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2020年6月4日 (木) 00:46時点における版

端敬王后慎氏
朝鮮王妃
在位 1506年

出生 成化23年1月14日1487年2月7日
死去 嘉靖36年12月7日1557年12月27日
配偶者 中宗
子女 なし
父親 慎守勤
母親 永嘉府夫人 権氏
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端敬王后 慎氏(たんけいおうこう しんし、タンギョンワンフ シンシ、成化23年1月14日1487年2月7日) - 嘉靖36年12月7日1557年12月27日)は、益昌府院君 信度公 慎守勤(世宗の四男、臨瀛大君の娘が母)と永嘉府夫人 権氏の娘で、李氏朝鮮第11代国王中宗の王妃。

生涯

中宗即位前の1499年に結婚する。1506年中宗即位と共に王妃になるが、燕山君の縁戚(父の妹が燕山君の妃)だったために反正勢力の反対に遭い、中宗の反対にもかかわらず、中宗即位後わずか7日後に王妃の身分を剥奪され、後宮追放で河城尉(ハソンウィ)・鄭顕祖(チョン・ヒョンジョ)の家に追い出され、その後実家に戻った。1515年、章敬王后死去の際に、復位させる世論が持ち上がるが、権敏手(クォン・ミンス)らの反対で実現しなかった。死から約180年後の1739年、第21代国王英祖の時代に復位される。陵は京畿道楊州市長興面日迎里にある温陵。

チマ岩伝説

端敬王后が廃位され、後宮を追われた後も中宗は彼女をしのんで、たびたび仁王山の岸にいる端敬王后の家を遠くから眺めた。このうわさを聞いた端敬王后は、後宮にいた頃よく着ていたチマ(韓服の下衣、ラップスカート)を仁王山の岩の上にかけておいた。それで後世の人々はその岩をチマ岩と呼んだ。

端敬王后が登場する作品

参考文献

  • 朝鮮王朝実録【改訂版】朴永圭 著、神田聡訳、2012年3月14日、キネマ旬報社