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「金明鉱山」の版間の差分

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'''金明鉱山'''(きんめいこうざん)は、[[広島県]][[広島市]][[安佐北区]][[下深川]](旧[[安佐郡]][[深川村]])あたりに位置していた[[銅山|銅鉱]]で<ref name="kosyo_rep">{{Cite journal|author=小松彊|title=広島県金明鉱山周辺地質鉱床調査報告|journal=地質調査所月報|volume=6|issue=8|date=|NAID=40018039388}}</ref>、1624年から1969年にかけて採掘されていた。「郡中国郡志」によれば、「寛永元年山主可部町条光良右衛門ト申者堀初」とあり[[広島藩|浅野藩]]主によって[[銀山]]としてひらかれた後、[[1940年]]以降は[[軍需]]にこたえ[[帝国鉱業開発]]により重要鉱山として融資を受けるなど、本格的に採掘されていたが、[[終戦の日|終戦]]後は一時休山、その後[[大興産業]]によって採掘されたが[[1969年]]には[[鉱業権]]が放棄され[[坑口]]は[[鉱害]]防止のため閉鎖された<ref name="kosyo_rep" /><ref>{{cite web|url=http://www.mogurin.or.jp/maibun/kojikodo/yoshida/yoshida2.pdf|format=pdf|title=吉田道 2|publisher=広島Web博物館 公益財団法人広島市文化財団文化科学部文化財課|accessdate=2018-1-9}}</ref>。
'''金明鉱山'''(きんめいこうざん)は、[[広島県]][[広島市]][[安佐北区]][[下深川]](旧[[安佐郡]][[深川村]])あたりに位置していた[[銅山|銅鉱]]で<ref name="kosyo_rep">{{Cite journal|author=小松彊|title=広島県金明鉱山周辺地質鉱床調査報告|journal=地質調査所月報|volume=6|issue=8|date=|naid=40018039388}}</ref>、1624年から1969年にかけて採掘されていた。「郡中国郡志」によれば、「寛永元年山主可部町条光良右衛門ト申者堀初」とあり[[広島藩|浅野藩]]主によって[[銀山]]としてひらかれた後、[[1940年]]以降は[[軍需]]にこたえ[[帝国鉱業開発]]により重要鉱山として融資を受けるなど、本格的に採掘されていたが、[[終戦の日|終戦]]後は一時休山、その後[[大興産業]]によって採掘されたが[[1969年]]には[[鉱業権]]が放棄され[[坑口]]は[[鉱害]]防止のため閉鎖された<ref name="kosyo_rep" /><ref>{{cite web|url=http://www.mogurin.or.jp/maibun/kojikodo/yoshida/yoshida2.pdf|format=pdf|title=吉田道 2|publisher=広島Web博物館 公益財団法人広島市文化財団文化科学部文化財課|accessdate=2018-1-9}}</ref>。


== 出典 ==
== 出典 ==

2020年1月25日 (土) 17:10時点における版

金明鉱山(きんめいこうざん)は、広島県広島市安佐北区下深川(旧安佐郡深川村)あたりに位置していた銅鉱[1]、1624年から1969年にかけて採掘されていた。「郡中国郡志」によれば、「寛永元年山主可部町条光良右衛門ト申者堀初」とあり浅野藩主によって銀山としてひらかれた後、1940年以降は軍需にこたえ帝国鉱業開発により重要鉱山として融資を受けるなど、本格的に採掘されていたが、終戦後は一時休山、その後大興産業によって採掘されたが1969年には鉱業権が放棄され坑口鉱害防止のため閉鎖された[1][2]

出典

  1. ^ a b 小松彊. “広島県金明鉱山周辺地質鉱床調査報告”. 地質調査所月報 6 (8). NAID 40018039388. 
  2. ^ 吉田道 2” (pdf). 広島Web博物館 公益財団法人広島市文化財団文化科学部文化財課. 2018年1月9日閲覧。