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「アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)」の版間の差分

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[[ファイル:Thomas Erskine May, 1st Baron Farnborough, after Window & Grove.jpg|thumb|right|トマス・アースキン・メイ]]
[[ファイル:Thomas Erskine May, 1st Baron Farnborough, after Window & Grove.jpg|thumb|right|トマス・アースキン・メイ]]
初代[[ファーンバラ男爵]]'''トマス・アースキン・メイ'''({{lang-en|Thomas Erskine May, 1st Baron Farnborough}} {{post-nominals|country=GBR|KCB|PC}}、[[1815年]][[2月8日]] [[1886年]][[5月17日]])は、イギリスの憲法学者、{{仮リンク|庶民院書記官 (イギリス)|en|Clerk of the House of Commons|label=庶民院書記官}}(在任:1871年 1886年)<ref name="DNB">{{Cite DNB|wstitle=May, Thomas Erskine|volume=37|pages=145–146|last=Rigg|first=James McMullen}}</ref>。著作『[[アースキン・メイ (書籍)|議会の法、特権、手続と慣習]]』(1844年初版現代での書籍名は『アースキン・メイ:英国議会法実務』)で知られ、著作を指して「アースキン・メイ{{lang|en|Erskine May}}と呼ぶことも多<ref name="Maruzen">{{Cite web|language=ja|title=Erskine May: Parliamentary Practice, 25th Edition/アースキン・メイ:英国議会法実務 第25版|url=https://myrp.maruzen.co.jp/bl/constitutional018.html|website=丸善雄松堂|accessdate=8 December 2019}}</ref>。庶民院書記官退任後にファーンバラ男爵に叙されたが、そ1週間後に死去し、爵位は廃絶し<ref name="DNB" />。[[明治]]期の日本では「多摩斯阿爾斯京理」(トマス・オルスキン・メイ)という表記がある<ref name="Meiji12">{{国立国会図書館のデジタル化資料|789263|英国議院典例. 一}}</ref>
初代[[ファーンバラ男爵]]'''トマス・アースキン・メイ'''{{Efn2|[[明治]]期の日本では「多摩斯阿爾斯京理」(トマス・オルスキン・メイ)という表記がある{{R|Meiji12}}。}}({{lang-en|Thomas Erskine May, 1st Baron Farnborough}} {{post-nominals|country=GBR|KCB|PC}}、[[1815年]][[2月8日]] - [[1886年]][[5月17日]])は、イギリスの{{仮リンク|庶民院書記官 (イギリス)|en|Clerk of the House of Commons|label=庶民院書記官}}(在任:1871年 - 1886年){{R|DNB}}などを歴任した[[官吏]]、著述家。「議会の黄金時代」{{Sfn|犬童|1996|p=102}}と呼ばれるイギリス19世紀におて、自著や議会提言を通じて議会運営改革必要性を訴え続けた。

特に[[議事規則本]]『[[アースキン・メイ (書籍)|議会の法、特権、手続と慣習]]』(1844年初版)の著者として国内外に広く知られ、本書を指して「アースキン・メイ」({{lang|en|Erskine May}})と呼ぶことも多い{{R|Parliament|Maruzen}}。本書は21世紀においても「議会手続を定めたバイブル」「議会運営準則の中で最も権威ある書」などとイギリスで評され{{R|Parliament|Heywood2015}}、メイの没後も『アースキン・メイ:英国議会法実務』の書籍名で改訂が重ねられ、2019年には第25版が出版されている{{R|Parliament}}。また、イギリス[[立憲政治]](国王を戴きつつ議会主導で行われる政治体制)の史家としても知られ{{Sfn|中村|1976|pp=142, 173}}{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|pp=61, 65}}、[[ホイッグ史観]]的とされる{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=26}}{{R|Butterfield}}。

16歳で{{仮リンク|庶民院図書館|en|House of Commons Library}}勤務を始めたメイは{{Sfn|Essays (Evans: Introduction)|2017|p=31}}、長年の功績が認められて1871年に下院事務アドバイザーのトップである庶民院書記官に任ぜられた{{R|gazette1871-02-03}}。71歳での退任後にはファーンバラ[[男爵#イギリスの男爵|男爵]]に叙されたが、貴族院議員就任に間に合わず1週間後に死去し、爵位は廃絶した{{R|DNB}}。

== メイの功績と社会背景概説 ==
[[ファイル:Erskine May.jpg|左|サムネイル|資料を見るアースキン・メイ]]
メイが議会運営改革を提唱した19世紀は、[[イギリスの議会|イギリス議会]]が近代化・民主化へと変容する重要な転換期に当たり{{Sfn|中村|1976|p=29}}、「議会の黄金時代」とも称される{{Sfn|犬童|1996|p=102}}。18世紀後半から興った[[産業革命]]により、富裕商工業者(上層中産階級、ブルジョワジー)の社会・経済力が増していた{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|pp=71&ndash;72}}。そしてメイの生まれた1815年は、[[ナポレオン戦争]]を終結させた[[パリ条約 (1815年)|第二次パリ条約]]の締結年でもあり、イギリス国内においても戦後苦境に陥ったブルジョワジーの間で独自の階級意識が萌芽し、次第に貴族階級との間で政治組織的に対立を激化させていった時期である{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|p=71}}。

[[File:British House of Commons 1834.jpg|thumb|1834年当時のイギリス庶民院の様子]]<!-- できれば議会改革提言の節に画像を挿入したかったが、コモンズ上に1840年代から50年代にかけての画像が見つからず、30年代の画像なので挿入場所を1832年選挙法改正の概要説明に変更。[[c:Category:Chamber of the House of Commons of the United_Kingdom]]も参照。-->
中等教育を終えた16歳のメイは1831年、庶民院図書館にて職を得てキャリアをスタートさせているが{{Sfn|Essays (Evans: Introduction)|2017|p=31}}、その翌年1832年には長年の階級間対立が[[1832年改革法|第1次選挙法改正]](第1次選挙改革)の形で結実し、「イギリスにとっては政治的に決定的な出来事であった」とも評されている{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|p=66}}{{Efn2|1832年の第1次選挙改革では、有権者の資格(選挙権)が「10ポンド戸主」(年価値10ポンド以上の家屋・店舗などを占有する戸主)と定められ、有権者数が1.5倍に増えている{{Sfn|中村|1976|pp=30&ndash;31}}。しかしながら庶民院への立候補資格([[被選挙権]])は第1次選挙改革から6年後の1838年に実現されている{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (2)|1990|pp=74&ndash;75}}。また、イギリスは[[貴族院 (イギリス)|貴族院]](上院)と[[庶民院]](下院)の二院制を敷いているが、選挙で議員を選ぶのは庶民院のみが対象となっている。したがって1832年の第1次選挙改革によって、貴族院に対する庶民院の優位性が「制度的に」直接規定されたわけではなかった。あくまで「社会的に」(実質的に)庶民院の影響力が増した転換点として1832年の選挙改革は捉えられている{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|p=62}}。}}。当改革により、庶民院の選挙権が都市部の小売店主クラスにまで拡大された{{Sfn|中村|1976|pp=30&ndash;31}}。その一方で、ブルジョワ的な金権政治の弊害も招き{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|pp=67, 70}}、従前から行われていた選挙票の買収などの腐敗行為はむしろ悪化した{{Sfn|中村|1976|pp=32&ndash;33, 37}}。

このような政情にあって、メイは30歳手前にして通称『[[アースキン・メイ (書籍)|アースキン・メイ]]』(1844年初版)を上梓し、議会運営と意思決定の公平性(フェアプレイの精神)を説いた{{Sfn|Palonen|2012|p=13}}。議会運営の準則を定めた教本は他にも複数あるものの、メイの視点は外部からの研究・評論ではなく、実務経験に根差して諸問題の事例を引用・解説したことが特徴として挙げられ{{Sfn|Palonen|2012|p=15}}、本書は21世紀に入ってからもしばしば実質的なイギリス憲法の一部として位置づけられている{{Efn2|name=Uncodified|一般的な国の憲法とは異なり、イギリスの場合はいわゆる「憲法」に該当する法律文書が一つに体系化・法典化されているわけではない。そのため「[[不文憲法]]」(unwritten)あるいは「不成典憲法」(uncodified)と呼ばれる{{R|BritishLibrary}}。どの法律文書をイギリス憲法の構成要素と見做すか見解は異なるものの、『アースキン・メイ』をこれに含める立場が複数存在する{{R|Gallop2020|GriffithsLeach2018}}。また憲法とまで断言せずとも、「議会手続を定めたバイブル」「議会運営準則の中で最も権威のある書」などと位置付けられている{{R|Parliament|Heywood2015}}。}}。その内容は不正選挙の公判・弾劾といった司法手続に関するものや{{Efn2|『アースキン・メイ』初版 第22章および第23章を参照のこと{{Sfn|May|1844|p=ix&ndash;xiv|loc=§ contents}}。}}、私法律案({{lang|en|private bills}})の請願審理手順{{Efn2|『アースキン・メイ』初版 第19章および第24 - 29章を参照のこと{{Sfn|May|1844|p=ix&ndash;xiv|loc=§ contents}}。}}、[[庶民院]](下院)・[[貴族院 (イギリス)|貴族院]](上院)・国王間の意思疎通と権限分担{{Efn2|『アースキン・メイ』初版 第19章および第16 - 17章を参照のこと{{Sfn|May|1844|p=ix&ndash;xiv|loc=§ contents}}。}}など多岐に渡る。

[[File:First passenger railway 1830.jpg|thumb|世界初の旅客鉄道[[リバプール・アンド・マンチェスター鉄道]]が1830年に開通。1840年代までの[[鉄道狂時代]]には議会に敷設の請願が相次ぐ{{R|ODNB}}。]]
また、メイが著作を通じて説いたのはフェアプレイの精神(効果性)だけではない。議会審議の脱線と時間不足(すなわち効率性)が慢性的な課題となっており{{Sfn|Vieira|2015|p=25}}、[[パンフレット]]『議会公務を促進するための所見と提言』(1849年)では、選挙の集票目的で議会弁論が冗長化していると指摘した{{Sfn|Vieira|2015|p=25}}。これに関連しメイは、議会審議に無関係な発言や長演説の禁止といった議事規則の具体的な改革を提言した{{Sfn|May|1849|pp=26&ndash;33}}。当時のメイは私法律案請願の審査員を務めており{{R|Cokayne|DNB}}、1830年代から40年代のイギリスは[[鉄道狂時代]]とも呼ばれ、鉄道敷設を求める私法律案の請願などが議会に殺到する状況をメイは目の当たりにしていたのである{{R|ODNB}}。メイの議会改革提言の一部は、敬愛する{{仮リンク|チャールズ・ショー=ルフェーブル (初代エヴァーズリー子爵)|label=チャールズ・ショー=ルフェーブル|en|Charles Shaw-Lefevre, 1st Viscount Eversley}}庶民院議長を通じて1853年に穏健な形で実現している{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|pp=158, 160}}。メイの各種改革案は緻密徹底していたものの、同時に長年培った憲政の先例・原理や伝統を重んじる姿勢を忘れることはなかった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=158}}{{Sfn|May|1881|p=4}}。

その後、1855年12月(40歳)に庶民院書記官補佐{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}、1871年2月には庶民院書記官に昇格任命されている{{R|gazette1871-02-03}}。庶民院書記官とは議会運営・手続に関わるアドバイザー職のトップである{{R|AboutClerk-BC}}{{Efn2|庶民院書記官の職責は記録上、少なくとも1363年まで遡る。当時は絶対君主が庶民院書記官を直接任命する重要な職であり、庶民院議員や内閣には罷免権がない独立した立場であった。その後手続面のアドバイザーから徐々に職責が広がり、議会運営実務における執行責任者の役割も現代では含まれている{{R|AboutClerk-PSA}}。}}。既にメイの書記官補佐時代には『アースキン・メイ』がイギリス国外でも評価を得て{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|pp=25–26}}、第6版まで改訂が進み{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}、書記官に昇格後も第9版まで改訂に従事した{{Sfn|Palonen|2012|p=14}}。当時のイギリスは対外的には[[イギリス帝国|帝国主義]]に基づいて覇権を拡大した時期であり{{Sfn|竹内|2015|pp=8-9}}、諸外国の議会関係者がメイに接触した記録も残っている{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=26}}{{R|Gendai}}。しかしながら国内での実務上では、書記官補佐時代のメイは議会規則改革の諸提言で議会の委員会から合意を得られず{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=165}}、書記官昇格後も改革の努力を続けた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=165}}。

さらに1860年代以降、職務の傍らで執筆活動の幅も広げ、直近100年間のイギリス憲政史をまとめた『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』(1861年-、全3巻)や、古代欧州から当時のアジア諸国にいたる民主主義を俯瞰した『ヨーロッパ民主史』(1877年)を記している。イギリス議会史に詳しい[[中村英勝]]は、[[立憲政治]]の母国たるイギリスにおいて19世紀以降は憲政史の研究が盛んであったと考察しており、その代表的な史家としてメイの名前を挙げている{{Efn2|中村が挙げたのは、『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』を記したメイ、メイに影響を与えたとする先人の{{仮リンク|ヘンリー・ハラム|en|Henry Hallam}}(1777年 - 1859年)、およびメイと同世代の{{仮リンク|ウィリアム・スタッブズ|en|William Stubbs}}(1825年 - 1901年)の3名である{{Sfn|中村|1976|pp=142, 173}}。}}。ただし、歴史学者[[ハーバート・バターフィールド]]からは、メイの[[ホイッグ史観]](国王や国教会に対抗する議会側の主権優位性をことさら強調する視座{{R|WhigHist}})が批判されている{{R|Butterfield}}{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=26}}。イギリスは政党政治の長い歴史を有するが{{Sfn|中村|1976|pp=27&ndash;28}}、19世紀に入ってからは[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]](前身は宮廷党、後の保守党、[[ジェントリ|地方の土地所有名望家]]が支持基盤)と[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]](前身は地方党、後の自由党、名望家以外が支持基盤)との二大政党による舌戦が繰り広げられ、政権交代を繰り返した時代であった{{Sfn|中村|1976|pp=257&ndash;258}}。メイが立場上ホイッグ党員であったかは不明だが、少なくとも議事規則をめぐっては強固なホイッグ党支持だったと言われている{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=158}}。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== の経歴 ===
=== 幼少期 ===
[[File:Statue of Sir William Harpur, old Town Hall, Bedford - geograph.org.uk - 1377987.jpg|thumb|{{仮リンク|ベッドフォード・スクール|en|Bedford School|label=ベッドフォード・グラマースクール}}創立寄付者で16世紀豪商の{{仮リンク|ウィリアム・ハーパー|en|William Harpur}}像。メイの学んだ旧舎に残る。]]
[[ファイル:Charles Manners Sutton, 1st Viscount Canterbury by Henry William Pickersgill.jpg|thumb|right|アースキン・メイを庶民院図書館員補佐に推薦した{{仮リンク|庶民院議長 (イギリス)|en|Speaker of the House of Commons|label=庶民院議長}}{{仮リンク|チャールズ・マナーズ=サットン (初代カンタベリー子爵)|en|Charles Manners-Sutton, 1st Viscount Canterbury|label=チャールズ・マナーズ=サットン}}。{{仮リンク|ヘンリー・ウィリアム・ピッカーズギル|en|Henry William Pickersgill}}作、1833年。]]
1815年2月8日<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor1-last=Cokayne|editor1-first=George Edward|editor1-link=ジョージ・エワード・コン|editor2-last=Gibbs|editor2-first=Vicary|editor2-link=ヴカリーギブス (セト・オールバンズ選挙区の庶民院議員)|editor3-last=Doubleday|editor3-first=Herbert Arthur|year=1926|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat)|volume=5|edition=2nd|location=London|publisher=The St. Catherine Press, Ltd.|language=en|pages=257–258|url=https://archive.org/details/CokayneG.E.TheCompletePeerageSecondEditionVolume5EAGO/page/n137}}</ref>に[[ハイゲート]]で生まれ<ref name="RG11">[[イギリス国立公文書館]]、記録番号RG 11/117、フォリオ18、[https://search.ancestry.co.uk/cgi-bin/sse.dll?indiv=1&dbid=7572&h=13609640 30頁]</ref>、9月21日に[[セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ]]で洗礼を受け、洗礼記録における両親の名前はトマス・メイ({{lang|en|Thomas May}})とサラ・メイ({{lang|en|Sarah May}})である<ref name="christening">Parish register printouts of Westminster, London, England (Saint Martin in the Fields), christenings, 1813–1837.</ref>。ただし、アースキン・メイの日記を編した{{仮リンク|ウィリアム・マッケイ (庶民院書記官)|en|William McKay (parliamentary official)|label=サー・ウィリアム・マッケイ}}によると<ref>{{Cite book2|language=en|title=Erskine May's Private Journal, 1883-1886|volume=2|date=1984|publisher=H.M. Stationery Office|last=May|first=Thomas Erskine|editor-last=McKay|editor-first=William Robert|editor-link=ウィリアム・マッケイ (庶民院書記官)|url=https://books.google.com/books?id=ClMvAAAAYAAJ&q=McKay}}</ref>アースキン・メイは{{仮リンク|トマス・アースキン (初代アースキン男爵)|en|Thomas Erskine, 1st Baron Erskine|label=初代アースキン男爵トマス・アースキン}}の息子または孫だった可能性があり、メイ自身もそれをほのめかしたという<ref name="ODNB" />
1815年2月8日{{R|Cokayne}}、[[ロンン]]北西部の[[カムデン区]]{{仮リンク|ンティッシュ・タウン|en|Kentish Town}}に生まれる{{Efn2|ケンテッシュタウ庶民院および貴族院の事堂がある[[ウェストミンスター宮殿]]から北に6kmほどに位置する地域。}}{{R|RG11}}{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=31}}。同年9月21日に[[セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ]]で洗礼を受け、洗礼記録における両親の名前はトマス・メイ({{lang|en|Thomas May}})とサラ・メイ({{lang|en|Sarah May}})である{{R|christening}}。メイの父は弁護士業を営んでいた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=31}}。ただし、メイの日記を編した{{R|McKayJournal}}{{仮リンク|ウィリアム・マッケイ (庶民院書記官)|en|William McKay (parliamentary official)|label=サー・ウィリアム・マッケイ}}によると、メイは{{仮リンク|トマス・アースキン (初代アースキン男爵)|en|Thomas Erskine, 1st Baron Erskine|label=初代アースキン男爵トマス・アースキン}}(司法長官の役割を果たす[[大法官]]{{R|LordChancellor}}などを歴任)の息子または孫だった可能性があり、メイ自身もそれをほのめかしたという{{R|ODNB}}


1826年から1831年まで{{仮リンク|ベッドフォード・スクール|en|Bedford School|label=ベッドフォード・グラマースクール}}で校長ジョン・ブリアートン({{lang|en|John Brereton}})の教え子として中等教育を受けた{{R|DNB|Cokayne|RG11}}。[[グラマースクール]]の多くは成功した商人の寄付によって設立された私立校であり{{R|Edu18th}}{{Efn2|グラマースクールの「グラマー」は文法の意味。その前身は12世紀にまで遡り、下級聖職者にラテン語の文法を教える教育機関であった。19世紀中頃時点では、他の教育機関がラテン語などの古語を教える割合が8%未満だったのに対し、グラマースクールの7割強は古語教育を継続していた{{R|HES}}。}}、16世紀設立と古い歴史を持つベッドフォード・グラマースクールも、メイの頃には親元を離れて学ぶ[[寄宿学校|寄宿制]]を採用していた(すなわち寄宿費を支払うだけの財力のある子弟を受け入れていた){{R|BedfordHistory}}{{Efn2|イギリスでは自宅から通学する「ローカル」スクールの対義語として、全土から学生を募る寄宿制の[[パブリックスクール|「パブリック」スクール]]が存在する。安価な授業料の公立校の意味ではなく、寄宿費を捻出できる富裕な家庭に開かれている私立校である。パブリックスクールはグラマースクールを前身とし、18世紀ごろから展開し始めた{{R|BritannicaPubSchool}}。}}。なお、当時のイギリスはヨーロッパ大陸と比較して一般大衆を対象とした教育制度が遅れており{{Sfn|中村|1976|p=36}}、中等教育はおろか初等教育も公立校が未創立の状況であり、教育格差が存在した時代であった{{Efn2|公立の初等教育学校を設置する法案が可決されたのが1870年であり、ほぼ全ての児童が初等教育を受けられるようになったのは1880年代に入ってからである{{Sfn|中村|1976|p=37}}。[https://www.parliament.uk/about/living-heritage/transformingsociety/livinglearning/school/keydates/ イギリス教育改革の年表] も参照のこと。}}。
1826年から1831年まで{{仮リンク|ベッドフォード・スクール|en|Bedford School|label=ベッドフォード・グラマースクール}}で校長ジョン・ブリアートン({{lang|en|John Brereton}})の教え子として教育を受けた後<ref name="DNB" /><ref name="Cokayne" /><ref name="RG11" />、1831年に{{仮リンク|庶民院議長 (イギリス)|en|Speaker of the House of Commons|label=庶民院議長}}{{仮リンク|チャールズ・マナーズ=サットン (初代カンタベリー子爵)|en|Charles Manners-Sutton, 1st Viscount Canterbury|label=チャールズ・マナーズ=サットン}}の推薦を受けて{{仮リンク|庶民院図書館|en|House of Commons Library}}の図書館員補佐({{lang|en|assistant librarian}})になった<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Farnborough, Thomas Erskine May, Baron|volume=10|pages=182–183}}</ref>。


=== 庶民院図書館員補佐として ===
=== 庶民院図書館勤務の初期 ===
その後は高等教育に進学することなく{{Efn2|当時のイングランドにおける大学教育は、貴族制に基づき[[オックスフォード大学]]と[[ケンブリッジ大学]]が独占しており{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|p=71}}、1810年代から1840年代を平均すると、[[オックスブリッジ]]に進学できたのは男女の全学童のうち0.3%に止まった{{R|Rüegg2004}}。この独占状態に風穴を開けたのが、ブルジョワ自由主義的な立場のロンドン大学の[[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]](UCL)であり、1826年設立(メイが中等教育を受けている頃)のことである{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|p=71}}。なお、レーヴェンシュタイン訳書では旧ロンドン大学の設立年を1827年としているが{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|p=71}}、大学側は設立年を1826年と公式表記している{{R|UCL-About}}。}}、16歳で{{仮リンク|庶民院図書館|en|House of Commons Library}}の図書館員補佐({{lang|en|assistant librarian}})になった{{R|EB1911}}。当職への着任は、[[庶民院議長 (イギリス)|庶民院議長]]{{仮リンク|チャールズ・マナーズ=サットン (初代カンタベリー子爵)|en|Charles Manners-Sutton, 1st Viscount Canterbury|label=チャールズ・マナーズ=サットン}}の推薦を受けてのことである{{R|EB1911}}。
庶民院図書館は1818年に設立されたばかりであり、メイが図書館員補佐に就任したときの司書はトマス・ヴァードン({{lang|en|Thomas Vardon}}、在任:1831年 – 1867年)だった<ref name="factsheet">{{Cite web2|language=en|title=Factsheet G18: The House of Commons Library|url=https://www.parliament.uk/documents/commons-information-office/g18.pdf|website=UK Parliament Website|publisher=House of Commons Information Office|pages=7–10|date=September 2010|accessdate=4 January 2020}}</ref>。ヴァードンが1835年に述べたように、当時の庶民院図書館に求められることは主に「議会の儀礼、財政、法案の審議段階、法令の内容」などの情報を議員に速やかに提供することだったが<ref name="Gay">{{Cite journal2|language=en|work=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=Gay|first=Oonagh|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|title=Slumber and Success: The House of Commons Library after May|pages=33–43|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA33}}</ref>、議事録に索引をつけることも業務の1つであった<ref name="factsheet" />。1834年10月に{{仮リンク|議会大火|en|Burning of Parliament}}がおこり図書館の建物が焼け落ち、蔵書の4割とほとんどの写本が失われるという事件もあったが<ref name="factsheet" />、情報管理という責任は庶民院図書館にあるままであった<ref name="Atkins">{{Cite journal2|language=en|work=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=Atkins|first=Martyn|title=Persuading the House: Use of the Commons Journals as a Source of Precedent|pages=69–86|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA69}}</ref>。


庶民院図書館は1818年に設立されたばかりであり、メイが図書館員補佐に就任したときの司書はトマス・ヴァードン({{lang|en|Thomas Vardon}}、在任:1831年 - 1867年)だった{{R|factsheet}}。ヴァードンが1835年に述べたように、当時の庶民院図書館は主に「議会の儀礼、財政、法案の審議段階、法令の内容」などの情報を議員に速やかに提供することをミッションとしており{{Sfn|Essays (Gay: Chapter 2)|2017|p=34}}、この一環で庶民院日誌({{lang|en|journal}})に索引をつける業務も手掛けていた{{R|factsheet}}。日誌とは、法案の請願書や法案審議の経緯と採決結果、主要な出来事などをとりまとめた文献である(審議中の演説や討論の詳細は含まない){{R|AboutJournal1|AboutJournal2|HCJ90}}。庶民院日誌の索引は[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]治世(17世紀初期)の頃より、議会における[[英米法#特色|慣習法]]の源として重要な位置づけにあった{{Efn2|[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の治世とそれに続く[[清教徒革命]](17世紀中期)で一時的に低調になったものの、18世紀末には再び盛んに行われていた{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|pp=77, 80–81}}。文人マーティン・バーニー({{lang|en|Martin Burney}})が1801年から1820年までの日誌索引を作成した後は索引作成の業務が外部委託ではなく庶民院図書館に担当されるようになっている{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=81}}。}}。
1840年代の[[鉄道狂時代]]で鉄道敷設を求める私法律案({{lang|en|private bills}})の請願が殺到したため、これらの請願が議事規則({{lang|en|standing orders}})に従っているかの審査が法案委員会の大きな負担になっており、庶民院議長チャールズ・ショー=ルフェーブルはこの職務を「これまでの庶民院に関する職務の中で最も骨の折れる仕事」と形容した<ref name="ODNB">{{Cite ODNB|id=18424|title=May, Thomas Erskine, Baron Farnborough|last=McKay|first=William|date=3 January 2008}}</ref>。メイが1844年に『議会の法、特権、手続と慣習』を出版したときも鉄道法案に関する解説書の執筆という商機に目をつけたが、結局は議会に関する簡単な解説に留まった<ref name="ODNB" />。その後、私法律案請願の審査が官僚に委ねられることになったため<ref name="ODNB" />、メイは1846年に審査員になり<ref name="Cokayne" />、1847年から1856年まで両院の弁護士費用査定官({{lang|en|taxing master}})を務めた<ref name="DNB" />。


この索引付け業務にメイも携わることとなり、この頃より議会規則について学ぶようになる{{Sfn|Essays (Sharpe & Evans: Chapter 13)|2017|p=228}}。この経験が後の『アースキン・メイ』執筆の糧となったとされる{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=83}}。ヴァードンが図書館司書に、そしてメイが図書館員補佐に就任した1831年時点では、1820年から1829年までの暫定索引がヴァードンの前任者ベンジャミン・スピラー({{lang|en|Benjamin Spiller}})によって作成済の状況にあった{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=81}}。しかし、その後の索引付け業務は以下のとおり、幾度となく中断せざるをえなかった。
1850年に{{仮リンク|庶民院書記官 (イギリス)|en|Clerk of the House of Commons|label=庶民院書記官}}のジョン・ヘンリー・リー({{lang|en|John Henry Ley}})が急死したとき、庶民院議長チャールズ・ショー=ルフェーブルはアースキン・メイを高く評価して、彼が適任であるとしたが、首相で[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]員であった[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル]]が同じくホイッグ党員であった{{仮リンク|デニス・ル・マーチャント (初代準男爵)|en|Denis Le Marchant|label=初代準男爵サー・デニス・ル・マーチャント}}を推したため、結局ル・マーチャントが庶民院書記官に任命された<ref name="McKay">{{Cite journal2|language=en|work=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=McKay|first=William|authorlink=ウィリアム・マッケイ (庶民院書記官)|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|title=A Sycophant of Real Ability: The Career of Thomas Erskine May|pages=21–32|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA21}}</ref>。後年になって、ショー=ルフェーブルはこの出来事を回想し、アースキン・メイへの手紙で「単に友人のため、政府を長年支持してきたために彼を任命したというラッセル卿の行動はなかなか正当化できない」と述べた{{Refnest|group=注釈|庶民院議員経験者が庶民院書記官に任命されたのは1659年という議会が低調の時期に任命されたトマス・セント・ニコラス({{lang|en|Thomas St Nicholas}})以来のことだった<ref name="McKay" />。また、18世紀の[[ジェレマイア・ダイソン]]のように庶民院書記官から議員に転身する例もある<ref>{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/member/dyson-jeremiah-1722-76|title=DYSON, Jeremiah (?1722-76), of Stoke, nr. Guildford, Surr.|last=Brooke|first=John|accessdate=4 January 2020}}</ref>。}}<ref name="McKay" />。


[[File:Joseph Mallord William Turner, English - The Burning of the Houses of Lords and Commons, October 16, 1834 - Google Art Project.jpg|thumb|1834年の{{仮リンク|議会大火|en|Burning of Parliament}}を目撃した画家[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ターナー]]による油絵]]
==== 庶民院日誌への索引付け ====
まず、索引作成はスピラーの離任でいったん中止されている{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=81}}。続いて1834年10月には{{仮リンク|議会大火|en|Burning of Parliament}}によって図書館の建物が焼け落ちる事件が起こった{{R|factsheet}}。過去の貴重な法案請願書など日誌索引付けの対象物を火の粉から守るため、図書館員たちは機転を利かせて窓から放り投げるも{{R|BBC-Burn}}、蔵書の4割とほとんどの写本が失われた{{R|factsheet}}。だが、情報管理という責任は庶民院図書館に残されており{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=81}}、1836年に庶民院議長{{仮リンク|ジェームズ・アバークロンビー (初代ダンファンリン男爵)|en|James Abercromby, 1st Baron Dunfermline|label=ジェームズ・アバークロンビー}}が改めて索引作成をヴァードンに命じた{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=81}}。ところがその矢先に、国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]が死去して[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]が即位することになったため、索引作成は再び中断され、1839年8月にようやく完成した{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=81}}。1820年から1837年の庶民院日誌索引では"{{lang|en|PREPARED by Thomas Vardon}}"と書かれており、メイの関与は明示されなかったが、庶民院日誌局({{lang|en|House of Commons Journal Office}})所蔵の索引では手書きで"{{lang|en|Thomas May &}}"とつけ加えられていたという{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=82}}。
[[ファイル:Speaker Abercromby by John Jackson.jpg|thumb|right|メイが庶民院日誌索引の作成に関わるきっかけとなった庶民院議長{{仮リンク|ジェームズ・アバークロンビー (初代ダンファンリン男爵)|en|James Abercromby, 1st Baron Dunfermline|label=ジェームズ・アバークロンビー}}]]
庶民院日誌の索引は[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の治世より議会における慣習法の源となっており、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の治世とそれに続く[[清教徒革命]]で一時的に低調になったものの、18世紀末には再び盛んに行われていた<ref name="Atkins" />。文人マーティン・バーニー({{lang|en|Martin Burney}})が1801年から1820年までの日誌索引を作成した後は索引作成の業務が外部委託ではなく庶民院図書館に担当されるようになり、ヴァードンの前任者ベンジャミン・スピラー({{lang|en|Benjamin Spiller}})は1820年から1829年までの暫定索引を作成した<ref name="Atkins" />。これがヴァードンとメイが就任した時点の状況であるが、索引作成はスピラーの離任でいったん中止され、1836年に庶民院議長{{仮リンク|ジェームズ・アバークロンビー (初代ダンファンリン男爵)|en|James Abercromby, 1st Baron Dunfermline|label=ジェームズ・アバークロンビー}}が改めて索引作成をヴァードンに命じた<ref name="Atkins" />。しかし、その矢先に国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]が死去して[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]が即位することになったため、索引作成は一時中断され、1839年8月にようやく完成した<ref name="Atkins" />。1820年から1837年の庶民院日誌索引では"{{lang|en|PREPARED by Thomas Vardon}}"と書かれており、メイの関与は明示されなかったが、庶民院日誌局({{lang|en|House of Commons Journal Office}})所蔵の索引では手書きで"{{lang|en|Thomas May &}}"とつけ加えられていたという<ref name="Atkins" />。


個人としてのメイはこの時期、庶民院図書館勤務に在籍のまま、1834年6月に高等教育機関である[[法曹院]]の[[ミドル・テンプル]]に進学している{{R|DNB|PA1950}}。進学から4か月後に発生した議会大火は、メイに庶民院日誌の勉強に集中する機会を与え、矛盾する可能性もあるほかの情報源を排除することができたとされる{{Sfn|Essays (Evans & Ninkovic: Chapter 7)|2017|p=115}}。1838年には弁護士資格免許を取得し{{R|DNB|PA1950}}、索引付けを完成させた1839年の同月には公務員の娘ルイーザ・ジョハンナ・ロートンと結婚した{{R|Cokayne|May-PA}}。
メイはこの頃より議会規則について学ぶようになり、1832年に{{仮リンク|1832年改革法|en|1832 Reform Act|label=第1次選挙法改正}}が行われたものの、メイは「議案の通過は複雑で長い手順であり、1832年時点でも[[エリザベス1世]]の議会とそれほど違わなかった」と感じた<ref name="SharpeEvans">{{Cite journal2|language=en|work=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=Sharpe|first=Jacqy|last2=Evans|first2=Paul|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|title=Finding Time: Legislative Procedure since May|pages=227–247|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA227}}</ref>{{Refnest|group=注釈|議員は議案について質問することができ、(1832年時点の)最短手順をとったとしても第一読会で4問、第二読会で5問、法案委員会で9問、第三読会で6問が必要だった<ref name="SharpeEvans" />。修正案が提出された場合は必要な質問数がさらに増えた<ref name="SharpeEvans" />。}}。カリ・パロネン({{lang|fi|Kari Palonen}})によると、第1次選挙法改正に伴う議事時間の不足は議事日程における争点になり、これが1844年に出版されたメイの著作『[[アースキン・メイ (書籍)|議会の法、特権、手続と慣習]]』で扱われたテーマだったという<ref name="Palonen" />。後世の庶民院日誌局秘書官マーティン・アトキンス({{lang|en|Martyn Atkins}})はメイが同書を書くことができた理由として、ヴァードンとともに庶民院図書館の業務に関わったことと、すでに出版されていた議事規則本に触れたことを挙げ<ref name="Atkins" />、ポール・エヴァンス({{lang|en|Paul Evans}})とアンドレイ・ニンコヴィチ({{lang|en|Andrej Ninkovic}})は1834年の議会大火によりメイが庶民院日誌の勉強に集中し、矛盾する可能性もあるほかの情報源を排除することができたとした<ref name="EvansNinkovic" />。いずれにしても、同書は庶民院議長{{仮リンク|チャールズ・ショー=ルフェーブル (初代エヴァーズリー子爵)|en|Charles Shaw-Lefevre, 1st Viscount Eversley|label=チャールズ・ショー=ルフェーブル}}から評価され、メイは後年の出世をショー=ルフェーブルに助けられることとなる<ref name="McKay" />。


=== 『アースキン・メイ』初版執筆(1844年) ===
1845年に庶民院が索引を調査し、1714年から1837年までの日誌索引は大きな問題がなかったものの、1547年から1714年までの日誌索引は再作成する必要があると判断した<ref name="Atkins" />。これによりヴァードンとメイの共作で1547年から1714年までの日誌索引が1852年に出版され、アトキンスはこの経験が『議会の法、特権、手続と慣習』第2版(1851年)と第3版(1855年)の内容に影響を与えたとしている<ref name="Atkins" />。ヴァードンは1857年に1837年から1852年までの日誌索引を出版するとき、メイの『議会の法、特権、手続と慣習』を褒め称え、改めて索引を作成する必要がなくなったとほのめかすほどであった(ただし、ヴァードンは1865年分まで索引を作成し、1867年に死去すると索引作成の業務は日誌局秘書官が引き継いだ)<ref name="Atkins" />。
{{Main|アースキン・メイ (書籍)}}
[[ファイル:Erskine May - Parliamentary Practice 1844 titlepage.png|thumb|right|『アースキン・メイ』初版の表題紙]]
[[議事規則本]]『[[アースキン・メイ (書籍)|議会の法、特権、手続と慣習]]』(原題: {{lang|en|''"A Treatise upon the Law, Privileges, Proceedings and Usage of Parliament"''}})、通称『アースキン・メイ』の初版をメイが上梓したのは、庶民院日誌の索引付け業務を完了してから5年後の1844年のことである{{Sfn|May|1844|pp=i|loc=§ 前表紙}}。当時のメイは30歳手前であり、肩書は庶民院図書館員補佐のままであった{{R|BioParliament}}。後世の庶民院日誌局秘書官マーティン・アトキンス({{lang|en|Martyn Atkins}})は『アースキン・メイ』を執筆できた要因として、ヴァードンとともに庶民院図書館の業務に関わった経験と、すでに出版されていた議事規則本に触れたことを挙げている{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=83}}。


当時、1832年の[[1832年改革法|第1次選挙法改正]]に伴う議事時間の不足は議事日程における争点になっており{{Sfn|Vieira|2015|p=25}}、研究者カリ・パロネン({{lang|fi|Kari Palonen}})によればこの非効率性が『アースキン・メイ』で扱われたテーマだったという{{Sfn|Palonen|2012|p=18}}。メイは第1次選挙法改正を「議案の通過は複雑で長い手順であり、1832年時点でも[[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]の議会とそれほど違わなかった」と感じていた{{Sfn|Essays (Sharpe & Evans: Chapter 13)|2017|p=228}}{{Efn2|議員は議案について質問することができ、(1832年時点の)最短手順をとったとしても第一読会で4問、第二読会で5問、法案委員会で9問、第三読会で6問が必要だった{{Sfn|Essays (Sharpe & Evans: Chapter 13)|2017|p=228}}。修正案が提出された場合は必要な質問数がさらに増えた{{Sfn|Essays (Sharpe & Evans: Chapter 13)|2017|p=228}}。}}。
ヴァードンの死後、庶民院図書館が索引作成を担当しなくなったため、先例を提供するという役割を失い、ただの議員休憩所と化した<ref name="Gay" />。図書館の管理はそのまま停滞し、1930年までに議員から問題提起されたものの、実際に改善が行われたのは[[第二次世界大戦]]後のこととなる<ref name="Gay" />。


1830年代から40年代にかけて、イギリスはいわゆる[[鉄道狂時代]]を迎えており{{Sfn|中村|1976|p=37}}、鉄道敷設を求める私法律案({{lang|en|private bills}})の請願が議会に殺到した{{R|ODNB}}。これらの請願が議事規則({{lang|en|standing orders}})に従っているかの審査が法案委員会の大きな負担になっており、{{仮リンク|チャールズ・ショー=ルフェーブル (初代エヴァーズリー子爵)|en|Charles Shaw-Lefevre, 1st Viscount Eversley|label=チャールズ・ショー=ルフェーブル}}(庶民院議長在任: 1839 - 1857年)はこの職務を「これまでの庶民院に関する職務の中で最も骨の折れる仕事」と形容した{{R|ODNB}}。なお『アースキン・メイ』初版を出版したとき、メイは鉄道法案に関する解説書の執筆という商機に目をつけていたが、結局は議会に関する簡単な解説に留まった{{R|ODNB}}。
==== 『議会公務を促進するための所見と提言』(1849年) ====
メイの後任として庶民院書記官を務めた{{仮リンク|レジナルド・パルグレイヴ|en|Reginald Palgrave}}が『議会の法、特権、手続と慣習』第10版(1893年)の序文で述べていたように、「1844年時点の議事規則は[[長期議会]]のそれとは本質的には同じ」であり、メイの時代である[[ヴィクトリア朝]]ではすでに立ち遅れていた<ref name="McKayReform">{{Cite journal2|language=en|work=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=McKay|first=William|authorlink=ウィリアム・マッケイ (庶民院書記官)|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|title=The Principle of Progress: May and Procedural Reform|pages=158–170|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA158}}</ref>。メイは『議会の法、特権、手続と慣習』初版を出版した後、後述のように議事規則の改革に関わるようになった。


メイは本作の初版をショー=ルフェーブル議長に献呈し{{Sfn|May|1844|pp=iii, vii}}、ショー=ルフェーブルは「現状でもたいへん役に立ち、新版が出版されれば完成度が高くなるだろう」と評した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=22}}。そしてメイは、後年の出世をショー=ルフェーブルに助けられることとなる{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}。
『議会公務を促進するための所見と提言』({{lang|en|''Remarks and Suggestions with a View to Facilitate the Dispatch of Public Business in Parliament''}}、ロンドン、1849年、[[八折り判|8vo]]パンフレット<ref name="DNB" />)は議事規則改革についてのパンフレットであり、その背景としては1847年から1848年の会期の長さがある<ref name="RemarksAndSuggestions1">{{Cite book2|language=en|last=May|first=Thomas Erskine|date=1849|title=Remarks and Suggestions with a View to Facilitate the Dispatch of Public Business in Parliament|publisher=James Ridgeway|location=London|page=1|url=https://books.google.com/books?id=zj9cAAAAcAAJ&pg=PA1}}</ref>。この会期は1847年11月18日<ref>{{Cite hansard|language=en|jurisdiction=United Kingdom|house=House of Commons|date=18 November 1847|column=3|title=Choice of a Speaker|url=https://api.parliament.uk/historic-hansard/commons/1847/nov/18/choice-of-a-speaker}}</ref>に開会し、1848年9月5日にようやく閉会したが<ref>{{Cite hansard|language=en|jurisdiction=United Kingdom|house=House of Commons|date=5 September 1848|column=798|title=Prorogation of the Parliament|url=https://api.parliament.uk/historic-hansard/commons/1848/sep/05/prorogation-of-the-parliament}}</ref>、293日にわたる会期は記録である270日(1802年 – 1803年の会期)を大幅に更新した<ref name="RemarksAndSuggestions1" />。


=== 議会運営改革の提言 ===
1847年から1848年の会期は[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル卿]]率いる{{仮リンク|第1次ラッセル内閣|en|First Russell ministry}}の最中にあり、ラッセルは1846年に首相に就任した後{{仮リンク|1847年工場法|en|Factories Act 1847}}(通称「十時間労働法」)、{{仮リンク|1848年公衆衛生法|en|Public Health Act 1848}}など改革法案を次々と打ち出し、ラッセルと連携していた[[ピール派]]から「急行列車の速さ」と形容されたが、実際は内閣が弱体だったため法案成立が遅く、1847年から1848年の会期では法案200件に対し採決が255回と多く(前年と比べ、法案数は22%増、採決数は50%増)、会期中に会議が行われた1,407.5時間のうち136.25時間は0時以降だった<ref name="Vieira66-67">{{Cite book2|language=en|last=Vieira|first=Ryan A.|title=Time and Politics: Parliament and the Culture of Modernity in Britain and the British World|publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]|date=9 July 2015|isbn=978-0-19-873754-4|page=25|url=https://books.google.com/books?id=PonaCQAAQBAJ&pg=PA66}}</ref>。メイはこの状況においても[[立法府]]の目的が果たされたとの見解を示したが、多くの「時間、エネルギー、健康を浪費」して得た結果であると付け加えた<ref name="RemarksAndSuggestions6">{{Cite book2|language=en|last=May|first=Thomas Erskine|date=1849|title=Remarks and Suggestions with a View to Facilitate the Dispatch of Public Business in Parliament|publisher=James Ridgeway|location=London|page=6|url=https://books.google.com/books?id=zj9cAAAAcAAJ&pg=PA6}}</ref>。
『アースキン・メイ』初版を上梓した後には、1840年代の[[鉄道狂時代|鉄道への投資熱]]により鉄道建設のための私法律案が大幅に増えるとともに、議会が担っていた私法律案請願の審査が庶民院議員から庶民院の役人に委ねられることになったため、メイは1847年から私法律案請願審査員に就任した{{R|ODNB}}。また、両院の弁護士費用査定官({{lang|en|taxing master}}、別名: {{lang|en|costs judge}}{{Efn2|{{仮リンク|大法官裁判所|en|Court of Chancery}}の役職の一種。メイが弁護士費用査定官に就任する2年前の情報によると、イングランドでは20年以上の法務経験を当職の就任資格要件として法律上規定していた{{R|TM-Amend}}。なお、イギリスでは司法(裁判所の機能)と立法・行政が明確には分離しておらず、[[大法官]]は内閣の一員である{{R|LordChancellor}}。現代においては、taxing masterは高等裁判所の一部門である[[高等法院 (イングランド・ウェールズ)|高等法院]]に所属し、判決を受けて訴訟当事者の一方から他方へ支払われる裁判費用を審査する役割を担っている{{R|CostsJudge}}。}})を兼務する形で、1847年から1856年まで務めた{{R|DNB|BioParliament}}{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=158}}{{Efn2|name=CareerGap|一部の文献では、私法律案請願審査員は1846年の1年のみで、翌1847年から1856年まで弁護士費用査定官を専任したとの記録も存在する{{R|Cokayne}}。}}。


この時期メイは、議事規則の改革提言をとりまとめた2本と、成文法の統合改革を論じた1本の著述を行っている。メイの後任として庶民院書記官を務めた[[レジナルド・パルグレイヴ]]が『アースキン・メイ』第10版(1893年)の序文で述べていたように、(初版が出版された)「1844年時点の議事規則は[[長期議会]]のそれとは本質的には同じ」であり、メイの時代である[[ヴィクトリア朝]]ではすでに立ち遅れていた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=157}}。
議会弁論の冗長化を数字として表す一例としては演説回数の統計があり、1810年に1,194回行われた演説が1847年には5,332回と3.4倍増であった<ref name="Vieira25" />。演説回数が増えた理由として、メイは選挙の自由化により大衆が代議士の活動状況に注目するようになったことを挙げた<ref name="Vieira25">{{Cite book2|language=en|last=Vieira|first=Ryan A.|title=Time and Politics: Parliament and the Culture of Modernity in Britain and the British World|publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]|date=9 July 2015|isbn=978-0-19-873754-4|page=25|url=https://books.google.com/books?id=PonaCQAAQBAJ&pg=PA25}}</ref>。その前年には[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー]]が貴族院で「選挙区が代表をさらに入念に見守るようになった」ため「議員が選挙区の注目を引くために演説回数を増やした」と指摘しており、メイと見解が一致した<ref name="Vieira25" />。


==== 『議会公務を促進するための所見と提言』執筆(1849年) ====
こうした情勢のなか、庶民院は公務委員会({{lang|en|Committee on Public Business}})を設立して議事規則の改革を検討<ref name="RemarksAndSuggestions1" />、メイも友人の議長{{仮リンク|チャールズ・ショー=ルフェーブル (初代エヴァーズリー子爵)|en|Charles Shaw-Lefevre, 1st Viscount Eversley|label=チャールズ・ショー=ルフェーブル}}に提言し、ショー=ルフェーブルは委員会でメイの提言の一部を提出した<ref name="McKayReform" />。メイは改革の勢いが衰えないうちに『議会公務を促進するための所見と提言』というパンフレットを出版し<ref name="McKayReform" />、無関係な発言を制限する、採決数を減らす、米国の「1時間ルール」(1時間を超える長演説を禁止)の導入、フランスの「弁論終了動議」の導入といった方策について意見を述べた<ref name="RemarksAndSuggestions26-33">{{Cite book2|language=en|last=May|first=Thomas Erskine|date=1849|title=Remarks and Suggestions with a View to Facilitate the Dispatch of Public Business in Parliament|publisher=James Ridgeway|location=London|pages=26–33|url=https://books.google.com/books?id=zj9cAAAAcAAJ&pg=PA26}}</ref>。マッケイはメイが「記事規則をめぐってはホイッグ党員である」とし、メイの議事規則に関する「提言の多くが徹底的であるが、全般的には明らかな濫用を防ぐための改正を好み、古い原則を捨てることには渋った」としている<ref name="McKayReform" />。
本書は、議事規則改革を唱えたパンフレット(原題: {{lang|en|''"Remarks and Suggestions with a View to Facilitate the Dispatch of Public Business in Parliament"''}}、ロンドン、1849年、[[八折り判|8vo]][[パンフレット]]{{R|DNB}})である。その執筆背景としては、1847年から1848年の会期の長さがある{{Sfn|May|1849|p=1}}。この会期は1847年11月18日{{R|Hansard1847}}に開会し、1848年9月5日にようやく閉会したが{{R|Hansard1848}}、293日にわたる会期は記録である270日(1802年 - 1803年の会期)を大幅に更新した{{Sfn|May|1849|p=1}}。


1847年から1848年の会期は、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党首]][[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル卿]]率いる{{仮リンク|第1次ラッセル内閣|en|First Russell ministry}}の最中にあり、ラッセルは1846年に首相に就任した後{{仮リンク|1847年工場法|en|Factories Act 1847}}(通称「十時間労働法」)、{{仮リンク|1848年公衆衛生法|en|Public Health Act 1848}}など改革法案を次々と打ち出し、ラッセルと連携していた[[ピール派]]から「急行列車の速さ」と形容されたが、実際は内閣が弱体だったため法案成立が遅く、1847年から1848年の会期では法案200件に対し採決が255回と多く(前年と比べ、法案数は22%増、採決数は50%増)、会期中に会議が行われた1,407.5時間のうち136.25時間は0時以降だった{{Sfn|Vieira|2015|pp=66&ndash;67}}。メイはこの状況においても[[立法府]]の目的が果たされたとの見解を示しつつも、多くの「時間、エネルギー、健康を浪費」して得た結果であると付け加えた{{Sfn|May|1849|p=6}}。
==== 『議会立法機構』(1854年) ====
1848年から1849年にかけての庶民院公務委員会は最終的にはショー=ルフェーブルが提出した提言の一部を容れ、穏健な改革案を通した<ref name="McKayReform" />。改革案が1853年に発効すると、メイは再び議事規則改革を目指すようになり、1854年1月に『{{仮リンク|エディンバラ・レビュー|en|Edinburgh Review}}』に『議会立法機構』({{lang|en|The Machinery of Parliamentary Legislation}})を寄稿した<ref name="McKayReform" />。


議会弁論の冗長化を数字として表す一例としては演説回数の統計があり、1810年に1,194回行われた演説が1847年には5,332回と3.4倍増であった{{Sfn|Vieira|2015|p=25}}。演説回数が増えた理由として、メイは選挙の自由化により大衆が代議士の活動状況に注目するようになったことを挙げた{{Sfn|Vieira|2015|p=25}}。その前年には[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー]]が貴族院で「選挙区が代表をさらに入念に見守るようになった」ため「議員が選挙区の注目を引くために演説回数を増やした」と指摘しており、メイと見解が一致した{{Sfn|Vieira|2015|p=25}}。
メイは『議会立法機構』で「庶民院の議事のほとんどは日誌の第1巻で前例がみられる。その文言は古風であるものの、継続して参照されたため、内戦や革命を経ても無傷のままである。この古き伝統を守るべきという矜持が、現代の条例や規則よりも伝統が敬意をもって従われる理由である」と議会における前例の重要性を説き、「イギリスの議会制度がフランス、ベルギー、アメリカなどで広く採用されたのは制度の優秀さとその名声による」と称えつつ、「[[腐敗選挙区]]を廃止する、[[穀物法|穀物への徴税]]を廃止する、[[イギリスにおける死刑|羊盗り犯を絞首刑に処さない]]といった改革が全て『栄誉ある憲法への侵害』」として「聖地扱い」されるという危険性も指摘した<ref name="Machinery4">{{Cite book2|language=en|last=May|first=Thomas Erskine, Sir|title=The Machinery of Parliamentary Legislation|date=1881|publisher=Longmans, Green, And Co.|location=London|url=https://archive.org/details/machineryofparli00mayt/page/4|page=4}}</ref>。メイはまた、議会慣例が「古く、少なくとも3世紀もの間遵守された」ことを[[イギリスの憲法]]の特徴とした<ref name="Machinery4" />。この主張は晩年になっても変わることはなく、[[陸奥宗光]]がヨーロッパ留学中(1884年 – 1885年)にメイ本人に教えを請うたとき<ref name="Gendai">{{Cite web|language=ja|title=教科書の記述はもう古い?「明治憲法」をめぐる歴史の新常識|date=2019-6-13|url=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65154?page=3|website=現代ビジネス|accessdate=2019-12-08}}</ref>、陸奥が「イギリスが責任内閣制の恩恵を享受しているのは、徐々にほとんど無意識のうちに形成されたことと慣習とが、一体になることによる」と指摘すると、メイもそれに同調して「イギリスがそうだったように、日本も議会制政治を確立するには200年かかるであろう」と答えた<ref name="JPF7">{{Cite journal|language=ja|author=高世信晃|title=陸奥宗光の政治的「個人」創出の試み明治におけるヨーロッパ政治思想の日本的取捨選択について|isbn=978-4-87540-164-3|editor=国際交流基金アルザス・欧州日本学研究所|date=2014-04|journal=アルザス日欧知的交流事業 日本研究セミナー「明治」報告書|url=https://www.jpf.go.jp/j/project/intel/exchange/organize/ceeja/report/09_10/pdf/09_10_11.pdf|page=7}}</ref>。


こうした情勢のなか、庶民院は公務委員会({{lang|en|Committee on Public Business}})を設立して議事規則の改革を検討{{Sfn|May|1849|p=1}}、メイも敬愛する議長ショー=ルフェーブルに提言し、ショー=ルフェーブルは委員会でメイの提言の一部を提出した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=158}}。メイは改革の勢いが衰えないうちにパンフレット『議会公務を促進するための所見と提言』を出版し{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=158}}、無関係な発言を制限する、採決数を減らす、米国の「1時間ルール」(1時間を超える長演説を禁止)の導入、フランスの「弁論終了動議」の導入といった方策について意見を述べた{{Sfn|May|1849|pp=26&ndash;33}}。メイは「議事規則をめぐっては(時として露骨なまでに)ホイッグ党支持」であったとされ、メイの議事規則に関する「提言の多くが徹底的であるが、全般的には明らかな濫用を防ぐための改正を好み、古い原則を捨てることには渋った」と言われる{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=158}}。
『議会立法機構』が出版された時点でメイは1547年から1714年までの庶民院日誌索引を完成させており<ref name="Atkins" />、弁論終結動議({{lang|en|closure motion}})の提言では1604年の前例を引用した論述となっている<ref name="McKayReform" />。このときの提言のうち、議長が職務を執行できない場合に{{仮リンク|歳入委員会委員長|en|Chairman of Ways and Means}}が副議長として議長職務にあたるという提言は1855年副議長法({{lang|en|Deputy Speaker Act 1855}})で受け入れられたが、1854年の庶民院業務特別委員会({{lang|en|Select Committee on the Business of the House}})は[[保守党 (イギリス)|保守党]]多数であり、結局改革は急迫なもの(例としては、貴族院からのメッセージを庶民院に届ける業務を含む官職が廃止される予定だったため、秘書官がその業務を受け継ぐという提言が受け入れられた)を除いてほどんど進まなかった<ref name="McKayReform" />。


==== 『議会立法機構』執筆(1854年) ====
『議会立法機構』はメイの晩年の1881年になってパンフレットとして再出版されたが、メイは再出版にあたって手紙を書き、「1854年という大昔に書いた記事を再出版するという提案は喜ばしいが、(記事が)今の状況にも適用できるか疑わざるを得なかった。しかし、それをもう一度読むと、有効な立法への障礙がそれほど残っていることと、議事規則という古い制度の欠点を補い、濫用を防ぐ措置のそれほど行われていないことに驚いた」と述べた<ref>{{Cite book2|language=en|last=May|first=Thomas Erskine, Sir|title=The Machinery of Parliamentary Legislation|date=1881|publisher=Longmans, Green, And Co.|location=London|url=https://archive.org/details/machineryofparli00mayt/page/n4}}</ref>。
1848年から1849年にかけての庶民院公務委員会は最終的にはショー=ルフェーブルが提出した提言の一部を容れ、穏健な改革案を通した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=160}}。改革案が1853年に発効すると、メイは再び議事規則改革を目指すようになり、1854年1月に『{{仮リンク|エディンバラ・レビュー|en|Edinburgh Review}}』に論文「議会立法機構」(原題: {{lang|en|''"The Machinery of Parliamentary Legislation"''}})を寄稿した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|pp=160–161}}。投稿時点では匿名だったが{{R|Edinburgh}}、1881年の再版で記名となった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=161}}。


{{Quote box
==== 『選挙法の統合について』(1850年) ====
|title = 議会における先例の重要性を説いたメイの言葉
メイは図書館員補佐在任中の1834年6月20日に[[ミドル・テンプル]]に入学し、1838年5月4日に弁護士資格免許を取得した<ref name="DNB" /><ref name="parliamentaryaffairs1950">{{cite journal2|language=en|last=Fellowes|first=E. A.|title=Review section|journal=Parliamentary Affairs|date=1 January 1950|volume=IV|issue=2|pages=266|url=http://pa.oxfordjournals.org/cgi/pdf_extract/IV/2/266|accessdate=16 July 2010}}</ref>。そのためか、メイは成文法の法典化、統合、索引作成にも興味を持ち、その第一歩として1850年に『選挙法の統合について』({{lang|en|''On the Consolidation of the Election Laws''}}、ロンドン、1850年、8voパンフレット<ref name="DNB" />)を出版した<ref name="McKayReform" />。『選挙法の統合について』では議員の選挙と就任に関する法律を扱っており、メイは選挙関連の法律が250件もあり、その多くがすでに失効していたが正式に廃止されておらず、また重複や矛盾する箇所も多かったと指摘した<ref name="McKayReform" />。その対処法として、メイは選挙を経ていない人物が法案起草に関わることを拒否したため、代わりに庶民院委員会として起草委員会の設立を1857年の成文法委員会特別委員会({{lang|en|Select Committee on the Statute Law Commission}})に提言した<ref name="McKayReform" />。しかし、メイがこの改革により立法に遅延が生じると認めた結果、委員会は提言を受け入れず、メイが次に成文法の改革に関わるのは成文法改正委員会に入った後のこととなった<ref name="McKayReform" />。
|quote = 庶民院の議事のほとんどは日誌の第1巻で先例がみられる。その文言は古風であるものの、継続して参照されたため、内戦や革命を経ても無傷のままである。この古き伝統を守るべきという矜持が、現代の条例や規則よりも伝統が敬意をもって従われる理由である。(中略)イギリスの議会制度がフランス、ベルギー、アメリカなどで広く採用されたのは制度の優秀さとその名声による。
|source = 『議会立法機構』(1881年再出版)より試訳{{Sfn|May|1881|p=4}}
|width = 40%
|align = right
|quoted = 1
}}


メイはこの論文で、議会における先例の重要性を説きつつ、「[[腐敗選挙区]]を廃止する、[[穀物法|穀物への徴税]]を廃止する、[[イギリスにおける死刑|羊盗り犯を絞首刑に処さない]]といった改革が全て『栄誉ある憲法への侵害』」として「聖地扱い」されるという危険性も指摘した{{Sfn|May|1881|p=4}}。メイはまた、議会慣例が「古く、少なくとも3世紀もの間遵守された」ことを[[イギリスの憲法]]の特徴とした{{Sfn|May|1881|p=4}}。この主張は晩年になっても変わることはなく、1880年代の[[陸奥宗光]]との対談(後述)でも見られた。
1875年にメイが議会立法特別委員会({{lang|en|Select Committee on Acts of Parliament}})で証言したとき、彼は成文法の状況がかなり改善したと述べた<ref name="McKayReform" />。

先例を重んじる姿勢は「議会立法機構」の執筆スタイルそのものにも表れており、弁論終結動議({{lang|en|closure motion}})の提言では2世紀以上前の1604年を先例引用した論述となっている{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=161}}。当時のメイは図書館司書のヴァードンと共作で、1547年から1714年までの庶民院日誌索引を再作成・完成させており{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=82}}{{Efn2|1845年に庶民院が日誌索引を調査したところ、(メイが索引付けを担当した期間を含む)1714年から1837年までの索引は大きな問題がなかったものの、1547年から1714年までの日誌索引は再作成する必要があると判断した。これによりヴァードンとメイの共作で1547年から1714年までの日誌索引が再作成され、1852年に出版された{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=82}}。}}、1604年の先例引用はこの日誌の期間と符合する。

さらにはこの日誌索引再作成の経験が、『アースキン・メイ』第2版(1851年)と第3版(1855年)の改訂にも影響を与えたとされる{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=83}}。ヴァードンは1857年に1837年から1852年までの日誌索引を出版するとき、『アースキン・メイ』を褒め称え、改めて索引を作成する必要がなくなったとほのめかすほどであった{{Efn2|ただし、ヴァードンは1865年分まで索引を作成し、1867年に死去すると索引作成の業務は日誌局秘書官が引き継いだ{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=83}}。ヴァードンの死後、庶民院図書館が索引作成を担当しなくなったため、先例を提供するという役割を失い、ただの議員休憩所と化した{{Sfn|Essays (Gay: Chapter 2)|2017|p=35}}。図書館の管理はそのまま停滞し、1930年までに議員から問題提起されたものの、実際に改善が行われたのは[[第二次世界大戦]]後のこととなる{{Sfn|Essays (Gay: Chapter 2)|2017|pages=35–36}}。}}。

メイが「議会立法機構」で論じた提言は多岐に渡るが、実現したのはその一部のみである。議長が職務を執行できない場合に{{仮リンク|歳入委員会委員長|en|Chairman of Ways and Means}}が副議長として議長職務にあたるという提言は1855年副議長法({{lang|en|Deputy Speaker Act 1855}})で受け入れられたが、1854年の庶民院業務特別委員会({{lang|en|Select Committee on the Business of the House}})は[[保守党 (イギリス)|保守党]](旧トーリー党)多数であり、結局改革は急迫なもの(例としては、貴族院からのメッセージを庶民院に届ける業務を含む官職が廃止される予定だったため、秘書官がその業務を受け継ぐという提言が受け入れられた)を除いてほとんど進まなかった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=163}}。

『議会立法機構』はメイの晩年の1881年になってパンフレットの装丁で再出版されているが、メイは再出版にあたって筆者序文を寄せ、「1854年という大昔に書いた記事を再出版するという提案は喜ばしいが、(記事が)今の状況にも適用できるか疑わざるを得なかった。しかし、それをもう一度読むと、有効な立法への障礙がそれほど残っていることと、議事規則という古い制度の欠点を補い、濫用を防ぐ措置のそれほど行われていないことに驚いた」と振り返った{{Sfn|May|1881|p=4}}。

==== 『選挙法の統合について』執筆(1850年) ====
メイの改革提言は議事規則(立法のプロセス)に留まらず、成文法の法典化・統合・索引作成(立法の成果物)にもおよんでいる。その第一歩として1850年に『選挙法の統合について』({{lang|en|''On the Consolidation of the Election Laws''}}、ロンドン、1850年、8vo[[パンフレット]]{{R|DNB}})を出版した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=169}}。『選挙法の統合について』では議員の選挙と就任に関する法律を扱っており、メイは選挙関連の法律が250件近くもあり、その多くがすでに失効していたが正式に廃止されておらず、また重複や矛盾する箇所も多かったと指摘した。このような成文法間の不整合を正すべきとの課題認識は、選挙法に限らず既に19世紀前半には広く争点となっていた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=169}}。

このような成文法間の不整合の原因として、メイは初期法案が審議の過程でその解釈が歪められやすい立法プロセス上の問題点を指摘している。しかしながら、立法府の権限を制限するような急進的な方法でこの問題を解決するのも不適切と考えていた。つまり、選挙を経ていない人物が法案起草に関わるべきではないとの見解である。そこでメイは、既存の庶民院各委員会の下部に法案起草を目的とした小委員会を創設する階層構造を提唱した。この改革案は、1857年の成文法委員会特別委員会({{lang|en|Select Committee on the Statute Law Commission}})にて進言されている{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|pp=169&ndash;170}}。しかし、メイがこの改革により立法に遅延が生じると認めた結果、委員会が提言を受け入れることはなかった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=170}}。

メイが次に成文法の改革に関わるのは、成文法改正委員会に自身が直接参画した後のことである。なお、『選挙法の統合について』出版から四半世紀が過ぎた1875年の議会立法特別委員会({{lang|en|Select Committee on Acts of Parliament}})において、メイは成文法の状況がかなり改善したと証言している{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=170}}。


=== 庶民院書記官補佐として ===
=== 庶民院書記官補佐として ===
[[ファイル:Charles Shaw-Lefevre, Viscount Eversley.jpg|thumb|right|アースキン・メイを重用した庶民院議長{{仮リンク|チャールズ・ショー=ルフェーブル (初代エヴァーズリー子爵)|en|Charles Shaw-Lefevre, 1st Viscount Eversley|label=チャールズ・ショー=ルフェーブル}}、1860年代の写真。]]
[[ファイル:Charles Shaw-Lefevre, Viscount Eversley.jpg|thumb|right|メイを重用した庶民院議長{{仮リンク|チャールズ・ショー=ルフェーブル (初代エヴァーズリー子爵)|en|Charles Shaw-Lefevre, 1st Viscount Eversley|label=チャールズ・ショー=ルフェーブル}}、1860年代の写真。]]

ショー=ルフェーブルはアースキン・メイを庶民院書記官に任命できなかった補償としてせめて庶民院書記官補佐({{lang|en|clerk assistant}})への任命だけでも確保しようとしたが、書記官補佐のウィリアム・リー({{lang|en|William Ley}})は頑なに辞任せず、1856年にようやく辞任するも書記官第二補佐({{lang|en|Second Clerk Assistant}})で自身の甥にあたるヘンリー・リー({{lang|en|Henry Ley}})を後任に推薦してショー=ルフェーブルを激怒させた<ref name="McKay" />。最終的にはショー=ルフェーブルが首相ラッセルを説得して、1855年12月にアースキン・メイの任命を認めさせた<ref name="McKay" />。
1840年代中頃から50年代中頃にかけて私法律案請願審査官などを務め、各種改革を提唱していたメイだが、その後の昇進は円滑にはいかなかった。『アースキン・メイ』の序文で献呈され{{Sfn|May|1844|pp=iii, vii}}、メイの提言の耳ともなっていた庶民院議長のショー=ルフェーブルは、1850年にメイを{{仮リンク|庶民院書記官 (イギリス)|en|Clerk of the House of Commons|label=庶民院書記官}}(庶民院の議事運営に関するアドバイザー職トップ)に推挙するも見送られている。これは1850年に庶民院書記官現職のジョン・ヘンリー・リー({{lang|en|John Henry Ley}})が急死したことを受けての後任人事であるが、首相で[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]首であった[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル]]が同じくホイッグ党員であった{{仮リンク|デニス・ル・マーチャント (初代準男爵)|en|Denis Le Marchant|label=初代準男爵サー・デニス・ル・マーチャント}}を推したためである{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=23}}。後年になって、ショー=ルフェーブルはこの出来事を回想し、メイへの手紙で「単に友人のため、政府を長年支持してきたために彼を任命したというラッセル卿の行動はなかなか正当化できない」と述べた{{Efn2|庶民院議員経験者が庶民院書記官に任命されたのは1659年という議会が低調の時期に任命されたトマス・セント・ニコラス({{lang|en|Thomas St Nicholas}})以来のことだった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=23}}。また、18世紀の[[ジェレマイア・ダイソン]]のように庶民院書記官から議員に転身する例もある{{R|HOP1754}}。}}。

ショー=ルフェーブルはメイを庶民院書記官に任命できなかった代償としてせめて庶民院書記官補佐({{lang|en|clerk assistant}})への任命だけでも確保しようとしたが、書記官補佐のウィリアム・リー({{lang|en|William Ley}})は頑なに辞任せず、1856年にようやく辞任するも書記官第二補佐({{lang|en|Second Clerk Assistant}})で自身の甥にあたるヘンリー・リー({{lang|en|Henry Ley}})を後任に推薦してショー=ルフェーブルを激怒させた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=24}}。最終的にはショー=ルフェーブルが首相ラッセルを説得して、1855年12月にメイの任命を認めさせた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}。


庶民院書記官補佐として、1861年の庶民院業務特別委員会と1869年の公務進行両院合同委員会({{lang|en|Joint Committee on the Despatch of Business}})でも提言をしたが、いずれも成果を挙げられず、1869年の提言にいたっては「1850年以降、すでに多くの委員会が審議を進めたため、議事規則の改進はほぼ議論しつくされ、改進できるところはほとんど残されていない」と皮肉を放ったほどであった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=165}}。
庶民院書記官補佐の在任中の1860年5月16日に[[バス勲章]]コンパニオンを授与され<ref name="gazette1860-05-18">{{London Gazette |issue= 22387 |date= 18 May 1860 |page=1915 }}</ref>、1866年7月6日にバス勲章ナイト・コンパニオンを授与された<ref name="gazette1866-07-06">{{London Gazette |issue= 23134 |date= 6 July 1866 |page=3871 }}</ref>。1866年11月22日、法律摘要委員会({{lang|en|Digest of Law Commission}})の委員に任命された{{Refnest|group=注釈|当時の法律が複雑すぎることを憂慮し、法律の系統的な概略の作成を目指して創設された委員会であり、委員には同時期の著名な法律家である{{仮リンク|ロバート・ロルフ (初代クランワース男爵)|en|Robert Rolfe, 1st Baron Cranworth|label=初代クランワース男爵ロバート・ロルフ}}、{{仮リンク|リチャード・ベセル (初代ウェストベリー男爵)|en|Richard Bethell, 1st Baron Westbury|label=初代ウェストベリー男爵リチャード・ベセル}}、[[ヒュー・ケアンズ (初代ケアンズ伯爵)|ヒュー・ケアンズ]]、{{仮リンク|ウィリアム・ウッド (初代ハザーリー男爵)|en|William Wood, 1st Baron Hatherley|label=ウィリアム・ウッド}}、[[ラウンデル・パーマー (初代セルボーン伯爵)|ラウンデル・パーマー]]が名を連ねた<ref>{{Cite journal2|language=en|journal=University of Pennsylvania Law Review|volume=72|issue=1|date=November 1923|title=The American Law Institute|last=Wickersham|first=George W.|pages=5–6|url=https://scholarship.law.upenn.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=7897&context=penn_law_review}}</ref>。}}<ref name="DNB" />。また、1866年から1884年まで{{仮リンク|成文法委員会|en|Statute Law Committee|label=成文法改正委員会}}({{lang|en|Statute Law Revision Committee}}){{Refnest|group=注釈|成文法の改正版({{lang|en|Revised Statutes}})を出版するための委員会<ref>{{Cite EB1911|wstitle=Statute|volume=25|pages=812–814|last=Williams|first=James}}</ref>。}}の議長を務めた<ref name="DNB" />。


庶民院書記官補佐以外では、庶民院書記官補佐の在任中の1860年5月16日に[[バス勲章]]コンパニオンを授与され{{R|gazette1860-05-18}}、1866年7月6日にバス勲章ナイト・コンパニオンを授与された{{R|gazette1866-07-06}}。1866年11月22日、法律摘要委員会({{lang|en|Digest of Law Commission}})の委員に任命された{{Efn2|当時の法律が複雑すぎることを憂慮し、法律の系統的な概略の作成を目指して創設された委員会であり、委員には同時期の著名な法律家である{{仮リンク|ロバート・ロルフ (初代クランワース男爵)|en|Robert Rolfe, 1st Baron Cranworth|label=初代クランワース男爵ロバート・ロルフ}}、{{仮リンク|リチャード・ベセル (初代ウェストベリー男爵)|en|Richard Bethell, 1st Baron Westbury|label=初代ウェストベリー男爵リチャード・ベセル}}、[[ヒュー・ケアンズ (初代ケアンズ伯爵)|ヒュー・ケアンズ]]、{{仮リンク|ウィリアム・ウッド (初代ハザーリー男爵)|en|William Wood, 1st Baron Hatherley|label=ウィリアム・ウッド}}、[[ラウンデル・パーマー (初代セルボーン伯爵)|ラウンデル・パーマー]]が名を連ねた{{R|Wickersham1923}}。}}{{R|DNB}}。また、1866年から1884年まで{{仮リンク|成文法委員会|en|Statute Law Committee|label=成文法改正委員会}}({{lang|en|Statute Law Revision Committee}})の議長を務めた{{R|DNB}}。成文法改正委員会はショー=ルフェーブルの主導で設立された{{Sfn|Ilbert|1901|pp=63–65}}、成文法の改正版({{lang|en|Revised Statutes}})を出版するための委員会であり{{R|EB1911-Statute}}、会期ごとという出版スケジュールであった{{Sfn|Ilbert|1901|p=63}}。議会からは不要な成文法を廃止する{{仮リンク|成文法改正法|en|Statute Law Revision Act}}が可決され、委員会の負担を軽減する措置もとられた{{Sfn|Ilbert|1901|p=63}}。
のちの庶民院書記官アーチボルド・ミルマン({{lang|en|Archibald Milman}})は毎日庶民院議長の事務会議に出席するル・マーチャントがまるで「軍艦に乗る兵士」のようだと述べ、ル・マーチャント自身も引退のときにアースキン・メイに対し感謝を述べた<ref name="McKay" />。アースキン・メイは業務に取り込む傍ら、著作の執筆も進め、書記官補佐の在任中には『議会の法、特権、手続と慣習』を第6版まで出版した<ref name="McKay" />。この時期にはすでにアースキン・メイの著作が海外でも評価されており、スウェーデンと[[オスマン帝国]]の議会がアースキン・メイに接触したほか、『[[タイムズ]]』紙は『議会の法、特権、手続と慣習』が本国よりも[[オーストラリア]]で有名であると報じた<ref name="McKay" />。


またメイは業務に取り込む傍ら、著作の執筆も進め、書記官補佐の在任中には『アースキン・メイ』を第6版まで改訂出版した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}。
庶民院書記官補佐として、1861年の庶民院業務特別委員会と1869年の公務進行両院合同委員会({{lang|en|Joint Committee on the Despatch of Business}})でも提言をしたが、いずれも成功を挙げられず、1869年の提言にいたっては「1850年以降、すでに多くの委員会が審議を進めたため、議事規則の改進はほぼ議論しつくされ、改進できるところはほとんど残されていない」と皮肉を放ったほどであった<ref name="McKayReform" />。


=== 庶民院書記官として ===
=== 庶民院書記官として ===
[[ファイル:Thomas Erskine May Vanity Fair 6 May 1871.jpg|thumb|right|『[[バニティ・フェア (イギリスの雑誌)|バニティ・フェア]]』誌での[[カリカチュア]]、[[カルロ・ペリグリーニ]]作、1871年5月6日出版。]]
[[ファイル:Thomas Erskine May Vanity Fair 6 May 1871.jpg|thumb|right|『[[バニティ・フェア (イギリスの雑誌)|バニティ・フェア]]』誌での[[カリカチュア]]、[[カルロ・ペリグリーニ]]作、1871年5月6日出版。]]
1870年秋にル・マーチャントがもうすぐ引退する予定であると明らかになると、アースキン・メイがその後任になるのはもはや疑いようもなく、首相[[ウィリアム・グラッドストン]]が庶民院議長{{仮リンク|エヴリン・デニソン (初代オッシントン子爵)|en|Evelyn Denison, 1st Viscount Ossington|label=ジョン・エヴリン・デニソン}}に対し「わずかなためらいですら不当であろう」と述べるほどであった<ref name="McKay" />。そして、アースキン・メイの庶民院書記官への昇進は1871年2月2日に発表され<ref name="gazette1871-02-03">{{London Gazette |issue= 23702 |date= 3 February 1871 |page=383 }}</ref>、16日には任命の[[特許状]]({{lang|en|letters patent}})が発行された。1873年11月21日にミドル・テンプルの{{仮リンク|評議員 (法曹院)|en|Bencher|label=評議員}}に選出され<ref name="DNB" />、翌1874年6月17日に[[オックスフォード大学]]より{{仮リンク|民法学博士|en|Doctor of Civil Law|label=D.C.L.}}の学位を授与され<ref name="DNB" />、1880年にミドル・テンプルの朗読者({{lang|en|reader}})に{{Refnest|group=注釈|法曹院の法令読会({{lang|en|reading}})において、法令の解釈を披露し、それに対する批判に反論する役割を持つ人物<ref>{{Cite journal|language=ja|journal=筑波ロー・ジャーナル|author=田中正弘|title=イギリスにおける法曹主体の法曹養成:法科大学院の発展経緯に着目して|issue=19|pages=1–23|date=2015-11|url=https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=39189&file_id=17&file_no=2}}</ref>。}}<ref>{{Cite book2|language=en|last=Hutchinson|first=John|title=A Catalogue of Notable Middle Templars: With Brief Biographical Notices|publisher=The Lawbook Exchange|date=2003|isbn=1-58477-323-5|page=160|url=https://books.google.com/books?id=Fw-3QC98d_UC&pg=PA160}}</ref>、1884年8月11日には[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命された<ref name="DNB" />。庶民院書記官経験者が枢密顧問官に任命されるのは2017年時点でもアースキン・メイの1例しかなかったという<ref name="McKay" />。


1855年12月(40歳)から庶民院書記官補佐を務めていたメイだが、50代半ばにして書記官への昇格が見えてくる。当時の庶民院書記官現職はル・マーチャントであり、庶民院議長の事務会議に毎日出席するル・マーチャントはまるで「軍艦に乗る兵士」のようだ、とのちの庶民院書記官[[アーチボルド・ミルマン]]は述べている{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}。しかしながら、このル・マーチャントが1870年秋にもうすぐ引退する予定であると明らかになった。メイがその後任になるのはもはや疑いようもなく、首相[[ウィリアム・グラッドストン]](当時の[[ピール派]]、後にホイッグ党と合流して[[自由党 (イギリス)|自由党]]を形成)が庶民院議長{{仮リンク|エヴリン・デニソン (初代オッシントン子爵)|en|Evelyn Denison, 1st Viscount Ossington|label=ジョン・エヴリン・デニソン}}に対し「わずかなためらいですら不当であろう」と述べるほどであった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=26}}。
庶民院書記官に就任した後も議事規則改革の提言を続け、1871年の庶民院業務特別委員会では「0時30分以降、異議が唱えられた業務について討議を始めることを禁止する」規則の導入を、1878年の庶民院業務特別委員会では「週に1日、歳入関連の審議のみを行い、それ以外の弁論を禁止する」規則の導入に成功した<ref name="McKayReform" />。また、1877年に[[チャールズ・スチュワート・パーネル]]がアイルランド自治問題に注目を集めようとして議会で遅滞戦術をとると、庶民院議長{{仮リンク|ヘンリー・ブランド (初代ハンプデン子爵)|en|Henry Brand, 1st Viscount Hampden|label=サー・ヘンリー・ブランド}}は議員が再発防止を目指して議事規則の変更を検討しているとして、メイに返答用の資料を準備させた<ref name="McKayReform" />。メイは昔提起したことのある「遅滞用の動議では弁論禁止」「議員が故意に繰り返して議事を妨害した場合、議会侮辱罪で有罪とし、登院停止などの処罰を与える」などの改革案を提起し、[[庶民院院内総務]]の[[スタッフォード・ノースコート (初代イデスリー伯爵)|スタッフォード・ノースコート]]はその一部に賛成したが、ブランドはノースコートには改革を通過させる決心も票数も足りないと考え、結局1878年7月に問題が再発するまで何の処置もなされず、メイはブランドへの手紙でノースコートの態度を批判した<ref name="McKayReform" />。その後、1881年1月末に[[1881年人身財産保護法|人身財産保護法案]](一般的には「アイルランド強圧法」({{lang|en|Coercion Act}})と呼ばれる)が提出されると、アイルランド人議員36名が再び遅滞戦術をとり、1月31日から2月2日には会議が41時間連続で行われた<ref name="Koss">{{Cite book2|language=en|last=Koß|first=Michael|date=2019|title=Parliaments in Time: The Evolution of Legislative Democracy in Western Europe, 1866-2015|page=121|publisher=Oxford University Press|url=https://books.google.com/books?id=w9t1DwAAQBAJ&pg=PA121}}</ref>。ブランドはやむなく議会の緊急状態を宣言して、2月4日から28日まで「議会の独裁者」({{lang|en|parliamentary dictator}})として振舞い、遅滞戦術をとった議員を追い出した後法案の審議を続けた<ref name="Koss" />。この事件とそれを受けてグラッドストンが1882年に行った議事規則改革は1883年に出版された『アースキン・メイ』第9版に大きな影響を与えた<ref name="Palonen" /><ref>{{Cite book2|language=en|last=May|first=Sir Thomas Erskine|publisher=Butterworths|location=London|date=1883|title=A Treatise on the Law, Privileges, Proceedings and Usage of Parliament|edition=9th|url=https://archive.org/details/treatiseonlawpri00maytrich/page/n6|page=v}}</ref>。


こうしてメイの庶民院書記官への昇進は1871年2月2日に決定され、2月3日に発表された{{R|gazette1871-02-03}}。メイ、56歳の時である。ル・マーチャントは自身の引退のときにメイに対し感謝を述べている{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}。
1875年と1885年には貴族院書記官への就任も目指したが、いずれも実現しなかった<ref name="ODNB" />。


庶民院書記官に就任した後も議事規則改革の提言を続け、1871年の庶民院業務特別委員会では「0時30分以降、異議が唱えられた業務について討議を始めることを禁止する」規則の導入を、1878年の庶民院業務特別委員会では「週に1日、歳入関連の審議のみを行い、それ以外の弁論を禁止する」規則の導入に成功した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=169}}。また、1877年に[[チャールズ・スチュワート・パーネル]]がアイルランド自治問題に注目を集めようとして議会で遅滞戦術をとると、庶民院議長{{仮リンク|ヘンリー・ブランド (初代ハムデン子爵)|en|Henry Brand, 1st Viscount Hampden|label=サー・ヘンリー・ブランド}}は議員が再発防止を目指して議事規則の変更を検討しているとして、メイに返答用の資料を準備させた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=168}}。メイは昔提起したことのある「遅滞用の動議では弁論禁止」「議員が故意に繰り返して議事を妨害した場合、議会侮辱罪で有罪とし、登院停止などの処罰を与える」などの改革案を提起し、[[庶民院院内総務]]の[[スタッフォード・ノースコート (初代イデスリー伯爵)|スタッフォード・ノースコート]]はその一部に賛成したが、ブランドはノースコートには改革を通過させる決心も票数も足りないと考え、結局1878年7月に問題が再発するまで何の処置もなされず、メイはブランドへの手紙でノースコートの態度を批判した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=168}}。その後、1881年1月末に[[1881年人身財産保護法|人身財産保護法案]](一般的には「アイルランド強圧法」({{lang|en|Coercion Act}})と呼ばれる)が提出されると、アイルランド人議員36名が再び遅滞戦術をとり、1月31日から2月2日には会議が41時間連続で行われた{{R|Koss}}。ブランドはやむなく議会の緊急状態を宣言して、2月4日から28日まで「議会の独裁者」({{lang|en|parliamentary dictator}})として振舞い、遅滞戦術をとった議員を追い出した後法案の審議を続けた{{R|Koss}}。この事件とそれを受けてグラッドストンが1882年に行った議事規則改革は1883年に出版された『アースキン・メイ』第9版に大きな影響を与えた{{Sfn|Palonen|2012|p=20}}。
==== 陸奥宗光との対談(1884年) ====
[[陸奥宗光]]はヨーロッパ留学中(1884年 – 1885年)にメイ本人に教えを請うたことがある<ref name="Gendai" />。このとき、イギリスでは{{仮リンク|1884年国民代表法|en|Representation of the People Act 1884|label=第3回選挙法改正}}の最中であり、メイは選挙法改正を行う[[第2次グラッドストン内閣]]を実務面から支えていた<ref name="JPF6-10">{{Cite journal|language=ja|author=高世信晃|title=陸奥宗光の政治的「個人」創出の試み明治におけるヨーロッパ政治思想の日本的取捨選択について|isbn=978-4-87540-164-3|editor=国際交流基金アルザス・欧州日本学研究所|date=2014-04|journal=アルザス日欧知的交流事業 日本研究セミナー「明治」報告書|url=https://www.jpf.go.jp/j/project/intel/exchange/organize/ceeja/report/09_10/pdf/09_10_11.pdf|pages=6–10}}</ref>。そうした中、陸奥は日本が採用すべき選挙制度をメイに尋ね、メイは「[[小選挙区制]]は間違いなく最も単純」を理由として[[小選挙区制]]を勧め、陸奥が小選挙区制において多くの死票が発生するという問題を指摘すると、メイは多数の得票を得た政党が敗北するという状況が「起こる可能性はあまりないと思う」、「選挙において完全なる公正と平等は不可能である」と小選挙区制への支持を維持した<ref name="JPF6-10" />。1885年に陸奥がドイツの社会学者、法学者[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]に同様の質問をしたとき、シュタインはメイとは対照的な形で「[[厳正拘束名簿式|拘束名簿式]][[比例代表制]](原文は{{lang|de|Scrutin de Liste}})は選挙の原理として唯一正しい考えかたである」と回答し、死票の問題と「選挙区の区割りは作られたものなので、特定の地方の多数派は国家全体の本当の多数派を支配することになるかもしれない」という問題を指摘して、比例代表制で下院多数派を占める政党が現れないようにして、下院の暴走を抑えられるようにすべきとした<ref name="JPF17-19">{{Cite journal|language=ja|author=高世信晃|title=陸奥宗光の政治的「個人」創出の試み明治におけるヨーロッパ政治思想の日本的取捨選択について|isbn=978-4-87540-164-3|editor=国際交流基金アルザス・欧州日本学研究所|date=2014-04|journal=アルザス日欧知的交流事業 日本研究セミナー「明治」報告書|url=https://www.jpf.go.jp/j/project/intel/exchange/organize/ceeja/report/09_10/pdf/09_10_11.pdf|pages=17–19}}</ref>。陸奥の講義ノートを研究した高世信晃は2人の回答について考察し、メイが「イギリス政治の実地経験から具体的かつ実践的な」回答をし、シュタインが「行政府に権力を集中させ政府の安定に最大限の注意を払っていた」としている<ref>{{Cite journal|language=ja|author=高世信晃|title=陸奥宗光の政治的「個人」創出の試み明治におけるヨーロッパ政治思想の日本的取捨選択について|isbn=978-4-87540-164-3|editor=国際交流基金アルザス・欧州日本学研究所|date=2014-04|journal=アルザス日欧知的交流事業 日本研究セミナー「明治」報告書|url=https://www.jpf.go.jp/j/project/intel/exchange/organize/ceeja/report/09_10/pdf/09_10_11.pdf|pages=10, 14–15}}</ref>。


庶民院書記官以外の職責・栄誉の面では、1875年と1885年に貴族院書記官への就任も目指したが、いずれも実現しなかった{{R|ODNB}}。しかし、1873年11月21日に出身校ミドル・テンプルの{{仮リンク|評議員 (法曹院)|en|Bencher|label=評議員}}に選出され{{R|DNB}}、翌1874年6月17日に[[オックスフォード大学]]より{{仮リンク|民法学博士|en|Doctor of Civil Law|label=D.C.L.}}の学位を授与され{{R|DNB}}、1880年にミドル・テンプルの朗読者({{lang|en|reader}})に{{Efn2|法曹院の法令読会({{lang|en|reading}})において、法令の解釈を披露し、それに対する批判に反論する役割を持つ人物{{R|Tanaka2015|p=11}}。}}{{R|Hutchinson2003}}、1884年8月11日には[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命された{{R|DNB}}。庶民院書記官経験者が枢密顧問官に任命されるのは2017年時点でもメイの1例しかなかったという{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=29}}。
メイは日本が上院を設立すべきかについての質問へは「立憲政府を導入するためには必要不可欠」として設立すべきと考えを示し<ref name="JPF22">{{Cite journal|language=ja|author=高世信晃|title=陸奥宗光の政治的「個人」創出の試み明治におけるヨーロッパ政治思想の日本的取捨選択について|isbn=978-4-87540-164-3|editor=国際交流基金アルザス・欧州日本学研究所|date=2014-04|journal=アルザス日欧知的交流事業 日本研究セミナー「明治」報告書|url=https://www.jpf.go.jp/j/project/intel/exchange/organize/ceeja/report/09_10/pdf/09_10_11.pdf|page=22}}</ref>、また「少数派は政治的要求を勝ち取るために政党を組織し、議会へ代表を送り込むだろう」と陸奥に述べ、はからずも労働者による[[労働党 (イギリス)|労働党]]設立を予想した<ref name="JPF6-10" />。


=== 憲政史家として ===
最終的に陸奥が研究をまとめて提出した『憲法論』では小選挙区制を支持したが、その理由はメイが述べたものと全く同じである<ref name="JPF23">{{Cite journal|language=ja|author=高世信晃|title=陸奥宗光の政治的「個人」創出の試み明治におけるヨーロッパ政治思想の日本的取捨選択について|isbn=978-4-87540-164-3|editor=国際交流基金アルザス・欧州日本学研究所|date=2014-04|journal=アルザス日欧知的交流事業 日本研究セミナー「明治」報告書|url=https://www.jpf.go.jp/j/project/intel/exchange/organize/ceeja/report/09_10/pdf/09_10_11.pdf|page=23}}</ref>。
庶民院書記官補佐および書記官時代のメイは執筆の幅も広げ、後に憲政史・民主史家としても評価されることとなる{{Sfn|中村|1976|pp=142, 173}}{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|pp=61, 65}}。この時期のイギリス社会は、民主主義が真の意味で大衆に浸透し始めている{{Sfn|中村|1976|p=39}}。1850年頃から1870年代初期までは「イギリス資本主義の空前の繁栄」を見せ、各地で急速に工業化が進んだ時代である{{Sfn|中村|1976|p=35}}。1860年代には労働運動が高まった{{Sfn|中村|1976|p=257}}。また、「{{仮リンク|知識税|en|Taxes on knowledge}}」とも批判されて一般大衆の学ぶ自由を阻んでいた{{仮リンク|1712年印紙法|label=印紙法|en|Stamp Act 1712}}(別名: 新聞税)の1855年廃止も大きい{{Sfn|中村|1976|p=34}}。これにより地方新聞が急速に発達、各地に敷設された鉄道網に乗って新聞が流通し、ロンドン中央政界のニュースが地方の政情にまで影響を与えるようになった{{Sfn|中村|1976|p=34, 37}}。不正と審議遅延を招いた1832年の第1次選挙法改正から35年後の1867年には{{仮リンク|1867年国民代表法|en|Reform Act 1867|label=第2次選挙法改正}}が、続く1884年には{{仮リンク|1884年国民代表法|en|Representation of the People Act 1884|label=第3次選挙法改正}}が行われ、選挙権が2次で都市労働者まで、3次では農村・鉱山労働者まで広がった{{Sfn|中村|1976|pp=33, 37&ndash;38}}。つまり、大衆民主主義に必要な社会インフラが整備された時代に、メイはイギリス憲政史と民主主義を論じたのである。

==== 『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』執筆(1861年 -) ====
『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』({{lang|en|''The Constitutional History of England since the Accession of George III, 1760–1860''}}、[[ロンドン]]、1861年 - 1863年初版、2巻、8vo。1871年第3版、3巻){{R|DNB}}{{Efn2|name=TransJP1861|本書の日本語定訳はないことから、渡辺・小山・浜田共訳{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|p=65}}に従った。当訳書の原著は憲法論などで知られる哲学者・政治学者{{仮リンク|カール・レーヴェンシュタイン|en|Karl Loewenstein}}であり、革命後の共和制フランスや君主制ドイツなどとの対比の文脈で、レーヴェンシュタインはメイの著作『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』を参照文献として挙げている{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|pp=61&ndash;65}}。}}はイギリスの憲政史に関する著作であり、[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が即位した1760年から1860年までの100年間を扱っている{{Sfn|May|1874|pp=v&ndash;vi|loc=§ preface}}。しかし、ジョージ3世の即位が憲政史における分水嶺というわけではなく、取り扱う期間が1760年から始まる理由はそれまでの歴史が{{仮リンク|ヘンリー・ハラム|en|Henry Hallam}}の著作ですでに扱われていることだったという{{Sfn|May|1874|pp=v&ndash;vi|loc=§ preface}}{{Efn2|イギリスにおける近代的な議院内閣制の発展研究の観点からは、ジョージ3世の即位(1760年)ではなく、曾祖父の[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]の即位(1714年)をターニングポイントとするのが通説となっている。ジョージ1世はハノーヴァー家出身のドイツ人であり、英語を解すことができなかったことから、首相との会話にはラテン語を用いていたとされる。かつ即位は50歳を超えてからである。したがって「王は君臨すれど統治せず」の政治姿勢は意図したものではなく、必然的に責任内閣制が必要とされた背景がある{{Sfn|中村|1976|p=123}}。その後、ジョージ3世は1760年の即位後に王権回復に努めて民主化・立憲主義の後退が一時的に起こるものの、[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]]による長期政権運営によって責任内閣制と首相の地位が確立している{{Sfn|中村|1976|p=26}}。}}。

[[島田三郎]]と[[乗竹孝太郎]]による日本語訳は1883年から1888年にかけて経済雑誌社(第1から3巻)と輿論社(第4から6巻)より『英国憲法史』として出版された{{R|Shimada}}。このほか、メイの死後1894年時点でドイツ語とフランス語訳も出版され、19世紀末の『[[英国人名事典]]』が「ハラムに比肩する」と評価したものの{{R|DNB}}、[[ホイッグ史観]]を採用しており{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=26}}、20世紀の歴史学者[[ハーバート・バターフィールド]]は「(メイの)証拠の様々な部分を合成する能力により、平凡な先人たちよりも大きな誤りを作り出してしまった」「歴史にドクトリン的要素を入れたことで、最初の誤りを増大させて、著作を真実から遠ざける結果となった」と批判している{{R|Butterfield}}。ただし、先人のハラムが既にホイッグ史観に立脚しており、メイはこの立場を踏襲したとも評されている。ハラムと比較して、特に社会学的な観点からの考察がメイの著作では充実した内容となっている{{R|NYT-Review1863}}。同じく20世紀の歴史学者である{{仮リンク|イアン・ラルフ・クリスティ|en|I. R. Christie}}はメイの著作が「ジョージ3世の活動は権力を政治家から国王に移行させ、憲政上のバランスを破壊した」というホイッグ史観の通説に「1714年から1760年までの間に党派政治と[[責任内閣制]]が発展し、政治家がヴィクトリア朝後期のそれと同じように活動した」という仮定を追加し、ジョージ3世時代の実態が歪められてしまった{{R|Christie}}。[[ロムニー・セジウィック]]によれば、この見方の結果、ジョージ3世が同時代の政治家から[[名誉革命]]で成立した体制の転覆を疑われたところは、歴史家の目には責任内閣制の転覆を疑われたと映ることになるという{{R|Christie}}。

1912年にジャーナリストのフランシス・ホランド({{lang|en|Francis Holland}})が1860年から1911年までの内容を追加して3巻で出版したが、脚注をほとんど用いないなどメイの作風とかけ離れているほか、著者の個人的な意見が含まれている作品であるため勝手に内容を追加すべきではないとして、同年のC・E・フライヤーによる書評で批判された{{R|Fryer}}。

==== 『ヨーロッパ民主史』執筆(1877年) ====
1877年の『ヨーロッパ民主史』({{lang|en|''Democracy in Europe: A History''}}、ロンドン、1877年、2巻、8vo{{R|DNB}})は[[民主主義]]をテーマとした著作であり、[[古代ギリシア]]や[[古代ローマ]]など主に[[ヨーロッパ史]]を扱うが、インド、中国([[清]])、日本などアジア諸国にも触れており{{Sfn|May|1877}}、日本については[[明治維新]]から10年ほどだったこともあり、「アジアの国が政治自由に向けて歩めるかはまだ分からない」としているものの、「政府が[[啓蒙思想|啓蒙的]]で進歩している」とも評している{{Sfn|May|1877|p=25}}。また、イギリスについては「イングランドの改革者は大胆だったが、過去とは決して絶縁しなかった。彼らの目的は破壊ではなく、改善と再生である」と評した{{R|Hawkins}}。

メイは同書の序論で啓蒙された国({{lang|en|enlightened nations}})の歴史を「統治の原則を示す実例」({{lang|en|an illustration of the principles of government}})とし、それを学ぶことで自由な国が生まれる理由と条件について知ることができるとした{{Sfn|May|1877|p=xxi|loc=§ Introduction}}。

首相[[ウィリアム・グラッドストン]]は同書の出版が「歴史文学の発展における一大イベント」と手放しで絶賛した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=26}}。同時代の歴史家[[ジョン・アクトン|初代アクトン男爵ジョン・ダルバーグ=アクトン]]も1878年1月の書評でメイが「法律は社会の状況に依拠し、現実に基づかない考えや論争に依拠しないことを信じている」ため、「常に地に足をつけ、選別された事実、健全な判断力、信頼のおける経験に頼っている」と評価した{{R|Hawkins}}。

日本語圏では川田徳二郎が『ヨーロッパ民主史』の緒論、フランスとイギリスの章の翻訳に取り掛かり{{R|Kawada5}}、1882年に『欧州民力史論』として緒論とフランスの部第1巻が出版された{{R|Kawada}}。


=== 引退と死 ===
=== 引退と死 ===
1886年4月に庶民院書記官を辞任、5月10日に[[連合王国貴族]]である[[ハンプシャー|サウサンプトン州]]におけるファーンバラの'''ファーンバラ男爵'''に叙されたが、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員への就任にも間に合わず、1週間後の5月17日に[[ウェストミンスター宮殿]]にある官邸で死去した<ref name="DNB" /><ref name="Cokayne" /><ref name="McKay" />。葬儀ののち、24日に[[ケンブリッジシャー]]の{{仮リンク|チペナム|en|Chippenham}}で埋葬された<ref name="DNB" />。妻との間に子女がおらず、爵位は廃絶した<ref name="DNB" />。爵位創設から廃絶まで7日しかないことになり、これは1日で廃絶した[[フレデリック・レイトン|レイトン男爵]](1896年創設)についで2番目の短さである<ref name="Cokayne" />
1886年4月に71歳で庶民院書記官を辞任、5月10日に[[連合王国貴族]]である[[ハンプシャー|サウサンプトン州]]におけるファーンバラの'''ファーンバラ男爵'''に叙されたが、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員への就任にも間に合わず、1週間後の5月17日に[[ウェストミンスター宮殿]]にある官邸で死去した{{R|DNB|Cokayne}}{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=29}}。葬儀ののち、24日に[[ケンブリッジシャー]]の{{仮リンク|チペナム|en|Chippenham}}で埋葬された{{R|DNB}}。妻との間に子女がおらず、爵位は廃絶した{{R|DNB}}。爵位創設から廃絶まで7日しかないことになり、これは1日で廃絶した[[フレデリック・レイトン|レイトン男爵]](1896年創設)についで2番目の短さである{{R|Cokayne}}


1886年、[[ウェストミンスター寺院]]の[[聖マーガレット教会 (ウェストミンスター)|聖マーガレット教会]]で初代ファーンバラ男爵の記念碑が立てられた<ref>{{Cite web2|language=en|title=Sir Thomas Erskine May, Lord Farnborough|url=https://www.westminster-abbey.org/ja/abbey-commemorations/commemorations/sir-thomas-erskine-may-lord-farnborough|website=[[ウェストミンスター寺院|Westminster Abbey]]|accessdate=8 December 2019}}</ref>。また、死後に撮影された写真に基づき、{{仮リンク|アルバート・ブルース=ジョイ|en|Albert Bruce-Joy}}が胸像を作製し、1890年3月6日に庶民院議長による除幕式が行われた<ref name="DNB" />
1886年、[[ウェストミンスター寺院]]の[[聖マーガレット教会 (ウェストミンスター)|聖マーガレット教会]]で初代ファーンバラ男爵の記念碑が立てられた{{R|Commemoration}}。また、死後に撮影された写真に基づき、[[アルバート・ブルース=ジョイ]]が胸像を作製し、1890年3月6日に庶民院議長による除幕式が行われた{{R|DNB}}


首相ウィリアム・グラッドストン、庶民院議長チャールズ・ショー=ルフェーブル、ジョン・エヴリン・デニソン、{{仮リンク|ヘンリー・ブランド (初代ハンプデン子爵)|en|Henry Brand, 1st Viscount Hampden|label=サー・ヘンリー・ブランド}}、[[アーサー・ピール (初代ピール子爵)|アーサー・ウェルズリー・ピール]]などとの書簡集が{{仮リンク|議会文書館|en|Parliamentary Archives}}に現存し<ref>{{Cite web2|language=en|website=UK Parliament Archives|title=Papers of Thomas Erskine May (1815-1886), Baron Farnborough|url=https://archives.parliament.uk/collections/getrecord/GB61_ERM|accessdate=8 December 2019}}</ref>、[[カミーユ・シルヴィ]]による[[鶏卵紙]]写真2枚(1861年4月)が[[ナショナル・ポートレート・ギャラリー]]に所蔵されている<ref>{{Cite web2|language=en|website=[[ナショナル・ポートレート・ギャラリー|National Portrait Gallery]]|title=Thomas Erskine May, 1st Baron Farnborough - NPG Ax52429|url=https://www.npg.org.uk/collections/search/portrait/mw191428/|accessdate=8 December 2019}}</ref><ref>{{Cite web2|language=en|website=[[ナショナル・ポートレート・ギャラリー|National Portrait Gallery]]|title=Thomas Erskine May, 1st Baron Farnborough - NPG Ax52431|url=https://www.npg.org.uk/collections/search/portrait/mw191430/|accessdate=8 December 2019}}</ref>
首相ウィリアム・グラッドストン、庶民院議長チャールズ・ショー=ルフェーブル、ジョン・エヴリン・デニソン、{{仮リンク|ヘンリー・ブランド (初代ハデン子爵)|en|Henry Brand, 1st Viscount Hampden|label=サー・ヘンリー・ブランド}}、[[アーサー・ピール (初代ピール子爵)|アーサー・ウェルズリー・ピール]]などとの書簡集が{{仮リンク|議会文書館|en|Parliamentary Archives}}に現存し{{R|May-PA}}、[[カミーユ・シルヴィ]]による[[鶏卵紙]]写真2枚(1861年4月)が[[ナショナル・ポートレート・ギャラリー]]に所蔵されている{{R|Gallery1|Gallery2}}。


== 評価と後世への影響 ==
== 著作 ==
=== 議会の法、特権、手続と慣習(1844年) ===
{{Main|アースキン・メイ (書籍)}}
[[ファイル:Erskine May - Parliamentary Practice 1844 titlepage.png|thumb|right|『アースキン・メイ』初版の表題紙]]
『[[アースキン・メイ (書籍)|議会の法、特権、手続と慣習]]』(1844年初版、2019年第25版。アースキン・メイ自身が手がけたのは初版から第9版まで。通称『アースキン・メイ』<ref name="Parliament">{{Cite web2|language=en|title=Erskine May|website=UK Parliament|url=https://erskinemay.parliament.uk/|accessdate=8 December 2019}}</ref>)は{{仮リンク|議事規則本|en|Parliamentary authority}}である。イギリスの議事規則本はメイ以前にも{{仮リンク|ジョン・ハットセル|en|John Hatsell}}による著作(1781年初版、1818年第4版)が存在し<ref>{{Cite DNB|wstitle=Hatsell, John|volume=25|page=158|last=Cooper|first=Thompson|authorlink=トンプソン・クーパー}}</ref>、メイもハットセルの著作を権威であるとみなしたが、『アースキン・メイ』では1818年以降の庶民院における事例を取り上げたほか、ハットセルの著作では取り扱われなかった貴族院における事例も採用したという<ref>{{Cite book2|language=en|last=May|first=Thomas Erskine|author-link=アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)|publisher=Charles Knight & Co.|location=London|date=1844|title=A Treatise upon the Law, Privileges, Proceedings and Usage of Parliament|edition=1st|pages=v–vii|url=https://books.google.com/books?id=czA0AAAAIAAJ&pg=PR5}}</ref>。ハットセルの著作が先例に基づくアプローチで<ref name="Palonen">{{Cite journal2|language=en|title=Parliamentary Procedure as an Inventory of Disputes: A Comparison between Jeremy Bentham and Thomas Erskine May|last=Palonen|first=Kari|date=2012|journal=Res Publica: Revista de Filosofía Política|volume=27|pages=13–23|issn=1576-4184|url=https://revistas.ucm.es/index.php/RPUB/article/download/47859/44779}}</ref>、あくまでも先例集({{lang|en|collection of precedents}})という形をとっているのに対し<ref>{{Cite book2|language=en|last=Hatsell|first=John|author-link=ジョン・ハットセル|date=1818|title=Precedents of Proceedings in the House of Commons: With Observations|publisher=Luke Hansard and Sons|location=London|volume=II|page=v|url=https://books.google.com/books?id=LtY_AAAAcAAJ&pg=PP9}}</ref>、メイは年代順ではなくトピック毎に原則、根拠、先例という順で並べ、議会規則を読みやすくした<ref name="Palonen" />。さらに、独立した問題への回答ではなく、議事規則の根底にある原則とロジックを明示することで、読者に議事規則について再考し、それを合理化できる機会を与えることになる<ref name="Seaward">{{Cite journal2|language=en|work=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=Seaward|first=Paul|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|title=Parliamentary Law in the Eighteenth Century: From Commonplace to Treatise|pages=97–114|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA97}}</ref>。また、カリ・パロネン({{lang|fi|Kari Palonen}})はメイの著作を[[ジェレミー・ベンサム]]の『{{lang|en|Essay on Political Tactics}}』(1798年 – 1816年)と比較し、ベンサムが議会の「部外者」であるため実務経験を持たず、議会で生じる可能性のある問題や議事規則で定めるべき点を列挙して、イギリスの議会のみならず立法議会全般に適用できるようにしたが、メイは議会に実際に関わり、イギリスの議会史において繰り返して議論された議事規則の問題を事例を引用しつつ解説したという<ref name="Palonen" />。


=== 人物評 ===
1832年の{{仮リンク|1832年改革法|en|1832 Reform Act|label=第1次選挙法改正}}以前にも政府が議会に圧力をかけ、政府が推進したい立法や財政政策の審議を優先させようとしたが<ref name="ODNB" />、第1次選挙法改正により議員は注目を集めようとして頻繁に発言するようになり<ref name="Vieira25" />、議事時間の不足は議事日程における争点となっていた<ref name="Palonen" />。一方でこの問題の解決策は議員による行政の監督という権限を損害しないように注意する必要があり、『[[オックスフォード英国人名事典]]』はメイの著作が多くの解決策を提供したと評価した<ref name="ODNB" />。メイは『アースキン・メイ』の出版以降、生涯にわたって議事時間の問題への解決策を提言し続けた<ref name="ODNB" />。
『英国人名事典』はメイを「有能、誠実で称賛に値する公務員」({{lang|en|a most able, faithful, and meritorious public servant}})と称え、多くの人から尊敬されたとした{{R|DNB}}。しかし、後世に庶民院書記官を務めた{{仮リンク|ウィリアム・マッケイ (庶民院書記官)|en|William McKay (parliamentary official)|label=サー・ウィリアム・マッケイ}}はメイが栄典に強い興味を持ったと指摘し、1884年に庶民院議長ブランドが首相グラッドストンにメイの枢密顧問官への任命を推薦したとき、メイが「ずうずうしくも『格別に適切』であると答え」、庶民院書記官から引退するときに賃金と同額の年金を求めたという{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=29}}。また、公務員としては公正だったものの、社交界では自由主義者と親しく、また庶民院勤務の公務員に[[自由党 (イギリス)|自由党]]党員の息子を推薦することが多かったという{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|pp=27–28}}。


=== 議事規則本著者ベンサムとハットセルとの比較 ===
メイは『アースキン・メイ』第9版で「すぐれた演説者はルールを一字一句違わずに守りつつ、その精神を破ることができる」とも述べており、カリ・パロネン({{lang|fi|Kari Palonen}})はメイが自身の著作が議員にどう読まれるか深く理解しているとした<ref name="Palonen" />。パロネンはさらに誰にも悪用されないルールを作ることは徒労に終わるとし、議事手続きの目的はルールの悪用を減らし、議長あるいは議会の多数派に有害なルールの悪用を阻止する権力を与えることにあるとした<ref name="Palonen" />。
「最大多数の最大幸福」で知られる功利主義の哲学者・経済学者・法学者[[ジェレミ・ベンサム]](1748年 - 1832年)も議事規則について記しており(『{{lang|en|Essay on Political Tactics}}』、1798年 - 1816年)、ベンサムと67歳年下のメイを比較したカリ・パロネン({{lang|fi|Kari Palonen}})の研究(2012年)が存在する{{Sfn|Palonen|2012|p=13}}。


パロネンによると、ベンサムとメイは双方ともに議会運営の公平性を説いている点では共通する{{Sfn|Palonen|2012|p=13}}。また、ベンサムも議題提出のタイミングや審議の長さといった時間に着目している{{Sfn|Palonen|2012|p=16}}。しかし、ベンサムが議会の「部外者」であるため実務経験を持たず、議会で生じる可能性のある問題や議事規則で定めるべき点を列挙して、イギリスの議会のみならず立法議会全般に適用できるようにしたのに対し、メイは議会に実際に関わり、イギリスの議会史において繰り返して議論された議事規則の問題を事例を引用しつつ解説した違いがある{{Sfn|Palonen|2012|p=15}}。
メイは本作を庶民院議長{{仮リンク|チャールズ・ショー=ルフェーブル (初代エヴァーズリー子爵)|en|Charles Shaw-Lefevre, 1st Viscount Eversley|label=チャールズ・ショー=ルフェーブル}}に献呈し<ref>{{Cite book2|language=en|last=May|first=Thomas Erskine|author-link=アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)|publisher=Charles Knight & Co.|location=London|date=1844|title=A Treatise upon the Law, Privileges, Proceedings and Usage of Parliament|edition=1st|pages=iii, vii|url=https://books.google.com/books?id=czA0AAAAIAAJ&pg=PR3}}</ref>、ショー=ルフェーブルは「現状でもたいへん役に立ち、新版が出版されれば完成度が高くなるだろう」と評した<ref name="McKay" />。


また、『アースキン・メイ』の初版序文でもメイ自ら言及している通り、メイ以前のイギリス議事規則本の権威としては{{仮リンク|ジョン・ハットセル|en|John Hatsell}}による著作(1781年初版、1818年第4版)が存在する{{R|Hatsell1781}}。『アースキン・メイ』では1818年以降の庶民院における事例を取り上げたほか、ハットセルの著作では取り扱われなかった貴族院における事例も採用したという{{Sfn|May|1844|p=A3&ndash;A4|loc=§ preface}}。また、ハットセルの著作が先例に基づくアプローチで{{Sfn|Palonen|2012|p=17}}、あくまでも先例集({{lang|en|collection of precedents}})という形をとっているのに対し{{R|Hatsell1818}}、メイは年代順ではなくトピック毎に原則、根拠、先例という順で並べ、議会規則を読みやすくした{{Sfn|Palonen|2012|p=17}}。さらに、独立した問題への回答ではなく、議事規則の根底にある原則とロジックを明示することで、読者に議事規則について再考し、それを合理化できる機会を与えることになる{{Sfn|Essays (Seaward: Chapter 6)|2017|p=114}}。
『アースキン・メイ』は1850年代にはすでにイギリス国外でも評価されており<ref name="McKay" />、日本では1879年(明治12年)に[[小池靖一]]による日本語訳『英國議院典例』が律書房より出版され<ref name="Meiji12" />(翻訳元は1873年に出版された第7版<ref>{{Cite web|language=ja|title=英國議院典例 上帙|url=https://www.shinzansha.co.jp/book/b188256.html|website=信山社|accessdate=8 December 2019}}</ref>)、1894年時点で日本語のほかにもイタリア語、スペイン語、ドイツ語、ハンガリー語、フランス語訳が出版された<ref name="DNB" />。「アースキン・メイ」({{lang|en|Erskine May}})の通称は現代でも使用されており<ref name="Maruzen" />、イギリス議会のウェブサイトでも「議事運営手続きの聖書」({{lang|en|the Bible of parliamentary procedure}})との呼称で言及している<ref name="Parliament" />。{{仮リンク|庶民院議長 (イギリス)|en|Speaker of the House of Commons|label=イギリス庶民院議長}}は裁定においてアースキン・メイを引用することが多く、庶民院での議論でも引用される<ref name="Parliament" />。マッケイによると、イギリスにおける影響としては議事規則が不文律である慣習から法典化された規則に変わる傾向をはじめたことが挙げられる<ref name="McKayReform" />。一方、21世紀の庶民院日誌書記官マーク・ハットン({{lang|en|Mark Hutton}})も[[イギリスの憲法]]が[[不文憲法|非成典憲法]]であるとし、『アースキン・メイ』がイギリスの憲法の一部であるとしたが、『アースキン・メイ』は「手続きの聖書」({{lang|en|procedural bible}})とは言えないとした<ref name="Hutton">{{Cite web2|language=en|website=Hansard Society|url=https://www.hansardsociety.org.uk/blog/freeing-erskine-may-getting-the-authoritative-guide-to-parliaments|title=Freeing 'Erskine May': getting the authoritative guide to Parliament's procedures and practice online|date=4 July 2019|last=Hutton|first=Mark|access-date=19 January 2020}}</ref>。また、ハットンは「議会は多くのルールがあるものの、ルール志向({{lang|en|rules-based}})の組織ではなく、慣習と先例に基づき運営されている。議事規則({{lang|en|standing orders}})、決議、成文法({{lang|en|statute}})で記述されているルールは慣習への注釈あるいは改正にすぎない」とも述べている<ref name="Hutton" />。


=== 各国への翻訳・波及 ===
ポール・エヴァンス({{lang|en|Paul Evans}})とアンドレイ・ニンコヴィチ({{lang|en|Andrej Ninkovic}})によると、メイの存命中に出版された第9版までは議員の注目するところである議員の権力と特権({{lang|en|powers and privileges}})に関する内容が大半だったが、以降は「万人向けのガイドブックから法学の教科書」に移り、特に第14版(1946年)が顕著だったという<ref name="EvansNinkovic">{{Cite journal2|language=en|work=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=Evans|first=Paul|last2=Ninkovic|first2=Andrej|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|title=From Manual to Authority: The Life and Times of the Treatise|pages=115–128|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA115}}</ref>。
{{Main|アースキン・メイ (書籍)#影響}}
『アースキン・メイ』は1850年代にはすでにイギリス国外でも評価されており{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}、スウェーデンと[[オスマン帝国]]の議会がメイに接触したほか、『[[タイムズ]]』紙は『議会の法、特権、手続と慣習』が本国よりも[[オーストラリア]]で有名であると報じた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|pp=25–26}}。


メイの死から8年後の1894年時点で、日本語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、ハンガリー語、フランス語訳が出版された{{R|DNB}}。日本では1879年(明治12年)に[[小池靖一]]による日本語訳『英國議院典例』が律書房より出版されている{{R|Meiji12}}(翻訳元は1873年に出版された第7版{{R|Trans-JP1873}})。明治期の日本ではメイの名前を「多摩斯阿爾斯京理」(トマス・オルスキン・メイ)と表記していた{{R|Meiji12}}。
=== ジョージ3世の即位以来のイングランド憲政史(1861年) ===
『ジョージ3世の即位以来のイングランド憲政史』({{lang|en|''The Constitutional History of England since the Accession of George III''}}、[[ロンドン]]、1861年 – 1863年初版、2巻、8vo。1871年第3版、3巻)<ref name="DNB" />はイギリスの憲政史に関する著作であり、ジョージ3世が即位した1760年から1860年までの100年間を扱っている<ref name="ConstitutionalHistory">{{Cite book2|language=en|last=May|first=Thomas Erskine|title=The Constitutional History of England since the Accession of George Third 1760–1860|volume=1|page=v|chapter=Preface|publisher=W. J. Widdleton|location=New York|date=1874|url=https://www.loc.gov/rr/frd/Military_Law/Lieber_Collection/pdf/Const-History-England_Vol-I.pdf}}</ref>。しかし、ジョージ3世の即位が憲政史における分水嶺というわけではなく、取り扱う期間が1760年から始まる理由はそれまでの歴史が{{仮リンク|ヘンリー・ハラム|en|Henry Hallam}}の著作ですでに扱われていることだったという<ref name="ConstitutionalHistory" />。


==== ニュージーランド議会との交流 ====
1894年時点でドイツ語とフランス語訳が出版され、19世紀末の『[[英国人名事典]]』が「ハラムに比肩する」と評価したものの<ref name="DNB" />、[[ホイッグ史観]]を採用しており<ref name="McKay" />、20世紀の歴史学者[[ハーバート・バターフィールド]]は「(アースキン・メイの)証拠の様々な部分を合成する能力により、平凡な先人たちよりも大きな誤りを作り出してしまった」「歴史にドクトリン的要素を入れたことで、最初の誤りを増大させて、著作を真実から遠ざける結果となった」と批判している<ref>{{cite book2|language=en|last=Butterfield|first=Herbert|authorlink=ハーバート・バターフィールド|title=George III and the Historians|year=1957|publisher=Collins|location=London|pages=152}}</ref>。
[[代議院 (ニュージーランド)|ニュージーランド議会]]は1854年に設立された{{R|Nz}}。同年に急遽制定された議事規則ではイギリス庶民院の慣習に従うという原則が定められ、冒頭に「特記がない場合は『議会の法、手続と慣習』が参考になる」と明記されたほどだった{{R|Nz}}。同年にはイギリス庶民院も議事規則を出版しているが、その内容は似ておらず、同年に出版されたのは偶然だった{{Sfn|Essays (Natzler, Bagnall, Brochu & Fowler: Chapter 8)|2017|p=136}}。しかし1865年にニュージーランド議会の議事規則が改訂されたとき、メイの著作をほぼコピーしたものになってしまった{{Sfn|Essays (Natzler, Bagnall, Brochu & Fowler: Chapter 8)|2017|p=136}}。また議会がメイ本人に手紙を介して助言を求めることも頻繁であり、1862年から1864年までニュージーランド両院{{Efn2|ニュージーランド議会は1950年まで[[両院制]]だった{{Sfn|Essays (Natzler, Bagnall, Brochu & Fowler: Chapter 8)|2017|p=137}}。}}の{{仮リンク|金銭法案|en|Money bill}}(租税、歳出を扱う法案)をめぐる論争ではメイの返答がそのまま結論となった{{Sfn|Essays (Natzler, Bagnall, Brochu & Fowler: Chapter 8)|2017|p=137}}。これは下院で可決された金銭法案を上院が修正する権限があるか、という論争であり、メイは「地球の反対側での論争に参加したくない」としつつ、「(イギリスの)庶民院から送付された法案に対し、貴族院が修正すると、庶民院はその特権と両院の関係に基づき修正を拒否するだろう」との返答を示した{{Sfn|Essays (Natzler, Bagnall, Brochu & Fowler: Chapter 8)|2017|p=137}}。このように、メイは片方に寄った意見をせず、イギリスでの慣習を述べる形に留まることで、論争に巻き込まれることを避けつつ、慣習という事実が影響力を発揮できるようにした{{Sfn|Essays (Natzler, Bagnall, Brochu & Fowler: Chapter 8)|2017|p=137}}。


ニュージーランド議会の規則は19世紀中には大きな改革が行われず、フランスのアンドレ・シーグフリード({{lang|fr|André Siegfried}})は1904年の『ニュージーランドの民主制』({{lang|fr|''La Démocratie en Nouvelle-Zélande''}})で「議会開会はウェストミンスターのそれを模倣した、旧態依然の儀式のなかで行われた。伝統の本拠地であるイングランドでなら通用したかもしれないが、植民地においてははっきりいってばかげている」などと酷評した{{R|Nz}}。
=== ヨーロッパ民主史(1877年) ===
1877年の『ヨーロッパ民主史』({{lang|en|''Democracy in Europe: A History''}}、ロンドン、1877年、2巻、8vo<ref name="DNB" />)は[[民主主義]]をテーマとした著作であり、[[古代ギリシア]]や[[古代ローマ]]など主に[[ヨーロッパ史]]を扱うが、インド、中国([[清]])、日本などアジア諸国にも触れており<ref>{{Cite book2|language=en|last=May|first=Thomas Erskine|title=Democracy in Europe: A History|volume=1|date=1877|publisher=Longmans, Green, And Co.|location=London|pages=v–vi, x–xii|url=https://archive.org/details/democracyineuro05maygoog/page/n11}}</ref>、日本については[[明治維新]]から10年ほどだったこともあり、「アジアの国が政治自由に向けて歩めるかはまだ分からない」としているものの、「政府が[[啓蒙思想|啓蒙的]]で進歩している」とも評している<ref>{{Cite book2|language=en|last=May|first=Thomas Erskine|title=Democracy in Europe: A History|volume=1|date=1877|publisher=Longmans, Green, And Co.|location=London|page=25|url=https://archive.org/details/democracyineuro05maygoog/page/n123}}</ref>。また、イギリスについては「イングランドの改革者は大胆だったが、過去とは決して絶縁しなかった。彼らの目的は破壊ではなく、改善と再生である」と評した<ref name="Hawkins54">{{Cite book2|language=en|last=Hawkins|first=Angus|title=Victorian Political Culture: 'Habits of Heart and Mind'|date=7 May 2015|isbn=978-0-19-872848-1|publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]|location=Oxford|page=54|url=https://books.google.com/books?id=-PcJCAAAQBAJ&pg=PA54}}</ref>。


==== 日本:陸奥宗光との対談(1884年) ====
メイは同書の序論で啓蒙された国({{lang|en|enlightened nations}})の歴史を「統治の原則を示す実例」({{lang|en|an illustration of the principles of government}})とし、それを学ぶことで自由な国が生まれる理由と条件について知ることができるとした<ref>{{Cite book2|language=en|last=May|first=Thomas Erskine|title=Democracy in Europe: A History|volume=1|date=1877|publisher=Longmans, Green, And Co.|location=London|page=xxi|url=https://archive.org/details/democracyineuro05maygoog/page/n31}}</ref>。
メイの死後に日本の外務大臣を務め、「[[陸奥外交]]」の一環でイギリスとも所縁のある[[陸奥宗光]]は、ヨーロッパ留学中(1884年 - 1885年)にメイ本人に教えを請うた記録が残っている{{R|Gendai}}。その議題は以下のとおり、[[小選挙区制]]、議会の二院制、政党政治、責任内閣制など多岐に渡った。


このとき、イギリスでは{{仮リンク|1884年国民代表法|en|Representation of the People Act 1884|label=第3次選挙法改正}}の最中であり、選挙法改正を行う[[第2次グラッドストン内閣]]をメイは実務面から支えていた{{Sfn|高世|2014|pp=6&ndash;10}}。そうした中、陸奥は日本が採用すべき選挙制度をメイに尋ね、メイは「小選挙区制は間違いなく最も単純」を理由として小選挙区制を勧め、陸奥が小選挙区制において多くの死票が発生するという問題を指摘すると、メイは多数の得票を得た政党が敗北するという状況が「起こる可能性はあまりないと思う」、「選挙において完全なる公正と平等は不可能である」と小選挙区制への支持を維持した{{Sfn|高世|2014|pp=6&ndash;10}}。1885年に陸奥がドイツの社会学者、法学者[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]に同様の質問をしたとき、シュタインはメイとは対照的な形で「[[厳正拘束名簿式|拘束名簿式]][[比例代表制]](原文は{{lang|de|Scrutin de Liste}})は選挙の原理として唯一正しい考えかたである」と回答し、死票の問題と「選挙区の区割りは作られたものなので、特定の地方の多数派は国家全体の本当の多数派を支配することになるかもしれない」という問題を指摘して、比例代表制で下院多数派を占める政党が現れないようにして、下院の暴走を抑えられるようにすべきとした{{Sfn|高世|2014|pp=17&ndash;19}}。陸奥の講義ノートを研究した高世信晃は2人の回答について考察し、メイが「イギリス政治の実地経験から具体的かつ実践的な」回答をし、シュタインが「行政府に権力を集中させ政府の安定に最大限の注意を払っていた」としている{{Sfn|高世|2014|pp=10, 14&ndash;15}}。
首相[[ウィリアム・グラッドストン]]は『ヨーロッパ民主史』の出版が「歴史文学の発展における一大イベント」と手放しで絶賛<ref name="McKay" />、同時代の歴史家[[ジョン・アクトン|初代アクトン男爵ジョン・ダルバーグ=アクトン]]も1878年1月の書評でメイが「法律は社会の状況に依拠し、現実に基づかない考えや論争に依拠しないことを信じている」ため、「常に地に足をつけ、選別された事実、健全な判断力、信頼のおける経験に頼っている」と評価した<ref name="Hawkins54" />。


メイは日本が上院を設立すべきかについての質問へは「立憲政府を導入するためには必要不可欠」として設立すべきと考えを示し{{Sfn|高世|2014|p=22}}、また「少数派は政治的要求を勝ち取るために政党を組織し、議会へ代表を送り込むだろう」と陸奥に述べ、はからずも労働者による[[労働党 (イギリス)|労働党]]設立を予想した{{Sfn|高世|2014|pp=6&ndash;10}}。最終的に陸奥が研究をまとめて提出した『憲法論』では小選挙区制を支持したが、その理由はメイが述べたものと全く同じである{{Sfn|高世|2014|p=23}}。
=== その他の著作 ===
*『帝国議会』({{lang|en|''The Imperial Parliament''}}、『{{lang|en|Knight's Store of Knowledge for All Readers}}』への寄稿、ロンドン、1841年)<ref>{{Cite journal2|language=en|last=May|first=Thomas Erskine|title=The Imperial Parliament|journal=Knight's Store of Knowledge for All Readers|pages=97–112|editor-last=Knight|editor-first=Charles|publisher=Charles Knight & Co.|location=London|date=1841|url=https://books.google.com/books?id=ZJteAAAAcAAJ&pg=PA172}}</ref>
*『議会公務を促進するための所見と提言』({{lang|en|''Remarks and Suggestions with a View to Facilitate the Dispatch of Public Business in Parliament''}}、ロンドン、1849年、[[八折り判|8vo]]パンフレット<ref name="DNB" />)
*『選挙法の統合について』({{lang|en|''On the Consolidation of the Election Laws''}}、ロンドン、1850年、8voパンフレット)<ref name="DNB" />
*『議会立法機構』({{lang|en|''The Machinery of Parliamentary Legislation''}}、『{{仮リンク|エディンバラ・レビュー|en|Edinburgh Review}}』への寄稿、1854年1月) - 投稿時点では匿名だったが、晩年の再版で具名となった<ref name="McKayReform" />
*『庶民院の公務進行に関する規則、命令と形式』({{lang|en|''Rules, Orders and Forms of Proceedings of the House of Commons, relating to Public Business''}}、1854年出版)<ref name="Patrick">{{Cite journal2|language=en|work=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=Patrick|first=Simon|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|title=A History of the Standing Orders|pages=189–205|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA189}}</ref>
*『[[ブリタニカ百科事典第11版]]』の記事『{{lang|en|Parliament}}』(議会)(1911年出版、{{仮リンク|ヒュー・チザム|en|Hugh Chisholm}}と共作)<ref>{{Cite EB1911|wstitle=Parliament|volume=20|pages=835–849|last=May|first=Thomas Erskine|last2=Chisholm|first2=Hugh|authorlink2=ヒュー・チザム}}</ref>


また陸奥が「イギリスが責任内閣制の恩恵を享受しているのは、徐々にほとんど無意識のうちに形成されたことと慣習とが、一体になることによる」と指摘すると、メイもそれに同調して「イギリスがそうだったように、日本も議会制政治を確立するには200年かかるであろう」と答えた{{Sfn|高世|2014|p=7}}。
上記以外にも『{{仮リンク|ペニー・サイクロペディア|en|Penny Cyclopaedia}}』、『ロー・マガジン』({{lang|en|Law Magazine}})といった雑誌に寄稿した<ref name="DNB" />。


=== 『アースキン・メイ』の改訂と現代政治 ===
== 人物 ==
21世紀の庶民院委員会秘書官ポール・エヴァンス({{lang|en|Paul Evans}})らによると、メイの存命中に出版された第9版までは議員の注目するところである議員の権力と特権({{lang|en|powers and privileges}})に関する内容が大半だったが、以降は「万人向けのガイドブックから法学の教科書」に移り、特に第14版(1946年)が顕著だったという{{Sfn|Essays (Evans & Ninkovic: Chapter 7)|2017|p=120}}。
『英国人名事典』は初代ファーンバラ男爵を「有能、誠実で称賛に値する公務員」({{lang|en|a most able, faithful, and meritorious public servant}})と称え、多くの人から尊敬されたとした<ref name="DNB" />。しかし、後世に庶民院書記官を務めた{{仮リンク|ウィリアム・マッケイ (庶民院書記官)|en|William McKay (parliamentary official)|label=サー・ウィリアム・マッケイ}}は初代ファーンバラ男爵が栄典に強い興味を持ったと指摘し、1884年に庶民院議長ブランドが首相グラッドストンにアースキン・メイの枢密顧問官への任命を推薦したとき、アースキン・メイが「ずうずうしくも『格別に適切』であると答え」、庶民院書記官から引退するときに賃金と同額の年金を求めたという<ref name="McKay" />。また、公務員としては公正だったものの、社交界では自由主義者と親しく、また庶民院勤務の公務員に[[自由党 (イギリス)|自由党]]党員の息子を推薦することが多かったという<ref name="McKay" />。

「アースキン・メイ」({{lang|en|Erskine May}})の通称は現代でも使用されており{{R|Maruzen}}、イギリス議会のウェブサイトでも「議事運営手続きの聖書」({{lang|en|the Bible of parliamentary procedure}})との呼称で言及している{{R|Parliament}}。[[庶民院議長 (イギリス)|庶民院議長]]は裁定においてアースキン・メイを引用することが多く、庶民院での議論でも引用される{{R|Parliament}}。

またメイの日記を20世紀後半に編纂したマッケイ{{R|McKayJournal}}によると、イギリスにおける影響としては議事規則が不文律である慣習から法典化された規則に変わる傾向をはじめたことが挙げられる{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|pp=157–158}}。一方、21世紀の庶民院日誌書記官マーク・ハットン({{lang|en|Mark Hutton}})も[[イギリスの憲法]]が[[不文憲法|非成典憲法]]であるとし、『アースキン・メイ』がイギリスの憲法の一部であるとしたが、『アースキン・メイ』は「手続きの聖書」({{lang|en|procedural bible}})とは言えないとした{{R|Hutton}}。また、ハットンは「議会は多くのルールがあるものの、ルール志向({{lang|en|rules-based}})の組織ではなく、慣習と先例に基づき運営されている。議事規則({{lang|en|standing orders}})、決議、成文法({{lang|en|statute}})で記述されているルールは慣習への注釈あるいは改正にすぎない」とも述べている{{R|Hutton}}。

また、議会内部だけでなく一般メディアにも「アースキン・メイ」の表現が用いられることがある。例えば[[イギリスの欧州連合離脱|欧州連合離脱]](Brexit)でイギリス議会が紛糾していた2018年、日刊紙[[タイムズ]]のコラムニストであるフィリップ・コリンズ({{lang|en|Philip Collins}})は「[[テリーザ・メイ]]首相より『アースキン・メイ』の方が役に立つ時期に差し掛かっている」と同姓のMayつながりで当時の政局を皮肉っている。統制の取れなくなった議会を正常化させるには、議事規則に則るべきとの主張である{{R|Collins2018}}。この批判は他メディアにも引用された{{R|Politico2018|Maitland2019}}。


== 家族 ==
== 家族 ==
1839年8月27日、ルイーザ・ジョハンナ・ロートン({{lang|en|Louisa Johanna Laughton}}、1901年2月2日没、ジョージ・ロートンの娘)と結婚したが<ref name="Cokayne" /><ref>Correspondence of Lady Farnborough and Miss E G Laughton, Parliamentary Archives: GB-061, Catalogue Reference ERM/11.</ref>、2人の間に子供はいなかった<ref name="DNB" />
1839年8月27日、ルイーザ・ジョハンナ・ロートン({{lang|en|Louisa Johanna Laughton}}、1901年2月2日没、公務員ジョージ・ロートンの娘)と結婚したが{{R|Cokayne|May-PA}}、2人の間に子供はいなかった{{R|DNB}}

記録上メイには3人の姉がおり、メイとはそれぞれ20歳、18歳、13歳離れている。3番目の姉アン・アグネスはメイの妻ルイーザの兄と結婚しており、アン・アグネスが45歳で他界するとその娘(メイの姪)はメイの自宅で暮らし続けた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=31}}。

メイの父親ないし祖父が{{仮リンク|トマス・アースキン (初代アースキン男爵)|en|Thomas Erskine, 1st Baron Erskine|label=初代アースキン男爵トマス・アースキン}}(1750年 - 1823年)だった可能性については{{R|ODNB}}、確たる証拠は残っていない{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=32}}。アースキン男爵は1770年代中頃(メイが生まれる約40年前)に最初の結婚をしており、8人の子を儲けている。洗礼上の記録上でメイの母とされるサラが、アースキン男爵の娘だったとの憶測もある{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=32}}。

== 著作一覧 ==
*「帝国議会」({{lang|en|''The Imperial Parliament''}}、『{{lang|en|Knight's Store of Knowledge for All Readers}}』への寄稿、ロンドン、1841年){{R|May1841}}
*『議会の法、特権、手続と慣習』({{lang|en|''A Treatise upon the Law, Privileges, Proceedings and Usage of Parliament''}}、1844年初版{{Sfn|May|1844|pp=i|loc=§ 前表紙}}、[[八折り判|8vo]]{{R|DNB}}、メイ本人は第9版まで改訂)
*『議会公務を促進するための所見と提言』({{lang|en|''Remarks and Suggestions with a View to Facilitate the Dispatch of Public Business in Parliament''}}、ロンドン、1849年、8vo[[パンフレット]]{{R|DNB}})
*『選挙法の統合について』({{lang|en|''On the Consolidation of the Election Laws''}}、ロンドン、1850年、8voパンフレット){{R|DNB}}
*「議会立法機構」({{lang|en|''The Machinery of Parliamentary Legislation''}}、『{{仮リンク|エディンバラ・レビュー|en|Edinburgh Review}}』への寄稿、1854年1月) - 投稿時点では匿名だったが{{R|Edinburgh}}、1881年の再版で記名となった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=161}}
*『庶民院の公務進行に関する規則、命令と形式』({{lang|en|''Rules, Orders and Forms of Proceedings of the House of Commons, relating to Public Business''}}、1854年出版){{R|Patrick2017}}
*『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』{{Efn2|name=TransJP1861}}({{lang|en|''The Constitutional History of England since the Accession of George III, 1760–1860''}}、[[ロンドン]]、1861年 - 1863年初版、2巻、8vo。1871年第3版、3巻){{R|DNB}}
*『ヨーロッパ民主史』({{lang|en|''Democracy in Europe: A History''}}、ロンドン、1877年、2巻、8vo){{R|DNB}}
*『[[ブリタニカ百科事典]]第9版』の記事『{{lang|en|Parliament}}』(議会)(1885年出版){{R|May-EB9}}<!--第8版のParliamentはJohn Hill Burton著-->
*『[[ブリタニカ百科事典第11版]]』の記事『{{lang|en|Parliament}}』(議会)(1911年出版、[[ヒュー・チザム]]と共作){{R|May-EB1911}}

上記以外にも『{{仮リンク|ペニー・サイクロペディア|en|Penny Cyclopaedia}}』、『ロー・マガジン』({{lang|en|Law Magazine}})といった雑誌に寄稿した{{R|DNB}}。

== 略年表 ==
{{Div col|2}}
* 1815年2月8日 - 弁護士の息子としてロンドン北西部で誕生{{R|Cokayne|RG11}}
* 1815年11月 - [[パリ条約 (1815年)|第二次パリ条約]]締結で[[ナポレオン戦争]]が終結、戦後不況{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|p=71}}
* 1826年 - [[寄宿学校|寄宿制]]の{{仮リンク|ベッドフォード・スクール|en|Bedford School|label=ベッドフォード・グラマースクール}}で学ぶ(1831年まで){{R|DNB|Cokayne|RG11}}
* 1831年 - {{仮リンク|庶民院図書館|en|House of Commons Library}}での仕事を開始し{{Sfn|Essays (Evans: Introduction)|2017|p=31}}、庶民院日誌の索引付け業務に従事{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=82}}
* 1832年 - [[1832年改革法|第1次選挙法改正]](選挙権が都市部の商店主クラスにまで拡大){{Sfn|中村|1976|pp=29&ndash;30}}
* 1834年6月20日 - 庶民院図書館に在籍のまま、[[法曹院]]の[[ミドル・テンプル]]に進学{{R|DNB|PA1950}}
* 1834年10月 - {{仮リンク|議会大火|en|Burning of Parliament}}で庶民院図書館の一部が焼失し、勉学に集中{{Sfn|Essays (Evans & Ninkovic: Chapter 7)|2017|p=115}}
* 1838年5月4日 - 弁護士資格免許を取得{{R|DNB|PA1950}}
* 1839年 - 庶民院日誌の索引付け完成{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=81}}、ルイーザ・ジョハンナ・ロートンと結婚{{R|Cokayne|May-PA}}
* 1844年 - 『アースキン・メイ』初版上梓
* 1847年 - 私法律案請願審査官および弁護士費用査定官に就任(1856年まで){{R|DNB|BioParliament}}{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=158}}{{Efn2|name=CareerGap}}
* 1849年 - パンフレット『議会公務を促進するための所見と提言』上梓
* 1850年 - パンフレット『選挙法の統合について』上梓
* 1852年 - 『アースキン・メイ』第2版改訂
* 1854年 - 論文「議会立法機構」寄稿
* 1855年 - 『アースキン・メイ』第3版改訂
* 1855年12月 - 庶民院書記官補佐に就任(1871年2月まで){{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}
* 1857年 - 庶民院日誌索引(1837年から1852年まで)を共著出版{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=83}}
* 1861年 - 『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』上梓
* 1866年 - 成文法改正委員会の議長(1884年まで)、および法律摘要委員会の委員に就任{{R|DNB}}
* 1867年 - {{仮リンク|1867年国民代表法|en|Reform Act 1867|label=第2次選挙法改正}}(選挙権が都市労働者にまで拡大){{Sfn|中村|1976|pp=33, 37&ndash;38}}
* 1871年2月 - 庶民院書記官に昇格(1886年4月まで)
* 1877年 - 『ヨーロッパ民主史』上梓
* 1884年 - {{仮リンク|1884年国民代表法|en|Representation of the People Act 1884|label=第3次選挙法改正}}(選挙権が農村・鉱山労働者にまで拡大){{Sfn|中村|1976|pp=33, 37&ndash;38}}
* 1886年5月 - ファーンバラ男爵に叙されるも、1週間後に死去(享年71歳){{R|DNB|Cokayne}}{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=29}}
{{Div col end}}


== 注釈 ==
== 注釈 ==
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{{Reflist|group=注釈}}


== 出典 ==
== 出典 ==
{{Reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|30em|refs=
<ref name="DNB">{{Cite DNB|wstitle=May, Thomas Erskine|volume=37|pages=145-146|last=Rigg|first=James McMullen}}</ref>

<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor1-last=Cokayne|editor1-first=George Edward|editor1-link=ジョージ・エドワード・コケイン|editor2-last=Gibbs|editor2-first=Vicary|editor2-link=ヴィカリー・ギブス (セント・オールバンズ選挙区の庶民院議員)|editor3-last=Doubleday|editor3-first=Herbert Arthur|year=1926|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat)|volume=5|edition=2nd|location=London|publisher=The St. Catherine Press, Ltd.|language=en|pages=257-258|url=https://archive.org/details/CokayneG.E.TheCompletePeerageSecondEditionVolume5EAGO/page/n137}}</ref>

<ref name="Maruzen">{{Cite web|和書|language=ja|title=Erskine May: Parliamentary Practice, 25th Edition/アースキン・メイ:英国議会法実務 第25版|url=https://myrp.maruzen.co.jp/bl/constitutional018.html|website=丸善雄松堂|access-date=8 December 2019|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191208175749/https://myrp.maruzen.co.jp/bl/constitutional018.html|archivedate=2019-12-08}}</ref>

<ref name="Parliament">{{Cite web2|language=en|title=Erskine May|website=UK Parliament|url=https://erskinemay.parliament.uk/|access-date=8 December 2019}}</ref>

<ref name="Meiji12">{{国立国会図書館のデジタル化資料|789263|英国議院典例. 一}}</ref>

<ref name="Nz">{{Cite journal2|language=en|last=Martin|first=John E.|title=From talking shop to party government: procedural change in the New Zealand Parliament, 1854-1894|date=29 January 2016|orig-date=Autumn 2011|journal=Australasian Parliamentary Review|volume=26|issue=1|pages=35–52<!--リンク先の全文にページ分けがない-->|url=https://www.parliament.nz/en/visit-and-learn/how-parliament-works/fact-sheets/from-talking-shop/}}</ref>

<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Farnborough, Thomas Erskine May, Baron|volume=10|pages=182-183}}</ref>

<ref name="BritishLibrary">{{Cite web2 |url=https://www.bl.uk/magna-carta/articles/britains-unwritten-constitution |title=Britain's unwritten constitution |trans-title=英国の不文憲法 |publisher=[[大英図書館|The British Library]] |first=Robert |last=Blackburn |date=2015-03-13 |access-date=2020-03-13 |language=en}}</ref>

<ref name="Gallop2020">{{Cite book2 |language=en|first=Nick |last=Gallop |title=UK Politics Annual Update 2020 |url=https://books.google.com/books?id=6POgDwAAQBAJ&pg=PT7 |date=2020-03-02 |publisher=Hodder Education |isbn=978-1-5104-7280-8 |pp=6&ndash;7}}</ref>

<ref name="GriffithsLeach2018">{{Cite book2 |language=en|first1=Simon |last1=Griffiths |first2=Robert |last2=Leach |title=British Politics |url=https://books.google.com/books?id=IDtRDwAAQBAJ&pg=PA82 |date=2018-03-14 |publisher=Macmillan International Higher Education |isbn=978-1-349-93976-3 |p=82}}</ref>

<ref name="Heywood2015">{{Cite book2 |language=en|first=Andrew |last=Heywood |title=Essentials of UK Politics |url=https://books.google.com/books?id=1ubnCgAAQBAJ&pg=PA190 |date=2015-07-30 |publisher=Macmillan International Higher Education |isbn=978-1-137-53076-9 |pp=188&ndash;190}}</ref>

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* {{Cite journal|language=ja|author=高世信晃|title=陸奥宗光の政治的「個人」創出の試み明治におけるヨーロッパ政治思想の日本的取捨選択について|isbn=978-4-87540-164-3|editor=国際交流基金アルザス・欧州日本学研究所|date=2014-04|journal=アルザス日欧知的交流事業 日本研究セミナー「明治」報告書|url=https://www.jpf.go.jp/j/project/intel/exchange/organize/ceeja/report/09_10/pdf/09_10_11.pdf |ref={{SfnRef|高世|2014}}}}
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* アースキン・メイの生涯と功績を振り返る共著論集
** 序章: {{Cite journal2|language=en|journal=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|title=Introduction: The Growth of Many Centuries|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=Evans|first=Paul |publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|pages=1-20|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ |ref={{SfnRef|Essays (Evans: Introduction)|2017}}}}<!-- 編者のPaul EvansはClerk of Committees in the House of Commons。略歴は https://www.bloomsburyprofessional.com/author/paul-evans/ を参照のこと。-->
** 第1章: {{Cite journal2|language=en|journal=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|title=A Sycophant of Real Ability: The Career of Thomas Erskine May|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=Atkins|first=Martyn|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|pages=21-32|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA21 |ref={{SfnRef|Essays (McKay: Chapter 1)|2017}}}}
** 第2章: {{Cite journal2|language=en|journal=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|title=Slumber and Success: The House of Commons Library after May|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=Gay|first=Oonagh|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|pages=33-43|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA33 |ref={{SfnRef|Essays (Gay: Chapter 2)|2017}}}}<!-- 著者の略歴は https://www.ucl.ac.uk/constitution-unit/about-constitution-unit/people/honorary-staff/oonagh-gay を参照のこと。-->
** 第4章: {{Cite journal2|language=en|journal=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|title=Persuading the House: Use of the Commons Journals as a Source of Precedent|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=Atkins|first=Martyn|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|pages=69-86|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA69 |ref={{SfnRef|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017}}}}<!-- 著者の略歴は https://uk.linkedin.com/in/martynatkins を参照のこと。-->
** 第6章: {{Cite journal2|language=en|journal=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|title=Parliamentary Law in the Eighteenth Century: From Commonplace to Treatise|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=Seaward|first=Paul |author-link=ポール・ソワード|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|pages=97-114|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA21 |ref={{SfnRef|Essays (Seaward: Chapter 6)|2017}}}}<!-- 著者の略歴は {{仮リンク|ポール・ソワード|en|Paul Seaward}} を参照のこと。-->
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** 第9章: {{Cite journal2|language=en|journal=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|title=The Principle of Progress: May and Procedural Reform|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=McKay|first=William|author-link=ウィリアム・マッケイ (庶民院書記官)|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|pages=158-170|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA158 |ref={{SfnRef|Essays (McKay: Chapter 9)|2017}}}}
** 第13章: {{Cite journal2|language=en|journal=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|title=Finding Time: Legislative Procedure since May|editor-last=Evans|editor-first=Paul |last1=Sharpe|first1=Jacqy|last2=Evans|first2=Paul|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|pages=227-247|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA227 |ref={{SfnRef|Essays (Sharpe & Evans: Chapter 13)|2017}}}}
* {{Cite journal|language=ja |title=《翻訳》カール・レーヴェンシュタイン著 『第一次選挙法改革以降のイギリスにおける議会代表の社会学的研究──議会主権の時代 (1832年~1867年) ──』 (1) |last=Loewenstein |first=Karl |coauthors=渡辺中、小山廣和、浜田豊 (共訳) |year=1989 |publisher=[[国士舘大学|國士舘大學]]比較法制研究所 |journal=比較法制研究 |volume=12 |pages=55-77 |url=https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/records/7197 |issn=0385-8030 |ref={{SfnRef|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989}}}}
* {{Cite journal|language=ja |title=《翻訳》カール・レーヴェンシュタイン著 『第一次選挙法改革以降のイギリスにおける議会代表の社会学的研究──議会主権の時代 (1832年~1867年) ──』 (2) |last=Loewenstein |first=Karl |coauthors=渡辺中、小山廣和、浜田豊 (共訳) |year=1990 |publisher=[[国士舘大学|國士舘大學]]比較法制研究所 |journal=比較法制研究 |volume=13 |pages=71-109 |url=https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/records/7193 |issn=0385-8030 |ref={{SfnRef|レーヴェンシュタイン訳書 (2)|1990}}}}
<!-- * {{Cite journal|language=ja |title=《翻訳》カール・レーヴェンシュタイン著 『第一次選挙法改革以降のイギリスにおける議会代表の社会学的研究──議会主権の時代 (1832年~1867年) ──』 (3) |last=Loewenstein |first=Karl |coauthors=渡辺中、小山廣和、浜田豊 (共訳) |year=1991 |publisher=[[国士舘大学|國士舘大學]]比較法制研究所 |journal=比較法制研究 |volume=14 |pages=127-154 |url=https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/records/7189 |issn=0385-8030 |ref={{SfnRef|レーヴェンシュタイン訳書 (3)|1991}}}}
* {{Cite journal|language=ja |title=《翻訳》カール・レーヴェンシュタイン著 『第一次選挙法改革以降のイギリスにおける議会代表の社会学的研究──議会主権の時代 (1832年~1867年) ──』 (4) |last=Loewenstein |first=Karl |coauthors=渡辺中、小山廣和、浜田豊 (共訳) |year=1992 |publisher=[[国士舘大学|國士舘大學]]比較法制研究所 |journal=比較法制研究 |volume=15 |pages=19-73 |url=https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/records/7182 |issn=0385-8030 |ref={{SfnRef|レーヴェンシュタイン訳書 (4)|1992}}}} -->
* {{Cite book2|language=en|last=Ilbert|first=Courtenay Peregrine|author-link=コートネイ・イルバート|title=Legislative Methods and Forms|publisher=H. Frowde|date=1901|url=https://archive.org/details/legislativemeth00ilbegoog/}}
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* {{Cite book2|language=en|last=Vieira|first=Ryan A.|title=Time and Politics: Parliament and the Culture of Modernity in Britain and the British World|publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]|date=9 July 2015|isbn=978-0-19-873754-4|url=https://books.google.com/books?id=PonaCQAAQBAJ |ref={{SfnRef|Vieira|2015}}}}


== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
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トマス・アースキン・メイ

初代ファーンバラ男爵トマス・アースキン・メイ[注 1]英語: Thomas Erskine May, 1st Baron Farnborough KCB PC1815年2月8日 - 1886年5月17日)は、イギリスの庶民院書記官英語版(在任:1871年 - 1886年)[2]などを歴任した官吏、著述家。「議会の黄金時代」[3]と呼ばれるイギリス19世紀において、自著や議会での提言を通じて議会運営改革の必要性を訴え続けた。

特に議事規則本議会の法、特権、手続と慣習』(1844年初版)の著者として国内外に広く知られ、本書を指して「アースキン・メイ」(Erskine May)と呼ぶことも多い[4][5]。本書は21世紀においても「議会手続を定めたバイブル」「議会運営準則の中で最も権威ある書」などとイギリスで評され[4][6]、メイの没後も『アースキン・メイ:英国議会法実務』の書籍名で改訂が重ねられ、2019年には第25版が出版されている[4]。また、イギリス立憲政治(国王を戴きつつ議会主導で行われる政治体制)の史家としても知られ[7][8]ホイッグ史観的とされる[9][10]

16歳で庶民院図書館英語版勤務を始めたメイは[11]、長年の功績が認められて1871年に下院事務アドバイザーのトップである庶民院書記官に任ぜられた[12]。71歳での退任後にはファーンバラ男爵に叙されたが、貴族院議員就任に間に合わず1週間後に死去し、爵位は廃絶した[2]

メイの功績と社会背景概説

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資料を見るアースキン・メイ

メイが議会運営改革を提唱した19世紀は、イギリス議会が近代化・民主化へと変容する重要な転換期に当たり[13]、「議会の黄金時代」とも称される[3]。18世紀後半から興った産業革命により、富裕商工業者(上層中産階級、ブルジョワジー)の社会・経済力が増していた[14]。そしてメイの生まれた1815年は、ナポレオン戦争を終結させた第二次パリ条約の締結年でもあり、イギリス国内においても戦後苦境に陥ったブルジョワジーの間で独自の階級意識が萌芽し、次第に貴族階級との間で政治組織的に対立を激化させていった時期である[15]

1834年当時のイギリス庶民院の様子

中等教育を終えた16歳のメイは1831年、庶民院図書館にて職を得てキャリアをスタートさせているが[11]、その翌年1832年には長年の階級間対立が第1次選挙法改正(第1次選挙改革)の形で結実し、「イギリスにとっては政治的に決定的な出来事であった」とも評されている[16][注 2]。当改革により、庶民院の選挙権が都市部の小売店主クラスにまで拡大された[17]。その一方で、ブルジョワ的な金権政治の弊害も招き[20]、従前から行われていた選挙票の買収などの腐敗行為はむしろ悪化した[21]

このような政情にあって、メイは30歳手前にして通称『アースキン・メイ』(1844年初版)を上梓し、議会運営と意思決定の公平性(フェアプレイの精神)を説いた[22]。議会運営の準則を定めた教本は他にも複数あるものの、メイの視点は外部からの研究・評論ではなく、実務経験に根差して諸問題の事例を引用・解説したことが特徴として挙げられ[23]、本書は21世紀に入ってからもしばしば実質的なイギリス憲法の一部として位置づけられている[注 3]。その内容は不正選挙の公判・弾劾といった司法手続に関するものや[注 4]、私法律案(private bills)の請願審理手順[注 5]庶民院(下院)・貴族院(上院)・国王間の意思疎通と権限分担[注 6]など多岐に渡る。

世界初の旅客鉄道リバプール・アンド・マンチェスター鉄道が1830年に開通。1840年代までの鉄道狂時代には議会に敷設の請願が相次ぐ[28]

また、メイが著作を通じて説いたのはフェアプレイの精神(効果性)だけではない。議会審議の脱線と時間不足(すなわち効率性)が慢性的な課題となっており[29]パンフレット『議会公務を促進するための所見と提言』(1849年)では、選挙の集票目的で議会弁論が冗長化していると指摘した[29]。これに関連しメイは、議会審議に無関係な発言や長演説の禁止といった議事規則の具体的な改革を提言した[30]。当時のメイは私法律案請願の審査員を務めており[31][2]、1830年代から40年代のイギリスは鉄道狂時代とも呼ばれ、鉄道敷設を求める私法律案の請願などが議会に殺到する状況をメイは目の当たりにしていたのである[28]。メイの議会改革提言の一部は、敬愛するチャールズ・ショー=ルフェーブル英語版庶民院議長を通じて1853年に穏健な形で実現している[32]。メイの各種改革案は緻密徹底していたものの、同時に長年培った憲政の先例・原理や伝統を重んじる姿勢を忘れることはなかった[33][34]

その後、1855年12月(40歳)に庶民院書記官補佐[35]、1871年2月には庶民院書記官に昇格任命されている[12]。庶民院書記官とは議会運営・手続に関わるアドバイザー職のトップである[36][注 7]。既にメイの書記官補佐時代には『アースキン・メイ』がイギリス国外でも評価を得て[38]、第6版まで改訂が進み[35]、書記官に昇格後も第9版まで改訂に従事した[39]。当時のイギリスは対外的には帝国主義に基づいて覇権を拡大した時期であり[40]、諸外国の議会関係者がメイに接触した記録も残っている[9][41]。しかしながら国内での実務上では、書記官補佐時代のメイは議会規則改革の諸提言で議会の委員会から合意を得られず[42]、書記官昇格後も改革の努力を続けた[42]

さらに1860年代以降、職務の傍らで執筆活動の幅も広げ、直近100年間のイギリス憲政史をまとめた『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』(1861年-、全3巻)や、古代欧州から当時のアジア諸国にいたる民主主義を俯瞰した『ヨーロッパ民主史』(1877年)を記している。イギリス議会史に詳しい中村英勝は、立憲政治の母国たるイギリスにおいて19世紀以降は憲政史の研究が盛んであったと考察しており、その代表的な史家としてメイの名前を挙げている[注 8]。ただし、歴史学者ハーバート・バターフィールドからは、メイのホイッグ史観(国王や国教会に対抗する議会側の主権優位性をことさら強調する視座[43])が批判されている[10][9]。イギリスは政党政治の長い歴史を有するが[44]、19世紀に入ってからはトーリー党(前身は宮廷党、後の保守党、地方の土地所有名望家が支持基盤)とホイッグ党(前身は地方党、後の自由党、名望家以外が支持基盤)との二大政党による舌戦が繰り広げられ、政権交代を繰り返した時代であった[45]。メイが立場上ホイッグ党員であったかは不明だが、少なくとも議事規則をめぐっては強固なホイッグ党支持だったと言われている[33]

生涯

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幼少期

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ベッドフォード・グラマースクール英語版創立寄付者で16世紀豪商のウィリアム・ハーパー英語版像。メイの学んだ旧舎に残る。

1815年2月8日[31]ロンドン北西部のカムデン区ケンティッシュ・タウン英語版に生まれる[注 9][46][47]。同年9月21日にセント・マーティン・イン・ザ・フィールズで洗礼を受け、洗礼記録における両親の名前はトマス・メイ(Thomas May)とサラ・メイ(Sarah May)である[48]。メイの父は弁護士業を営んでいた[47]。ただし、メイの日記を編纂した[49]サー・ウィリアム・マッケイ英語版によると、メイは初代アースキン男爵トマス・アースキン英語版(司法長官の役割を果たす大法官[50]などを歴任)の息子または孫だった可能性があり、メイ自身もそれをほのめかしたという[28]

1826年から1831年までベッドフォード・グラマースクール英語版で校長ジョン・ブリアートン(John Brereton)の教え子として中等教育を受けた[2][31][46]グラマースクールの多くは成功した商人の寄付によって設立された私立校であり[51][注 10]、16世紀設立と古い歴史を持つベッドフォード・グラマースクールも、メイの頃には親元を離れて学ぶ寄宿制を採用していた(すなわち寄宿費を支払うだけの財力のある子弟を受け入れていた)[53][注 11]。なお、当時のイギリスはヨーロッパ大陸と比較して一般大衆を対象とした教育制度が遅れており[55]、中等教育はおろか初等教育も公立校が未創立の状況であり、教育格差が存在した時代であった[注 12]

庶民院図書館勤務の初期

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その後は高等教育に進学することなく[注 13]、16歳で庶民院図書館英語版の図書館員補佐(assistant librarian)になった[59]。当職への着任は、庶民院議長チャールズ・マナーズ=サットン英語版の推薦を受けてのことである[59]

庶民院図書館は1818年に設立されたばかりであり、メイが図書館員補佐に就任したときの司書はトマス・ヴァードン(Thomas Vardon、在任:1831年 - 1867年)だった[60]。ヴァードンが1835年に述べたように、当時の庶民院図書館は主に「議会の儀礼、財政、法案の審議段階、法令の内容」などの情報を議員に速やかに提供することをミッションとしており[61]、この一環で庶民院日誌(journal)に索引をつける業務も手掛けていた[60]。日誌とは、法案の請願書や法案審議の経緯と採決結果、主要な出来事などをとりまとめた文献である(審議中の演説や討論の詳細は含まない)[62][63][64]。庶民院日誌の索引はジェームズ1世治世(17世紀初期)の頃より、議会における慣習法の源として重要な位置づけにあった[注 14]

この索引付け業務にメイも携わることとなり、この頃より議会規則について学ぶようになる[67]。この経験が後の『アースキン・メイ』執筆の糧となったとされる[68]。ヴァードンが図書館司書に、そしてメイが図書館員補佐に就任した1831年時点では、1820年から1829年までの暫定索引がヴァードンの前任者ベンジャミン・スピラー(Benjamin Spiller)によって作成済の状況にあった[66]。しかし、その後の索引付け業務は以下のとおり、幾度となく中断せざるをえなかった。

1834年の議会大火英語版を目撃した画家ターナーによる油絵

まず、索引作成はスピラーの離任でいったん中止されている[66]。続いて1834年10月には議会大火英語版によって図書館の建物が焼け落ちる事件が起こった[60]。過去の貴重な法案請願書など日誌索引付けの対象物を火の粉から守るため、図書館員たちは機転を利かせて窓から放り投げるも[69]、蔵書の4割とほとんどの写本が失われた[60]。だが、情報管理という責任は庶民院図書館に残されており[66]、1836年に庶民院議長ジェームズ・アバークロンビー英語版が改めて索引作成をヴァードンに命じた[66]。ところがその矢先に、国王ウィリアム4世が死去してヴィクトリア女王が即位することになったため、索引作成は再び中断され、1839年8月にようやく完成した[66]。1820年から1837年の庶民院日誌索引では"PREPARED by Thomas Vardon"と書かれており、メイの関与は明示されなかったが、庶民院日誌局(House of Commons Journal Office)所蔵の索引では手書きで"Thomas May &"とつけ加えられていたという[70]

個人としてのメイはこの時期、庶民院図書館勤務に在籍のまま、1834年6月に高等教育機関である法曹院ミドル・テンプルに進学している[2][71]。進学から4か月後に発生した議会大火は、メイに庶民院日誌の勉強に集中する機会を与え、矛盾する可能性もあるほかの情報源を排除することができたとされる[72]。1838年には弁護士資格免許を取得し[2][71]、索引付けを完成させた1839年の同月には公務員の娘ルイーザ・ジョハンナ・ロートンと結婚した[31][73]

『アースキン・メイ』初版執筆(1844年)

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『アースキン・メイ』初版の表題紙

議事規則本議会の法、特権、手続と慣習』(原題: "A Treatise upon the Law, Privileges, Proceedings and Usage of Parliament")、通称『アースキン・メイ』の初版をメイが上梓したのは、庶民院日誌の索引付け業務を完了してから5年後の1844年のことである[74]。当時のメイは30歳手前であり、肩書は庶民院図書館員補佐のままであった[75]。後世の庶民院日誌局秘書官マーティン・アトキンス(Martyn Atkins)は『アースキン・メイ』を執筆できた要因として、ヴァードンとともに庶民院図書館の業務に関わった経験と、すでに出版されていた議事規則本に触れたことを挙げている[68]

当時、1832年の第1次選挙法改正に伴う議事時間の不足は議事日程における争点になっており[29]、研究者カリ・パロネン(Kari Palonen)によればこの非効率性が『アースキン・メイ』で扱われたテーマだったという[76]。メイは第1次選挙法改正を「議案の通過は複雑で長い手順であり、1832年時点でもエリザベス1世の議会とそれほど違わなかった」と感じていた[67][注 15]

1830年代から40年代にかけて、イギリスはいわゆる鉄道狂時代を迎えており[56]、鉄道敷設を求める私法律案(private bills)の請願が議会に殺到した[28]。これらの請願が議事規則(standing orders)に従っているかの審査が法案委員会の大きな負担になっており、チャールズ・ショー=ルフェーブル英語版(庶民院議長在任: 1839 - 1857年)はこの職務を「これまでの庶民院に関する職務の中で最も骨の折れる仕事」と形容した[28]。なお『アースキン・メイ』初版を出版したとき、メイは鉄道法案に関する解説書の執筆という商機に目をつけていたが、結局は議会に関する簡単な解説に留まった[28]

メイは本作の初版をショー=ルフェーブル議長に献呈し[77]、ショー=ルフェーブルは「現状でもたいへん役に立ち、新版が出版されれば完成度が高くなるだろう」と評した[78]。そしてメイは、後年の出世をショー=ルフェーブルに助けられることとなる[35]

議会運営改革の提言

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『アースキン・メイ』初版を上梓した後には、1840年代の鉄道への投資熱により鉄道建設のための私法律案が大幅に増えるとともに、議会が担っていた私法律案請願の審査が庶民院議員から庶民院の役人に委ねられることになったため、メイは1847年から私法律案請願審査員に就任した[28]。また、両院の弁護士費用査定官(taxing master、別名: costs judge[注 16])を兼務する形で、1847年から1856年まで務めた[2][75][33][注 17]

この時期メイは、議事規則の改革提言をとりまとめた2本と、成文法の統合改革を論じた1本の著述を行っている。メイの後任として庶民院書記官を務めたレジナルド・パルグレイヴが『アースキン・メイ』第10版(1893年)の序文で述べていたように、(初版が出版された)「1844年時点の議事規則は長期議会のそれとは本質的には同じ」であり、メイの時代であるヴィクトリア朝ではすでに立ち遅れていた[81]

『議会公務を促進するための所見と提言』執筆(1849年)

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本書は、議事規則改革を唱えたパンフレット(原題: "Remarks and Suggestions with a View to Facilitate the Dispatch of Public Business in Parliament"、ロンドン、1849年、8voパンフレット[2])である。その執筆背景としては、1847年から1848年の会期の長さがある[82]。この会期は1847年11月18日[83]に開会し、1848年9月5日にようやく閉会したが[84]、293日にわたる会期は記録である270日(1802年 - 1803年の会期)を大幅に更新した[82]

1847年から1848年の会期は、ホイッグ党首ジョン・ラッセル卿率いる第1次ラッセル内閣英語版の最中にあり、ラッセルは1846年に首相に就任した後1847年工場法英語版(通称「十時間労働法」)、1848年公衆衛生法英語版など改革法案を次々と打ち出し、ラッセルと連携していたピール派から「急行列車の速さ」と形容されたが、実際は内閣が弱体だったため法案成立が遅く、1847年から1848年の会期では法案200件に対し採決が255回と多く(前年と比べ、法案数は22%増、採決数は50%増)、会期中に会議が行われた1,407.5時間のうち136.25時間は0時以降だった[85]。メイはこの状況においても立法府の目的が果たされたとの見解を示しつつも、多くの「時間、エネルギー、健康を浪費」して得た結果であると付け加えた[86]

議会弁論の冗長化を数字として表す一例としては演説回数の統計があり、1810年に1,194回行われた演説が1847年には5,332回と3.4倍増であった[29]。演説回数が増えた理由として、メイは選挙の自由化により大衆が代議士の活動状況に注目するようになったことを挙げた[29]。その前年には第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーが貴族院で「選挙区が代表をさらに入念に見守るようになった」ため「議員が選挙区の注目を引くために演説回数を増やした」と指摘しており、メイと見解が一致した[29]

こうした情勢のなか、庶民院は公務委員会(Committee on Public Business)を設立して議事規則の改革を検討[82]、メイも敬愛する議長ショー=ルフェーブルに提言し、ショー=ルフェーブルは委員会でメイの提言の一部を提出した[33]。メイは改革の勢いが衰えないうちにパンフレット『議会公務を促進するための所見と提言』を出版し[33]、無関係な発言を制限する、採決数を減らす、米国の「1時間ルール」(1時間を超える長演説を禁止)の導入、フランスの「弁論終了動議」の導入といった方策について意見を述べた[30]。メイは「議事規則をめぐっては(時として露骨なまでに)ホイッグ党支持」であったとされ、メイの議事規則に関する「提言の多くが徹底的であるが、全般的には明らかな濫用を防ぐための改正を好み、古い原則を捨てることには渋った」と言われる[33]

『議会立法機構』執筆(1854年)

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1848年から1849年にかけての庶民院公務委員会は最終的にはショー=ルフェーブルが提出した提言の一部を容れ、穏健な改革案を通した[87]。改革案が1853年に発効すると、メイは再び議事規則改革を目指すようになり、1854年1月に『エディンバラ・レビュー英語版』に論文「議会立法機構」(原題: "The Machinery of Parliamentary Legislation")を寄稿した[88]。投稿時点では匿名だったが[89]、1881年の再版で記名となった[90]

議会における先例の重要性を説いたメイの言葉
庶民院の議事のほとんどは日誌の第1巻で先例がみられる。その文言は古風であるものの、継続して参照されたため、内戦や革命を経ても無傷のままである。この古き伝統を守るべきという矜持が、現代の条例や規則よりも伝統が敬意をもって従われる理由である。(中略)イギリスの議会制度がフランス、ベルギー、アメリカなどで広く採用されたのは制度の優秀さとその名声による。
『議会立法機構』(1881年再出版)より試訳[34]

メイはこの論文で、議会における先例の重要性を説きつつ、「腐敗選挙区を廃止する、穀物への徴税を廃止する、羊盗り犯を絞首刑に処さないといった改革が全て『栄誉ある憲法への侵害』」として「聖地扱い」されるという危険性も指摘した[34]。メイはまた、議会慣例が「古く、少なくとも3世紀もの間遵守された」ことをイギリスの憲法の特徴とした[34]。この主張は晩年になっても変わることはなく、1880年代の陸奥宗光との対談(後述)でも見られた。

先例を重んじる姿勢は「議会立法機構」の執筆スタイルそのものにも表れており、弁論終結動議(closure motion)の提言では2世紀以上前の1604年を先例引用した論述となっている[90]。当時のメイは図書館司書のヴァードンと共作で、1547年から1714年までの庶民院日誌索引を再作成・完成させており[70][注 18]、1604年の先例引用はこの日誌の期間と符合する。

さらにはこの日誌索引再作成の経験が、『アースキン・メイ』第2版(1851年)と第3版(1855年)の改訂にも影響を与えたとされる[68]。ヴァードンは1857年に1837年から1852年までの日誌索引を出版するとき、『アースキン・メイ』を褒め称え、改めて索引を作成する必要がなくなったとほのめかすほどであった[注 19]

メイが「議会立法機構」で論じた提言は多岐に渡るが、実現したのはその一部のみである。議長が職務を執行できない場合に歳入委員会委員長英語版が副議長として議長職務にあたるという提言は1855年副議長法(Deputy Speaker Act 1855)で受け入れられたが、1854年の庶民院業務特別委員会(Select Committee on the Business of the House)は保守党(旧トーリー党)多数であり、結局改革は急迫なもの(例としては、貴族院からのメッセージを庶民院に届ける業務を含む官職が廃止される予定だったため、秘書官がその業務を受け継ぐという提言が受け入れられた)を除いてほとんど進まなかった[93]

『議会立法機構』はメイの晩年の1881年になってパンフレットの装丁で再出版されているが、メイは再出版にあたって筆者序文を寄せ、「1854年という大昔に書いた記事を再出版するという提案は喜ばしいが、(記事が)今の状況にも適用できるか疑わざるを得なかった。しかし、それをもう一度読むと、有効な立法への障礙がそれほど残っていることと、議事規則という古い制度の欠点を補い、濫用を防ぐ措置のそれほど行われていないことに驚いた」と振り返った[34]

『選挙法の統合について』執筆(1850年)

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メイの改革提言は議事規則(立法のプロセス)に留まらず、成文法の法典化・統合・索引作成(立法の成果物)にもおよんでいる。その第一歩として1850年に『選挙法の統合について』(On the Consolidation of the Election Laws、ロンドン、1850年、8voパンフレット[2])を出版した[94]。『選挙法の統合について』では議員の選挙と就任に関する法律を扱っており、メイは選挙関連の法律が250件近くもあり、その多くがすでに失効していたが正式に廃止されておらず、また重複や矛盾する箇所も多かったと指摘した。このような成文法間の不整合を正すべきとの課題認識は、選挙法に限らず既に19世紀前半には広く争点となっていた[94]

このような成文法間の不整合の原因として、メイは初期法案が審議の過程でその解釈が歪められやすい立法プロセス上の問題点を指摘している。しかしながら、立法府の権限を制限するような急進的な方法でこの問題を解決するのも不適切と考えていた。つまり、選挙を経ていない人物が法案起草に関わるべきではないとの見解である。そこでメイは、既存の庶民院各委員会の下部に法案起草を目的とした小委員会を創設する階層構造を提唱した。この改革案は、1857年の成文法委員会特別委員会(Select Committee on the Statute Law Commission)にて進言されている[95]。しかし、メイがこの改革により立法に遅延が生じると認めた結果、委員会が提言を受け入れることはなかった[96]

メイが次に成文法の改革に関わるのは、成文法改正委員会に自身が直接参画した後のことである。なお、『選挙法の統合について』出版から四半世紀が過ぎた1875年の議会立法特別委員会(Select Committee on Acts of Parliament)において、メイは成文法の状況がかなり改善したと証言している[96]

庶民院書記官補佐として

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メイを重用した庶民院議長チャールズ・ショー=ルフェーブル英語版、1860年代の写真。

1840年代中頃から50年代中頃にかけて私法律案請願審査官などを務め、各種改革を提唱していたメイだが、その後の昇進は円滑にはいかなかった。『アースキン・メイ』の序文で献呈され[77]、メイの提言の耳ともなっていた庶民院議長のショー=ルフェーブルは、1850年にメイを庶民院書記官英語版(庶民院の議事運営に関するアドバイザー職トップ)に推挙するも見送られている。これは1850年に庶民院書記官現職のジョン・ヘンリー・リー(John Henry Ley)が急死したことを受けての後任人事であるが、首相でホイッグ党首であったジョン・ラッセルが同じくホイッグ党員であった初代準男爵サー・デニス・ル・マーチャント英語版を推したためである[97]。後年になって、ショー=ルフェーブルはこの出来事を回想し、メイへの手紙で「単に友人のため、政府を長年支持してきたために彼を任命したというラッセル卿の行動はなかなか正当化できない」と述べた[注 20]

ショー=ルフェーブルはメイを庶民院書記官に任命できなかった代償としてせめて庶民院書記官補佐(clerk assistant)への任命だけでも確保しようとしたが、書記官補佐のウィリアム・リー(William Ley)は頑なに辞任せず、1856年にようやく辞任するも書記官第二補佐(Second Clerk Assistant)で自身の甥にあたるヘンリー・リー(Henry Ley)を後任に推薦してショー=ルフェーブルを激怒させた[99]。最終的にはショー=ルフェーブルが首相ラッセルを説得して、1855年12月にメイの任命を認めさせた[35]

庶民院書記官補佐として、1861年の庶民院業務特別委員会と1869年の公務進行両院合同委員会(Joint Committee on the Despatch of Business)でも提言をしたが、いずれも成果を挙げられず、1869年の提言にいたっては「1850年以降、すでに多くの委員会が審議を進めたため、議事規則の改進はほぼ議論しつくされ、改進できるところはほとんど残されていない」と皮肉を放ったほどであった[42]

庶民院書記官補佐以外では、庶民院書記官補佐の在任中の1860年5月16日にバス勲章コンパニオンを授与され[100]、1866年7月6日にバス勲章ナイト・コンパニオンを授与された[101]。1866年11月22日、法律摘要委員会(Digest of Law Commission)の委員に任命された[注 21][2]。また、1866年から1884年まで成文法改正委員会英語版Statute Law Revision Committee)の議長を務めた[2]。成文法改正委員会はショー=ルフェーブルの主導で設立された[103]、成文法の改正版(Revised Statutes)を出版するための委員会であり[104]、会期ごとという出版スケジュールであった[105]。議会からは不要な成文法を廃止する成文法改正法英語版が可決され、委員会の負担を軽減する措置もとられた[105]

またメイは業務に取り込む傍ら、著作の執筆も進め、書記官補佐の在任中には『アースキン・メイ』を第6版まで改訂出版した[35]

庶民院書記官として

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バニティ・フェア』誌でのカリカチュアカルロ・ペリグリーニ作、1871年5月6日出版。

1855年12月(40歳)から庶民院書記官補佐を務めていたメイだが、50代半ばにして書記官への昇格が見えてくる。当時の庶民院書記官現職はル・マーチャントであり、庶民院議長の事務会議に毎日出席するル・マーチャントはまるで「軍艦に乗る兵士」のようだ、とのちの庶民院書記官アーチボルド・ミルマンは述べている[35]。しかしながら、このル・マーチャントが1870年秋にもうすぐ引退する予定であると明らかになった。メイがその後任になるのはもはや疑いようもなく、首相ウィリアム・グラッドストン(当時のピール派、後にホイッグ党と合流して自由党を形成)が庶民院議長ジョン・エヴリン・デニソン英語版に対し「わずかなためらいですら不当であろう」と述べるほどであった[9]

こうしてメイの庶民院書記官への昇進は1871年2月2日に決定され、2月3日に発表された[12]。メイ、56歳の時である。ル・マーチャントは自身の引退のときにメイに対し感謝を述べている[35]

庶民院書記官に就任した後も議事規則改革の提言を続け、1871年の庶民院業務特別委員会では「0時30分以降、異議が唱えられた業務について討議を始めることを禁止する」規則の導入を、1878年の庶民院業務特別委員会では「週に1日、歳入関連の審議のみを行い、それ以外の弁論を禁止する」規則の導入に成功した[94]。また、1877年にチャールズ・スチュワート・パーネルがアイルランド自治問題に注目を集めようとして議会で遅滞戦術をとると、庶民院議長サー・ヘンリー・ブランド英語版は議員が再発防止を目指して議事規則の変更を検討しているとして、メイに返答用の資料を準備させた[106]。メイは昔提起したことのある「遅滞用の動議では弁論禁止」「議員が故意に繰り返して議事を妨害した場合、議会侮辱罪で有罪とし、登院停止などの処罰を与える」などの改革案を提起し、庶民院院内総務スタッフォード・ノースコートはその一部に賛成したが、ブランドはノースコートには改革を通過させる決心も票数も足りないと考え、結局1878年7月に問題が再発するまで何の処置もなされず、メイはブランドへの手紙でノースコートの態度を批判した[106]。その後、1881年1月末に人身財産保護法案(一般的には「アイルランド強圧法」(Coercion Act)と呼ばれる)が提出されると、アイルランド人議員36名が再び遅滞戦術をとり、1月31日から2月2日には会議が41時間連続で行われた[107]。ブランドはやむなく議会の緊急状態を宣言して、2月4日から28日まで「議会の独裁者」(parliamentary dictator)として振舞い、遅滞戦術をとった議員を追い出した後法案の審議を続けた[107]。この事件とそれを受けてグラッドストンが1882年に行った議事規則改革は1883年に出版された『アースキン・メイ』第9版に大きな影響を与えた[108]

庶民院書記官以外の職責・栄誉の面では、1875年と1885年に貴族院書記官への就任も目指したが、いずれも実現しなかった[28]。しかし、1873年11月21日に出身校ミドル・テンプルの評議員英語版に選出され[2]、翌1874年6月17日にオックスフォード大学よりD.C.L.英語版の学位を授与され[2]、1880年にミドル・テンプルの朗読者(reader)に[注 22][110]、1884年8月11日には枢密顧問官に任命された[2]。庶民院書記官経験者が枢密顧問官に任命されるのは2017年時点でもメイの1例しかなかったという[111]

憲政史家として

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庶民院書記官補佐および書記官時代のメイは執筆の幅も広げ、後に憲政史・民主史家としても評価されることとなる[7][8]。この時期のイギリス社会は、民主主義が真の意味で大衆に浸透し始めている[112]。1850年頃から1870年代初期までは「イギリス資本主義の空前の繁栄」を見せ、各地で急速に工業化が進んだ時代である[113]。1860年代には労働運動が高まった[114]。また、「知識税英語版」とも批判されて一般大衆の学ぶ自由を阻んでいた印紙法英語版(別名: 新聞税)の1855年廃止も大きい[115]。これにより地方新聞が急速に発達、各地に敷設された鉄道網に乗って新聞が流通し、ロンドン中央政界のニュースが地方の政情にまで影響を与えるようになった[116]。不正と審議遅延を招いた1832年の第1次選挙法改正から35年後の1867年には第2次選挙法改正英語版が、続く1884年には第3次選挙法改正英語版が行われ、選挙権が2次で都市労働者まで、3次では農村・鉱山労働者まで広がった[117]。つまり、大衆民主主義に必要な社会インフラが整備された時代に、メイはイギリス憲政史と民主主義を論じたのである。

『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』執筆(1861年 -)

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『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』(The Constitutional History of England since the Accession of George III, 1760–1860ロンドン、1861年 - 1863年初版、2巻、8vo。1871年第3版、3巻)[2][注 23]はイギリスの憲政史に関する著作であり、ジョージ3世が即位した1760年から1860年までの100年間を扱っている[120]。しかし、ジョージ3世の即位が憲政史における分水嶺というわけではなく、取り扱う期間が1760年から始まる理由はそれまでの歴史がヘンリー・ハラム英語版の著作ですでに扱われていることだったという[120][注 24]

島田三郎乗竹孝太郎による日本語訳は1883年から1888年にかけて経済雑誌社(第1から3巻)と輿論社(第4から6巻)より『英国憲法史』として出版された[123]。このほか、メイの死後1894年時点でドイツ語とフランス語訳も出版され、19世紀末の『英国人名事典』が「ハラムに比肩する」と評価したものの[2]ホイッグ史観を採用しており[9]、20世紀の歴史学者ハーバート・バターフィールドは「(メイの)証拠の様々な部分を合成する能力により、平凡な先人たちよりも大きな誤りを作り出してしまった」「歴史にドクトリン的要素を入れたことで、最初の誤りを増大させて、著作を真実から遠ざける結果となった」と批判している[10]。ただし、先人のハラムが既にホイッグ史観に立脚しており、メイはこの立場を踏襲したとも評されている。ハラムと比較して、特に社会学的な観点からの考察がメイの著作では充実した内容となっている[124]。同じく20世紀の歴史学者であるイアン・ラルフ・クリスティ英語版はメイの著作が「ジョージ3世の活動は権力を政治家から国王に移行させ、憲政上のバランスを破壊した」というホイッグ史観の通説に「1714年から1760年までの間に党派政治と責任内閣制が発展し、政治家がヴィクトリア朝後期のそれと同じように活動した」という仮定を追加し、ジョージ3世時代の実態が歪められてしまった[125]ロムニー・セジウィックによれば、この見方の結果、ジョージ3世が同時代の政治家から名誉革命で成立した体制の転覆を疑われたところは、歴史家の目には責任内閣制の転覆を疑われたと映ることになるという[125]

1912年にジャーナリストのフランシス・ホランド(Francis Holland)が1860年から1911年までの内容を追加して3巻で出版したが、脚注をほとんど用いないなどメイの作風とかけ離れているほか、著者の個人的な意見が含まれている作品であるため勝手に内容を追加すべきではないとして、同年のC・E・フライヤーによる書評で批判された[126]

『ヨーロッパ民主史』執筆(1877年)

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1877年の『ヨーロッパ民主史』(Democracy in Europe: A History、ロンドン、1877年、2巻、8vo[2])は民主主義をテーマとした著作であり、古代ギリシア古代ローマなど主にヨーロッパ史を扱うが、インド、中国()、日本などアジア諸国にも触れており[127]、日本については明治維新から10年ほどだったこともあり、「アジアの国が政治自由に向けて歩めるかはまだ分からない」としているものの、「政府が啓蒙的で進歩している」とも評している[128]。また、イギリスについては「イングランドの改革者は大胆だったが、過去とは決して絶縁しなかった。彼らの目的は破壊ではなく、改善と再生である」と評した[129]

メイは同書の序論で啓蒙された国(enlightened nations)の歴史を「統治の原則を示す実例」(an illustration of the principles of government)とし、それを学ぶことで自由な国が生まれる理由と条件について知ることができるとした[130]

首相ウィリアム・グラッドストンは同書の出版が「歴史文学の発展における一大イベント」と手放しで絶賛した[9]。同時代の歴史家初代アクトン男爵ジョン・ダルバーグ=アクトンも1878年1月の書評でメイが「法律は社会の状況に依拠し、現実に基づかない考えや論争に依拠しないことを信じている」ため、「常に地に足をつけ、選別された事実、健全な判断力、信頼のおける経験に頼っている」と評価した[129]

日本語圏では川田徳二郎が『ヨーロッパ民主史』の緒論、フランスとイギリスの章の翻訳に取り掛かり[131]、1882年に『欧州民力史論』として緒論とフランスの部第1巻が出版された[132]

引退と死

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1886年4月に71歳で庶民院書記官を辞任、5月10日に連合王国貴族であるサウサンプトン州におけるファーンバラのファーンバラ男爵に叙されたが、貴族院議員への就任にも間に合わず、1週間後の5月17日にウェストミンスター宮殿にある官邸で死去した[2][31][111]。葬儀ののち、24日にケンブリッジシャーチペナム英語版で埋葬された[2]。妻との間に子女がおらず、爵位は廃絶した[2]。爵位創設から廃絶まで7日しかないことになり、これは1日で廃絶したレイトン男爵(1896年創設)についで2番目の短さである[31]

1886年、ウェストミンスター寺院聖マーガレット教会で初代ファーンバラ男爵の記念碑が立てられた[133]。また、死後に撮影された写真に基づき、アルバート・ブルース=ジョイが胸像を作製し、1890年3月6日に庶民院議長による除幕式が行われた[2]

首相ウィリアム・グラッドストン、庶民院議長チャールズ・ショー=ルフェーブル、ジョン・エヴリン・デニソン、サー・ヘンリー・ブランド英語版アーサー・ウェルズリー・ピールなどとの書簡集が議会文書館英語版に現存し[73]カミーユ・シルヴィによる鶏卵紙写真2枚(1861年4月)がナショナル・ポートレート・ギャラリーに所蔵されている[134][135]

評価と後世への影響

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人物評

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『英国人名事典』はメイを「有能、誠実で称賛に値する公務員」(a most able, faithful, and meritorious public servant)と称え、多くの人から尊敬されたとした[2]。しかし、後世に庶民院書記官を務めたサー・ウィリアム・マッケイ英語版はメイが栄典に強い興味を持ったと指摘し、1884年に庶民院議長ブランドが首相グラッドストンにメイの枢密顧問官への任命を推薦したとき、メイが「ずうずうしくも『格別に適切』であると答え」、庶民院書記官から引退するときに賃金と同額の年金を求めたという[111]。また、公務員としては公正だったものの、社交界では自由主義者と親しく、また庶民院勤務の公務員に自由党党員の息子を推薦することが多かったという[136]

議事規則本著者ベンサムとハットセルとの比較

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「最大多数の最大幸福」で知られる功利主義の哲学者・経済学者・法学者ジェレミ・ベンサム(1748年 - 1832年)も議事規則について記しており(『Essay on Political Tactics』、1798年 - 1816年)、ベンサムと67歳年下のメイを比較したカリ・パロネン(Kari Palonen)の研究(2012年)が存在する[22]

パロネンによると、ベンサムとメイは双方ともに議会運営の公平性を説いている点では共通する[22]。また、ベンサムも議題提出のタイミングや審議の長さといった時間に着目している[137]。しかし、ベンサムが議会の「部外者」であるため実務経験を持たず、議会で生じる可能性のある問題や議事規則で定めるべき点を列挙して、イギリスの議会のみならず立法議会全般に適用できるようにしたのに対し、メイは議会に実際に関わり、イギリスの議会史において繰り返して議論された議事規則の問題を事例を引用しつつ解説した違いがある[23]

また、『アースキン・メイ』の初版序文でもメイ自ら言及している通り、メイ以前のイギリス議事規則本の権威としてはジョン・ハットセル英語版による著作(1781年初版、1818年第4版)が存在する[138]。『アースキン・メイ』では1818年以降の庶民院における事例を取り上げたほか、ハットセルの著作では取り扱われなかった貴族院における事例も採用したという[139]。また、ハットセルの著作が先例に基づくアプローチで[140]、あくまでも先例集(collection of precedents)という形をとっているのに対し[141]、メイは年代順ではなくトピック毎に原則、根拠、先例という順で並べ、議会規則を読みやすくした[140]。さらに、独立した問題への回答ではなく、議事規則の根底にある原則とロジックを明示することで、読者に議事規則について再考し、それを合理化できる機会を与えることになる[142]

各国への翻訳・波及

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『アースキン・メイ』は1850年代にはすでにイギリス国外でも評価されており[35]、スウェーデンとオスマン帝国の議会がメイに接触したほか、『タイムズ』紙は『議会の法、特権、手続と慣習』が本国よりもオーストラリアで有名であると報じた[38]

メイの死から8年後の1894年時点で、日本語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、ハンガリー語、フランス語訳が出版された[2]。日本では1879年(明治12年)に小池靖一による日本語訳『英國議院典例』が律書房より出版されている[1](翻訳元は1873年に出版された第7版[143])。明治期の日本ではメイの名前を「多摩斯阿爾斯京理」(トマス・オルスキン・メイ)と表記していた[1]

ニュージーランド議会との交流

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ニュージーランド議会は1854年に設立された[144]。同年に急遽制定された議事規則ではイギリス庶民院の慣習に従うという原則が定められ、冒頭に「特記がない場合は『議会の法、手続と慣習』が参考になる」と明記されたほどだった[144]。同年にはイギリス庶民院も議事規則を出版しているが、その内容は似ておらず、同年に出版されたのは偶然だった[145]。しかし1865年にニュージーランド議会の議事規則が改訂されたとき、メイの著作をほぼコピーしたものになってしまった[145]。また議会がメイ本人に手紙を介して助言を求めることも頻繁であり、1862年から1864年までニュージーランド両院[注 25]金銭法案英語版(租税、歳出を扱う法案)をめぐる論争ではメイの返答がそのまま結論となった[146]。これは下院で可決された金銭法案を上院が修正する権限があるか、という論争であり、メイは「地球の反対側での論争に参加したくない」としつつ、「(イギリスの)庶民院から送付された法案に対し、貴族院が修正すると、庶民院はその特権と両院の関係に基づき修正を拒否するだろう」との返答を示した[146]。このように、メイは片方に寄った意見をせず、イギリスでの慣習を述べる形に留まることで、論争に巻き込まれることを避けつつ、慣習という事実が影響力を発揮できるようにした[146]

ニュージーランド議会の規則は19世紀中には大きな改革が行われず、フランスのアンドレ・シーグフリード(André Siegfried)は1904年の『ニュージーランドの民主制』(La Démocratie en Nouvelle-Zélande)で「議会開会はウェストミンスターのそれを模倣した、旧態依然の儀式のなかで行われた。伝統の本拠地であるイングランドでなら通用したかもしれないが、植民地においてははっきりいってばかげている」などと酷評した[144]

日本:陸奥宗光との対談(1884年)

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メイの死後に日本の外務大臣を務め、「陸奥外交」の一環でイギリスとも所縁のある陸奥宗光は、ヨーロッパ留学中(1884年 - 1885年)にメイ本人に教えを請うた記録が残っている[41]。その議題は以下のとおり、小選挙区制、議会の二院制、政党政治、責任内閣制など多岐に渡った。

このとき、イギリスでは第3次選挙法改正英語版の最中であり、選挙法改正を行う第2次グラッドストン内閣をメイは実務面から支えていた[147]。そうした中、陸奥は日本が採用すべき選挙制度をメイに尋ね、メイは「小選挙区制は間違いなく最も単純」を理由として小選挙区制を勧め、陸奥が小選挙区制において多くの死票が発生するという問題を指摘すると、メイは多数の得票を得た政党が敗北するという状況が「起こる可能性はあまりないと思う」、「選挙において完全なる公正と平等は不可能である」と小選挙区制への支持を維持した[147]。1885年に陸奥がドイツの社会学者、法学者ローレンツ・フォン・シュタインに同様の質問をしたとき、シュタインはメイとは対照的な形で「拘束名簿式比例代表制(原文はScrutin de Liste)は選挙の原理として唯一正しい考えかたである」と回答し、死票の問題と「選挙区の区割りは作られたものなので、特定の地方の多数派は国家全体の本当の多数派を支配することになるかもしれない」という問題を指摘して、比例代表制で下院多数派を占める政党が現れないようにして、下院の暴走を抑えられるようにすべきとした[148]。陸奥の講義ノートを研究した高世信晃は2人の回答について考察し、メイが「イギリス政治の実地経験から具体的かつ実践的な」回答をし、シュタインが「行政府に権力を集中させ政府の安定に最大限の注意を払っていた」としている[149]

メイは日本が上院を設立すべきかについての質問へは「立憲政府を導入するためには必要不可欠」として設立すべきと考えを示し[150]、また「少数派は政治的要求を勝ち取るために政党を組織し、議会へ代表を送り込むだろう」と陸奥に述べ、はからずも労働者による労働党設立を予想した[147]。最終的に陸奥が研究をまとめて提出した『憲法論』では小選挙区制を支持したが、その理由はメイが述べたものと全く同じである[151]

また陸奥が「イギリスが責任内閣制の恩恵を享受しているのは、徐々にほとんど無意識のうちに形成されたことと慣習とが、一体になることによる」と指摘すると、メイもそれに同調して「イギリスがそうだったように、日本も議会制政治を確立するには200年かかるであろう」と答えた[152]

『アースキン・メイ』の改訂と現代政治

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21世紀の庶民院委員会秘書官ポール・エヴァンス(Paul Evans)らによると、メイの存命中に出版された第9版までは議員の注目するところである議員の権力と特権(powers and privileges)に関する内容が大半だったが、以降は「万人向けのガイドブックから法学の教科書」に移り、特に第14版(1946年)が顕著だったという[153]

「アースキン・メイ」(Erskine May)の通称は現代でも使用されており[5]、イギリス議会のウェブサイトでも「議事運営手続きの聖書」(the Bible of parliamentary procedure)との呼称で言及している[4]庶民院議長は裁定においてアースキン・メイを引用することが多く、庶民院での議論でも引用される[4]

またメイの日記を20世紀後半に編纂したマッケイ[49]によると、イギリスにおける影響としては議事規則が不文律である慣習から法典化された規則に変わる傾向をはじめたことが挙げられる[154]。一方、21世紀の庶民院日誌書記官マーク・ハットン(Mark Hutton)もイギリスの憲法非成典憲法であるとし、『アースキン・メイ』がイギリスの憲法の一部であるとしたが、『アースキン・メイ』は「手続きの聖書」(procedural bible)とは言えないとした[155]。また、ハットンは「議会は多くのルールがあるものの、ルール志向(rules-based)の組織ではなく、慣習と先例に基づき運営されている。議事規則(standing orders)、決議、成文法(statute)で記述されているルールは慣習への注釈あるいは改正にすぎない」とも述べている[155]

また、議会内部だけでなく一般メディアにも「アースキン・メイ」の表現が用いられることがある。例えば欧州連合離脱(Brexit)でイギリス議会が紛糾していた2018年、日刊紙タイムズのコラムニストであるフィリップ・コリンズ(Philip Collins)は「テリーザ・メイ首相より『アースキン・メイ』の方が役に立つ時期に差し掛かっている」と同姓のMayつながりで当時の政局を皮肉っている。統制の取れなくなった議会を正常化させるには、議事規則に則るべきとの主張である[156]。この批判は他メディアにも引用された[157][158]

家族

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1839年8月27日、ルイーザ・ジョハンナ・ロートン(Louisa Johanna Laughton、1901年2月2日没、公務員ジョージ・ロートンの娘)と結婚したが[31][73]、2人の間に子供はいなかった[2]

記録上メイには3人の姉がおり、メイとはそれぞれ20歳、18歳、13歳離れている。3番目の姉アン・アグネスはメイの妻ルイーザの兄と結婚しており、アン・アグネスが45歳で他界するとその娘(メイの姪)はメイの自宅で暮らし続けた[47]

メイの父親ないし祖父が初代アースキン男爵トマス・アースキン英語版(1750年 - 1823年)だった可能性については[28]、確たる証拠は残っていない[159]。アースキン男爵は1770年代中頃(メイが生まれる約40年前)に最初の結婚をしており、8人の子を儲けている。洗礼上の記録上でメイの母とされるサラが、アースキン男爵の娘だったとの憶測もある[159]

著作一覧

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  • 「帝国議会」(The Imperial Parliament、『Knight's Store of Knowledge for All Readers』への寄稿、ロンドン、1841年)[160]
  • 『議会の法、特権、手続と慣習』(A Treatise upon the Law, Privileges, Proceedings and Usage of Parliament、1844年初版[74]8vo[2]、メイ本人は第9版まで改訂)
  • 『議会公務を促進するための所見と提言』(Remarks and Suggestions with a View to Facilitate the Dispatch of Public Business in Parliament、ロンドン、1849年、8voパンフレット[2]
  • 『選挙法の統合について』(On the Consolidation of the Election Laws、ロンドン、1850年、8voパンフレット)[2]
  • 「議会立法機構」(The Machinery of Parliamentary Legislation、『エディンバラ・レビュー英語版』への寄稿、1854年1月) - 投稿時点では匿名だったが[89]、1881年の再版で記名となった[90]
  • 『庶民院の公務進行に関する規則、命令と形式』(Rules, Orders and Forms of Proceedings of the House of Commons, relating to Public Business、1854年出版)[161]
  • 『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』[注 23]The Constitutional History of England since the Accession of George III, 1760–1860ロンドン、1861年 - 1863年初版、2巻、8vo。1871年第3版、3巻)[2]
  • 『ヨーロッパ民主史』(Democracy in Europe: A History、ロンドン、1877年、2巻、8vo)[2]
  • ブリタニカ百科事典第9版』の記事『Parliament』(議会)(1885年出版)[162]
  • ブリタニカ百科事典第11版』の記事『Parliament』(議会)(1911年出版、ヒュー・チザムと共作)[163]

上記以外にも『ペニー・サイクロペディア英語版』、『ロー・マガジン』(Law Magazine)といった雑誌に寄稿した[2]

略年表

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  • 1815年2月8日 - 弁護士の息子としてロンドン北西部で誕生[31][46]
  • 1815年11月 - 第二次パリ条約締結でナポレオン戦争が終結、戦後不況[15]
  • 1826年 - 寄宿制ベッドフォード・グラマースクール英語版で学ぶ(1831年まで)[2][31][46]
  • 1831年 - 庶民院図書館英語版での仕事を開始し[11]、庶民院日誌の索引付け業務に従事[70]
  • 1832年 - 第1次選挙法改正(選挙権が都市部の商店主クラスにまで拡大)[164]
  • 1834年6月20日 - 庶民院図書館に在籍のまま、法曹院ミドル・テンプルに進学[2][71]
  • 1834年10月 - 議会大火英語版で庶民院図書館の一部が焼失し、勉学に集中[72]
  • 1838年5月4日 - 弁護士資格免許を取得[2][71]
  • 1839年 - 庶民院日誌の索引付け完成[66]、ルイーザ・ジョハンナ・ロートンと結婚[31][73]
  • 1844年 - 『アースキン・メイ』初版上梓
  • 1847年 - 私法律案請願審査官および弁護士費用査定官に就任(1856年まで)[2][75][33][注 17]
  • 1849年 - パンフレット『議会公務を促進するための所見と提言』上梓
  • 1850年 - パンフレット『選挙法の統合について』上梓
  • 1852年 - 『アースキン・メイ』第2版改訂
  • 1854年 - 論文「議会立法機構」寄稿
  • 1855年 - 『アースキン・メイ』第3版改訂
  • 1855年12月 - 庶民院書記官補佐に就任(1871年2月まで)[35]
  • 1857年 - 庶民院日誌索引(1837年から1852年まで)を共著出版[68]
  • 1861年 - 『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』上梓
  • 1866年 - 成文法改正委員会の議長(1884年まで)、および法律摘要委員会の委員に就任[2]
  • 1867年 - 第2次選挙法改正英語版(選挙権が都市労働者にまで拡大)[117]
  • 1871年2月 - 庶民院書記官に昇格(1886年4月まで)
  • 1877年 - 『ヨーロッパ民主史』上梓
  • 1884年 - 第3次選挙法改正英語版(選挙権が農村・鉱山労働者にまで拡大)[117]
  • 1886年5月 - ファーンバラ男爵に叙されるも、1週間後に死去(享年71歳)[2][31][111]

注釈

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  1. ^ 明治期の日本では「多摩斯阿爾斯京理」(トマス・オルスキン・メイ)という表記がある[1]
  2. ^ 1832年の第1次選挙改革では、有権者の資格(選挙権)が「10ポンド戸主」(年価値10ポンド以上の家屋・店舗などを占有する戸主)と定められ、有権者数が1.5倍に増えている[17]。しかしながら庶民院への立候補資格(被選挙権)は第1次選挙改革から6年後の1838年に実現されている[18]。また、イギリスは貴族院(上院)と庶民院(下院)の二院制を敷いているが、選挙で議員を選ぶのは庶民院のみが対象となっている。したがって1832年の第1次選挙改革によって、貴族院に対する庶民院の優位性が「制度的に」直接規定されたわけではなかった。あくまで「社会的に」(実質的に)庶民院の影響力が増した転換点として1832年の選挙改革は捉えられている[19]
  3. ^ 一般的な国の憲法とは異なり、イギリスの場合はいわゆる「憲法」に該当する法律文書が一つに体系化・法典化されているわけではない。そのため「不文憲法」(unwritten)あるいは「不成典憲法」(uncodified)と呼ばれる[24]。どの法律文書をイギリス憲法の構成要素と見做すか見解は異なるものの、『アースキン・メイ』をこれに含める立場が複数存在する[25][26]。また憲法とまで断言せずとも、「議会手続を定めたバイブル」「議会運営準則の中で最も権威のある書」などと位置付けられている[4][6]
  4. ^ 『アースキン・メイ』初版 第22章および第23章を参照のこと[27]
  5. ^ 『アースキン・メイ』初版 第19章および第24 - 29章を参照のこと[27]
  6. ^ 『アースキン・メイ』初版 第19章および第16 - 17章を参照のこと[27]
  7. ^ 庶民院書記官の職責は記録上、少なくとも1363年まで遡る。当時は絶対君主が庶民院書記官を直接任命する重要な職であり、庶民院議員や内閣には罷免権がない独立した立場であった。その後手続面のアドバイザーから徐々に職責が広がり、議会運営実務における執行責任者の役割も現代では含まれている[37]
  8. ^ 中村が挙げたのは、『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』を記したメイ、メイに影響を与えたとする先人のヘンリー・ハラム英語版(1777年 - 1859年)、およびメイと同世代のウィリアム・スタッブズ英語版(1825年 - 1901年)の3名である[7]
  9. ^ ケンティッシュ・タウンは庶民院および貴族院の議事堂があるウェストミンスター宮殿から北に6kmほどに位置する地域。
  10. ^ グラマースクールの「グラマー」は文法の意味。その前身は12世紀にまで遡り、下級聖職者にラテン語の文法を教える教育機関であった。19世紀中頃時点では、他の教育機関がラテン語などの古語を教える割合が8%未満だったのに対し、グラマースクールの7割強は古語教育を継続していた[52]
  11. ^ イギリスでは自宅から通学する「ローカル」スクールの対義語として、全土から学生を募る寄宿制の「パブリック」スクールが存在する。安価な授業料の公立校の意味ではなく、寄宿費を捻出できる富裕な家庭に開かれている私立校である。パブリックスクールはグラマースクールを前身とし、18世紀ごろから展開し始めた[54]
  12. ^ 公立の初等教育学校を設置する法案が可決されたのが1870年であり、ほぼ全ての児童が初等教育を受けられるようになったのは1880年代に入ってからである[56]イギリス教育改革の年表 も参照のこと。
  13. ^ 当時のイングランドにおける大学教育は、貴族制に基づきオックスフォード大学ケンブリッジ大学が独占しており[15]、1810年代から1840年代を平均すると、オックスブリッジに進学できたのは男女の全学童のうち0.3%に止まった[57]。この独占状態に風穴を開けたのが、ブルジョワ自由主義的な立場のロンドン大学のユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)であり、1826年設立(メイが中等教育を受けている頃)のことである[15]。なお、レーヴェンシュタイン訳書では旧ロンドン大学の設立年を1827年としているが[15]、大学側は設立年を1826年と公式表記している[58]
  14. ^ チャールズ1世の治世とそれに続く清教徒革命(17世紀中期)で一時的に低調になったものの、18世紀末には再び盛んに行われていた[65]。文人マーティン・バーニー(Martin Burney)が1801年から1820年までの日誌索引を作成した後は索引作成の業務が外部委託ではなく庶民院図書館に担当されるようになっている[66]
  15. ^ 議員は議案について質問することができ、(1832年時点の)最短手順をとったとしても第一読会で4問、第二読会で5問、法案委員会で9問、第三読会で6問が必要だった[67]。修正案が提出された場合は必要な質問数がさらに増えた[67]
  16. ^ 大法官裁判所英語版の役職の一種。メイが弁護士費用査定官に就任する2年前の情報によると、イングランドでは20年以上の法務経験を当職の就任資格要件として法律上規定していた[79]。なお、イギリスでは司法(裁判所の機能)と立法・行政が明確には分離しておらず、大法官は内閣の一員である[50]。現代においては、taxing masterは高等裁判所の一部門である高等法院に所属し、判決を受けて訴訟当事者の一方から他方へ支払われる裁判費用を審査する役割を担っている[80]
  17. ^ a b 一部の文献では、私法律案請願審査員は1846年の1年のみで、翌1847年から1856年まで弁護士費用査定官を専任したとの記録も存在する[31]
  18. ^ 1845年に庶民院が日誌索引を調査したところ、(メイが索引付けを担当した期間を含む)1714年から1837年までの索引は大きな問題がなかったものの、1547年から1714年までの日誌索引は再作成する必要があると判断した。これによりヴァードンとメイの共作で1547年から1714年までの日誌索引が再作成され、1852年に出版された[70]
  19. ^ ただし、ヴァードンは1865年分まで索引を作成し、1867年に死去すると索引作成の業務は日誌局秘書官が引き継いだ[68]。ヴァードンの死後、庶民院図書館が索引作成を担当しなくなったため、先例を提供するという役割を失い、ただの議員休憩所と化した[91]。図書館の管理はそのまま停滞し、1930年までに議員から問題提起されたものの、実際に改善が行われたのは第二次世界大戦後のこととなる[92]
  20. ^ 庶民院議員経験者が庶民院書記官に任命されたのは1659年という議会が低調の時期に任命されたトマス・セント・ニコラス(Thomas St Nicholas)以来のことだった[97]。また、18世紀のジェレマイア・ダイソンのように庶民院書記官から議員に転身する例もある[98]
  21. ^ 当時の法律が複雑すぎることを憂慮し、法律の系統的な概略の作成を目指して創設された委員会であり、委員には同時期の著名な法律家である初代クランワース男爵ロバート・ロルフ英語版初代ウェストベリー男爵リチャード・ベセル英語版ヒュー・ケアンズウィリアム・ウッド英語版ラウンデル・パーマーが名を連ねた[102]
  22. ^ 法曹院の法令読会(reading)において、法令の解釈を披露し、それに対する批判に反論する役割を持つ人物[109]
  23. ^ a b 本書の日本語定訳はないことから、渡辺・小山・浜田共訳[118]に従った。当訳書の原著は憲法論などで知られる哲学者・政治学者カール・レーヴェンシュタイン英語版であり、革命後の共和制フランスや君主制ドイツなどとの対比の文脈で、レーヴェンシュタインはメイの著作『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』を参照文献として挙げている[119]
  24. ^ イギリスにおける近代的な議院内閣制の発展研究の観点からは、ジョージ3世の即位(1760年)ではなく、曾祖父のジョージ1世の即位(1714年)をターニングポイントとするのが通説となっている。ジョージ1世はハノーヴァー家出身のドイツ人であり、英語を解すことができなかったことから、首相との会話にはラテン語を用いていたとされる。かつ即位は50歳を超えてからである。したがって「王は君臨すれど統治せず」の政治姿勢は意図したものではなく、必然的に責任内閣制が必要とされた背景がある[121]。その後、ジョージ3世は1760年の即位後に王権回復に努めて民主化・立憲主義の後退が一時的に起こるものの、大ピットによる長期政権運営によって責任内閣制と首相の地位が確立している[122]
  25. ^ ニュージーランド議会は1950年まで両院制だった[146]

出典

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参考文献

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一次出典

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第三者文献

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関連項目

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外部リンク

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グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
ウィリアム・リー
庶民院書記官補佐
1856年 - 1871年
次代
レジナルド・パルグレイヴ
先代
サー・デニス・ル・マーチャント準男爵英語版
庶民院書記官英語版
1871年 - 1886年
次代
レジナルド・パルグレイヴ
イギリスの爵位
爵位創設 ファーンバラ男爵
1886年
廃絶