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* [[揚雄]]([[紀元前53年|前53年]] - [[18年]]) - 前漢末から新の文人。『[[太玄経]]』『[[法言]]』『[[方言 (辞典)|方言]]』の著作を残し「甘泉賦」などの詩文でも有名。 |
* [[揚雄]]([[紀元前53年|前53年]] - [[18年]]) - 前漢末から新の文人。『[[太玄経]]』『[[法言]]』『[[方言 (辞典)|方言]]』の著作を残し「甘泉賦」などの詩文でも有名。 |
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* 呂母(? - [[22年]]頃) - 前漢末から新の女性。冤罪で県役人に殺された息子の仇討ちで[[呂母の乱]]を起こし、動乱時代の幕開けとなる。 |
* 呂母(? - [[22年]]頃) - 前漢末から新の女性。冤罪で県役人に殺された息子の仇討ちで[[呂母の乱]]を起こし、動乱時代の幕開けとなる。 |
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* [[劉歆]](? - [[23年]]) - 前漢末から新の儒学者。『[[七略]]』などを編纂。王莽の王朝簒奪に協力し、国師となるが、やがて反目する。 |
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* [[王莽]]([[紀元前45年|前45年]] - [[23年]]) - 新の皇帝(在位[[8年]] - [[23年]])。前漢を簒奪して新王朝を立てるが、更始帝の軍に殺害される。 |
* [[王莽]]([[紀元前45年|前45年]] - [[23年]]) - 新の皇帝(在位[[8年]] - [[23年]])。前漢を簒奪して新王朝を立てるが、更始帝の軍に殺害される。 |
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* [[王匡 (更始)|王匡]](? - [[25年]]) - [[新末後漢初]]に蜂起した[[緑林軍]]の創始者の一人。更始帝を担いで王莽の新王朝を攻め滅ぼす。 |
* [[王匡 (更始)|王匡]](? - [[25年]]) - [[新末後漢初]]に蜂起した[[緑林軍]]の創始者の一人。更始帝を担いで王莽の新王朝を攻め滅ぼす。 |
2020年8月11日 (火) 23:54時点における版
千年紀: | 1千年紀 |
---|---|
世紀: | 紀元前1世紀 - 1世紀 - 2世紀 |
十年紀: |
0年代 10年代 20年代 30年代 40年代 50年代 60年代 70年代 80年代 90年代 |
1世紀(いっせいき、いちせいき)は、西暦元年(1年)から西暦100年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最初の世紀でもある。
天文学以外では通常、西暦0年は存在せず、また0世紀もない。これは、ヨーロッパで西暦ができた6世紀の時点では、まだヨーロッパ人は零の概念を知らなかったためであると言われることもあるが、元年以前を表すために紀元前が導入されたのは零の概念が普及した後の17世紀のことである。
なお、天文学やISO 8601では、紀元1年の前年、すなわち紀元前1年を西暦0年と定めている(詳細は「紀元前1年#西暦0年」または「0年#西暦0年」を参照のこと)。
できごと
- 紀元前後
0年代
→詳細は「0年代」を参照
- 6年
- 前漢の平帝が死去、劉嬰(孺子嬰)が皇太子になり、王莽は摂皇帝と名乗る。
- 属州マケドニアから属州モエシアが分離する。
- カイサリア・マリティマを首府とする属州ユダヤが成立する。
- 8年
- 9年 - トイトブルクの戦いでローマがゲルマニア人に敗れる。
10年代
→詳細は「10年代」を参照
- 10年 - 王莽が「匈奴」を「降奴」に改名し、攻撃を開始。
- 14年 - ローマでアウグストゥス帝が死去し、ティベリウス帝が即位。
- 15年 - ローマがラエティアに遠征し、属州ラエティアが設置される。
- 17年
- 18年 - 赤眉の乱(- 27年)
20年代
→詳細は「20年代」を参照
- 20年頃 - パルティア人ゴンドファルネスがインド・パルティア王国を建てる。
- 23年
- 25年 - 更始帝政権崩壊、劉秀(光武帝)が皇帝に即位し、洛陽(雒陽)を都とする後漢が成立する(- 220年)。
- 25年頃 - 「ポートランドの壺」が作られる。
- 27年 - ティベリウス帝がカプリに隠棲する。
- 29年 - 後漢の光武帝が国立大学である太学を洛陽に設置する。
30年代
→詳細は「30年代」を参照
- 30年頃 - イエスがゴルゴダの丘で刑死。
- 31年 - ティベリウス帝の寵臣セイヤヌスが処刑される。
- 32年頃 - 最初のキリスト教殉教者ステパノが殺害される。
- 34年頃 - サウロ(パウロ)がダマスクスへの途上で回心する。
- 35年 - 後漢の光武帝が「天地之性人為貴」の詔を下す。
- 36年 - 後漢の光武帝が蜀の公孫述を滅ぼし中国を統一する。
- 37年
40年代
→詳細は「40年代」を参照
- 40年 - ベトナムで徴姉妹が後漢に対して反乱を起こす(- 43年)。
- 40年 - 70年 - エジプト在住のギリシア語著作家により『エリュトゥラー海案内記』が書かれる。
- 41年 - ローマでカリグラ帝が暗殺され、クラウディウス帝が即位。
- 43年 - ローマがブリタンニアに遠征し、属州ブリタンニアが設置される。
- 44年 - クラウディウス帝の勅令により、属州マウレタニアが設置される。
- 46年
- ローマがオドリュサイ王国を併合し、属州トラキアが設置される。
- パウロの第1回伝道旅行。
- 48年
50年代
→詳細は「50年代」を参照
- 50年 - コロニア・アグリピネンシス(現ケルン)がローマ植民市に格上げされる。
- 52年
- 54年 - ローマでクラウディウス帝が死去し、ネロ帝が即位。
- 57年 - 倭の奴国王が後漢に朝献して、倭奴国王印(金印紫綬)を授けられる(後漢・建武中元2、丁巳;『後漢書』光武帝紀、同東夷伝)。
- 59年 - ネロ帝が母の小アグリッピナを殺害する。
60年代
→詳細は「60年代」を参照
- 60年 - ブリタンニアのイケニ族女王ブーディカがローマ帝国に反乱を起こすも鎮圧される。
- 60年頃 - ローマ帝国属州シリアのバールベックのユピテル神殿が建てられる。
- 62年 - キリスト教のエルサレム教会の初代主教ヤコブが殉教。
- 63年 - ローマとパルティアの和平、アルサケス家のアルメニア王ティリダテス1世が承認される。
- 64年
- 65年 - ピソの陰謀事件で、セネカが加担したと疑われネロ帝に自殺を命じられる。
- 66年 - 後漢で現存最古の磨崖「開通褒斜道刻石」が建立される。
- 67年 - 伝承では初めて後漢に仏教が伝わり、洛陽に白馬寺が建てられる。
- 68年
- ネロ帝が自殺し、ユリウス・クラウディウス朝が断絶。
- 内戦からローマで四皇帝が乱立(四皇帝の年)。
- 68年頃
70年代
→詳細は「70年代」を参照
- 70年 - ユダヤ戦争でエルサレムが陥落する。
- この時期までにクムラン遺跡周辺の洞窟に隠匿されたユダヤ教系の文書が「死海文書」として残存。
- 71年 - 属州ブリタンニアのローマの軍事拠点エボラクム(現ヨーク)が建設される。
- 73年 - ローマ軍が包囲したマサダ要塞が陥落。
- 79年
80年代
→詳細は「80年代」を参照
- 80年 - ローマにコロッセウムが完成。
- 81年 - ティトゥス帝が死去し、弟のドミティアヌス帝が即位。
- 83年
- グラウピウス山の戦いでローマ軍がピクト人(カレドニア人)連合軍に勝利する。
- ドミティアヌス帝の命でライン川からドナウ川までの軍事境界線(リーメス・ゲルマニクス)がシュヴァルツヴァルトに築かれる。
- 85年頃 - 鮮卑が北匈奴を破る。
90年代
→詳細は「90年代」を参照
- 90年 - クシャーナ朝の王ヴィマ・タクトが後漢の班超を攻撃するが撃退される。以後クシャーナ朝は後漢に毎年貢献する。
- 90年代 - ヤムニヤ会議においてユダヤ教のヘブライ語聖書(タナハ)が確定される。
- 91年 - 後漢の竇憲の攻撃により北匈奴が康居に西走、後にこの子孫が悦般を形成。
- 92年 - 後漢の和帝が外戚で大将軍の竇憲に自殺を命じる。歴史家班固もこの事件に連座して獄死する。
- 94年 - 後漢の班超が西域諸国を制圧。
- 95年頃 - 使徒ヨハネがドミティアヌス帝の命によりパトモス島に流される。この時期に『ヨハネの黙示録』が成立。
- 96年 - ローマでドミティアヌス帝が暗殺され、ネルウァ帝が即位。五賢帝時代始まる( - 180年)。
- 97年 - 甘英が班超により大秦国(ローマ帝国)へ派遣される。
- 98年 - ネルウァ帝が死去し、養嗣子で属州ゲルマニア・スペリオル(上ゲルマニア)総督のトラヤヌスが皇帝として即位。
- 1世紀末 - 弥生文化が東北地方に波及する。
伝説・フィクションのできごと
- 26年 - ローマ人司令官メッサーラが属州ユダヤに派遣され旧友のベン・ハーと邂逅するがやがて二人は反目し合う。無実の罪を着せられたベン・ハーは家族から引き離されメッサーラへの復讐を誓う(ルー・ウォーレスの小説『ベン・ハー』。これをもとにした映画も有名)。
- 30年頃 - 刑吏に鞭打たれつつゴルゴダの丘に向かい十字架を担いでいたイエスが休息を求めていたにも関わらず、靴屋のアハシェロスはそれを手荒くあしらい罵ったため主の呪いを受け、死ぬこともできない身の上となって永遠にさまよい続けることになった(「さまよえるユダヤ人」伝説)。
- 54年 - 68年 - 享楽と頽廃のローマ帝国で皇帝ネロの悪政が続いていく中、キリスト教の信仰が徐々に広がりを見せていた。スラブ系のキリスト教徒の娘リギアと、ローマの軍人マルクス・ウィニキウスの二人の恋もこの時代の波に翻弄されていく(ヘンリク・シェンキェヴィチによる小説『クォ・ヴァディス』)。
発明
人物
地中海世界
→詳細は「Category:1世紀の古代ローマ人」を参照
- オクタヴィアヌス(前63年 - 14年) - ローマ帝国初代皇帝(在位前27年 - 14年)・プリンケプス(第一市民)・アウグストゥス(尊厳者)
- ストラボン(前63年頃 - 23年頃) - ローマ時代のギリシア語著述家・歴史家・哲学者・地理学者として『地理誌』を著す
- プブリウス・クインクティリウス・ウァルス(前46年 - 9年) - ローマ帝国の司令官・トイトブルク森の戦いでゲルマン人に敗北し自決
- オウィディウス(前43年 - 17年) - ローマ帝国のラテン文学黄金期の詩人・『変身物語』の著者・晩年は黒海周辺に追放される
- ティベリウス(前42年 - 37年) - ローマ皇帝(在位14年 - 37年)・オクタヴィアヌス皇后リウィアの連れ子・帝政を定着させる
- アレクサンドリアのフィロン(前30年/前20年? - 40年/45年?) - ユダヤ人哲学者・ギリシア哲学をユダヤ教解釈に援用
- アルミニウス(前16年 - 21年) - ゲルマン系ケルスキ族の族長・トイトブルク森の戦いでローマ帝国の軍隊に勝利
- クラウディウス(前10年 - 54年) - ローマ皇帝(在位41年 - 54年)・カリグラを継いでブリタンニアを制圧・歴史家でもある
- ボウディッカ(? - 60年/61年?) - ブリタンニアのケルト系イケニ族の女王・ローマ帝国の侵略対し大反乱を起こす
- セネカ(前1年頃 - 65年頃) - ローマ帝国のストア派の哲学者・ラテン文学白銀期の文学者・皇帝ネロの師として政務に携わる
- ウェスパシアヌス(9年 - 79年) - ローマ皇帝(在位69年 - 79年)・フラウィウス朝の祖・コロッセウムの建設に着手
- カリグラ(12年 - 41年) - ローマ皇帝(在位37年 - 41年)・狂気のためか暴君となり元老院との関係が悪化して暗殺される
- 小アグリッピナ(15年 - 59年) - ローマ帝国の皇族・クラウディウス帝の皇后(後妻)・皇帝ネロの実母だが対立して暗殺される
- テュアナのアポロニオス(15年? - 100年?) - ローマ帝国の新ピュタゴラス派の哲学者・ピロストラトス『アポロニオス伝』に詳しい
- ペトロニウス(20年頃 - 66年) - ローマ帝国の政治家・文筆家・皇帝ネロの側近・小説『サテュリコン』の作者と考えられている
- 大プリニウス(22年/23年 - 79年) - ローマ帝国の政治家・ポンペイ市の災禍に巻き込まれ死亡・博物学者として『博物誌』を書く
- クインティリアヌス(35年頃 - 100年頃) - ローマ帝国の修辞学者・『弁論家の教育』の著者・小プリニウスやユウェナリスの師
- ネルウァ(35年 - 98年) - ローマ皇帝(五賢帝の1人目)(在位96年 - 98年)・もとは元老院議員・養子トラヤヌスを後継者とする
- ネロ(37年 - 68年) - ローマ皇帝(在位54年 - 68年)・師セネカらの協力で善政を行うが後に暴君化・キリスト教徒を最初に迫害
- フラウィウス・ヨセフス(37年 - 100年頃) - ローマ帝国の政治家・著述家・ユダヤ戦争で戦うが投降・『ユダヤ戦記』を著す
- シモン・バル・ギオラ(? - 70年頃) - ユダヤ戦争でのユダヤ人側の指導者の一人で強硬派・イェルサレム陥落後に処刑される
- エルアザル・ベン・ヤイル(? - 73年) - イェルサレム陥落後のユダヤ人側の指導者の一人・マサダ要塞に立てこもるが玉砕
- ティトゥス(39年 - 81年) - ローマ皇帝(在位79年 - 81年)・ウェスパシアヌス帝の子・その治世でポンペイ市が被災
- ペダニウス・ディオスコリデス(40年頃 - 90年) - 属州アシアの医者・「薬理学と薬草学の父」・『薬物誌』は後世に大きな影響を残す
- ドミティアヌス(51年 - 96年) - ローマ皇帝(在位81年 - 96年)・ティトゥス帝の弟・元老院勢力と対立し暗殺される
- 小プリニウス(61年 - 112年) - ローマ帝国の文人・政治家・大プリニウスの甥・「書簡」で79年のヴェスヴィオ火山の記録を残す
- コルメラ(1世紀) - 属州ヒスパニア出身の文筆家・農耕・果樹・牧畜・養蜂・造園などについて論じた『農業論』で知られる
キリスト教関係
- ナザレのイエス(前4年頃 - 30年頃) - ローマ帝国属州ユダヤの宗教家。キリスト教では神(神の子)・救世主・預言者とされる。
- ポンティウス・ピラトゥス(生没年不詳) - ローマ帝国属州ユダヤ総督(在任26年 - 36年)・イエスの処刑に関与した
- ヤコブ(? - 62年) - 「主の兄弟」とされる人物。エルサレム教会の初代主教。殉教し七十門徒の一人とされる。
- ペテロ(? - 67年頃) - 十二使徒の一人。初代のローマ教皇とされる。皇帝ネロの迫害により殉教したか。
- パウロ(? - 67年頃) - イエス没後の使徒。ローマ市民権を持ち、各地で異教徒に宣教する。皇帝ネロの迫害により殉教したか。
- ヨハネ(6年? - 100年頃) - 十二使徒の一人。『ヨハネによる福音書』あるいは『ヨハネの黙示録』の著者か。
- アンティオキアのイグナティオス(35年頃 - 110年) - アンティオキアの主教。ヨハネの弟子で使徒教父の一人。
- クレメンス1世(? - 101年?) - ローマ教皇(司教、在位91年? - 101年?)。ペテロの弟子で使徒教父の一人。
- シモン・マグス(生没年不詳) - 聖書の登場人物・「魔術師シモン」と呼ばれグノーシス主義の先駆とされる。
西アジア
インド
- ゴンドファルネス(生没年不詳) - インド・パルティア王国の初代国王(在位20年頃?)・サカ人などを平定・使徒トマスと関係があったか。
- クジュラ・カドフィセス(生没年不詳) - クシャーナ朝の初代国王(在位前25年頃 - 60年頃)・大月氏の支配から独立する。
- ヴィマ・タクト(生没年不詳) - クシャーナ朝の第2代国王(在位80年頃 - 90年頃)・西域の支配をめぐり後漢の班超と争う。
東アジア
- 揚雄(前53年 - 18年) - 前漢末から新の文人。『太玄経』『法言』『方言』の著作を残し「甘泉賦」などの詩文でも有名。
- 呂母(? - 22年頃) - 前漢末から新の女性。冤罪で県役人に殺された息子の仇討ちで呂母の乱を起こし、動乱時代の幕開けとなる。
- 劉歆(? - 23年) - 前漢末から新の儒学者。『七略』などを編纂。王莽の王朝簒奪に協力し、国師となるが、やがて反目する。
- 王莽(前45年 - 23年) - 新の皇帝(在位8年 - 23年)。前漢を簒奪して新王朝を立てるが、更始帝の軍に殺害される。
- 王匡(? - 25年) - 新末後漢初に蜂起した緑林軍の創始者の一人。更始帝を担いで王莽の新王朝を攻め滅ぼす。
- 更始帝(? - 25年) - 新末後漢初の漢王室の皇族。緑林軍の支持で皇帝となる(在位23年 - 25年)。
- 樊崇(? - 27年) - 新末後漢初に蜂起した赤眉軍の指導者。長安の更始帝政権を攻め滅ぼす(赤眉の乱)。
- 劉盆子(10年 - ?) - 新末後漢初の漢王室の皇族。赤眉軍の支持で皇帝となる(在位25年 - 27年)。光武帝に降伏。
- 隗囂(? - 33年) - 新末後漢初の武将・政治家。王莽から光武帝まで独自の勢力を保持、後漢に背き困窮の中で死す。
- 馬援(前14年 - 49年) - 新末後漢初の武将。隗囂に仕えた後に光武帝に臣従し、統一に協力・ベトナム制圧でも功があった。
- 徴姉妹(徴側(? - 33年)、徴弐(? - 33年)) - 後漢の支配下にあったベトナム(南越)の反乱指導者。馬援に制圧される。
- 光武帝(前6年 - 57年) - 後漢の初代皇帝(在位25年 - 57年)。王莽没後の混乱から漢王朝を復興。長安から洛陽に遷都。
- 鄧禹(2年 - 58年) - 後漢の武将。赤眉軍と戦った建国の功臣であり「雲台二十八将」の筆頭に位置づけられる。
- 費長房(生没年不明) - 後漢の方士・汝南の官吏であったが仙術を体得したと伝わる・「壺中天」の故事で有名。
- 王充(27年 - ?) - 後漢の文人・思想家。儒教に対する厳しい批判者。非合理を排し合理的な思考を追求した『論衡』を著す。
- 明帝(28年 - 75年) - 後漢の皇帝(在位57年 - 75年)。王朝の安定を背景に西域に勢力を拡大。この時期に仏教が伝来。
- 蔡愔(生没年不詳) - 後漢の使者・明帝により西域に派遣され大月氏国の僧侶迦葉摩騰と竺法蘭を連れ帰る
- 迦葉摩騰(生没年不明) - インド(中天竺)出身の仏教の僧侶。竺法蘭とともに渡来し、明帝時代に洛陽白馬寺を建立したか。
- 竇憲(? - 92年) - 後漢の政治家・軍人・外戚。匈奴の征伐以後は権力をほしいままにするが、和帝により自殺を命じられる。
- 班固(32年 - 92年) - 後漢の歴史家で『漢書』を編纂。文学者としては「両都賦」を作る。竇憲派とみなされ獄死。
- 鄭衆(? - 114年) - 後漢の宦官(大長秋)・和帝と協力して外戚の竇憲を誅殺し宦官として最初の侯となる。
- 班超(32年 - 102年) - 後漢の軍人。班固の弟で班昭の兄。西域都護として西域での後漢の勢力を広げた。
- 甘英(生没年不詳) - 後漢の使者。班超の命で大秦国(ローマ)に派遣されたが、途中の條支国(シリア)で断念する。
- 班昭(45年? - 117年?) - 後漢の女性作家。兄の班固が獄死した後に未完成だった『漢書』を完成させる。
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、1世紀に関するカテゴリがあります。