「ウサーマ・ビン・ラーディン」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2010年12月}} |
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| height = 1.93–1.98 m<ref>{{cite web |url=https://www.fbi.gov/wanted/wanted_terrorists/usama-bin-laden |title=Usama BIN LADEN |publisher=FBI.gov |accessdate=October 5, 2015 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160526174037/https://www.fbi.gov/wanted/wanted_terrorists/usama-bin-laden |archivedate=May 26, 2016 }}</ref> |
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| nationality = {{KSA}}<small>([[1957年]] - [[1994年]])</small><br>[[無国籍]]<small>([[1994年]] - [[2011年]])</small><ref name="Forbes">Dan Ackman. [https://www.forbes.com/2001/09/14/0914ladenmoney.html "The Cost Of Being Osama Bin Laden"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170729115849/https://www.forbes.com/2001/09/14/0914ladenmoney.html |date=July 29, 2017 }}. September 14, 2001. Retrieved March 15, 2011.</ref> |
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| religion = [[イスラム教]]([[ワッハーブ派]] / [[サラフィー主義]])<ref>{{Cite book |title=Pakistan's Enduring Challenges |url=https://books.google.com/books?id=XxtrBgAAQBAJ |publisher=University of Pennsylvania Press |date=February 18, 2015 |isbn=9780812246902 |first=C. Christine |last=Fair |first2=Sarah J. |last2=Watson |page=246 |quote=Osama bin Laden was a hard-core Salafi who openly espoused violence against the United States in order to achieve Salafi goals. |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160131203102/https://books.google.com/books?id=XxtrBgAAQBAJ |archivedate=January 31, 2016}}</ref><ref>{{Cite book |title=Roads to Reconciliation: Conflict and Dialogue in the Twenty-first Century |url=https://books.google.com/books?id=MDzfBQAAQBAJ |publisher=Routledge |date=December 18, 2014 |isbn=9781317460763 |first=Amy Benson |last=Brown |first2=Karen M. |last2=Poremski |page=81 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160131203102/https://books.google.com/books?id=MDzfBQAAQBAJ |archivedate=January 31, 2016}}</ref><ref>Osama Bin Laden (2007) Suzanne J. Murdico</ref><ref name=Karen>{{cite news |last=Armstrong |first=Karen |url=https://www.theguardian.com/politics/2005/jul/11/northernireland.july7 |title=The label of Catholic terror was never used about the IRA |work=The Guardian |date=July 11, 2005 |location=London |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161226235515/https://www.theguardian.com/politics/2005/jul/11/northernireland.july7 |archivedate=December 26, 2016 }}</ref> |
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* {{仮リンク|ジャジの戦い|en|Battle of Jaji}} |
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[[対テロ戦争]] |
[[対テロ戦争]] |
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* [[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン紛争]] |
* [[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン紛争]] |
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* [[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害|海神の槍作戦]]{{KIA}} |
* [[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害|海神の槍作戦]]{{KIA}} |
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'''ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディン'''({{lang|ar|أسامة بن محمد بن عوض بن لادن}}、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin, [[1957年]][[3月10日]] - [[2011年]][[5月2日]])は、[[サウジアラビア]]出身の[[イスラーム過激派|イスラム過激派]][[テロリズム|テロリスト]]。[[1988年]]に国際テロ組織「[[アルカーイダ]]」を設立してその初代[[アミール]](司令官)となり、以降[[アメリカ同時多発テロ事件]]をはじめとする数々の[[テロリズム|テロ]]事件を首謀したことで知られる。[[連邦捜査局]](FBI)における[[FBI10大最重要指名手配|最重要指名手配]]者の1人であった。サウジアラビア有数の富豪の一族に生まれたが、1994年にサウジアラビア国籍を剥奪され、以降は[[無国籍]]であった。2011年5月、[[パキスタン]]において[[DEVGRU|アメリカ海軍対テロ特殊部隊]]が行った軍事作戦によって殺害された。 |
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{{イスラム主義のサイドバー}} |
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'''ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディン'''({{lang|ar|أسامة بن محمد بن عوض بن لادن}}、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin, [[1957年]][[3月10日]] - [[2011年]][[5月2日]])は、[[サウジアラビア]]出身の[[イスラーム過激派|イスラム過激派]][[テロリズム|テロリスト]]。[[アルカーイダ]]の司令官([[アミール]])であり、[[アメリカ同時多発テロ事件]]をはじめとする数々の[[テロリズム|テロ]]事件の[[正犯|首謀者]]とされる。[[連邦捜査局]](FBI)における[[FBI10大最重要指名手配|最重要指名手配]]者の1人であった。身長195cm。体重約73kg。FBIの指名手配書によると肌はオリーブ色、髪と瞳はブラウンと表記されている。 |
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==名前と表記== |
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2011年5月2日(米国現地時間[[5月1日]])、[[パキスタン]]において[[アメリカ海軍|米国海軍]][[特殊部隊]]・[[DEVGRU]]が行った軍事作戦によって銃撃戦になり、殺害されたと[[報道]]された。 |
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{{See|ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害}} |
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== 表記 == |
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[[日本語]]では、'''ウサマ・ビン・ラーデン'''([[外務省]])<ref name="kokuji">2011年(平成23年)2月18日、[[外務省]][[告示]]第56号「国際連合安全保障理事会決議に基づく資産凍結等の措置の対象を改正する件」</ref>、'''オサマ・ビンラディン''' ([[日本放送協会|NHK]]、[[テレビ朝日]]など)、'''ウサマ・ビンラディン''' ([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[TBSテレビ|TBS]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[テレビ東京]]など)、'''ウサマ・ビンラーディン'''([[読売新聞]]など)などとも表記される<ref>{{Cite web |url=http://ja.forvo.com/word/osama_bin_laden/#ar|title=ネイティヴによる「Osama bin Laden」の発音|publisher=[[Forvo]]|accessdate=2014-05-31}}</ref>。 |
[[日本語]]では、'''ウサマ・ビン・ラーデン'''([[外務省]])<ref name="kokuji">2011年(平成23年)2月18日、[[外務省]][[告示]]第56号「国際連合安全保障理事会決議に基づく資産凍結等の措置の対象を改正する件」</ref>、'''オサマ・ビンラディン''' ([[日本放送協会|NHK]]、[[テレビ朝日]]など)、'''ウサマ・ビンラディン''' ([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[TBSテレビ|TBS]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[テレビ東京]]など)、'''ウサマ・ビンラーディン'''([[読売新聞]]など)などとも表記される<ref>{{Cite web |url=http://ja.forvo.com/word/osama_bin_laden/#ar|title=ネイティヴによる「Osama bin Laden」の発音|publisher=[[Forvo]]|accessdate=2014-05-31}}</ref>。 |
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フルネームは「'''ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディン'''」であり、「ラーディンの息子アワドの息子ムハンマドの息子ウサーマ」を意味する。「ムハンマド」は父であるムハンマド・ビン・ラーディンを、「アワド」は祖父であるアワド・ビン・アブード・ビン・ラーディンを示しているが、「ラーディン」は曽祖父の名ではなく、曽祖父アブードの父であるラーディン・アリー・アル=カフタニ (Laden Ali al-Qahtani)を示すものである<ref>{{cite web |url=https://www.geni.com/people/L%C4%81din-al-Qatani/6000000012479136624 |title=Lādin Ali al-Qatani |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161116225543/https://www.geni.com/people/L%C4%81din-al-Qatani/6000000012479136624 |archivedate=November 16, 2016 |accessdate=October 20, 2019}}</ref>。 |
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「ビン・ラーディン」は[[日本]]の姓に相当するものではなく、「ラーディンの子孫」という意味の添え名であるが、ウサーマの出自であるラーディンを祖とする一族の男子は共通してビン・ラーディンを添え名として名乗っており、また本人も「ビン・ラーディン」の名を用いているため、姓のある文化圏に留まらず、[[アラビア語]]圏も含め、便宜的に「家名」や彼を指し示す名前として扱われている。 |
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{{See|人名#イスラム教圏の名前}} |
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「ビン・ラーディン」は[[姓]]に相当するものではなく、一種の[[父称]]であることから、アラビア語圏の慣習では単に「ビン・ラーディン」と呼ぶことはなく、「ウサーマ」または「ウサーマ・ビン・ラーディン」と呼称される。ウサーマの息子{{仮リンク|ウマル・ビン・ラーディン|en|Omar bin Laden}}によれば、一族に受け継がれる姓は「'''アル=カフタニ''' ({{lang-ar|القحطاني}}, ''āl-Qaḥṭānī'')」であるが、ウサーマの父ムハンマドが正式にこの姓を使用することはなかった<ref>{{cite book |title=Growing up Bin Laden: Osama's Wife and Son Take Us Inside Their Secret World |last=bin Laden |first=Najwa |authorlink2=Omar bin Laden |last2=bin Laden |first2=Omar |last3=Sasson |first3=Jean |authorlink=Najwa Ghanem |authorlink3=Jean Sasson |year=2009 |publisher=St. Martin's Press |location=New York |isbn=978-0-312-56016-4 |page=301 |url=https://books.google.com/books?id=RcBwm5b8VbAC |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150407011237/http://books.google.com/books?id=RcBwm5b8VbAC |archivedate=April 7, 2015 }}</ref>。 |
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[[中東]]ではウサーマがテロリストとして有名になる以前からサウジアラビアの[[財閥]]であるビン・ラーディン・グループとその創業者一族の名前として有名であった。現在でも「BIN LADIN」という看板がビン・ラーディン・グループの系列企業で掲げられている。 |
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==経歴== |
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===出自=== |
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[[File:Bin Ladin.jpg|thumb|left|[[ドバイ]]にある[[サウディ・ビンラディン・グループ]]のオフィス]] |
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ウサーマ・ビン・ラーディンの父の[[ムハンマド・ビン・ラーディン]]は、[[イエメン]]の[[ハドラマウト]]地方の貧困家庭の出身で、[[第一次世界大戦]]前に家族と共に、[[イエメン]]から[[サウジアラビア]]の[[ジッダ]]に移住し、[[1930年]]に荷夫から身を興し、ジッダで建設業を起業した。[[ファイサル_(サウジアラビア王)|ファイサル]][[サウジアラビアの国王一覧|国王]]の目にとまり王室御用達の建設業者となり事業は急成長を遂げ財閥「[[サウディ・ビンラディン・グループ]]」を柱とするビン・ラーディン一族を形成した{{#tag:ref|グループは[[石油]]ブーム時代に建築業で財を成し、[[メッカ]]および[[マディーナ]](メディナ)の[[モスク]]の修理を任されるほど、[[サウード家]]と深く結びついている。グループの特徴としては、創業者自身が[[外国人労働者]]であったこともあり積極的に[[外国人]]を[[雇用]]していることがあげられ、多数の[[アメリカ人]]ビジネスマンが参加している|group="注"}}。一族の巨額な[[財産]]分与が様々な方面に流出した結果、そのいくつかが[[イスラム教原理主義]][[テロリズム|テロ]]組織の資金源になっているとされる。 |
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ムハンマド・ビン・ラーディンは22回の結婚をし54人の子供を儲けることになったが、妻子の大半は40代を過ぎて事業が拡大してからの子供たちである。また、最初の妻以外は短期間で離婚している。ウサーマ・ビン・ラーディンはムハンマドの17番目の子であった。ビン・ラーディン一族は50億ドル以上の[[資本]]を所有しており、その内、2億5000万ドル以上がウサーマに分配されていた<ref name=theeconomist>"[http://www.economist.com/node/18648254 Osama bin Laden] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110520023316/http://www.economist.com/node/18648254 |date=May 20, 2011 }}", ''[[The Economist]]'', May 5, 2011, p. 93.</ref>{{#tag:ref|1991年の国外追放と資産凍結でその財産の多くが失われ、残された資産は2500万–3000万ドルであったとされている<ref name=theeconomist/>。|group="注"}}。 |
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== 出自と経歴 == |
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=== ラーディン一族 === |
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[[File:Bin Ladin.jpg|thumb|left|[[ドバイ]]にあるビン・ラーディン・グループのオフィス]] |
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ウサーマ・ビン・ラーディンの父の[[ムハンマド・ビン・ラーディン]]は、[[イエメン]]の[[ハドラマウト]]地方の貧困家庭の出身で、[[第一次世界大戦]]前に家族と共に、[[イエメン]]から[[サウジアラビア]]の[[ジッダ]]に移住し、[[1930年]]に荷夫から身を興し、ジッダで建設業を起業した。[[ファイサル_(サウジアラビア王)|ファイサル]][[サウジアラビアの国王一覧|国王]]の目にとまり王室御用達の建設業者となり事業は急成長を遂げ財閥「[[サウディ・ビンラディン・グループ]]」を柱とするラーディン一族を形成した。一族の巨額な[[財産]]分与が様々な方面に流出した結果、そのいくつかが[[イスラム教原理主義]][[テロリズム|テロ]]組織の資金源になっているとされる。グループは[[石油]]ブーム時代に建築業で財を成し、[[メッカ]]および[[マディーナ]](メディナ)の[[モスク]]の修理を任されるほど、[[サウード家]]と深く結びついている。 |
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===出生から青年期まで=== |
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現在、「サウジ・ビン・ラーディン・グループ」は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[アジア]]および[[ヨーロッパ|欧州]]に多数の支部と子会社(60社以上)を有し、石油および化学プロジェクト、遠距離通信および[[通信衛星|衛星通信]]に従事している。グループは、50億ドル以上の[[資本]]を所有しており、その内、約3億ドルがウサーマの取り分だった。ウサーマは、[[スーダン]]の建設会社「アル・ヒジュラ」、[[イスラム銀行]]「アシュ・シャマリ」の支配株も保有していた。これに加えて、[[投資]]財閥「タバ」を所有し、代理人を通して、[[ケニア]]で貿易会社、[[イエメン]]で器械製造会社、出版社、セラミック生産工場を監督していた。 |
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ウサーマ・ビン・ラーディンは、サウジアラビアの[[リヤド]]で、建設業で財を成したイエメン出身の父[[ムハンマド・ビン・ラーディン]]と、その10番目の妻でシリア出身の母アリア・ガーネム(後の{{仮リンク|ハミーダ・アル=アッタス|en|Hamida al-Attas}})の間に生まれた<ref>{{cite web |url=http://www.infoplease.com/spot/osamabinladen.html |title=Osama bin Laden infoplease |publisher=[[Infoplease]] |author=David Johnson |accessdate=May 26, 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080120224312/http://www.infoplease.com/spot/osamabinladen.html |archivedate=January 20, 2008 |url-status=live}}</ref><ref name="newyorker.com">{{Cite news |url=http://www.newyorker.com/archive/2005/12/12/051212fa_fact |title=Letter From Jedda: Young Osama- How he learned radicalism, and may have seen America |work=The New Yorker |author=Steve Coll |date=December 12, 2005 |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100117190909/http://www.newyorker.com/archive/2005/12/12/051212fa_fact |archivedate=January 17, 2010 }}</ref>。生年月日は、ビン・ラーディン本人が1998年のインタビューの中で1957年3月10日であると語っている<ref name="newyorker.com"/><ref name="glosec">{{cite web |title=Osama bin Laden |url=http://www.globalsecurity.org/security/profiles/osama_bin_laden.htm |publisher=GlobalSecurity.org |date=January 11, 2006 |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100329161357/http://www.globalsecurity.org/security/profiles/osama_bin_laden.htm |archivedate=March 29, 2010 }}</ref>。 |
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父ムハンマドはビン・ラーディンが生まれた直後にガーネムと離婚し、彼女はその後ムハンマド・アル=アッタスと再婚して別の4人の子を儲けたため、幼少期のビン・ラーディンは実父と離れて3人の異父弟・1人の異父妹と共に生活することになった<ref name="newyorker.com" />。ビン・ラーディンは敬虔な[[スンナ派]]ムスリムとして育てられ<ref>{{Cite news |last=Beyer |first=Lisa |url=http://www.time.com/time/covers/1101010924/wosama.html |work=Time |title=The Most Wanted Man in the World |date=September 24, 2001 |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010916125854/http://www.time.com/time/covers/1101010924/wosama.html |archivedate=September 16, 2001 }}</ref>、1968年から1976年にかけては[[ジッダ]]の世俗的なエリート校で教育を受けた<ref name="newyorker.com" /><ref>{{Harvnb|Bergen|2006|pp=52}}</ref>。その後、ジッダの[[キング・アブドゥルアズィーズ大学]]に進学して[[経済学]]と[[経営学]]を学んだ<ref>''[[Messages to the World: The Statements of Osama bin Laden]]'', Verso, 2005, p. xii.</ref>。ビン・ラーディンが1979年に土木工学の学位を取得したという報告や<ref>[http://galenet.galegroup.com/ ''Encyclopedia of World Biography Supplement''] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080518084513/http://galenet.galegroup.com/ |date=May 18, 2008 }}, Vol. 22. Gale Group, 2002. (link requires username/password)</ref>、1981年に[[行政学]]の学位を取得したという報告が存在する一方で<ref>{{cite web |url=https://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/binladen/who/bio.html |title=A Biography of Osama Bin Laden |publisher=PBS Frontline |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100329153133/http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/binladen/who/bio.html |archivedate=March 29, 2010 }}</ref>、学位を取得する前に大学をやめたとする報告も存在する<ref name="gunaratna-22">{{Cite book |title=Inside Al Qaeda |author=Gunaratna, Rohan |publisher=Berkley Books |year=2003 |edition=3rd |page=[https://archive.org/details/insidealqaedaglo00guna/page/22 22] |isbn=0-231-12692-1 |url=https://archive.org/details/insidealqaedaglo00guna/page/22 }}</ref>。 |
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グループの特徴としては、創業者自身が[[外国人労働者]]であったこともあり積極的に[[外国人]]を[[雇用]]していることがあげられ、多数の[[アメリカ人]]ビジネスマンが参加している。アメリカの[[ブッシュ家|ブッシュ一家]]とも金銭的つながりがあり、父のムハンマド・ビン・ラーディンは元[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ジョージ・H・W・ブッシュ]]とともに[[カーライル・グループ|カーライル投資グループ]]の大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの長兄のサーレムは前アメリカ大統領[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・W・ブッシュ]]がかつて経営していた石油会社の共同経営者である(サーレムは[[1988年]]に自らの飛行機の操縦ミスで[[テキサス州]][[サンアントニオ]]で死亡した)。無論、これらはウサーマが[[反米]]に立場を転じてテロリストとなる前の話であり、また、彼ら親族はウサーマのようなテロリストではなくそのような組織との直接的関係もない。ウサーマの息子は父に対しテロ行為をやめるようメッセージを発していた。しかし、それはジェスチャーに過ぎないとの説がある<ref>[[ベンジャミン・フルフォード]]『ステルス・ウォー』 [[講談社]] [[2010年]]3月 ISBN 9784062161244, Page141</ref>。 |
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大学時代、ビン・ラーディンの関心は宗教に向かい、「クルアーンおよびジハードの解釈」と[[慈善活動]]に精力的に参加したほか<ref>{{Harvnb|Wright|2006|pp=79}}</ref>、詩作にも興味を示し<ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7630934.stm |title=Analysing Osama's jihadi poetry |work=BBC News |author=Michael Hirst |date=September 24, 2008 |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090930075727/http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7630934.stm |archivedate=September 30, 2009 }}</ref>、[[バーナード・モントゴメリー]]や[[シャルル・ドゴール]]の著作を好んで読んだと言われている<ref name=mirror/>。思想の面では、[[ムスリム同胞団]]に加入し、[[サイイド・クトゥブ]]の思想に引き付けられた。さらに大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団の[[アブドゥッラー・アッザーム]]の教えを受け、師と仰ぐようになった(のちにビン・ラーディンは、自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている)。ビン・ラーディンは厳格な[[サラフィー主義]]から、[[音楽]]や[[映画]]などに対して不寛容であった。その一方で、競走馬に大きな関心を寄せていたほか、サッカーを好んでプレーし、英国のクラブである[[アーセナルFC]]のファンでもあった<ref name=mirror>{{Cite news |url=https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/osama-bin-ladens-bodyguard-i-had-orders-126430 |title=Osama bin Laden's bodyguard: I had orders to kill him if the Americans tried to take him alive |work=Daily Mirror |date=May 4, 2011 |accessdate=April 20, 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120610184157/http://www.mirror.co.uk/news/uk-news/osama-bin-ladens-bodyguard-i-had-orders-126430 |archivedate=June 10, 2012}}</ref>。 |
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=== 生い立ち === |
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ウサーマは、ムハンマド・ビン・ラーディンの10番目の妻で[[シリア]]生まれのハミド・アル=アッタスの子(最初の男児)としてサウジアラビアの[[リヤド]]で生まれ育った。生年はウサーマ自身が[[アルジャジーラ]]との[[インタビュー]]で[[1957年]][[3月10日]]である、と述べている。アラブの部族社会では事業を拡大するためには事業を行う地域を支配する部族長の娘を嫁にもらわなければならず、ムハンマド・ビン・ラーディンは22回の結婚をし55人の子供を儲けることになったが、最初の妻以外はウサーマの母のように短期間で離婚している。ウサーマを始め妻子の大半は40代を過ぎて事業が拡大してからの子供たちである。ウサーマはその17番目の子である。ムハンマドは妻ハミドとウサーマ生誕直後に離婚、ハミドは同じ部族のムハンマド・アル=アッタスと再婚し新しい夫との間に4人の子を儲けた。ウサーマはその新しい兄弟の頭として成長した。このためウサーマはラディーン族ではなくアッタス族の社会で幼少期を過ごし実の父とは一緒に暮らしたことがない。敬虔な[[ワッハーブ派]][[ムスリム]]として育てられ、世俗の学校に通ったがエリート教育がなされた。ウサーマの実父・ムハンマド・ビン・ラーディンはウサーマが10歳の時に[[飛行機]]事故で死亡している。ウサーマは高校時代に[[イスラム原理主義]]に触れたとも言われる。ウサーマは17歳の時、シリアの[[ラタキア]]で最初の結婚をした(最初の妻とは[[2001年]]に離婚)。[[CNN]]によるとウサーマは他に4度の結婚歴があり、子供の数は20人を越える(子供らの多くは2001年以降、[[イラン]]に[[亡命]]している)。ウサーマは、[[ジッダ]]の[[キング・アブドゥルアズィーズ大学]]経済管理学部に入学するが、宗教や詩作に向かい[[クルアーン]]や[[ジハード]]の研究に没頭した。[[フィランソロピー|慈善活動]]に精力的に参加する一方、[[バーナード・モントゴメリー]]などの軍記物を好んで読んだ。ウサーマは[[ムスリム同胞団]]に加入、[[サイイド・クトゥブ]]の思想に引き付けられる。さらに同大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団の[[アブドゥッラー・アッザーム]]の教えを受け、師と仰ぐようになった。ウサーマは自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている。ウサーマは[[シャリーア]]の復権だけが[[イスラム世界]]を正しい道に導き、[[社会主義]]・[[共産主義]]・[[民主主義]]・[[ナショナリズム|国民主義]]・[[汎アラブ主義]]などは打倒されるべき対象であると述べている(後年、「[[ムハンマド・オマル]]支配下の[[アフガニスタン]]だけが唯一の[[イスラム国家]]である」とも述べている)。従って[[反ユダヤ主義|反セム主義]]で[[シーア派]]・[[スーフィズム]]を[[異端]]であると攻撃対象にする思想が形成された。[[イスラエル]]の後見人というだけでなく、退廃的で堕落的な文化と規定して反米であった。厳格な[[サラフィー主義]]から、ウサーマは[[音楽]]や[[映画]]などにも不寛容であった。一方でウサーマは[[乗馬]]と[[サッカー]]をするのを非常に好んだ。ウサーマは、[[1979年]]に大学で学位取得後、少しの間、クルアーンの規定の遵守を監督する[[勧善懲悪委員会]]([[ムタワ]])に勤務していた。 |
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===アフガニスタン紛争への参加(1979–1989年)=== |
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=== ムジャーヒディーン === |
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ソビエト連邦が[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタンに進攻]]した1979年、ビン・ラーディンはサウジアラビアを離れてパキスタンやアフガニスタンを初めて訪れ、ソ連軍に抵抗する[[ムジャーヒディーン]]を支援するための活動を始めた{{sfn|保坂|2011|pages=72–74}}。のちにビン・ラーディンは当時の心境を回想し、「アフガニスタンの人々に対する不公正な行いに憤慨を覚えた」と語っている<ref>Interview with Robert Fisk, March 22, 1997, 'The Great War For Civilisation', 2005, p.7.</ref>。 |
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[[1979年]]、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソビエト軍のアフガニスタン侵攻]]が起こると、[[サウード家]]は、[[アフガニスタン]]の[[ムスリム]]の抵抗を積極的に支援することに決め、王室に近かったラーディン家に支援を要請した。[[アル=ハラム・モスク占拠事件]]の影響で[[イスラム過激派]]を国外に追い出す狙いもあった。同年の[[イラン革命]]の進展に強い影響を受けたウサーマは、アブドゥッラー・アッザームの誘いで、アフガニスタンで[[ソビエト連邦軍|ソビエト軍]]と戦うことを決意、[[パキスタン]]の[[ペシャーワル]]に向かう。駐アフガニスタン・サウジ王国公式代表に任命され、アフガンゲリラ諸派とともに[[ムジャーヒディーン]]となった。[[1980年]]にはペシャーワル郊外に居を構え、この時期より[[戦闘服|迷彩服]]を着用し、素手で[[ロシア人]]兵士を殺して奪った(とされる)[[アサルトライフル]]を常に携帯するようになった。また[[軍統合情報局|パキスタン軍統合情報局]](ISI)長官のハーミド・グル中将の知己となった。[[1989年]]まではサイクローン作戦を通じウサーマらムジャーヒディーンはアメリカの[[中央情報局]](CIA)の援助を受けたが、ムジャーヒディーンの軍事訓練は[[ムハンマド・ジア=ウル=ハク]][[政権]]のパキスタンが担い、ISIと[[パキスタン陸軍]]が指導した。[[サウジアラビア総合情報庁]](GIP)の長官トゥルキー・アル=ファイサル王子の委任により、ウサーマは個人財産とGIPからの資金でムジャーヒディーンのスポンサーとなり、アブドゥッラー・アッザームと共に[[1984年]]までにはペシャーワルで「サービス局」([[マクタブ・アル=ヒダマト]]。MAK)を開設し、[[エジプト]]・スーダンなどからムジャーヒディーンをリクルートし、パキスタンの[[北西辺境州]]に設立した軍事キャンプに送り込んだ。ムジャーヒディーンは主に[[グルブッディーン・ヘクマティヤール]]を支援した。アフガニスタンでの対ソ戦の戦況はムジャーヒディーンの活躍で好転する。ウサーマが[[オマル・アブドッラフマーン (テロリスト)|オマル・アブドッラフマーン]]や[[アブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー]]などと関係を構築したのはこのときである。 |
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1979年から1984年までの期間、ビン・ラーディンの支援活動は[[募金]]が中心であり、サウジアラビアなどの[[湾岸協力会議|湾岸諸国]]を活動拠点としてアフガニスタンのムジャーヒディーンに資金や建設機械を提供していた{{sfn|保坂|2011|page=73}}。ビン・ラーディンはその後、パキスタンの[[ペシャーワル]]で活動していた大学時代の恩師[[アブドゥッラー・アッザーム]]と合流した。1984年までにアッザームと共に「[[マクタブ・アル=ヒダマト]](MAK)」を組織して、外国からムジャーヒディーンの新兵をリクルートしてアフガニスタンに送り出す活動を始めた<ref name="jazeera">{{cite web |title=Profile: Osama bin Laden |url=https://www.aljazeera.com/news/asia/2011/05/20115235148217423.html |publisher=Al Jazeera |date=March 18, 2018 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180901112220/https://www.aljazeera.com/news/asia/2011/05/20115235148217423.html|archivedate=September 1, 2018 |url-status=live|accessdate=October 11, 2019 }}</ref><ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/155236.stm |title=Who is Osama Bin Laden? |work=BBC News |date=September 18, 2001 |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081224201012/http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/155236.stm |archivedate=December 24, 2008 }}</ref>。1984年には自ら「ベイトゥルアンサール(支援者たちの館)」という施設をペシャワールに建設し、以降1986年までパキスタンを拠点として活動した{{sfn|保坂|2011|page=73}}。ビン・ラーディンが[[アイマン・ザワーヒリー]]や[[アブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー]]、[[オマル・アブドッラフマーン (テロリスト)|オマル・アブドッラフマーン]]などと関係を構築したのもこの時期であった。 |
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=== 反米 === |
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[[1988年]]頃にはMAKは路線対立で分裂を強め、アフガニスタンでの活動を優先させようというアッザーム派は離れ、1988年8月にはビン・ラーディンを中心に[[ムハンマド・アーティフ]]ら[[ジハード団]]からのメンバーらが[[アル・カーイダ]]を創設した。 |
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ムジャーヒディーンはアフガニスタンでは反共の観点からCIAやパキスタンのISIを後ろ盾に活動を続けていたが、[[1989年]]2月のソビエト軍の敗退後、ビン・ラーディンらは反米活動に転じた。[[ユーゴスラビア紛争]]に積極的に関与し、[[バルカン半島]]のイスラム勢力を支援した。ビン=ラーディンは[[1990年]]にサウジアラビアへ英雄として帰国した。同年8月、[[サッダーム・フセイン]]の[[イラク治安部隊#イラク軍|イラク軍]]が[[クウェート]]に侵攻すると、ビン=ラーディンは[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ|ファハド・ビン・アブドゥルアズィーズ]]国王と国防相のスルタン・ビン・アブドルアジーズ・アル=サウード王子と面会し、[[メッカ]]・[[マディーナ]]という聖地を有するサウジアラビアの国内に[[アメリカ軍]]を駐留させない代わりにムジャーヒディーンによってイラク軍からサウジアラビアを防衛する計画を提案した<ref>Jehl, Douglas (December 27, 2001). "A Nation Challenged: Holy war lured Saudis as rulers looked away". The New York Times. pp. A1, B4. Retrieved September 5, 2009.</ref>。しかしアメリカ大統領[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]の圧力に負けたサウード家は[[異教徒]]のアメリカの軍の駐留を認め、[[イスラム世界]]を驚かせた。[[湾岸戦争]]はビン=ラーディンを急速に反米活動に傾倒させていった。このあたりは[[2001年]]10月7日に出された彼の声明の中でも「不信心者の軍は[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の地を去れ」という文言で表されている。米軍のサウジアラビア駐留直後の1990年11月、[[連邦捜査局|FBI]]は[[ニュージャージー州]]のエル・サイード・ノサイルの住居を摘発、[[ニューヨーク]]の[[超高層建築物|超高層ビル]]爆破計画の資料を押収した。ノサイルは[[ラビ]]の[[メイアー・カハネ]]を殺害したアル・カーイダのメンバーで、これが西側での爆弾テロ計画が露見した最初となった。サウード家は、ビン・ラーディンを危険視、国外出国を禁止する。 |
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1986年以降、ビン・ラーディンは活動の拠点をアフガニスタン国内に移した{{sfn|保坂|2011|page=73}}。1986年から1987年にかけ、ビン・ラーディンはアフガニスタン東部の村ジャジ (Jaji)近郊に自らの基地を建設し、数十人のアラブ人ムジャーヒディーンを指揮下に置いた<ref name="Bergen49">{{Harvnb|Bergen|2006|pp=49–51}}</ref>。この基地を拠点として、ビン・ラーディンとその軍団はソ連軍と交戦し、ビン・ラーディン自身も一兵士として戦闘に参加した。特に、1987年の{{仮リンク|ジャジの戦い|en|Battle of Jaji}}ではソ連軍に勝利し、(実際には戦局に影響しない小規模な勝利だったが)アラブ系の主要メディアではこの戦果が華々しく報道され、ビン・ラーディンの知名度は高まった<ref name="Bergen49"/>。ビン・ラーディンがアラブ世界の一部で英雄視されるようになったのもこの時期であった<ref>Robert Fisk (2005). ''The Great War For Civilisation'', p. 4.</ref>。 |
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ビン・ラーディンはアフガン帰還兵への福祉支援組織を隠れ蓑に[[イスラム主義]]([[イスラム原理主義]])的な背景を持つ[[テロリズム|国際テロリズム]]のネットワークを作り上げたといわれている<ref>NHKスペシャル『9.11テロ 一年目の真実〜ビンラディンVSアメリカ〜』(2002年8月31日放送)による例では、ナイロビの爆破テロでは、その準備のために「ヘルプ・アフリカピープル」という慈善団体を隠れ蓑にしていた。</ref>。 |
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1979年から1989年にかけ、アメリカとサウジアラビアはパキスタンの[[軍統合情報局]] (ISI)を通じ、アフガニスタンで戦うムジャーヒディーンへ400億ドル相当の援助を行った([[サイクロン作戦]])<ref>{{cite web |year=2009 |url=http://www.bt.com.bn/analysis/2008/12/17/story_of_us_cia_and_taliban |title=Story of US, CIA and Taliban |work=[[The Brunei Times]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131205090713/http://www.bt.com.bn/analysis/2008/12/17/story_of_us_cia_and_taliban |archivedate=December 5, 2013|accessdate=October 20, 2019}}</ref>。ジャーナリストの{{仮リンク|ジェイソン・バーク|en|Jason Burke}}によれば、ビン・ラーディンが設立したMAKもアメリカから提供された資金を受け取っていた<ref>{{cite news |title=Frankenstein the CIA created |url=https://www.theguardian.com/world/1999/jan/17/yemen.islam |work=The Guardian |date=January 17, 1999}}</ref>。ビン・ラーディンはまた、ISI長官のハーミド・グル中将と知り合い、関係を深めていた。アメリカはムジャーヒディーンに資金と武器を提供したが、実際の軍事訓練はISIと[[パキスタン陸軍]]が全面的に担当していた<ref>{{cite journal |year=1999 |url=http://www.thenation.com/article/cost-afghan-victory?page=0,1 |title=The Cost of an Afghan 'Victory' |journal=[[The Nation]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140302090727/http://www.thenation.com/article/cost-afghan-victory?page=0%2C1 |archivedate=March 2, 2014 |url-status=dead |df=}}</ref>。 |
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ビン・ラーディンは[[1992年]]に密かにサウジアラビアを脱出、サウード家を攻撃し続けるビン・ラーディンに対しファハド国王による追放であったとも言われている。[[民族イスラム戦線]]のハッサン・アル=トゥラビの招きで[[スーダン]]に渡り、[[ハルツーム]]や[[青ナイル川]]地域に軍事キャンプを設立した。財閥「サウジ・ビン=ラーディン・グループ」からの資金が止まり、スーダン国内で建設事業を行うことで財政面を安定化させるとともに、アフガニスタンで共に戦ったジハード団の指導者[[アイマン・ザワーヒリー]]などと関係を深め、組織の拡大育成を行った。[[オスロ合意]]に反発、反米闘争がエスカレートしていった。[[1993年]]には[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の市民権を取得し、[[サラエヴォ]]などでの紛争に主にスーダンからイスラムのムジャーヒディーンを送り込み、[[アルジェリア]]内戦では[[武装イスラム集団]]を支援する財政的な援助を行った。[[北アメリカ|北米]]や[[西ヨーロッパ|西欧]]で偽造旅券を所持したアルジェリア人が次々に[[逮捕]]され爆弾テロの計画が露見した。さらに[[イエメン]]や[[ソマリア]]など活動を広げた。ビン・ラーディンが指導したアルカーイダの爆弾テロは[[1992年]]末のイエメンの[[アデン]]でのホテル爆破が最初とされる。中東における[[自爆テロ]]は[[1980年]]の[[イラン・イラク戦争]]で[[シーア派]]が行ったのが最初である。[[車爆弾]]を用いた自爆テロは[[1983年]]、[[レバノン内戦]]下の[[アメリカ大使館爆破事件 (1983年)|ベイルート・アメリカ大使館爆破事件]]が最初である。さらに[[ヒズボラ]]による[[ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件]]が起こり300人を越える米兵・フランス兵が死亡した。米軍基地までもがテロの標的となった波紋は大きく、アルカーイダでもそれに習い、[[イスラム集団]]などと共闘して、[[世界貿易センター爆破事件]]など世界各地で一般[[市民]]をも巻き込んだ無差別な爆弾テロを行っていく。サウジアラビア政府は、[[1994年]]にビン・ラーディンの国籍を剥奪、同時期にラーディン家は、ウサーマを一族から追放したとの声明文をサウジアラビア国内の[[マスコミュニケーション|マスコミ]]に送っている。[[エジプト]]の[[ホスニー・ムバーラク]][[近代エジプトの国家元首の一覧|大統領]]への[[暗殺]]未遂事件を起こしたジハード団(EIJ)は[[1995年]]にスーダン追放となり、さらにアメリカ・サウジアラビアの圧力で、ビン・ラーディンもスーダン国内に居られない状況となり[[1996年]]5月にスーダンを出国し、チャーター機でアフガニスタンの[[ジャラーラーバード]]に渡った。直後にサウジアラビア東部の[[ダーラン]]で米軍宿舎爆破事件が発生した。この頃がビン・ラーディン一派が最も苦境であったとされる{{誰|date=2013年9月|}}。 |
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====アルカーイダの結成==== |
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{{Main|アルカーイダ}} |
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アフガニスタンにビン・ラーディンを招いたのは[[アブドゥル・ラスル・サイヤフ]]で、ソビエトとの戦いでジャラーラーバードにビン・ラーディンと軍事訓練キャンプを創設して以来の関係であった。アブドゥル・ラスル・サイヤフは、[[世界貿易センター爆破事件]]の首謀者の[[ラムジ・ユセフ]]や[[アメリカ同時多発テロ事件]]の起案者とされる[[ハリド・シェイク・モハメド]]などアル・カーイダの首脳たちにかつてペシャーワルで軍事指導したことがあった。ビン・ラーディンは、最初は[[ムハマッド・ユヌス・ハリス|ハリス派]]の庇護を受け、ISIの資金援助で食い繋いだ。ジャララバードが[[ターリバーン]]の手に落ちると今度はターリバーンの客人となり、[[ムハンマド・オマル]]と緊密な関係を構築、アフガニスタン国内にアル・カーイダの訓練キャンプを設置していった。また[[アリアナ・アフガン航空]]を[[ハイジャック]]したことからそれを用いて現金や[[アヘン]]、武器、偽造旅券などをパキスタンや[[アラブ首長国連邦]]との間で効果的にやり取りすることが可能になった。[[1997年]]には[[イスラム集団]]を財政的に支援し[[ルクソール事件]]を起こした。同年、[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]がジャラーラーバードを圧迫すると[[カンダハール]]東部のカルナクに拠点を移した。同じ頃、[[マザーリシャリーフ]]攻略にターリバーンは失敗し大打撃を受けた。その窮地を救うためビン・ラーディンは数百人のアラブ兵を送り、[[1998年]]8月にはマザーリシャリーフの[[シーア派]]の[[ハザーラ人]]住民5,000人以上を大虐殺した。1998年2月には[[ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線]]を結成し、「ムスリムにはアメリカと同盟国の国民を殺害する義務がある」「[[エルサレム]]の[[アル=アクサー・モスク]]を解放せよ」という[[ファトワー]]をザワーヒリーと連名で布告した。[[ジェマ・イスラミア]]とも関係を深めた。8月7日には[[タンザニア]]の[[ダルエスサラーム]]と[[ケニア]]の[[ナイロビ]]で[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|アメリカ大使館爆破事件]]を起こし[[連邦捜査局|FBI]]から訴追をうけた<ref>[http://www.fbi.gov/wanted/terrorists/terbinladen.htm USAMA BIN LADEN (FBI公式サイト)]</ref><!--<ref>エドワード・F・ハース(Edward F. Haas)は、FBI関係者がウサーマ・ビン・ラーディンと9/11(同時多発テロ事件)とを結びつける確実な証拠は無いと述べたとする。[http://www.teamliberty.net/id267.html FBI says, “No hard evidence connecting Bin Laden to 9/11”]</ref>。(リンクが切れている上、ハースの身元がわからないためコメントアウト。)-->。アメリカはビン・ラーディンをかくまっていたアフガニスタンのターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを求めたが、ターリバーンは応じなかったため、[[国際連合安全保障理事会]]において引き渡しを求める国際連合安全保障理事会決議1267<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/terro/anpo_1267.html 安保理決議1267(訳文) 外務省]</ref>が採択された。ターリバーン政権はこれにも応じず、経済制裁が発動された。同年、ビン・ラーディンは[[アルジェリア]]で[[サラフィスト・グループ]]の創設に深く関わった。[[ビル・クリントン|クリントン]]政権はアメリカ大使館爆破事件の首謀者として同年8月、[[アラビア海]]の艦艇から[[巡航ミサイル]]でアフガニスタン東部[[ホースト州|ホースト]]にある潜伏先を爆撃したがビン・ラーディンは間一髪逃れたとされる。この頃、[[アルバニア]]にアルカーイダは拠点を構築し、[[コソボ]]での戦闘にアル・カーイダ系ムジャーヒディーンが参加している。[[1999年]]、CIAとISIは共同で大規模なビン・ラーディン捕獲作戦を計画したが、[[パルヴェーズ・ムシャラフ]]による[[クーデター]]が発生し中断を余儀なくされた。 |
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[[1988年]]、ビン・ラーディンはMAKから独立した新組織「[[アルカーイダ]]」を立ち上げた。[[ローレンス・ライト]]の調査によれば、アルカーイダは1988年8月11日に、ビン・ラーディン、アッザーム、および[[ジハード団]]の幹部数名による合意によって結成され、その目的はビン・ラーディンの資金とジハード団の専門知識を組み合わせることで、ソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も世界の別の地域でジハードを継続することにあった<ref>{{cite book |url=https://books.google.com/?id=8EqWnqdsgZMC&pg=PA108&dq=August+11,+1988,+meeting+between+%22several+senior+leaders%22+of+Egyptian+Islamic+Jihad,+Abdullah+Azzam,+and+bin+Laden |title=Urban Terrorism : Myths And Realities |first=N. C |last=Asthana |page=108 |publisher=Pointer Publishers |isbn=978-81-7132-598-6 |date=January 1, 2009}}</ref>。 |
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1989年2月に[[ソ連軍のアフガニスタンからの撤退]]が完了した後、ビン・ラーディンはサウジアラビアに帰国した<ref name="pbschronology"/>。サウジアラビアでビン・ラーディンとその軍団は、ソ連という「強大な超大国」を倒した英雄として扱われた<ref>{{Harvnb|Wright|2006|pp=146}}</ref><ref name="jazeera"/>。帰国した後のビンラーディンは一族の建設会社([[サウディ・ビンラディン・グループ]])を手伝ったが、一方でサウジアラビアの体制に反抗する姿勢を示したため、当局から警戒された<ref name="pbschronology"/><ref name="jazeera"/>。 |
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[[2000年]]、アル・カーイダは[[米艦コール襲撃事件]]をおこし、国際連合安全保障理事会決議1333<ref name="ketsugi1333">[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/terro/anpo_1333.html 安保理決議1333(訳文) 外務省]</ref>によって再度引き渡しが求められた。 |
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===湾岸戦争と米軍駐留・サウジアラビアからの追放(1990–2000年)=== |
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=== アメリカ同時多発テロ事件以後 === |
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1990年8月2日、[[サッダーム・フセイン]]の[[イラク治安部隊#イラク軍|イラク軍]]が[[クウェート]]に侵攻し、サウジアラビアとの国境に到達した。サウジアラビアがイラクからの脅威に直面する中、ビン=ラーディンは[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ|ファハド]]国王およびスルターン国防相と会談を行い、国内に[[異教徒]]の[[アメリカ軍]]を駐留させる代わりに、自らのムジャーヒディーン軍団によってサウジアラビアを防衛する計画を提案した<ref>Jehl, Douglas (December 27, 2001). "A Nation Challenged: Holy war lured Saudis as rulers looked away". The New York Times. pp. A1, B4. Retrieved September 5, 2009.</ref>。しかし、サウジアラビア王家はビン・ラーディンによる提案を拒絶し、最終的にはアメリカ軍のサウジアラビア駐留を認めた<ref>{{Cite news |last=Jehl |first=Douglas |title=A Nation Challenged: Holy war lured Saudis as rulers looked Away |work=The New York Times |date=December 27, 2001 |pages=A1, B4 |url=https://www.nytimes.com/2001/12/27/world/a-nation-challenged-saudi-arabia-holy-war-lured-saudis-as-rulers-looked-away.html |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101118105250/http://www.nytimes.com/2001/12/27/world/a-nation-challenged-saudi-arabia-holy-war-lured-saudis-as-rulers-looked-away.html |archivedate=November 18, 2010 }}</ref>。1990年8月7日、アメリカ大統領[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]はアメリカ軍のサウジアラビア派遣を発表し、同軍は8月8日からサウジアラビアへの展開を開始した{{sfn|保坂|2011|page=94}}。 |
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ブッシュ政権は、2001年9月11日に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件]]の首謀者をウサーマ・ビン・ラーディンとアル・カーイダであると断定した(アル・カーイダでも[[サイード・アル=マスリー]]や[[サイフ・アル=アデル]]は計画に反対した、とされる)。[[アメリカ合衆国政府|アメリカ政府]]の公式報告書(『9/11委員会レポート』)によると、航空機を使用したテロ計画の発案者は、2003年に[[逮捕]]され計画の全貌を自白した[[ハリド・シェイク・モハメド]]であり、ウサーマ・ビン・ラーディンは彼から計画を持ちかけられたという<ref>National Commission on Terrorist Attacks (2004). ''The 9/11 Commission Report: Final Report of the National Commission on Terrorist Attacks Upon the United States ''; W. W. Norton & Company. 同時多発テロに関する独立調査委員会『9/11委員会レポート ダイジェスト 同時多発テロに関する独立調査委員会報告書、その衝撃の事実』(WAVE出版、2008年)</ref>。 |
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ビン・ラーディンは、非イスラム教徒が[[アラビア半島]]に常駐することは[[預言者ムハンマド]]によって禁じられていると解釈しており<ref name="Bergen2001">{{cite book |last=Bergen|first=Peter L.|title=Holy War, Inc.: Inside the Secret World of Osama Bin Laden |year=2001|publisher=Simon and Schuster|isbn=978-0-7432-3467-2 |page=3}}</ref>、[[メッカ]]・[[マディーナ]]という2つの聖地を抱えるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍が進出したことに憤慨した<ref name="cnn201107"/>。それと同時に、駐留を許したサウジアラビア王家([[サウード家]])を「背教者」として糾弾した<ref name="Bergen2001"/>。[[湾岸戦争]]が引き金となったアメリカ軍のサウジアラビア駐留は、ビン・ラーディンを急速に反米活動に傾倒させていった。 |
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=== 2001年以降の足取り === |
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{{独自研究|section=1|date=2010年12月}} |
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[[ターリバーン]]は2001年11月にビンラディンにアフガニスタンの市民権を公式に与えた。同月、[[ジャラーラーバード]]郊外の隠れ家とされる場所がアメリカ軍により爆撃を受けている<ref>[https://www.jiji.com/jc/d4?p=obl502-jlp00972775&d=d4_mili ウサマ・ビンラディン容疑者 写真特集] 時事通信(2001年11月18日)2018年1月26日閲覧</ref>。同月末の[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|ターリバーン政権の崩壊]]で、ビン・ラーディンの正確な足取りは不明となった。同年12月17日、[[アイマン・ザワーヒリー]]と共にアフガニスタン東部[[ナンガルハール州]]トラボラの渓谷にある洞穴に潜伏しているという情報からアメリカ・[[イギリス]]・[[ドイツ]]・[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]各軍が捕獲作戦(トラボラの戦い)を実施したが失敗した。このことは[[2009年]][[11月29日]]に[[アメリカ合衆国上院外交委員会|アメリカ上院外交委員会]]にて取り上げられ、現地指揮官からの増派要請を本国が拒否したのが捕獲失敗の原因と結論付けた<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20091130-OYT1T00995.htm|title=ビンラーディン取り逃がし、増援拒否が原因…米上院|work=YOMIURI ONLINE|publisher=[[読売新聞社]]|date=2009-11-30|accessdate=2009-11-30}}</ref>。その後はビン・ラーディンはターリバーン幹部らと共にパキスタンの[[北西辺境州]]の洞窟に潜伏していると思われた。 |
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1991年、サウジアラビア王家はアメリカ軍との同盟関係への批判を繰り返すビン・ラーディンを国外追放に処した<ref name="pbschronology"/><ref name="cnn201107">{{cite web |year=2011 |title=Timeline: Osama bin Laden, over the years |url=http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/05/02/bin.laden.timeline/index.html |work=CNN |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110717222154/http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/05/02/bin.laden.timeline/index.html |archivedate=July 17, 2011|accessdate=October 17, 2019}}</ref>。サウジアラビアを追われたビンラーディンとその一派は、当初はアフガニスタンで亡命生活を送ったが、1992年までに[[スーダン]]に移動した<ref name="pbschronology"/><ref name="cnn201107"/>。アフガニスタンに滞在中の1992年3月から4月にかけ、ビン・ラーディンは激化する[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)|アフガニスタン内戦]]の仲裁を試み、[[グルブッディーン・ヘクマティヤール]]に対して他のムジャーヒディーン指導者と協力するよう呼びかけていた{{sfnp|Gutman|2008|page=37}}。 |
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2004年以降から、[[腎臓学|腎臓病]]に苦しみ常に[[人工透析]]の電子機器が必要であると報道された。そのため死亡説が浮上した。これは、[[フランス]]の地方紙などが伝えたもので、[[腸チフス]]で死亡したとの記事であった。しかし、フランスの[[ジャック・シラク|シラク]][[フランスの大統領|大統領]]が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。一説では[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に潜伏している<ref>米国の[[AP通信]]は、アフガニスタンに潜伏しているオサマ・ビンラディン氏が管理している訓練キャンプで生化学武器実験が実施されたとの報道があったとし、北朝鮮関連説を提起した。AP通信は28日、「ビンラディン氏をアフガニスタン東部のクナル地域まで遂行したあるタリバーン保安関係者が、現地で北朝鮮人1人が訓練兵に化学武器訓練を行っているのを目撃した」と述べたと報道した。{{要出典|date=2010年12月}} </ref>などの説があるが定かではない。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯([[トライバルエリア]]・FATA)ではないかという見解を示した<ref>[http://abcnews.go.com/Blotter/Story?id=6248595&page=1 CIA Chief: Bin Laden Alive, Worried About 'Own Security' ABCNews]</ref>。 |
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====スーダン時代・アフガニスタンへの帰還==== |
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[[2010年]][[10月18日]]、[[CNN]]は[[北大西洋条約機構]]当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンが、アフガニスタン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、パキスタン国内の家屋で「快適に」暮らしていると報じた。同当局者は「洞窟で暮らしているアルカーイダのメンバーは誰一人としていない」と述べた。ビン・ラーディンらは、パキスタン情報機関や地元[[住民]]に保護され、同国北西部の家屋に[[居住]]。付近に[[アイマン・ザワーヒリー]]も住んでいるという<ref>http://sankei.jp.msn.com/world/asia/101019/asi1010190005000-n1.htm 家屋で「快適な」生活 ビンラーディン容疑者 |
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[[File:Hamid Mir interviewing Osama bin Laden.jpg|thumb|アフガニスタンの[[カーブル]]でパキスタン人ジャーナリストのインタビューを受けるビン・ラーディン(1997年頃)]] |
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</ref>。 |
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スーダンに渡ったビン・ラーディンは同国の政権を担う[[民族イスラーム戦線]]と同盟関係を築くとともに、アルカーイダを国際的なテロ組織へと発展させた<ref name="cnn201107"/><ref name="glosec"/>。 |
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1992年12月29日、イエメンの[[アデン]]でアメリカ軍が滞在するホテルが爆破され、2人のオーストリア人旅行者が死亡した<ref name="pbschronology"/>。これがビン・ラーディンが関与した最初のテロ事件とされている<ref name="pbschronology">{{cite web |url=https://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/binladen/etc/cron.html |title=Who is bin Laden?: Chronology |publisher=PBS |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100414023118/http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/binladen/etc/cron.html |archivedate=April 14, 2010 }}</ref>。1993年2月26日、ビン・ラーディンとの関係が疑われるテロリストによってニューヨークで[[世界貿易センター爆破事件]]が引き起こされ、6人が死亡した<ref name="cnn201107"/>。1993年、アメリカ政府はスーダンをテロ支援国家に指定した<ref name="pbschronology"/>。1994年、サウジアラビア政府はビン・ラーディンの国籍を剥奪し、サウジアラビア国内に残された彼の財産を全て凍結した<ref name="cnn201107"/>。同年には、ビン・ラーディンの一族も彼との関係を断絶した(それまでウサーマは一族の財産から毎年1億ドル余りを受け取っていた)<ref name="glosec"/><ref name="cnn201107"/>。 |
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1996年5月、スーダン政府はアメリカおよびサウジアラビアからの圧力に屈し、ビン・ラーディンを国外に追放することを決定した<ref name="pbschronology"/>。ビン・ラーディンは亡命先としてアフガニスタンの[[ジャラーラーバード]]を選び、5月18日にチャーター機でスーダンを離れた<ref>{{Cite news |url=http://articles.latimes.com/2001/dec/06/news/mn-12224 |title=Fighters Hunt Former Ally |work=Los Angeles Times |author=Megan K. Stack |date=December 6, 2001 |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090919134203/http://articles.latimes.com/2001/dec/06/news/mn-12224 |archivedate=September 19, 2009 }}</ref>。アフガニスタンに帰還したビン・ラーディンとアルカーイダは[[ターリバーン]]政権の庇護を受け、ビン・ラーディンはターリバーンの最高指導者[[ムハンマド・オマル]]と親密な関係を築いた<ref name="cnn201107"/><ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/1550419.stm |title=Profile: Mullah Mohamed Omar |date=September 18, 2001 |work=BBC News |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100728110131/http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/1550419.stm |archivedate=July 28, 2010 }}</ref>。 |
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=== 発見、および死亡 === |
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配下の連絡係が発見され、その行動分析からウサーマ・ビン・ラーディンの居所が突き止められた。 |
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1996年8月、ビン・ラーディンは最初の「[[ファトワー]](布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対して「[[ジハード]](聖戦)」を宣言した<ref>{{Harvnb|Bergen|2008|p=14}}</ref>。このファトワーでビン・ラーディンは、異教徒のアメリカ軍をアラビア半島から駆逐し、占領されている2つの聖地([[メッカ]]と[[マディーナ]])を解放するよう全世界のムスリムに呼びかけた<ref name="cnn201107"/>。1997年5月、[[ジハード団]]の指導者であった[[アイマン・ザワーヒリー]]がアフガニスタンのビン・ラーディンに合流し、アメリカに対するジハードを共に提唱するようになった<ref>{{cite web|url=http://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/SW_S-asia/al-qaida.html|accessdate=2019-10-28|title=アルカイダ - 国際テロリズム要覧|work=[[公安調査庁]]}}</ref>。 |
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2011年5月2日(米国東部夏時間5月1日)、パキスタンにおいてアメリカ軍によって攻撃され、死亡した。 |
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1998年2月、ビン・ラーディンとザワーヒリーは「[[ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線]]」を結成した上で新たな「ファトワー」を発し、世界各地でアメリカとその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「占領されている[[アル=アクサー・モスク]](エルサレム)と[[マスジド・ハラーム|聖なるモスク]](メッカ)を解放」するために、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言した<ref>{{cite web |url=http://www.library.cornell.edu/colldev/mideast/fatw2.htm |title=World Islamic Front for Jihad Against Jews and Crusaders: Initial "Fatwa" Statement |author=Shaykh Usamah Bin-Muhammad Bin-Ladin |first2=Ayman |last2=al-Zawahiri |author3=Abu-Yasir Rifa'i Ahmad Taha |author4=Shaykh Mir Hamzah |first5=Fazlur |last5=Rahman |date=February 23, 1998 |work=al-Quds al-Arabi |language=Arabic |accessdate=May 28, 2010}}</ref><ref>{{cite web |url=https://fas.org/irp/world/para/docs/980223-fatwa.htm |title=Jihad Against Jews and Crusaders. World Islamic Front Statement |author=Shaykh Usamah Bin-Muhammad Bin-Ladin |first2=Ayman |last2=al-Zawahiri |author3=Abu-Yasir Rifa'i Ahmad Taha |author4=Shaykh Mir Hamzah |first5=Fazlur |last5=Rahman |date=February 23, 1998 |publisher=al-Quds al-Arabi |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100421110549/http://www.fas.org/irp/world/para/docs/980223-fatwa.htm |archivedate=April 21, 2010 }} English-language version of the fatwa translated by the [[Federation of American Scientists]] of the [http://www.library.cornell.edu/colldev/mideast/fatw2.htm original Arabic document published in the newspaper ''al-Quds al-Arabi'' (London, UK) on 1998-02-23, p. 3].</ref>。 |
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1998年8月7日、アルカーイダのテロリストが[[タンザニア]]の[[ダルエスサラーム]]と[[ケニア]]の[[ナイロビ]]の[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|アメリカ大使館をほぼ同時刻に爆破し]]、12人のアメリカ人を含む224人を殺害した<ref name="cnn201310">{{cite web |year=2013 |title=1998 US Embassies in Africa Bombings Fast Facts |url=https://edition.cnn.com/2013/10/06/world/africa/africa-embassy-bombings-fast-facts/index.html |work=CNN |accessdate=October 17, 2019}}</ref>。テロ事件が発生した1998年8月7日は、アメリカ軍のサウジアラビア派遣からちょうど8年後であった{{sfn|保坂|2011|page=99}}。1998年8月20日、テロへの報復として、アメリカ大統領[[ビル・クリントン]]はアフガニスタンとスーダンのアルカーイダ関連施設への攻撃を命じ、[[トマホーク (ミサイル)|トマホーク巡航ミサイル]]による爆撃が実施された<ref name="pbscontext"/>。1999年6月、[[連邦捜査局|FBI]]はビン・ラーディンを大使館爆破事件の容疑者として[[FBI10大最重要指名手配|最重要指名手配犯]]に指定した<ref name="pbscontext">{{cite web |url=https://www.pbs.org/wgbh/frontline/article/timeline-al-qaedas-global-context/ |title=Timeline: Al Qaeda’s Global Context |publisher=PBS |date=October 3, 2002 |accessdate=October 20, 2019 }}</ref>。アメリカ政府はターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアルカーイダの引き渡しを求めたが、ターリバーンは応じなかったため、1999年10月には[[国際連合安全保障理事会]]において引き渡しを求める国際連合安全保障理事会決議1267が採択された<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/terro/anpo_1267.html 安保理決議1267(訳文) 外務省]</ref>。ターリバーン政権はこれにも応じず、アフガニスタンに対する経済制裁が発動された。 |
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2000年10月、イエメンでアルカーイダのテロリストがアメリカ海軍の[[米艦コール襲撃事件|駆逐艦「コール」に自爆攻撃を仕掛け]]、17人の水兵を殺害した<ref name="pbscontext"/>。2000年12月、国際連合安全保障理事会決議1333が採択され、ターリバーン政権に対し再度ビン・ラーディンの引き渡しが求められた<ref name="ketsugi1333">[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/terro/anpo_1333.html 安保理決議1333(訳文) 外務省]</ref>。 |
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===アメリカ同時多発テロ事件以後(2001–2011年)=== |
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[[File:Hamid Mir interviewing Osama bin Laden and Ayman al-Zawahiri 2001.jpg|thumb|ビン・ラーディンと[[アイマン・ザワーヒリー]](2001年)]] |
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[[2001年]][[9月11日]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]直後から、ビン・ラーディンには首謀者の嫌疑がかけられた<ref name="ultimatum"/>。2001年9月16日、ビン・ラーディンは衛星テレビ局[[アルジャジーラ]]を通じて声明を発表し、事件への関与を否定した<ref>{{cite news |first1=Carl |last1=Cameron |first2=Marla |last2=Lehner |first3=Paul |last3=Wagenseil |agency=Associated Press |title=Pakistan to Demand Taliban Give Up Bin Laden as Iran Seals Afghan Border |url=http://www.foxnews.com/story/0,2933,34440,00.html |publisher=Fox News Channel |date=September 16, 2001 |accessdate=May 28, 2010 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100523082548/http://www.foxnews.com/story/0,2933,34440,00.html |archivedate=May 23, 2010 }}</ref>。ビン・ラーディンはこの声明の中で、「私は攻撃の実行者ではないと強調しておく。今回の事件は別の個人によって、彼自身の動機によって実行されたように見える」などと述べた<ref name=cnndenial>{{cite news |publisher=CNN |url=http://articles.cnn.com/2001-09-16/us/inv.binladen.denial |archiveurl=https://archive.today/20130119094303/http://articles.cnn.com/2001-09-16/us/inv.binladen.denial |url-status=dead |archivedate=January 19, 2013 |title=Bin Laden says he wasn't behind attacks |date=September 16, 2001 |accessdate=January 7, 2012}}</ref>。2001年9月20日、アメリカ大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]]は「[[対テロ戦争]]」を宣言すると共に、アフガニスタンのターリバーン政権に対し、ビン・ラーディンを含む全てのアルカーイダ指導者を引き渡すことを要求する最後通牒を突き付けた<ref name="ultimatum">{{cite news |title=The US refuses to negotiate with the Taliban |url=http://www.bbc.co.uk/history/events/the_us_refuses_to_negotiate_with_the_taliban |publisher=BBC History |accessdate=25 October 2019 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181203142713/http://www.bbc.co.uk/history/events/the_us_refuses_to_negotiate_with_the_taliban |archivedate=3 December 2018 |url-status=live |df=dmy-all }}</ref>。 |
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ターリバーン政権はビン・ラーディンらの引き渡しを拒否し、2001年10月7日、アメリカを中心とする有志連合諸国はアフガニスタンへの空爆を開始した<ref name="ultimatum"/>。2001年11月、[[ジャラーラーバード]]郊外のビン・ラーディンの隠れ家とされる場所がアメリカ軍による爆撃を受けた<ref>[https://www.jiji.com/jc/d4?p=obl502-jlp00972775&d=d4_mili ウサマ・ビンラディン容疑者 写真特集] 時事通信(2001年11月18日)2018年1月26日閲覧</ref>。その際にアメリカ軍が回収したビデオテープには、ビン・ラーディンとアルカーイダ構成員{{仮リンク|ハレド・アル=ハルビ|en|Khaled bin Ouda bin Mohammed al-Harbi}}との会話が記録されており、会話の中でビン・ラーディンは同時多発テロを事前に知っていたことを暗に認めていた<ref>{{Cite news |title=Bin Laden on tape: Attacks 'benefited Islam greatly' |publisher=CNN |date=December 14, 2001 |url=http://edition.cnn.com/2001/US/12/13/ret.bin.laden.videotape |accessdate=September 17, 2013 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131214150849/http://edition.cnn.com/2001/US/12/13/ret.bin.laden.videotape/ |archivedate=December 14, 2013 }}</ref>。11月末には有志連合の侵攻によって[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|ターリバーン政権が崩壊]]し、以降ビン・ラーディンの正確な足取りは不明となった。 |
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[[File:2001-12-13-frame-grab-DoD.jpg|thumb|アメリカ軍が2001年11月に回収したビデオテープの中で、アル=ハルビ(右)と会話するビン・ラーディン(左)]] |
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2001年年12月17日、ビン・ラーディンがザワーヒリーと共にアフガニスタン東部[[ナンガルハール州]]トラボラの渓谷にある洞穴に潜伏しているという情報からアメリカ・[[イギリス]]・[[ドイツ]]・[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]各軍が捕獲作戦(トラボラの戦い)を実施したが失敗した{{#tag:ref|このことは[[2009年]][[11月29日]]に[[アメリカ合衆国上院外交委員会|アメリカ上院外交委員会]]にて取り上げられ、現地指揮官からの増派要請を本国が拒否したのが捕獲失敗の原因と結論付けた<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20091130-OYT1T00995.htm|title=ビンラーディン取り逃がし、増援拒否が原因…米上院|work=YOMIURI ONLINE|publisher=[[読売新聞社]]|date=2009-11-30|accessdate=2009-11-30}}</ref>。|group="注"}}。その後はビン・ラーディンはターリバーン幹部らと共にパキスタンの[[北西辺境州]]の洞窟に潜伏していると考えられていた。 |
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2004年10月、ビン・ラーディンは新たなビデオ声明をアルジャジーラを通じて発表し、自らが同時多発テロ事件に関与したことを公に認めた<ref name="cbc-2004"/>。18分にわたるビデオ声明の中でビンラーディンは、自分が19人の実行犯にテロ攻撃を指示したことを認め<ref name="cbc-2004">{{Cite news |url=http://www.cbc.ca/world/story/2004/10/29/binladen_message041029.html |title=Bin Laden claims responsibility for 9/11 |publisher=CBC News |date=October 29, 2004 |accessdate=May 25, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061025044652/http://www.cbc.ca/world/story/2004/10/29/binladen_message041029.html |archivedate=October 25, 2006 }}</ref><ref>{{Cite news |title=Al-Jazeera: Bin Laden tape obtained in Pakistan |publisher=MSNBC |date=October 30, 2004 |url=http://www.msnbc.msn.com/id/6363306 |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121031043650/http://msnbc.msn.com/id/6363306/ |archivedate=October 31, 2012 }}—"In the tape, bin Laden—wearing traditional white robes, a turban and a tan cloak—reads from papers at a lectern against a plain brown background. Speaking quietly in an even voice, he tells the American people that he ordered the September 11 attacks because 'we are a free people' who wanted to 'regain the freedom' of their nation."</ref>、[[ワールドトレードセンター_(ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]]のツインタワーを標的としたのは1982年にイスラエルが[[レバノン内戦#イスラエル侵攻|レバノンを侵略]]した際に見た光景がきっかけであったと説明した<ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/3966817.stm |title=Excerpts: Bin Laden video |work=BBC News |date=October 29, 2004 |accessdate=May 28, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101006091233/http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/3966817.stm |archivedate=October 6, 2010 }}</ref>。 |
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2004年以降、ビン・ラーディンが[[腎臓学|腎臓病]]に苦しみ常に[[人工透析]]の電子機器が必要であると報道され、死亡説も浮上した。これは、[[フランス]]の地方紙などが伝えたもので、[[腸チフス]]で死亡したとの記事であった。しかし、フランスの[[ジャック・シラク|シラク]][[フランスの大統領|大統領]]が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。一説では[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に潜伏している{{#tag:ref|米国の[[AP通信]]は、アフガニスタンに潜伏しているオサマ・ビンラディン氏が管理している訓練キャンプで生化学武器実験が実施されたとの報道があったとし、北朝鮮関連説を提起した。AP通信は28日、「ビンラディン氏をアフガニスタン東部のクナル地域まで遂行したあるタリバーン保安関係者が、現地で北朝鮮人1人が訓練兵に化学武器訓練を行っているのを目撃した」と述べたと報道した。{{要出典|date=2010年12月}} |group="注"}}とされた。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯([[トライバルエリア]]・FATA)ではないかという見解を示した<ref>[http://abcnews.go.com/Blotter/Story?id=6248595&page=1 CIA Chief: Bin Laden Alive, Worried About 'Own Security' ABCNews]</ref>。 |
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[[2010年]][[10月18日]]、[[CNN]]は[[北大西洋条約機構]]当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンが、アフガニスタン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、パキスタン国内の家屋で「快適に」暮らしていると報じた。同当局者は「洞窟で暮らしているアルカーイダのメンバーは誰一人としていない」と述べた。ビン・ラーディンらは、パキスタン情報機関や地元[[住民]]に保護され、同国北西部の家屋に[[居住]]しており。付近には[[アイマン・ザワーヒリー]]も住んでいるとされた<ref>http://sankei.jp.msn.com/world/asia/101019/asi1010190005000-n1.htm 家屋で「快適な」生活 ビンラーディン容疑者</ref>。 |
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=== 発見と死 === |
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{{Main|ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害}} |
{{Main|ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害}} |
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2010年8月頃、配下の連絡係の行動分析からウサーマ・ビン・ラーディンの居所が突き止められた。 |
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2011年5月2日(米国現地時間[[5月1日]])、[[パキスタン]]において[[アメリカ海軍|米国海軍]][[特殊部隊]]・[[DEVGRU]]が行った軍事作戦によって銃撃戦になり、殺害された。 |
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==人物・家族== |
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FBIの手配書によれば、ウサーマ・ビン・ラーディンは背が高く痩せており、身長は193–198cm、体重は約73kgであり、肌はオリーブ色で瞳と髪の色はブラウン、左利きで歩く際には杖を使うとされていた<ref>{{cite web |url=https://www.fbi.gov/wanted/terrorists/terbinladen.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060310055924/http://www.fbi.gov/wanted/terrorists/terbinladen.htm|url-status=dead|archivedate=March 10, 2006 |title=Most Wanted Terrorist – Usama Bin Laden |publisher=FBI |accessdate=June 8, 2006}}</ref>。死亡後に身長の測定が行われ、ビン・ラーディンの身長は6フィート4インチ (193cm)と確認された<ref>{{cite web |url=https://nypost.com/2011/08/02/wanted-dead-not-alive/ |title=Wanted: dead – not alive! |author=Dan Mangan |work=New York Post |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170429000044/http://nypost.com/2011/08/02/wanted-dead-not-alive/ |archivedate=April 29, 2017 |date=August 2, 2011 |accessdate=October 20, 2019}}</ref>。 |
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ビン・ラーディンは1974年にシリアの[[ラタキア]]で最初の結婚をした<ref>{{cite news |url=http://articles.latimes.com/2001/nov/13/news/mn-3564 |title=Osama Kin Wait and Worry |author=Michael Slackman |date=November 13, 2001 |work=Los Angeles Times |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090926011904/http://articles.latimes.com/2001/nov/13/news/mn-3564 |archivedate=September 26, 2009 }}</ref>。その後1983年に2度目、1985年に3度目、1987年に4度目、2000年に5度目の結婚をしているほか、一部の情報源によれば挙式後に結婚が無効にされた6人目の妻も存在する<ref>{{cite news |url=http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/05/05/osama.many.wives |title=Bin Laden's wives – and daughter who would 'kill enemies of Islam' |publisher=CNN Edition: International |author1=Brian Todd |author2=Tim Lister |date=May 5, 2011 |accessdate=May 5, 2011 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110506085949/http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/05/05/osama.many.wives/ |archivedate=May 6, 2011 }}</ref>。ビン・ラーディンは妻たちとの間に20–26人の子供を儲けており<ref>{{cite news |url=http://transcripts.cnn.com/TRANSCRIPTS/0203/12/ltm.10.html |title=Osama's Women |publisher=CNN |date=March 12, 2002 |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110505084546/http://transcripts.cnn.com/TRANSCRIPTS/0203/12/ltm.10.html |archivedate=May 5, 2011 }}</ref><ref>{{cite news |url=http://terrorism.about.com/od/groupsleader1/p/OsamabinLaden.htm |title=Profile: Osama bin Laden |publisher=About.com |author=Amy Zalman |accessdate=May 26, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110707075153/http://terrorism.about.com/od/groupsleader1/p/OsamabinLaden.htm |archivedate=July 7, 2011 }}</ref>、その多くは2001年の9/11テロの後イランに逃亡した<ref>[https://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/middleeast/iran/7897555/Osama-bin-Ladens-family-stranded-in-Iran-son-says.html "Osama bin Laden's family 'stranded' in Iran, son says"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110312025042/http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/middleeast/iran/7897555/Osama-bin-Ladens-family-stranded-in-Iran-son-says.html |date=March 12, 2011}}, ''The Telegraph''. July 19, 2010.</ref>。1997–2001年にビン・ラーディンのボディガードを務めた人物によれば、ビン・ラーディンは倹約家で父親としては厳格であり、一方で家族を狩りやピクニックに連れて行くことを楽しみにしていたという<ref>Al-Bahri, Nasser, ''Guarding bin Laden: My Life in al-Qaeda''. pp. 150–160. Thin Man Press. London. {{ISBN|9780956247360}}</ref>。 |
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実父ムハンマドは1967年にサウジアラビアで飛行機事故に遭い死亡した(事故原因はアメリカ人パイロットによる着陸時の判断ミスだった)<ref>{{cite web |url=http://abcnews.go.com/US/story?id=4581571&page=1 |title=Blood Brothers: Could Osama Have Been Tamed? |publisher=ABC News |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160101093302/http://abcnews.go.com/US/story?id=4581571&page=1 |archivedate=January 1, 2016|accessdate=October 20, 2019}}</ref><ref>{{cite news |url=http://www.spiegel.de/international/world/0,1518,544921,00.html |title=Interview with US Author Steve Coll: 'Osama bin Laden is Planning Something for the US Election' |work=Der Spiegel |accessdate=January 26, 2011 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110213044611/http://www.spiegel.de/international/world/0,1518,544921,00.html |archivedate=February 13, 2011 |date=April 2, 2008 }}</ref>。ムハンマドの死後、長兄である{{仮リンク|サーレム・ビン・ラーディン|en|Salem bin Laden}}が後継者として一族の長になったが、サーレムは1988年、テキサス州[[サンアントニオ]]近郊で自ら飛行機を操縦中、誤って送電線に突っ込む事故を起こして死亡した<ref>{{cite web |url=http://www.woai.com/content/news/newslinks/story/Best-of-the-Web-Osamas-Brother-Died-in-San/fQByftuKL0WrEDALXrJ7EA.cspx|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120113114003/http://www.woai.com/content/news/newslinks/story/Best-of-the-Web-Osamas-Brother-Died-in-San/fQByftuKL0WrEDALXrJ7EA.cspx|url-status=dead|archivedate=January 13, 2012 |title=Best of the Web: Osama's Brother Died in San Antonio, Red Velvet Onion Rings-WOAI: San Antonio News |date=January 13, 2012 |accessdate=October 20, 2019}}</ref>。 |
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父のムハンマド・ビン・ラーディンは元[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ジョージ・H・W・ブッシュ]]とともに[[カーライル・グループ|カーライル投資グループ]]の大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの長兄のサーレムは前アメリカ大統領[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・W・ブッシュ]]がかつて経営していた石油会社の共同経営者であった。無論、これらはウサーマが[[反米]]に立場を転じてテロリストとなる前の話であり、また、彼ら親族はウサーマのようなテロリストではなくそのような組織との直接的関係もない。ウサーマの息子は父に対しテロ行為をやめるようメッセージを発していた。しかし、それはジェスチャーに過ぎないとの説がある<ref>[[ベンジャミン・フルフォード]]『ステルス・ウォー』 [[講談社]] [[2010年]]3月 ISBN 9784062161244, Page141</ref>。 |
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2009年7月、アメリカのラジオ局「[[ナショナル・パブリック・ラジオ]]」が、CIA当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンの息子の1人であるサアドが、パキスタン領内で米軍の[[無人航空機|無人偵察機]]による爆撃で死亡した可能性があると報じた<ref>http://news.smh.com.au/breaking-news-world/us-strike-may-have-killed-bin-ladens-son-report-20090723-du9v.html</ref>。しかし同年12月、サウジアラビア[[資本]]でイギリスの首都[[ロンドン]]で発行される新聞「[[アッシャルクル・アウサト|アッ=シャルク・アル=アウサト]]」は、ウサーマの別の息子であるウマル・ビン・ラーディンの話として<ref>[http://www.ibtimes.com/articles/20091223/bin-ladens-wife-and-six-children-under-house-arrest-iran-report.htm bin ladens wife and six children under house arrest iran]</ref>、死亡説がささやかれているサアドは親族らとともにイランにいたと伝えた。これによると、サアドは、兄弟姉妹であるムハンマド、ウスマーン、ハムザ、ファーティマ、イーマーン、そしてビン・ラーディンの妻の一人であるハイリーヤ、叔父にあたるバクルを含む25人の親類と共に[[イラン]]国内で治安当局の監視下で自宅軟禁に置かれていたということを、ウスマーンが[[電話]]でウマルに話したという。ただしウマルによればサアドは一ヶ月前に[[逃亡]]し、その後はイラン国内にはいないという。ビン・ラーディンの家族はそれまで、2001年のアフガン空爆後は隣国イランに逃亡したと見られていた。 |
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2017年1月5日、息子の一人[[ハムザ・ビン・ラーディン|ハムザ・ビンラディン]]を国際テロリストに指定したとアメリカ政府は発表した<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3113248?cx_tag=pc_rankday&cx_position=1#cxrecs_s 米、ビンラディン容疑者の息子を国際テロリストに指定]AFP通信(2017年1月6日)2017年1月7日閲覧</ref>。 |
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2019年9月14日、アメリカの[[ドナルド・トランプ|トランプ]]大統領が、米軍の対テロ作戦によりハムザを殺害したと発表した<ref>[https://www.cnn.co.jp/usa/35142692.html ビンラディン容疑者の息子を殺害、トランプ大統領が発表] CNN 2019年9月15日</ref>。 |
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== 活動の年譜 == |
== 活動の年譜 == |
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* 2007年1月31日、米[[CNN]]は[[アラブ首長国連邦]]の[[ドバイ]]にて、ウサーマの義理の兄弟が[[マダガスカル]]で武装グループの襲撃を受け射殺されたことを明らかにした。被害者の兄弟がUAEの衛星テレビ[[アル・アラビーヤ]]に語った。 |
* 2007年1月31日、米[[CNN]]は[[アラブ首長国連邦]]の[[ドバイ]]にて、ウサーマの義理の兄弟が[[マダガスカル]]で武装グループの襲撃を受け射殺されたことを明らかにした。被害者の兄弟がUAEの衛星テレビ[[アル・アラビーヤ]]に語った。 |
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* 2011年[[5月2日]]、[[パキスタン]]のアボッターバードで米軍によって射殺される。 |
* 2011年[[5月2日]]、[[パキスタン]]のアボッターバードで米軍によって射殺される。 |
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== ウサーマ・ビン・ラーディンと911テロ == |
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アメリカ政府はかねてからのFBIの情報収集活動などにより、早くからイスラム系国際テロ組織[[アルカーイダ]]とそのリーダーであるウサーマが9/11テロ実行犯と断定していたが、ウサーマは当初事件への関与を否定していた。 |
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ところが[[2001年]]11月、アフガニスタンの[[ジャラーラーバード]]で[[ターリバーン]]掃討作戦を行っていたアメリカ兵が破壊された民家から一本のビデオテープを発見、その中でウサーマが同志にこの事件については事前に知っていたと語るシーンがあったことから大騒ぎになった。ウサーマ本人がビデオテープによりアルカーイダによる911テロの[[犯行声明]]を公に発表したのは、それから3年後の2004年11月のことである。 |
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== 家族 == |
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2009年7月、アメリカのラジオ局「[[ナショナル・パブリック・ラジオ]]」が、CIA当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンの息子の1人であるサアドが、パキスタン領内で米軍の[[無人航空機|無人偵察機]]による爆撃で死亡した可能性があると報じた<ref>http://news.smh.com.au/breaking-news-world/us-strike-may-have-killed-bin-ladens-son-report-20090723-du9v.html</ref>。しかし同年12月、サウジアラビア[[資本]]でイギリスの首都[[ロンドン]]で発行される新聞「[[アッシャルクル・アウサト|アッ=シャルク・アル=アウサト]]」は、ウサーマの別の息子であるウマル・ビン・ラーディンの話として<ref>[http://www.ibtimes.com/articles/20091223/bin-ladens-wife-and-six-children-under-house-arrest-iran-report.htm bin ladens wife and six children under house arrest iran]</ref>、死亡説がささやかれているサアドは親族らとともにイランにいたと伝えた。これによると、サアドは、兄弟姉妹であるムハンマド、ウスマーン、ハムザ、ファーティマ、イーマーン、そしてビン・ラーディンの妻の一人であるハイリーヤ、叔父にあたるバクルを含む25人の親類と共に[[イラン]]国内で治安当局の監視下で自宅軟禁に置かれていたということを、ウスマーンが[[電話]]でウマルに話したという。ただしウマルによればサアドは一ヶ月前に[[逃亡]]し、その後はイラン国内にはいないという。ビン・ラーディンの家族はそれまで、2001年のアフガン空爆後は隣国イランに逃亡したと見られていた。 |
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2017年1月5日、息子の一人[[ハムザ・ビン・ラーディン|ハムザ・ビンラディン]]を国際テロリストに指定したとアメリカ政府は発表した<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3113248?cx_tag=pc_rankday&cx_position=1#cxrecs_s 米、ビンラディン容疑者の息子を国際テロリストに指定]AFP通信(2017年1月6日)2017年1月7日閲覧</ref>。 |
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== 肉声録音への疑い == |
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1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のある[https://mujca.com/ MUJCA-Net]の主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett) の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン・ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、[[スイス]]にある[https://www.idiap.ch/en IDIAP研究所]が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、テープ自体は頻繁に出されている。 |
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== トリビア == |
== トリビア == |
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* 彼は左利きである。 |
* 彼は左利きである。 |
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* ウサーマと言う名は、シリアの伝説的な詩人の名から付けられたもの。 |
* ウサーマと言う名は、シリアの伝説的な詩人の名から付けられたものである。 |
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* ウサーマの兄サーリム・ビンラーディンは[[アメリカ合衆国]][[テキサス州]]において小型飛行機事故で死亡している。 |
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* [[2006年]]・[[インド]]東部の村を荒らしまわった象は'''ビン・ラーディン'''と名付けられた。 |
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* [[2009年]][[2月]]・[[オーストラリア]]・ハミルトン島の観光ガイドの[[アルバイト]]に、ビン・ラーディンを名乗る、応募のビデオテープが送られてきた。内容は、何者かがビン・ラーディンを騙った、ただの[[ブラックジョーク]]だった。 |
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* 愛銃は[[AK-74|AKS-74U]]ライフルであり、彼がメディアに登場する際は大抵立てかけられた状態で写っている。また、その影響から同ライフルは「ビン・ラディンモデル」と呼ばれている。 |
* 愛銃は[[AK-74|AKS-74U]]ライフルであり、彼がメディアに登場する際は大抵立てかけられた状態で写っている。また、その影響から同ライフルは「ビン・ラディンモデル」と呼ばれている。 |
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* [[カシオ]]製[[デジタル時計|デジタル腕時計]]の[[Casio F91W|F-91W]]は、アルカーイダが[[時限爆弾]]のタイマーとして使用した例がある、F-91Wを着用したビン・ラーディンの写真が存在する等の理由から、「ビンラディンモデル」と呼ばれることがある。 |
* [[カシオ]]製[[デジタル時計|デジタル腕時計]]の[[Casio F91W|F-91W]]は、アルカーイダが[[時限爆弾]]のタイマーとして使用した例がある、F-91Wを着用したビン・ラーディンの写真が存在する等の理由から、「ビンラディンモデル」と呼ばれることがある。 |
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* 1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のある[https://mujca.com/ MUJCA-Net]の主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett) の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン・ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、[[スイス]]にある[https://www.idiap.ch/en IDIAP研究所]が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、テープ自体は頻繁に出されている。 |
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== 脚注 == |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[イスラーム過激派]] |
* [[イスラーム過激派]] |
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* [[国際指名手配]] |
* [[国際指名手配]] |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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===参考文献=== |
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* {{Cite book |ref={{harvid|保坂|2011}} |和書 |author=保坂修司 |year=2011 |title=新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦 |publisher=朝日新聞出版 |isbn=978-4022599803}} |
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* {{Cite book |last=Bergen |first=Peter |authorlink=Peter Bergen |year=2006 |title=The Osama Bin Laden I Know: An Oral History of Al Qaeda's Leader |url=https://books.google.com/?id=_XkM92XMlQ4C&printsec=frontcover&dq=Osama+bin+Laden#v=onepage&q&f=false |publisher=Simon & Schuster |isbn=0-7432-9592-7 |ref=harv}} |
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* {{Cite journal |last=Bergen |first=Peter |year=2008 |title=Al Qaeda, the Organization: A Five-Year Forecast |journal=[[Annals of the American Academy of Political and Social Science]] |volume=618 |pages=14–30 |jstor=40375772 |ref=harv|doi=10.1177/0002716208317599 }} |
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* {{cite book |ref=harv |last=Gutman |first=Roy |title=How We Missed the Story: Osama Bin Laden, the Taliban, and the Hijacking of Afghanistan |url=https://books.google.com/books?id=A9eqvc-Ru3cC&pg=PP1 |year=2008 |publisher=US Institute of Peace Press |isbn=978-1-60127-024-5}} |
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* {{Cite book |last=Wright |first=Lawrence |year=2006 |title=The Looming Tower: Al-Qaeda And The Road To 9/11 |url=https://books.google.com/?id=RNkj-mO-Nt8C&printsec=frontcover&dq=The+Looming+Tower:+Al-Qaeda+And+The+Road+To+9/11#v=onepage&q&f=false |publisher=New York: Knopf |isbn=1-4000-3084-6 |ref=harv}} |
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{{Refend}} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2019年11月1日 (金) 15:39時点における版
ウサーマ・ビン・ラーディン أسامة بن لادن | |
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1997年頃のウサーマ・ビン・ラーディン | |
アルカーイダの初代アミール(司令官) | |
任期 1988年 – 2011年5月2日 | |
前任者 | 無し(初代) |
後任者 | アイマン・ザワーヒリー |
マクタブ・アル=ヒダマトの創立者 | |
任期 1984年 – 1988年 | |
前任者 | 無し(初代) |
後任者 | 廃止(1代限り) |
個人情報 | |
生誕 | ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディン 1957年3月10日 サウジアラビア・リヤド |
死没 | 2011年5月2日(54歳没) パキスタン・アボッターバード |
死因 | アメリカ軍による射殺 |
国籍 | サウジアラビア(1957年 - 1994年) 無国籍(1994年 - 2011年)[1] |
身長 | 1.93–1.98 m[6] |
配偶者 | Najwa Ghanhem Khadijah Sharif Khairiah Sabar Siham Sabar Amal Ahmed al-Sadah |
子供 | 20 - 26人 |
宗教 | イスラム教(ワッハーブ派 / サラフィー主義)[2][3][4][5] |
兵役経験 | |
所属国 | マクタブ・アル=ヒダマト(1984年 - 1988年)< アルカーイダ(1988年 - 2011年) |
軍歴 | 1984年 – 2011年5月2日 |
最終階級 | アルカーイダのアミール |
戦闘 | アフガニスタン紛争 |
ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディン(أسامة بن محمد بن عوض بن لادن、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin, 1957年3月10日 - 2011年5月2日)は、サウジアラビア出身のイスラム過激派テロリスト。1988年に国際テロ組織「アルカーイダ」を設立してその初代アミール(司令官)となり、以降アメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件を首謀したことで知られる。連邦捜査局(FBI)における最重要指名手配者の1人であった。サウジアラビア有数の富豪の一族に生まれたが、1994年にサウジアラビア国籍を剥奪され、以降は無国籍であった。2011年5月、パキスタンにおいてアメリカ海軍対テロ特殊部隊が行った軍事作戦によって殺害された。
名前と表記
日本語では、ウサマ・ビン・ラーデン(外務省)[7]、オサマ・ビンラディン (NHK、テレビ朝日など)、ウサマ・ビンラディン (日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ東京など)、ウサマ・ビンラーディン(読売新聞など)などとも表記される[8]。
フルネームは「ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディン」であり、「ラーディンの息子アワドの息子ムハンマドの息子ウサーマ」を意味する。「ムハンマド」は父であるムハンマド・ビン・ラーディンを、「アワド」は祖父であるアワド・ビン・アブード・ビン・ラーディンを示しているが、「ラーディン」は曽祖父の名ではなく、曽祖父アブードの父であるラーディン・アリー・アル=カフタニ (Laden Ali al-Qahtani)を示すものである[9]。
「ビン・ラーディン」は姓に相当するものではなく、一種の父称であることから、アラビア語圏の慣習では単に「ビン・ラーディン」と呼ぶことはなく、「ウサーマ」または「ウサーマ・ビン・ラーディン」と呼称される。ウサーマの息子ウマル・ビン・ラーディンによれば、一族に受け継がれる姓は「アル=カフタニ (アラビア語: القحطاني, āl-Qaḥṭānī)」であるが、ウサーマの父ムハンマドが正式にこの姓を使用することはなかった[10]。
経歴
出自
ウサーマ・ビン・ラーディンの父のムハンマド・ビン・ラーディンは、イエメンのハドラマウト地方の貧困家庭の出身で、第一次世界大戦前に家族と共に、イエメンからサウジアラビアのジッダに移住し、1930年に荷夫から身を興し、ジッダで建設業を起業した。ファイサル国王の目にとまり王室御用達の建設業者となり事業は急成長を遂げ財閥「サウディ・ビンラディン・グループ」を柱とするビン・ラーディン一族を形成した[注 1]。一族の巨額な財産分与が様々な方面に流出した結果、そのいくつかがイスラム教原理主義テロ組織の資金源になっているとされる。
ムハンマド・ビン・ラーディンは22回の結婚をし54人の子供を儲けることになったが、妻子の大半は40代を過ぎて事業が拡大してからの子供たちである。また、最初の妻以外は短期間で離婚している。ウサーマ・ビン・ラーディンはムハンマドの17番目の子であった。ビン・ラーディン一族は50億ドル以上の資本を所有しており、その内、2億5000万ドル以上がウサーマに分配されていた[11][注 2]。
出生から青年期まで
ウサーマ・ビン・ラーディンは、サウジアラビアのリヤドで、建設業で財を成したイエメン出身の父ムハンマド・ビン・ラーディンと、その10番目の妻でシリア出身の母アリア・ガーネム(後のハミーダ・アル=アッタス)の間に生まれた[12][13]。生年月日は、ビン・ラーディン本人が1998年のインタビューの中で1957年3月10日であると語っている[13][14]。
父ムハンマドはビン・ラーディンが生まれた直後にガーネムと離婚し、彼女はその後ムハンマド・アル=アッタスと再婚して別の4人の子を儲けたため、幼少期のビン・ラーディンは実父と離れて3人の異父弟・1人の異父妹と共に生活することになった[13]。ビン・ラーディンは敬虔なスンナ派ムスリムとして育てられ[15]、1968年から1976年にかけてはジッダの世俗的なエリート校で教育を受けた[13][16]。その後、ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学に進学して経済学と経営学を学んだ[17]。ビン・ラーディンが1979年に土木工学の学位を取得したという報告や[18]、1981年に行政学の学位を取得したという報告が存在する一方で[19]、学位を取得する前に大学をやめたとする報告も存在する[20]。
大学時代、ビン・ラーディンの関心は宗教に向かい、「クルアーンおよびジハードの解釈」と慈善活動に精力的に参加したほか[21]、詩作にも興味を示し[22]、バーナード・モントゴメリーやシャルル・ドゴールの著作を好んで読んだと言われている[23]。思想の面では、ムスリム同胞団に加入し、サイイド・クトゥブの思想に引き付けられた。さらに大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった(のちにビン・ラーディンは、自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている)。ビン・ラーディンは厳格なサラフィー主義から、音楽や映画などに対して不寛容であった。その一方で、競走馬に大きな関心を寄せていたほか、サッカーを好んでプレーし、英国のクラブであるアーセナルFCのファンでもあった[23]。
アフガニスタン紛争への参加(1979–1989年)
ソビエト連邦がアフガニスタンに進攻した1979年、ビン・ラーディンはサウジアラビアを離れてパキスタンやアフガニスタンを初めて訪れ、ソ連軍に抵抗するムジャーヒディーンを支援するための活動を始めた[24]。のちにビン・ラーディンは当時の心境を回想し、「アフガニスタンの人々に対する不公正な行いに憤慨を覚えた」と語っている[25]。
1979年から1984年までの期間、ビン・ラーディンの支援活動は募金が中心であり、サウジアラビアなどの湾岸諸国を活動拠点としてアフガニスタンのムジャーヒディーンに資金や建設機械を提供していた[26]。ビン・ラーディンはその後、パキスタンのペシャーワルで活動していた大学時代の恩師アブドゥッラー・アッザームと合流した。1984年までにアッザームと共に「マクタブ・アル=ヒダマト(MAK)」を組織して、外国からムジャーヒディーンの新兵をリクルートしてアフガニスタンに送り出す活動を始めた[27][28]。1984年には自ら「ベイトゥルアンサール(支援者たちの館)」という施設をペシャワールに建設し、以降1986年までパキスタンを拠点として活動した[26]。ビン・ラーディンがアイマン・ザワーヒリーやアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー、オマル・アブドッラフマーンなどと関係を構築したのもこの時期であった。
1986年以降、ビン・ラーディンは活動の拠点をアフガニスタン国内に移した[26]。1986年から1987年にかけ、ビン・ラーディンはアフガニスタン東部の村ジャジ (Jaji)近郊に自らの基地を建設し、数十人のアラブ人ムジャーヒディーンを指揮下に置いた[29]。この基地を拠点として、ビン・ラーディンとその軍団はソ連軍と交戦し、ビン・ラーディン自身も一兵士として戦闘に参加した。特に、1987年のジャジの戦いではソ連軍に勝利し、(実際には戦局に影響しない小規模な勝利だったが)アラブ系の主要メディアではこの戦果が華々しく報道され、ビン・ラーディンの知名度は高まった[29]。ビン・ラーディンがアラブ世界の一部で英雄視されるようになったのもこの時期であった[30]。
1979年から1989年にかけ、アメリカとサウジアラビアはパキスタンの軍統合情報局 (ISI)を通じ、アフガニスタンで戦うムジャーヒディーンへ400億ドル相当の援助を行った(サイクロン作戦)[31]。ジャーナリストのジェイソン・バークによれば、ビン・ラーディンが設立したMAKもアメリカから提供された資金を受け取っていた[32]。ビン・ラーディンはまた、ISI長官のハーミド・グル中将と知り合い、関係を深めていた。アメリカはムジャーヒディーンに資金と武器を提供したが、実際の軍事訓練はISIとパキスタン陸軍が全面的に担当していた[33]。
アルカーイダの結成
1988年、ビン・ラーディンはMAKから独立した新組織「アルカーイダ」を立ち上げた。ローレンス・ライトの調査によれば、アルカーイダは1988年8月11日に、ビン・ラーディン、アッザーム、およびジハード団の幹部数名による合意によって結成され、その目的はビン・ラーディンの資金とジハード団の専門知識を組み合わせることで、ソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も世界の別の地域でジハードを継続することにあった[34]。
1989年2月にソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了した後、ビン・ラーディンはサウジアラビアに帰国した[35]。サウジアラビアでビン・ラーディンとその軍団は、ソ連という「強大な超大国」を倒した英雄として扱われた[36][27]。帰国した後のビンラーディンは一族の建設会社(サウディ・ビンラディン・グループ)を手伝ったが、一方でサウジアラビアの体制に反抗する姿勢を示したため、当局から警戒された[35][27]。
湾岸戦争と米軍駐留・サウジアラビアからの追放(1990–2000年)
1990年8月2日、サッダーム・フセインのイラク軍がクウェートに侵攻し、サウジアラビアとの国境に到達した。サウジアラビアがイラクからの脅威に直面する中、ビン=ラーディンはファハド国王およびスルターン国防相と会談を行い、国内に異教徒のアメリカ軍を駐留させる代わりに、自らのムジャーヒディーン軍団によってサウジアラビアを防衛する計画を提案した[37]。しかし、サウジアラビア王家はビン・ラーディンによる提案を拒絶し、最終的にはアメリカ軍のサウジアラビア駐留を認めた[38]。1990年8月7日、アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュはアメリカ軍のサウジアラビア派遣を発表し、同軍は8月8日からサウジアラビアへの展開を開始した[39]。
ビン・ラーディンは、非イスラム教徒がアラビア半島に常駐することは預言者ムハンマドによって禁じられていると解釈しており[40]、メッカ・マディーナという2つの聖地を抱えるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍が進出したことに憤慨した[41]。それと同時に、駐留を許したサウジアラビア王家(サウード家)を「背教者」として糾弾した[40]。湾岸戦争が引き金となったアメリカ軍のサウジアラビア駐留は、ビン・ラーディンを急速に反米活動に傾倒させていった。
1991年、サウジアラビア王家はアメリカ軍との同盟関係への批判を繰り返すビン・ラーディンを国外追放に処した[35][41]。サウジアラビアを追われたビンラーディンとその一派は、当初はアフガニスタンで亡命生活を送ったが、1992年までにスーダンに移動した[35][41]。アフガニスタンに滞在中の1992年3月から4月にかけ、ビン・ラーディンは激化するアフガニスタン内戦の仲裁を試み、グルブッディーン・ヘクマティヤールに対して他のムジャーヒディーン指導者と協力するよう呼びかけていた[42]。
スーダン時代・アフガニスタンへの帰還
スーダンに渡ったビン・ラーディンは同国の政権を担う民族イスラーム戦線と同盟関係を築くとともに、アルカーイダを国際的なテロ組織へと発展させた[41][14]。 1992年12月29日、イエメンのアデンでアメリカ軍が滞在するホテルが爆破され、2人のオーストリア人旅行者が死亡した[35]。これがビン・ラーディンが関与した最初のテロ事件とされている[35]。1993年2月26日、ビン・ラーディンとの関係が疑われるテロリストによってニューヨークで世界貿易センター爆破事件が引き起こされ、6人が死亡した[41]。1993年、アメリカ政府はスーダンをテロ支援国家に指定した[35]。1994年、サウジアラビア政府はビン・ラーディンの国籍を剥奪し、サウジアラビア国内に残された彼の財産を全て凍結した[41]。同年には、ビン・ラーディンの一族も彼との関係を断絶した(それまでウサーマは一族の財産から毎年1億ドル余りを受け取っていた)[14][41]。
1996年5月、スーダン政府はアメリカおよびサウジアラビアからの圧力に屈し、ビン・ラーディンを国外に追放することを決定した[35]。ビン・ラーディンは亡命先としてアフガニスタンのジャラーラーバードを選び、5月18日にチャーター機でスーダンを離れた[43]。アフガニスタンに帰還したビン・ラーディンとアルカーイダはターリバーン政権の庇護を受け、ビン・ラーディンはターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築いた[41][44]。
1996年8月、ビン・ラーディンは最初の「ファトワー(布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対して「ジハード(聖戦)」を宣言した[45]。このファトワーでビン・ラーディンは、異教徒のアメリカ軍をアラビア半島から駆逐し、占領されている2つの聖地(メッカとマディーナ)を解放するよう全世界のムスリムに呼びかけた[41]。1997年5月、ジハード団の指導者であったアイマン・ザワーヒリーがアフガニスタンのビン・ラーディンに合流し、アメリカに対するジハードを共に提唱するようになった[46]。
1998年2月、ビン・ラーディンとザワーヒリーは「ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成した上で新たな「ファトワー」を発し、世界各地でアメリカとその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「占領されているアル=アクサー・モスク(エルサレム)と聖なるモスク(メッカ)を解放」するために、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言した[47][48]。
1998年8月7日、アルカーイダのテロリストがタンザニアのダルエスサラームとケニアのナイロビのアメリカ大使館をほぼ同時刻に爆破し、12人のアメリカ人を含む224人を殺害した[49]。テロ事件が発生した1998年8月7日は、アメリカ軍のサウジアラビア派遣からちょうど8年後であった[50]。1998年8月20日、テロへの報復として、アメリカ大統領ビル・クリントンはアフガニスタンとスーダンのアルカーイダ関連施設への攻撃を命じ、トマホーク巡航ミサイルによる爆撃が実施された[51]。1999年6月、FBIはビン・ラーディンを大使館爆破事件の容疑者として最重要指名手配犯に指定した[51]。アメリカ政府はターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアルカーイダの引き渡しを求めたが、ターリバーンは応じなかったため、1999年10月には国際連合安全保障理事会において引き渡しを求める国際連合安全保障理事会決議1267が採択された[52]。ターリバーン政権はこれにも応じず、アフガニスタンに対する経済制裁が発動された。
2000年10月、イエメンでアルカーイダのテロリストがアメリカ海軍の駆逐艦「コール」に自爆攻撃を仕掛け、17人の水兵を殺害した[51]。2000年12月、国際連合安全保障理事会決議1333が採択され、ターリバーン政権に対し再度ビン・ラーディンの引き渡しが求められた[53]。
アメリカ同時多発テロ事件以後(2001–2011年)
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件直後から、ビン・ラーディンには首謀者の嫌疑がかけられた[54]。2001年9月16日、ビン・ラーディンは衛星テレビ局アルジャジーラを通じて声明を発表し、事件への関与を否定した[55]。ビン・ラーディンはこの声明の中で、「私は攻撃の実行者ではないと強調しておく。今回の事件は別の個人によって、彼自身の動機によって実行されたように見える」などと述べた[56]。2001年9月20日、アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュは「対テロ戦争」を宣言すると共に、アフガニスタンのターリバーン政権に対し、ビン・ラーディンを含む全てのアルカーイダ指導者を引き渡すことを要求する最後通牒を突き付けた[54]。
ターリバーン政権はビン・ラーディンらの引き渡しを拒否し、2001年10月7日、アメリカを中心とする有志連合諸国はアフガニスタンへの空爆を開始した[54]。2001年11月、ジャラーラーバード郊外のビン・ラーディンの隠れ家とされる場所がアメリカ軍による爆撃を受けた[57]。その際にアメリカ軍が回収したビデオテープには、ビン・ラーディンとアルカーイダ構成員ハレド・アル=ハルビとの会話が記録されており、会話の中でビン・ラーディンは同時多発テロを事前に知っていたことを暗に認めていた[58]。11月末には有志連合の侵攻によってターリバーン政権が崩壊し、以降ビン・ラーディンの正確な足取りは不明となった。
2001年年12月17日、ビン・ラーディンがザワーヒリーと共にアフガニスタン東部ナンガルハール州トラボラの渓谷にある洞穴に潜伏しているという情報からアメリカ・イギリス・ドイツ・北部同盟各軍が捕獲作戦(トラボラの戦い)を実施したが失敗した[注 3]。その後はビン・ラーディンはターリバーン幹部らと共にパキスタンの北西辺境州の洞窟に潜伏していると考えられていた。
2004年10月、ビン・ラーディンは新たなビデオ声明をアルジャジーラを通じて発表し、自らが同時多発テロ事件に関与したことを公に認めた[60]。18分にわたるビデオ声明の中でビンラーディンは、自分が19人の実行犯にテロ攻撃を指示したことを認め[60][61]、ワールドトレードセンターのツインタワーを標的としたのは1982年にイスラエルがレバノンを侵略した際に見た光景がきっかけであったと説明した[62]。
2004年以降、ビン・ラーディンが腎臓病に苦しみ常に人工透析の電子機器が必要であると報道され、死亡説も浮上した。これは、フランスの地方紙などが伝えたもので、腸チフスで死亡したとの記事であった。しかし、フランスのシラク大統領が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。一説では北朝鮮に潜伏している[注 4]とされた。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯(トライバルエリア・FATA)ではないかという見解を示した[63]。
2010年10月18日、CNNは北大西洋条約機構当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンが、アフガニスタン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、パキスタン国内の家屋で「快適に」暮らしていると報じた。同当局者は「洞窟で暮らしているアルカーイダのメンバーは誰一人としていない」と述べた。ビン・ラーディンらは、パキスタン情報機関や地元住民に保護され、同国北西部の家屋に居住しており。付近にはアイマン・ザワーヒリーも住んでいるとされた[64]。
発見と死
2010年8月頃、配下の連絡係の行動分析からウサーマ・ビン・ラーディンの居所が突き止められた。
2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、パキスタンにおいて米国海軍特殊部隊・DEVGRUが行った軍事作戦によって銃撃戦になり、殺害された。
人物・家族
FBIの手配書によれば、ウサーマ・ビン・ラーディンは背が高く痩せており、身長は193–198cm、体重は約73kgであり、肌はオリーブ色で瞳と髪の色はブラウン、左利きで歩く際には杖を使うとされていた[65]。死亡後に身長の測定が行われ、ビン・ラーディンの身長は6フィート4インチ (193cm)と確認された[66]。
ビン・ラーディンは1974年にシリアのラタキアで最初の結婚をした[67]。その後1983年に2度目、1985年に3度目、1987年に4度目、2000年に5度目の結婚をしているほか、一部の情報源によれば挙式後に結婚が無効にされた6人目の妻も存在する[68]。ビン・ラーディンは妻たちとの間に20–26人の子供を儲けており[69][70]、その多くは2001年の9/11テロの後イランに逃亡した[71]。1997–2001年にビン・ラーディンのボディガードを務めた人物によれば、ビン・ラーディンは倹約家で父親としては厳格であり、一方で家族を狩りやピクニックに連れて行くことを楽しみにしていたという[72]。
実父ムハンマドは1967年にサウジアラビアで飛行機事故に遭い死亡した(事故原因はアメリカ人パイロットによる着陸時の判断ミスだった)[73][74]。ムハンマドの死後、長兄であるサーレム・ビン・ラーディンが後継者として一族の長になったが、サーレムは1988年、テキサス州サンアントニオ近郊で自ら飛行機を操縦中、誤って送電線に突っ込む事故を起こして死亡した[75]。
父のムハンマド・ビン・ラーディンは元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資グループの大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの長兄のサーレムは前アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュがかつて経営していた石油会社の共同経営者であった。無論、これらはウサーマが反米に立場を転じてテロリストとなる前の話であり、また、彼ら親族はウサーマのようなテロリストではなくそのような組織との直接的関係もない。ウサーマの息子は父に対しテロ行為をやめるようメッセージを発していた。しかし、それはジェスチャーに過ぎないとの説がある[76]。
2009年7月、アメリカのラジオ局「ナショナル・パブリック・ラジオ」が、CIA当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンの息子の1人であるサアドが、パキスタン領内で米軍の無人偵察機による爆撃で死亡した可能性があると報じた[77]。しかし同年12月、サウジアラビア資本でイギリスの首都ロンドンで発行される新聞「アッ=シャルク・アル=アウサト」は、ウサーマの別の息子であるウマル・ビン・ラーディンの話として[78]、死亡説がささやかれているサアドは親族らとともにイランにいたと伝えた。これによると、サアドは、兄弟姉妹であるムハンマド、ウスマーン、ハムザ、ファーティマ、イーマーン、そしてビン・ラーディンの妻の一人であるハイリーヤ、叔父にあたるバクルを含む25人の親類と共にイラン国内で治安当局の監視下で自宅軟禁に置かれていたということを、ウスマーンが電話でウマルに話したという。ただしウマルによればサアドは一ヶ月前に逃亡し、その後はイラン国内にはいないという。ビン・ラーディンの家族はそれまで、2001年のアフガン空爆後は隣国イランに逃亡したと見られていた。
2017年1月5日、息子の一人ハムザ・ビンラディンを国際テロリストに指定したとアメリカ政府は発表した[79]。
2019年9月14日、アメリカのトランプ大統領が、米軍の対テロ作戦によりハムザを殺害したと発表した[80]。
活動の年譜
- 1979年、アフガニスタンのソビエト軍と戦うためにアブドゥッラー・アッザームの呼びかけに応じパキスタン入りし、ムジャーヒディーンの1人となる。
- 1988年、マクタブ・アル=ヒダマトが分裂。ペシャーワルでアルカーイダを組織。
- 1990年、アフガニスタンの英雄としてサウジアラビアに帰国。
- 1991年、湾岸戦争で、異教徒のアメリカ軍の介入や聖地メッカのあるサウジアラビアへのアメリカ軍駐留に反発し、スルターン・ビン・アブドゥルアズィーズ・アル=サウード王子に交渉するも拒否され、反サウード家を鮮明にする。
- 1992年、サウジアラビア国籍剥奪。国外追放され、スーダンに身を寄せる。スーダンで建築事業を営みインフラ整備に携わる。アルカーイダの組織はこの時期この地で大幅に拡大され、国際的なネットワークが繋がり、「イスラムの教えに反する者全てに聖なる戦いを仕掛けよ」と呼びかけた。
- 1996年、アフガニスタンに移動しイスラム原理主義勢力ターリバーンに客人として扱われる。豊富な資金力でアルカーイダの基地を作り、テロ訓練を行う。
- 1998年、ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線結成。「アメリカと同盟国の国民を殺害せよ」というファトワをアイマン・ザワーヒリーと連名で出す。アメリカ大使館爆破事件。スーダンの化学工場とアフガニスタンの訓練キャンプがアメリカ軍のミサイル攻撃を受ける。
- 1999年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1267でビン・ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを要求。ターリバーンは拒否。
- 2000年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1333でビン・ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを要求。ターリバーンは拒否。
- 2001年秋、アル・カーイダのメンバーであるモハメド・アタ他数名による9.11アメリカ同時多発テロ事件発生。ブッシュ政権にアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、ターリバーンに身柄の引渡し要求がつきつけられたが、ターリバーンはこれを拒否した。
- ターリバーン政権崩壊後は消息不明だが、アフガニスタンとパキスタンの国境山岳地帯に潜伏していると推定されており、パキスタン軍の掃討作戦に包囲されているとの情報も流れた。
- 2002年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1390でビン・ラーディンとアル・カーイダ関係者およびターリバーン幹部の資産凍結を決定。
- 2004年2月28日、イラン・イスラム共和国放送のパシュトゥーン人向けラジオ放送が、パキスタン国境付近でパキスタン軍が"だいぶ前に"ビン・ラーディンを拘束したとのニュースを伝えたが、AP通信/ロイターによると、パキスタン外相、アメリカ国防総省はこの情報を否定した。
- 2004年10月29日、カタールの衛星テレビ局アルジャジーラが、その頃撮影されたといわれるウサーマの映像を放映。この中で、ウサーマと思しき男はアメリカ同時多発テロ事件を行ったことを初めて認め、更なるテロを警告した。これに対し、ブッシュ大統領は「脅しに屈しない」と強調した。
- 2005年10月に発生したパキスタン地震によりアメリカ諜報部が彼の消息が絶ったとし、更には人工透析の電子機器が常に必要でありながらも地震により電力が止まっているなどの情報もあるため、ドイツの新聞がビン・ラーディン死亡説を報道した。
- 2007年1月31日、米CNNはアラブ首長国連邦のドバイにて、ウサーマの義理の兄弟がマダガスカルで武装グループの襲撃を受け射殺されたことを明らかにした。被害者の兄弟がUAEの衛星テレビアル・アラビーヤに語った。
- 2011年5月2日、パキスタンのアボッターバードで米軍によって射殺される。
トリビア
- 彼は左利きである。
- ウサーマと言う名は、シリアの伝説的な詩人の名から付けられたものである。
- 愛銃はAKS-74Uライフルであり、彼がメディアに登場する際は大抵立てかけられた状態で写っている。また、その影響から同ライフルは「ビン・ラディンモデル」と呼ばれている。
- カシオ製デジタル腕時計のF-91Wは、アルカーイダが時限爆弾のタイマーとして使用した例がある、F-91Wを着用したビン・ラーディンの写真が存在する等の理由から、「ビンラディンモデル」と呼ばれることがある。
- 1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett) の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン・ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAP研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、テープ自体は頻繁に出されている。
関連項目
脚注
注釈
- ^ グループは石油ブーム時代に建築業で財を成し、メッカおよびマディーナ(メディナ)のモスクの修理を任されるほど、サウード家と深く結びついている。グループの特徴としては、創業者自身が外国人労働者であったこともあり積極的に外国人を雇用していることがあげられ、多数のアメリカ人ビジネスマンが参加している
- ^ 1991年の国外追放と資産凍結でその財産の多くが失われ、残された資産は2500万–3000万ドルであったとされている[11]。
- ^ このことは2009年11月29日にアメリカ上院外交委員会にて取り上げられ、現地指揮官からの増派要請を本国が拒否したのが捕獲失敗の原因と結論付けた[59]。
- ^ 米国のAP通信は、アフガニスタンに潜伏しているオサマ・ビンラディン氏が管理している訓練キャンプで生化学武器実験が実施されたとの報道があったとし、北朝鮮関連説を提起した。AP通信は28日、「ビンラディン氏をアフガニスタン東部のクナル地域まで遂行したあるタリバーン保安関係者が、現地で北朝鮮人1人が訓練兵に化学武器訓練を行っているのを目撃した」と述べたと報道した。[要出典]
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参考文献
- 保坂修司『新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』朝日新聞出版、2011年。ISBN 978-4022599803。
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- Wright, Lawrence (2006). The Looming Tower: Al-Qaeda And The Road To 9/11. New York: Knopf. ISBN 1-4000-3084-6
外部リンク
- スティーブ・コルの新著『ビンラディン 或るアラブの一族と米国の世紀』 動画 日本語字幕付 (デモクラシーナウ!ジャパン 2008.09.15)
- Most Wanted Terrorist - Usama Bin Laden(FBIによる指名手配書)
- BIN LADEN, Usama Muhammed Awad (ICPOによる指名手配書)