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とある。和邇とは別の鮫の項には、「和名 佐米」と読み方が記され、「さめ」と読む「鮫」という字が使われ始めた平安時代において、爬虫類のワニのことも知られていたことを示す。[[和漢三才図会]]の鰐の項では、和名抄には蜥蜴に似ると記されているとある。[[狩谷棭斎]]は『箋注和名類聚抄・巻第八』<ref name="ndl"/>において、和名抄には異本がある事を示し、麻果の切韻の原典は、呉都賦の[[劉達]]が『異物志』を引用した注と考えられ、 |
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とある事から、鼈はダの誤りであろうとしている。ただし、狩谷棭斎自身は日本にワニがいないとしてサメ説である。 |
とある事から、鼈はダの誤りであろうとしている。ただし、狩谷棭斎自身は日本にワニがいないとしてサメ説である。 |
2020年8月2日 (日) 21:54時点における版
概説
和邇は『古事記』と『日本書紀』に登場する。古事記では万葉仮名で「和邇」、日本書紀では漢字で「鰐」とそれぞれ記述されている。和邇を実在の動物に比定する様々な説が存在する(詳細は#実在生物に比定する説を参照)。
まず和邇が登場するのは、説話『稻羽之素菟』であり、神々は彼らが浜で泣いているのを見つけた素菟(しろうさぎ、毛のないウサギを意味する)を助けようとして失敗する。
ところがその海水の乾くままに身の皮が悉く風に吹き拆かれたから痛んで泣き伏しておりますと、最後に來た大國主の命がその兎を見て、「何だつて泣き伏しているのですか」とお尋ねになつたので、兎が申しますよう、「わたくしは隠岐の島にいてこの國に渡りたいと思つていましたけれども渡るすべがございませんでしたから、海の鰐を欺いて言いましたのは、わたしはあなたとどちらが一族が多いか競べて見ましよう。あなたは一族を悉く連れて來てこの島からケタの埼まで皆竝んで伏していらつしやい。わたしはその上を蹈んで走りながら勘定をして、わたしの一族とどちらが多いかということを知りましようと言いましたから、欺かれて竝んで伏している時に、わたくしはその上を蹈んで渡つて來て、今土におりようとする時に、お前はわたしに欺だまされたと言うか言わない時に、一番端に伏していた鰐がわたくしを捕つかまえてすつかり着物を剥はいでしまいました。それで困つて泣いて悲しんでおりましたところ、先においでになつた大勢の神樣が、海水を浴びて風に當つて寢ておれとお教えになりましたからその教えの通りにしましたところすつかり身體をこわしました」と申しました。そこで大國主の命は、その兎にお教え遊ばされるには、「いそいであの水門に往つて、水で身體を洗つてその水門の蒲の花粉を取つて、敷き散らしてその上に輾り廻つたなら、お前の身はもとの膚のようにきつと治るだろう」とお教えになりました。依つて教えた通りにしましたから、その身はもとの通りになりました。これが因幡の白兎というものです。今では兎神といつております。
次に、和邇は半神の兄弟ホオリとホデリの神話における基本主題として登場する。
その時夫の君に申されて言うには「すべて他國の者は子を産む時になれば、その本國の形になつて産むのです。それでわたくしももとの身になつて産もうと思いますが、わたくしを御覽遊ばしますな」と申されました。ところがその言葉を不思議に思われて、今盛んに子をお産みになる最中に覗いて御覽になると、八丈もある長い鰐になつて匐いのたくつておりました。そこで畏れ驚いて遁げ退きなさいました。しかるにトヨタマ姫の命は窺見なさつた事をお知りになつて、恥かしい事にお思いになつて御子を産み置いて「わたくしは常に海の道を通つて通おうと思つておりましたが、わたくしの形を覗いて御覽になつたのは恥かしいことです」と申して、海の道をふさいで歸つておしまいになりました。
日本書紀では事代主の通婚[1]とスクナビコナ神話に「八尋熊鰐(やひろわに)」、その他「大鰐(わに)」、「鰐魚(わに)」、「一尋鰐(ひとひろわに)」、「八尋鰐」などの記述がある[2]。
『旧事本紀』では「都味歯八重事代主神 化爲八尋熊鰐通三嶋溝杭女活玉依姫 生一男一女(略)」と事代主神が八尋熊鰐に化し通婚する説話がある。
出雲国風土記では意宇郡で語臣猪麻呂の娘が「和爾」と遭遇して食べられ、猪麻呂が海の神に祈って復讐を果たした説話、仁多郡で「和爾」が玉日女命を慕って川を遡上したことにちなんで恋山と名付けられた説話が収録され、肥前国風土記では海の神である「鰐魚」が多くの小魚を従えて川を遡上し世田姫のもとへ通う説話が収録されている[3]。
実在生物に比定する説
「和邇」を特定の実在生物に比定する説を以下にあげる。
サメ説
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
因幡国(現・鳥取県東部)を含む山陰地方の方言ではサメをワニと呼ぶ[4]。歴史学者の喜田貞吉は、隠岐島の刺し身が「ワニ」と呼ばれることから、古事記神代巻のワニとはフカ(サメ)を指すとする説[要出典]に賛成し、国定教科書編時に、因幡の白兎のワニをワニザメと表記した[5]。中国地方の山陰では浜でも山間部でもサメを「わに」と呼び、山間部に伝わる「わに料理」はサメ・エイ等の魚を煮た料理である。
内田律雄(島根県埋蔵文化財調査センター)の説によれば、「和邇」は特に神格化されたシュモクザメを指し、他種の「さめ」と区別されていた。『古事記』「山幸彦と海幸彦」の段では、山幸彦が「一尋和邇」(ひとひろわに)の首に小刀をつけて返し、佐比持神(さいもち-)と呼んでいるが、サイは刀剣や農具の意味であり、その形状からシュモクザメが想定されるとする。シュモクザメを描いた線刻絵画は、西日本の各地(鳥取県の青谷上寺地遺跡や兵庫県北部の袴狭遺跡など)に発見されており、そこから窺がえる太古のシュモクザメ信仰と結びつけられるとする[6]。
『日本書紀』でも山幸彦と海幸彦の物語がある第十段一書の第四において、「海神 所乘駿馬者 八尋鰐也 是 竪其鰭背 而在 橘之小戸[7][8]」とあり、海神の乗る駿馬は「八尋鰐[9]」で、その鰭(ヒレ)を背に立てて橘之小戸にいると記され、サメと読むことができる[誰?]。
『肥前国風土記』小城郡条には、世田姫に会うため「海神 謂鰐魚」が佐嘉川を遡上するとあり、『出雲国風土記』仁多郡条の戀山(したいやま)の由来に、「和爾」が阿井村の玉日女命に通おうと「川を遡上」したが、岩で川を塞がれたため恋しがったという話があり、『古事記』の「海の和邇」との比較から、川の和邇ともされる[要出典]。サメはオオメジロザメやガンジスメジロザメの仲間が淡水でも生きられる。現在でも沖縄などの川でサメが捕獲されており、昭和51年(1976年)に静岡県下紙川で、河口から1.5kmほどのところでヨシキリザメ(メジロザメ科)が捕獲された。アマゾン川の上流3700km(ペルー)や、ミシシッピー川の上流3000km(米国イリノイ州)でオオメジロザメが発見された例もある[10]。
なお、弥生時代の銅剣のうちにはサメの線刻画を持つものがあり、サメに関する信仰の存在は考古学的にも認められている[11]。
ワニ説
平安時代の辞書『和名類聚抄(和名抄)[12]』には、麻果切韻に和邇は、鰐のことで、
- 鼈(スッポン)に似て四足が有り、クチバシの長さが三尺、甚だ歯が鋭く、大鹿が川を渡るとき之を中断すると記してある
とある。和邇とは別の鮫の項には、「和名 佐米」と読み方が記され、「さめ」と読む「鮫」という字が使われ始めた平安時代において、爬虫類のワニのことも知られていたことを示す。和漢三才図会の鰐の項では、和名抄には蜥蜴に似ると記されているとある。狩谷棭斎は『箋注和名類聚抄・巻第八』[13]において、和名抄には異本がある事を示し、麻果の切韻の原典は、呉都賦の劉達が『異物志』を引用した注と考えられ、
- 鰐魚(クロコダイル)は
鼉 (、アリゲーター)[14]に似て四足が有り
とある事から、鼈はダの誤りであろうとしている。ただし、狩谷棭斎自身は日本にワニがいないとしてサメ説である。
新井白石は『東雅』[13]の鰐の項において、古事記の和邇は鰐という者を述べたようすがわかる、また、鰐魚ではなく和邇としたことには意味があるのだろうが、今はその意味は不明であるとしている。鱶の項では、和邇について触れていない。
本居宣長は『古事記伝』で『稲葉の白兎』について記した際、和名抄を引用し、ワニとした。宣長がワニ説であったことは、ワニ説・サメ説両方の論者が認めており、後でも触れる。
20世紀に入り、ワニ説はヨーロッパでの神話に対する研究手法を取り入れ、現代の考証に耐える研究として発展した。
- 所謂稲羽の兎の説話は兎の鰐を欺きしを語る。鰐は元来、南洋地方或は熱帯地方の動物にして、日本近海の魚族に非ず。獅子の生存せざる欧羅巴の動物説話に、此動物の現わるるは、その起原の印度なるを示すものとせば、同様の理由によりて、日本説話に鰐の見ゆるは其南方起原を証明する者には非ざるや。(1文略)日本古代の説話は鰐に就いて語ること甚だ多し。之れ恐らく、偶然には非ざる可し。
論理的な考証を積み重ね、発展したワニ説に対し、サメ説での新たな根拠の提示はなく、ワニ説を主張しているかのような記述さえなされている。喜田貞吉は、1912年『読史百話』において、サメ説の根拠として、出雲地方でサメをワニという事をあげているが、後述する折口信夫の講演から逆算すると、文字通り十年一日、同じ事を十年間繰り返していただけになる。当然、ワニザメというサメがいるとは記しても、イタチザメやネコザメといったサメがいて、なぜ、イタチやネコがサメを意味しないかといった点については、何の説明もしていない。さらにサメ説を主張したはずが、『出雲風土記』にある海岸を逍遥していた娘が和邇に喰われた話を引用、「こは、実録にして神話にあらず」と記している。丸山林平が古事記に比べ極めて後の時代で、古事記とは性質が異なるとした批判によるなら、古事記の話とは無関係の件を持ち出しただけだが、津田左右吉が和邇は上陸できるとした批判によるなら、喜田自身が和邇は上陸できると明言した事になる。松本信廣によってこの話は国外からもたらされたワニの話であるとされたことは後述する。さらに、喜田は、和邇が鰐になったのは、「帰化の史官」が「其の形の彼我ヤヤ相類し、皮膚堅硬、時として人畜をも捕り喰うの点相似」ていたので、うっかり間違えたためだと記した。和邇とワニの特徴が皮膚の特徴に至るまで似ている点を示し、サメについてはこの点何も記さず、そのままワニ説の根拠になる記述をしている。
1910年代〜1920年代、発展するワニ説に対し、サメ説からは離反が続いた。後に、後述する西岡によって「当時学会の論客、白鳥・喜田両博士の強い論調に押されて古事記の」註で和邇を鮫としたと批判された4人のうち、少なくとも3人は、サメ説の主張をやめてしまった。
物集高量の1912年『新撰日本歴史辞典』[13]には、古事記に登場する多数の事物が載っているが、因幡の白兎と和邇については項目そのものがない。
次田潤は1924年『古事記新講』[13]において、ワニ説・サメ説の両論併記ともどっちつかずの中立とも言える記述をしており、少なくともサメ説を推す立場ではなくなった。
松岡静雄は1929年『日本古語大辞典』[13]において、『因幡の白兎』では狩谷棭斎を引用しワニは日本にいないから和邇はサメだろうとしているが、豊玉姫の話ではワニでなければならないとし、また、和邇に乗った話では舟としている。後述するように中山林平にサメ説を批判されているが、それほど強く主張している訳ではない。サメ説の根拠として、サメの背をウサギが渡ることは、よく思いつきそうなこと、としているが、その例は示していない。『記紀論究』でも同様の主張であるが、豊玉姫の話の話が後にあるため、書き進むにつれ、サメ説の弱い主張からワニ説の強い主張に変化した形になっている。サメやエイの魚煮のワニ料理がない日向が舞台とされる話では、ワニとしている分、単純なサメ説よりは、根拠との整合性もある。悪魚の意味で鰐とし中山と似たことを記し、後に、舟としての和邇の起源は南方にある事を強く主張するに至る。この場合もワニを海の神とする中山の説と共通することも記している。
堀岡文吉1927年『日本及汎太平洋民族の研究』[13]の一部抜粋・要約を示す。
- 和邇がサメでないことは『出雲風土記』の産物にワニとサメが別々に書いてある事を見ても解る[15]。1924年(大正13年)3月5日大阪朝日紙上に『大鰐が地曳網に』と題し、富山県沖で長さ3間目方70貫の大鰐が網にかかったと報じられているが、日本に鰐がいたから『兎と鰐』の話ができたのではなく、『兎と鰐』の話が漂着したとすべきであろう。
後に丸山林平にサメ説を批判されることになる西村真次だが、実際には1927年『民俗断篇』で「日本のワニ神話は、本来は鰐魚に関するものであり、鰐魚から鮫に転じていったとに疑いがない。」と記している。論旨は丸山の記した通りで、サメ説の論旨にワニ説の結論をつけた形で、批判については蘆谷重常の方が事実に即している。また、アイヌ語では、サメはSame、フカはTowa-yuk、チョウザメはYubeとしている。サメとフカの違いと、サメどころか軟骨魚類でさえないチョウザメを挙げた理由は記していない。同様に、徳川義親も、実際はワニ説を支持し、ワニがサメに変化したもので、輸入元はインドネシアだろうとしている。
- 大正期以降、サメ説の少なくとも論理的な主張はごくわずかになり、釈瓢斎が1929年『苦悶の筍』[13]で、本居宣長が和邇をワニとしたことは偽証罪、新井白石は『東推』[16]でワニ説に疑問を呈している、(日本書紀で龍とあるのは)鰐から龍へ脱線、といった事実無根または事実に反する独断を行い、サメ説の根拠としては、和邇が鰐なら訛の抜けない(当時の)首相はアイヌ人といった偏見と民族蔑視に基づく誹謗中傷、丸山林平に批判された出雲風土記の件とワニザメの件を記した程度である。
島津久基は1933年『国民伝説類聚』[13]において、『因幡の白兎』には、インドの説話『猿の生肝取り』の影響も見られるが、西ボルネオやセレベスの説話がより近い元の話であろうとし、『猿の生肝取り』の紹介をしている。後に、1944年『日本国民童話十二講』では、サメよりワニの方が聞き手にとって、想像しやすいと加えている。一方で、児童に話す場合にはワニでは混乱するので、サメで良く、少し知識が進んだら、南方に起源があることを示してワニで説明すると良い、としている。
丸山林平が1936年『国語教材説話文学の新研究』[13]において『和邇伝説』と題し、サメ説の根拠を一つずつ検証して否定し、ワニ説の根拠を記した要約を示す。本項と直接関係のない、山幸彦と海幸彦、神武東征について記した部分は大部分割愛し、原文で敬語・敬称を用いた部分等は現代の言葉等に変更してある。
- 和邇という動物が日本にいない事から、諸説が現れ、文部省の『国語読本』などでは、すべて「わにざめ」とし因幡の白兎では鮫の挿絵などを描いているが、森鷗外・松村武雄等共著『日本神話』では鰐の挿絵を示している。どちらが真か、どちらでもなどという曖昧な態度は許されないだろう。古事記には因幡の白兎とヒコホホデミの二つの和邇伝説がある。日本書紀の本文で龍となっている所があるのは、中国の影響で、「一書」では総て和邇である。風土記には多くの和邇伝説がある。この伝説が古代にのみ存在する事は注意を要する点である。
- 本居宣長は『古事記伝』で、和邇について『和名抄』を引用しているが、とにかくcrocodile説であって、鮫または他の動物とは見ていない。北国の海には今でも多いと、宣長に語った人は鮫を指しているのであろうが、宣長の方では『切韻』にあるような爬虫類の鰐と信じているのである。西の外国にも多くいる所があるなどは、すでに室町末期から西洋人とも接触していたのであるから、こうした知識も自然わが国の人々が持っていたのであろう。
- 津田左右吉は海蛇であろうと推論しているが、西村真次も指摘しているように、合理主義の形式論理的推論であって、極めて非科学的な態度である。
- 西村は鮫説で、ワニは鱶のヤンの訛化としているが、これは漢字の知識の不備を物語るもので、「鱶」は、中国で干物か干魚のことで、音はシュウであろう。西村は、一転、オロッコ族の海豹を指すバーニがワニと語源が同じと思うとも述べているが、どうして海豹が鮫になったか納得できない。西村は三転、白鳥庫吉のサヒモチ説にとびついているが、古事記でサヒモチとするのは和邇に小刀を結びつけたことによる。サヒモチは鋭い歯を持つの意味で、crocodileのことを言ったとも言え、鮫説の根拠にはならない。どこかにサメモチの神でもいれば別だが、刃が魚の鮫になるのは飛躍が過ぎる。で、要するに鮫説は少しも我々を満足させていない。西村は『因幡の白兎』の物語がインドネシアから伝播されたと信じているにもかかわらず、サメと考える。サメ説の根拠は、日本にワニがいないこと、日本周辺の外国語にワニに似た語がないこと、それにもまして出雲の方言でサメをワニと呼ぶ程度だろう。
- 鰐の化石は日本で未発[17]だが、『肥前風土記』の記述は鰐の化石伝説と思われ、でなければ、わが古代人が鰐というものについておぼろげな記憶か言い伝えを持っていたと思われる。ワニは固有の日本語である。「わにぐち」は決して鮫の口を意味するのではなく、鰐の口を意味している。したがって、ワニと同義語のサヒモチの神も鰐を指したものであること言を俟たない。出雲地方の「ワニザメ」は「鰐のように強い鮫」の意味から来たもので、後に単にワニとも呼んでいる。したがって、本来の和邇の意味がわからなくなった、天武天皇の時代と、かなり後の話である『出雲風土記』の和邇はサメだろう。
- たとえ、日本の古代に全然爬虫類の鰐が棲息していなかったと仮定しても、日本固有語としてワニという語があり、鰐の概念があっても一向に差し支えない。過去にも現在にも日本に龍は棲息していないが、邦語としてタツの語がありタツの概念がある。
- 『因幡の白兎』は明らかに南方から伝播した説話が大国主命の話に入ったもので、インドネシアには鼠鹿と鰐の話があり『因幡の白兎』の伝説と全く同一である[18]。徳川義親は鮫説だが、『稲羽の素兎』で東インド諸島の和邇伝説を二三紹介し、古事記の出来た和銅5年以前に南洋と交通があり、東インド諸島の伝説が入っていると思われると述べ、その他の伝説を紹介しているが、物語も叙述も大体同じである。その中に鼠鹿が猿になっているものがあるが、騙した動物が何であっても、騙された動物が常に鰐である点に注意が必要である。
- 「沖の島」が固有名詞でないことはいうまでもない。
- (日本書紀では中国思想の影響で龍になっているが)龍はサメよりよほどワニに近い。
- トヨタマ姫のお産の和邇も、陸上で匍匐委蛇う(腹ばいで蛇のようにのたうつ)動物が鮫であるはずはない。鮫説の松岡静雄が匍匐委蛇う場合はワニだろうとするのは、サメ説の行き詰まりを示す。
- 和邇は南方のトーテムとしての鰐の反映で、姓の和邇の元であろう。ワニはワニであり、断じてサメやワニザメなどではない。
なお、丸山は、金毘羅はワニを意味するクンピ―ラから来ているが、和邇とは無関係としている。金毘羅の祭神は大物主ともされる。
蘆谷重常の1936年『国定教科書に現れたる国民説話の研究』[13]の要約を記す。
- さすがに本居宣長は和邇を鰐と解釈していると記している。西村真次が海の鰐と湖の鰐が戦った話を記した上で、ワニがサメと混同されたとする(この時点での)西村の説には具体的な根拠が語られていない。津田左右吉のウミヘビ説の4つの根拠はワニにも当てはまる。丸山林平のトーテムにまで進めたワニ説は、卓見である。
中田千畝は1941年『黒潮につながる日本と南洋』[13]において、久米邦武が日本人が日本へ移住してきてから南方の故郷で親しくしていた爬虫類を記憶していたか、説話的に語り継いで来たとの説を紹介し、南洋の話では、騙す動物が鰐の数を数えるという点まで一致している事が重要であると記している。
松本信廣は1942年『和邇其他爬蟲類名義考』[19]において、日本民族が「気宇壮大な海国民であった」のに、その後「事象を国内の事例によって説明せんとする迂愚に陥った」、「島国根性の所産である」としてワニ説を論証している。サメ説が根拠とする出雲でサメをワニと呼ぶことについては、サメとワニの混同を示すだけで、意味がないとしている。松本は、南方でワニを意味する語として、マレー語のbuaya (buwaya)、ジャワのwu (h) aya、他 woea woae waia等50以上の地域における実例をあげ、音韻上の考察と呼称の地理的な分布から、bと母音で始まる語よりvまたはwと母音で始まる語の方が古いと推定できる事、古代日本における「邇」の発音の推定をもって、語形の変遷の推定まで行い、日本語のワニの語源が、南方のワニを意味する語にあることを論証した。さらに、各地に棲息する動物、ワニが単数か多数かの比較を行い、ワニがいない地域でワニがサメに変化した例はあっても、その逆はないことも示した。ワニだった話が日本に入った後、本来のワニがわからなくなり、サメに置き換えられたものとしている。さらに、兎と鰐の説話がインドネシアの説話の類似するだけでなく、出雲風土記の話、豊玉姫伝説など多くの物語の類話が南方にある事も記し、出雲風土記の類話が南方に存在する事は、すでに天明期の『紅毛雑話』に示されているとの実例も挙げている。背中が鋭角をなしたサメより、平たいワニと解した方が合理的であるとし、後に西岡秀雄が、この点を高く評価している。ワニとしての記憶があったため、サメ説の学者の否定にもかかわらず、ワニとする考え方が残ったことが、民間信仰の根強さを示しているとしている。
折口信夫が1942年文部省教学局『日本諸学講演集第4輯』[13]収録『古代日本文学における南方要素』において述べた事の一部抜粋[20]を示す。
- 何にせよ、古代人は「わに」という語及びそれ表す「わに」という動物を知っていたに違いない。ところで、「わに」という語を使っていた古代人の考えていた「わに」なる物は、現に我々の考えている「わに」と同じだったとしたら、我々の祖先は南方から来たに違いない。(略)ところが、やがて四十年も前になりましょうか。故喜田貞吉博士が、隠岐島へ行かれました。「わにを食べてきた」、こう言うことを申されました。それは鱶のことでした。だから、神代の巻に出て来る「わに」は、実は鱶なんだ、と言うようなことを申し出されて、皆な一時それに賛成しました。(略)しかし考えて見ると、一体何故、「わに」と言う語が、南方の鰐魚を意味してはいけないか、と言うことです。(略)動物園にあるからこそ見ることができるのだ。その位の考えでしょう。昔の人は見ることは出来まい。(略)しかしそれは非常に短気な話で、日本民族の持った非常に広い経験というものを軽蔑しているのです。日本民族は昔から知り難い多くの獣を知っていました。我々は獅子だとか、本とうの虎だとか、象、鰐、或は又、なかつがみ[21]こういう風に色々な動物を知っておりますけれども、その知っていた理由は私には唯一点説明できるだけです。(略)恐らくある点まで知っている人もあったのだろうと思います。とにかく自分達は今見ることも出来ないけれども、聞いてもおり或は古い経験を語るものによって知っていたというような恐ろしいものを、あちらこちらで、待ち迎えて、祭りのときに訪れて貰う。(略)さすれば、我々の祖先が、「わに」を知っていたのも、不思議はない。唯まれ人神として来る場合ではなく、因幡の白兎が向う岸へ渡る為に鰐を騙したとか、海祇の宮から神を送り還し申しあげた、「さひもちの神」なるわにの物語とか、出雲風土記に見えた語臣猪麻呂の、鰐を仇として討ったとか、この前後の二つの物語には、鰐の大群が来たことが語られているのです。(略)そういう風に、我々の祖先の一部が長く鰐と馴染を重ねて来ておったので、日本の国に来ても、忘却に委する訣にはいかなかったのでしょう。(略)何故ならば鰐の物語、「因幡の白兎」の類型とか、或は小さな狡猾な動物鰐の口にのって殺されに行こうとしたのが、今度はあちらこちらに、鰐を騙して逃げ乍ら悪口するという類型。これは南の方では、一つの話になっていることが多いようです。そう言う物語はどうも日本の国以前に、我々の祖先が持って居って、此処に来て更に育てたものではなかろうかと言う気が、誰にもする筈だと思います。(文頭略)我々の持った文化を蔑みしたりすることを、一つの態度とするような情けない者もあります。(以下略)
まれびとは、折口の学説の中核を成す概念である。
戦後、ワニ説は、日本人の文化や日本人自身の起源の一つが東南アジアにあるとする説と相補的な関係となりさらに発展した。
西岡秀雄の1947年『兎と鰐説話の伝播』[19]の一部の抜粋要約を示す。
- 喜田貞吉が、頭から古の学者が邦語のワニに誤って鰐の字を当てたとするのは、何の証拠もない独断に過ぎるのではないか。
- 津田左右吉は出雲風土記にワニとサメが別々に記してある点からワニはサメでないとし、ウミヘビとしているが、その後、追随する者はいないようである。
- 西岡は、現地調査を行った上で、安南、カンボジア、マレーほかの『兎と鰐』説話を詳細に紹介し、本来、ワニであるとし、次のように記した。「所変われば品変わる」で兎の方は、鼠鹿、猿、金狼(ジャッカル)と変わったものの鰐には変更がなく、わずかにミンダナオで鱶になり、日本では近年ワニザメ説が横行し危うく古事記の和邇まで鮫にされそうになったわけであるが、カムチャッカでは、遂に鯨に転向されてしまったわけである。
- 西岡は、兎と鰐の説話が古事記に組み込まれる過程についても論証し、広い視野に立って観察すれば、古事記の和邇は、決してサメでもウミヘビでも舟でも南方民族でもなく、鰐そのものと素直に考えるべきである、とした。
- さらに、前掲の折口信夫の講演を引用、「国内起源(サメ説)論者には耳の痛い」、「白鳥・喜田両博士を中心としたワニザメ説を顔色なかしめるもの」とし、次のように結論づけている。
- 松本信廣・折口信夫両教授を中心とした南洋ワニ説が卓見であり、古事記の和邇はワニザメやフカを指したものではないことを再確認する者である。
森鴎外にも師事し、折口信夫の先輩で松岡静雄の実兄である柳田國男は、『海上の道』において、一尋鰐等について、当然のごとく、鰐という字を用い、もはや、鮫や鱶については可能性さえ一顧だにしていない。さらに、沖縄に伝わる猿が登場する話に関して「諸島には猿というはいない。したがって是を単なる昔話の役者として受け入れる以外に、みずからこのような改作をする力も無く、またその資材も持っていなかったろうと思う。」と述べ、『因幡の素兎』と同様、いないからと言って別の動物には当たらない例を挙げている。
黒沢幸三の1972年奈良大学紀要第1号[22]『ワニ氏の伝承氏名の由来をめぐって』の一部要約を示す。
- 古事記・日本書紀両方にあるトヨタマヒメの話にある和邇・鰐はサメでは説明できない。鰐に乗る話においては、舟かも知れないが、『因幡の白兎』を含めた他の話においては、動物である。記紀等にある動物の和邇・鰐はワニで、松本の考察により、和邇・鰐はワニということが、ほぼ論証されたと考える。
- サビモチはサメの根拠にはならず、ワニに対する信仰から考えると動物のワニである。
- ワニに対する信仰から、ワニ氏の氏名は動物のワニに由来すると想定される。日本に残るワニに関する地名は、ワニに対する信仰か、ワニ氏に由来するものである。
前述の次田潤の長男である次田真幸は、兎とワニの物語がインドネシア方面からもたらされたことは明らかとし[23]、東南アジアのイモ栽培起源[23]等、『古事記』への他の南方系神話の混入も示している。他の話については日本神話#研究参照。
後述する石破洋によれば、中西進は1985年『天つ神の世界』の中で、東南アジアの説話との違いとその理由について考察している。
石破洋は1993年『因幡の白兎説話考 A Study of Japanese Traditional Story of "Inaba no Shiro-usagi"』[24]において、『因幡の白兎』説話の成立過程に対する考察の中で、ウサギやワニを民族とする説を「けだし、珍説」とし、視覚的な考証として「因みに和邇をばワニザメと認定したものの、サメの背では滑り易いと気になってか、サメを交互に向きを変えて横に並ばせた」「児童書があって思わず苦笑させられる」と記し、サメ説のサメが実際のサメの特徴と合わないことを批判している。
小説家司馬遼太郎は『古事記』の山幸彦と海幸彦の章の豊玉姫の出産場面で豊玉姫が「八尋和邇(やひろわに)に化りて、匍匐(はらば)ひ委蛇(もこよ)ひき」とあり、「八尋鰐」が「匍匐」すなわち、はらばうのだから「和邇」はワニだとしている[25]。
赤城毅彦は2007年『『古事記』『日本書紀』の解明 作成の動機と作成の方法』[26]において、中国南部のヨウスコウアリゲーターというワニだとする説を記し、古墳時代、倭の五王などは中国の南朝に使いを出した、これが『古事記』の「和邇」だとするには、稲作文化またはその担い手の人々が日本に来た時に中国南部のワニの話を持ってきて、書き手がそのワニを想起しながら古事記を書いたと考えられる、とした。
海外では、Chamberlian,Basil Hall (1919) が"The White Hare of Inaba"で和邇をcrocodileとしている。
未確認動物研究家實吉達郎はイリエワニが日本に漂着する可能性を指摘しており、イリエワニは卵を温めるために葦で巣を作るため、産屋を作るエピソードとの類似性からワニ説の根拠とする。
ウミヘビ説
『古事記』の山幸彦と海幸彦の記述に、豊玉姫の出産場面で豊玉姫が「八尋和邇(やひろわに)に化りて、匍匐(はらば)ひ委蛇(もこよ)ひき」とある。津田左右吉は仏教におけるナーガ(水蛟、龍神)信仰を念頭において(すなわち、仏教伝来以後に仏教以前の信仰があるようにとして書いたものが記紀であるということをも示唆している)、『日本古典の研究』において「八尋鰐」と化した豊玉姫が「委蛇ひき」すなわち「蛇のごとくうねった」という日本語の描写の表現的な観点から、「鰐」はワニやサメのようなものよりももっと長くて細い、ウミヘビ状のものではないかと記述した。
その他
『万葉集註釈』巻第二の『壱岐国風土記』逸文[27]の鯨伏(いさふし)の郷の由来に、「昔者 鮐鰐追鯨 鯨走來隱伏 故云 鯨伏 鰐並鯨 並化為石 相去一里 昔者俗云鯨為 伊佐譯注 鮐 原為海魚 亦有年老之意 此以鮐鰐引作大鰐也[28]」とある。「昔、鮐鰐(わに)鯨(いさ)を追ひければ、鯨(いさ)走り来て隠(かく)り伏しき。故(ゆえ)に鯨伏(いさふし)と云ふ。鰐(わに)と鯨(いさ)と、並び石と化為(な)れり。相去ること一里(さと)なり。昔、俗に云う、鯨を伊佐(いさ)と為す。譚注 鮐は海魚を為し、また年老いるの意有り、これをもって鮐鰐は大鰐に引き作る」とあり、「鰐」がクジラを追う様子と考えられる。 大山元は、因幡の白兎の話は縄文語で語られたものを日本語訳したもので、その縄文語はアイヌ語に引き継がれている、との立場より、鯨(いさ)とアイヌ語のiso(獲物)の類似性とiso-yanke-kur(獲物を陸に上げる神、シャチ)とiso-po(小さい獲物、兎)の関係から「ワニ」とは「シャチ」という説を唱えている[29]。 アシカ研究者井上貴央は、形態や生態、出雲国風土記でサメとワニが別の言葉で表現されていることなどニホンアシカとの類似点を挙げている[30]。
脚注
- ^ 『日本書紀』第6の一書「事代主神化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姫 或云 玉櫛姫 而生兒姫蹈鞴五十鈴姫命 是爲神日本磐余彦火火出見天皇之后也」
- ^ 赤城 毅彦『『古事記』『日本書紀』の解明―作成の動機と作成の方法』文芸社、2006年、269頁。ISBN 978-4286017303。
- ^ 沖森卓也/佐藤信/矢嶋泉『風土記―常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国』山川出版社、2016年。ISBN 978-4-634-59084-7。
- ^ 『日本国語大辞典』
- ^ 明治36年(1903年)の教科書での表記。
- ^ 内田律雄「川を上る和爾」『古代近畿と物流の考古学』、学生社、2003年。(紹介文)
- ^ “『日本書紀』を原文で読む”. 日本書紀. pp. 第2巻. 2010年6月10日閲覧。
- ^ 古代史獺祭 日本書紀 巻第二 神代下 第十段 一書第四
- ^ 八尋は「とても広くて大きい」の意。
- ^ サメの自然史 p.185-188
- ^ "弥生の銅剣にサメの絵 鳥取で全国初、鋳造後に刻む"(日本経済新聞、2016年2月10日記事)。
- ^ “倭名類聚抄 鱗介部第三十 竜魚類第二百三十六”. 倭名類聚抄. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年7月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 国立国会図書館蔵
- ^ ダにある2種類の異字のうち、魚偏でなく鼈に似た字(鼉)の方。ヨウスコウアリゲーターを示す漢字ダについては、ヨウスコウアリゲーター中国語版参照。
- ^ 津田左右吉の引用
- ^ 原文ママ
- ^ 見Toyotamaphimeiaの学名も提唱されているマチカネワニの発見は1964年
- ^ 次田真幸 『古事記(上) 全訳注』 講談社学術文庫 2001年第38刷(第1刷1977年) p.112.
- ^ a b サイニーまたは慶応大学リポジトリで検索、閲覧可能
- ^ かな、漢字は現代式に改め、特に示してない限り各文は途中で切らずに文ごと抜粋して示す。文を略した所は(略)と記す。
- ^ ヒョウ
- ^ 奈良大学リポジトリより選択
- ^ a b 講談社学術文庫古事記(中)全訳注
- ^ サイニーより検索閲覧可能
- ^ 『街道をゆく 27 因幡・伯耆のみち、檮原街道』
- ^ 2014年1月現在インターネットでの検索により閲覧可能
- ^ 國土としての始原史:「風土記逸文」〜西海道[リンク切れ]
- ^ 風土逸文 九州甲類風土記(仁和寺本『萬葉集註釋』卷第2 2‧131番歌條)
- ^ “因幡風土記(存疑)より 因幡の白兎・考(1)”. 2017年9月25日閲覧。
- ^ “資料3PDF”. 2019年3月26日閲覧。
参考文献
- Aston, William George (1896.). Nihongi: Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697.. 2 vols.. Kegan Paul. 1972 Tuttle reprint.
- Aston, William George (1905.). Shinto: (the Way of the Gods).. Longmans. Green, and Co.
- Benedict, Paul K. (1990.). Japanese Austro/Tai. Karoma
- Chamberlain, Basil H. (tr. 1919.). The Kojiki, Records of Ancient Matters.. 1981. Tuttle reprint.
- Mackenzie, Donald A. (1923.). Myths of China and Japan.. 1923. Gresham.
- Muller, Friedrich W. K. (1893). “Mythe der Kei-Insulaner und Verwandtes” (German). Zeitschrift fur Ethnologie (Berlin) 25: 533–77. ISSN 0044-2666.
- Satow, Ernest Mason. (1881.). "Ancient Japanese Rituals, Part III,". Transactions of the Asiatic Society of Japan 9:183-211.
- Smith, G. Elliot. (1919.). The Evolution of the Dragon. London.. London: Longmans, Green & Company.
- Visser, Marinus Willern de. (1913.). The Dragon in China and Japan.. J. Muller.
外部リンク
- Yahirowani, Encyclopedia of Shinto