「ファウスティーノ・アスプリージャ」の版間の差分
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2020年2月4日 (火) 12:54時点における版
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名前 | ||||||
本名 |
ファウスティーノ・エルナン・アスプリージャ・イネストローサ Faustino Hernán Asprilla Hinestroza | |||||
愛称 | ティーノ | |||||
ラテン文字 | Faustino ASPRILLA | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1969年11月10日(54歳) | |||||
出身地 | トゥルア | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1988-1989 |
![]() | 36 | (17) | |||
1989-1992 |
![]() | 78 | (35) | |||
1992-1995 |
![]() | 84 | (25) | |||
1995-1998 |
![]() | 48 | (9) | |||
1998-1999 |
![]() | 23 | (5) | |||
1999-2000 |
![]() | 12 | (2) | |||
2000-2001 |
![]() | 12 | (8) | |||
2001-2002 |
![]() | 12 | (3) | |||
2002-2003 |
![]() | 11 | (3) | |||
2003 |
![]() | 13 | (5) | |||
2003-2004 |
![]() | 2 | (0) | |||
2004-2005 |
![]() | 0 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
1993-2001 |
![]() | 57 | (20) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ファウスティーノ・アスプリージャ(Faustino Hernán Asprilla Hinestroza, 1969年11月10日 - )は、コロンビア出身の元サッカー選手。元コロンビア代表。ポジションはフォワード。1990年代にコロンビアを牽引したストライカーで、瞬発力に優れ、俊足と高い身体能力、意外性のあるプレーで得点をあげた[1]。
経歴
クラブ
1992年のバルセロナオリンピック南米予選においてブラジルやアルゼンチンといった候補を押しのけて出場権を獲得する活躍を見せると[要出典]、1992年にイタリアの新鋭パルマACへ移籍。翌1993年3月にACミラン戦では、その当時58試合無敗記録を打ち立てたミランに対しフリーキックから得点を決め1-0で下し記録を阻止する活躍を見せた。1993-94シーズンにSSCナポリから移籍したテクニシャンのジャンフランコ・ゾラとのコンビプレーを組み、2人のパス交換、ワンツー、互いのアシスト等でパルマ攻撃陣の核となり、数年間に渡ってユヴェントスやACミランとの間で優勝争いを繰り広げた。1994-95シーズンにはUEFAカップ決勝でユヴェントスを破り初優勝を成し遂げた。
1995年からはイングランド・プレミアリーグのニューカッスル・ユナイテッドへ移籍したが、際立った活躍はできなかった。 しかし、1997-98シーズンのチャンピオンズリーグではバルセロナ相手にハットトリックを決めて勝利に貢献するなど、能力の高さは見せ付けた。
1998-99シーズンにパルマへ復帰。フランスのオリンピック・マルセイユを破って、2度目のUEFAカップ優勝と7シーズンぶりのコッパ・イタリア優勝に貢献した。 その後は、ブラジルのパルメイラスを始めとした南米のクラブチームを渡り歩き、2005年に故郷トゥルアにあるコルトゥルアで現役を引退した。
代表
U-22コロンビア代表として1992年バルセロナオリンピックに出場。
コロンビア代表としては1993年6月6日のワールドカップ・アメリカ大会南米予選のチリ代表戦で代表デビューをした[2]。同年9月5日、敵地のアルゼンチン代表戦では相手守備陣を翻弄し2得点を挙げる活躍を見せ、自身の評価を高めた(試合は5-0のスコアでコロンビアの勝利)[1][2]。
この時のカルロス・バルデラマ、フレディ・リンコン、レネ・イギータら個性的な選手を擁したチームは優勝候補の一角にも挙げられたが、初戦でルーマニア代表に1-3のスコアで敗れるなどしてグループリーグ敗退に終わった。
素行と言動に問題があるトラブルメーカーとして知られ[1]、パルマ放出後はその才能に関わらず各クラブを転々とする状態が続いていた、また1998年のワールドカップ・フランス大会南米予選パラグアイ戦では相手GKのホセ・ルイス・チラベルトと乱闘騒ぎを起こし退場処分を受けた。 また、監督や協会とのイザコザから、2000年には代表招集を拒否して物議を醸した。更に、2000年9月には、コロンビア国内で泥酔した末に拳銃を乱射して逮捕されるという事件も起こしている。
代表としての通算成績は国際Aマッチ57試合出場20得点[2]。
引退後
2005年を最後に現役を引退し、現在は故郷でサッカースクールを運営している。
代表歴
- 1991年 - 1992年 U-22コロンビア代表
- 1992年 - バルセロナオリンピック
- 1993年 - 2000年 コロンビア代表
- 代表通算 - 57試合20得点
- 1994年 - FIFAワールドカップ
- 1998年 - FIFAワールドカップ
タイトル
- アトレティコ・ナシオナル
- コロンビア・プロサッカーリーグ : 1回 (1991)
- コパ・インテルアメリカーナ : 1回 (1989)
- パルマ
- コッパ・イタリア : 1回 (1998-99)
- UEFAカップウィナーズカップ : 1回 (1992-93)
- UEFAスーパーカップ : 1回 (1993)
- UEFAカップ : 2回 (1994-95, 1998-99)
- パルメイラス
- リオ・サンパウロ州選手権 : 1回 (2000)
- コパ・ドス・カンピオンイス : 1回 (2000)
脚注
- ^ a b c 週刊サッカーマガジン 編『サッカーマルチ大事典 改訂版』ベースボール・マガジン社、2006年、47頁。ISBN 4-583-03880-1。
- ^ a b c “Faustino Hernán Asprilla - Goals in International Matches”. rsssf.com. 2016年10月4日閲覧。