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「納蘭性徳」の版間の差分

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納蘭性徳は[[北京市|北京]]に生まれた。[[満州民族]]の名家である[[葉赫那拉氏|イェヘ=ナラ氏]]の出身で、満州[[八旗]]のうちの正黄旗に属する。父の納蘭明珠は[[康熙帝]]の高官で、[[吏部]]尚書・[[内閣大学士|武英殿大学士]]などを歴任した。母は[[ヌルハチ]]の第十二子のアジゲ([[ドルゴン]]の同母兄)の娘であった。
納蘭性徳は[[北京市|北京]]に生まれた。[[満州民族]]の名家である[[葉赫那拉氏|イェヘ=ナラ氏]]の出身で、満州[[八旗]]のうちの正黄旗に属する。父の納蘭明珠は[[康熙帝]]の高官で、[[吏部]]尚書・[[内閣大学士|武英殿大学士]]などを歴任した。母は[[ヌルハチ]]の第十二子のアジゲ([[ドルゴン]]の同母兄)の娘であった。


名ははじめ'''成徳'''であったが、皇太子の保成(のちの[[愛新覚羅胤ジョウ|胤礽]])の[[諱]]を避けて性徳に改めた<ref name="xuqianxue">{{cite book|和書|chapter=通議大夫一等侍衛進士納蘭君墓誌銘|author=[[徐乾学]]|title=通志堂集|volume=巻十九|url=https://archive.org/stream/02102394.cn#page/n62/mode/2up}}</ref><ref name="qingshigao">{{cite book|和書|title=[[s:zh:清史稿/卷484|清史稿]]|volume=列伝二百七十一・文苑一・性徳}}</ref>。[[字]]は'''容若'''、[[号 (称号)|号]]は'''楞伽山人'''、室名は通志堂ほか。
名ははじめ'''成徳'''であったが、皇太子の保成(のちの[[愛新覚羅胤|胤礽]])の[[諱]]を避けて性徳に改めた<ref name="xuqianxue">{{cite book|和書|chapter=通議大夫一等侍衛進士納蘭君墓誌銘|author=[[徐乾学]]|title=通志堂集|volume=巻十九|url=https://archive.org/stream/02102394.cn#page/n62/mode/2up}}</ref><ref name="qingshigao">{{cite book|和書|title=[[s:zh:清史稿/卷484|清史稿]]|volume=列伝二百七十一・文苑一・性徳}}</ref>。[[字]]は'''容若'''、[[号 (称号)|号]]は'''楞伽山人'''、室名は通志堂ほか。


1676年に[[進士]]に及第し、康熙帝の側近として働いた。官は一等侍衛に昇ったが、1685年、31歳([[数え年]])で病死した<ref name="qingshigao"/>。
1676年に[[進士]]に及第し、康熙帝の側近として働いた。官は一等侍衛に昇ったが、1685年、31歳([[数え年]])で病死した<ref name="qingshigao"/>。

2020年7月18日 (土) 02:33時点における版

禹之鼎「納蘭容若像」(1685年ごろ)より

納蘭性徳(のうらん せいとく、1655年 - 1685年)は、の詩人、学者。優れたを書いたことによって知られる。

生涯

納蘭性徳は北京に生まれた。満州民族の名家であるイェヘ=ナラ氏の出身で、満州八旗のうちの正黄旗に属する。父の納蘭明珠は康熙帝の高官で、吏部尚書・武英殿大学士などを歴任した。母はヌルハチの第十二子のアジゲ(ドルゴンの同母兄)の娘であった。

名ははじめ成徳であったが、皇太子の保成(のちの胤礽)のを避けて性徳に改めた[1][2]容若楞伽山人、室名は通志堂ほか。

1676年に進士に及第し、康熙帝の側近として働いた。官は一等侍衛に昇ったが、1685年、31歳(数え年)で病死した[2]

1674年に両広総督盧興祖の娘と結婚したが、妻は3年後に没してしまった[3]。納蘭性徳は亡き妻をしのぶ詞を作っている(なお、その後再婚している)。

紅楼夢との関係

紅楼夢』の作者である曹雪芹の祖父の曹寅は納蘭性徳の同僚であり、納蘭性徳を『紅楼夢』の主人公である賈宝玉のモデルとする説が清朝以来存在する。胡適は『紅楼夢研究』(1921年)でこの説を否定し、曹雪芹本人をモデルと考えた。

著作

詞集としては、生前の1678年に『飲水詞』を出版している。また『側帽詞』という詞集もあったようだが、いずれも伝わらない。納蘭性徳の詞は、これらをもとに後人によって出版された『納蘭集』(1832年)などの詞集により知られる。

『通志堂集』20巻(1691年)は、遺稿をもとに編集出版された文集。うち詞は4巻を占め、300首が載せられている。中華書局から出版されている『飲水詞箋校』(2005年)では、巻1から巻4までを『通志堂集』から取り、巻5にはそれ以外の詞集にのみ見える48首を集めている。

『通志堂経解』約1800巻は、納蘭性徳の師であった徐乾学が主にの経学書を集めて校訂したものを納蘭性徳の通志堂から出版した叢書である。

評価

王国維は、納蘭性徳を北宋以降の随一の詞人と高く評価しており、満州族の漢化がまだはじまったばかりで、漢風に染まりすぎていないため、自然の目で観察し、自然の舌でうたうことができたと解釈している[4]

脚注

  1. ^ 徐乾学通議大夫一等侍衛進士納蘭君墓誌銘」『通志堂集』 巻十九https://archive.org/stream/02102394.cn#page/n62/mode/2up 
  2. ^ a b 清史稿』 列伝二百七十一・文苑一・性徳。 
  3. ^ 葉舒崇『皇清納臘室盧氏墓志銘』。 
  4. ^ 王国維『人間詞話』。「納蘭容若以自然之眼観物、以自然之舌言情。此初入中原、未染漢人風気、故能真切如此。北宋以来、一人而已。」