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「ヨハン・シュレック」の版間の差分

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『遠西奇器図説録最』(単に『奇器図説』ともいう。1627年刊、3巻)は西洋の科学技術を図解紹介した書物で、西洋の書物の記述をシュレックが口頭で説明し、それを王徴が文章にした<ref>{{citation|url=http://riccilibrary.usfca.edu/view.aspx?catalogID=11070|title=Qiqi tushuo 奇器圖說. Yuanxi qiqi tushuo luzui 遠西奇器圖說錄最.|publisher=The Ricci Institute Library Online Catalog}}</ref>。図も本来は西洋の書物にあったものを中国風に描きなおしたものである。
『遠西奇器図説録最』(単に『奇器図説』ともいう。1627年刊、3巻)は西洋の科学技術を図解紹介した書物で、西洋の書物の記述をシュレックが口頭で説明し、それを王徴が文章にした<ref>{{citation|url=http://riccilibrary.usfca.edu/view.aspx?catalogID=11070|title=Qiqi tushuo 奇器圖說. Yuanxi qiqi tushuo luzui 遠西奇器圖說錄最.|publisher=The Ricci Institute Library Online Catalog}}</ref>。図も本来は西洋の書物にあったものを中国風に描きなおしたものである。


この書物は中国以外の国にも影響を及ぼした。朝鮮では1794年の[[水原華城]]建築時に、[[実学 (朝鮮)|実学者]]の[[丁若ギョン|丁若鏞]]が『[[古今図書集成]]』に収録されていた『奇器図説』の記載を元にして「挙重機」などの機械を設計したことがよく知られている<ref>{{cite journal|和書|url=http://faculty.ndhu.edu.tw/~dhjcs/text/texvol11/vol11.6.pdf|title=《古今圖書集成》在朝鮮的傳播與影響|author=金鎬|journal=東華漢學|issue=11|pages=241-272|year=2010}}</ref>。
この書物は中国以外の国にも影響を及ぼした。朝鮮では1794年の[[水原華城]]建築時に、[[実学 (朝鮮)|実学者]]の[[丁若鏞]]が『[[古今図書集成]]』に収録されていた『奇器図説』の記載を元にして「挙重機」などの機械を設計したことがよく知られている<ref>{{cite journal|和書|url=http://faculty.ndhu.edu.tw/~dhjcs/text/texvol11/vol11.6.pdf|title=《古今圖書集成》在朝鮮的傳播與影響|author=金鎬|journal=東華漢學|issue=11|pages=241-272|year=2010}}</ref>。


江戸時代の日本では禁書であったが、その一方で[[徳川吉宗]]のときに『名家叢書』が作られ、[[深見有隣]]・桂山義樹が和訳した『奇器図説』を収録している<ref>{{citation|和書|url=http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/shogunnoarchives/contents/32.html|title=将軍のアーカイブズ:名家叢書|publisher=[[国立公文書館]]}}</ref>。
江戸時代の日本では禁書であったが、その一方で[[徳川吉宗]]のときに『名家叢書』が作られ、[[深見有隣]]・桂山義樹が和訳した『奇器図説』を収録している<ref>{{citation|和書|url=http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/shogunnoarchives/contents/32.html|title=将軍のアーカイブズ:名家叢書|publisher=[[国立公文書館]]}}</ref>。

2020年8月13日 (木) 02:37時点における版

ヨハン・シュレック(Johann Schreck、1576年 - 1630年5月11日)は、ドイツ[1]の学者、イエズス会修道士。末の中国に赴任した。西洋の科学技術を中国に伝えた『遠西奇器図説録最』によって知られる。

ラテン語化したヨアンネス・テレンティウス(Ioannes Terrentius)、またはヨハン・テレンツ(Johann Terrenz)の名でも知られる。中国名は鄧玉函(Dèng Yùhán)。

略歴

(外部リンクの Collani による)

シュレックは神聖ローマ帝国コンスタンツ司教領(現在のバーデン=ヴュルテンベルク州ジグマリンゲン郡)ビンゲンに生まれた。フライブルク大学で学び、1596年におそらく医学の修士を取得した。

1600年からパリフランソワ・ビエトに協力した。1603年にビエトが没すると、パドヴァ大学ガリレオ・ガリレイの門人になった。1610年から翌年にかけてローマに出て、フェデリコ・チェジらの著名な学者と知りあった。1611年にはチェジが創立者であるアッカデーミア・デイ・リンチェイ(山猫アカデミア)にガリレオとともに入会を許された。シュレックはスペインの科学者フランシスコ・エルナンデスが残したヌエバ・エスパーニャの動植物百科事典の草稿を編集する仕事を行ったが、この書物はシュレックの没後まで出版されなかった。

シュレックは1611年11月にイエズス会に入会して神学を学んだ。ニコラ・トリゴーがローマを訪れて中国宣教師を募るとシュレックは志願し、1618年にリスボンを出発した。1619年にマカオに到着したが、当時キリスト教は中国国内から排除されており、しばらくマカオから出られなかった。1621年に杭州、1623年に北京に入り、暦法見直しの中心人物になった。

1629年に徐光啓が西洋の技術で改暦を行うことを進言し、それが正式に認められると、シュレックはガリレオに手紙を書いて助言を求めた。ガリレオから返事が来なかったため、今度はヨハネス・ケプラーに助言を求めた。ケプラーは細かい助言とともに彼のルドルフ表を送った。しかしシュレックは翌1630年に没し、実際の改暦にはあまり関与しなかった。改暦の仕事はアダム・シャールを中心として遂行された。

奇器図説

アゴスティノ・ラミエッリの1588年の書物と『奇器図説』

『遠西奇器図説録最』(単に『奇器図説』ともいう。1627年刊、3巻)は西洋の科学技術を図解紹介した書物で、西洋の書物の記述をシュレックが口頭で説明し、それを王徴が文章にした[2]。図も本来は西洋の書物にあったものを中国風に描きなおしたものである。

この書物は中国以外の国にも影響を及ぼした。朝鮮では1794年の水原華城建築時に、実学者丁若鏞が『古今図書集成』に収録されていた『奇器図説』の記載を元にして「挙重機」などの機械を設計したことがよく知られている[3]

江戸時代の日本では禁書であったが、その一方で徳川吉宗のときに『名家叢書』が作られ、深見有隣・桂山義樹が和訳した『奇器図説』を収録している[4]

脚注

  1. ^ 外部リンクの The Archimedes Project のようにスイス人とする文献もあるが、今 Collani による
  2. ^ Qiqi tushuo 奇器圖說. Yuanxi qiqi tushuo luzui 遠西奇器圖說錄最., The Ricci Institute Library Online Catalog, http://riccilibrary.usfca.edu/view.aspx?catalogID=11070 
  3. ^ 金鎬「《古今圖書集成》在朝鮮的傳播與影響」『東華漢學』第11号、2010年、241-272頁。 
  4. ^ 将軍のアーカイブズ:名家叢書国立公文書館http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/shogunnoarchives/contents/32.html 

外部リンク

関連項目