穆宗 (高麗王)
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穆宗 王誦 | |
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高麗 | |
第7代国王 | |
王朝 | 高麗 |
在位期間 | 997年11月29日 - 1009年3月2日 |
姓・諱 | 王誦 |
諡号 |
宣霊大王 孝思威恵克英靖恭宣譲大王 |
廟号 | 穆宗 |
生年 |
太平興国5年5月20日 (980年7月5日) |
没年 |
統和27年2月3日 (1009年3月2日) |
父 | 景宗 |
母 | 献哀王后 |
王后・王配 | 宣正王后 |
妃嬪 | 下記参照 |
子女 | 下記参照 |
陵墓 | 義陵 |
穆宗(ぼくそう 、980年7月5日 - 1009年3月2日)は第7代高麗王(在位:997年 - 1009年)。姓は王、諱は誦。廟号ははじめ愍宗、のち穆宗とされた。諡号は孝思威恵克英靖恭宣譲大王(宣霊大王)。第5代国王景宗の長男であり、母は献哀王后皇甫氏。景宗死去の時は1歳であった。
即位後は生母の献哀王太后が政治の実権を握り、彼女の寵愛を受けた親族の金致陽が政権の中心にいた。2人は王位継承の可能性のある大良院君(顕宗)を地方寺院に追い払い、さらに穆宗の廃位をもくろんだ。危険を察した穆宗は西北面巡検使の康兆を呼び寄せ、これを阻止しようとした。しかし、康兆は金致陽一派を倒した後、大良院君を擁立し、穆宗は廃位、殺害された[1]。契丹との関係は下表を参照。
家族
[編集]- 父:景宗
- 母:献哀王后
- 伯父:成宗
- 叔母:献貞王后
- 従弟:顕宗
- 王妃:宣正王后 劉氏(太祖の子・寿命太子の息子 弘徳院君王圭と成宗の王后 文徳王后劉氏の娘。従兄弟に関係に当たる。)
- 後宮:邀石宅宮人 金氏(女官出身であったが、新羅の元聖王の末裔と称した。後に流罪となる。)
両方の妃との間に子は無かった。
関係年表
[編集]- 985年
- 7月1日 契丹、高麗を攻める。
- 992年
- 12月 契丹、高麗を攻める。
- 993年
- 1月17日 契丹、高麗と講和。
- 10月3日 高麗、契丹に使を遣わす。
- 994年
- 2月 高麗、契丹の年号を分暦。
- 8月21日 契丹、高麗を攻める。
参照
[編集]- ^ 詳細は 高麗史 列伝巻一 后妃一
- ^ 穆宗五年六月 耽羅山開四孔 赤水湧出 五日而止 其水皆成瓦石
- ^ 十年 耽羅瑞山湧出海中 遣大學博士田拱之 往視之 耽羅人言 山之始出也 雲霧晦冥 地動如雷 凡七晝夜 始開霽 山高可百餘丈 周圍可四十餘里 無草木 烟氣羃 其上望之 如石硫黄 人恐懼不敢近 拱之躬至山下 圖其形以進
登場作品
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