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鳳鳴4年([[620年]])、唐の趙郡王[[李孝恭]]の攻撃を受けて[[通州]]・[[開州 (重慶市)|開州]]を奪われ、東平王[[蕭闍提]]を失った。梁の諸将は兵権を専断し、蕭銑は抑制することができなかった。董景珍の弟が将軍となり乱を謀ったが、事前に漏れて処刑された。蕭銑は董景珍を許して長沙から江陵に召還しようとしたが、疑心に駆られた董景珍は李孝恭に降った。蕭銑は張繍を遣わして董景珍を攻めさせ、董景珍は潰走して部下に殺された。蕭銑は張繍を尚書令としたが、張繍は功をたのんで驕慢となったため、蕭銑は張繍を処刑した。蕭銑の外面は寛容だったが、内心は猜疑心深く成功者を妬んだため、大臣や将軍たちの多くは叛いて去り、梁は弱体化した。
鳳鳴4年([[620年]])、唐の趙郡王[[李孝恭]]の攻撃を受けて[[通州]]・[[開州 (重慶市)|開州]]を奪われ、東平王[[蕭闍提]]を失った。梁の諸将は兵権を専断し、蕭銑は抑制することができなかった。董景珍の弟が将軍となり乱を謀ったが、事前に漏れて処刑された。蕭銑は董景珍を許して長沙から江陵に召還しようとしたが、疑心に駆られた董景珍は李孝恭に降った。蕭銑は張繍を遣わして董景珍を攻めさせ、董景珍は潰走して部下に殺された。蕭銑は張繍を尚書令としたが、張繍は功をたのんで驕慢となったため、蕭銑は張繍を処刑した。蕭銑の外面は寛容だったが、内心は猜疑心深く成功者を妬んだため、大臣や将軍たちの多くは叛いて去り、梁は弱体化した。
鳳鳴5年([[621年]])、唐の李孝恭と[[李靖]]が[[蜀郡|巴蜀]]の兵を率いて[[長江]]を下り、廬江王[[李エン (廬江王)|李瑗]]が[[襄州]]を、[[黔州]]刺史の[[田世康]]が[[辰州]]を出て、梁を攻めた。また[[周法明]]が唐に降って黄州総管となり、夏口道を抜け、安州を落とした。雷長潁が魯山で降伏した。蕭銑は文士弘を遣わして李孝恭を阻ませたが、[[清江]]口に敗れ、多数の戦艦を鹵獲された。宜昌・当陽・枝江・松滋を奪われ、江州で[[蓋彦挙]]が唐に降った。李孝恭と李靖が江陵を囲み、蕭銑は各地に救援を求めたが援軍は到着せず、[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]に唐の軍門に下り、ここに梁は滅亡した。
鳳鳴5年([[621年]])、唐の李孝恭と[[李靖]]が[[蜀郡|巴蜀]]の兵を率いて[[長江]]を下り、廬江王[[李瑗]]が[[襄州]]を、[[黔州]]刺史の[[田世康]]が[[辰州]]を出て、梁を攻めた。また[[周法明]]が唐に降って黄州総管となり、夏口道を抜け、安州を落とした。雷長潁が魯山で降伏した。蕭銑は文士弘を遣わして李孝恭を阻ませたが、[[清江]]口に敗れ、多数の戦艦を鹵獲された。宜昌・当陽・枝江・松滋を奪われ、江州で[[蓋彦挙]]が唐に降った。李孝恭と李靖が江陵を囲み、蕭銑は各地に救援を求めたが援軍は到着せず、[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]に唐の軍門に下り、ここに梁は滅亡した。


降伏した蕭銑は「死すべき者は銑のみで、百姓に罪はない。殺掠しないでいただきたい」と李孝恭に言った。[[長安]]に護送された蕭銑は高祖[[李淵]]に責められたが、蕭銑は「隋がその鹿を失い、英雄が競いあった。銑には天命がなかったために、陛下の虜となった。[[田横]]が南面して、[[前漢|漢]]に仕えるようなことがあろうか」と答えた。屈服しないのを怒った高祖の命により、蕭銑は長安の市で斬られた。
降伏した蕭銑は「死すべき者は銑のみで、百姓に罪はない。殺掠しないでいただきたい」と李孝恭に言った。[[長安]]に護送された蕭銑は高祖[[李淵]]に責められたが、蕭銑は「隋がその鹿を失い、英雄が競いあった。銑には天命がなかったために、陛下の虜となった。[[田横]]が南面して、[[前漢|漢]]に仕えるようなことがあろうか」と答えた。屈服しないのを怒った高祖の命により、蕭銑は長安の市で斬られた。

2020年8月12日 (水) 04:39時点における版

蕭銑
皇帝
王朝
在位期間 618年 - 621年11月10日
都城 江陵
姓・諱 蕭銑
生年 天保22年(583年
没年 武徳4年(621年
蕭璿
年号 鳳鳴 : 617年 - 621年

蕭 銑(しょう せん)は、初に割拠した群雄の一人。後梁(西梁)宣帝の曾孫にあたり、自立しての皇帝を称したが、唐によって滅ぼされた。

生涯

蕭璿中国語版の子として南蘭陵郡武進県に生まれる。祖父の安平王蕭巌中国語版は後梁の明帝の弟であったが、後梁が廃されると開皇初年に隋に叛いて南朝陳に降り、陳が滅びると隋の文帝に処刑された。若い頃の蕭銑は貧困の中で事務雇いをして母に孝事した。煬帝は明帝の娘の蕭氏を皇后としていたことから、外戚として羅県県令に抜擢された。

大業13年(617年)、岳州校尉の董景珍中国語版雷世猛、旅帥の鄭文秀許玄徹万瓚徐徳基郭華沔陽の人の張繍らが隋に叛くことを計画して、董景珍を主として推挙した。董景珍は、蕭銑が寛仁大度で武帝の威風があり、蕭氏の中興が反隋の旗印としてふさわしいとして、蕭銑を擁立した。10月19日に蕭銑は梁公を称し、沈柳生を斬ると12月20日に王を称して、鳳鳴元号を立てた。

鳳鳴2年(618年)には皇帝を称し、江陵に都を置き、百官を置いて梁の旧制にならった。董景珍を晋王に、雷世猛を秦王に、鄭文秀を楚王に、許玄徹を燕王に、万瓚を魯王に、張繍を斉王に、楊道生を宋王に封じた。隋の張鎮州王仁寿の攻撃を撃退した。隋が滅ぶと嶺南甯長真らを降し、林士弘を豫章に破って、西は三峡、南は交趾、北は漢水に至る広大な地域を帰服させ、兵40万を号した。江陵には園廟を復した。岑文本を召して中書侍郎とし、機密を司らせた。楊道生に硤州を攻めさせたが、唐の硤州刺史の許紹中国語版に敗れた。

鳳鳴4年(620年)、唐の趙郡王李孝恭の攻撃を受けて通州開州を奪われ、東平王蕭闍提を失った。梁の諸将は兵権を専断し、蕭銑は抑制することができなかった。董景珍の弟が将軍となり乱を謀ったが、事前に漏れて処刑された。蕭銑は董景珍を許して長沙から江陵に召還しようとしたが、疑心に駆られた董景珍は李孝恭に降った。蕭銑は張繍を遣わして董景珍を攻めさせ、董景珍は潰走して部下に殺された。蕭銑は張繍を尚書令としたが、張繍は功をたのんで驕慢となったため、蕭銑は張繍を処刑した。蕭銑の外面は寛容だったが、内心は猜疑心深く成功者を妬んだため、大臣や将軍たちの多くは叛いて去り、梁は弱体化した。

鳳鳴5年(621年)、唐の李孝恭と李靖巴蜀の兵を率いて長江を下り、廬江王李瑗襄州を、黔州刺史の田世康辰州を出て、梁を攻めた。また周法明が唐に降って黄州総管となり、夏口道を抜け、安州を落とした。雷長潁が魯山で降伏した。蕭銑は文士弘を遣わして李孝恭を阻ませたが、清江口に敗れ、多数の戦艦を鹵獲された。宜昌・当陽・枝江・松滋を奪われ、江州で蓋彦挙が唐に降った。李孝恭と李靖が江陵を囲み、蕭銑は各地に救援を求めたが援軍は到着せず、10月21日に唐の軍門に下り、ここに梁は滅亡した。

降伏した蕭銑は「死すべき者は銑のみで、百姓に罪はない。殺掠しないでいただきたい」と李孝恭に言った。長安に護送された蕭銑は高祖李淵に責められたが、蕭銑は「隋がその鹿を失い、英雄が競いあった。銑には天命がなかったために、陛下の虜となった。田横が南面して、に仕えるようなことがあろうか」と答えた。屈服しないのを怒った高祖の命により、蕭銑は長安の市で斬られた。

伝記資料

  • 旧唐書』巻五十六 列伝第六 蕭銑
  • 新唐書』巻八十七 列伝第十二 蕭銑
先代
靖帝
皇帝
618年 - 621年
次代
滅亡