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「劉臻」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
梁の尋陽郡太守の劉顕の子として生まれた。18歳のときに秀才に挙げられ、邵陵王東閤祭酒となった。[[元帝 (南朝梁)|元帝]]のとき、中書舎人に転じた。[[荊州区|江陵]]が陥落すると、劉臻は[[蕭サツ|蕭詧]]に帰順して、中書侍郎となった。[[北周]]の[[宇文護]]に召されて中外府記室となり、その軍の書簡や檄文の多くは劉臻の筆により成った。後に露門学士となり、大都督に任じられ、饒陽県子に封じられた。藍田県令・畿伯下大夫をつとめた。
梁の尋陽郡太守の劉顕の子として生まれた。18歳のときに秀才に挙げられ、邵陵王東閤祭酒となった。[[元帝 (南朝梁)|元帝]]のとき、中書舎人に転じた。[[荊州区|江陵]]が陥落すると、劉臻は[[蕭詧]]に帰順して、中書侍郎となった。[[北周]]の[[宇文護]]に召されて中外府記室となり、その軍の書簡や檄文の多くは劉臻の筆により成った。後に露門学士となり、大都督に任じられ、饒陽県子に封じられた。藍田県令・畿伯下大夫をつとめた。


隋が建国されると、位は[[儀同三司]]に進んだ。[[高熲]]が[[陳 (南朝)|南朝陳]]を討つにあたって、劉臻は従軍して文筆をつかさどり、爵位は伯に進んだ。[[皇太子]][[楊勇]]に召されて、太子学士となり、太子との関係はたいへん親密であった。同じく儀同で太子学士の劉訥という人物がおり、劉臻が城南に住み、劉訥が城東に住んでいたが、混同されることが多く、笑い話の種にもなった。[[598年]](開皇18年)、死去した。享年は72。文集10巻が通行した。
隋が建国されると、位は[[儀同三司]]に進んだ。[[高熲]]が[[陳 (南朝)|南朝陳]]を討つにあたって、劉臻は従軍して文筆をつかさどり、爵位は伯に進んだ。[[皇太子]][[楊勇]]に召されて、太子学士となり、太子との関係はたいへん親密であった。同じく儀同で太子学士の劉訥という人物がおり、劉臻が城南に住み、劉訥が城東に住んでいたが、混同されることが多く、笑い話の種にもなった。[[598年]](開皇18年)、死去した。享年は72。文集10巻が通行した。

2020年8月13日 (木) 02:59時点における版

劉 臻(りゅう しん、527年 - 598年)は、南朝梁からにかけての学者。両漢書に精通して、漢聖と称された。は宣摯。本貫沛国相県

経歴

梁の尋陽郡太守の劉顕の子として生まれた。18歳のときに秀才に挙げられ、邵陵王東閤祭酒となった。元帝のとき、中書舎人に転じた。江陵が陥落すると、劉臻は蕭詧に帰順して、中書侍郎となった。北周宇文護に召されて中外府記室となり、その軍の書簡や檄文の多くは劉臻の筆により成った。後に露門学士となり、大都督に任じられ、饒陽県子に封じられた。藍田県令・畿伯下大夫をつとめた。

隋が建国されると、位は儀同三司に進んだ。高熲南朝陳を討つにあたって、劉臻は従軍して文筆をつかさどり、爵位は伯に進んだ。皇太子楊勇に召されて、太子学士となり、太子との関係はたいへん親密であった。同じく儀同で太子学士の劉訥という人物がおり、劉臻が城南に住み、劉訥が城東に住んでいたが、混同されることが多く、笑い話の種にもなった。598年(開皇18年)、死去した。享年は72。文集10巻が通行した。

伝記資料