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「大阪市立敷津浦小学校」の版間の差分

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== 交通 ==
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* [[大阪市高速電気軌道四つ橋線]]・[[大阪市高速電気軌道南港ポートタウン線|ニュートラム]] [[住之江公園駅]] 南東へ約1.2km。
* [[Osaka Metro四つ橋線]]・[[大阪市高速電気軌道南港ポートタウン線|ニュートラム]] [[住之江公園駅]] 南東へ約1.2km。
* [[南海本線]] [[住ノ江駅]] 南西へ約1.2km。
* [[南海本線]] [[住ノ江駅]] 南西へ約1.2km。
* [[大阪シティバス]] 北島二丁目バス停。
* [[大阪シティバス]] 北島二丁目バス停。

2020年3月23日 (月) 12:45時点における版

大阪市立敷津浦小学校
過去の名称 第三中学区第七大区第六番北島小学校
住吉郡北島尋常小学校
住吉郡敷津尋常小学校
東成郡敷津尋常小学校
東成郡敷津尋常高等小学校
大阪市敷津尋常高等小学校
大阪市敷津浦尋常高等小学校
大阪市敷津浦国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 大阪市
設立年月日 1874年11月5日
創立者 住吉郡東成郡)敷津村
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
所在地 559-0014
大阪市住之江区北島2丁目9番22号
北緯34度36分9.16秒 東経135度28分40.54秒 / 北緯34.6025444度 東経135.4779278度 / 34.6025444; 135.4779278
外部リンク 公式ホームページ
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大阪市立敷津浦小学校(おおさかしりつ しきつうらしょうがっこう)は、大阪府大阪市住之江区にある公立小学校

沿革

1872年の学制発布の際、住吉郡西部の十数か村(町村制施行により墨江村・住吉村依羅村・敷津村・安立町の5町村に集約。おおむね現在の住吉区と住之江区のうち、粉浜南港を除く地域に相当)を校区とする住吉小学校(現在の大阪市立墨江小学校)が創設された。

2年後の1874年、住吉小学校から分かれる形で住吉郡北島村(町村制施行で東成郡敷津村)に第三中学区第七大区第六番北島小学校(住吉郡北島小学校)が創設された。この時に設置された北島小学校が、敷津浦小学校の直接的な起源にあたる。

北島小学校は、敷津村の成立により、新しい村の名前をとって敷津小学校に改称している。1919年には敷津村北部を校区とする敷津第二尋常小学校(現在の大阪市立加賀屋小学校)を分離した。

敷津村は1925年に大阪市に編入されたが、編入後もしばらく「敷津小学校」を名乗っていた。しかし大阪市には浪速区にも同名の敷津小学校(現在の大阪市立敷津小学校)があった。そのため2つの敷津小学校の間で、学校事務上の混同や郵便物の誤配、訪問者の誤訪問などがしばしば発生した。混同を避けるため、大阪市編入から13年後の1938年に現在の「敷津浦」へと校名変更をおこなっている。

太平洋戦争の影響で、1944年9月に初等科児童は南河内郡南八下村(現在の堺市東区美原区)に集団疎開を実施している。さらに疎開先も危険として、1945年5月には島根県能義郡母里村・井尻村(現在の安来市)へ再疎開を実施している。

また高等科児童は1944年12月より、男子は栗本鐵工所加賀屋工場、女子は近畿日本鉄道(現在の阪堺電気軌道)我孫子道車庫へ勤労動員された。高等科は翌1945年6月1日付で廃止され、高等科単独設置の国民学校・大阪市西粉浜国民学校[1]へと統合されている。

1960年代以降地域が宅地化したことに伴い児童数が増加したため、大阪市立住之江小学校大阪市立新北島小学校を分離開校させている。

年表

通学区域

  • 大阪市住之江区 御崎7丁目・8丁目、北島1丁目-3丁目、南加賀屋4丁目。
卒業生は大阪市立住之江中学校に進学する。

交通

参考文献

  • 川端直正『敷津浦発展史』大阪市立敷津浦小学校創立100周年記念事業委員会、1974年。 

関連項目

脚注

  1. ^ 1943年に高等科単独校として、現在の大阪市立住吉第一中学校の場所に設置。1945年6月に敷津浦・加賀屋両校の高等科を統合。1947年学制改革で廃止。

外部リンク