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2020年6月4日 (木) 00:41時点における版
忠恵王 王禎 | |
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高麗 | |
第28代国王 | |
王朝 | 高麗 |
在位期間 |
1330年2月18日 - 1332年3月21日 1339年12月2日 - 1344年1月30日 |
都城 | 開京 |
諡号 | 忠恵献孝大王 |
生年 |
延祐2年1月18日 (1315年2月22日) |
没年 |
至正4年1月15日 (1344年1月30日) |
父 | 忠粛王 |
母 | 明徳太后 |
陵墓 | 永陵 |
忠恵王(ちゅうけいおう、チュンへワン、충혜왕、1315年2月22日 - 1344年1月30日)は第28代高麗王(在位 :1330年 - 1332年、復位:1339年 - 1344年)。
名は禎。モンゴル名は普塔失里(ブタジリ、モンゴル語:ᠪᠦᠳᠬᠠᠱᠢᠷᠢ、Buddhašri[1])。諡号は忠恵献孝大王。忠粛王と明徳太后の間に生まれた。后は、元の関西王焦八の娘・亦憐真班、尹継宗の娘・禧妃尹氏、洪鐸の娘・和妃洪氏、林信の娘・銀川翁主林氏。
生涯
- 1328年より王世子として禿魯花(人質)になる。
- 1330年に忠粛王の伝位により帰国、高麗王に冊封され即位。
- 1339年、忠粛王の死去後、復位。度重なる失政と乱行によって国政が乱れ、激怒した元の宮廷から召喚される途中で死去したという。
人物
- 高麗史によると、忠恵王は荒淫狂暴で、先王・忠粛王の妃・慶華公主を酒に酔った勢いで強姦し、無理やり愛妾としたと記されている。また、同じく忠粛王の妃・壽妃權氏も強姦したと伝えられている。このほか、容姿が美しい女性であれば近親関係、婚姻の有無、身分などに関係なく手当たり次第奪い、強姦したという。
- 以下は高麗史第89卷 列傳2 后妃 慶華公主からの引用である。
- 慶華公主伯顔忽都蒙古女 王在元娶之後二年與王來五年開府 曰慶華置官屬. 王薨忠惠再宴公主于永安宮公主亦邀忠惠宴及酒罷忠惠佯醉不出暮入公主臥内公主驚起忠惠使宋明理輩扶之使不動且掩其口遂蒸焉. 翌日公主恥之欲還于元使買馬忠惠命李儼尹継宗等禁馬市不得賣馬元使頭麟等來進御酒于公主執忠惠以歸. 公主囚贊成事鄭天起于征東省仍命金之謙權征東省金資提調都僉議使司. 忠惠五年薨葬以禮恭愍十六年元贈諡粛恭徽寧公主.
- 忠恵王は常に精力がつく薬剤を使用していたという。彼と関係を持った女性は、淋病に罹患する者が多かった。
家族関係
父母
- 父:忠粛王 - 第27代王。
- 母:恭元王后(明徳太后)洪氏
后妃
愛妾
※いずれも先王・忠粛王の妃
後宮
子女
王子
- 忠穆王 母は徳寧公主。第29代王。
- 忠定王 母は禧妃尹氏。第30代王。
- 王釋器(生年不詳-1375年)母は銀川翁主林氏。忠定王の命令で出家(法名は丹陽)。謀反の疑いで処刑。民間の女性との間に息子を儲けたが、同様に処刑された。
王女
- 長寧公主(生没年不詳)母は徳寧公主。 元国の魯王の夫人。
登場する作品
- 高麗王ワン・ユとして登場。