利用する事にあった。士官の多くは黄埔軍官学校の卒業生で占められており、その初代校長であった蒋介石は、北伐開始前の1926年に国民革命軍の最高司令官に就任した。
1926年、蒋介石は北伐を開始し各地の軍閥を服従させつつ、1928年に北京政府の攻略に成功して表向き中国全土を統一した。同年に南京を首都とする中華民国が樹立されたが、すぐさま地方軍閥の反目が相次いで元の内戦状態に逆戻りした。1927年の上海クーデターと南昌蜂起に見舞われた蒋介石は、共産党を危険視して弾圧対象とした。1930年に軍閥連合との間で行なわれた中原大戦において決定的勝利を収めるも、混乱の収束までは到らず、中国共産党の活動も大きな懸念となっていた。1931年の満州事変で日本軍が満州全土を占領したのと同時期に、共産党を率いる立場となった毛沢東も江西省に中華ソビエト政府を打ち立てていた。抗日よりも反共作戦を重要視した蒋介石は、大軍を動員して共産党軍への攻撃を開始した。数度に渡って共産軍を撃破した後に、1934年に江西省の共産党本拠地を包囲した。進退窮まった共産軍はソ連と直接連絡を取れる陝西省を目指して長征と称する逃避行を開始した。蒋介石は各軍閥の掃討戦と並行して共産軍の追撃も続けた。1936年に共産軍は陝西省まで辿り着き長征を終えたが、これを追う蒋介石は再び大軍で包囲網を敷き、毛沢東は絶体絶命の窮地に置かれた。しかし同年12月に蒋介石が友軍の張学良に監禁されるという西安事件が発生した。その中で蒋介石は国共合作案を呑まされて止む無く共産軍と休戦し、抗日統一戦線を組む事になった。なお、当時の国民革命軍200万に対して共産軍は1万人程であり、この国民党側にとって明らかに割に合わない国共合作が実現した西安事件の真相は未だに不明である。
1937年、盧溝橋事件の発生から日本軍の侵攻が始まると、共産軍は華北の八路軍と華南の新四軍に再編制されて国民革命軍に組み込まれた。1938年に南京が陥落すると国民政府は重慶に首都を移して立て篭もった。中国大陸のほぼ東半分を舞台にして国民革命軍と日本軍の泥沼の戦いが続けられる中で、毛沢東はソ連の支援を受けながら各地の農村をオルグして急速に支持層を増やし、また共産軍の兵力も拡大させていた。1945年に日本が無条件降伏して日本軍が武装解除されるのと同時に国民党と共産党の争いも再燃し、1946年に国共内戦の火蓋が切られた。抗日戦争期間中に漁夫の利を得ていた共産軍はすでに国民革命軍を凌ぐ戦力を蓄えていたので終始優勢に立ち、蒋介石は敗退に次ぐ敗退を重ねた。加えて国民革命軍は各部隊の離反や共産党への転向といった問題にも悩まされていた。広州まで追い詰められた蒋介石は台湾へ逃れ、1949年に台湾政府を樹立した。生き残った国民革命軍の各部隊も台湾へ撤退し、新天地を得た彼らは中華民国国軍と名称を変えた。
組織
概要
国民革命軍は、約370個の師団(師)、46個の新編師団(新編師)、12個の騎兵師団(騎兵師)、8個の新編騎兵師団(新編騎兵師)の以上が内訳となるおおよそ440個の師団を1925年から1947年の間にかけて編制していた。その総兵員数は430万人であった。建軍前期の各師団の定員数は5千から6千人であり、日本など他の近代軍隊の師団が1万から1万5千人だったのに比べてはるかに少なかった。中独合作の下でドイツ式の編制と訓練を施されたドイツ式師団(徳械師)の定員は1万4千人となっており[1]、他の師団も徐々に定員の増強が図られた。新編師団は抗日戦争前に再編ないし編制されたものであり、装備と部隊構成がやや改新されていた。師団の大半はその充足率が低く、前線に投入されて稼働状態になる際は他の師団が複数個編入されて数合わせされる事が多かったので、同時に活動している実際の師団数はずっと少なかったとされる。国民革命軍は、国民党の直属師団と傍系師団、地方軍閥の私設師団、共産党師団の寄せ集めであったので人数、装備、練度、規律に大きなばらつきがあった。1937年の総兵力は225万人、1941年は述べ380万人の兵士が動員されていた。
師団は編制上の基本単位であり、教導團と呼ばれる模範部隊が置かれて全体の中核となり全兵員を教化した。師団はそれぞれが独自に兵士の募集または強制徴募を行なって人数を揃えていた。前線へ向かう際はほとんどの場合、戦術上の基本単位である軍の下に編入されて行動した。軍は2個師団を動かし、それを支援する砲兵連隊(砲兵團)と工兵連隊(特務團)を追加されて実働戦力を完成させた。
兵員の確保は強制徴募と募兵で行なわれており、市内の溜まり場で健康そうな若者を見つけると強制的に入隊させるような兵隊狩りが横行していた。手配師の周旋先が実は軍隊で向かった労働者たちがそのまま部隊に編入されてしまうような詐欺紛いの募兵も頻発していた。また、町区や村落に圧力をかけて一定数の男子を供出させる事もあった。「良い鉄は釘にならず、良い人は兵隊にならない」の言葉通り、後者の寡兵では食い詰め者やならず者ばかりが集まり、地方の部隊では匪賊の類がそのまま編入されてる事もあった。1936年から近代国家に倣った兵役制度が各都市に指示されたが戸籍の不備からほとんど機能していなかったとされる。しかし、国民党直轄下の南京、上海、広州、武漢、北平天津などでは愛国心に燃える若者が多く得られて精鋭部隊の編制が可能となった。兵士への給与の支払いと食糧の支給は滞る事が多く、住民からの徴発と略奪行為が横行していた。暴虐行為も頻繁に起き、殺人も珍しくなかったと言われる。部隊編入時に支給された小銃を売却してしまう者もおり、次の日には手ぶらになっている兵士も時折見られたという。こうした規律の低さから兵士たちの戦意も低く、ほとんどの者が何時でも逃げ出せるように着替え用の私服(便衣)を隠し持っていた。彼らを信用していない指揮官たちは督戦隊を頻繁に組織して後方から監視させ、持ち場を離れる者を容赦なく射殺していた。同様の目的で兵士を入れたトーチカに外から鍵を懸けたり、塹壕に配置した兵士を鎖で繋ぎ止めることも行なわれた。そのため、西洋の軍事評論家の多くは国民革命軍が全体として20世紀の軍隊というより19世紀を思い出させるものであるとの印象を持った[2]。
ドイツ式部隊
北伐期間中に国民革命軍の主力となったのは、ドイツ軍事顧問団によってドイツ式訓練と装備を施された「徳械師」と呼ばれる6個の師団であった。それらは第3師、第6師、第9師、第14師、第87師、第88師である。その他にも装備品は後回しでドイツ式訓練で強化された12個の師団があった。それらを含む約40個の国民党直属師団には欧州製の装備品が支給されていた。
戦車・装甲車部隊
国民革命軍も数は少ないが機甲部隊と機械化歩兵部隊を編制していた。日中戦争が始まった1937年時の機甲部隊は3個大隊で組織され、ソ連、ドイツ、イタリアから輸入された戦車と装甲車を持っていた。これらが上海戦と南京戦で壊滅した後は、ソ連から戦車と装甲車の提供を受けて唯一の機甲師団となる第200師を編制した。1938年6月に第200師は再編制され、麾下から機甲部隊が外されて第5軍の指揮下に移管されたので、装甲車部隊のみを持つ機械化歩兵師団となった。その後の第200師は1939年から40年にかけて広西省の桂南会戦に参加し、1942年には雲南とビルマで活動した。ビルマ戦線の後半期に現地の中国軍はシャーマン戦車が配備された機甲大隊をひとつ持っていた。
編制序列
国民革命軍を構成する編制単位は以下の通りである。戦区は日中戦争が始まった1937年から設置され、当初は中国全土を5区に分けてそれぞれが複数の集団軍を統括した。1938年末に10区、1945年には12区まで増やされていた。戦区内の兵力が増えると更に区分けされて兵団が設けられた。兵団は地名が冠せられるか戦区内での通し番号が振られた。
- 国民政府軍事委員会
- 行営 -- 必要に応じて各地方に設置された軍事委員会の出先機関。複数の戦區を管理した。
- 戦區(戦区)-- 単数ないし複数の省を範囲にする軍管区である。複数の集團軍とその他を統括した。
- 兵團(兵団)-- 戦區を更に分割したもの。1個以上の集團軍とその他を持った。
- 集團軍(集団軍)-- 2個以上の軍とその他を持った。
- 集團軍と軍の間
- 路軍 -- 2個以上の軍を持った。集團軍の小型版。1929~1937年まで存在。
- 方面軍 -- 集團軍または総司令部の下で2個以上の軍を指揮した。1926~28年と44年に存在。
- 軍團 -- 1928年から存在。28年は蒋介石直属の小型集団軍だった。32年からは地方軍閥所属の軍を1個以上まとめた編制単位となった。37年以降は集團軍の小型版となり2個以上の軍を持った。
- 軍 -- 軍団に相当する。2個以上の歩兵師と砲兵團と特務團(工兵)を持った。
- 師 -- 師団に相当する。2個の旅と教導團(全兵員を教化する模範部隊)を持った。
- 旅 -- 旅団に相当する。2個の團を持った。2個以上の團を持つ独立旅は師の小型版だった。
- 團 -- 連隊に相当する。ここから全軍中の通し番号が振られた。
- 營 -- 大隊
- 連 -- 中隊
- 排 -- 小隊
- 班 -- 分隊
編制上の基本単位は師であり、それぞれが独自に兵員の募集または強制徴募を行なって人数を揃える仕組みとなっていた。各師は通常2個の旅ナンバーと4個の團ナンバーを連番で軍中央から与えられており、師の全兵員は師長の裁量で分割され、前述のナンバーを振られて旅と團が作られていた。ナンバーは全軍中で一意なものだった。團は連隊に相当するが、日本の様に各郷土ごとに組織されて下から師団を組み立てるものではなく、師を分割して上から組織される点で異なっていた。なお、砲兵や工兵および機甲部隊などの團は軍中央の下で計画的に組織された。戦術上の基本単位は軍であり、通常2個の師を砲兵團と特務團の支援下で連携させて実働戦力を完成させた。
指揮官の称号は、行営は主任、戦区は司令長官、兵団は司令官、集団軍は総司令、路軍と方面軍は総指揮で、当時は日本式に倣っていた。他は軍団長、軍長、師長、旅長、團長であった。
軍階序列
階級 | 军兵种 | 肩当て | |
---|---|---|---|
将官 | 特級上将 | ||
一級上将 | |||
二級上将 | |||
中将 | |||
少将 | |||
校官 | 上校 | 炮兵 | |
中校 | 骑兵 | ||
少校 | 宪兵 | ||
尉官 | 上尉 | 军乐 | |
中尉 | 炮兵 | ||
少尉 | 测绘 | ||
准軍官 | 准尉 | 骑兵 | |
士官 | 上士 | 军需 | |
中士 | 军医 | ||
下士 | 通讯 | ||
士兵 | 上等兵 | 工兵 | |
一等兵 | 机械化部队 | ||
二等兵 | 宪兵 |
装備
中国の武器は主に漢陽、広東、及び太原で生産された。ただしドイツ人に訓練された師団のほとんどが標準とした小銃は7.92mmのGew98とKar98kというドイツ製であった。しかし、中国の通常の師団ではその標準の小銃は'漢陽88式小銃'というGew88のコピーと'中正式小銃'というGew98のコピーであった。標準の軽機関銃は7.92mmのZB26軽機関銃というチェコ製の中国におけるコピーであった。ベルギー製、フランス製の軽機関銃もあった。また、国民革命軍はドイツからMG34機関銃を購入せず、彼ら自身によるそのモデルのコピーを生産した。これらの師団では通常、各小隊に軽機関銃がひとつずつあった。重機関銃は主にドイツからの設計図をもとに現地生産された水冷式の24式重機関銃(マキシム機関銃)であった。平均すると各大隊ごとに重機関銃はひとつずつ与えられた(第二次世界大戦における実際のドイツ師団の三分の一から半分程度である)。標準の携帯銃は、7.63mmのモーゼルC96セミオート拳銃、あるいはフルオートのモーゼル・シュネルフォイヤーであった。 これらのフルオートマチックのタイプは第二次世界大戦の終了前に中国軍で不足したサブマシンガンと小銃の代わりに使用された。日中戦争の期間は国民革命軍は彼ら自身の武器の不足とその品質の悪さがあり、得られた日本製の武器と装備をかなり利用した。
いくつかの師団には37mm3.7 cm PaK 36対戦車砲とエリコン、マドセン、あるいはゾロトゥルン社製の迫撃砲の両方もしくは片方が配備された。各歩兵師団はフランス・ブラント社製81mm迫撃砲6門と ゾロトゥルン社製20mm機関砲6門を持った。いくつかの独立旅団と大砲連隊にはボフォース社製72 mm L/14、あるいはクルップ社製72mm L/29 山砲とラインメタル社製150mm L/32 sFH 18榴弾砲24門(1934年購入)とクルップ社製 150mm L/30 sFH 18榴弾砲24門(1936年購入)が配備された。
歩兵の制服は、人民服を基本とし調整されたものである。国民革命軍の部隊の主な移動手段は徒歩だったため、兵士及び将校も同様に巻脚絆を標準とした。ヘルメットはこれらの師団を最も特徴づけるものだった。1935年からドイツ・シュタールヘルム社製M1935ヘルメット(欧州戦線では終戦間近までドイツ国防軍の標準仕様であった)が生産され、国民革命軍は1936年までに横に中華民国の青天白日の紋章がついた31万5千個を輸入した。他にはアドリアンヘルメット(フランス軍のヘルメット)、ブロディヘルメット(イギリス軍のヘルメット)、後期にはM1ヘルメット(アメリカ軍のヘルメット)も使用された。他の装備には兵士のための布靴、将校の為の革靴、及び高級将校の為の皮製ブーツがあった。全兵士に弾薬、弾薬ポーチもしくはハーネス、スキットル、コンバット・ナイフ、食料袋、及びガスマスクが配給された。
脚注
関連項目
- 黄埔軍官学校
- 北伐 (中国国民党) - 中ソ紛争 - 中原大戦 - 囲剿 - 満州事変 - 日中戦争 - 日中戦争後の国共内戦
- 蒋介石
- 中独合作
- 中華民国国軍
- 中華民国の歴史
- 中国人民解放軍
- 国民軍 (中華民国)
- 韓国光復軍
- 抗日老兵