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{{Other uses|アブラハムの宗教における聖地|その他|聖地 (曖昧さ回避)}} |
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{{Infobox historic site |
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{{出典の明記|date=2020年5月14日 (木) 14:13 (UTC)}} |
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| name = 聖地 |
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[[ファイル:1570 Palestinae Hondius.jpg|250px|サムネイル|1570年に描かれた「聖なる国」の地図]] |
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| native_name = אֶרֶץ הַקּוֹדֶשׁ |
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'''聖なる国'''(せいなるくに、[[アラビア語]]:العربية、[[ヘブライ語]]:אֶרֶץ הַקּוֹדֶשׁ、[[英語]]:Holy Land)とは、[[パレスチナ]]地域の宗教的な呼称のひとつ。[[キリスト]]教、[[イスラム教]]、[[ユダヤ教]]にとって[[聖地]]である <ref>それゆえの紛争も起こった</ref>。 |
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| native_language = Hebrew |
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| native_name2 = Terra Sancta |
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| native_language2 = Latin |
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| native_name3 = الأرض المقدسة |
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| native_language3 = Arabic |
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| other_name= |
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| image = File:The map of the Holy Land by Marino Sanudo (drawn in 1320).jpg |
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| alt= |
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| caption = 1321年の[[ピエトロ・ヴェスコンテ]]による聖地の地図。[[アドルフ・エリク・ノルデンショルド]]によれば、「限定された地域を描いた初めての非[[プトレマイオス図|プトレマイオス地図]]」である<ref name="Nordenskiöld1889">{{cite book|author= Adolf Erik Nordenskiöld|title= Facsimile-atlas to the Early History of Cartography: With Reproductions of the Most Important Maps Printed in the XV and XVI Centuries|url= https://books.google.com/books?id=i-IMSQAACAAJ|year= 1889|publisher= Kraus|pages= 51, 64}}</ref>。 |
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| locmapin= |
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| map_dot_mark= |
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| coordinates= <!-- {{Coord}} --> |
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| gbgridref_note= |
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| type = [[聖地]] |
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| etymology= |
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| location = [[ヨルダン川]]・[[地中海]]間 |
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| nearest_city= |
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| original_use = [[ユダヤ教]]: ユダヤ人の[[約束の地]]<br> |
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[[キリスト教]]: [[福音]]の地<br> |
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[[イスラム教]]: [[クルアーン]]の祝福された地 |
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| current_use = [[アブラハムの宗教]]における主要な[[巡礼]]地 |
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}} |
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[[File:Beulah - the Land of Israel.jpg|thumb|聖地の[[アブドゥラム]]に至る道]] |
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[[アブラハムの宗教]]における'''聖地'''({{lang-he|אֶרֶץ הַקּוֹדֶשׁ}} {{transl|he|''Eretz HaKodesh''}}、{{lang-la-short|Terra Sancta}}、{{lang-ar-short|الأرض المقدسة}} {{transl|ar|''Al-Arḍ Al-Muqaddasah''}} / {{lang-ar-short|الديار المقدسة}} {{transl|ar|''Ad-Diyar Al-Muqaddasah''}})は、大まかに[[ヨルダン川]]と[[地中海]]との間、またヨルダン川の東岸も含む地域を指す。[[聖書]]における[[イスラエルの地]]や、[[パレスチナ]]とも大まかに一致する。現代の地図上では、[[イスラエル]]、[[パレスチナ領域]]、[[ヨルダン]]西部、[[レバノン]]南部の一部、[[シリア]]南西部の一部にあたる。 |
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聖地の重要性は、[[イエス・キリスト]]が[[公生涯]]を過ごした歴史的な地域としての、そして、[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の{{仮リンク|イスラー及びミーラージュ|en|Isra and Mi'raj|label=夜の旅および昇天}}([[夜の旅 (クルアーン)|夜の旅]]・[[昇天の書]]を参照)が起こった地としての、{{仮リンク|エルサレムの宗教的重要性|en|Religious significance of Jerusalem}}([[ユダヤ教]]にとって最も重要な都市)に由来する。 |
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== 概要 == |
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[[ファイル:Jerusalem Holy Sepulchre BW 24.JPG|250px|サムネイル|イェルサレムの聖墳墓教会]] |
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[[ファイル:Klagemauer.JPG|250px|サムネイル|嘆きの壁(手前中央)と岩のドーム(左奥)]] |
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聖なる国は[[ユダヤ教]]([[ソロモン神殿]]跡の[[嘆きの壁]])、[[イスラム教]]([[預言者ムハンマド]]が[[昇天]]した場所の[[岩のドーム]])、[[キリスト教]]([[キリスト]]が処刑された跡地に建つ[[聖墳墓教会]])の最大の、若しくは重要な[[聖地]]となっている。中東の[[パレスチナ地域]]等を包含する地理的領域を指す用語である。今日、この地域は[[イスラエル]]、[[パレスチナ]]、[[ヨルダン]]、[[レバノン]]等が支配する地域に跨っている。聖なる国の重要性は、イェルサレムのユダヤ教の唯一の聖地、イスラム教の第三の聖なる都市、キリスト教の発祥の地の宗教的意義に由来するものであり、その重要性は過去の宗教的な戦争の要因の一つであり、現在のイスラエルとパレスチナの紛争にも繋がるものとなった。 |
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この土地の{{仮リンク|キリスト教徒の巡礼|en|Christian pilgrimage}}の目的地としての[[聖性]]は、630年代に[[キリスト教徒]]の[[東ローマ帝国]]から{{仮リンク|ムスリムによるレバントの征服|en|Muslim conquest of the Levant|label=ムスリム(イスラム教徒)が奪った}}地を、再び[[ムスリム]]から奪還しようとした{{仮リンク|ヨーロッパにおけるキリスト教|en|Christianity in Europe|label=ヨーロッパ人キリスト教徒}}による、[[十字軍]]の派遣の一因となった。 |
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== 位置 == |
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聖なる国と呼ばれる地域は、[[ヨルダン川]]と[[地中海]]の間に位置する地域に位置するもので、ヨルダン川東岸も含む。伝統的に、それはイスラエルの[[聖書]]の土地と[[パレスチナ]]の地域の両方と同義である。「[[聖]]地」という用語は、通常、[[イスラエル]]の近代的な状態、パレスチナ自治区、ヨルダン西部、レバノン南部と[[シリア]]南西部の一部にほぼ対応する領土を指すもので、[[ユダヤ人]]、キリスト教徒、イスラム教徒は、すべてそれを聖なると見なす。 |
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19世紀には、当該地に所在する諸[[聖地]]が[[東方問題]]の原因となったことで外交的な論争・紛争の対象となり、1850年代の[[クリミア戦争]]の遠因となった。 |
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== 沿革 == |
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=== ユダヤ教の聖地化 === |
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[[ファイル:19 Shrine of the Book 005 (cropped).jpg|250px|サムネイル|復元されたソロモン神殿]] |
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紀元前1000年頃に[[ヘブライ王国]]が成立し、ダヴィデ王がイェルサレムの地を都とし、3代目の[[ソロモン王]]によって王国は絶頂期を迎え、[[第一神殿|イェルサレム第一神殿]]が建設され、[[ユダヤ教]]最大の都市となった。しかし、衰退したヘブライ王国は紀元前586年7月11日、[[ユダ王国]](分裂したヘブライ王国の南の王国、イェルサレムを首都とした)は完全に滅ぼされ、エルサレムの神殿ならびに都市も破壊され、いわゆる[[バビロン捕囚]]事件が起こった。 |
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聖地に所在する数多くの場所は、長きに渡って([[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]、そして[[バハイ教]]を含む)[[アブラハムの宗教]]の信者にとって[[巡礼]]の目的地となっており、{{仮リンク|巡礼者|en|Pilgrim|preserve=1}}たちは、彼ら自身の[[信仰]]の物理的な明示・顕現を目の当たりにするために、[[聖性|聖的]]な文脈における彼ら自身の[[信念]]を集団的な高揚と共に確認するために<ref>{{cite book |
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しかし、その後現地宗教の保護に重きを置く[[ペルシア帝国|ペルシア王]][[キュロス2世]]はユダヤ人のイェルサレムへの帰還を赦し、破壊されていたイェルサレム神殿はキュロスによって再建された([[ソロモン神殿|第2神殿]])。その後、[[ヘロデ朝]]ユダヤの王、[[ヘロデ大王|ヘロデ王]]は第二神殿をほぼ完全に改築し、ヘロデ神殿と呼ばれる巨大な神殿を建設した。しかし、[[ローマ帝国]]への反乱である[[ユダヤ戦争]]が起こり、[[エルサレム攻囲戦 (70年)|イェルサレムが陥落]]すると、その神殿は破壊され、ユダヤ人は世界各地に[[離散]]した。 |
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|last1 = Harris |
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|first1 = David |
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| chapter = Functionalism |
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| title = Key Concepts in Leisure Studies |
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| url = https://books.google.com/books?id=n2PHQp9xIF8C |
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| series = SAGE Key Concepts series |
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| edition = reprint |
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| location = London |
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| publisher = SAGE |
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| publication-date = 2005 |
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| page = 117 |
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| doi-broken-date = |
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| isbn = 9780761970576 |
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| accessdate = 9 Mar 2019 |
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| quote = Tourism frequently deploys metaphors such [as] [[Christian pilgrimage|pilgrimage]] [...] Religious ceremonies reinforce social bonds between believers in the form of rituals, and in their ecstatic early forms, they produced a worship of the social, using social processes ('collective excitation').}}</ref>、そして聖地と人格的に結び付く(繋がる)ために<ref>{{cite news |
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|first= Michael Sebastian |last= Metti |
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|authorlink= |
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|title= Jerusalem - the most powerful brand in history |
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|url= http://www.metti-bronner.com/Jerusalem.pdf |
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|archive-url= https://web.archive.org/web/20200126124828/http://www.metti-bronner.com/Jerusalem.pdf |
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|url-status= dead |
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|archive-date= 2020-01-26 |
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|work= [[Stockholm University School of Business]] |
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|publisher= |date= 2011-06-01 |
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|accessdate= 1 July 2011 |
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}}</ref>、聖地を訪れる。 |
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== ユダヤ教 == |
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[[File: 4 011.Cemetery of East Jerusalem with view to the City with Moshee2.jpg|thumb|エルサレムの[[オリーブの山]]にあるユダヤ教徒墓地。イスラエルの神聖な土地に葬られることを夢見る[[ユダヤ人]]も多い。ラビ・アナンは「イスラエルに葬られることは、祭壇の下に葬られるようなものだ。」と述べている<ref name="first">[[Ketubot (tractate)]] 111, quoted in [https://books.google.com/books?id=GGaTLhHBpwIC&pg=PA392&lpg=PA392&dq=To+be+buried+in+Eretz+Yisrael+is+like+being+buried+under+the+altar&source=bl&ots=n34qa7mT0K&sig=ZXFZ3Jt9WyAtNU9MO918BzsIyfY&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwiCw47WjK_eAhWm4IMKHQWFAOUQ6AEwAnoECBIQAQ#v=onepage&q=To%20be%20buried%20in%20Eretz%20Yisrael%20is%20like%20being%20buried%20under%20the%20altar&f=false Ein Yaakov]</ref><ref name="(Translator)2010">{{cite book|author=Michael L. Rodkinson (Translator)|title=The Babylonian Talmud: all 20 volumes (Mobi Classics)|url=https://books.google.com/books?id=1vpQgnDJLzUC&pg=PT2234|accessdate=7 December 2011|year=2010|publisher=MobileReference|isbn=978-1-60778-618-4|page=2234}}</ref><ref name="Gil1997">{{cite book|author=Moshe Gil|title=A history of Palestine, 634-1099|url=https://books.google.com/books?id=M0wUKoMJeccC&pg=PA632|accessdate=7 December 2011|year=1997|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0-521-59984-9|page=632}}</ref>。]] |
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[[ファイル:Gustave dore crusades gerard of avesnes exposed on the walls of asur.jpg|250px|サムネイル|キリストの磔刑]] |
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[[File:OliveHarvest.JPG|thumb|upright=1.25|<!-- Palestinian -->ケフィンのオリーブの木。オリーブはユダヤ教においては神聖性をもつ木とされ、[[安息年]]には特に尊ばれる。7年に一度の安息年については、様々な宗教法がからんでくる<ref>[https://books.google.com/books?id=HwnsY6IuESoC&pg=PA74&dq=kedusha+sheviis++trees&hl=en&ei=eUvfTtm4LYXY8QObvo3ABA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=5&ved=0CEQQ6AEwBA#v=onepage&q=kedusha%20sheviis%20%20trees&f=false Seasons in Halacha], Pinchos Yehoshua Ellis, pg. 74.</ref>。]] |
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紀元30年ごろ、この地の[[ゴルゴタの丘]]で[[キリスト教]]の祖・[[イエス・キリスト]]が処刑された。また、313年にはローマ帝国が[[ミラノ勅令]]によってキリスト教を公認し、320年ごろに[[コンスタンティヌス1世]](312年にキリスト教に改宗。)の母太后である[[聖ヘレナ]]が巡礼を行い、イエスの磔刑に使われた十字架を発見した(とされる)ことで、エルサレムはキリスト教の聖地と化した。市名は再びイェルサレムに戻され、ゴルゴタの丘とされた地に[[聖墳墓教会]]が立てられ、多くのキリスト教徒が聖地と看做し、巡礼を多く行った。 |
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ユダヤ人は、一般には[[イスラエルの地]]を「聖地」([[ヘブライ語]]: {{lang|he|אֶרֶץ הַקוֹדֵשׁ}} {{transl|he|''Eretz HaKodesh''}})とは呼ばない。[[タナハ]](ヘブライ語聖書)、この文脈で「聖地」という言葉を使っているのは一文だけである<ref>{{bibleverse||Zechariah|2:16|HE}}</ref>。非ヘブライ語の文書群である[[第二正典]]内でも2つの用例しかない<ref>{{bibleverse||Wisdom|12:3|NRSV}}</ref><ref>{{bibleverse||2 Maccabees|1:7|NRSV}}</ref>。タナハによれば、イスラエルの地が神聖なのは、まずこの地が神から[[イスラエル (民族)|イスラエルの民]]に与えられた「約束の地」であり、[[契約 (聖書)|神との契約]]と不可分であるからとされている。[[トーラー]]にある多くの[[ミツワー]]は、イスラエルの民への神の命令はイスラエルの地にてのみ行われる、として<ref>Aharon Ziegler, ''Halakhic positions of Rabbi Joseph B. Soloveitchik: Volume 4'', KTAV Publishing House, 2007, p.173</ref>、他の地と明確に差別化している。例えば、イスラエルの地は「いかなる土地も永久に売り渡してはならない」({{Bibleverse|Lev|25:23}})。なお[[ユダヤ人のディアスポラ]]の影響で、[[ユダヤ教の祝祭日]]は世界各地のユダヤ教徒の間でずれが生じるようになっており、安息年の習慣もイスラエル在住の一部のユダヤ人が形式的に行っているに過ぎない。 |
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Eliezer Schweidは、次のように述べている。 |
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=== イスラム教の聖地化 === |
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{{quote|イスラエルの地の特殊性は...「地理神学的」('geo-theological')なもので、単に風土的なものとは言えない。この地はスピリチュアルな世界への入り口であり、我々が感覚を通して知っている物質世界を超えて横たわる存在の領域である。これこそが予言と祈りに関して、また同時に戒律に関してもこの地が特徴的な位置を占めている決め手である。<ref>''The Land of Israel: National Home Or Land of Destiny'', By Eliezer Schweid, Translated by Deborah Greniman, Published 1985 Fairleigh Dickinson Univ Press, {{ISBN2|0-8386-3234-3}}, p.56.</ref>|sign=|source=}} |
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[[ファイル:Jerusalem-2013(2)-Temple Mount-Dome of the Rock (SE exposure).jpg|250px|サムネイル|岩のドーム]] |
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[[ファイル:Al-Aqsa Mosque by David Shankbone.jpg|250px|サムネイル|アル=アクサー・モスク]] |
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[[イスラム教]]の[[メッカ]]、[[マディーナ]]([[メディナ]])に次ぐ重要な聖地と看做される所以は、[[預言者ムハンマド]]が一夜のうちに[[昇天]]する旅([[ミウラージュ]])を体験した場所とされることである。[[クルアーン]]では、マディーナ(メディナ)の預言者のモスクに住していた時代のムハンマドが、神の意志により「聖なるモスク」すなわちメッカのカアバ神殿から一夜のうちに「遠隔の礼拝堂」、すなわち[[イェルサレム神殿]]までの旅をしたと語っている。この伝説は早い時期に、すでに事実とみなされており、神殿の丘におけるムハンマドが昇天したとされる場所には[[東ローマ帝国]]領であったイェルサレムを占領したのち、[[ウマイヤ朝]]の時代に[[岩のドーム]]が築かれ、また、丘の上には「遠隔の礼拝堂」を記念する[[アル=アクサー・モスク]](銀のドーム)が建設され、聖地のひとつと見なされている。 |
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1906年に出版された[[ジューイッシュ・エンサイクロペディア]]は、イスラエルの聖性は、特に葬礼において顕著な傾向であるが、16世紀以降[[四大聖地 (ユダヤ教)|四大聖地]]すなわち[[エルサレム]]、[[ヘブロン]]、[[ツファット]]、[[ティベリア]]に集約されるようになったとしている。その中でも[[エルサレム神殿|神殿]]の存在したエルサレムが特に重要であるとされる<ref name=1000BCE> |
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=== 十字軍 === |
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Since the 10th century BCE. "For Jews the city has been the pre-eminent focus of their spiritual, cultural, and national life throughout three millennia." Yossi Feintuch, ''U.S. Policy on Jerusalem'', Greenwood Publishing Group, 1987, p. 1. {{ISBN2|0-313-25700-0}} |
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[[1098年]]に、イスラム教国であるファーティマ朝が再びイェルサレムの地を奪回することに成功する。しかし、翌年には東ローマ帝国の要請でローマ教皇ウルバヌス2世が呼びかけた、世にいう[[第一次十字軍]]の軍勢がイェルサレムになだれ込み、多くのムスリムやユダヤ教徒の住民を女子供に関らず虐殺・迫害・強姦し、[[イスラム教]]国家に衝撃を与えた([[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレム攻囲戦]])。そして、[[1099年]]に「'''聖地の守護者'''」という名目で[[イェルサレム王国]]を成立させた。[[イェルサレム王国]]、[[アンティオキア公国]]、[[トリポリ伯国]]等の、いわゆる「[[十字軍国家]]」が成立し、キリスト教徒の支配する地となった。 |
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</ref>。現在でも、[[ユダヤ人のディアスポラ|世界各地に散らばった]]ユダヤ人の中にはイスラエルの神聖な土に葬られることを望み、実際にそのように埋葬される者もいる<ref>{{cite web | url=http://www.jewishencyclopedia.com/articles/11867-palestine-holiness-of | title=PALESTINE, HOLINESS OF | publisher=JewishEncyclopedia.com | accessdate=December 7, 2011 | author=Joseph Jacobs, Judah David Eisenstein}}</ref>。 |
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ユダヤ教では伝統的に、[[アブラハム]]が[[イサク]]を生贄にしようとした[[イサクの燔祭]]の舞台となった[[神殿の丘|モリヤの丘]]が後のエルサレムであると信じられている。[[ヘブライ語聖書]]では、「エルサレム」という言葉が669回も登場するが、それは[[ミツワー]]がエルサレム周辺でしか実行できないとされたからである。類語である「[[シオン]]」(基本的にはエルサレムを指すが、時にイスラエルの地を指すこともある)という言葉は154回登場する。 |
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== 現在 == |
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[[ファイル:Knesset building (edited).jpg|サムネイル|[[クネセト]]]] |
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エルサレムは、古くより三つの宗教の聖地として栄えたものの、経済的な観点では必ずしも重要重要な都市ではなかった。古代のユダ王国や、十字軍国家であるイェルサレム王国を除いては、エルサレムは一地方都市にとどまっていた。しかし宗教的には非常に重要な土地であり、イギリスの委任統治領時代に首都がおかれたこともあって政治的重要性も増した。現在においても、エルサレムは、議会や首相府、中央省庁などがある政治と文化の中心であり、イスラエル最大の都市である。また、イスラエルは首都であると称し、事実上の首都である。 |
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[[タルムード]]では、イスラエルでの入植が宗教的義務とされている<ref name="Herzog1967">{{cite book|author=Isaac Herzog|title=The Main Institutions of Jewish Law: The law of obligations|url=https://books.google.com/books?id=eq3XAAAAMAAJ|accessdate=27 June 2011|year=1967|publisher=Soncino Press|page=51}}</ref>。そのためユダヤ教においてイスラエルの土地を購入するのは極めて重要な活動とされており、タルムードでは[[安息日]]でも土地の獲得と入植は行ってよいとしている<ref name="Zahavi1962">{{cite book|author=Yosef Zahavi|title=Eretz Israel in rabbinic lore (Midreshei Eretz Israel): an anthology|url=https://books.google.com/books?id=yK7hAAAAMAAJ|accessdate=19 June 2011|year=1962|publisher=Tehilla Institute|page=28|quote=If one buys a house from a non-Jew in Israel, the title deed may be written for him even on the Sabbath. On the Sabbath!? Is that possible? But as Rava explained, he may order a non-Jew to write it, even though instructing a non-Jew to do a work prohibited to Jews on the Sabbath is forbidden by rabbinic ordination, the rabbis waived their decree on account of the settlement of Palestine.}}</ref>。Rabbi Johananは、「イスラエルの地を4[[キュビット]]も歩いた者なら、あの世に入ることを保証される。」と述べている<ref>{{Cite web|url=https://www.chabad.org/kabbalah/article_cdo/aid/380830/jewish/Footsteps-in-the-Land-111.htm|title=Footsteps in the Land - Chapter Eleven, Part 1|website=www.chabad.org|accessdate=2020-06-12}}</ref><ref name=":0" />。伝説によると、Eleazar ben ShammuaとJohanan HaSandlarがJudah ben Bathyraに教えを請うべくイスラエルを発ったものの、「パレスチナの神聖さについての思索が彼らの決心を圧倒した」ために彼らは[[シドン]]までしかたどり着けず、彼らは涙をこぼし、己の服を引き裂き、引き返した<ref name=":0" />。ユダヤ人はイスラエルの地を極めて重視するため他の地へ移住することが少なく、その結果ユダヤ教が奉じられている地域も限られている。しかしエルサレム神殿の破壊とイスラエルにおける数世紀にわたる迫害の末、自らの地位を保つことが難しいと考えた[[ラビ]]たちは、より良い地位を提供してきた[[バビロニア]]へ移住した。多くのユダヤ人は、イスラエルの地で死に、そこに埋葬されることを望んでいる。ラビ・アナンは、「イスラエルに葬られることは、祭壇の下に葬られるようなものだ。」と述べている<ref name="first"/><ref name="(Translator)2010"/><ref name="Gil1997"/>。「彼の地は彼の人々を赦免するだろう」という言い回しがあるが、これはイスラエルの地に葬られた者はそのすべての[[宗教における罪|罪]]を免じられる、という意味である<ref name=":0">{{Cite web|url=http://www.jewishencyclopedia.com/articles/11867-palestine-holiness-of|title=PALESTINE, HOLINESS OF - JewishEncyclopedia.com|website=www.jewishencyclopedia.com|access-date=2018-10-30}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.chabad.org/library/article_cdo/aid/3364937/jewish/Why-Do-Jews-Fly-Their-Dead-to-Israel-for-Burial.htm|title=Why Do Jews Fly Their Dead to Israel for Burial?|website=www.chabad.org|language=en|access-date=2018-10-30}}</ref>。 |
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近年、パレスチナの地を巡るイスラエル人とパレスチナ人との関係から生じた紛争([[パレスチナ問題]])などの政治問題が浮き彫りになり、問題視される。 |
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== キリスト教 == |
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{{see also|キリスト教の巡礼|パレスチナの旅行記|キリスト教におけるエルサレム}} |
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[[File:Holy sepulchre mass.jpg|thumb|upright=0.9|[[聖墳墓教会]]。[[イエス・キリスト]]が[[復活 (キリスト教)|復活]]した場所とされ、特に重要な[[キリスト教の巡礼|巡礼地]]となっている。]] |
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[[File:Tebnine11.jpg|thumb|upright=1.15|[[レバノン]]の[[ティブニン]]村に残る[[十字軍]]の[[トロン城]]]] |
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[[キリスト教徒]]は、彼らが[[メシア]]と信じる[[イエス・キリスト]]が[[キリストの降誕|降誕]]、活動、[[キリストの磔刑|磔刑]]、[[復活 (キリスト教)|復活]]した[[イスラエルの地]]を神聖視している。また[[ナザレのイエス]]自身がユダヤ人であったことから、彼自身ユダヤ教徒としてイスラエルの地を神聖視していた可能性もある。 |
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聖書などほとんどのキリスト教の書籍には、聖地([[ガリラヤ]]、[[サマリア]]、[[ユダヤ]])の地図が掲載されている。例えばドイツの[[プロテスタント]]の[[牧師]]ハインリヒ・ビュンティング (1545年 - 1606年)は、聖地の地理をまとめた『イティネラリウム・サクラエ・スクリプトゥラエ』(ラテン語: ''Itinerarium Sacrae Scripturae'' ({{Lit|聖書の旅行記}})を出版している<ref name="wdl" />。彼の本は非常に反響が大きく、「最も完成された聖書上の地理の概要を」提供し、「旧約聖書や新約聖書の主な人物の旅行記をたどることで聖地の地理を表現した」と評された<ref name="wdl">{{cite web|title=Description of the Holy Land|url=http://www.wdl.org/en/item/2891/|website=[[World Digital Library]]|date=1585|language=German|author1=Bünting, Heinrich|accessdate=2020-06-12}}</ref>。 |
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== イスラム教 ==<!-- This section is linked from [[Muslim history]] --> |
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[[File:Jerusalem Al-Aqsa Mosque BW 2010-09-21 06-38-12.JPG|thumb|right|upright=1.1|エルサレム旧市街の[[アル=アクサー・モスク]]]] |
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{{See also|イスラム教におけるエルサレム}} |
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[[クルアーン]]では、聖地 ({{transl|ar|''Al-Ard Al-Muqaddasah''}} {{lang-ar|'''الأرض المقدسة'''}}, {{lang-en|"Holy Land"}})という言葉は[[イスラームにおけるムーサー|ムーサー]] ([[モーセ]])が[[イスラエル (民族)|イスラエルの子ら]]に対して「おお、我が民よ![[アッラーフ]]があなたたちのために与えた聖地に入れ。恥さらしにも引き返してはならぬ。そのようにしたらその時汝らは失敗者となる。」と述べる部分で登場してくる{{Cite quran|5|21}}。またクルアーンでは、この地が「祝福された」土地であるともしている<ref name="Cite quran|17|1|e=16|s=ns">{{cite quran|17|1|e=16|s=ns}}</ref><ref name="Cite quran|21|51|e=82|s=ns">{{cite quran|21|51|e=82|s=ns}}</ref><ref name="Cite quran|34|10|e=18|s=ns">{{cite quran|34|10|e=18|s=ns}}</ref>。 |
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エルサレム (''Al-Quds,'' {{lang-ar|الـقُـدس}}, 「神聖な(地)」と呼ばれる)は、イスラム教においても極めて重要である。クルアーンによれば、[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]は一夜にして[[マッカ]]の[[マスジド・ハラーム|聖なるマスジド]]から「至遠の(アル=アクサー)マスジド」へ旅をして昇天するという体験をした([[ミウラージュ]]){{Cite quran|17|1}}<ref name="Cite quran|17|1|e=16|s=ns"/>。[[ハディース]]では、この「至遠のマスジド」はエルサレムの[[アル=アクサー・モスク]]のことであると解釈されている。例えば[[サハーバ|教友]][[アブー・フライラー]]は「アッラーの使徒(ムハンマド)が旅をした夜、2杯のカップ、すなわちワインをたたえたものとミルクをたたえたものが、アル=クドゥス(エルサレム)で彼に与えられた。彼はそれらを見て、ミルクのカップを取った。[[天使]][[ガブリエル|ジブリール]]は言った、『神に讃えあれ、彼はそなたをフィトラ(正しき道)へ導いた。もしそなたがワインをとっていれば、そなたの[[ウンマ]]は道に迷うことになったであろう。』」と述べている。なお現代の学者の中には、本来「至遠のマスジド」というのはは単に[[メディナ]]のすぐ外の建物か祈りをささげる場所を指していたのではないかとする者もいる<ref>{{cite web|url=http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-3596681,00.html|title=The myth of al-Aqsa:Holiness of Jerusalem to Islam has always been politically motivated|website=Ynetnews|date=15 Sep 2008|author=[[Mordechai Kedar]]|accessdate=2020-06-12}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/History/temples.html|title=The Jewish Temples: The Temples of Jerusalem in Islam|author=[[Martin Kramer]]|website=Jewish Virtual Library|accessdate=2020-06-12}}</ref>。現在エルサレムにあるアル=マスジド・アル=アクサー([[アル=アクサー・モスク]])はムハンマドの時代に建てられたものではなく、クルアーンの中でも他にエルサレムに言及している部分は、[[キブラ]](ムスリムが祈る方向)をエルサレムからマッカに移した話のみである。草創期のイスラム教においてはエルサレムがキブラであったが、ムハンマドが大天使ジブリールを通し啓示を受けて、[[ヒジャーズ]]のマッカにある[[カアバ神殿]]の方角に変更された<ref name="Cite quran|2|142|e=177|s=ns">{{cite quran|2|142|e=177|s=ns}}</ref>。 |
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クルアーン内で「祝福された」地、という表現が出てくる{{Cite quran|17|1|expand=no|style=nosup}}、{{Cite quran|21|71|expand=no|style=nosup}}、{{Cite quran|34|18|expand=no|style=nosup}}など<ref name="Cite quran|17|1|e=16|s=ns"/><ref name="Cite quran|21|51|e=82|s=ns"/><ref name="Cite quran|34|10|e=18|s=ns"/>は、様々な学者により多様に解釈されている。[[アブドゥッラー・ユースフ・アリー]]は、シリアやレバノンを含む広大な範囲、特に[[ティルス]]や[[シドン]]などの都市を指すとしている。Az-Zujajは「[[ダマスカス]]、パレスチナ、それに[[ヨルダン]]の一部」と説明している。[[ムアド・イブン・ジャバル]]は「[[アリーシュ]]と[[ユーフラテス川]]の間」、[[イブン・アッバス]]は「[[イェリコ]]の地」と述べている<ref>Ali (1991), p. 934</ref>。こうした地域全体を指す言葉として[[アシュ=シャーム]]({{lang-ar|الـشَّـام}})がある<ref name="Volume 9 1997 page 261">Article "AL-SHĀM" by [[C.E. Bosworth]], ''[[Encyclopaedia of Islam]]'', Volume 9 (1997), page 261.</ref><ref name="Salibi2003">{{cite book|author=Kamal S. Salibi|authorlink=Kamal Salibi|title=A House of Many Mansions: The History of Lebanon Reconsidered|url=https://books.google.com/books?id=t_amYLJq4SQC|year=2003|publisher=I.B.Tauris|isbn=978-1-86064-912-7|pages=61–62|quote=To the Arabs, this same territory, which the Romans considered Arabian, formed part of what they called Bilad al-Sham, which was their own name for Syria. From the classical perspective however Syria, including Palestine, formed no more than the western fringes of what was reckoned to be Arabia between the first line of cities and the coast. Since there is no clear dividing line between what are called today the Syrian and Arabian deserts, which actually form one stretch of arid tableland, the classical concept of what actually constituted Syria had more to its credit geographically than the vaguer Arab concept of Syria as Bilad al-Sham. Under the Romans, there was actually a province of Syria. with its capital at Antioch, which carried the name of the territory. Otherwise. down the centuries, Syria like Arabia and Mesopotamia was no more than a geographic expression. In Islamic times, the Arab geographers used the name arabicized as Suriyah, to denote one special region of Bilad al-Sham, which was the middle section of the valley of the Orontes river, in the vicinity of the towns of Homs and Hama. They also noted that it was an old name for the whole of Bilad al-Sham which had gone out of use. As a geographic expression, however, the name Syria survived in its original classical sense in Byzantine and Western European usage, and also in the Syriac literature of some of the Eastern Christian churches, from which it occasionally found its way into Christian Arabic usage. It was only in the nineteenth century that the use of the name was revived in its modern Arabic form, frequently as Suriyya rather than the older Suriyah, to denote the whole of Bilad al-Sham: first of all in the Christian Arabic literature of the period, and under the influence of Western Europe. By the end of that century it had already replaced the name of Bilad al-Sham even in Muslim Arabic usage.}}</ref>。 |
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== バハイ信教 == |
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バハイ教徒は、[[バハイ信教]]の創始者[[バハオラ]]が1868年に投獄され、釈放後も1892年に死去するまで周辺で余生を送った[[アッコ]]と[[ハイファ]]を聖地とみなしている。バハオラはハイファにある[[カルメル山]]の斜面をバブの聖廟に定め、後継者と定められた[[アブドル・バハ]]は、1909年にこの地に庭園を築き始めた。アブドル・バハの後継者[[ショーギ・エフェンディ]]もこの聖地の拡張を進め、さらにその没後は[[万国正義院]]が事業を引き継ぎ、この地は、現在のバハイ信教の運営面および宗教的な中心地バハイ世界センターに至っている<ref>{{cite journal| author = Jay D. Gatrella | author2=Noga Collins-Kreinerb | title =Negotiated space: Tourists, pilgrims, and the Bahá'í terraced gardens in Haifa | journal =Geoforum | volume =37 | issue =5 | pages =765–778 | date =September 2006 | issn =0016-7185 | doi =10.1016/j.geoforum.2006.01.002}}</ref><ref>{{cite encyclopedia |last= Smith |first= Peter |encyclopedia= A concise encyclopedia of the Bahá'í Faith |title= Arc-buildings of; Bahá'í World Centre |year= 2000 |publisher= Oneworld Publications |location= Oxford |isbn= 978-1-85168-184-6 |pages= [https://archive.org/details/conciseencyclope0000smit/page/45 45–46;71–72] |url= https://archive.org/details/conciseencyclope0000smit/page/45 }}</ref>。この地の庭園は観光地としても極めて人気があり<ref>{{cite web| last = Leichman | first =Abigail Klein | title =Israel's top 10 public gardens | publisher =Israel21c.org | date =7 September 2011 | url =http://israel21c.org/travel/israels-top-10-public-gardens/ | accessdate = 30 March 2014}}</ref>、2012年の[[モフセン・マフマルバフ]]の映画『[[庭師 (2012年の映画)|庭師]]』の舞台ともなった<ref>{{cite news| last =Dargis | first =Manohla | title =The Cultivation of Belief - 'The Gardener,' Mohsen Makhmalbaf's Inquiry Into Religion | newspaper =New York Times | date =8 August 2013 | url =https://www.nytimes.com/2013/08/09/movies/the-gardener-mohsen-makhmalbafs-inquiry-into-religion.html?_r=0 | accessdate = 30 March 2014}}</ref>。アッコにあるバハオラの廟とハイファのバブの聖廟は最も重要なバハイ信教の巡礼地であり、2008年に[[ハイファと西ガリラヤのバハイ教聖地群]]として[[ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された<ref name="UNESCO">{{cite web|url=https://whc.unesco.org/en/news/452 |accessdate=2008-07-08 |date=2008-07-08 |title=Three new sites inscribed on UNESCO's World Heritage List |author=UNESCO World Heritage Centre}}</ref>。 |
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== 関連項目 == |
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* [[イスラエルの考古遺跡]] |
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* [[パレスチナ問題]] |
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== 外部リンク == |
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* [http://www.shapell.org/Collection/The-Holy-Land Manuscripts from the Holy Land] Shapell Manuscript Foundation |
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* [http://www.wdl.org/en/item/2891 "Description of the Holy Land"], 1585 map depicting the Holy Land at the time of Jesus, World Digital Library |
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* [https://web.archive.org/web/20191023092940/https://propertyhubworld.com/property "The Holy Land An Armchair Pilgrimage"] by Father Mitch Pacwa, SJ |
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* [http://www.svetazemlja.info About Holy land, Jerusalem and Sinai on serbian] |
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2024年2月5日 (月) 09:33時点における最新版
聖地 | |
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現地名 ヘブライ語: אֶרֶץ הַקּוֹדֶשׁ ラテン語: Terra Sancta アラビア語: الأرض المقدسة | |
種類 | 聖地 |
所在地 | ヨルダン川・地中海間 |
当初の用途 | ユダヤ教: ユダヤ人の約束の地 イスラム教: クルアーンの祝福された地 |
現用途 | アブラハムの宗教における主要な巡礼地 |
アブラハムの宗教における聖地(ヘブライ語: אֶרֶץ הַקּוֹדֶשׁ Eretz HaKodesh、羅: Terra Sancta、阿: الأرض المقدسة Al-Arḍ Al-Muqaddasah / 阿: الديار المقدسة Ad-Diyar Al-Muqaddasah)は、大まかにヨルダン川と地中海との間、またヨルダン川の東岸も含む地域を指す。聖書におけるイスラエルの地や、パレスチナとも大まかに一致する。現代の地図上では、イスラエル、パレスチナ領域、ヨルダン西部、レバノン南部の一部、シリア南西部の一部にあたる。
聖地の重要性は、イエス・キリストが公生涯を過ごした歴史的な地域としての、そして、ムハンマドの夜の旅および昇天(夜の旅・昇天の書を参照)が起こった地としての、エルサレムの宗教的重要性(ユダヤ教にとって最も重要な都市)に由来する。
この土地のキリスト教徒の巡礼の目的地としての聖性は、630年代にキリスト教徒の東ローマ帝国からムスリム(イスラム教徒)が奪った地を、再びムスリムから奪還しようとしたヨーロッパ人キリスト教徒による、十字軍の派遣の一因となった。
19世紀には、当該地に所在する諸聖地が東方問題の原因となったことで外交的な論争・紛争の対象となり、1850年代のクリミア戦争の遠因となった。
聖地に所在する数多くの場所は、長きに渡って(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そしてバハイ教を含む)アブラハムの宗教の信者にとって巡礼の目的地となっており、巡礼者たちは、彼ら自身の信仰の物理的な明示・顕現を目の当たりにするために、聖的な文脈における彼ら自身の信念を集団的な高揚と共に確認するために[2]、そして聖地と人格的に結び付く(繋がる)ために[3]、聖地を訪れる。
ユダヤ教
[編集]ユダヤ人は、一般にはイスラエルの地を「聖地」(ヘブライ語: אֶרֶץ הַקוֹדֵשׁ Eretz HaKodesh)とは呼ばない。タナハ(ヘブライ語聖書)、この文脈で「聖地」という言葉を使っているのは一文だけである[8]。非ヘブライ語の文書群である第二正典内でも2つの用例しかない[9][10]。タナハによれば、イスラエルの地が神聖なのは、まずこの地が神からイスラエルの民に与えられた「約束の地」であり、神との契約と不可分であるからとされている。トーラーにある多くのミツワーは、イスラエルの民への神の命令はイスラエルの地にてのみ行われる、として[11]、他の地と明確に差別化している。例えば、イスラエルの地は「いかなる土地も永久に売り渡してはならない」(Lev 25:23)。なおユダヤ人のディアスポラの影響で、ユダヤ教の祝祭日は世界各地のユダヤ教徒の間でずれが生じるようになっており、安息年の習慣もイスラエル在住の一部のユダヤ人が形式的に行っているに過ぎない。
Eliezer Schweidは、次のように述べている。
イスラエルの地の特殊性は...「地理神学的」('geo-theological')なもので、単に風土的なものとは言えない。この地はスピリチュアルな世界への入り口であり、我々が感覚を通して知っている物質世界を超えて横たわる存在の領域である。これこそが予言と祈りに関して、また同時に戒律に関してもこの地が特徴的な位置を占めている決め手である。[12]
1906年に出版されたジューイッシュ・エンサイクロペディアは、イスラエルの聖性は、特に葬礼において顕著な傾向であるが、16世紀以降四大聖地すなわちエルサレム、ヘブロン、ツファット、ティベリアに集約されるようになったとしている。その中でも神殿の存在したエルサレムが特に重要であるとされる[13]。現在でも、世界各地に散らばったユダヤ人の中にはイスラエルの神聖な土に葬られることを望み、実際にそのように埋葬される者もいる[14]。
ユダヤ教では伝統的に、アブラハムがイサクを生贄にしようとしたイサクの燔祭の舞台となったモリヤの丘が後のエルサレムであると信じられている。ヘブライ語聖書では、「エルサレム」という言葉が669回も登場するが、それはミツワーがエルサレム周辺でしか実行できないとされたからである。類語である「シオン」(基本的にはエルサレムを指すが、時にイスラエルの地を指すこともある)という言葉は154回登場する。
タルムードでは、イスラエルでの入植が宗教的義務とされている[15]。そのためユダヤ教においてイスラエルの土地を購入するのは極めて重要な活動とされており、タルムードでは安息日でも土地の獲得と入植は行ってよいとしている[16]。Rabbi Johananは、「イスラエルの地を4キュビットも歩いた者なら、あの世に入ることを保証される。」と述べている[17][18]。伝説によると、Eleazar ben ShammuaとJohanan HaSandlarがJudah ben Bathyraに教えを請うべくイスラエルを発ったものの、「パレスチナの神聖さについての思索が彼らの決心を圧倒した」ために彼らはシドンまでしかたどり着けず、彼らは涙をこぼし、己の服を引き裂き、引き返した[18]。ユダヤ人はイスラエルの地を極めて重視するため他の地へ移住することが少なく、その結果ユダヤ教が奉じられている地域も限られている。しかしエルサレム神殿の破壊とイスラエルにおける数世紀にわたる迫害の末、自らの地位を保つことが難しいと考えたラビたちは、より良い地位を提供してきたバビロニアへ移住した。多くのユダヤ人は、イスラエルの地で死に、そこに埋葬されることを望んでいる。ラビ・アナンは、「イスラエルに葬られることは、祭壇の下に葬られるようなものだ。」と述べている[4][5][6]。「彼の地は彼の人々を赦免するだろう」という言い回しがあるが、これはイスラエルの地に葬られた者はそのすべての罪を免じられる、という意味である[18][19]。
キリスト教
[編集]キリスト教徒は、彼らがメシアと信じるイエス・キリストが降誕、活動、磔刑、復活したイスラエルの地を神聖視している。またナザレのイエス自身がユダヤ人であったことから、彼自身ユダヤ教徒としてイスラエルの地を神聖視していた可能性もある。
聖書などほとんどのキリスト教の書籍には、聖地(ガリラヤ、サマリア、ユダヤ)の地図が掲載されている。例えばドイツのプロテスタントの牧師ハインリヒ・ビュンティング (1545年 - 1606年)は、聖地の地理をまとめた『イティネラリウム・サクラエ・スクリプトゥラエ』(ラテン語: Itinerarium Sacrae Scripturae (直訳: 聖書の旅行記)を出版している[20]。彼の本は非常に反響が大きく、「最も完成された聖書上の地理の概要を」提供し、「旧約聖書や新約聖書の主な人物の旅行記をたどることで聖地の地理を表現した」と評された[20]。
イスラム教
[編集]クルアーンでは、聖地 (Al-Ard Al-Muqaddasah アラビア語: الأرض المقدسة, 英語: "Holy Land")という言葉はムーサー (モーセ)がイスラエルの子らに対して「おお、我が民よ!アッラーフがあなたたちのために与えた聖地に入れ。恥さらしにも引き返してはならぬ。そのようにしたらその時汝らは失敗者となる。」と述べる部分で登場してくる[Quran 5:21]。またクルアーンでは、この地が「祝福された」土地であるともしている[21][22][23]。
エルサレム (Al-Quds, アラビア語: الـقُـدس, 「神聖な(地)」と呼ばれる)は、イスラム教においても極めて重要である。クルアーンによれば、ムハンマドは一夜にしてマッカの聖なるマスジドから「至遠の(アル=アクサー)マスジド」へ旅をして昇天するという体験をした(ミウラージュ)[Quran 17:1][21]。ハディースでは、この「至遠のマスジド」はエルサレムのアル=アクサー・モスクのことであると解釈されている。例えば教友アブー・フライラーは「アッラーの使徒(ムハンマド)が旅をした夜、2杯のカップ、すなわちワインをたたえたものとミルクをたたえたものが、アル=クドゥス(エルサレム)で彼に与えられた。彼はそれらを見て、ミルクのカップを取った。天使ジブリールは言った、『神に讃えあれ、彼はそなたをフィトラ(正しき道)へ導いた。もしそなたがワインをとっていれば、そなたのウンマは道に迷うことになったであろう。』」と述べている。なお現代の学者の中には、本来「至遠のマスジド」というのはは単にメディナのすぐ外の建物か祈りをささげる場所を指していたのではないかとする者もいる[24][25]。現在エルサレムにあるアル=マスジド・アル=アクサー(アル=アクサー・モスク)はムハンマドの時代に建てられたものではなく、クルアーンの中でも他にエルサレムに言及している部分は、キブラ(ムスリムが祈る方向)をエルサレムからマッカに移した話のみである。草創期のイスラム教においてはエルサレムがキブラであったが、ムハンマドが大天使ジブリールを通し啓示を受けて、ヒジャーズのマッカにあるカアバ神殿の方角に変更された[26]。
クルアーン内で「祝福された」地、という表現が出てくる17:1、21:71、34:18など[21][22][23]は、様々な学者により多様に解釈されている。アブドゥッラー・ユースフ・アリーは、シリアやレバノンを含む広大な範囲、特にティルスやシドンなどの都市を指すとしている。Az-Zujajは「ダマスカス、パレスチナ、それにヨルダンの一部」と説明している。ムアド・イブン・ジャバルは「アリーシュとユーフラテス川の間」、イブン・アッバスは「イェリコの地」と述べている[27]。こうした地域全体を指す言葉としてアシュ=シャーム(アラビア語: الـشَّـام)がある[28][29]。
バハイ信教
[編集]バハイ教徒は、バハイ信教の創始者バハオラが1868年に投獄され、釈放後も1892年に死去するまで周辺で余生を送ったアッコとハイファを聖地とみなしている。バハオラはハイファにあるカルメル山の斜面をバブの聖廟に定め、後継者と定められたアブドル・バハは、1909年にこの地に庭園を築き始めた。アブドル・バハの後継者ショーギ・エフェンディもこの聖地の拡張を進め、さらにその没後は万国正義院が事業を引き継ぎ、この地は、現在のバハイ信教の運営面および宗教的な中心地バハイ世界センターに至っている[30][31]。この地の庭園は観光地としても極めて人気があり[32]、2012年のモフセン・マフマルバフの映画『庭師』の舞台ともなった[33]。アッコにあるバハオラの廟とハイファのバブの聖廟は最も重要なバハイ信教の巡礼地であり、2008年にハイファと西ガリラヤのバハイ教聖地群としてユネスコの世界遺産に登録された[34]。
脚注
[編集]- ^ Adolf Erik Nordenskiöld (1889). Facsimile-atlas to the Early History of Cartography: With Reproductions of the Most Important Maps Printed in the XV and XVI Centuries. Kraus. pp. 51, 64
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- ^ Metti, Michael Sebastian (2011年6月1日). “Jerusalem - the most powerful brand in history”. Stockholm University School of Business. オリジナルの2020年1月26日時点におけるアーカイブ。 1 July 2011閲覧。
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- ^ Article "AL-SHĀM" by C.E. Bosworth, Encyclopaedia of Islam, Volume 9 (1997), page 261.
- ^ Kamal S. Salibi (2003). A House of Many Mansions: The History of Lebanon Reconsidered. I.B.Tauris. pp. 61–62. ISBN 978-1-86064-912-7 . "To the Arabs, this same territory, which the Romans considered Arabian, formed part of what they called Bilad al-Sham, which was their own name for Syria. From the classical perspective however Syria, including Palestine, formed no more than the western fringes of what was reckoned to be Arabia between the first line of cities and the coast. Since there is no clear dividing line between what are called today the Syrian and Arabian deserts, which actually form one stretch of arid tableland, the classical concept of what actually constituted Syria had more to its credit geographically than the vaguer Arab concept of Syria as Bilad al-Sham. Under the Romans, there was actually a province of Syria. with its capital at Antioch, which carried the name of the territory. Otherwise. down the centuries, Syria like Arabia and Mesopotamia was no more than a geographic expression. In Islamic times, the Arab geographers used the name arabicized as Suriyah, to denote one special region of Bilad al-Sham, which was the middle section of the valley of the Orontes river, in the vicinity of the towns of Homs and Hama. They also noted that it was an old name for the whole of Bilad al-Sham which had gone out of use. As a geographic expression, however, the name Syria survived in its original classical sense in Byzantine and Western European usage, and also in the Syriac literature of some of the Eastern Christian churches, from which it occasionally found its way into Christian Arabic usage. It was only in the nineteenth century that the use of the name was revived in its modern Arabic form, frequently as Suriyya rather than the older Suriyah, to denote the whole of Bilad al-Sham: first of all in the Christian Arabic literature of the period, and under the influence of Western Europe. By the end of that century it had already replaced the name of Bilad al-Sham even in Muslim Arabic usage."
- ^ Jay D. Gatrella; Noga Collins-Kreinerb (September 2006). “Negotiated space: Tourists, pilgrims, and the Bahá'í terraced gardens in Haifa”. Geoforum 37 (5): 765–778. doi:10.1016/j.geoforum.2006.01.002. ISSN 0016-7185.
- ^ Smith, Peter (2000). "Arc-buildings of; Bahá'í World Centre". A concise encyclopedia of the Bahá'í Faith. Oxford: Oneworld Publications. pp. 45–46, 71–72. ISBN 978-1-85168-184-6。
- ^ Leichman, Abigail Klein (7 September 2011). “Israel's top 10 public gardens”. Israel21c.org. 30 March 2014閲覧。
- ^ Dargis, Manohla (8 August 2013). “The Cultivation of Belief - 'The Gardener,' Mohsen Makhmalbaf's Inquiry Into Religion”. New York Times 30 March 2014閲覧。
- ^ UNESCO World Heritage Centre (2008年7月8日). “Three new sites inscribed on UNESCO's World Heritage List”. 2008年7月8日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Manuscripts from the Holy Land Shapell Manuscript Foundation
- "Description of the Holy Land", 1585 map depicting the Holy Land at the time of Jesus, World Digital Library
- "The Holy Land An Armchair Pilgrimage" by Father Mitch Pacwa, SJ
- About Holy land, Jerusalem and Sinai on serbian
この記事にはパブリックドメインである次の文書本文が含まれる: Singer, Isidore [in 英語]; et al., eds. (1901–1906). "Palestine, Holiness of". The Jewish Encyclopedia. New York: Funk & Wagnalls.