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== 参考文献 ==
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* {{Cite book|title=The Age of Liberty: Sweden 1719-1772|first=Michael|last=Roberts|publisher=Cambridge University Press|year=2003|isbn=978-0-521-52707-1}}
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== 訳注 ==
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2020年1月25日 (土) 18:19時点における版

スウェーデンフィンランドの歴史における自由の時代 ( スウェーデン語: Frihetstidenフィンランド語: Vapauden aika) とは、1718年カール12世の死に始まり、1772年グスタフ3世のクーデターで終わる、半世紀に渡る議会統治とそれに伴って公民権が拡大した期間を指す。君主制から議会制への移行は、大北方大戦の帰結として王権が大幅に制限されたためであった。

議会制とはいうものの、当時の議会は身分制であり、貴族、聖職者、ブルジョワジー、農民の四部会であった。実際には、農民は代表権を持ってはいたものの、その影響力は不当に抑えられていた。また、課税財産を持たない一般市民にはそもそも参政権がなく、今日的な議会制とはほど遠いものであった。

大北方戦争

スウェーデンでは、1697年カール11世が崩御すると、その息子カール12世がわずか15歳で即位した。若年のため6人の摂政が付けられたが、議会との軋轢からわずか数ヶ月でカール12世が親政を行うことになった。 スウェーデンの大国化に反発するデンマーク=ノルウェーロシアザクセン選帝侯領1699年北方同盟を結成、1700年には大北方戦争が始まった。カール12世は自ら前線で指揮を執り、開戦わずか半年後にデンマーク=ノルウェー、1706年にはザクセン選帝侯領を屈服させるなど初期の戦いを有利に進めていた。しかし、1718年にフレドリクスハルド要塞包囲戦でカール12世が流れ弾に当たって戦死すると、スウェーデン国内ではその後継者争い、北方同盟側では領土の分配を巡って内部対立が起こったこともあり、和平工作が進められた。

1719年2月20日と1720年2月1日のストックホルム条約により、ハノーファーブレーメンフェルデンを、プロイセン王国スウェーデン領ポメラニア南部とシュチェチンを、それぞれ手に入れ。1720年7月3日のフレデリクスボー条約により、デンマークはリューゲン島の他、ペーネ川以北のポメラニア北部ヴィスマールをスウェーデンに返還する代わりに、スウェーデンは60万リクスダラーの支払いとホルシュタイン=ゴットルプ家への支援打ち切り、エーレスンド海峡通行税の免除特権返上を約束した。ロシアとの和平は1721年のニスタット条約で成立し、スウェーデンはロシアにイングリアエストニアリヴォニアとフィンランドのケックスホルム県およびヴィボルグ城を割譲し、200万リクスダラーの賠償金を支払う代わりに、ヴィボルグ以西、カキサルミ以北のフィンランドを回復した[1]

自由の時代

カール12世が戦死したことを受け、スウェーデンではその妹ウルリカ・エレオノーラが女王に即位した。これはカール12世が独身で、世子もいなかったことから、王位の空白を防ぐための緊急避難措置であった。その後もロシアとの戦争は続いたが、状況はスウェーデン不利になる一方で、1721年に不利な内容の二スタット条約を締結して講和することになった。その間、1719年から1720年にかけて議会が王権を極度に制限し、議会に権力を集中させる新憲法を制定した。ウルリカ・エレオノーラはこれに反発して退位するが、既に議会との合意でその夫フリードリヒが王位継承者に決まっており、フリードリヒがフレドリク1世として即位した。新憲法の下でスウェーデンは貴族聖職者ブルジョワジー農民の4身分からなる身分制議会による議会制を敷くこととなったが、4身分のうち3身分が合意しないと法律が制定できなかったため、4身分がそれぞれ利害を巡って反目する状況では国力が減退する一方であった。

各議会は、会期初めに選出された議長が取り仕切ったが、聖職者部会の議長は大司教が務めていた。また、国会議事堂で議会で開かれるときや枢密院では大元帥や王室の成員が議長を務めた。身分制議会は貴族50人、聖職者25人、ブルジョワジー25人、農民25人で構成されており、最高行政機関としてのみならず最高司法機関および最高立法機関としても機能していた。リクスダーグに提出されるすべての法案の準備や各省および外交政策の統制も担当していた。一方で、身分制議会が停滞する場合の行政権は、帝国議会にのみ責任を負う枢密院の掌中に残された。

ハッタナ党とメッソナ党

自由の時代には、貴族らがハッタナ党 (ハット党) とメッソナ党 (キャップ党) に分かれて国政を牛耳った。ハッタナ党は上級貴族が中心で、保守的で重商主義政策を採り、外交的には親仏であった。一方のメッソナ党は下級貴族や農民が中心で、ブルジョア的で自由主義政策を採り、親英・親露であった。大北方戦争に敗れ、バルト海での覇権を喪失して二流国に成り下がったスウェーデンにとって、フランスとの同盟はあまりにも高望みに過ぎるものとなっていた。宰相アルヴィド・ホルンはそのことを正しく認識していたため、大陸欧州の情勢に対して常に注意深く中立を保ち、戦争に巻き込まれることを回避し続けることで国内の復興に努めていた。これは国力が低下したスウェーデンの生存戦略としてきわめて重要なことであった。しかし、1738年にホルンは親露的であるとして失脚させられてしまった。彼を失脚させた者たち、すなわちハッタナ党にとって、栄光なき繁栄は価値のないものであった。彼らは、フランスとの同盟を梃子に、スウェーデンを以前のような大国とすることで栄光ある繁栄を目指したのである。一方のフランスは北欧に自国の地歩を維持するため、ハッタナ党に惜しみなく資金を投入した。

政権を握ったハッタナ党の最初の失敗は、ロシアとの戦争であった。神聖ローマ皇帝カール6世とロシア女帝アンナがほぼ同時に没したことから、ヨーロッパ情勢はハッタナ党の無謀にも思える計画の助けになると思われていた。メッソナ党は開戦に頑強に反対したが、1740年のリクスダーグではロシア領フィンランドへの侵攻計画が性急に進められた。スウェーデンは1741年7月20日にロシアに対して宣戦布告し、1ヵ月後にはリクスダーグは解散した。スウェーデン軍は1740年のうちから戦争準備をしていたが、宣戦布告の時点ですら十分な準備ができていなかった。このため、フィンランドに侵攻するどころか、逆にロシア軍に機先を制されヴィルマンストランドに侵攻される有様であった。このためサンクトペテルブルクでフランス大使の調停により停戦協定が結ばれた。その後スウェーデン軍の士気は大いに下がり、敵襲があるという噂だけでヘルシンキがパニックに陥るほどだった。結局、年末までにフィンランド全土がロシアの手に落ちた。スウェーデン艦隊に至っては宣戦布告前から展開していたものの、疫病に襲われて指揮官のトマス・フォン・ラジャリンが病死するなど何の役にも立たなかった。

このような戦況からすれば、翌年のリクスダーグはハッタナ党にとって裁判も同然の状況であった。しかし彼らはリクスダーグで最重要課題として王位継承問題を持ち出すことで、戦争責任に関する議論を回避した。ちょうど前女王ウルリカ・エレオノーラが1741年11月24日に亡くなり、その夫フレドリク1世も高齢で、夫妻には子がいなかったからである。そこにロシア女帝エリザヴェータがウルリカ・エレオノーラの従兄弟でホルシュタイン=ゴットルプ家公子のアドルフ・フレドリクを王位継承者とするならフィンランドを返還してもよいと持ちかけたことから、ハッタナ党は失地回復と名誉挽回の好機として和平交渉のテーブルに就いた。結局、1743年5月7日のオーボ条約にエリザヴェータの提案が容れられ、フィンランドは南部のキュミ川以東を除いてスウェーデンに返還された。1751年3月にはフレドリク1世が崩御し、わずかに残っていた王権も風前の灯となった。

アルヴィド・ホルン

枢密院議長アルヴィド・ホルン

現代的な意味において、スウェーデンの共和制憲法は立憲君主制を意図したものではなかった。

王権は極度に制限され、国王は元首というよりもむしろ飾り物程度の扱いでしかなかった。宰相アルヴィド・ホルンは慎重かつ厳密な管理をもって国王をうまく利用しながら荒廃した国の復興を進めた。ホルンは、スウェーデンが大陸欧州の情勢に振り回されないよう、スウェーデンの伝統的な外交政策を覆してフランスと距離を置き、イギリスとの接近を図った。この外交政策により、20年続いた戦争の後に20年に渡る平和が訪れ、スウェーデンは急速に復興した。しかし、復興により戦争の惨禍は忘れられ、ホルンの治績も顧みられなくなり、政治家の権力闘争が始まった。

1719年以降、少数の大貴族が多くの弱小貴族を影響下に置いて所領を安堵するようになると、その中から自然発生的にカール・ギレンボリやカール・グスタフ・テッシンのような野心的な指導者が現れるようになった。彼らと彼らを支持する勢力は、ホルンらがスウェーデンの栄光を犠牲にし、平和に安住して惰眠を貪る者であるとしてナットメッソル党 (: Nattmössor、ナイトキャップの意) と呼んで揶揄した(後にあまりに侮辱的であることから柔らかい帽子を意味するメッソナをあててメッソナ党 (: Mösspartiet) と呼ぶようなった)。それに対して、自らは栄光ある繁栄を追求する志士であるとして、士官らが着用する三角帽に力強さを仮託して、ハッタナ党 (: Hattpartiet) と名乗った。

こういった一種過激なレッテルはすぐさま大衆の注目を浴び、1738年にリクスダーグが召集されたときには党派のシンボルとなっていた。このリクスダーグは、スウェーデンの歴史において一つのターニングポイントとなった。1733年から1738年にかけて戦われたポーランド継承戦争では、スウェーデンはアウグスト3世に対抗するスタニスワフ・レシチニスキを支援した。これはハッタナ党が推進したもので、これが一定の成果を収めると、33年に渡って国政を指導したホルンも遂に引退を迫られることになった。

ポンメルン戦争

アドルフ・フレドリク(1751年 - 1771年)の治世では先代よりも情勢は落ち着いていたが、プロイセンのフリードリヒ大王の妹でもあった王妃ロヴィーサ・ウルリカはあまりにも王権が制限されていること、アドルフ・フレドリクに啓蒙専制君主としての資質が欠けていることに強い不満を持ち、その子息に啓蒙専制君主たり得る資質を身に付けさせるよう教育に力を入れた。1756年には数人の王党派貴族の協力を得て君主制革命を企図したが、あっさり鎮圧されてしまった。この企てはアドルフ・フレドリクの与り知るところではなかったが、彼もその責を負うことになり、王権もさらに制限されることになった[2]

ハッタナ党は国内政治において大きな勝利を収めたが、一方で海外政策については綻びが目立つようになった。スウェーデンはフランスの扇動もあってポンメルンの奪還を狙って七年戦争に参戦した。当時プロイセンはザクセン、シュレージエン、東プロイセンで戦端を開いており、わずか1万7千の兵力でもポンメルンを占領できると見込んだのである。しかし、これは破滅的な結果を齎した。フランスから資金援助を受けたものの、それは6週間分の戦費に過ぎず、実際にスウェーデンが費やした戦費にはまったく不足していた。結局、多大な戦費を費やして4万人もの将兵を失ったにもかかわらず何ら得るものなく講和を結んで停戦した。1760年のリクスダーグではハッタナ党への風当たりが極めて強く、徹底的な糾弾は避けられないかに思われたが、卓越した議会戦術で20ヶ月の会期を乗り切り、さらに4年間の政権を確保した。しかし、ハッタナ党の命脈はここまでで、1765年のリクスダーグではメッソナ党が政権を握った。メッソナ党の指導者トゥーレ・ルドベックは、ハッタナ党のフレドリク・アクセル・フォン・フェルセンを抑え、大多数の支持で国会議長に選出された。また、枢密院の100議席のうち、ハッタナ党の議席はわずか10に留まった。

メッソナ党はハッタナ党の弱点を突き、直ちに予算執行報告書の作成を命じた。この結果、ハッタナ党政権ではほとんど思いつきで多額の支出が行われ、粉飾も行われていたこと、さらに長い政権期間中には国債残高が増大し、しかもその1/3は償還のためのものであることがすぐに明らかになった。このためリクスダーグでは債務再編が集中的に議論され、「緊縮国会」と呼ばれるほどであった。メッソナ党は債務残高を半減させることに成功し、歳入と歳出の間に一定の均衡がみられるほどになった。メッソナ党はさまざまな改革を行ったが、中でも1766年に制定された出版自由法は報道の自由を保証するもので、これは現在でもスウェーデン憲法の一部を成す基本法の一つとなっている。しかし、メッソナ党の最重要政策は、フランスの影響を減ずるためにロシア帝国との関係を強化することであった。

もはや大国ではなくなっていたものの、スウェーデンには未だ大国としての多くの責務が課せられていた。スウェーデンとの同盟は、たとえその価値が暴落していたとしても、国際社会ではそれなりに意味のあるものであったからである。これはスウェーデンが1年の半分は雪に閉ざされ実質的に不可侵となること、大陸に持つスウェーデン領ポメラニアが神聖ローマ帝国の喉元に突き付けられた匕首ともなること、フィンランドがロシアに与しない勢力にとってロシア帝国の首都サンクトペテルブルクを窺う拠点となることなど、地政学的な価値が極めて高いことによるものである。

このため、防衛同盟や海上での通商協定を超える冒険を行わず、慎重に中立を保つことは、スウェーデンの基本的な安全保障政策であり、これは元よりメッソナ党が常に重視していたことでもあった。しかし、ハッタナ党が北方におけるフランスの覇権の代弁者となっていたことから、若いメッソナ党員はフランスの影響に対抗し得る強力な相手と同盟を結ぶべきだと主張するようになった。しかし、ロシアとの同盟は、フランスとの軍事同盟よりも危険視されていた。フランスはスウェーデンに直接危険を及ぼせるほど近くはなく、フランスもスウェーデンとの同盟においてスウェーデンの勢力をできるだけ強く維持するよう注意を払っていた一方、ロシアはスウェーデンを味方につけるよりもむしろ将来支配下に置くことを目論み、古くからライバル視していた[要出典]ためである。ところが結局、メッソナ党はロシアと同盟を結ぶことを決定してしまう。

メッソナ党政権は長くは続かなかった。国民はメッソナ党が行った改革による弊害に倦み、街にはメッソナ党の政策を風刺するパンフレットが溢れるようになった。メッソナ党は自らが制定した出版自由法のため、これらの風刺文を取り締まることもできず追い詰められていった。枢密院はリクスダーグで定めた緊縮措置に対するすべての抗議行動は罰金または禁固刑に処すとした命令を発布して対抗したが、アドルフ・フレドリクはこの命令への署名を拒否した。アドルフ・フレドリクは王太子グスタフの提案を受け、枢密院議員に対して危機を緩和するため臨時リクスダーグを招集することを求めた。メッソナ党政府がこれに反発したことから1768年12月15日から21日までスウェーデンは無政府状態に陥った。これを12月の危機と呼ぶ。メッソナ党の枢密院議員は譲歩し、リクスダーグを1769年4月19日に招集することになった。

ハッタナ党はリクスダーグ開会前夜にフランス大使館で総会を開催した。モデナ公爵は、ハッタナ党に対して「憲法を改正し、君主制を強化する」という約束と引き換えに600万リーヴルを提供した。一方、ロシア外務長官アンドレイ・オステルマン[訳注 1]はメッソナ党の顧問兼会計を務めていたが、メッソナ党が愛国心を失いロシアを排除することに投票するのであればロシアからの報復を受けるであろう、と公然と脅迫し、ノーショーピングの代わりにロシア艦隊のアクセスが容易なストックホルムでリクスダーグを開くよう要求した。しかし、メッソナ党が劣勢にあるのは明らかであった。4月19日にノーショーピングでリクスダーグが招集されると、メッソナ党は4身分すべてで少数派になっていた。リクスダーグでの議論で前回決議された改革が否決されると両党の指導者は再び激突し、フォン・フェルセンがルドベックに234票差で勝利した。ロシアはルドベックを勝たせるために少なくとも9万リクスダラーを投じたが、功を奏することはなかった。

メッソナ党もわずかながら抵抗し、ロシア、プロイセンおよびデンマークの大臣から「リクスダーグの結果によらず、勝利した党派によるいかなる報復にも抗議する」という共同声明を取り付けたものの、これも政権崩壊を早めるだけに終わった。メッソナ党の枢密院議員らは弾劾を免れるために一斉に辞任し、代わってハッタナ党員がその地位を占めた。6月1日、リクスダーグは首都ストックホルムに場所を移して開かれた。すると、フランス大使と王太子グスタフは新たな枢密院議員らを前に、彼らがリクスダーグ開会前に行った憲法改正の約束を果たすよう求めたのである。リクスダーグはたちまち麻痺状態に陥り、「憲法が危機に曝されている」という叫びの中、1770年1月30日に何も決められないまま混沌のうちに閉会した[3]

関連項目

参考文献

  1. ^ Chisholm 1911, p. 206.
  2. ^ Chisholm 1911, p. 207.
  3. ^ Chisholm 1911, p. 208.

出典

  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Sweden". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.

参考文献

  • Roberts, Michael (2003). The Age of Liberty: Sweden 1719-1772. Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-52707-1 
  • Wolff, Charlotta (2007). “Aristocratic republicanism and the hate of sovereignty in 18th-century Sweden”. Scandinavian Journal of History 32 (4): 358–375. doi:10.1080/03468750701659392. 

訳注

  1. ^ アンドレイは1741年に失脚して1747年には亡くなっており、時代が合わない。次男イワン・オステルマンとの混同と思われる。