コンテンツにスキップ

「佐々木広人」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: リクルートをパイプリンクにする - log
1行目: 1行目:
'''佐々木 広人'''(ささき ひろと、[[1971年]] - )は、[[日本]]の[[ジャーナリスト]]、[[編集者]]。[[アサヒカメラ]][[編集長]]。「[[終活]]」の生みの親としても知られる。
'''佐々木 広人'''(ささき ひろと、[[1971年]] - )は、[[日本]]の[[ジャーナリスト]]、[[編集者]]。[[アサヒカメラ]][[編集長]]。「[[終活]]」の生みの親としても知られる。
== 人物・経歴 ==
== 人物・経歴 ==
[[秋田県]][[秋田市]]出身<ref>[http://www.bs4.jp/kumebook_midnight/onair/01.html 「 第1回アサヒカメラ/朝日新聞出版」][[BS日テレ]][[久米書店]]</ref>。[[秋田市立外旭川中学校]]を経て、1990年[[秋田県立秋田高等学校]]卒業。2年間の浪人生活を経て、1996年に[[一橋大学社会学部]]を卒業し[[リクルートホールディングス]]入社。大学では[[バンド]]サークルに所属。[[メディア論]]専攻<ref name="kao">[http://www.akita-kao.com/?p=11539 「【インタビュー】アサヒカメラ副編集長・佐々木広人さん」]あきたのかお</ref><ref>[http://www.shuko-ob.net/kaiho/201411.pdf]秋田高校東京同窓会会報2014年11月号</ref>。
[[秋田県]][[秋田市]]出身<ref>[http://www.bs4.jp/kumebook_midnight/onair/01.html 「 第1回アサヒカメラ/朝日新聞出版」][[BS日テレ]][[久米書店]]</ref>。[[秋田市立外旭川中学校]]を経て、1990年[[秋田県立秋田高等学校]]卒業。2年間の浪人生活を経て、1996年に[[一橋大学社会学部]]を卒業し[[リクルートホールディングス|リクルート]]入社。大学では[[バンド]]サークルに所属。[[メディア論]]専攻<ref name="kao">[http://www.akita-kao.com/?p=11539 「【インタビュー】アサヒカメラ副編集長・佐々木広人さん」]あきたのかお</ref><ref>[http://www.shuko-ob.net/kaiho/201411.pdf]秋田高校東京同窓会会報2014年11月号</ref>。


リクルートでは[[エイビーロード]]編集部で[[海外]]の[[ホテル]]、[[グルメ]]などの取材に従事。1997年に[[香港]]取材時に[[鳥インフルエンザ]]が流行し社会問題に関心を持つようになり、1999年[[朝日新聞社]]に入社。2012年まで[[週刊朝日]]編集部に[[記者]]や[[編集者]]として勤務し、2007年から3年間は副編集長を務めたが、短い睡眠時間が続き2009年に体調不良により自宅療養となる<ref name="kao"/>。
リクルートでは[[エイビーロード]]編集部で[[海外]]の[[ホテル]]、[[グルメ]]などの取材に従事。1997年に[[香港]]取材時に[[鳥インフルエンザ]]が流行し社会問題に関心を持つようになり、1999年[[朝日新聞社]]に入社。2012年まで[[週刊朝日]]編集部に[[記者]]や[[編集者]]として勤務し、2007年から3年間は副編集長を務めたが、短い睡眠時間が続き2009年に体調不良により自宅療養となる<ref name="kao"/>。

2019年9月13日 (金) 18:37時点における版

佐々木 広人(ささき ひろと、1971年 - )は、日本ジャーナリスト編集者アサヒカメラ編集長。「終活」の生みの親としても知られる。

人物・経歴

秋田県秋田市出身[1]秋田市立外旭川中学校を経て、1990年秋田県立秋田高等学校卒業。2年間の浪人生活を経て、1996年に一橋大学社会学部を卒業しリクルート入社。大学ではバンドサークルに所属。メディア論専攻[2][3]

リクルートではエイビーロード編集部で海外ホテルグルメなどの取材に従事。1997年に香港取材時に鳥インフルエンザが流行し社会問題に関心を持つようになり、1999年朝日新聞社に入社。2012年まで週刊朝日編集部に記者編集者として勤務し、2007年から3年間は副編集長を務めたが、短い睡眠時間が続き2009年に体調不良により自宅療養となる[2]

復帰後、週刊朝日公式サイト(現AERA dot.)の立ち上げや、公式twitter開設、Ustreamでの週刊朝日UST劇場放送などにあたった。朝日新聞出版販売部宣伝課を経て、2013年からアサヒカメラ副編集長。2014年から同誌編集長[4][2][5]日本広告写真家協会APAアワード審査委員[5]住友不動産販売フォトコンテスト審査員[6]田淵行男賞選考委員[7]ニッコールフォトコンテスト審査員[8]等を歴任。写真著作権啓蒙活動も行う[9][10]

終活生みの親としても知られ[11][12]、週刊朝日編集部時代に特集で終活という言葉を提案。その後紙面や黒柳徹子金子哲雄などが同語を使用して徐々に広まり、2012年にはユーキャン新語・流行語大賞ベスト10となった[2]

脚注