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[[1990年]](平成2年)の[[湾岸戦争]]では首相閣外補佐に就いた。またその後[[1994年]]には日米文化教育交流会議(カルコン)日本側パネル委員就任。[[内外情勢調査会]]理事。1996年には新官邸危機管理懇談会のメンバーに選ばれる。 |
2019年9月8日 (日) 17:03時点における版
佐々 淳行 | |
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生年月日 | 1930年12月11日 |
出生地 | 東京府東京市麻布区 |
没年月日 | 2018年10月10日(87歳没) |
死没地 | 東京都 |
出身校 | 東京大学法学部政治学科 |
前職 | 国家公務員(警察庁・防衛庁) |
称号 |
法学士 勲二等旭日重光章 |
親族 |
佐々友房(祖父) 佐々弘雄(父) 佐々克明(兄) 紀平悌子(姉) |
公式サイト | 佐々淳行ホームページ |
初代 内閣安全保障室長 | |
在任期間 | 1986年7月1日 - 1989年6月30日 |
第15代 防衛施設庁長官 | |
在任期間 | 1984年7月1日 - 1986年6月10日 |
佐々 淳行(さっさ あつゆき、1930年12月11日 - 2018年10月10日)は、日本の警察・防衛官僚。危機管理評論家。
経歴
生い立ち
熊本県出身の政治学者で、後に参議院議員などを務めた佐々弘雄の次男として、東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。戦国武将・佐々成政の末裔の家系でもある。
6歳のとき自宅近くで二・二六事件が発生。その戒厳下の体験が危機管理人生の出発点となったという。その後、ゾルゲ事件の際に疑われることを恐れた父の持ち物を焼き、のちの大東亜戦争(太平洋戦争)になると父親が特高に怪しまれるようになるが、逮捕はされなかった。
学生時代
旧制成蹊高等学校を経て[1]、1954年(昭和29年)3月に東京大学法学部政治学科を卒業。東京大学在学中は、学生研究会土曜会の中心メンバーとして活動し、若泉敬、粕谷一希らと交流を持った。
法学部教授の堀豊彦から学士助手として大学に残るよう勧められたが[2]、朝鮮戦争や過激化する左翼運動といった世相の中、ウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』に感化され、国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁した。若泉は保安研修所(現・防衛研究所)入りし学究の道に入った。粕谷は佐々が学者、若泉が実務家の適性を持っていると思っていたため、それぞれの選択を意外に思ったという[3]。
警察官僚として
入庁後は、主に警備警察の分野を歩み、目黒署などを経て警察大学校助教授、警視庁外事課長代理、大阪府警察外事課長、外務省在香港総領事館領事、警視庁公安部外事第一課長、同警備部警備第一課長、同警務部参事官兼人事第一課長等を経て、警察庁警務局監察官兼警備局付、警備局調査課長、同外事課長、同警備課長、三重県警察本部長、警察庁刑事局参事官を歴任した。
1950年代から1970年代の東大安田講堂事件(1969年)[4]、あさま山荘事件(1972年)[4]、ひめゆりの塔事件(1975年)など数多くの学生運動や新左翼のテロに対する警備実施を指揮した。また、瀬島龍三をはじめとしたソビエト連邦のスパイ取り締まりや亡命事件などの外事も多く手がけた。
1964年1月よりケネディ大統領暗殺事件調査のため渡米。その後東京オリンピック警備などを経て、1965年より外務省に出向し香港総領事館領事の命を得て駐在。1966年12月に起きた一二・三事件や1967年5月の香港の中国共産党系暴動、さらに1968年1月の南ベトナムでのテト攻勢などに遭遇。テト攻勢の際はサイゴンの日本大使館に籠城を余儀なくされる。
1970年11月25日に起きた「三島事件」では当時警務部参事官兼人事第一課長だったが、上司の土田國保警備部長から「君は三島由紀夫と親しいのだろ。すぐ行って説得してやめさせろ」と指示を受け、警視庁から市ヶ谷の現場に駆けつけたが、三島自決には間に合わなかった。
後年佐々は、遺体と対面しようと総監室に入った時の様子を「足元の絨毯がジュクッと音を立てた。みると血の海。赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」と述懐している[5][6]。
警備課長時代の1975年には「ひめゆりの塔事件」事件に遭遇。7月17日の皇太子到着当時、皇太子および同妃の訪問に先立ち地下壕内の安全確認を主張したものの、沖縄県知事、沖縄県警察の担当者らに「『聖域』に土足で入るのは県民感情を逆なでする」と反対されたために実施できなかった[7]。
警備責任者である佐々は辞表を提出したものの受け取りを拒否され、三重県警察本部長に転任した。
防衛施設庁長官
その後、1977年より防衛庁に出向する。防衛庁では同長官官房長[8]などを経て、防衛施設庁長官に就任した[9]。厚木基地夜間離着陸訓練を担当し、加藤紘一防衛庁長官と不仲で途中で辞任することも考えたが、1986年(昭和61年)6月に防衛施設庁長官で退官する。
初代内閣安全保障室長
1986年7月1日、第3次中曽根康弘内閣で初代の内閣官房内閣安全保障室長(兼総理府安全保障室長)に就任した[10]。中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑の3人の内閣総理大臣に仕える。安全保障会議事務局長も務める。リクルート事件など政財界を騒がす事件が起きたものの、1989年(平成元年)2月に行われた昭和天皇大喪の礼の事務取り仕切りを最後に、同年6月に退官した。
退官後
退官後は、後藤田正晴をはじめとする複数の政界有力者から、いわゆる天下りや、自由民主党からの政界入りを勧められたものの[11]、それらを辞退して個人事務所を開設し[11][12]、危機管理をライフワークとしてフリーで活動する道を選んだ[11]。現役官僚時代から著書が多く、退官後は多くの著書を上梓し、そのうちのいくつかはベストセラーとなり、「あさま山荘事件」など映画化された例もある。同作には本人も映画館の客としてカメオ出演している。
1990年(平成2年)の湾岸戦争では首相閣外補佐に就いた。またその後1994年には日米文化教育交流会議(カルコン)日本側パネル委員就任。内外情勢調査会理事。1996年には新官邸危機管理懇談会のメンバーに選ばれる。
また1991年(平成3年)のソ連崩壊、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、1996年(平成8年)の在ペルー日本大使公邸占拠事件、2001年のアメリカ同時多発テロ事件、2003年のイラク戦争などの際には、コメンテーターとして民放やNHKなどのテレビ番組に出演している。
2006年(平成18年)7月には、日本美術刀剣保存協会の第7代会長・刀剣博物館館長に就任した。
石原陣営選挙対策本部長
親友であった石原慎太郎が3選された2007年(平成19年)の東京都知事選挙では、石原からの要請で、石原陣営の選挙対策本部長を務めた。このときに用いられた「反省しろよ慎太郎、だけどやっぱり慎太郎」のキャッチコピーは、佐々の発案によるものである[13]。
死去
晩年も著作・講演活動を続け、またテレビ番組などでコメンテーターとして出演していた。2018年10月10日、老衰のため東京都内の病院で死去[14]。87歳没。
年譜
- 1930年(昭和5年)12月11日:佐々弘雄の次男として、東京市麻布区麻布材木町で生まれる。
- 1954年(昭和29年)
- 1955年(昭和30年)10月:警視庁防犯部保安課[注釈 3]
- 1956年(昭和31年)1月:警察大学校助教授
- 1957年(昭和32年)
- 1959年(昭和34年)7月:大分県警察本部警務部長
- 1960年(昭和35年)7月:警視庁公安部外事課[注釈 4]
- 1962年(昭和37年)4月:大阪府警察本部警備部外事課長
- 1964年(昭和39年)1月:警察庁警備局付(外務省研修所)[注釈 5]
- 1965年(昭和40年)
- 1月:在香港日本国総領事館副領事
- 4月:在香港日本国総領事館領事[注釈 6]
- 1968年(昭和43年)
- 1969年(昭和44年):東大安田講堂事件など一連の第二次安保闘争に対する警備実施を指揮。
- 1970年(昭和45年)9月:警視庁警務部参事官兼人事第一課長
- 1971年(昭和46年)11月:警察庁警備局付兼警務局監察官(極左暴力集団の犯罪、及びそれに関連する警備実施を専任的に取り扱い指揮するため階級を引き上げるための冨田朝彦警備局長の是非貰いで行われた変則・特殊な人事。当時の人事の慣例では警視正の階級では警察庁課長職にはなれないため、たまたま空きがあった課長相当の警務局監察官職に就け、実際の任務は警備局での無任所課長として、都内から離れられない警備課長の代わりに全国で多発する極左関連事件の処理に現場へ派遣された。)
- 1972年(昭和47年)
- 1974年(昭和49年)8月:警察庁警備局警備課長[注釈 10]
- 1975年(昭和50年)8月:三重県警察本部長
- 1977年(昭和52年)
- 1978年(昭和53年)11月:防衛庁教育担当参事官[注釈 12]
- 1980年(昭和55年)6月:防衛庁人事教育局長
- 1982年(昭和57年)7月:防衛庁長官官房長[注釈 13]
- 1984年(昭和59年)7月:防衛施設庁長官[注釈 14]
- 1986年(昭和61年)
- 1989年(平成元年)6月:内閣安全保障室長を辞職。
- 1990年(平成2年)8月:湾岸危機につき、首相閣外補佐を担当。
- 1991年(平成3年)4月:ボランティア団体・日本国際救援行動委員会(JIRAC)を設立し、理事長に就任[注釈 16]。
- 1993年(平成5年)4月:慶應義塾大学法学部政治学科の非常勤講師に就任。同年9月から、「日本の安全保障行政」と題する講義を開始(この後、6年間に及ぶ)。
- 1994年(平成6年)4月:日米文化教育交流会議(カルコン)日本側パネル委員就任。内外情勢調査会理事と日本国際フォーラム政策委員就任。
- 1996年(平成8年)
- 3月:新官邸危機管理懇談会メンバーに就任。
- 4月:平成国際大学法学部政治学科非常勤講師に就任。
- 1997年(平成9年)8月:建設省河川審議会危機管理小委員会座長に就任。
- 1998年(平成10年)3月:人道目的地雷除去支援の会(JAHDS)理事に就任。
- 1999年(平成11年)
- 6月:東京都移転問題専門委員会委員に就任。
- 8月:ハイジャック対策懇談会座長に就任。
- 2002年(平成14年)7月:横浜市専門委員に就任。
- 2007年(平成19年)9月18日:NPO法人総合危機マネジメント協会の会長・理事に就任。
- 2018年(平成30年)10月10日、東京都内の病院で死去。87歳没。
系譜
戦国時代の武将・佐々成政[15]、それより下って時代劇『水戸黄門』で知られる助さんのモデルとなった佐々宗淳の兄・佐々勝朗を祖先に持つ。
西南戦争で西郷軍に与し、後に済々黌を創設し、衆議院議員を務めた佐々友房は祖父。政治学者で参議院議員の佐々弘雄は父。朝日新聞記者・作家の佐々克明は兄。日本婦人有権者同盟代表で参議院議員の紀平悌子は姉[16]。
エピソード
- 全共闘運動への対処にあたった佐々であるが、日大紛争の発端となった当時の大学当局の腐敗には義憤を感じており、秋田明大日大全共闘議長の演説に心を打たれることもあった[17]。
- 1973年にドバイ日航機ハイジャック事件が発生した際、犯人はハイジャック機を使ったイスラヘルへの「特攻」が目的であり、ドバイに駐機させられた日航機が再び飛び立てば乗客乗員の命はないとの分析が日本政府で主流を占める中で、前年に発生したルフトハンザ機615便ハイジャック事件との類似性を見抜き、身代金要求の可能性を示唆した数少ない人物であった[18]。
- 土田・日石・ピース缶爆弾事件の犠牲となった土田國保警視庁警務部長の妻と死亡する十数分前に電話で会話していた(土田は佐々が就任した香港領事の先々代)[6]。
- 異名として、「事件を呼ぶ男[19]」「さすらいのガンマン[19]」「ダーティー・ハリー[19]」「縦社会を横に生きた男(小松万豊による)[19]」「血刀下げて裸馬に乗って単身敵陣に斬り込んでいく奴(後藤田正晴による)[20]」がある。
栄典・受賞歴
- 1975年(昭和50年):イギリスCBE勲章(大英勲章=コマンダー・オブ・ブリティッシュ・エンパイア)を受章[21]。
- 1986年(昭和61年):アメリカ陸軍民間人功労章(U・S・ミリタリー・アウトスタンディング・シビリアン・サービス・メダル)を受章[21]。
- 1990年(平成2年):ドイツ連邦共和国功労勲章十字章(ダス・グローセ・フェアディーンスト・クロイツ)を受章[21]。
- 1992年(平成4年):第54回文藝春秋読者賞を受賞[22]。
- 2000年(平成12年)12月:第48回菊池寛賞を受賞[23]。
- 2001年(平成13年):勲二等旭日重光章を受章[24]。
- 2007年(平成19年)2月:第22回正論大賞を受賞[25]。
- 2018年(平成30年)10月10日:叙正四位[26]。
著書
- 『新しい監督者論』立花書房 1957
- 『危機管理のノウハウ I~III』 PHP研究所、1979-1981、のちPHP文庫、文藝春秋(新版合本)
- 『目黒警察署物語―佐々警部補パトロール日記』 文藝春秋、1989、のち文庫。挿絵は自らの手による。
- 『目黒署10人の刑事 佐々警部補シリーズ』 文藝春秋 1990.4、改題「美人女優と前科七犯」文庫
- 『目黒署アベック殺人事件 佐々警部補シリーズ完結篇』 文藝春秋 1990.11
- 『新・危機管理のノウハウ 平和ボケに挑むリーダーの条件』 文藝春秋 1991.8
- 『金日成閣下の無線機』 読売新聞社 1992.4。改題「謎の独裁者・金正日」文春文庫
- 『危機の政治学 ハンガリー事件から、湾岸戦争、ソ連邦崩壊まで』 新潮社 1992.9、のち文春文庫
- 『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』 文藝春秋 1993、のち文庫
- 『新・新・危機管理のノウハウ 世紀末の指導原理』 文藝春秋 1994.4
- 『ポリティコ・ミリタリーのすすめ 日本の安全保障行政の現場から 慶應義塾大学講義録』 都市出版 1994.11
- 『平時の指揮官 有事の指揮官 人を動かすには、何が必要か』 クレスト社 1995.4、のち文春文庫
- 『危機管理宰相論』 文藝春秋 1995.12
- 『六男二組の約束 戦争と先生と59人の子供たち』 TBSブリタニカ 1995.12
- 改題「「六男二組」の太平洋戦争」小学館文庫/「戦時少年佐々淳行―父と母と伊藤先生」 文春文庫
- 『連合赤軍「あさま山荘」事件』 文藝春秋、1996、のち文庫、※映画『突入せよ! あさま山荘事件』原作
- 『香港領事動乱日誌 危機管理の原点』 文藝春秋 1997.6。改題「香港領事佐々淳行 香港マカオ暴動、サイゴン・テト攻勢」文庫
- 『危機管理』 ぎょうせい 1997.9
- 『さらば臆病国家ニッポン 指導者よライオンになれ』 文藝春秋 1998.8
- 『日本の警察―「安全神話」は終わったか』 PHP新書 1999
- 『わが上司後藤田正晴 決断するペシミスト』 文藝春秋 2000、のち文庫
- 『仕事の<実例>「危機管理」術』 三笠書房 2001.8。改題「重大事件に学ぶ「危機管理」」文春文庫
- 『焼け跡の青春・佐々淳行 ぼくの昭和20年代史』 文藝春秋 2003、のち文庫
- 『インテリジェンス・アイ 危機管理最前線』 文藝春秋 2005。改題「危機管理最前線」文庫
- 『後藤田正晴と12人の総理たち もう鳴らない“ゴット・フォン”』 文藝春秋 2006、のち文庫
- 『軍師・佐々淳行 反省しろよ慎太郎 だけどやっぱり慎太郎 危機管理最前線 2』 文藝春秋 2007。改題「わが「軍師」論」文庫
- 『一隅を照らす行灯たちの物語 実践的青少年教育のノウハウ』 冨山房インターナショナル 2009
- 『菊の御紋章と火炎ビン―「ひめゆりの塔」と「伊勢神宮」が燃えた「昭和50年」』 文藝春秋 2009、のち文庫-激動の1975年を回想記
- 『わが記者会見のノウハウ-スキャンダル克服の秘訣』(文藝春秋、2010.2)。改題「「危機管理・記者会見」のノウハウ」文庫
- 『ザ・ハイジャック-日本赤軍とのわが「七年戦争」』(文藝春秋、2010.11)、のち文庫-「よど号事件」ほか
- 『彼らが日本を滅ぼす』(幻冬舎、2011.2)
- 『ほんとに彼らが日本を滅ぼす』(幻冬舎、2011.7)
- 『救国の八策』(幻冬舎、2012.7)
- 『佐々淳行の危機の心得 名もなき英雄たちの実話物語』(青萠堂、2012.9)
- 『「国土」喪失。なぜ日本は領土を守れないのか』(PHP研究所、2012.12)
- 『インテリジェンスのない国家は亡びる 内閣中央情報局を設置せよ!』(海竜社、2013.8)
- 『私を通りすぎた政治家たち』(文藝春秋、2014.9)、のち文庫
- 『定本 危機管理 我が経験とノウハウ』(ぎょうせい、2014.9)
- 『私を通りすぎたマドンナたち』(文藝春秋、2015.7)、のち文庫
- 『重要事件で振り返る戦後日本史』(SBクリエイティブ、SB新書、2016.1。同・大活字版、2016.12[27](Amazon.co.jp専売のオンデマンド書籍[28]))
- 『私を通りすぎたスパイたち』(文藝春秋、2016.3)、改題「亡国スパイ秘録」文庫。「佐々メモ」による最終作
編著・共著
- 『グローバル経営時代の企業の危機管理』(日本経済新聞社 1994.6)、ブライアン・M.ジェンキンズ共著
- 『日本の危機管理はこれでいいのか 阪神大震災、地下鉄サリン事件の教訓をどう生かすか』(致知出版社 1995.6)、竹村健一と共著
- 『自然災害の危機管理―明日の危機を減災(ミティゲート)せよ!』 編著(ぎょうせい、2001)
- 『国家の実力 危機管理能力のない国は滅びる』(致知出版社、2011.6)、渡部昇一との共著
翻訳
- 『読後焼却 続智慧の戦い』 L.ファラゴー 日刊労働通信社 1963
- 「読後焼却」 朝日ソノラマ文庫 1985。文庫版スパイ戦史シリーズ
- 『脅かされる大統領』 U.E.ボウマン 有紀書房 1964
- 「シークレット・サービス」 朝日ソノラマ文庫 1985。同上
佐々淳行を演じた俳優
- 役所広司 (突入せよ! あさま山荘事件)
- 陣内孝則 (日本史サスペンス劇場)
- 椎名桔平 (スーパーテレビ特別版"佐々淳行極秘メモ")
脚注
注釈
- ^ 警察三級試験に次席で合格。
- ^ 外勤第三班主任、捜査主任など歴任。この頃の勤務における体験は、小説『佐々警部補パトロール日記』シリーズにまとめられている。
- ^ 風紀係長として風俗事件の捜査指揮をとる。
- ^ 課長代理としてソ連など欧米スパイ事件の捜査指揮をとる。その間、第一次安保闘争末期の警備実施、アナスタス・ミコヤンソ連第一副首相来日の警護なども経験する。
- ^ ケネディ大統領暗殺事件調査のため渡米。帰国後は東京オリンピックの際の警備や亡命者の処遇を担当した。
- ^ 1967年(昭和42年)5月、香港暴動の発生に際して、領事として在留邦人保護を担当。1968年(昭和43年)1月、ベトナム出張でサイゴン滞在中、テト攻勢に遭遇し、青木大使のもとで在留邦人保護にあたる。
- ^ 1968年(昭和43年)6月29日に帰国。
- ^ 当時、全学共闘会議などによる騒乱が続く中、第二次反安保闘争の吹き荒れる「警察戦国時代」であった。これに対処するため、佐々の実質仲人である秦野章警視総監が中心となって、警備実施の指揮ができる警察官僚を集め組織強化を行っていたことから、半ば強引な人事となったと、佐々は著作で述べている。警備第1課長としては、戦術的後退や挟撃作戦などの発案、隊員の受傷防止のための個人防御装備の開発、警備車両の充実化など、後の機動隊の基礎を固め、また、連合赤軍あさま山荘事件で有名になった特型警備車「防弾装甲放水車」の配備を断行したと著書に記している。
- ^ 在任中、金大中事件、シンガポール事件、文世光事件に対応した。
- ^ 在任中、三菱重工爆破事件、ジェラルド・フォードアメリカ大統領来日警備、エリザベス女王来日警備、ひめゆりの塔事件、クアラルンプール事件など日本赤軍によって起こされた一連の日本航空ハイジャック事件などに対応した。
- ^ 防衛白書担当。
- ^ 後の人事教育局長に相当。以後、政府委員として、退官時まで国会の各委員会で答弁。
- ^ 在任中、ブルーインパルス機墜落事件、大韓航空機撃墜事件などに対応。
- ^ 在任中、厚木基地NLP問題、池子住宅地区への住宅建設問題、三宅島新空港建設問題などに対応。
- ^ 在任中、警察時代の上司でもある後藤田正晴内閣官房長官の下で、三原山噴火やなだしお事件、東芝機械ココム違反事件、昭和天皇大喪の礼、防衛費1%枠撤廃閣議決定などに対応した。
- ^ 日本国際救援行動委員会(JIRAC)の理事長として、クルド難民救援活動、カンボジア帰還民救援活動、カンボジア地雷撤去活動、カンボジアにおける学校建設などの救援活動、ロシア極東地区における福祉施設などに対する救援活動、阪神・淡路大震災での救援活動などに従事した。
出典
- ^ “成蹊高等学校(旧制)同窓会委員会開催ご案内”. 一般社団法人 成蹊会 (2004年). 2017年11月11日閲覧。
- ^ 佐々 1994, pp. 49–53, 第二話 大巡行 目黒銀座のトリス・バー
- ^ 森田吉彦『評伝 若泉敬』(文春新書)
- ^ a b “後藤田五訓”. コラム「水や空」. 長崎新聞 (2011年1月15日). 2017年11月11日閲覧。
- ^ 佐々淳行「そのとき、私は……」(諸君! 1999年12月号)
- ^ a b 佐々淳行 『連合赤軍「あさま山荘」事件』 文藝春秋、1996年
- ^ 佐々淳行 『菊のご紋章と火炎ビン』 文藝春秋、60頁
- ^ “第101回国会 内閣委員会 第1号”. -衆議院議事録. 衆議院. 2017年11月11日閲覧。
- ^ “防衛施設庁歴代幹部職員一覧” (PDF). -防衛施設庁史. 防衛省. 2017年11月11日閲覧。p.407(ファイル内p.25)
- ^ “第107回国会 内閣委員会 第3号”. -参議院議事録. 参議院. 2017年11月11日閲覧。
- ^ a b c 佐々 2002, pp. 360–402, 第六章 ポスト後藤田の「危機管理」
- ^ “名誉総裁 佐々淳行ごあいさつ”. 一般社団法人災害支援機構. 2019年1月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月27日閲覧。
- ^ 2008年(平成20年)5月8日付『朝日新聞』、「(掘る)「石原銀行」の危機:7 論点かすみ、都民蚊帳の外」。
- ^ 佐々淳行氏死去 初代内閣安全保障室長 - 産経ニュース 2020年10月10日 15:50
- ^ 佐々淳行『重大事件に学ぶ「危機管理」』、文春文庫、2004年、267頁
- ^ “紀平悌子さんの形見”. 円より子公式サイト. 2017年11月11日閲覧。
- ^ “別章【概論戦後学生運動史”. れんだいこ (2008年9月11日). 2017年6月1日閲覧。
- ^ 佐藤文生 (1974). ハイジャック. 講談社. pp. 101-102
- ^ a b c d 佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち』、文春文庫、423頁
- ^ 佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち』、文春文庫、19頁
- ^ a b c 佐々 2008, pp. 34–46, 第一章 台湾騒擾と天安門事件 - 「汝殺ス勿レ」の警察哲学、海を渡る
- ^ “『安田講堂攻防七十二時間 東大落城』佐々淳行 電子書籍”. 文藝春秋. 2019年5月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月4日閲覧。
- ^ “菊池寛賞受賞者一覧”. 公益財団法人 日本文学振興会. 2017年11月11日閲覧。
- ^ “重要事件で振り返る戦後日本史”. SBクリエイティブ. 2019年5月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月4日閲覧。
- ^ “正論大賞の歴史”. 産経新聞社. 2017年11月11日閲覧。
- ^ 官報第7390号、平成30年11月15日
- ^ “重要事件で振り返る戦後日本史 日本を揺るがしたあの事件の真相 (SB新書) オンデマンド (ペーパーバック) – 大判プリント, 2016/12/5”. Amazon.co.jp. 2019年4月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月20日閲覧。
- ^ “人気の新書を大判サイズで読みやすく!「SB新書 大活字版」をAmazonのプリント・オン・デマンド(POD)で12月16日(金)より取り扱い開始”. SBクリエイティブ. 2019年4月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月20日閲覧。
参考文献
- 佐々淳行『目黒警察署物語 - 佐々警部補パトロール日記』文藝春秋〈文春文庫〉、1994年。
- 佐々淳行『わが上司後藤田正晴 - 決断するペシミスト』文藝春秋〈文春文庫〉、2002年。
- 佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち - もう鳴らない”ゴッド・フォン"』文藝春秋〈文春文庫〉、2008年。
- 秦郁彦 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会 2002年。245-246頁
関連項目
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