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*[https://books.google.co.jp/books?id=tus3NzKfhgEC&hl=ja&pg=PP5#v=onepage&q&f=false 『薩摩奇書 大石兵六夢物語』本文校註と挿絵]巧芸社:原文は[[毛利正直]]<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=tus3NzKfhgEC&hl=ja&pg=PP5#v=onepage&q&f=false 『薩摩奇書 大石兵六夢物語』]Googleブックス</ref> |
*[https://books.google.co.jp/books?id=tus3NzKfhgEC&hl=ja&pg=PP5#v=onepage&q&f=false 『薩摩奇書 大石兵六夢物語』本文校註と挿絵]巧芸社:原文は[[毛利正直]]<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=tus3NzKfhgEC&hl=ja&pg=PP5#v=onepage&q&f=false 『薩摩奇書 大石兵六夢物語』]Googleブックス</ref> |
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=== 挿絵 === |
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*『世界お伽噺・[[巖谷小波]]編』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1873984 第九十五 九羽烏 トランスシルバニア]P144~(東京博文館、1898.1~) |
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*『文庫』(投書雑誌)第31巻・1906年・ページ不明 |
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*『女学世界』(雑誌)第9巻、第3-14号、297ページ目・1909年 |
*『女学世界』(雑誌)第9巻、第3-14号、297ページ目・1909年 |
2020年7月3日 (金) 06:22時点における版
村瀬 義徳(むらせ ぎとく/むらせ よしのり、1877年(明治10年)3月 - 1938年(昭和13年)8月15日)は、愛知県出身の日本画家である。村瀬宜得とも記される。はじめ黒田清輝に師事して西洋画を学び、後に日本画に転じて寺崎広業に師事した。現存する作品は大正・昭和のものが多い。通称は義徳であるが、宜得を号とした。
経歴
1877年3月、愛知県丹羽郡布袋町(現:江南市)に生まれた。幼い頃から絵を得意とし、東京美術学校に入学。西洋画の黒田清輝教授のもとで学ぶ[1]。1898年に退学。
また、このころ日本画の寺崎広業に師事。狩野派を研究する。文部省第十一回美術展覧会にて台湾旅行した際の写生から描き起こした南画(南宗画)的な『緑蔭』(屏風絵)が入選。1918年『宜得近作』[2]を個人で印刷出版する。山水画、人物画、花鳥画を得意とし、全国を旅しながら、注文された絵を描く商業的な画家として活動。
アイヌ絵の描き手でもあった。大正時代に『アイヌ熊祭屏風』を制作する。
1929年、毛利正直の原文を校訂し、注釈と挿絵を加えた『薩摩奇書 大石兵六夢物語』(巧芸社)が版を重ねる。また、同じ題材を絵巻物にした「大石兵六夢物語絵巻」を制作する。
1930年、永平寺傘松閣の天井画を144人の画家の一員として描く。現在も鵞鳥と鷲を描いた2作が飾られている。
1938年8月15日、東京にて没する。墓所は青山霊園(東京都港区)。
代表作品
肉筆画
- 屏風:「緑陰」(所在不明・
- 屏風:「アイヌ熊祭屏風」六曲一双・市立函館博物館蔵・大正時代
- 掛軸:「十六羅漢図」三幅対・岐阜 斎藤美術館蔵・年代不明
- 天井画「永平寺傘松閣天井絵」(ガチョウ/鷲)・永平寺蔵[3]
- 絵巻物「大石兵六夢物語絵巻」鹿児島県立図書館蔵
出版物
- 『日本歴史服装掛図:全十枚』村瀬義徳画:東亜教育会館1916年(大正5年)3月発行
- 『薩摩奇書 大石兵六夢物語』本文校註と挿絵巧芸社:原文は毛利正直[4]
挿絵
- 『世界お伽噺・巖谷小波編』第九十五 九羽烏 トランスシルバニアP144~(東京博文館、1898.1~)
- 『文庫』(投書雑誌)第31巻・1906年・ページ不明
- 『女学世界』(雑誌)第9巻、第3-14号、297ページ目・1909年
- 『植物研究雑誌』(津村研究所)第1-2巻、189ページ目・1916年
- 『早稲田文学』(第二次)第142-145号・74ページ目・1917年
口絵
- 「闇光」上下巻 海賀変哲作 誠進堂版 1911年