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{{See also|潼関の戦い}} |
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2020年7月12日 (日) 08:52時点における版
韓遂 | |
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清代の書物に描かれた韓遂 | |
後漢 征西将軍 | |
出生 |
不詳 涼州金城郡 |
死去 | 建安20年(215年) |
拼音 | Hán Suí |
字 | 文約 |
別名 | 韓約 |
主君 | 何進→独立勢力→馬騰→独立勢力 |
韓 遂(かん すい、? - 215年)は、中国後漢末期の武将。字は文約。『三国志』魏志「武帝紀」・蜀志「馬超伝」・『後漢書』「董卓伝」等に記録がある。後漢末期における涼州・関中軍閥の中核を担った人物で、その生涯に亘って涼州の覇権争いを続けつつ、中央への反乱を繰り返した。元の名を韓約という。
生涯
霊帝の時代、辺允と共に西方で高く評価された(「武帝紀」が引く『典略』)。計吏として洛陽に赴いた時、何進に目をかけられた。この時、何進に対し宦官を誅滅するように進言したが、何進が従わなかったため、郷里に引き揚げたという(「武帝紀」が引く『典略』)。
184年、涼州で羌族や枹罕・河関の盗賊、宋建・王国らが反乱を起こし、北宮伯玉・李文侯を将軍として擁立した。彼らは金城郡まで来ると降参した振りをして、辺允・韓約ら数十人を人質に取り、護羌校尉の伶徴・金城太守の陳懿を殺害した。しかし彼らは辺允・韓約を釈放し、擁立した上で軍政を委ねたという。このため隴西郡では辺允・韓約が賊徒になったという噂が飛び交い、涼州が両人に対して懸賞首をかける事態となった。この時に辺允は辺章という名に改め、韓約も名を韓遂と改めたという(後漢書「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」・後漢書「董卓伝」が引く『献帝春秋』)。なお、「武帝紀」が引く『典略』では、宋揚・北宮玉らが反乱を起こし、辺章・韓遂を擁立したとある。
韓遂らは州郡を焼き払い、185年3月には三輔地方に侵入した。朝廷は皇甫嵩・董卓を討伐に派遣したが、皇甫嵩が成果を挙げられなかったため罷免し、8月に改めて張温に諸郡の郡兵を率いさせ美陽に駐屯させた(「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」)。まもなく韓遂らも美陽に着陣したという。韓遂らは張温・董卓らと戦って勝利を収めたが、11月に董卓らに大敗し楡中へ敗走した(後漢書「董卓伝」)。翌年に張温が召し返されると、韓遂は辺章・北宮伯玉・李文侯を殺し、軍勢を擁して隴西を包囲した。なお、「武帝紀」が引く『典略』では、辺章が病死したため、韓遂が盟主になったとある。
187年、涼州刺史の耿鄙が佞吏を信用したため氐や羌が反乱を起こした。この時、韓遂がこれに続いて反乱を起こしたので、耿鄙はこれらを鎮圧しようとした。耿鄙が漢陽太守の傅燮の諫めを聞き入れず、狄道まで赴いたところで部下の寝返りによって殺されると、韓遂らはそのまま進撃して漢陽郡を包囲し、傅燮を殺害した(「霊帝紀」・後漢書「傅燮伝」)。また耿鄙の司馬であった馬騰も、叛逆して韓遂らと合流し、王国を盟主に推戴して三輔地方に侵攻した(「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」)。翌年、韓遂らは陳倉城を包囲したが、皇甫嵩・董卓に敗れたので、盟主の王国を追放した。王国は混乱の渦中で死亡した(「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」)。その後、韓遂らが権力争いによる殺し合いを始めると、彼らの軍勢も四散してしまったという(後漢書「董卓伝」)。
190年、朝廷の実権を握った董卓が長安への遷都を諮った時、董卓は遷都に反対する楊彪らに向かって、韓遂らから遷都させるようにとの手紙が来ていると言及している。董卓死後、李傕・郭汜が呂布を追い出し自分たちの政権を成立させると、韓遂・馬騰は李傕らに恭順の意を見せ、長安に赴いた(魏志「董卓伝」)。韓遂は鎮西将軍に任命され涼州に帰還し、馬騰も征西将軍に任命され郿に駐屯した(魏志「董卓伝」・蜀志「馬超伝」)。194年、馬騰は心変わりし、朝廷の反李傕勢力や益州の劉焉と共に長安を攻めた。韓遂はそれを聞いて馬騰と李傕らを和解させようとしたが、結局和解させることに失敗したため、馬騰と合流することになった。しかし劉焉らとの襲撃の計画が外部に洩れてしまったため、韓遂・馬騰は樊稠・郭汜に大敗した。この時、韓遂は陳倉まで逃走したところで樊稠に追い付かれたが、旧知であったため見逃してもらったという(後漢書「董卓伝」・魏志「董卓伝」が引く『九州春秋』)。その後、涼州に戻った韓遂は馬騰と意気投合し、義兄弟の契りを結ぶなど当初は極めて親しくしていたという(「馬超伝」が引く『典略』)。しかしその後、涼州を巡って馬騰とも対立し、一転して互いに殺し合う有様となった(魏志「鍾繇伝」・「馬超伝」が引く『典略』)。その際、韓遂が馬騰の妻子を殺したため、和睦は一層困難なものとなった。
197年、曹操は袁紹との戦いを控えていたため、関中の混乱を収めようと、鍾繇を派遣し関中の総指揮を委ねた(「鍾繇伝」)。鍾繇は長安に拠って張既を使者として派遣し、両者の対立を収めようとした。張既や涼州牧の韋端の仲介により、韓遂は馬騰との争いをやめることを誓い、その後は曹操の下に子を人質に送った上で、曹操の傘下となった(「鍾繇伝」・魏志「張既伝」・「馬超伝」が引く『典略』)。209年、張猛が雍州刺史の邯鄲商を殺害して反乱を起こすと、翌年に韓遂は上書して張猛を討伐し、自害に追い込んだ(魏志「龐淯伝」が引く『典略』)。
211年3月(「武帝紀」)、曹操が鍾繇の計画で漢中の張魯征討に出兵するため夏侯淵らの軍を動かすと、韓遂らは張魯攻撃に託け、通り道に当たる自分たちを攻撃するのではないかと危惧し、馬超・楊秋・成宜・李堪ら関中の有力者らと呼応して、曹操に対し反逆した(「武帝紀」)。弘農・馮翊の者達にはこれに呼応する者が多かったが、杜畿が太守を務める河東郡だけは動揺しなかったという(魏志「杜畿伝」・魏志「裴潜伝」が引く『魏略』「厳幹伝」)。曹操は河東へ杜畿と同郡出身の徐晃を派遣した(魏志「徐晃伝」)。秋7月、韓遂らは潼関に拠り曹操軍の曹仁らと対峙し、渭水の畔で9月まで曹操軍と死闘を展開したが、決着がつかなかった(「武帝紀」)。しかし曹操が配下の賈詡による離間策を採用し、韓遂・馬超に対して会談を持ちかけてくると、韓遂は父と曹操が同年の孝廉であり、同時期に挙兵した間柄であった事から、昔話に興じるなど親しく談笑したため、馬超らに疑われたという。また曹操が、わざと馬超に韓遂への疑惑を深めさせるような手紙を送ったため、益々韓遂は疑われた。曹操がこの足並みの乱れに乗じ馬超らを攻撃すると、韓遂・馬超は涼州に逃亡した(「武帝紀」)。人質に送っていた韓遂の子と孫は、曹操によって皆殺しにされた。
214年、馬超が氐族と手を組み反乱を起こし、涼州の動静を乱すと、夏侯淵は涼州平定のために攻めて来た(「武帝紀」・魏志「夏侯淵伝」)。この時、夏侯淵は馬超を討つついでに、涼州の抵抗勢力を一掃する事を企図し、韓遂にも攻撃を加えてきた。韓遂は異民族と手を組みこれと懸命に戦ったが、夏侯淵の軍略の前に敗れ、金城(あるいは西平)に逃走した(「夏侯淵伝」)。韓遂は、閻行に叛かれるなどその勢力を弱め、益州の劉備の下に逃げようかと配下の成公英に漏らしたが、成公英が抗戦を主張したため、韓遂もこれに従った(「張既伝」が引く『典略』・及び『魏略』)。
215年、曹操は張魯を討つため親征した(陽平関の戦い)。西平・金城に割拠する麹演・蒋石は協力して韓遂を殺害し、首を曹操に送ったという。70余歳だった(「武帝紀」が引く『典略』)。晩年の韓遂については異説があり、夏侯淵に敗れた後に西平の郭憲に庇護されていたが、病死した後の首を斬り落とし曹操への手土産にした者達がいた、という説がある(魏志「王修伝」が引く『魏略』「純固伝」)。
配下
演義のみ
三国志演義における韓遂
小説『三国志演義』では、董卓残党との抗争時に馬騰の同盟者として登場し、史実と同様に昔馴染みの樊稠に見逃してもらっている。その後、赤壁の戦い時に群雄として健在である事が語られる。馬騰が謀殺された後、馬超の忠実な同盟者として「手下八部」(楊秋・侯選・張横・程銀・成宜・李堪・馬玩・梁興)を率いて曹操と戦う。しかし、手下八部の内の3名を失うなど苦戦し、最後は賈詡の離間の計に嵌まり、怒った馬超によって左腕を斬り落とされてしまう。その後は曹操に降伏して関内侯に封じられ、夏侯淵と共に涼州に留まる事になっている。また、年齢は史実と異なり40歳(172年生まれに相当)という設定である。