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2020年3月17日 (火) 11:08時点における版
ほりうち そうへい 堀内 宗平 | |
---|---|
生誕 |
1878年9月10日 日本・山梨県 |
死没 | 1943年6月13日 |
出身校 | 海軍兵学校 |
職業 | 軍人、実業家 |
子供 | 堀内宗孝 |
親戚 |
堀内良平(実業家・政治家、兄) 堀内伝重(南米移民、弟) 堀内一雄(実業家・政治家、甥) |
堀内 宗平(ほりうち そうへい)は、日本の海軍軍人、日本の実業家である。
来歴
生い立ち
1878年(明治11年)9月19日、山梨県東八代郡、のちの黒駒村(現:笛吹市)に、堀内藤右衛門の三男として生まれる。1892年(明治25年)、兄の堀内良平に連れられて上京[1]。1898年(明治31年)、海軍兵学校に入学(第29期)。
海軍軍人時代
日露戦争において、浅間に第一分隊長として乗艦[2]。仁川沖海戦に参加した[2]。
1908年(明治41年)、陸奥湯長谷藩の第13代藩主であった内藤政養の次女、房子と結婚[3][注釈 1]。
1918年(大正7年)、戦艦伊勢の水雷長[5]。1921年(大正10年)、敷設艦勝力の艦長を務める[6]。
実業家時代
1923年(大正12年)4月、富士身延鉄道の社長であった小野金六の死去を受けて、兄の堀内良平が社長に就任[7]。堀内宗平も支配人として富士身延鉄道の経営陣に加わった[8]。
栄典
- 1903年(明治36年)4月10日 - 正八位[9]
- 1904年(明治37年)8月30日 - 従七位[10]
- 1906年(明治39年)11月30日 - 正七位[11]
- 1911年(明治44年)12月20日 - 従六位[12]
墓所
家族・親族
堀内良平の業績を顕彰した本である『富士を拓く』によると、「堀内家は甲斐源氏の祖である源清光にまで遡ると。清光の子、逸見光長の系譜が堀内を名乗るようになった」としている[14]。また同著には、鎌倉期の1282年(弘安5年)、病を得て湯治に向かうため身延山を下りた日蓮が堀内家に立ち寄ったとの記載もある[15]。
系譜
小林中 | 小林喬 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内詔子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
林博太郎 | 林友春 | 絢子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内基光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
辻政信 | 英子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内光一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内良平 | 堀内一雄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内光雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
しげ | 初子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内藤右衛門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内義男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
きう | 堀内喜太郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内正夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内宗平 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内宗孝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内伝重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
内藤政養 | 房子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
注釈
- ^ 仲人は小野金六夫婦[4]
- ^ 前年のワシントン海軍軍縮条約による影響とも言われる
出典
- ^ 富士を拓く 1994, p. 84-92.
- ^ a b 富士を拓く 1994, pp. 124–125.
- ^ 富士を拓く 1994, p. 148.
- ^ 富士を拓く 1994, p. 149.
- ^ 『官報』第1633号、大正7年1月15日。但し、この発令は伊勢水雷長を免じ第5駆逐隊司令へ転出のもの。
- ^ 『官報』第2018号、大正10年12月2日。
- ^ 富士を拓く 1994, p. 222.
- ^ 富士を拓く 1994, p. 223.
- ^ 『官報』第5929号「叙任及辞令」1903年4月11日。
- ^ 『官報』第6355号「叙任及辞令」1904年9月3日。
- ^ 『官報』第7028号「叙任及辞令」1906年12月1日。
- ^ 『官報』第8552号「叙任及辞令」1911年12月21日。
- ^ “堀内宗平”. 歴史が眠る多磨霊園. 2020年1月19日閲覧。
- ^ 富士を拓く 1994, pp. 35–36.
- ^ 富士を拓く 1994, pp. 38–44.
参考文献
- 塩田道夫『富士を拓く』堀内良平伝刊行委員会、1994年。 NCID BN11349951。