純明孝皇后
純明孝皇后 閔氏 순명효황후 민씨 | |
---|---|
大韓帝国皇后(追贈) | |
別称号 | 敬顕成徽純明孝皇后(諡号) |
出生 |
1872年11月20日(陰暦10月20日) 李氏朝鮮、漢城府 |
死去 |
1904年11月5日(陰暦9月28日) 大韓帝国、漢城府 |
配偶者 | 純宗 |
氏族 | 驪興閔氏 |
純明孝皇后 閔氏(じゅんめいこうこうごう びんし、スンミョンヒョファンフ ミンシ、朝鮮語表記:순명효황후 민씨、1872年11月20日(陰暦10月20日) - 1904年11月5日(陰暦9月28日))は、大韓帝国第2代皇帝(李氏朝鮮から通算して第27代君主)、純宗の最初の妃。本貫は驪興閔氏。諡号は敬顕成徽純明孝皇后。
生涯
[編集]1872年に陽徳坊桂洞で誕生する。1882年に10歳で、2歳年下の世子(後の純宗)と婚礼を挙げ、世子嬪となる。この婚礼は、純宗の生母である王妃閔氏の意向が関わっていたという。義母である王妃も彼女と同じく、驪興閔氏の出身であり、また、異母兄の閔泳翊が、後嗣の無い王妃の実家に養子入りした縁もあった。1897年に大韓帝国が成立し、夫が皇太子となったため、皇太子妃となった。1904年、慶運宮康泰室で病のため、死去。享年32歳。子女は無かった。まだ純宗が即位する前に死去した為、生前皇后になることができなかった。初め京畿道楊州の裕康園に葬られ、1907年に純宗が即位すると裕陵に変わった。1926年南楊州市金谷洞に移され、現在は純宗と共に眠っている。また、諡号も皇太子妃のまま亡くなったため純明妃であったが、純宗即位に伴い皇后に格上げされた。
死亡原因
[編集]李氏朝鮮の医療・疫病史をみると、迷信に基づいた治療が一般的であり、アーソン・グレブストの『悲劇の朝鮮』によれば、「牛糞を塗る」「ヒマワリの種を湯がいて食べる」「患者がモモの種を二つに割り、一方に『日』の字、もう一方に『月』の字を書いて一気に飲み込む」「小さな蛙を三匹生きたまま丸飲みする(腹痛に即効)」「重症の場合は焼いた犬の足を四本食べる」「じっくり沸かしたお湯に四十歳の女性の頭髪を入れて飲む」といった方法が採られており、純明孝皇后は、腹が腫れる病気にかかったため、国内一の名医の診察を受け、腹に悪霊が棲みついたと診断され、城門の戸板をはがして煎じて飲まされ、死亡した[1]。
家族
[編集]- 父:驪恩府院君 忠文公 閔台鎬(1834年-1884年。第19代国王粛宗の王妃仁顕王后の父の閔維重の来孫)
- 母:鎮陽府夫人 鎮川宋氏
- 異母兄:閔泳翊(1860年-1914年。母は坡城府夫人 坡平尹氏。閔妃の義兄の閔升鎬の養子)
- 義弟:閔泳璘(1873年-1932年。族叔父の閔述鎬の実子。閔泳翊が養子入りしたことで後嗣が無かったため、閔台鎬の養子となった)
- 義父:高宗
- 義母:閔妃(明成皇后)
- 夫:純宗
登場作品
[編集]脚注
[編集]- ^ 黄文雄『日本の植民地の真実』扶桑社、2003年10月31日、146頁。ISBN 978-4594042158。