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==来歴・人物==
==来歴・人物==
[[東京都]]出身。[[東京都立一橋高等学校]]から[[リクルートホールディングス]]入社。
[[東京都]]出身。[[東京都立一橋高等学校]]から[[リクルートホールディングス|リクルート]]入社。


リクルート時代は、22歳で福岡営業所(現・九州支社)の所長に抜擢後頭角を現し、大阪支社営業[[課長]]、関連事業準備室課長等を経て、就職情報事業部[[次長]]や住宅情報事業部次長を歴任し、29歳でリクルートが経営再建を引き受けた岩手観光ホテル(現・岩手ホテル&リゾート)の[[取締役]][[支配人|総支配人]]に就任している。
リクルート時代は、22歳で福岡営業所(現・九州支社)の所長に抜擢後頭角を現し、大阪支社営業[[課長]]、関連事業準備室課長等を経て、就職情報事業部[[次長]]や住宅情報事業部次長を歴任し、29歳でリクルートが経営再建を引き受けた岩手観光ホテル(現・岩手ホテル&リゾート)の[[取締役]][[支配人|総支配人]]に就任している。

2019年9月13日 (金) 16:09時点における版

高塚 猛(こうつか たけし、1947年[1] - 2017年8月27日[2][3])は、日本実業家ソフトバンクに買収される前のダイエーによるいわゆる「福岡3点事業」(福岡ダイエーホークス福岡ドームホークスタウン)の経営責任者であった。福岡ダイエーホークス元代表取締役社長・元オーナー代行。

来歴・人物

東京都出身。東京都立一橋高等学校からリクルート入社。

リクルート時代は、22歳で福岡営業所(現・九州支社)の所長に抜擢後頭角を現し、大阪支社営業課長、関連事業準備室課長等を経て、就職情報事業部次長や住宅情報事業部次長を歴任し、29歳でリクルートが経営再建を引き受けた岩手観光ホテル(現・岩手ホテル&リゾート)の取締役総支配人に就任している。

岩手県内にあるダイエー関連ホテルの経営再建に成功した手腕を買われ、1999年よりホークス球団福岡ドームホークスタウンシーホークホテル&リゾート、ホークスタウンモールなど)の再建に乗り出した。またダイエーグループ外でも、岩手県の株式会社真珠苑の取締役会長[1]、同じく岩手県の株式会社STモータースクールの代表取締役会長[1][4]、東京都の株式会社ダイヤモンド社の代表取締役社長[5]などを務めた。2004年5月19日には、国土交通省によって「観光カリスマ」の一人に選ばれた[6](その後辞退)。

2004年10月、強制わいせつ事件で刑事訴追され、ホークス関連事業の経営から退いた。その後、「社会の秩序を乱した最も許しがたい犯罪」として懲役3年、執行猶予5年の判決を受けた。

以後は盛岡市に戻り、終生過ごす。晩年は体調を崩し[7]、2017年8月27日、慢性腎不全のため、死去。70歳没[2]

ホークス球団における業績

前期(福岡3点事業再建など)

1989年の福岡移転以来、パ・リーグでは上位の観客動員数を誇っていたホークスだったが、福岡ドーム移転以後は平日などは空席が目立つ状態であった。

多額の有利子負債を抱える3点事業の再建を託された高塚は、これまでの経営方針を一新し、全国区の企業展開という観点からこれまで消極的であった福岡に密着した経営戦略に転換。ホークスの名前を広めることがより得策であるという視点から、ロゴマーク著作権フリーという手法に取組んだ。さらに、松中信彦城島健司といった地元・九州出身のスター選手が育ち、チームの成績が上昇してきたこともあって、彼ら九州出身選手が中心となったチームを前面に打ち出したPRを展開、福岡ドームに多くの観客を呼ぶことに成功した。福岡ドームや隣接施設建築により生じた44億円の赤字を抱えていた3点事業を15億円の黒字に転換することに成功したことにより、高塚の名は「平成の再建請負人」として知れ渡るようになった。

その他、二軍戦もビジネスになると考えた高塚は、2002年に「二軍戦を福岡ドームで行う」と宣言。大々的に宣伝し、「二軍選手を超満員の観客の中でプレーさせてあげて、皆さんの力で彼らを伸ばしてあげてください」とファンにアピールし、当時の公式発表で30000人を超える観客を動員するなど一定の成果をおさめた。

また、バラエティから経済トーク番組まで至るまで、地元メディアに積極的に姿を見せ、限られた予算の中でも多くのファンを獲得するため営業面では陣頭指揮をとった。地元福岡県の飲食店などに無料でステッカーを配って、それぞれの店舗で「ホークスが勝ったらキャンペーンを行って欲しい」と懇願するなど、球団人気の向上に尽力した。

しかしその一方で、ホークス選手に対する冷遇が問題となる。1999年に日本シリーズMVPを獲得するなどキャプテンとして日本一に貢献した人気選手の秋山幸二を減俸。さらに、同年には工藤公康との年俸交渉の際に「家族サービスも考慮に入れた、君の登板である火曜日には観客の入りが悪い」と言い放ち、巨人へのFA移籍を決定的なものにしたと報じられた。また、2002年オフには、FA権を取得した若田部健一も権利を行使した上での残留を拒否した。

後期(小久保事件など)

このようにメディアを通じて経営者として自らをアピールしてきたが、意見の合わなくなった瀬戸山隆三球団代表がロッテへ去ったのをはじめ、コーチスカウトとして長年貢献してきた大田卓司古賀英彦など、高塚に反感を持った有能な人材はやがて相次いで球団を離れていった。その頂点となる事例として、2003年にはチームの顔である小久保裕紀巨人無償トレードした(いわゆる「小久保事件」)。右ひざの大怪我で2003年を棒に振ってしまったとはいえ、生え抜きのチームの顔で、さらに多くの選手からも慕われていた小久保の突然のトレードが優勝パレード翌日に発表されたことは、歓喜に沸くファン・選手にまさに冷や水を浴びせる恰好となり、選手達は予定されていた優勝旅行をボイコットした。

これは高塚がプレー中の選手にサインボールを強要したり、部外者である一般の女性をベンチに入れて選手とハイタッチしていたことなどについて、小久保に苦言を呈された事による報復とされている。また、小久保は件の怪我を公傷扱いとして認めてもらおうとしていたが、高塚は球団指定の病院でないことを理由に拒絶。アメリカでの莫大な治療費を自費で払っている。このエピソード等についてはスポーツニッポンの連載企画「激震ダイエー」で記事になったが、この報復として結果的にホークスタウンの売店からスポニチが撤去されることとなった。なお、高塚は小久保に対し「2億円の不良債権」とまで言い放ち、自由契約(=解雇)しようと考えていたとされる。

また、同年FA宣言してオリックス・ブルーウェーブに移籍した村松有人は、足への負担が少ない天然芝のスタジアムでプレーしたいことを移籍理由としていたが、実際にはそれ以外にも高塚の独善的な行動もFAの理由だったと言われている。

2004年9月に、ホークス球団を除く福岡3点事業はコロニー・キャピタル傘下となった。高塚は当初、役職に留まることになっていたが、親会社のダイエーに内緒で出版社ダイヤモンド社」の社長に就任していたこと、ホークスタウンで高塚の書籍1万冊を「営業用消耗品」として購入させていたことなど、さまざま不祥事が発覚したためその約束は履行されず、本社の高木邦夫社長からも遺憾の意を示された。これに対決姿勢を示そうとした矢先の10月に、女性社員への強制わいせつが発覚し同容疑で逮捕され、ホークス球団経営を含む3点事業の経営から完全に退くことになった。

著書

脚注

  1. ^ a b c 著者紹介 経営のプロが教える「伸びる人」の法則 / 高塚 猛【著】”. 紀伊國屋書店ウェブストア. 2017年5月29日閲覧。
  2. ^ a b 高塚猛・福岡ダイエーホークス元球団社長が死去 - 朝日新聞デジタル 2017年8月29日
  3. ^ 【追悼】福岡ドーム事業再生人・高塚猛氏逝去”. NETIB-NEWS. データ・マックス (2017年8月28日). 2017年8月28日閲覧。
  4. ^ 会社概要”. STモータースクール. 2002年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月29日閲覧。
  5. ^ ダイヤモンド社/会社概要”. ダイヤモンド社. 2004年7月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月29日閲覧。
  6. ^ 『観光カリスマ百選』 選定結果について(第6回委員会の結果)”. 国土交通省 (2004年6月25日). 2004年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  7. ^ 故高塚猛氏の葬儀、しめやかに”. データ・マックス. 2017年9月17日閲覧。