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== 経歴 ==
== 経歴 ==
関氏は代々[[鎮江市|京口]]に居住しており、康之は南平昌に寓居した。若くして学問に打ち込み、容姿や恰幅は豊満であった。[[下郡|下邳]]の趙繹は文章の解釈で知られており、康之は趙繹と仲が良かった。また[[顔延之]]とも知己であった。かつて[[顧悦之]]が[[王弼 (三国)|王弼]]の『[[易経]]』解釈四十数条を批判したことがあったが、康之は王弼の解釈を支持して顧悦之を批判した。また『毛詩義』を作り、経籍の疑問点を多くの箇所で論じ解釈した。また仏僧の支僧納に算学を学び、その方面でも才能を見せた。
関氏は代々[[鎮江市|京口]]に居住しており、康之は南平昌に寓居した。若くして学問に打ち込み、容姿や恰幅は豊満であった。[[下郡|下邳]]の趙繹は文章の解釈で知られており、康之は趙繹と仲が良かった。また[[顔延之]]とも知己であった。かつて[[顧悦之]]が[[王弼 (三国)|王弼]]の『[[易経]]』解釈四十数条を批判したことがあったが、康之は王弼の解釈を支持して顧悦之を批判した。また『毛詩義』を作り、経籍の疑問点を多くの箇所で論じ解釈した。また仏僧の支僧納に算学を学び、その方面でも才能を見せた。


竟陵王[[劉義宣]]が京口から[[荊州区|江陵]]に赴任するにあたって、康之に同行を求めたが、康之は命令に応じなかった。[[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]年間、南朝宋の[[文帝 (南朝宋)|文帝]]は康之に学識があると聞いて、[[武昌郡|武昌国]]中軍将軍に任じ、租税を免除した。江夏王[[劉義恭]]や広陵王[[劉誕 (南朝宋)|劉誕]]が[[南徐州]][[刺史]]となると、康之を従事や西曹として召し出そうとしたが、康之はいずれも就任しなかった。人づきあいを断って、隠居の志を守った。
竟陵王[[劉義宣]]が京口から[[荊州区|江陵]]に赴任するにあたって、康之に同行を求めたが、康之は命令に応じなかった。[[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]年間、南朝宋の[[文帝 (南朝宋)|文帝]]は康之に学識があると聞いて、[[武昌郡|武昌国]]中軍将軍に任じ、租税を免除した。江夏王[[劉義恭]]や広陵王[[劉誕 (南朝宋)|劉誕]]が[[南徐州]][[刺史]]となると、康之を従事や西曹として召し出そうとしたが、康之はいずれも就任しなかった。人づきあいを断って、隠居の志を守った。

2020年7月23日 (木) 03:47時点における版

関 康之(關康之、かん こうし、415年 - 477年)は、南朝宋学者隠者は伯愉。本貫河東郡楊県

経歴

関氏は代々京口に居住しており、康之は南平昌に寓居した。若くして学問に打ち込み、容姿や恰幅は豊満であった。下邳の趙繹は文章の解釈で知られており、康之は趙繹と仲が良かった。また顔延之とも知己であった。かつて顧悦之王弼の『易経』解釈四十数条を批判したことがあったが、康之は王弼の解釈を支持して顧悦之を批判した。また『毛詩義』を作り、経籍の疑問点を多くの箇所で論じ解釈した。また仏僧の支僧納に算学を学び、その方面でも才能を見せた。

竟陵王劉義宣が京口から江陵に赴任するにあたって、康之に同行を求めたが、康之は命令に応じなかった。元嘉年間、南朝宋の文帝は康之に学識があると聞いて、武昌国中軍将軍に任じ、租税を免除した。江夏王劉義恭や広陵王劉誕南徐州刺史となると、康之を従事や西曹として召し出そうとしたが、康之はいずれも就任しなかった。人づきあいを断って、隠居の志を守った。

弟の関双之が臧質の下で車騎参軍となっていたが、赭圻で病没し、水浜に埋葬された。康之はその年の春に病にかかっていたが、少し回復したため、弟の遺体を迎えに行った。無理をしたために病は重くなり、以後20年あまりも寝たきりになった。暇な日があれば、床に臥せったまま文章の解釈を論じた。

孝武帝が即位すると、陸子真が大使として各地を巡検し、康之に出仕を勧めたが、康之は聞き入れなかった。泰始初年、通直散騎侍郎として召されたが、病を理由に断った。

元徽年間、『春秋左氏伝』を好む蕭道成が『春秋』五経を康之のもとに送ると、康之はこれに校点を打ち、合わせて『礼記』十数条を論じた文章をつけて送り返した。477年昇明元年)、康之は死去した。享年は63。

伝記資料