「阿閉貞征」の版間の差分
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阿閉一族は処刑されたが、一時期、家臣として仕えていた渡辺了の妻が貞征の娘であることから女系で阿閉氏と貞征の血筋が存続している。 |
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まず、了は貞征の娘との間に守(通称は長兵衛、初代長兵衛)、三十郎(通称)、恵、女子(速水三郎左衛門室)の4人を儲けており、貞征の外孫にあたる。 |
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守は[[1601年]]に父と共に[[藤堂高虎]]の家臣となり、三千石を与えられる。その際、高虎の妹・華徳院を妻とする。その間に守胤を儲けた(守胤は貞征の外曾孫)。守自身は大坂冬の陣に参戦、父と左先鋒を務めた。夏の陣では中軍士大将を務め、先鋒を辞退した父の侍組を預かった。[[八尾の戦い]]では[[長宗我部盛親]]隊と交戦し負傷している。この功を賞され一千石を加増された。[[元和]]元年([[1615年]]に父が改易された後も藤堂家に残留したが[[元和]]4年([[1618年]])[[7月4日]]に早世した。 |
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守胤(二代長兵衛)は父の死去時、僅か6歳であった為、家督を継いだものの父が持っていた四千石の知行は召し上げられ、蔵米五百石を給された。しかし、24歳の時に母・華徳院を置いて藤堂藩を去り、近江国坂本に住む祖父である了を頼った。2年後に勃発した[[島原の乱]]で陣を借りて参戦したが、「一揆如きの籠城に事々しく参陣するとは未熟者の行い」と却って了の怒りを買う結果となり、勘当されたと言われている。了は[[寛永]]17年([[1640年]])に没した。祖父の死から7年の浪人生活を経て、幕府重鎮の仲介で藤堂家に帰参、千五百石を給された。その後は藤堂家の重鎮して活躍し、[[寛文]]10年([[1670年]])に藤堂姓を称する様に命じられた。 |
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守胤は藤堂仁右衛門(二代)高経の娘を妻とし、守勝(三代長兵衛、妻は藤堂采女(三代)の娘)、守門(四代長兵衛)の2男を儲けた。2人は貞征の外玄孫である。 |
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このように貞征の外孫である渡辺守の子孫は[[幕末]]まで藤堂長兵衛の通称を名乗った為、藤堂長兵衛家と呼ばれている。 |
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==脚注== |
==脚注== |
2020年1月15日 (水) 14:31時点における版
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 天正10年6月16日[1](1582年7月5日) |
別名 | 長之、貞秀、通称:万五郎、淡路守 |
主君 | 浅井長政 → 織田信長 → 羽柴秀吉 → 信長 → 明智光秀 |
氏族 | 阿閉氏 |
子 | 貞大、女子(渡辺了室) |
阿閉 貞征(あつじ さだゆき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅井氏、織田氏の家臣。近江国山本山城主。
生涯
阿閉は、阿辻ともする[1]。 代々北近江伊香郡の国人であったが、浅井氏が京極氏に代わって勢力を拡大するとこれに従うようになった。 貞征は浅井家の重臣として北国街道や琵琶湖の湖北を見渡せる要害・山本山城を任された。
元亀元年(1570年)姉川の戦いには1000騎を率いて参陣。磯野員昌、浅井政澄に続く3段目に布陣した。姉川の戦い後も対織田戦に参陣し、山本山城が織田信長の攻撃を受けたが、撃退した。しかし天正元年(1573年)、信長に内応し山本山に織田軍を引き入れたため、小谷城は孤立し主家滅亡の遠因をつくる。8月8日、子・貞大と共に信長に降参し、後すぐに朝倉攻めの先手を務めた[2]。このとき磯野員昌・堀秀村と共に、一時、越前国木ノ芽城の守備についている[3]。
『浅井三代記』ではこれらの功により伊香郡を与えられたとあるが、北江は羽柴秀吉に一職支配権が与えられており、貞征は伊香郡内の本領と浅井郡管浦の地などを安堵されたに過ぎないらしい[2]。秀吉の与力とされた。
天正3年(1575年)の越前一向一揆にも秀吉と共に参戦しているが、次第に秀吉の圧迫が募ったようだ。竹生島の寺領の横領で訴えられたが、逆に竹生島にある扶持の過半を秀吉に取られたのであると、貞大が信長側近の菅屋長頼に弁明している[2]。
天正5年(1577年)より秀吉は中国攻めで播磨国へ赴くが、阿閉父子は近江に留まり、信長の旗本に組み入れられたらしい[2]。同6年(1578年)11月より始まる有岡城攻めには信長に従って参戦。同9年(1581年)の伊賀攻め、同10年(1582年)1月15日の左義長の爆竹でも近江衆のなかに名がみえる[2]。同年3月の甲州征伐にも信長に随従した[2]。
天正10年(1582年)、本能寺の変の後、明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城を占領した。山崎の戦いに参加するが、敗戦。秀吉方に捕縛され一族全て処刑された。『天正記』『惟任退治記』によれば、処刑方法は磔刑であった。
なお、藤堂高虎や渡辺了も一時期、貞征のもとで家臣として仕えていたことがある。
後裔
阿閉一族は処刑されたが、一時期、家臣として仕えていた渡辺了の妻が貞征の娘であることから女系で阿閉氏と貞征の血筋が存続している。
まず、了は貞征の娘との間に守(通称は長兵衛、初代長兵衛)、三十郎(通称)、恵、女子(速水三郎左衛門室)の4人を儲けており、貞征の外孫にあたる。
守は1601年に父と共に藤堂高虎の家臣となり、三千石を与えられる。その際、高虎の妹・華徳院を妻とする。その間に守胤を儲けた(守胤は貞征の外曾孫)。守自身は大坂冬の陣に参戦、父と左先鋒を務めた。夏の陣では中軍士大将を務め、先鋒を辞退した父の侍組を預かった。八尾の戦いでは長宗我部盛親隊と交戦し負傷している。この功を賞され一千石を加増された。元和元年(1615年に父が改易された後も藤堂家に残留したが元和4年(1618年)7月4日に早世した。
守胤(二代長兵衛)は父の死去時、僅か6歳であった為、家督を継いだものの父が持っていた四千石の知行は召し上げられ、蔵米五百石を給された。しかし、24歳の時に母・華徳院を置いて藤堂藩を去り、近江国坂本に住む祖父である了を頼った。2年後に勃発した島原の乱で陣を借りて参戦したが、「一揆如きの籠城に事々しく参陣するとは未熟者の行い」と却って了の怒りを買う結果となり、勘当されたと言われている。了は寛永17年(1640年)に没した。祖父の死から7年の浪人生活を経て、幕府重鎮の仲介で藤堂家に帰参、千五百石を給された。その後は藤堂家の重鎮して活躍し、寛文10年(1670年)に藤堂姓を称する様に命じられた。
守胤は藤堂仁右衛門(二代)高経の娘を妻とし、守勝(三代長兵衛、妻は藤堂采女(三代)の娘)、守門(四代長兵衛)の2男を儲けた。2人は貞征の外玄孫である。
このように貞征の外孫である渡辺守の子孫は幕末まで藤堂長兵衛の通称を名乗った為、藤堂長兵衛家と呼ばれている。
脚注
参考文献
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、2頁。
- 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、26頁。ISBN 4642027432。